小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

梅の花が、一輪咲きました!:

2013年01月31日 | 俳句・漢詩
梅の花が、一輪咲きました!:
芭蕉十哲の一人である「服部嵐雪」の俳句に、「梅一輪 いちりんほどの 暖かさ」が想い出されるが、何でも、ある解説に従えば、「いちりんほどの」という7文字が、平仮名で、漢字ではないという。それでは、「いちりんほどの」とは、どういう意味であるのか?それは、どうやら、一輪と一厘、或いは、凜として、同じリンでも、様々な意味が、作者の意図には含まれていると、成る程、そう詠むと、未だ初春の候、梅の小さな蕾が膨らんできて、冬の寒さの中にも、負けずに、「凜」として、その存在感を現わしつつ、少しづつ、冬の寒さも和らぎ始めて、ボチボチと、暖かくなりつつある、そんな時節を詠みながら、春の到来を待ちわびる心境をこの句に託したのであろうか、私は、てっきり、一輪の梅の花が開花したので、まだ、一輪だけが、咲く程度の寒さであり、春を待ちわびる気持ちは分かるが、未だ、春遠からじという風に、理解していたのを、恥ずかしく思う。書斎からは、上の方で、見えなくなってしまったが、女房殿に、気づかされて二階のベランダから眺めれば、一輪だけ、梅の花が、立派に、咲いていて、他の小さな蕾も、膨らんできつつあるように思えた。今年は、例年に較べて、寒い冬であるとばかり実感していたが、梅の花や、メジロ(鶯かどうかは、残念ながら識別出来ないが、、、)が来るのを観ていると、確かに、季節が、やがて、変わりつつあるのかなと肌で感じる今日この頃である。そろそろ、長い間咲いていた山茶花も、終わりに近づいてきている。いよいよ、春を告げる梅の花と交代かな!なかなか、俳句というものは、奥深いものである。




映画、「Life of Pi」虎と漂流した227日を観る:

2013年01月30日 | 映画・テレビ批評
映画、「Life of Pi」虎と漂流した227日を観る:
「東京物語」と、「東ベルリンから来た女」のどれを観るかを迷った末に、結局、この映画を3Dで、観たが、観る前に、もう少し、下調べをした上で観た方が、もっと、愉しめたかも知れない。というのも、後から、色々と各シーンを想い起こすと、様々な制作者の意図が、伏線として、隠されていて、見終わった後から、成る程、そうだったのかという思いを抱いたからである。主人公が、インド人ということから、我々の世代は、小さな頃から、マハトマ・ガンジーの非暴力主義的抵抗とか、ネルーの「父から娘への手紙」に、幼い頃から、友好の証しに、贈呈された象のインディラ(愛嬢から由来した命名)にも、喝采したものである。この映画の制作者達とは、別に、インドに対して、何とはなしに、その哲学的な、或いは、思索的な、更に云えば、宗教的な世界観、宇宙観というものを、やや神秘性も含めて、感じられて仕方ない。マリアナ海溝から、太平洋を、メキシコまで、虎と一緒に、漂流した物語などと、侮って観ると、多少ガッカリしてしまいそうな内容である。そもそも、227日というこの数字自体からして、主人公の少年が、自ら命名したニックネームを表しているそうである。(22を7で割れば、3.14……πである。)旧フランス領東インドの首都だった南仏を彷彿とさせるような美しいポンディシェリという街で、動物園を経営する父と植物学者の母の間に、次男として生まれるが、その父は、フランスの美しい水泳プールの名前から、Piscinと命名したにも関わらず、それは、Piss(小便)と誤解され、「穢れ」を意味することに混同、揶揄されて、学校でイジメの恰好の標的になってしまう。しかしながら、天性の知恵で、この少年は、これを、円周率のπ(インド人は、数学が好きである)に、変えることにより、克服してゆく。やがて、成長するにつれて、ヒンドゥー教、キリスト教、そして、イスラム教、更には、ユダヤ教と、様々な宗教を学んでゆく。キリスト教の洗礼を受ける決心をするが、それでも、自然の創造主という神々(ここでは、複数形とする)を自身の中で、共存させてゆく。ヒンデゥー教の神々、とりわけ、動物に形を変えた神の概念、猿の神など、これらは、後に、様々な伏線ともなる。
この主人公の少年は、1954年のインドへの返還に伴い、カナダへ、家族全員で、移民しようと、その動物たちと一緒に、日本船籍の貨物船で、太平洋を横断する途中で、嵐の中で、遭難し、怪我をしたシマウマ、ハイエナ、オランウータン、そして、リチャード・パーカーと書類の手違いで、命名されたというベンガル・タイガー、そして、パイ少年、、、、、、。
航海中の船内でのベジタリアン料理を巡るコックと母との「肉食」に対する言い争いや、仏教徒との議論、それは、その登場人物が、そっくりそのまま、ボートに乗り移ってきた動物達を、暗示していることが、「後から、初めて分かる」のである。成る程、そこには、「肉食」という一種、「穢れ」に似たような概念と、ベジタリアン(非肉食)という「Sacred」な概念の対比を、観ることが出来なくもない。又、それが、何気なく隠されているとも思われる、主人公が淡い恋を感じる美少女の踊り子がとるヒンドゥー教の踊りに出てくる「蓮の花」のポーズ、確かに、これも、仏教的な観点からすれば、汚泥の中にこそ咲くという蓮の花、即ち、穢れた世界の中に、清らかな花を咲かせる蓮の花、そういう「宇宙観」が、何処かに、現されているのかも知れない。踊りの先生が言う「大地の息吹を脚で、しっかりと感じ取って、神々に感謝して踊りなさい」と、これも、宇宙観であろう。少年が、モスリム寺院で学んだメッカに向いて、頭を大地に擦りつける仕草にも、同様に、大地を通じて、神のの偉大さを感じる物であるとも、言わしめているのは、興味深い、又、この動物たちの移送というのも、考え方によっては、「ノアの箱船」の譬えかも知れない。一つには、貨物船の名前、TMIMYZUMは、ユダヤ教秘法典のバカラから来るであろう所の「ノアの箱船」とも謂われている。そういう「無限の生命観」、「宇宙観」、「食物に関する哲学」、「様々な宗教観」が、どうも、画面の背景には、各層、各レイヤー毎に、その深層には、潜んでいるような気がしてならない。それは、とりわけ、美しい満天の星の下で、虎と一緒に、見上げた空や、夕陽や、朝日の美しさや、巨大な鯨が、勇躍する姿や、鮪に追われて飛ぶように逃げ惑うトビウオの群れに遭遇するシーンや夜行性クラゲの群れの中を進む中で、海中から、ボートを見上げたり、水面を下から、見上げたり、或いは、空(宇宙)から、逆に、大海に漂うボートを映しだしたりと、まるで、「宇宙と海と(ヒトとトラ)」とが、一体化しているような美しい3D映像である。更には、嵐の中での雷や、神の啓示を暗示するような天の光とか、たとえ、それらが、デジタルSFXや、高度なCG と実写合成技術を駆使して創られた映像であったとしても、決して、それでもって、作品自体の「美しい自然」の映像美の評価は、貶められることはないであろう。況んや、それが、画面に登場してくるベンガル・タイガーをやである。それにしても、どのように、こんな迫真の美しい映像を撮れるのであろうか?
元々、この原作は、1837年に発表されたエドガー・ア・ランポーによる「ゴードン・ピムの物語」という小説をベースに、その後に実際に起こった様々な漂流事件の生存事例を、反映させたものであると、回想形式で、物語が語られ、進められるので、当然、主人公が助かることは、初めから分かっているが、ベンガル虎は、一体どうなるのであろうか?それは、映画を観て貰わないといけませんネ。夜になると、昼間の天国のような光景とは、一変して、肉食植物が棲むという南?の孤島で、見つけた植物の実の中にあった「歯」も、まるで、前述した蓮の花を連想させるようなもので、或いは、仏舎利に納められた仏の骨か、歯のような感じですらある。そして、その後、嵐から生還し、メキシコの海岸に、たどり着いたときに、痩せこけた虎の腰骨は、何とも、痛々しかったが、何故、後ろから、撮影し、決して、その顔を映すことを敢えてしなかったのであろうか?生還したというhappy endingと「永遠の別離」という二律背反的な映画の終わり方は、観るものにとって、評価が、別れるところであるかも知れない。それを差し引いても、この映画が有する「宇宙観」と「世界観」は、印度という「神秘性」の中で、その主人公と虎という神聖な動物 (ライオンではなくて、虎なのである。) を通じて、動物愛や家族愛だけでなくて、充分、訴えるだけのモノがあるように、感じられよう。小学生や中学生になる子供達と一緒に、観賞してみたら、とても、面白いと思われよう。
最後に、一言、この映画に出てくる日本からやってきた保険会社の事故調査報告書を作成する日本人とのインタビューは、相変わらず、皮肉的に、扱われていて、どうも、日本人としては、何やら、憤懣やるかたなく、消化不良である。世界から、日本人が、こんな風に描かれたら、どう思われるかと、考えると、少々、寒気がしてくる。同じように、仏教徒の描き方も、どうやら、印度から観た大乗仏教からの見方なのであろうか?それは、考えすぎだろうか?本場仕込みのベジタリアン・印度カレーを食べてみたくなったのは、どうした訳であろうか?



