小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

一寸気になる老男優達

2012年01月31日 | 映画・テレビ批評
往年の銀幕のスター達が、もうずいぶんと、鬼籍に入ってしまった。たまたま、新聞を読んでいたら、山崎努(75歳)、高倉健(80歳)、大滝秀治(86歳)のインタビューが、目に止まった。黒澤明監督に抜擢されて、「天国と地獄」のうす暗い部屋から、高台にある屋敷を見上げる青年の誘拐犯役や、その後の「必殺仕置き人」、伊丹十三監督作品の主人公など、今や、演技の鬼と呼ばれる存在になったが、俳優という仕事は、「積み重ねたら駄目、引きずったら、駄目で、一つの仕事を終えたら、失敗を恐れずに、いつも、ゼロから始めないと、、、、」今や、気になる老男優の一人になっている。「はやぶさ、遙かなる帰還」も、見ておかないと、、、、、、と思い始めた。今年の夏に公開予定されている「あなたへ」の高倉健は、これが、最期に、なるのであろうか?自分が、台本を読んで、つまらない台詞だと思ったという「久しぶりにきれいな海を見た」を、大先輩の大滝秀治が、ポツリと本番で呟くのを聞いて、「言葉の深さに気づかされた」と言っている。そして、何十回となく読んだ台本の台詞も、大滝秀治が、只一言、本番で、言った短い台詞言葉に、「懸命に生きていたからこそ、この言葉が出たんだ。大滝さんが喋ると、一字も変えていないのに、その言葉の意味が出る。まだまだ、一生懸命やろうと思った。」と、激白している。これまた、「あなたへ」も、ますます、期待が高まり、見なければいけなくなってきた。どうやら、最近では、「男が惚れる男優」が、少なくなってきたようである。そんな気がしてならない。言葉の意味や、重みを演技で、表現できる俳優、仲代達矢も、高倉健より、1歳若いが、、、、、、これらの老男優達が、一寸気になり始めた。



結婚報告を戴く

2012年01月30日 | 社会戯評
どうしても、年齢からくるせいだろうか、両親の介護や、つれ合いとの惜別とか、あまり、明るくない通知ばかりが、年末には、来状するが、年賀葉書には、明るい結婚報告や、孫の誕生の知らせなどが、載せられているのには、こちらも、嬉しくなる。とりわけ、若いであろうと思われる二人が、嬉しそうに、写真に納まっていたり、お腹が大きくなって、自分で、相撲取りのようであるといった報告写真入りの葉書には、思わず、微笑んでしまう。何とも、気持ちが暗くなるような話題よりは、ずっと、明るい話題の方が良い。昨今は、なかなか、情勢が厳しくなり、結婚する環境も難しいが、考えてみれば、いつの時代も、これが、ベストだという最適な環境など、あるはずはないし、ずっと、待っていても来るはずもない。そんな二人の結婚を決めたその意思と決断に、拍手喝采してあげ、大いに、応援してあげたい気分になる。今後は、色々な困難を乗り越えて、二人三脚で、頑張っていってもらいたいものである。子供が生まれれば、生まれたで、又、心配し、長ずれば長じたで、又、心配し、煩悩に、悩まされるのが、人間である。どちらにしても、死ぬまで、心配続きの人生であろう。写真に写った幸せそうな二人の顔が、いつまでも、見ていたいものである。そう願わずにはいられない今日のご時世である。終戦の年の年賀葉書には、何と書かれていたのであろうか?良いお年を!とでも、書かれていたのであろうか?



