小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

歳の瀬に思う:

2015年12月31日 | 社会戯評

歳の瀬に思う:

友人達の言ではないが、毎日サンデーだから、『今日、用事を作り、今日、行くところがある』という、何とも、教養と教育を有した老人たらんと欲すれば、歳の瀬は、所詮、365日の僅か、1日にしかすぎないのではないか?それでも、毎年、年賀状には、健康に充分留意されて、良いお年をお迎え下さい、等としたためてしまう。一体、『時の区切り』というモノは、何を以て、決定するのであろうか?いつも、1月1日から、始まり、12月31日で、終了して、カレンダーを新しく取り替えてて、それで、『人生も新しくなる』のであろうか?それとも、決算期に合わせて、3月31日を以て、締めが終了して、4月1日から、リセットすることを、40余年も繰り返して行くのであろうか?毎年、誰かが逝き、世界の何処かで、戦争が起こり、テロがあって、多くの人が犠牲になり、そして、不幸な災害が、大きな事故が起き、誰かが、結婚をし、誰かが、離婚をして、そんな事柄の永遠の繰り返しが、来年も、間違いなく、理不尽なことが、たくさん、起こるのであろうか?今年一年、お疲れ様でしたと挨拶をした、その数時間後にも、またそろ、今年一年も、又、増収・増益、頑張りましょうと、エイ、エイ、オーと非正規社員達も、一緒に、拳を振り上げるのであろうか?そして、又、ひと月も経てば、やはり、12分の1の時間が、あっという間に、経過して、日常の中に、毎日サンデーの中に、埋没してしまうのであろうか?一体、来年は、どんな良い歳になるのかなどと、1937年頃や、1940年頃に、人々は、本当に、その翌年、自分の身に、降りかかるであろう火の粉を、薄々、実感、思わなかったのであろうか?それでも、明るく、だからこそ、逆に、敢えて、健康で、お幸せに、ご無事で、良いお年を迎え下さいとでも、年賀状に書いたのであろうか?今や、PCの中に、年賀状も保存出来るから、子供達が、自分の歳になった頃にでも、ブログや年賀状を読んでもらったら、どんな感慨を抱くであろうか?残念乍ら、私の両親達が、昔、書き送った年賀状は、もう、何処かへ、処分されてしまったが、一度は、読んでみたかったものである。お正月は、ゆっくり休んで、呑んではいけないリストの筆頭の美味しい日本酒を、少々、戴くとしようか!

 


健康年齢を考える:

2015年12月30日 | 健康 医療

健康年齢を考える:

たまたま、何処かの神社の厄除けの広告が入っていたので、ふと、眼にとまり、眺めていたら、何でも、前厄・本厄.後厄とか、今から、考えてみると、現役で、多忙を極めていたときには、そんなことも、お構いなしに、40肩でも、50肩でも、へっちゃらで、ガンガン、やっていたことを想い起こす。今にして、考えれば、良い意味で、そういう身体に変調をきたすような時期を、ふと、立ち止まって、考え直すことも、大切なことだったなのかも知れないなどとも、今更ながら、感じないモノではない。もう、40余年にも亘って、暮らしていると、同年代の友人・知人を眺めても、自分同様に、金属疲労が、祟ったのであろうか、何処かしこかが、変調をきたし、悲鳴をあげ始めている。実際、若くして、大腸癌や食道癌などで、先に逝ってしまったものも、数多くいる。誰かが、冗談に、たっぷり、高い生涯報酬などと言うものも、生きていればの話だが、、、、ネと言っていたことを想い起こす。不思議なことに、今年は、自分自身だけではなくて、全く、打ち合わせもしないにも拘わらず、同級生達が、似たような症状の病いを得てしまった。お陰様で、皆、大事に至らずに、済んだようであるが、全く、同時期とは、不思議なことである。来年は、どんな年になるのであろうかと、希望に膨らんだ子供の頃とは異なり、だんだん、『健康年齢』なる言葉が、気になり始めてきた昨今である。

 

 


あがた森魚、『清怨夜曲』を聴く:

2015年12月28日 | 社会戯評

あがた森魚、『清怨夜曲』を聴く:

1948年、小樽の生まれらしい。同い年である。しかも、この曲が、納められている『乙女の儚夢(ろまん)』というアルバムに納められている『清怨夜曲』や、『赤色エレジー』は、丁度、私が、社会へ出た1972年LP盤でリリースのようである。謂わば、同じ頃に、生まれ、育ち、同じように、社会へ出て、そして、その音楽を、改めて、青春時代から、40余年も経た今日、耳を傾けたものである。それにしても、歌手とは、自分の追い求める理想とする音楽を、或いは、その表現したいと思うサウンドを、その楽曲とその歌詞とに載せて、長い間、歌い続けられるものであることに、改めて、驚いてしまう。まるで、大正ロマン期から、昭和初期の恐慌と、そして、それから、始まるであろう長い戦争への暗い途への序章を、ある種、独特の聞いたことのない、或いは、母の胎内で聞いたのではなかろうかと思われるメロディーと歌詞に、載せて、歌いあげたものである。何とも、今日のテロの恐怖と、貧富の格差とに蔽われたただ、漠然とした不安と未来への不透明さの中で、改めて、この楽曲を聴いてみると、実に、色々なものが透けて見えてきそうである。もの悲しいバイオリンの響き、太鼓の音、そして、タンゴのメロディーと一緒に、聞こえてくるアコーディオンの音色は、叙情詩のようにも、聞こえてくるようである。『幸子の幸は、何処にある』、『愛は、愛とて何になる』、そして、『清怨夜曲』の中の一節にある、『何もかも、こわれてしまえ』、『もう明日なんて怖くない』、『だから踊ろう、僕と一緒に』、『君は仕合わせに眠くなれ』、そして、又、再び、『だから踊ろう、僕と一緒に』、『君は仕合わせに眠くなれ』と、浅草六区で、幼い子供の頃聞き覚えのある、大道芸人の呼び声も、見覚えのある奇妙な見世物小屋の風景も、朽ち果てた古びた修道院のキリスト像も、水玉模様の雨傘も、女の友情も、神谷バーの電気ブランも、冬のサナトリウムも、ハートのクィーンも、裸電球も、舞踏会も、郭街も、皆、その為の舞台道具なのか、まるで、『踊りし日々は、走馬燈』のように移りゆき、体験したことはないが、何処かで、その感覚だけを覚えているようなメロディーだけが、心の底に、響いて聞こえてくる。よくも、40余年経っても、聴くに耐えるだけの何かが、そこにはあろうか?なかなか、ジャケットも、面白いのは、どうしたものであろうか?

 


降板と空気を読む:

2015年12月27日 | 社会戯評

降板と空気を読む:

何でも、3月末には、二つの夜の情報番組から、二人のキャスターが、降板すると云われている。しかしながら、その事情は、未だ、よく分からないらしい。飽くまでも憶測が様々な形で、飛び交っているようである。何処までが、本当で、何処から先が、提灯持ちの宣伝なのか、憶測が、又、憶測が読んでしまうのが、マスメディアの不可思議さであろうか、それにしても、言論への権力側からの政治的な圧力は、自由に、言うべきことを、言えずに、自主規制してしまうような現状よりも、それこそ、右でも、左でも、もっとも、今日、こういう言い方も時代遅れになってしまっているのかも知れないが、テレビ局も、地上波とBSとの使い分けでは無くて、主義主張をそれぞれ、自由に、表現出来て、それを勝手に、視聴者のほうが、自由に選択するような形にならないと、いつまでたっても、敏感に、『空気を読む』という手法が、蔓延って仕方ないかも知れない。中国ではないが、明確なまでのダブル・スタンダードで、フランス人ジャーナリストによるウィグル族記事を巡って、表現の自由を圧迫するというビザの問題ではないが、自国の『限られた表現の自由』と、我が国のような、一見、自由で有りながらも、『空気を読む自由、読まない自由』との間には、何が、違うのであろうか?今後、どのような日本での『表現の自由』を、続けてゆくのであろうか、おおいに楽しみである。又、それと同時に、新疆や、香港、台湾での『表現の自由』とは、いかばかりの違いが、あるのであろうか?そして、それは、又、同時に、一人一人のこちら側の強い意思の確認を、前提に、改めて、問われているのかも知れない。

 


労働災害というもの:

2015年12月26日 | 社会戯評

労働災害というもの:

子供の頃には、随分と炭鉱の落盤事故やガス爆発が北海道の夕張や九州の三井・三池などで、頻繁に起こったものである。あの頃、遺児となってしまった子供達は、一体どんなその後の人生を歩んだのであろうか?中国でも、天津の爆発事故も、その後、全く、原因究明も、報道管制の下、何も聞こえてこないし、又、先頃の深圳での土砂崩れにしても、全く、法を無視した『不作為』以外の何ものでもないのに、賄賂と毒饅頭が、効いているのか、一部の業者と地方政府の下っ端役人だけが、人身御供の如く、逮捕されるくらいで、済まされてしまうのであろうか?それにしても、労働者の被る労働災害というモノは、全く、相も変わらず、悲劇的な結末でしかないのは、どうしたものであろうか?未だに、屋根の材料には、スレートという形で、アスベスト材が、使用されたままであるし、日常では、印刷物に、使用されている印刷用のインクで、肝臓癌や膵臓癌や膀胱癌などの異常に高い集団的な職場罹患確率が、叫ばれているにも拘わらず、一向に、改善されてはいない現状があるのも事実である。毎日、読んでいる新聞も、何気なしに眺めている色鮮やかな広告・印刷物も、換気の悪い部屋で、印刷されて、果ては、長年に亘る労働環境から、先輩が、何人も、癌で死に始めて、初めて、自分の体調も、何か、おかしいなと気づいたときには、既に、もう手遅れの状態なのであろうか?労働災害の裁判では、金銭面で、保証金や和解金が支払われたり、或いは、労働環境が改善されても、これらの知らず知らずに、病に犯されて死んでしまった労働者は、一体、どんな想いを持っているのであろうか?そして、3kではないが、国内から、海外へ、安い労働賃金を求めて、資本の論理で、コストの安い所へ、所へと、渡り鳥の如く、或いは、地下足袋の生産の如く、際限なく、彷徨い歩いてゆくのであろうか?公害を克服するのにも、その現象の警告と告発からしても、『不作為』の中で、優に、10年や20年は、歳月を必要としていた訳であるから、人生、40年以上も働いていたら、既に、半分くらいは、知らぬうちに、病気に苛まれて暮らしていたことにもなろうか?何とも、心痛ましい限りである。印刷物を読むときには、印刷されている現場を想像しながら、想いを巡らせなければならない。

 

 


『Implication』なる言葉の概念に考える:

2015年12月25日 | 社会戯評

『Implication』なる言葉の概念に考える:

幕末でも、明治期でも、いつの時代でも、新しい概念という言葉は、それ自体が、日本に、固有に存在しない場合には、日本語へ翻訳をし、且つ、その概念を、日本人自身が、しっかりと、理解することは、とても、難しいのであろうか?それは、まるで、Democracyを民主主義と訳されたり、Baseballが、野球と飜訳されたりした以上に、その違いは、大きいモノなのであろうか?考えてみれば、つい先頃にも、何処かの首相が、嫌韓気分が、そこら中に、蔓延している中で、ここぞとばかりに、慰安婦問題を『あの戦争に関わりの無い、これからの若い人達に、謝罪を続けるという宿命を背負わせてはならない、もっと、未来志向に、、、、、』と、言わしめさせたことを記憶しているが、何でも、この『Implication』なる概念とは、まさに、『直接関与していないにも拘わらず、自分には関係無いというとは云えない、そんな過去との関係性を示した概念』だそうである。これでは、日本語では、一言では、表すること、あたわざるを得ないかも知れない。『連累・含蓄・係累・巻き込みます』とかいう意味合いであるらしい。確かに、『事後の共犯的な関係である』と、例えば、先住民を、フロンティア・スピリッツで、開拓と称して、暴力的に駆逐して、土地を収奪して、その歴史を隠蔽したり、風化させて、その恩恵を『現在』として、甘受しているという現実、考えてみれば、子供の時に映画でよく見た西部劇映画のインディアンも、アボリジニも、或いは、アウシュビッツも、アイヌですら、我々は、必ずしも、無縁とは、云えなくはない。その意味合いからすれば、この使用される言葉とその意味する概念と、そして、何よりも、その概念をしっかりと、自分のモノとして、認識・理解するという工程は、全く、不可分なのであるにも拘わらず、我々は、未だ、理解も認識すら、十分ではないのかも知れない。それは、丁度、戦前の科学に対する誤った認識が、まるで、そっくりそのまま、旧体制が、持続・温存されて、平和・民主主義・科学という3種の神器を信じて、戦後の高度成長期に、モノづくりで、米国に、仇討ちするかの如きものであろう。無意識のうちに、この『戦後生まれの戦争責任』という重い課題も、今や、70年を迎えようとしている現実が、そこにはあるし、この言葉の概念に接してみて、初めて、思いを巡らせることにもなろう。そんな折り、今、まさに、年末のギリギリに、何処かの外務大臣が、最終決着と称して、訪韓を予定している。

 


BS『スポーツ・データ革命』:

2015年12月24日 | スポーツ

BS『スポーツ・データ革命』:

野球のスピード・ガンに、昔は驚いていたり、テニスのウィンブルドンでのデータ分析に、成る程、凄いなぁとか、感心している場合ではないらしい。今や、この世界では、とんでもないことが、現在進行形中であることが、再認識される。しかも、それは、人間の認識力と視覚力と、更には、考察力、瞬時の状況判断力、等、ありとあらゆる人間の能力開発にも、直結する重要な問題を孕んでいるとなると、只単に、これは、スポーツの業界でのデータ革命とか、ビッグ・データの解析という観点には、留まらない、とんでもない大きな問題である。今更、動体視力に驚いている暇など、何処にあろうか?ドイツのデータ・テクノロジーのサッカーのブンデスリーグでの実際のシステムの応用とその公開には、SAPシステムなども、おおいに、関係しているところで有り、且つ、単に、データを収集・分析・応用・システム化するだけではなくて、既に、『訓練と集中力の向上』へと、今や、応用・実践段階に、進んでいるようである。謂わば、全体の状況を把握しつつ、同時に、瞬時に、思考、認識、そして、行動へと、まるで、わずか数秒の間に、Plan,Do, See,Check, Action, Formatting, まで、一人の選手が、換言すれば、一人の人間が、まるで、PC画面上でのコンピューター・ゲームの主人公のように、動き回り乍ら、訓練され、行動することになる。このシステムでは、更には、ディフェンス・ラインや攻撃ラインや、広角での死角のスペースとか、パスの正確度・精密さやスピードも、ここでは、瞬時に、解析されてしまうことになり、『思考のスピード化』も、認識力のアップも、的確な行動をも、要求されるとおりに、向上するというものである。スロー・フードに慣れている人間は、どうなるのであろうか?それは、まるで、戦場で、ゲリラと一般市民とを瞬時にして、区別する方法訓練にも、適用されることになるのかも知れない。或いは、一刻を争うような『経営の判断』にも、ひょっとしたら、役立てられるのかも知れない。この延長線上に、『全方位画像処理』というとんでもないような鷹の目を有したエンターテイメントを根本から変えてしまうようなシステムも考えられ始めていると言うではないか、もはや、こうなると、審判の眼からでは無くて、或いは、外野席に座っていても、ホーム・ベース上でのクロス・プレーを、実感出来るのも夢の又夢ではなくなるかも知れない。或る時には、スロー・モーションで、又、あるときは、別の角度から、立体映像で、角度を自分で調節して、あらゆる角度から、リプレイを愉しめることになるのかも知れない。確かに、こうなると、テニスもアメフットも、サッカーも、バレーボール、バスケットも、テニスも、ラグビーも、ボクシングも、野球も、ありとあらゆるスポーツ自体が、更には、あの旧態然たる超保守的な『相撲』ですら、4分間という長い仕切り時間も、愉しみ方が、違ってくるかも知れないと言うではないか、大変興味深いものがある。力士の足の裏の摩擦係数、勝負が決まる時間データ分析とか、特定の決まり手の勝敗率分析などは、確かに、面白い参考データになるかも知れない。これに留まらず、今日、ビッグ・データの解析は、日常生活にも及び始めており、これからの若い人は、機械的な訓練と能力の無限の向上を強いられ、際限なき思考の極限までのスピード化と瞬時の状況判断の適正化を、求められることになるのかも知れない。それにしても、大変な時代になりつつある。これからの選手、いや、生身の『人間』というプレーヤーは、大変であろう。もう、こうなると、監督とか、コーチとかも、ウカウカとしてはいられなくなるかも知れない。観客も、これからは、一流選手なみの観点から、或いは、名監督・名コーチの立場から、試合を観戦することになるのであろうか?もっとも、選手やプレイヤーこそ、本当は、大変であろう。そして、私という『人間』は、どうなるのであろうか?いつの時代でも、知らない所では、こんな動きが加速化されているのであろうか?

 


年末恒例の高枝払い終了しました!:

2015年12月23日 | 自然・植物・昆虫

年末恒例の高枝払い終了しました!:

暖冬である。毎年、晩秋に、黄色に紅葉する栃の樹の葉を愉しんだ後に、枝を払うことを、結婚してから、天気に恵まれた日には、毎年の年末冬恒例の行事になっていたが、段々、年をとるに従って、遅れがちになってきたのは、如何なものであろうか?暖冬だけでは無くて、体力の衰えのせいだろうか?昔は、脚立を塀に引っ掛けて、ヒョイと塀に飛び乗って、ノコギリで、スイスイ、枝を払ったものが、今や、女房殿が、塀によじ登り、私は、下で、払い落とされた枝を、短く、挟みで、切っては、ポリ袋に詰める作業分担となっている。もっとも、立ち仕事なので、1時間も、腰を屈めたり、落ち葉を掃いたりしていると、少々、腰の辺りが、張ってきて、小休止と称して、一休みをしなければ、長続きしないのが、常である。全く、困ったものである。隣のお宅には、庭師が入っていて、手際よく、お昼前には、予定通りに、作業を終了して、箒で、枯れ葉や切り取った枝を掃きおわり、昼食へと、時間通りに、出掛けて行ってしまった。こちらは、依然として、袋詰め作業の真っ最中である。時折、強い風が吹いたりすると、落ち葉が、四方へ、散らばり、箒で、又、掻き集めなければならない。一応、曲がりなりにも、高枝は、すべて、払われ、こぶのような頭部を残して、すべて、切り払われて、すっきりとした姿になった。不思議なことに、これが、又、来春になると、おおよそ、4月頃になって、温かさが増してくると、徐々に、緑色の芽と葉が、出てくるから、大した生命力である。夏には、一面、カーポートの屋根を、若葉が覆い尽くして、日陰を作ってくれる。なかなか、黄色い紅葉も、乙なものである。いよいよ、来春には、課題である花桃の大きくなりすぎた樹を、花が終わった時点で、どうするか、流石に、2回の屋根をはるかに超えるようになってしまった枝を素人が、切れるわけにもゆかない。やはり、庭師に、頼まないと駄目であろうか?どのくらいまで、剪定するのかが、問題である。花も愉しんで観たいが、余り、大きくなりすぎても、都会では、どうしようもない。松食い虫による立ち枯れにも困ったものであるが、都会の樹木も、誠に、住みにくいもので、別の意味で、可哀想である。何せ、花は、綺麗だが、落ち葉と、枝の高さと拡がりとは、、、、、、、。それでも、もう、40年近く、やってきた恒例の行事は、いつまで、一緒に、続けられるであろうか?こちらも、問題である。