日経PC21、3月号「タブレット」特集を読む:

2013年01月29日 | 社会戯評
日経PC21、3月号「タブレット」特集を読む:
以前には、良く通勤の電車の中などで、この雑誌をよく読んだものである。社会人になった頃の海外関係の通信手段の主流は、テレックスと電報と相場が決まっていたものである。それが、FAXへ、更には、Window95が、世に出てきて以来、E-mailが、主流になってきて、やがて、Skypeやら、国際電話も、無料オンライン・ビデオ・チャット等に、移行しながら、ネット・ブックや、スマホ、タブレットへと変容し始めてきた。何せ、こちとらは、ISDNや、旧国際電電の私的な交際費の濫用問題を、未だに、忘れることのない、「周回遅れのユーザー」を自称・自認しているので、もっとも、いつも、騙されているので(?)車の買い換えにしても、薦められて買った後で、更に、燃費の、性能のより良い車が発売されるというジンクスがあるが、それ故に、「周回遅れ」で充分なのである。思えば、確かに、フィルム・スキャナーも、スキャジー接続も、USBも、Windowsのアップ・グレードに応じて、接続不全に陥ってしまったその繰り返しであった。全く以て、堪らない。何とか、再生利用方法は、無いものであろうか?投資した額は、今や、回収不能なのであろうか?アップ・グレードやバージョン・アップも結構であるが、いつも、消費者が置き去りにされては、堪らないものである。何が、カスタマー・フレンドリーだとか、CSRだ!それにしても、タブレットも、電子書籍端末も含めて、様々な種類のモノがあるので、その選択には、迷ってしまう。アプリのインターフェースを考えると、今度は、携帯電話もスマホにしないと、やはり、意味がないのか?いやはや、そんなことを感じている間にも、又、新機種が出てきてしまうのか?やはり、当面は、「周回遅れ」で、ゆくことにしようか?もっとも、そうこうしているうちに、又、Windowsが、新しくなってしまうかな?全く、悩ましいものである。Windowsも、自分の生きている内は、二桁には、ならないようにお願いしたいところである。誰か、画期的な技術で、埃に被った旧い機器類を再生可能にする技術を編み出してもらいたいものである。声なき声の「周回遅れ」のITユーザーより、切なるお願いです。



貿易収支の赤字と韓国、Car of the Year:

2013年01月28日 | 社会戯評
貿易収支の赤字と韓国、Car of the Year:
貿易収支の赤字幅が、オイル・ショック時以来、その幅が、著しく、この傾向が、今後も、続くことが懸念されていると、、、、、。その主たる原因としては、電力用の燃料の輸入コストが大幅に増加した反面、超円高による輸出の低迷であるそうである。何とも、摩訶不思議なことである。為替が、どちらにブレても、結局、メリットを議論することなく、ひたすら、デメリットの方ばかりが、強調されてしまう。円高になれば、単純に考えれば、輸出競争力が低下するのは、当たり前で、又、その逆も可なりであろうことは、自明の理である。そんな中、あの韓国で、トヨタのアメリカ製の輸入車(カムリ)が、カー・オブ・ザ・イヤーに初めて、選ばれたと云うではないか、販売努力や韓国現地ニーズ分析も勿論、高く評価されなければならないであろうが、米韓FTAによる輸入関税が、日韓での輸入関税に較べて、低く、且つ、アメ車・輸入車ということで、人気が出ているらしい。何とも、皮肉な現象である。国際貿易の内実は、今日、誠に、複雑・怪奇な様相である。組み立て素材の部品を日本から輸入して、或いは、多国籍で、輸入しても、一旦、製品に組み立てられて、中国から、輸出されれば、それは、統計学上、中国製となり、皮肉にも、中国の輸出実績なのである。そんな簡単な仕組みも知らずに、反日デモで、日系企業に投石しても、どれ程の中国人が、雇用され、それによって、どれ程の中国の輸入と輸出が影響を被るかと云うことは、実は、参加者の誰も考えたこともないし、又、教えようとすらもしないのであろう。それは、サムスンの携帯電話もそうであろうし、アメリカ・トヨタ車によるこの韓国のカー・オブ・ザ・イヤァー受賞も、同様であろう。更に敷衍すれば、それは、又、日本人による貿易収支の赤字の問題分析と見通しも、然りであろう。円高が進行すれば、輸出が不振となり、国内産業の空洞化が進行し、更に、貿易収支の赤字の恒常化が避けられないと、又、工場の海外移転に伴う海外からの配当収入等を含めた経常収支が、この先、黒字を維持するとも限らないとも、そして、その先には、日本国債の売りに伴う財政の不安が、見通されるとも。これでは、円高でも円安でも、どっちに転んでも、最悪のシナリオではないか?どうも、経済学者も含めて、経済政策の立案者にも、もはや信用がおけないような気がしてならない。このままの状態で推移すれば、遅かれ早かれ、経常収支も、悪化してきて、財政再建も何もかもうまく行かず、大変なことになると予想されていると。今でも記憶しているが、為替レートが、1ドル=308円から、200円台に、そして、100円を切る頃に、「日本沈没論」が人口に膾炙したものであるが、その当時、シャープは、90円になっても、大丈夫であると豪語していたが、それは、為替リスクを回避して、海外生産の比重を高め、第三国からの輸出で、為替リスクを回避した先手必勝の策だったのであろう。しかし、今や、逆に、会社の存続自身が、危うくなりつつあるのは、何とも、皮肉以外の何ものでもないであろう。
世の中は、今や、どんどん、予想を遙かに超えて、想定外な出来事が、日常化し始め、いつの間にか、それが、既成事実化されてしまっている。規制緩和と称されていたことが、必ずしも、「万事これで良し」という訳ではないことを、我々は、既に、過去の歴史から、知っている。だからといって、既得権にしがみついている旧主派が、良いという訳ではないことも、同時に又、知っている。簡単に、ヒト・モノ・カネが、国境を超えてしまっている現実がある限り、本当に、これまでの尺度で、貿易収支とか、国際収支などのモノサシで、未来が、測れるのであろうか?どうも、この頃、釈然としないのは、私ひとりであろうか?



無念の殉職死に思う:

2013年01月27日 | 社会戯評
無念の殉職死に思う:
退職後も、或いは、協力会社での第二の人生をこれまでの海外経験を生かすべく、アルジェリアに赴き、イスラム圏での過酷な労働条件の下で、日本のエネルギー政策の根幹を担ってきた同世代の人達の無惨な戦死の報に接し、複雑な思いを抱く。企業戦士(?)とは、良く言ったもので、考えてみれば、カントリー・リスクも、企業という組織が、個人の生命までを、守ってくれるモノではないし、ましてや、生命保険や駐在員保険等で、充分カバーされるモノでもないであろうことは、長い海外経験を有する亡くなった人達自身も、充分、分かり切ったことではあろう。それにしても、かなりのベテランで、海外畑の現地事情にも熟知した人達が、それなりに、個々人でも、勿論、組織としても、身辺の安全に対する配慮をしていたとは思うが、何とも、言葉を失うものである。海外駐在武官による情報の収集能力や体制の在り方を巡って、議論は、色々とあろうが、現実的に、よく考えてみれば、最終的には、自分で自分の身を最大限に、守るしかないのであろうか?家を一歩出れば、国の内でも、危ういし、ましてや、国を一歩出れば、更に、危険度が増すであろう事は、赤ん坊でも分かろう。ましてや、国が、どれ程のことをして、守ってくれるのであろうか?国策で送り出された満蒙青年開拓団を想い出す。アメリカの銃乱射事件で、問題になった銃規制議論の中で、「銃から、市民を、銃で、守る」という自己矛盾のように、これからの若い人達が、ますます、危険な海外には、出掛けずに、内向きになることや、所謂、アニマルスピリッツ(野心的意欲や血気)が萎縮してしまうことをおおいに懸念せざるを得ない。それにしても、65歳定年制やベテラン技術者の海外企業への流出の問題ではないが、随分、海外の一線で、こうしたベテラン連中が活躍して、日本の海外関連事業・エネルギー産業をその根幹から、支えているという現実があるということが、改めて、垣間見られたのは、皮肉であろう。どのようにして、我々、団塊の世代は、これまでの海外経験とノウハウを、若い世代に、伝えていったら良いのであろうか?淵田六郎さんの主亡き今のフェースブック・ページは、何を、今や、語ろうとしているのであろうか? ご冥福を祈るだけで、果たして、喜ぶのであろうか?海外事故死や病死や自死でも、テロによる戦死でも、その価は、どうなのであろう。いずれにせよ、この事件は、別の形での「日本の9.11」に等しい事件であろう。遠いNYの貿易センタービルの炎上を、テレビで生中継を観ていたときとは、明らかに、異なる。それは、日本人が、殺害されたと云うエモーショナルな心情的なものだけではなくて、明らかに、イスラム聖戦主義者が、今日、異教徒を狙って、BPのみならず、その下請けや協働企業に対して、無差別で、その国籍・人種を問わず、異教徒に対して、闘いを実施したに過ぎない。よい子であったかどうかは、全く、別問題なのであろう。すべてのイスラム教徒が、このイデオロギーに共鳴しているわけではないことは明白であるが、少なくとも、我々は、同じ名前で、別の「聖戦」というものを、その歴史の中で、ついこの間まで、やってきたことを忘れてはならない。日本人は、ジハードを、単純に、非難できる立場にあるのだろうか。今や、「特別な白人扱いの有色人種」は、岡本公三や奥平剛士らによるテルアビブ(ロッド)空港乱射事件の当時の日本人に対するイスラム圏の同情的な見方とは、全く、変わってしまったのかも知れない。もっとも、現地人で内通した者もいれば、逆に、命を救ってくれた者が現にいたことは、唯一の救いであると云えよう。それにしても、アフリカでも、どこでも、内なる城壁を巡らして、一大中国人街を不夜城の如く、創り出して、海外進出する国に対して、日本人は、過去、米国やブラジルへの日系移民でも、「現地化」を絶対的な命題として、紀元2600年の奉祝行事でも、海外移民日系二世や三世に対しても、明確なテーゼを示すことなく、過去に扱ったし、依然として、戦後の今でも、海外進出や、移民の問題で、充分な宗教的な議論も、文化的な議論をすることなく、只、天然資源等の経済的な利益のみで、対外的な貿易、経済活動のみを最優先させてきたし、実際、今も、しているのが、現実であろう。テロリストを非難すること自体は、簡単であろうが、こうした日本のこれまでのイスラム圏、アフリカへの対応姿勢、歴史認識も、もっと、反省し、新たな独自な戦略を建てることが、重要であろう。エネルギー・コストも、結局、将来は、こうした現地プラントのセキューリティー・リスクの肥大化が不可避であることを考慮すれば、当然、高騰する一方であろうから、(シェール・オイル開発に伴う地下水の汚染や地盤変動の影響は、長期的にないのであろうか?バラ色の価格低下論は、妥当なのであろうか?)長期的、且つ総合的なバランスのとれたエネルギー政策の再構築も検討されて然るべきであろう。単に、弔意を表すだけで、本当に、(戦死)殉職された方々の目指した崇高な志しが、果たして、遂げられるのであろうか?私には、決して、そう思えてはならない。
勇ましい特殊部隊の創出やら、海外駐在武官の増員とか、又ぞろ、自衛隊法の改正とか、即時的な対症療法も、必要ないとは云わないが、「大川周明」を引き合いにだすまでもないが、今日のアジア・アフリカ・イスラム圏の研究レベルは、明治期や当時のそれに較べて、実際、どうなのであろうか?もっと、底流に流れる「思想的流れ」を研究している日本人から、一向に声が、聞こえてこないが、どうしたことであろうか。戦後何十年経過しても、開戦当時のエネルギー政策と今のエネルギー政策は、その根本的な底流に於いて、一向に、解決されていることもなければ、むしろ、悪化していると云っても過言ではないのではなかろうか?日本は、第一次・第二次オイル・ショックを克服したと云われているものの、それでは、今回の謂わば、「遅れてきた日本の9.11」は、如何に、克服できるのであろうか?
ご冥福を祈ると同時に、考えさせられよう。



術後6ヶ月検診にゆく:

2013年01月26日 | 健康 医療
術後6ヶ月検診にゆく:
週二回の近所の整形外科でのリハビリとは別に、今日は、手術を受けた五反田のNTT関東病院での執刀医による六ヶ月検診である。レントゲンの撮影結果では、特に、変化と以上は認められない。リハビリでの運動の成果が徐々に出てきたのか、両足の指先に、感覚が戻ってきて、やっと、指先で、グー・チョキ・パーが、完全ではないが、(チョキが、実際、難しい)一応、出来るまでに回復してきた。併せて、女房殿に、お願いして、足裏の感覚の回復を目指して、足裏マッサージと指先を一本一本、側面と指の付け根を、ギュッ、ギュッとばかりに、押して貰い、且つ、脚の指の間に手を入れて貰い、その窄まった感覚を拡げる作業をして貰うことにした。とにかく、その都度、ビリビリと足裏全体に、電気が走り、神経系統が、驚いたように、その脳への刺激の伝達ネットワークを、回復し始めることになったようである。象の足裏のように、感覚が無かったものが、徐々にではあるが、指先から、ビリビリと、足裏の中心へ、そして、踵へと感覚が、戻ってくるのが、分かる。やや熱めの風呂での自分で行なう足裏マッサージも、良さそうである。とにかく、腰部の神経が、太く回復してきつつある以上、早く、神経系ネットワークの正常なリセットを、期待したいところである。風呂上がりのイボイボの突起のあるバランス・パッドも、結構、バランス感覚だけで無くて、足裏にも刺激になります。次回は、いよいよ、6ヶ月後の一年検診である。それまでには、更に、回復することを期待したいところである。



