小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

家籠もりの中で、往時の任侠ビデオを観る:

2020年03月30日 | 映画・テレビ批評

家籠もりの中で、往時の任侠ビデオを観る:

 

GAFAに肩入れするつもりは毛頭ないものの、時代の流れなのか、Amazonのプライム会員であることをすっかり忘れていたら、何かの拍子に、ビデオや電子書籍が読み放題だと気づき、慌てて駆け込みで、このご時世であるから、山籠もりと称して、眼の衰えをカバーすべく、ラップ・トップPCを大きなモニターに接続して、たっぷり、往時の任侠映画を、ビデオで愉しむことにした。藤純子の緋牡丹博徒シリーズ、高倉健の昭和残侠伝シリーズ、池辺良や鶴田浩二の出演する任侠シリーズで、銀座の並木座で、3本立て等で、学校の授業の帰りに、友達と連れだって、60年代の後半に、よく観たものである。当時は、見終わり、映画館を出るときには、どういうわけか、鶴田浩二の影響かどうかは、分からぬが、無意識に、両手の拳を握りしめて、これは、後年、海外出張し、異国の地を歩くときにも、どういうわけか、そのスタイルが身につき、殺気をみなぎらせながら、闊歩したモノである。又、ある友人は、必ず、中指をピンと伸ばして、歩く癖をつけてしまった。50年時間が経過した今でも、その名残は、どこかに、癖として残っているのは、どうしたものだろうか?

それにしても、凜とした藤純子は、結婚して、名前が変わっても、或いは、娘の女優が有名になろうとも、藤純子は、藤純子であり、銀幕の中の緋牡丹お竜さんは、お竜さんのままである。又、武骨で、無口な高倉健は、後年の主演男優賞や助演男優賞などとは、全く無縁な、寡黙な煮えたぎるような殺気を押し殺した一匹狼的なアウトローの雰囲気である。それでも、何本か往時の作品を見終わった後の<違和感>は、一体、どこから、来るのであろうか?あの50年以上も前に抱いた<感動>とは、明らかに、異なるところの、ある種の<虚しさ>、懐かしいという感情は、余り、<沸いてこない>のは、何故なのであろうか?

どうやら、歌とか、映画とか言うものは、<その時点での時間的な、或いは、空間的な時代背景や歴史的な環境・雰囲気>、或いは、<私的な空間の概念と、何らかの感動、或いは驚きが、不可分に結びついていて>、決して、AIで再生・合成された美空ひばりには、微妙な違和感を抱き、我々がそうして感じるのと同じような、或いは、似通った感情を持つものなのかもしれない。明らかに、それは、50有余年という<時間的経過と肉体的変化・経過>や、或いは、<往時の精神状態と現在との差異>から来るところの違和感なのかもしれない。銀幕に映し出された緋牡丹お竜も、高倉健も、ポッポ屋や黄色いハンカチーフの健さんでは決してない。<賞味期限>とはよく言ったもので、時間的な経過とベストの賞味期間とは、人間の肉体・精神でも、同じことが言えようか?それは、眼も衰え、脚が萎えてくるように、それは、亡くなった両親や愛犬の介護でも、十分、認識してはいるものの、、、、、、、。いざ、自分が、そういう段階に近づきつつあるときには、<本能的に、違和感を感じる>ことになるのであろう。よく、人生最期に食べる一品とか、観たい映画はとか、無人島に持って行く本は、何だとか、謂われるが、恐らく、もう、これからは、往時の任侠映画を、何度も、<観ることはない>であろうし、あまり、<観たいとも思わない>かもしれない。絵描きの画風が若いときと、熟年期、晩年期とでは異なるように、自分の中でも、本を読み返したり、映画を見直したりすることは、なかなか、興味深いものがありそうである。本であれば、往時の棒線や付箋などで、記憶に残った部分が、探し出せるが、映像では、なかなか、難しいものである。<カミューのペスト>も、こういう状況だから、異邦人同様、読み返してみることにしようかな!新型コロナ・ウィルスの一番の特徴は、<どうしようもないくらいの倦怠感>らしいが、肉体的な倦怠感ではなくて、<長年に亘る人生の倦怠感とか、夫婦間での倦怠感>は、どうしたらよいのであろうか?女房殿からズバッと指摘されそうである。(笑)でおさまれば、宜しいが、、、、、、。