 


学生から観た農業で考える:

2015年12月22日 | 社会戯評

学生から観た農業で考える:

学生から観た農業というテーマでの弁論大会である。成る程、色々な切り口があるものである。もっとも、皆、農業の荒廃と将来への不安を覗かせていることが、少々、心配であることに変わりはない。しかしながら、それでも、希望が無いわけではない。鳥獣害による被害と林業・農業再生、極地気象速報を通じた天災による農業被害の防止策、耕作放棄地への解決策、肥料自給率と土壌診断による農業の再建策、汚染の実態と土地の疲弊、農産物の輸出を通じた再生提案、農地の転用の難しさ、黒鮪資源の絶滅再生策、農産物流通コストの課題、等…、現状分析と問題点・課題とそれらの具体的な数字と具体的な政策提言へと、どれも、なかなか、面白い切り口である。中でも、クラウドIT技術を活用した極地気象予報告知システムは、これまで、スマホの豪雨レーダーや、防災予報システムではないが、これらをもっと、スマホやPCを活用、進化させた形で、或いは、気象予報(予測と予報と言う言葉の法的な意味の違いも教えて貰ったが、)という法律的な規制の問題点も提言しながら、具体的に政策提起を行い、全く諦めていた天災による農作物の被害を防止するという観点は、なかなか、専門家の審査員にも、又、聴衆にも、充分、高く評価されて、農水杯優勝を受賞したのはなかなかなものである。又、肥料の自給率回復と土壌診断、或いは、MAC法という水処理規制を活用したリンの回収を目指した具体的な化学肥料の過剰な使用を避け、有機肥料と共に、自給率を上げるという観点からの提言も、おおいに、勉強になりました。なかなか、こうした農業分野での議論は、単純に、生産効率性の低さだけで、輸入や海外への依存や、安い低価格農産物の大量生産・大量消費・大量輸入という構図で、論じられがちであるが、なかなか、面白い視点があるもので、未だ知られない技術革新や、ICT活用という観点からの研究活用というものは、確かに、若い学生の得意とする分野かも知れない。もっとも、農業新聞や農業学研究教授、光の家という審査員講評にもあったように、ただ単に、文献やコピペ数字による主張では無くて、自らの努力と現地フィールド・ワークの実施による身についた地道な事実の集積と、未だ、ひとつの体系や理論・主張には至らないが、それに至るであろう充分な兆候を有する理論以前の卵の状態の未理論でも、新たな切り口として、提言することも、又、確かに、地に脚が着いた主張として必要なのかも知れないし、望まれようか?その点からすると、充分、日本の農業というものも、若い学生の主張を聞いていると、まんざら、希望が捨てたモノではないことが、了解される。それにしても、専門家も唸るような新しい視点からの展開と地道な研究・勉強は、毎日、新聞に掲載されていないような内容で、なかなか、知的な好奇心をおおいに、刺激されて、年寄りには、大変、面白かった。後輩達が、優勝・第3席を果たしたことは、結果はさておき、応援のし甲斐があったかも知れない。今度は、年寄りも、一緒に、研究成果を発表する場や、研究・勉強会にも参加できる場を一緒に、作りたいものである。更には、年寄りの勤めとして、若い人達が、活動資金に困らないような何らかの支援活動も、今後視野に入れなければならないでしょうね。共に、一緒に、学ぶ場も、年寄りに、分けてもらいたいものであるとも思いました。若い諸君達から、おおいに、希望と何か、若い力を貰ったような気がしました。日本の農業林業・畜産業・水産業を考え直す良い機会にもなり、又、まだまだ、捨てたモノではないとも、おおいに、感じた次第です。

 


BS英雄達の選択、『藤田嗣治の戦争画、アッツ島玉砕』:

2015年12月21日 | 映画・テレビ批評

BS英雄達の選択、『藤田嗣治の戦争画、アッツ島玉砕』:

先月の国立近代美術館での戦争画展や、映画、FOUJITAをみた上での番組の視聴である。その時、果たして、貴方が、画家であったら、筆を執ったであろうか、それとも、筆を折ったのであろうか?如何にして、画家は、戦争に向き合い、そして、その表現をその戦争中、絵の世界で、追求したのであろうか?美術的な細かな解説が時間の関係で、詳しく、無かったから、秋田での大作に、民衆の逞しさを感じた藤田は、想像の上で、これを描き、聖戦美術展で、当時の戦意高揚に、結局、反戦の意識が心の底に、有りながら、手を貸してしまったとか、父が、軍医監の関係で、森鴎外などの個人的な影響も有り、当時のまだテレビが発達していなかった時代でのビジュアルな宣伝を絵画というツールの中で、軍に、結果として、利用されて、その結果、日本人としての疎外感を、逆に、絵画の集大成として、戦争画として、結実させ、戦後も、見事なまでに、口をつぐんだまま、失意の内に、日本美術画壇の戦争責任を一身に、引き受ける形で、祖国を離れ、カトリックに、改宗して、自らとおぼしきおかっぱ頭の人物を、ひっそりと、描いた礼拝堂に、葬られることになる訳であるが、この辺りの切り口というものは、確かに、史実は、そういうことなのであろうが、どうも、藤田嗣治の心の奥底を、果たして、剔抉し得ていたのであろうか?渡仏前での日本画壇での劣等生扱いが、ものの見事なまでに、渡仏後、東洋の日本画の毒と君手法を基にした白色肌の魔術師として、世界的な画家として、脚光を浴び、逆転したにも拘わらず、戦争時での帰国には、虚しい、何を描いたら良いのか分からぬような『空虚感』が、漂うのは、彼の非日本人としての、純日本人への回帰、或いは、一体感への欲求・希求という心情と、必ずしも、不可分では無く、だからこそ、みたことのない、想像上でのアッツ島玉砕へという形で、芸術的な欲求が、結実してしまったのかも知れない。もっとも、番組では、その後の戦争画としては、最期の作品になる『サイパン島同胞忠節を全うす』での評価は、結局、語られることが無かった。謂わば、歴史の中の、一瞬間を切り取ることで、ある種の結論を導き出すような手法で、もう少し、スパンを長めに、観ながら、議論すべきであったよう気もしないではないが、限られた番組の時間内では、望む方が無理からぬ事かも知れない。それにしても、脳科学者、歴史家、文学者、学者というものは、それぞれ、各様でいて、貴方が、画家であったら、どうしただろうかという質問には、結構、重たいものを感じざるを得ない。単純に、反戦画とか、宗教画とか、或いは、戦意高揚に利用された単なる戦争画とか、語れない何ものかが、あるのも事実で、仮に、この戦争にでも勝利していたら、この絵は、一体、どんな評価を受けたのであろうかと想像するだけでも、考え込んでしまう。そして、語られなかった、紫色した、小さな花は、どんな意味を持って、画家は、密かに、描き加えたのであろうか?そして、その聖戦美術館で、この絵を見た日本人は、どんな感慨を抱いたのであろうか?又、平山周吉のコメントも気になる。

 


監査法人のローテーション化:

2015年12月19日 | 社会戯評

監査法人のローテーション化:

何でも、繰り返し、行われる大企業と会計監査法人との歴史的な癒着と不適切な関係を断絶するためにも、EUで、検討されている会計監査法人のローテーション化が、法的にも、検討され始めていると言うではないか?それ自体は、決して、悪いことでもないし、むしろ、解決対案のひとつとしては、評価されよう、もっとも、会計監査法人にしても、クライアントの会社と云う事で、その会社出身の会計事務会社を買収したり、合併の繰り返しで、巨大化して、大きくなってきたという経緯もあるのは事実である。だからこそ、美味しいクライアントへは、『不都合な真実』は、なかなか、指摘できないものであることも事実であろう。クライアントとの緊張関係を保ちながら、癒着せずに、では、どのように、客観的、且つ、中立的な透明性に富んだ会計・監査システムが、今後、構築しうるのであろうか?果たして、監査法人のローテーション化により、そえが、本当に担保できるのであろうか?これまでも、社外取締役などの仕組みへの取り入れも、こうした観点から行われてきたものの、充分、東芝の件でも、機能していないことが分かった以上、どのような議論が必要なのであろうか?監視する側、される側にも、いずれにも、今日、ある種の『矜恃』が、無くなってしまっているのは、はなはだ、残念ではあるが、そんな悠長な精神論や道徳・倫理観に任せきりや、期待していても、どうすることが出来ない現状がある。本当に、専門家からの厳しい指摘は、反映されているのであろうか?それとも、所詮、クライアントは、やはり、『神様』ということで、終わってしまうのであろうか?