CM、「遊びの文化を創造する」に考える:天野祐吉のCM天気図

2013年01月25日 | 社会戯評
CM、「遊びの文化を創造する」に考える:天野祐吉のCM天気図
最近では、流石に、消費者金融のCMも、やや、陰を潜めてきているように感じられる一方で、全く、不愉快なCMといえば、パチンコとケータイ無料ゲームのCMであろうか。思えば、学生時代、友人に連れられて、パチンコを1回だけやったことがあるが、当時は、今にして思えば、手で、パチンコ玉を穴から、陥れるタイプではなかったかと記憶しているが、、、、。
CMは、実に、世相を反映していて、見る側としては、色々なことを考えさせてくれる。もっとも、制作する立場の側になると、これは、大変な仕事であるとも思うが。天野祐吉によるこのコラムは、実に、正鵠を射ていて、興味深く、いつも読ませてもらっている。確かに、暇のないところから、文化も生まれてはこないし、文化人というものも、セカセカしていては、生まれてくることはないであろうことは、漠として、そうとも思う。パチンコが、日本文化であるかどうかは、判断がつかないところであるが、確かに、他の国では、パチンコという遊戯自体、一向に、根付いているという話は聞いたことがない。あんなに、ギャンブル好きな中国人でも、パチンコに、夢中になったということは、ついぞ、聞いたことがないし、ラスベガスのカジノにも、見当たらない。天野に言わせると、最近の遊びは、やたら、セカセカしたモノが多くて、しかも、カネの掛かるモノが、目立つという。確かに、「自分で、遊んでいるというよりは、むしろ、遊ばれている、或いは、更に言ってしまえば、機械に、それとも、その背後にいるそれを繰る人間によって、弄ばれ、カネを貢いでいる」と言っても、過言ではないのかも知れない。コンプガチャで問題になった射幸心とやらを煽るゲームのプログラミング、或いは、パチンコ・ギャンブル中毒と称する病気(?)、それに較べると、江戸の街の人達は、粋で、寄席でも、しびれるような退屈さを感じる藝人がいたそうである。「遊びの文化を創造する」等とは、「べらぼうめぇー、そんなことは、言わせねーぞ」とでも、言われてしまいそうである。どこに、「主体」はあるのであろうか?遊び心のない国は、いくら、カネがあっても、「文化貧乏」だねぇーとだけは、言われたくありませんね。監視カメラの下で、プログラミングされた機械の中で、無料恋愛ゲームやパチンコは、絶対に、子供達には、やらせたくないですね!「文化貧乏は、ヤだねぇ~!」、考えさせられるコラムである。



Eテレ、「日本人は何を考えてきたのか」第11回:近代を超えて、西田幾多郎と京都学派

2013年01月24日 | 映画・テレビ批評
Eテレ、「日本人は何を考えてきたのか」第11回:近代を超えて、西田幾多郎と京都学派
最近のNHK教育テレビは、なかなか、面白く、興味深い番組が多くなってきたような気がする。いつもは、裏番組のミスター・サンデーを観ているのであるが、何とも、ノリだけの宮根では、一寸、荷が重すぎるのではないだろうかと、最近では思うが、これまで、幾つかの興味深い課題を、見逃しているが、アーカイブで、視聴したいところである。とりわけ、今回は、福岡伸一をナビゲーターに据えて、その動的平衡の生物科学的観点から、西田幾多郎とその京都学派の系図の中で、日本哲学を、考察しながら、戦争に於ける哲学者による「近代の超克」という課題に迫ろうとするなかなか意欲的な番組である。最新生命科学の考え方の中に、哲学的な考え方と共通する概念が、在る事自体にも、驚かされるが、よくよく、考えてみれば、哲学も、生命科学の世界観も、そもそもが、「人間とは何ぞや」と言う観点から出発していることを考えれば、確かに、福岡の云うように、驚くべきことではないのかも知れない。それにしても、西田幾多郎という人物の周囲には、随分と、今日でも、日本の思想界に、影響を及ぼした人物が、その友人、弟子や孫弟子達という形で、輩出したものである。名前を挙げるのに、暇がないほどである。鈴木大拙、務台理作、谷川徹三、三木 清、高坂正顕、戸坂 潤、西谷啓哲、等、とりわけ、この番組の中で、取り上げられた「大東亜共栄圏」との思想的な、所謂、「近代の超克」という課題は、もう一度、今日的にも、アジア歴史認識問題とも絡んで、考え直してみなければならない内容であろう。それは、只単に、安田與重郎に源流を発するところの日本浪漫派の系譜と、符牒を併せるが如く、亀井勝一郎、林 房雄、小林秀雄、河上徹太郎、中村光夫、等とともに、理論的な思想的な裏付けと云うよりも、むしろ、現実の思想弾圧と冷徹な戦闘が行われた戦争という枠組みの中に、埋没、政治的に利用されることになってしまったという無念と皮肉。今日、新しい国づくりと称せられる理論的な(哲学的とは、言い難いけれど、、、、)裏付けは、一体全体、日本の哲学界・思想界の中で、どのようなことが、議論されているのであろうか?今日、そういう潮流なり、底流は、どのようび形作られようとしているのか?経済政策というものは、ある程度、分かりやすい。(もっとも、この20年、機能不全に陥ってしまっていることも事実ではあるが、)真剣に、思想界での底流は、ナショナリズムという熱しやすいマグマは、どのような方向へ、向かおうとしているのか?日本人は、何を考え、今や、何を、考えようとしていないのか?何に対して、思考停止を迫られているのか?こういう硬派の番組が、少なくなってしまったことは、残念であるが、絶滅危惧種の番組が、視聴率競争とは別の形で、生き延びてもらうことを願ってやまない。竹内 好の「近代の超克」を、今再び、読み直してみようか、、、、、。

http://www.nhk.or.jp/nihonjin/backnumber/index.html



絵本、「小さな島」を待合室で読む:

2013年01月23日 | 書評・絵本
絵本、「小さな島」を待合室で読む:
例によって、出たとこ勝負の、行き当たりばったりの絵本読みである。しかも、それは、本屋の立ち読みだったり、図書館から、借りてきたり、今回は、何と、歯石を除去に通う近所の歯科医院の待合室に置いてあった子供専用の絵本からである。海の中に、ぽっかりと浮かぶように描かれた「小さな島」、原題は、ゴールデン・マクドナルドというペン・ネームのマーガレット・ワイズ・ブラウンなる作者による、The Little island (1946年) 、イラストは、レナード・ワイスガードにより、訳は、谷川俊太郎である。このイラストを描いている人物は、そう言えば、年末に、ぶらり、本屋で、何気なく立ち読みをしたところの絵本、「たいせつなこと」(The Important Book)(1949年)の挿絵を書いていた人物と同じであることを思いだした。アメリカという国は、戦後すぐにでも、こんな絵本を出版して、親が子供に、ソファーやベッドで読み聞かせていたのかと想像するだけで、驚いてしまう。約70年という時間を経ても、絵本というモノは、色あせないものである。そもそも、Golden McDonald なるペン・ネームは、やはり、あのハンバーガーの黄金色に輝くアーチから、どういう意味合いで、採用したのであろうか?何故か、理由を知りたいものである。何ともユーモアがあって、面白い。小さな黒猫や魚や、小さな島にすら、お喋りをさせてしまうという手法により、海と島(世界)と、そこに依存して現に生活している全ての生き物たちに、その自然界のリンクと循環を、やさしく、簡潔に、子供達にも、(大人になりきれない子供・大人や、こどものまま大きくなってしまった大人)にも、短い言葉で、その挿絵と共に、示唆・想像させてゆく。やはり、絵本と挿絵とか、イラスト画というものは、不可分な関係性を有するモノで、文章化された言葉だけでなく、行間だけに止まらず、余白に込められた絵を通じて、何か、「絵本の中に、息づいている何ものか」が、想像力(心の創造性を培養する力)と共に、読み手である人間(親など)から、聞き手である(子供達)、或いは、自分自身へと、 作者になり替わって、訴えかけてくるような気がしてならない。それは、聞き手の中に、そういうものを育て上げる免疫力や薬になるのかも知れない。なかなか、哲学的な世界観を有する意味合いもあって、次の診察の待合の間には、少し早めに行って、もう一度、読み返してみることにしましょう。