グーテンベルク・リヒター則を考える

2012年01月29日 | 社会戯評
東大地震研究所の発表によれば、M7クラスの巨大直下型地震が、東京を襲う確率は、今後4年以内に、70%だそうである。これまでの30年以内の予想を、大きく、東日本大震災以降の中小地震の発生データの分析から、修正を加えたと、、、、。マグニチュードが、小さい程、地震はたくさん起きやすく、大きくなる程、少なくなるという経験則があり、これを、「グーテンベルク・リヒターの法則」と呼ばれていると、M3の地震は、年に1万回(1時間に1回)、M4の地震は、年に千回、(1日に3回)、M5では、年に百回(3日に1回)、M6は、年に十回(1ヶ月に1回)程度となることが、知られているという。これに基づいて、M7クラスの地震が、発生する確率が、70%以上になるまでの時間は、4年が目安になると、、、、、、。これまで、30年以内と言われていたのに、4年以内ということになると、何とも、切迫感が、大いに、異なる。色々な学説によれば、このグーテンベルク・リヒター則も、ただ、単なるプレートの摩擦の数式に過ぎないとも、言われていたり、「地震の生じる頻度」は、「エネルギーの2乗に逆比例する」、となるとエネルギーが10倍大きい地震は100回に一回しか起きない、というわけであるそうだ。マグニチュードが1違うと地震のエネルギーは30倍違うので、起きる回数はずっと減ってくると。従って、こういう数字が、導き出されてくるらしい。もっとも、諸説あって、これは、単なる「事後予知」であって、「事前予知」や、「地震のメカニズム」には、一向に、繋がらないという冷静な見方もある。そうはいっても、「溺れる者は、藁をもつかむ」ではないが、備えるに越したことはない。NZの地震でも、1年後に、又、大きな地震が起きたように、いつ又、再び、今度は、直下型の大地震が起きるとも、限らないのは確かである。金融工学ではないが、複雑な数式で、事前予知が、出来ないモノかと、散歩の時、道路の亀裂が、日毎に、大きくなるのを見るたびに、そう思わざるを得ない。結局、地震がいつ、起きても良いように、準備しておかなければならないと言うことか!そんなことを思っていた矢先に、今度は、新たな震源の地震が、グラッと来た。

http://outreach.eri.u-tokyo.ac.jp/eqvolc/201103_tohoku/shutoseis/

新しい街創りと復興

2012年01月28日 | 社会戯評
後藤新平等の関東大震災時での新しい街創りでの壮大な試みに対して、今時の災害後の復興に於ける街創りの戦略的な方向性は、どのようなものなのであろうか?最新のハイテク技術を駆使した新しい世界に冠たるショーケースを、果たして、提示出来るに耐えうる価値があるのであろうか?それとも、せいぜい、高台に集団移転する程度のものなのであろうか?何とも、関東大震災時に、較べても、現代のテクノクラートや最先端技術を研究している学者達の活躍の場や姿が、未だに、見えてこない。せいぜい、NPOによる新たなそれらの間隙を埋める活躍だけである。自然との共生、海との共生、これまでのコミュニティーの良さを温存しつつ、新しいコミュニティー作りの実験など、東北のみならず、予想される今後の東南海大地震をも、それこそ想定したような新たな防災・街創りの方向性が、世界中からの全ての英知を集めてでも、国際コンペではないが、どうも、それすら、見えてこない。むろん、生活の糧となる職・雇用の確保と住環境の整備や、成長戦略の具体的な提示がなければ、これも、絵に描いた餅になろうが、いずれは、時間の経過とともに、又、過去の例を見るまでもなく、住民が、海沿いの同じ場所に、同じように、舞い戻ってくることであろう。時間との必然的な闘いもあって、どういう方向性が、望ましいのか?何とも、歯がゆい限りである。それは、いつになったら、実現可能で、見られるのであろうか。その時は、復興したといえるのであろうか。神戸淡路震災からも、既に、17年が経過してしまったし、まもなく、東日本大震災からも、1年が、来ようとしている。



美しい日本語の歌

2012年01月27日 | 映画・テレビ批評
美しいものに対する日本浪漫派の保田與重郎、亀井勝一郎、伊藤静雄、蓮田善明、三島由紀夫、等、或いは、拡げて、川端康成を、必ずしも、文化論的に、擁護する立場ではないが、どうも、歳とともに、最近は、「美しい日本語」が、気になりかけてきた。とりわけ、最近では、新党結成に、忙しくて、「くだらない作品が多くて、読むに堪えないので、芥川賞の選考委員を辞任する」とした石原慎太郎ではないが、文学もさることながら、歌の世界でも、どうも、今ひとつ、美しい日本語が、使われた歌がないように、感じられる。先日、テレビの番組で、由紀さおりが、「自分は、80歳になっても、美しい日本語の歌い手で、あり続けたい。」と言っていたのには、大いに、共感するモノがあった。姉の安田祥子とともに、童謡を歌い続けてきたことからも分かるように、確かに、美しい日本語を歌い継ぐ歌手が、最近では、少なくなり、絶滅危惧種に、なりつつあるように思われてならない。赤ん坊でも、生まれない限り、童謡や絵本も、最近では、聴いたり、歌ったり、或いは、読んだりもしなくなってしまったが、身勝手な私小説風な歌ばかりで、しかも、リズムも、やたら、自然な呼吸に逆らうようなついてゆけないリズム感で、さっぱり、何を言っているのか、何を訴えたいのかが分からないような歌が、多くなってきているような気がするのは、私一人だけの感慨だろうか?何年に1回でも良いから、大きなヒットではなくてもよいから、美しい日本語を歌い継ぐ歌手が、生き残れるような歌が、出てきてもらいものである。