映画、<三島由起夫と東大全共闘、50年目の真実>を観る:

2020年03月28日 | 映画・テレビ批評

映画、<三島由起夫と東大全共闘、50年目の真実>を観る:

それにしても、50年も前の若者は、古稀を過ぎてから、眼が衰え、レンズを交換して、すっかり、読書量が激減し、最近では、新型コロナウィル禍の為もあり、映画鑑賞の代わりに、ビデオの視聴が多くなってきたのはどうしたモノだろうか、尤も、友人に勧められて以降、KINDLEをダウンロードしてからは、i-padにダウンロードしたE-bookを読む回数が増えてきた。

新型コロナウィルス禍により、山ごもり状態であるが、今日(3月20日)から上映開始されるというので、山から下りて、映画館のネット・チケットをスマホで予約して、席もなるべく2席ほどの距離を開けて、とったにも関わらず、後から来た客は、何と私の隣の席に座ったので、やむなく上映開始と共に、一寸離れた席に移動して、マスクをしっかり装着して、再びじっくり見ることにした。それにしても、濃厚接触を回避する為に、ネット上では空席が明記されているのに、このおばさん夫婦は、何を考えているのであろうか?

 

それはさておき、TBSが所蔵していた4時間に亘る1969年5月13日の討論会のドキュメンタリー・フィルムを編集しながら、当時の関係者等のコメントをちりばめながら、この<言葉が未だ力のあった最後の時代>を、50年後の我々は、如何に、今日的に考えたら良いのであろうか?ここに登場する人物達の何名かは、主役を含めて、双方共に、既に今は亡く、もしも生きていたならば、どのように、再び、往時を総括するのであろうか?

当時は、全国的に燎原の火の如く拡がった、医局待遇改善や授業料値上げ反対闘争とも相俟って、世界的なベトナム反戦運動や、佐世保への原子力空母エンタープライズの寄港や王子野戦病院反対闘争や、ジェット燃料輸送阻止や、4・28沖縄奪還闘争や10・21国際反戦デー、新宿騒乱事件や東大安田講堂落城など、枚挙にいとまがないほどの政治闘争の真っ只中の中で、単身、敵対するであろう1000人もの意見を異にする若者を相手に、<正々堂々、真摯に敬意を払い>ながら、<言葉と言葉の激突する決闘の場に、臨んだその誠意>には、改めて、敬意を表すると共に、今日の官僚によるメモと原稿を棒読みをしたり、議事録・公文書を改竄したり、或いは、部下を自殺に追いやっても平然とその地位に甘んじている政治家や高級官僚などと比べるのも、誠に、おぞましく感じられる。

このドキュメンタリー映画を見終わって、そういえば、当時、この討論会の詳細な本を読んだ記憶を想い出し、改めて、本棚を探してみたら、文化防衛論や英霊の声の本の間に、副題:<美と共同体と東大闘争>新潮社版Yen250と記された177頁の本が出てきたので、ドキュメンタリー・フィルムと並行して、論じてみることにしよう。写真とかでは色々と現場の雰囲気を伝えるモノを見ているが、改めて、50年後にビジュアルで、観てみると、その<双方の圧倒的な熱量、熱い思い、濃いい情念>が、大画面から、三島の大きなギョロッとした眼から、上腕から、直接に、伝わってくる。それは、50年前に読んだ時に、本に記された自分の○や棒線・付箋から、感じられるある種のキーワード的なそれとは、異なる心を映像的に、揺さぶられるものではなかろうか。しかしながら、本に記載された内容を読み進むにつれて、改めて、<映像の時代と文字の時代>の違い、とりわけ、同じ<言葉を通じた表現の違い>はあるものの、未だ、確かに、当時は、言葉を媒介にした、立場を異なる者達同士が、<真摯に、言葉で互いをリスペクト>しながら、<言葉を武器として決闘の場に、正々堂々と自分の論理を展開したコト>には、50年後の現在には、絶対にあり得ないことであろう。<言霊が会場を飛び交い、そして、自決という言葉を残して>、三島は会場を後に去って行くことになる。<空っ風野郎>というヤクザ映画に出演したり、<人斬り>で切腹を演じてみたり、この討論会から、イヤな予感はあったものの、この1年半後に、市ヶ谷自衛隊総監部での割腹自決に至るとは、未だ、この時点では誰が想像し得たであろうか?確かに、12頁の中頃に、50年前の私は、<自決>という箇所に、○でこの文字を囲んでいる。