「マハティールのLook Eastは今」に考える:

2013年01月22日 | 社会戯評
「マハティールのLook Eastは今」に考える:
今では、我が国は、ルック・イーストでも、同じ、「見習え」という意味合いに於いてでも、別の意味あいで、即ち、「失敗の反面教師」として、見習われることになってしまったようである。何とも淋しい限りである。マハティールも、1925年生まれであるから、今年は、満で、89歳になることになるのか?既に、日本という戦後の成功モデルは、もはや、そのブランド力が、色あせてしまったことに我々は改めて、思いを致さなければならないのかも知れない。今日、他国は、日本の成功ではなくて、「過ち」を繰り返さないように、学んでいることになる。むしろ、旧い社会システムと労働倫理観が残っている韓国の方が、日本に較べて、学ぶべき点が多いとさえ、彼は、公言して憚らない。今や、イーストとは、日本一国ではなくて、韓国、台湾、中国も含めた成長著しいアジアの他の国々に、その範囲が拡大されつつあるようである。東アジア経済会議(EAEC)構想で、米国とは、一線を画した彼は、確かに、今日の状況下での日本による西洋式のグローバリゼーションというシステムの盲目的な受容と、その結果としての失敗を見習えという論拠は、決して、間違ってはいないかも知れない。もっとも、中国は、覇権主義でも、好戦的ではなく、脅威ではないという自説の主張には、若干、疑問を呈せざるを得ないが、、、、、、、。歳をとったせいなのか、どうかは、分からぬが、民主主義に対する独自の考え方にも、そのマレーシアという多民族国家の融和という観点からの独自の解釈が、ミャンマーや、タイ等と同様に、色濃く、未だに、反映されていることは、否めないであろう。確かに、この老人の言には、現実的に、これまで、マレーシア連邦という他民族の国を曲がりなりにも、豊かに、発展させてきたという自信と実績から、こうした独自の物言いが可能なのであろうとも推測される。残念乍ら、今日の我が国は、決められない政治とか、失われた20年とか、随分と、外国から、様々な物言いをされるような状態であるが、やはり、日本という国は、基本的に、米国と価値観を共有しつつも、こうしたアジアの旧い友人諸国達とのお付き合いを、しっかりと、反面教師として、今や、視られながらも、きちんと、人的関係も含めて、維持・強化させていかなければならないと、その主張から、感じざるを得ない。タイのプミポン国王も含めて、アジアの旧指導者達も、既に、余輩を重ねている以上、日本も「新しい価値観」のもと、「新たな海図」を、人的なパイプを通じて、しっかりと作り上げなければ、いけない時期に、差し掛かっていると、その発言に接して、そう感じられてならない。



正月料理としての鯉料理:

2013年01月21日 | 男の手料理・食
正月料理としての鯉料理:
海に面していない信州では、冬場のタンパク質不足を補うために、養殖鯉をよく、食する。我が家でも、「活力鍋」で、料理することを学んでからと云うもの、鯉の甘露煮や鯉こくは、正月の料理に欠かせないモノになった。何せ、あの難敵の小骨が、鮭缶の中骨のように、柔らかく、問題なく、食べられるようになったからである。大晦日の東京からの道路は、下路も高速道路も空いていて、全く、渋滞することもなく、スイスイと、小諸まで来ることが出来た。四半世紀も前の6時間とか、掛かったことを考えると、随分と早くなったものである。従って、途中で、スーパーで、材料を仕入れることにしたが、時間帯によっては、生鮮食料品は、ギリギリで、大幅値引きが期待できそうである。しかし、天気次第では、道路が凍っていたりして、予期せぬ事態にもなりかねない。取りあえず、最低限のものを、まずは、買うことに決した。結局、夕方、再び、足りない商品を買い出しに行ったところ、何と、7-8切れもありそうな内蔵付きの鯉のパックが、何と、900円引の処分価格で販売されていたので、まずは、平均原価を下げるべく、ゲットし、その場を離れようとすると、今度は、その横で、値札を更に、値下げして、1200円引(何と75%値引き!)を貼っているではないか、、、、、、、、、。早速、せこく、これに取り替えて、圧倒的な平均原価削減に成功した。鯉やお店には、申し訳ないが、主夫パワーの勝利である。たまには、こういうこともなければ、面白くない。もう、来年こそは、この時間帯が、狙い目だろう!。とにかく、主婦の買い方は、すごいパワーであり、その生活力には圧倒されてしまう。結局、内臓はもちろんのこと、ややこしい小骨も、太い骨までも、柔らかく、ほとんど食べられて、お陰様で、栄養満点、思う存分、鯉料理を堪能出来ました。大変、美味しゅう御座いました!大晦日の特価処分セールに、大感謝です。早過ぎても駄目、ギリギリ、遅すぎてもなくなってしまうから駄目、この絶妙なタイミングの駆け引きが、難しいそうである。勉強になりました。買い物のやり方にも、結構、様々なノウハウが、あるようです。



森と湖の国、フィンランド・デザイン展を歩く:

2013年01月20日 | 伝統工芸・展示会
森と湖の国、フィンランド・デザイン展を歩く:
アートディレクター・太田英茂の仕事展を、長野の信濃美術館で、観る予定をしていたのにも関わらず、リハビリやらで、残念乍ら、見逃してしまった。能力とは別に、仮に、もう一度、職業を選べるのであれば、工業デザイナーや建築デザイナーなどは、興味深い職業であると、常々思っている。しかしながら、これを生業にして、30年も、40年も、クライアントに恵まれて、仕事をし続けるには、やはり、並々ならぬ才能と、泉の如く迸る尽きぬアイディアがなければ、なかなか、その業界で、成功も覚束ないであろう。フィンランドという国は、実際に、行ったことも、仕事の接点があった訳でもないが、この展示に著されている「生活の中の美」というものは、何か、日本人の伝統的なごく自然な生活美とも、相通ずるモノがあるように感じられてならない。日本人は、どちらかと言えば、土の焼き物である陶器の方に、ガラスよりも、興味が赴きがちではあるが、西洋的な場合には、成る程、ガラスなのかとも思い知らされる。そう言えば、子供の頃に、灰皿とか、花瓶とかも、この展示の中でみられたような「似たもの」が、我が家にもあったような記憶がある。生活美と云っても、せいぜいが、今日では、箸置きや、ランチョン・マットとか、ワイン・グラスか、ウィスキー・グラスか、或いは、我が家の場合には、日本酒の冷や酒用のグラスか、せいぜい、シャンパン・グラス(いや、スパークリング・ワイン・グラス止まり)くらいだろうか?流石に、この展示の中に、散見されたような素晴らしいピッチャーや、ボウル、タンブラー、ウォッカ・グラス、クリスタル・グラス、泡ガラス製の花瓶、雷鳥やオーロラのようなオブジェ、何とも表現出来ぬデザインのランプ等、尽きぬ人間のデザインに対する考え方が、改めて、観てとれて、驚かされる。もっとも、下司の勘ぐりで、「きっと、洗う時には、手が震えて仕方ないよね!」と山の神に、皮肉っぽく、目配せしてしまったが、、、、、、。それにしても、照明デザイナーが、きっと、この展示の裏では、上から、下から、斜めからと、色とりどりの陰翳と光と陰の交差とコンビネーションを、極限まで、構想させていたのではないかと思われる。自宅では、そこまでは、電気代の節約の大義名分もあり、壁の飾り棚についている照明も、消されてしまっているが、今日ぐらいは、点灯してあげることにしようか?グラスの光り輝き具合とは、やはり、効果的な照明がされなければ、うまく、その輝かしい個性を愉しめないのかも知れない。それにしても、レース・グラスという微細なレースのようなヒビが入った繊細な、今にも、触れると割れそうなグラスは、芸術的以外の何ものでもないとため息が出てしまう。デザイン性が、高いだけでなく、実用的で、しかも、収納性に富む機能性も、同時に、持ち合わせていることは、フィンランドという国の特徴を、想い起こさせるに充分たるモノがあろう。今晩は、以前、知らずに、購入した中国製の江戸切り子グラスで、(本物の江戸切り子ではなくて、中国製である)ビールでも、仕方なく、飲むとしようか?いやいや、やはり、この感動を味わうためには、クリスタル・ガラスのショット・グラスで、大吟醸でしょうか?くれぐれも、洗うときには、手が滑らないことを願いつつ、、、、、、この生活美の感動を忘れぬように、、、、、と。
サントリー美術館HP:
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2012_06/display.html


Dr. Krugman によるAbenomics評を考える:

2013年01月19日 | 社会戯評
Dr. Krugman によるAbenomics評を考える:
米国の左派経済学者と評されるクルーグマン教授によるアベノミクス評が、(もっとも、最近では、何が、左派で、右派なのかも、よくその基準が分からなくなってきているのが、実情ではあるが、、、、、、)NYタイムスのコラム(1月14日付け)に出ている。一寸、気になるので、原文を読んでみた。(朝日新聞でも、定期的に、翻訳をコラムに、載せている)
最近では、デフレの脱却が、或いは、行き過ぎた円高の為替相場の是正が、叫ばれて久しいが、一向に、改善される目安は、これまでなかった。民主党政権時代にも、ミスター円と呼ばれた榊原某等にも、期待してみたが、結局、政権が交代してみると、既に、マスコミにも、全くといって良いほど、露出することはなくなってしまった。もっとも、経済マスメディアというものは、全く以て、いい加減であるが、、、、、。昔の日経のように「敗軍の将、兵を語る」でも、再連載して貰いたいところである。それにしても、臆面も無く、又しても、小泉時代の竹中平蔵等の出番であるのか?確かに、「毒を以て、毒を制する」程でなければ、過去の累積する金融財政問題も、今日的なデフレも為替相場も、経済の停滞、再成長戦略への布石も、確かに、難しいのかも知れない。既に、様々なオーソドックスな対策は、まるで、「ガダルカナル作戦の失敗例」を引くまでも無く、小出し、小出しの小手先だけの対症療法的対策では、一向に、埓があかないことは、自明の理であろう。為替レートや株式相場にしても、市場の「心理的な期待」という影響からか、(実体経済を反映していないという評価もあろうが、、、、もっとも、日本人というものは、いつもそうであるが、とりわけ、マスコミや学者は、万事が、理論的な工程表通り、Road map通りにゆかないと気が済まない論調が、多いのも、事実であろう。)一時的に、90円や1万円台を突破したりしているのは、又しても、「期待の先食い」なのであろうか?むしろ、経済的な実体を反映していれば、そんなことは、実際、あり得ないことであることは、誰の眼をみても明かではあるが、実際、一時的にせよ、そういう流れが出ると謂うことは、決して、絶望的になる必要はないであろうことは、逆説的にせよ、この事実が教えてくれている。過度な楽天過ぎる期待を持つことや、ましてや、その真逆な余りに悲観的な絶望的な破滅終末論を、抱く必要も無かろう。やや、このところ、欧州に端を発するところの危機的状況からの大惨事の兆候であるが如き危機感を煽り立てるような議論をする学者は静かになりつつあるが、確かに、教授の謂うように、まだ、そんな危機は、未だに、訪れてはいないのは事実である。(もっとも、やってきてしまったら、大変なことになるのであるが、、、、)インフレ・ターゲットも緩やかなインフレも、この「毒を以て、毒を制する」、「良薬は口に苦し」という劇薬という「毒」は、一体、いつの時点から、何を基準に、Detox したらよいのであろうか?口に苦い良薬は、いつ、如何なる時に、どのように、効いてくるのであろうか?本当に、世界で、初めて、デフレを克服する初めの国になるのであろうか?じっくりとみておきたいところである。