版画五人展を覗く

2012年01月26日 | 社会戯評
都会で、便利だと思うことに、展覧会などが、選り取り見取りで、観られることがある。東山魁夷・平山郁夫・加山又造・片岡球子・小倉遊亀の五人の版画展が、丸善の東京本店であったので、東京駅に出たついでに、覗いてみた。最近では、都会のあちこちが、都市の再開発で、一寸、行かないと、驚くほど、変貌を遂げていて、嘗ては、毎日通った通りも今では、全く、趣を異にして、別の顔を見せていて、戸惑ってしまう程である。ましてや、新しいビルの名前が、カタカナ表示になっていようモノなら、どうも、勝手が違ってしまう。絵画と違って、版画には、いろんな種類があるのは、分かっているが、せいぜい、素人の私にとっては、木版画とか、銅版画、リトグラフ、シルクスクリーン、エッチング程度止まりだろうか、名だたる画家達の絵画も良いが、又、それらの版画も、なかなか、趣があって、とても興味深いものがある。小さな額のものから、大きなものまで、色彩の鮮やかなものから、墨絵を思わせる幽玄なものまで、各画家の個性と独自性が、その画風に、遺憾なく発揮された作品が居並ぶ小さな狭い空間であった。残念ながら、そこは、コマーシャリズムの原則が、貫徹していて、小さな数字の表記とともに、言葉巧みな小判鮫の如きしたたかな女性販売員が、ぴったりと、寄り添うかのように、貼り付いて、説明とも、セールスともつかぬ微妙なタッチで、抜け目なく、サポート(?)していた。何をサポートするのか、わからないではないが、成る程、折角、版画鑑賞を楽しんでいる空間を、ぶち壊しにかかるような雰囲気でもある。無料展示会だから仕方ないが、もっとも、無料即売会とは、明示はされていなかったが、、、、、。何とも、残念である。加山又造の夜桜、平山郁夫の長谷寺の春、片岡球子の牡丹咲く富士、東山魁夷の森若葉、雪の石庭、小倉遊亀の咲きこぼれる等、併設で、中川一政、熊谷守一、梅原龍三郎、千住博、中島千波等の作品も、展示されていた。なかなか、狭い空間ではあったが、見応えのある展示作品であったが、若干、興ざめの感がなきにしもあらずであったのは、戴けないか、、、、。小さな紅い○が、販売済みの印に、いくつかの作品に、ついていた。



スクリュー・フレーションの到来か?

2012年01月25日 | 社会戯評
消費者物価指数の費目分析で、物価の押し下げ要因になっているのは、家具・家事用品、住居、被服・履き物、保険医療、教養娯楽等の贅沢品、逆に、押し上げている要因は、食料、光熱・水道、交通費・通信費、諸雑費などの生活必需品費目となっているとか、現状では、贅沢品を消費する頻度が高い高所得層よりも、生活必需品を消費する中間層や、低所得層が、より「生活苦」を感じやすい構造になっていると、実質所得が上がらないのに、普段消費するモノやサービスが、実質的に上がっていく。どうも、何か、「おかしな傾向」が、ひたひたと、不気味に、迫り来ているようである。中間層の貧困化とインフレの同時進行という「スクリュー・フレーション」という予兆現象が、いよいよ、深刻化しつつあるのか?これまで、過去にも、「複合不況」とか、「スタグ・フレーション」とか、時に応じて、様々な言葉で、現状分析されてきたが、相矛盾した兆候が、複雑に、交差しつつ、業種間格差、世代間格差や、地域間格差も、包含しながら、財政の赤字・危機の深刻化の進行する中で、顕在化してくるのであろうか?学者による言葉の分析も、結構であるが、それよりも、問題解決策の提示が、望まれるところである。将来予想される消費税のアップも含めて、どういう方向性が、妥当なのか?甚だ、悩ましい問題である。当分、日本丸は、漂泊を余儀なくされるのか?早めの自己防衛策を講じなければならないのか?リスクをうまく、隠蔽ちりばめることに成功した金融工学の数式でも、さすがに、これといった問題解決策は、出てこないのであろうか?