 

本の 目 次:

  • <われわれはキチガイではない>:

=暴力はいかんということはいったつもりはない、、、、、、、

=筋や論理はどうでもいいじゃないか、兎に角秩序が大切である、、、、、、

=行動を起こすときは結局諸君と同じ非合法でやるほかないのだ。

=非合法で決闘の思想において、、、、、、、自決でも何でもして死にたいと思うのです。

=反知性主義と丸山真男について、、、、、、

  • <自我と肉体>:
  • <他者の存在とは>:

=サルトルの<存在と無>を引用しつつ、暴力とエロティシズムは深いところで非常に関係がある。、、、、、

=暴力という形じゃなくて、、、、、<対決の論理・決闘の論理>に立っているのだと思われる。大江健三郎も引用しつつ、、、、

  • <自然対人間>:
  • <階級闘争と自然に帰る闘い>:

=バリケードに供された教室の机の存在の考察を通じて、生産関係の根本に労働対象としての自然概念と暴力の根源的衝動について、、、、、、、、

  • <ゲーム或いは遊戯における時間と空間>:

=あなた方が作った歪んだ空間、その空間がそこに存在する時間はどういう風に持続しますか?

=解放区の問題を論じたいと思うのだが、、、、、時間の持続性という問題へ、、、、、

  • <持続と関係付けの論理>:

=三島からの二つの問題提起、名前というものがない世界と、、、、、目的論なしに活用出来るのか、、、匙を具体例にあげながら、、、、、

=ここで、三島をぶん殴りたいという全共闘Eが議論に加わる、、、、、

  • <天皇と民衆をつなぐメンタリティー>:

=安田講堂で諸君が立てこもった時に天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒に、、、、喜んで一緒にやったと思う。

=昭和初年における天皇親政というものと、現在謂われている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。

=中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている、、、、、、、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。

=その難しさの中でだね、諸君は戦い、ぼくだって戦っているんだ。それは日本の民衆の底辺にあるものなんだよ。それを天皇とよんでいいかどうかわからない。たまたま、ぼくは天皇という名前をそこに与えるわけだ。

=一体民衆の底辺というのは何なんですか?

=民衆の底辺というのは、日本人の持続したメンタリティーということで、時間の問題をぼくはさっきからたびたび言っているわけだ。、、、、、、、空間を形成する日本人というものは、諸君のような新たらしい日本人だ。、、、、、、、、一定の時間の中にしか生きていない人間、その人間の中にあるものだね。私は、日本人のメンタリティーの一つの大きな要素と考えるのだ。そのメンタリティーをどうするのかというこの問題を言っているわけだね。

  • <過去・現在・未来の考え方>:
  • <観念と現実における美>:

=君は美は美として完結させるにはどういう方法があるのですか、、、、、それを教えて下さい、それをどうやって君は完結させる。

=美というものは、ただ観念の中にしかないものである、、、、それを一歩踏み出せば、現実に腐食されて、美は美でなくなっちゃう。、、、、、、、、そうすると、諸君にとって美というものは、何ら重大な問題じゃない。

=芸術と実際行動との間というものについて、、、、、あらゆる関係性、時間性、現存性を超越していく方向、、、、、、自己超越性―超時間性、、、、、芸術作品における意識性と無意識性、、、、、、、、