(原文)NY Times HP:
http://www.nytimes.com/2013/01/14/opinion/krugman-japan-steps-out.html?_r=0


マツコ・デラックスの「五時に夢中」(言葉のチカラ)を視る:

2013年01月18日 | 社会戯評
マツコ・デラックスの「五時に夢中」(言葉のチカラ)を視る:
去年の2月20日の「五時に夢中」という番組のYou Tubeを、何人かの友人達が、最近、FBに引用していたので、偶然、視ることになった。何と、コラムニストであるそうであり、「小泉進次郎の言葉のチカラ」と題する夕刊フジの記事を、痛烈に、批判していたものである。「血反吐が出るほど、大嫌いである」そうである。なかなか、その「言葉のチカラ」に関するその論拠が、実に、面白いし、宜しいではないか。こちらの方が、フジからの圧力は大丈夫かとも心配するくらいの毒舌と謂うよりも正論、快哉と叫びたる代物である。まれに、夜遅くなったときに、「有吉・マツコの怒り新党」を視ることがあるが、なかなか、その毒舌の視点に面白いものがある。必ずしも、毒舌であるとは、思えないものもあるが、今や、テレビは、権力者と真っ向から、対峙する論客がいなくなってしまったようである。むしろ、タケシやマツコのように、毒舌というオブラートでしか、或いは、茶化すことでしか、反権力の狼煙を上げるしか出来なくなってしまったのだろうか?言霊の意味も分からぬような芸能人紛いのハーフや帰国子女上がりの局アナや、インタビューでも、逆キレされて、謝ったり、反論もせずにいるようなアナウンサーやアイドル出身のキャスターであったり、今や、中立・公正という無味無臭の報道の名の下に、どんどん、組織防衛中心主義の事勿れ主義やジャーナリズム・報道の質の劣化が、始まってはいないだろうか?緩やかなソフト・ファシズムは、まるで、「茹で蛙」の譬えと同じように、我々の意識の中に、「耳心地の良い言葉」と「切れの良い、分かりやすい言辞」で、知らぬ間に、しみ込んできて、何となく漫然と視ている内に、自由を失うような危機的な状況に、陥ってしまうかも知れない。オレオレ詐欺ばかりでなく、こうした心理的なメカニズムに対抗する為には、どのように、騙されない、より強い意思と鋭い鷹のような目と耳を持って、視ていけばよいのであろうか?それにしても、ネットで、視れなかったテレビの番組を、巻き戻しのように、視れるようになるとは、なかなか、テレビにとっては、手強い存在であろう。野坂昭如や若松孝二や大島渚だったら、どのように、コメントするであろうか?



アップル・パイを作ってみた:

2013年01月17日 | 男の手料理・食
アップル・パイを作ってみた:
料理というモノは、面白いものである。とりわけ、男の料理は、私にとっては、ものづくりに共通するところがあり、しかも、気分転換になる上に、実用的である。自分で、或いは、家族で、食べれば良いだけのことである。失敗は、ご愛敬であり、又、次回に、修正すれば良い。クレームの原因と対策・防止の要領である。材料は、原料であり、レシピーは、製造工程表と規格である。作り方の手順と品質管理は、HACCP(Hazardous Analysis of Critical Control Point)の要領通りである。東京の台所は、2世帯住宅であるから、どこに、そんな道具が収納されているのか、皆目、見当が付かない。御台所殿が、取り仕切っている以上、下手に、口を挟めない不可侵の「聖域」である。従って、かなりのハンディキャップを背負いながらも、我が老犬殿用に、戴いてきたところの林檎を、まずは、コンポートに、料理するところから始めることにした。本当は、マイ・ナイフ、とりわけ、ペティ-・ナイフが、欲しいところであるが、なかなか、お上からの許認可が、もう、何年もの間、降りてこない。予算の原資が足りない訳では、決してない。既存の道具で十分、活用可能であると云う理由からのみである。買い置きの冷凍パイ生地を、解凍しながら、コンポートを、今回は、活力フライパンで、作ってみることにした。若干、型崩れが起きるリスクを知りながら、ジャムに、刻めば、パイのフィリングにもあるだろうという目論見で、、、、、、、、、。冬場では、なかなか、夏場みたいに、うまく、解凍できない。とりわけ、端が、固く、一寸、乾燥気味であるのは、難である。
電子オーブン・レンジも、使い慣れたものとは、異なるので、良く使い方が、分からない。しかも、肝心の天板が、見つからない。予熱の事前設定も、よく、機械の操作方法が、分からない。結局、そうこうしているうちに、冷凍パイ生地が、柔らかくなってしまった。仕方なしに、コンポートを何切れか、刻んで、ジャム状にして、乗せた後に、端を、フォークで、押しつけて、上部に切れ目を入れてから、水溶き卵黄液を、塗る算段にとりかかる。クッキング・シートの上に、乗せてから、既に、試作で、試してみた小ぶりのソーセージ・パイでの時間と温度を基にして、加熱にかかる。取りあえず、200度、12-15分くらいで、膨らみと焼き色との様子を見ながら、追加調整することにした。何せ、余りに、ハンディが、多すぎるから、、、、、、、。やはり、ものづくりは、段取り次第である。見栄えは、余り良くないが、味は、結構、よいので、まずは、自画自讃である。これなら、カスタード・クリームを入れてみたら、もっと、味は、良くなるかも知れないし、焼き上がり後に、食べるときには、生クリームとアイスクリームを添えたら、更に、仕上がりが、良くなるかも知れないなどと、勝手に、妄想を膨らませることになった。これで、瓶の底に残っていたラム酒もやっと、無くなったので、きれいに処分できました。網目状に、生地を切って、クロスさせて乗せるのも、次回は、やってみようかとも思う次第である。ブッシュ・ド・ノエルと、アップル・パイが、出来れば、取りあえず、ケーキは、何とか、恰好がつくことになりそうである。