ビルマ民主化の不可解さ

2012年01月24日 | 社会戯評
もう、5年程前になるだろうか、2度目の海老の市場リサーチのために、ミャンマーを各地、北から、南のタイ国境付近まで、訪問したことがある。殊に、南のある離島では、「地獄の黙示録」をまるで、地でゆくような地域コミュニティーと軍部と地方資本家との職・住、合体による経済開発の実験、島全体が、造船所・学校・フィッシュミル工場・水産加工場・ソフトシェル・クラブの養殖場などからなっていて、対岸の小さな都市との往来は、フェリーが、無料になっているのをみて、更に、その岸壁には、五星紅旗の大型トロール船が、横付けされていたのを見て、ある感慨を抱いた覚えがある。また、こんな辺鄙な土地でも、シンガポール系の資本によるヨーロッパ観光客向けのリゾート・ホテルが、海岸沿いには、建てられていて、ガランとした海岸の砂浜の椰子の樹の下では、水着で、読書を楽しむ数人の欧州観光客とおぼしき人達が、見られたモノである。何とも、その落差に驚いた覚えがある。カレン族による軍政との武力闘争や、民主化運動で、逃走せざるを得なかった学生運動・民主化運動指導者など、未だ、政治的な過酷な弾圧が、現実に行われていた当時にも、既に、繊維、食品、或いは、シンガポール系華僑資本による投資が、進行していて、残されたアジアの唯一の未知の可能性の或る大国、ミャンマーへの注目は、密かに、水面下では、大いに、高まっていたモノである。何故、今、そんな中で、急激な上からの官製民主化が、突然(?)現実味を帯びてきたのであろうか?今や、EUも、米国も、むろん、日本も含めて、ミャンマー詣でである。経済の原理原則とは、そんなモノなのであろうか?四半世紀も、外国で、政治亡命生活や、辺境のジャングルで、武装闘争を強いられてきたりしたのに、一夜にして、停戦、恩赦・開放、アジア的な寛容なのであろうか、それとも、そこには、これまで、軍政を支え続けてきた権力者達の大いなる企てが、何か裏にあるのであろうか?今ひとつ、報道の裏側から、見えてこない不可解さが拭えないのは、私一人だろうか?それにしても、すさまじい変化のスピードである。



歯石除去に思う

2012年01月23日 | 自然・植物・昆虫
生来、歯は、丈夫な方で、虫歯もそれ程、経験したことは、子供の頃から、なかった。従って、歯医者に診てもらうも、せいぜい、最近では、年に数回程度で、それも、歯石を除去してもらうか、歯茎の腫れの防止か、しゅ肉炎対策程度である。あまり、歯医者にとっては、歓迎されないクライアントである。もっとも、これまで、逆に、歯が丈夫であった為に、親知らずの歯が、斜めに伸びて、隣の歯に、三角形の隙間が生じて、そこに滓が溜まり、虫歯の恐れが出てきたので、米国に居たときに、局部麻酔で、上下・左右の奥歯を抜歯したことがある。それにしても、歯医者の治療途中の音ときたら、大人でも、昔の歯を削る時の嫌な思い出を、想い出させる。バンコクで、近視のレーザー治療を受けた人の話では、網膜が、焼け焦げる臭いが、鼻で、感じられるが、痛みはなかったなどと、言っていたが、それにしても、音とか、臭いとか、実に、医療に伴う五感を研ぎ澄まされる経験は、幾つになっても、嫌なものである。まずは、高圧水洗浄のようなもので、歯石を削ぎ取る工程であるが、お腹の上に組んだ手の指に、自然と力が入り、口を開けていても、「下唇を楽にして下さい」という歯科衛生師の声を聴いて、力を抜くと、同時に、肩の力も抜け、身体全体が、ふわっと、椅子に沈み込んだのが、自分でも、自覚された。上下・裏表の歯石を除去した後に、次に、表面の研磨の作業に移る。今度は、口を半分閉じてとか、左右に、唇を引っ張られたりしながら、結局、小一時間で、全ての行程が、終了した。確かに、我が老犬も、シャンプー時の歯磨きの際には、いつも、抵抗して、大暴れだが、その気持ちが、分からないではない。人間様だから、多少、痛くても、一時的に、痩せ我慢して、手で合図することもしなかったが、、、、。小学校のクラスメートの一人は、歯医者で、口腔に腫瘍が見つかり、後に、帰らぬ人になってしまったが、年をとると、口腔の衛生管理が、重要であるそうである。取りあえず、当分は、これで、凌げそうかな。子供の時は、歯磨きを、横磨きで、いつの頃からか、あるときから、立て磨きに、最近では、少しづつ、横にずらしながら、ちょこちょこと、磨くとか、時代により、歯磨きの仕方も、変化と進化(?)を繰り返すのであろうか?何とも、悩ましい限りである。デンタル・フロスと歯間ブラシと歯石防止、歯茎の腫れの防止用に、リンス液の併用を実践するように、申し渡された。終わってみれば、歯の裏側が、すべすべしているのが、実感される。