  • <天皇とフリー・セックスと神人分離の思想>:
  • <ものとことばと芸術の限界>::
  • <天皇・三島・全共闘という名前について>:
  • <われわれは敵対しなければならない>:

 

ここまで、<50年後の若者である私>は、一生懸命に、<50年前の当時若者であった私>が、付箋を付した箇所を、なぞりながら、引用してきたが、ここまでくると、もう、別の<書籍評論>として、検討したくなるほど、付箋が多くなって来ました。是非、50年後の若者も、今の若者も、再度、或いは、新たに、読まれることをお薦めします。又、最近では、<カミューのペスト>が、再読されているようで、こちらも、書棚から、再読してみたいとも考えています。一寸、根気がなくなり、消耗してきたので、最期の節は、若干、端折ることにさせて下さい。お許し下さい。

 

そして、討論を終えて

  • 砂漠の住民への論理的弔辞 (三島由起夫)

=(三島は)このパネル・ディスカッションのために用意した論理の幾つかを次に箇条書きにしてみようと、下記を纏めている。

  • 暴力否定が正しいかどうかと言うこと。(三島は、無原則。無前提の暴力否定に反対し、暴力を肯定すると言った。、、、、、、、、、毛沢東の人民戦争のみが正しい暴力であるという論理に対するアンチ・テーゼ、、、、、、、)
  • 時間は連続するものか、非連続のものかと言うことである。(解放区・自分の肉体、精神、、、、、空間と一種の時間主義、、、、、、、、連続性と非連続性、、、、、歴史・伝統、、、、、、、過去・現在・未来という時間的連続性、、、、、、、)
  • 三派全学連はいかなる紡機にかかっているのかと言うことである。(左翼小児病、、、、、人は敵を愛することは出来るが、背いた友を愛することはできぬ。、、、、、、、嗜好の自由を標榜しながらも、ある点へ来ると体制左翼から思考の型をかりているか。、、、、、、、、政治と文学、(三島の)文学と行動とに対する彼等の批判、、、、、)
  • 政治と文学の関係である。(文学を生の原理、無倫理の原理、無責任の原理と規定し、行動を死の原理、責任の原理、道徳の原理として規定している。芸術が生の原理であり、無責任の原理であり、無倫理の原理であるという点については、彼等と三島との芸術観については、相隔たるところはない。しかしながら、行動が死の原理であり、責任の原理であるという点について、まさにその点についてこそ、彼等とわれわれとの思想的対立があらわにされるのである。、、、、、、、、生の原理と死の原理、、、、、、この二つの原理がお互いに行動の根本動機になるのであるとすれば、われわれは同じ行動様式によって反対側の戦線で闘っていると言わなければならないのである。、、、、、、、、、、、。)
  • 天皇の問題である。(、、、、、、、、、、私は彼等の論理背を認めるとしても彼等の狙う権力というものがそれ程、論理的なものであるとは考えないのである。そして、彼等が敵対する権力の事態の非論理性こそ、実は私も亦闘うべき大きな対象であることは言うを俟たない。、、、、、、、。)

 

ここまで読み進めてきて、少々、消耗してきました。やや、限界ですね。

  • 三島由起夫と我々の立場 (東大全共闘)
  • あるデマゴゴスの敗北
  • 時間持続と空間創出

 

それにしても、50年後の若者は、50年前の若者、自分自身を振り返ったときに、何を感じるのであろうか?そして、今の若者が、50年前の若者を観たときに、何を思うのであろうか?ドキュメンタリー・フィルム全体に溢れる<圧倒的な熱気>は、本を再読するときとは、全く別の感慨を有する。今や、<事なかれ主義>という言葉も、<不作為>という言葉も、行動原理とか、主体にしても、今日の公文書改竄、カレイのような上目使いの行き過ぎた忖度にしても、言葉を重みを置かない言葉の遊びと責任を伴わない行動とか、今日、もはや枚挙にいとまがない。少なくとも、イデオロギーを異にする他者とも、正々堂々と、決闘の精神で臨んだ三島由起夫という存在は、その1年半後に、あの行為に、結実・実現されてゆくことになる。