 


ワタミの裁判:

2015年12月18日 | 社会戯評

ワタミの裁判:

言わずと知れた『過労死自殺』裁判の判決である。それにしても、『自分が、経営に関わっていたら、こんなことにはならなかった筈である』式のコメントは、一体全体、創業者利益で、儲けた資金を、たんまり、原資にして、どれ程の選挙資金として使用して、当選したのかを考えるとき、実に、空虚な響きしか、聞こえてこないのは、何故であろうか?それにしても、ブラック企業のイメージが、若い働く者を結果的に、敬遠させてしまい、更には、労働力不足とミスマッチにより、企業の経営それ自体すらも、危機に陥れることになろうとは、一体、この創業者は、予想していたのであろうか?誠に、皮肉なことであろう。それでも、失われてしまった若い真面目な一人の若い女性労働者の死は、どれ程の億単位の金を、賠償金として、支払ったとしても、償いきれる代物ではないであろう。一体、いつになれば、こうした悲劇が、繰り返されることが、止むのであろうか?ワーク・バランスなどという言葉で、簡単に、今日、語られるが、現場の働く若者は、一体、制度上、どんな保護政策の下で、働いているのであろうか?労働監督局や上司・管理職・役員は、何をしていたのであろうか?愉しく、酒を酌み交わしながら、一方では、低賃金と長時間労働と残業とに、追われて、肉体だけではなくて、精神も病むのでは、嘗ての3Kの問題ではないが、酒も不味くなってしまう。残念乍ら、酒を楽しむ裏側では、こうしたことが、当たり前の常態化してしまっていたのであろうか?又、金で、一件落着なのであろうか?

 

 

 


軽減税率の線引きという怪:

2015年12月17日 | 社会戯評

軽減税率の線引きという怪:

何とも、選挙協力目当てのばらまきなのであろうか?何とも、外食とか、持ち帰りとか、可笑しな線引きの攻防である。更には、定期購読の新聞とスタンドでの新聞購入とか、雑誌などとか、人間とは、可笑しなもので、僅か、2%程度のことで、消費者の行動が果たして、大きく、変わるのであろうか?それとも、変わらないモノなのであろうか?もっとも、一時的に、減少しても、人の噂も75日ではないが、いつの間にか、何の事やら、頭が麻痺してきて、そんな線引きもお構いなしに、金を使うことになってしまう者なのであろうか?よくその心理は、分からないが、仮に、バーガー・ショップで、袋に入れて貰って、それを知らぬ顔をして、椅子に座って、店内で食べていたら、店の人は、注意をするのであろうか?それとも、居合わせた客は、『あんたは、消費税が、持ち帰りの8%なのだから、店内では、食べられない。私は、10%支払っているんだから』などと、人間の事だから、一度線引きが決まっても、何とか、その規制を逃れようとして、どこかで、知恵を絞り始めるのではないだろうか?2%と言っても、それが、掛け算の指数が大きくなれば、莫大な金額の規模にもなろうというものである。消費者心理は、限りなく、読めないものである。コンビニでも、イート・インが、増えるのであろうか?もっとも、地方などのスーパーでは、購入した食品を、レジ終了後に、早速、備え付けのテーブルで、食べ始めるご老人を見かけるが、一体、この線引きの実施は、果たして、混乱なしに、行われるのであろうか?それにしても、社会福祉税に使用される分が、又しても、減少するというリスクは、ないのであろうか?選挙前の飴と鞭とは、良く云ったものであるが、どうなることやら、、、、、。昔、外食から、内食、中食という新しいカテゴリーが、生み出されてきたが、今度は、どんな新しい言葉と業態が、現れてくるのであろうか?誠に、来年度は、サル知恵の出しどころである。

 

 


根津美術館、『物語をえがく』展を観る:

2015年12月16日 | 伝統工芸・展示会

根津美術館、『物語をえがく』展を観る:

王朝文学から、お伽草紙まで、という副題の絵巻物を中心とする美術展である。一体、どれ程の人が、今日、本を読んでいるのであろうか?電車に乗れば、ほとんど、向かいに座っている人は、スマホをいじっているが、本を読んでいる人は実に少ない。幕末から、明治期に掛けて、学校を作って、教育を受ける機会の均等ということを目指したものであるが、一体、平安時代や、それ以前には、文字を読むということは、どれ程の人が出来たのであろうか、又、どのように、文化とは、創造され、或いは、継承されていったのであろうか?思わず、この展示会を観ながら、そう思わずにはいられない。絵巻物をみていると、確かに、当時の人々の様子や生活の様が、如実に実感されるが、文字だけでは、確かに、確認されないのかも知れない。その意味では、当時の絵の描き方というものも、絵画史の中では、重視されなければならないのかも知れない。又、それは、日本だけではなくて、アジアの歴史や西洋との文化史や絵画史として、正当に評価されなければならないのかも知れない。そういう比較文化史や絵画史という側面から、改めて、この絵巻物を眺めると、大変興味深いものがある。物語というものは、どうやら、書物としての存在よりも、絵巻物として、描かれていることで、その存在が、再発見されていることは、実に面白い。この伊勢物語などは、文献上では、源氏物語の中で、知られているものであるが、そこにおいては、既に、絵巻物として、登場する。もっとも、墨画淡彩故に、(墨を主体に淡く、描かれている以上)、現物の屏風絵や画帖は、残念乍ら、薄く霞んでいて、絵の解説が施されていないと、何の事やら、さっぱり、認識できないのも、事実である。それにしても、絵巻、冊子、色紙、懐紙、扇子、巻物、画帖、屏風、画巻、等のこれらが、やがて、大画面の襖、屏風へと、室町・江戸時代へと、技法や絵の具の発展と共に、近世へと進化して行くことになる訳である。この物語の描写では、『和歌のやり取りの情景描写』が、名場面として、描かれていたり、或いは、軍記物や仇討ちものや、お伽草紙などのストーリーともに、順に、その描かれた絵を目で追って、楽しむという手法は、現代の漫画のようでいて、面白い。西行物語絵巻・酒呑童子絵巻・曽我物語図屏風・平家物語画帖、等は、絵を目で追うだけでも、当時の人が、どのように観ていたのかを想像するだけでも、往事に、タイム・スリップしたみたいで、不思議な感覚に陥る。江戸時代、17世紀頃に、描かれたとおぼしき『源氏物語・浮舟図屏風』は、巨大な6曲1隻な屏風で、しかも、俵屋宗達にも、影響を及ぼしたであろうと思われる黄金色の金箔色に塗られた(もっとも、現物は、今日、くすんでしまって、その輝きを失ってしまっているが、)左下から、右上へ大胆に描かれた舟の中で、男女が、情交をかわす情景を、和歌で、描いているのは、何とも、印象的である。

『年経とも 変わらぬものか 橘の 小島の崎に 契る心は』

(何年経とうとも、変わりません、橘の小島の崎で約束する私の心は)

『橘の 小島の色は 変わらじを この浮舟ぞ 行方知られぬ』

(橘の小島の色は変わらないでも、この浮き舟のような私の身はどこへ行くのやら)

往事の人々は、この屏風図を眺めたときに、何を、一体、感じたのであろうか?想像するだけでも、興味深い。

美術館の日本庭園には、旧い石像が多数配置されていて、それが、茶室や池や樹木と実に、大都会の喧噪の中で、そこだけは、微妙な静寂と日本的な空間が織りなし、しし威しの音色だけが、初冬の温かな午後に、突然、コツンとこだましていた。展示物を見終わったら、庭園内のカフェで、一服しながら、庭園を散策するのも、これ又、一興であろう。12月23日(水・祝)まで開催予定、 


国民戦線の躍進とは:

2015年12月15日 | 社会戯評

国民戦線の躍進とは:

何でも、地方議会選挙とはいうものの、フランス国内での国民戦線が主張する移民の抑制や、国境の管理とか、パリのテロ以降、こうした主張が、心情的に、支持されやすいのは、無理からぬ事なのであろうか?それにしても、ドイツに於けるナチス、ヒットラーの台頭には、似たような状況が、醸成されていたのであろうか?決して、気を許してはならない背景が、あろうことは、間違いない。流石に、第一党にまでは、到達することはなさそうであるが、それにしても、世論に対するポピュリズムを利用しながら、将来の大統領選挙戦への野心的な目論見があることは、疑いのないところである。これに対して、決選投票では、得票率の上昇による選挙民の危機意識と、バランス感覚、或いは、選挙戦術としての保守派と左派連合の協力が大きく左右されていたのかも知れない。それにしても、移民排斥への支持や、テロへの恐怖、治安への不安は、決して、外国や、フランス一国だけの問題ではない。世界のあらゆる所で、異文化との共生や異民族への尊厳の問題は、ファナティックな民族排外主義や移民排斥・民族差別のうねりの中で、どのように、その自由・平等・独立の灯火を、掲げ続けることが出来るのであろうか?そして、アメリカ共和党の大統領選挙のトランプ候補によるイスラムへの移民禁止発言も、いまや、泡沫候補とは言いがたい存在感を示し始めているが、翻って日本を眺め渡したときに、一強多弱で、コップの中の嵐の如き、脚の引っ張り合いの自滅寸前の野党という構図の日本では、そんな心配はないのであろうか?