東京大学の秋期入学に思う

2012年01月22日 | 社会戯評
これから後は、桜の咲く頃に、入学した人と、秋に入学した人とに、その入学時期の思い出も、二分されることになるのであろうか。大学にも、いよいよ、「国際化」という波が、容赦なく、押し寄せてきたようである。時代は、大きく、その潮目が、変わりつつあるのかも知れない。今や、海外の優秀な人材を受け入れる以外に、日本を活性化させる教育の手立ては、ないのであろうか?確かに、明治期に、外国人お雇い学者や教師を招聘して、有為な人材育成に供したが、社会システムを含む研究・教育・就職システムなども、或いは、ボランティア活動、社会貢献活動プログラムも含めて、日本全体の体系を、変革していかなければ、単独では、機能しないことは火を見るより明らかであろう。日本で学ぶ環境もさることながら、日本にいても、海外の優秀な学者や教授の授業をネット等で、居ながらにして、受けられる機会があっても良いのではないか?我々が若いときには、せいぜい、英語を巧みに操る人達をみて、すごいネェー等と、感心していた程度であり、社会に出てから初めて、その鮮烈な「国際基準」の洗礼を、改めて、浴びてから、必死になって、学び、遅れを取り戻そうと、今にして思えば、よく頑張ったものである。明治期からの様々な体系、統治手法も、今や、グローバル・スタンダードという国際化という波の中で、まるで、黒船の到来のように、新たな方向性を模索してゆかなければならなくなったということなのであろう。尻に火が付かないと、日本人という民族は、分からないのであろうか?きっと、我々の孫の代には、桜咲く頃に、入学式があった時代もあったのね、等と、言われてしまう時代が、遠からず、来ることになるのは、必至であろう。



コダックの倒産を聞いて、思う

2012年01月21日 | 社会戯評
イーストマン・コダックが、米国で民事再生法を申請したそうである。新聞の記事によれば、デジタル化の対応に、適用できなかったそうであるが、何とも皮肉なことに、デジカメの開発には、フィルム・メーカーでありながら、最初に、成功した会社である。日本のコニカも、フィルムの生産を既に、中止しているが、富士などは、今や、化粧品のメーカーでもある。フィルムの劣化防止の技術を、人間の肌の劣化に、応用したのであろうか?それにしても、産業界の有為転変は、厳しいモノである。まさに、適者生存、Survival is the fittestである。環境というご時勢に、最も適応しなければ、生存出来ないのであろうか?平家ではないが、盛者必滅の理であろうか?日本の家電業界も、他山の石とか言ってはいられない状況でもある。今日は、他人のことでも、明日は、我が身であるかも知れない。確かに、アナログの旧い一眼レフを引っ張り出して使用してみると、フィルム代金、現像代金、プリント代金など、取り終えてからも、PCに取り込みが出来ないし、更には、加工もままならないし、失敗したときには、消すことも出来ない。デジカメの操作性に慣れていると、とても、不便である。草場の陰から、イーストマンが、きっと、嘆いていることであろう。サムスンやアップルの天下も、いつまで、続くのであろうか?