50年後の元若者としては、是非、今の若い人達に、観て貰ったり、本を読んで貰いたいモノである。<体感せよ!50年前の真実を!>

髙橋和巳も、吉本隆明も、そして、<とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く>というコピーを打ち、<三島由起夫とは、なにものだったのか>を著した橋本治も、今は亡く、もし、彼等が、この映画を観ていたら、どのようなコメントをしたであろうか、興味深い。それにしても、<連帯を求めて、孤立を恐れず、こころ尽くして挫けることを恐れないが、こころ尽くさずして挫けることを拒否する!>と落書きした人物は、今、何を思うのであろうか? そして、吉田松陰は、いみじくも、こう言い放っている。<死して不朽の見込みあらば、いつでも死すべし、生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし>、戦後民主主義の教育の下で育った若者と、敗戦を体感した若者とのその後の生き方の選択は、全く異なる時間の経過を辿ることになってしまった。それでも、50年後の総括は、未完のまま、現在進行中である、、、、、。


=新型コロナ・ショックと監視社会:

2020年03月15日 | 社会戯評

=新型コロナ・ショックと監視社会:

 

既に、春節前には、中国の金持ち達は、5000万人も、武漢他を離れ、海外疎開してしまい、日本にも、多数の観光客が来日していることは、周知の事実であるが、与野党を含めて、一体どれ程の観光客が武漢から来日し、何処を訪問していたのかなどは、国会でもメディアでも詳しく取り上げられていない。まるでマッチ・ポンプみたいに、自分で、火をつけておきながら、今度は、逆に、火消しを誇るような習金平による政治ショーにはやや、ウンザリするが、12億の人間を束ねるには、強権的な強引な都市封鎖以外には、新型コロナ・ウィルスに対抗するためにも、何が何でも、<ヒト・モノ・カネ・情報>を強権的に、私権を制限してまでも、ある種の監視社会を、構築してゆかないと、致し方ないのであろうか?それにしても、忖度政治の最中でも、韓国、或いは、日本による中国への忖度は、最たるモノで、WHOすらも、右へならえとは、恐れ入ってしまいます。それにしても、インバウンドの4000万人目標も、又、2020東京オリンピック・ゲームの予定通りに開催も、主催者がどんなに、声高に叫ぼうが、相手があっての話で、既に商業主義化してしまったオリンピックは、莫大なテレビ放映権料を支払って貰っている以上、谷町のご意向を忖度せざるを得ないのはなかろうか?

中国国内のこれまでのビッグ・データによるヒトの流れ・移動は、交通網の整備というお題目に関わらず、初期の高速道路の監視カメラから、徐々に、町中の監視カメラ、或いは、<顔認証システム>とも、リンクしながら、赤信号を無視して横断歩道を渡ろうとするとすぐさま、警察官に拘束されるという所にまで急速に発展し、更には、この新型肺炎を機に、一気に、QRコードやドローンまでも活用した、<個人のヒトの流れ>、即ち、地下鉄を乗り換えて移動するときにも、全ての<ヒトの移動の追跡履歴>が、<当局に監視管理される仕組み>となりつつあると謂われている。何でも、地下鉄の車両を乗り換えて移動しても、新しいQRコードをスキャンしないと拘束の対象になると謂われている。若い頃、よく、<ヒト・モノ・カネ・情報を重視せよ>と謂われてビジネスの世界で闘ってきたが、今にして思えば、正鵠を射ているようで、実に、感慨深い。確かに、ヒトが移動しなくなり、モノが動かなくなり、人の心理が消費意欲やマインドが冷却すると、供給が、サプライ・チェーンが崩壊連鎖してゆき、グローバリズムの中では、どうすること出来なくなる事態に陥り、やがて、過剰な加熱していた株式相場や、眼に見えなかった潜在的な不動産市場を含む金融市場の矛盾が、顕在化してきて、そこへ、未知への恐怖・不安心理から、様々な憶測情報やデマ情報が一人歩きしだし、フェイク・ニュースが、フェイク・ニュースを呼び、収拾が困難になってくるものである。