副交感神経と便秘の関係=直腸にある第二の脳神経細胞

2012年01月20日 | 社会戯評
ヨガとティラピスと温泉に、定期的に通うようになってから、どうも、原因がつかめないが、「お通じ」が、とても、良くなった気がしてならない。天然の温泉で、じっくり暖まるから、胃腸に、血の巡りが良くなり、特に、腸の運動を刺激するのかと思っていたが、どうやら、そうではないらしい。人間は、交感神経と副交感神経の両方の適度なバランスを自然に、保ちつつ、便意を脳から、発信するらしいが、ストレスや不規則な生活習慣により、このバランスが崩れてしまい、副交感神経の働きが、衰えてしまうらしい。とりわけ、どんなに、繊維質の豊富な食物をとっても、肝心要の便意を、脳から、発信せず、この便意という知覚を感じるのに、「腸が鈍感」になってしまっているらしい。しかも、驚いたことに、小腸・大腸・直腸には、こうした脳神経と同じ、「第二の脳神経細胞」が、とりわけ、直腸付近には、備わっているようで、これが、感知・機能せずに、鈍感になっていると、脳に、便意を伝達せず、結局、便意を催さないらしい。この副交感神経を蘇生するのに、大切な役割を果たすのが、「呼吸法」であるそうである。そう言えば、ヨガや、ティアラピスで、定期的に、呼吸法を学んでから、この効果が、じわりと、効き始めたものなのだろうか?ストレスを削減すればよい、と言われても、なかなか、それは出来ない以上、修復する機能を持つ「副交感神経の活性化」を、「呼吸法の会得」で、図るのが、一番の早道であろう。そう言われてみれば、整理運動の際に、呼吸法だけでなくて、上向きに寝ながら、口を意図的に、開けて、顔の筋肉も緩めて、手を握ったり、開いたりもして下さいと、言われていることを想い出した。毎日、朝・昼・晩、3回、3 - 5分でもよいから、下腹をスクープにして、吐く息を、意図的に、吸う息よりも長めに、深呼吸を3分でもやれば、良いらしいので、是非、不規則な生活を強いられている皆様は、試してみて下さい。(むろん、お金もかかりませんし、場所代も要りません)もっと、若いときから、知っていれば、やっていたのに、、、、、、と悔やまれる今日この頃である。反省しきりである!

副交感神経とは:参考までに
http://genki-go.com/autonomic/03.html

ネット・リテラシーを考える

2012年01月19日 | 社会戯評
昔、右翼が、街頭宣伝カーで、褒め殺しという戦術で、裏で、金をもらっていたが、今や、ネットの世界でも、口コミや、ステルス・マーケティング(略して、ステマと称するらしい)で、実際、やらせを演出して、顧客を誘導する戦術が、最近、食べログでも、問題になった。それにしても、次から次に、全く、油断も隙もあったものではない。倫理観も、道義もあったものではない。何とも、仁義なき右翼の褒め殺しも悪く言えない。ポイント現金化還元とか、試供品とか、無料見本、無料招待券、キック・バック、それらを、依頼条件を伏せたまま、或いは、モニターの依頼告知をせずに、感想や評価を、口コミと称して、ある種世論を誘導する。まるで、イノセント・スパマーのようである。どこかで、やらせと、そうでないところとを、線引きしなければ、善意のユーザーが、又しても、悪徳商法とは言わないが、犠牲になることは必至である。中国の官製による口コミ世論の誘導を、非難がましく、コメントする権利をも失ってしまうことになりかねない。情報の評価をする判断する力をつけること、噂と事実を峻別する能力を、子供の頃から高めること、家庭でも、うかうか出来ない。マス・メディアというものを、疑ってかからないと、ひどい目にあうのは、今も、昔も、自分自身であることを自覚しなくてはならない。イノセントとは、いつの間にかに、知らずに、無自覚な加害者になる可能性も孕んでいる。マッチ・ポンプ、褒め殺し、やらせ、ステマ、等、時代とともに、言葉は、変遷すれど、その本質は、ちっとも、変わっていない。




現場力の衰えを憂う

2012年01月18日 | 社会戯評

これまで、日本の強みとは、資源がない国なので、個々人の技量の高さを、ボトム・アップで、押し上げながら、集団の力で、ベクトルを引き上げてきた歴史だったが、いつの頃からか、マニュアルがないとか、個々人の自主的な決断を行わず、何の責任もとらずに、唯々、上からの指示を待つような指示待ち族が増え、組織が、壊死し、金属疲労が進行して、国力の衰退と閉塞感が、漂うになってしまった。世界に冠たるカイゼンも、こうした下からの現場力が、衰えれば、自ずから、ストラテジカルな選択をしても、もはや、今では機能しないだろう。オームの平田容疑者の出頭の際の警視庁の警官や、広島刑務所の李脱獄犯の逃亡事例を見ても、更には、センター試験の不手際をとっても、どうやら、一番、肝心、要の現場で、底辺を支えている「現場力」さえも、瓦解しつつあるように、思えてならない。リーダーシップ以前の問題である。初歩的なと言うよりも、何故、そんなプリミティブなミス(?)が、起きるのかとまで、疑問を呈せざるを得ないほど、事態は、深刻である。一体、何が、そうさせているのであろうか?「事例を再検証して、再発防止対策を立てたい」などと、まるで、商品クレームの対応のように、言われてもたまったものではない。たまたま、逮捕されたから良いが、これが、第二・第三の犯罪を起こしていたら、どう責任をとるのであろうか?国のシステムとか、国力の衰えとかいうモノは、こんな感じで、衰えてゆくものなのであろうか?日航機の御巣鷹山の事故の時に、ボーイングの尻餅事故の改修を、見抜けなかった米国を、その品質管理水準の衰え・欠陥だと笑っていたが、今日、日本も、もはや他人ごとではない。もう、尻に火が付きかかっているか、既に、ついて燃え始めている。次代を背負うこれからの人達に、何が必要なのであろうか?システムなのか、教育なのか、リーダーシップ、決断力、決められない民主主義なのか?一つの時代が終わった、などという区切りの言葉では、かたづけられない何かが、そこにはあるように、感じられてならない。



千載具眼の徒を竢つ=伊藤若冲 パート2

2012年01月17日 | 映画・テレビ批評
絵とは、それを観る人に、絵師の意図を見抜くことを期待して、或るメッセージ性を込めて、描かれるモノなのだろうか?それとも、難解に、その秘められた技法や画材・絵の具の秘密も含めて、騙し合いなのか、戦いを挑んだモノなのか?江戸時代、18世紀の半ばに、活躍した伊藤若冲の絵は、全く、奧が深くて、難解である。NHK・BSの4回、6時間にも亘る番組を観れば観るほど、その技巧の高さ、革新性、そして、絵の哲学が、世界的にも、極めて高く、評価されて然るべきものである。極彩色の微細画による鶏や草花のみならず、細かなマス目に漆を施して、色彩や、光による色合いの変化を、事前に、計算し尽くした技法など、或いは、仏の慈悲の象徴でもある月の光の恵みを、繊細な光と陰のコントラストを計算して描かれた金閣寺の書院の墨絵とか、極彩色とは、対極をなす漆黒のクロを、墨で、空や春秋のイメージを感じさせるような部屋の間取りさえも事前に、計算し尽くされた構図の襖絵、まるで、写真のフィルムのポジとネガのコントラストを、江戸時代に、既に、熟知していたかのような技術の粋を極めた作品もある。正面刷りという版画の技法も、黒と白とのコントラストを出すために、墨の材料も、精査・厳選されていたことが、今日の科学的な分析からも、わかるものの、同じレベルの作品が、出来ないそうである。今日の最先端の分析機器の科学的力を借りても、その江戸時代の「技巧の極み」に、300年経っても、辿り着けないとは、何という水準の高さであろうか?命の尊さを、魚や貝や、草花、動物、更には、野菜を模して、涅槃図を水墨画で、描いたり、鶏の一瞬の動きを、或いは、カメラ・ワークの遠近法を、或いは、脳の目の錯覚を意識した色彩の技法など、更には、空を、春を、漆黒のクロで、イメージさせる乗興舟の版画に至っては、科学的な分析も、追認するのみである。「千載具眼の徒を竢つ」という言葉に、込められた意味は、まさに、今日でも、未だ、実現されていないのではないかと、、、、、。謎は、深まるばかりである。絵の鑑賞や音楽の鑑賞とは、成る程、奧が深いモノであることを再認識させられる。格闘技のようであろうか?いつ迄経っても、作者との真剣勝負の戦いには、一瞬の隙も、見せられないものである。心して、絵や音楽、詩や俳句・短歌も、鑑賞するときには、こうした気概で、望まなければならないのではないか。ふと、見終わった後に、そんな気がした。まだまだ、「具眼の徒」には、なれない自分がそこにある。千載、待ってもらっても、無理だろう。