かつてのオイル・ショック時のトイレット・ペーパー買い占め騒動にも、全く、その歴史的教訓を学ばず、又、中国人留学生を動員した<転売ヤー>や、オークションと称した、或いは、抱き合わせと称して、不足気味のマスクや消毒綿などのネット販売など、誠に、IT企業の<品格のない、なりふり構わない商道徳の堕落>・<矜持の無さ>が、何故に、生じてくるのであろうか?更には、東日本大震災の時のメガソーラー発電構想と同じように荒唐無稽のマスク供出というよう孫正義による元メルカリのオーナーまがいの大風呂敷宣伝など、<経営者としての品格や矜持>も、問い直されて面白いモノである。こういうときこそ、経営者や人としての品格が、ハッキリと出てくるモノである。しかしながら、何故に、<チャイナ+>ともう、何年も前から、喧伝されていたにも関わらず、同じ轍を踏むのであろうか?そもそも、<モノ消費~コト消費へ移行>等と、謂われていたにも関わらず、結局、ツアーバスの運転手や中国専門旅行社や芸能スポーツ・イベント関連や、スポーツジムのフリーのインストラクターとか、或いは、フリーランスのミュージシャンや小規模経営のライブ・ハウスなど、飲食業界、クルーズ業界など、嘗てのSARS・MERSの事象から、何の教訓も得てこなかったのであろうか?結局、最終的には、一番の零細弱者である労働者や派遣・非正規の被雇用者が損害を被り、内定取り消しとか、新規採用抑制、とか、<セイフティー・ネットの機能不全>に陥ることになるのだろうか?。厚生労働省の幹部は、<コネクティング・ルーム・スキャンダル>の張本人が、感染対策のクルーズ対策の陣頭指揮を執るなど、こちらも、<官僚組織の機能不全>に陥り、感染病研究のヘゲモニー争いとも絡んで、連日のテレビ報道を風聞していると、成る程、そういうことなのかと納得されよう。むしろ、地域・地域の首長による感染症対策を、国があてにならなかったら、独自に、和歌山県のように、クルーズ船隔離対策とは別のスクリーニング検査の独自対応策の積極的なシステム構築をしなければならないかもしれない。それにしても、<どさくさ紛れでの特別緊急措置法>など、私権の制限を伴う案件にも関わらず、国会では、十分審議されることなく、お友達内閣の閣僚の辞任や<説明責任の放擲>というていたらくである。いつの何やら、今年の<桜のお花見の会>も、濃厚接触を避けるべく、どうやら、自然消滅の様相である。

テレワークをみていると、これからの時代は、今更ながら、会社へ出社して、顔つき合わせて、結論の出ない長時間に亘る会議をする必然性もなくなり、むしろ、ウェッブ会議や交通費の削減とか、人件費の抑制を図り、クラウド上で、互いの日程を確認し合い、ファイル共有システムから、シェアワークで書き込み。アップデートする方式へと移行を加速させてくることでしょう。ますます、<飲み会と称した濃厚接触からウェッブ上へ>と<人間関係も希薄>に、<組織への忠誠心も、薄れてくる>ことは間違いなく、加速化されてくることでしょう。コロナ・ショックは、株式相場のみならず、人々の意識改革と行動パターンにも影響を及ぼし、やがては、長期的には、社会事態への変革を促してくる可能性が、高いのではないかと思います。

それにしても、短期的に解決すると思われていたコロナ・ウィルス禍が、むしろ、南半球とかに拡がるこれからのグローバルなパンデミックを考えると長いスパンでの対応を個人個人に強いるような展開になるであろう。年寄りは、じっと我慢、家籠もり状態とライフ・スタイルの変更をよく考えないと駄目かもしれません。