小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

めちゃイケにみる笑いの世界:

2016年02月29日 | 映画・テレビ批評

めちゃイケにみる笑いの世界:

『適者生存』という言葉の英語の訳はSurvival is the fittestであるということを随分前に、教えられたことを想い出す。成る程、生存するには、環境に適合しなければならないのか?もう5年程も前になるのであろうか?当時、精神を病んでいた岡村への愛故なのかどうかは、知らぬが、唯一のズブの素人として、めちゃイケ新メンバーに、選出されたにも拘わらず、結局、みちのくプロレス修行も途中放棄したり、局側の温情を自らが、お笑いという仕事の戦線から敵前逃亡する形で、逃げていた一出演者を、まるで、公開処刑するような、要するに、自らの嘗て選出した『笑いの目利きの罪』を、引き受けることなく、国民投票なるdボタン方式なるもので、無自覚に、首を切るなどと言う企画自体が、既に、フジ・テレビという局の芸能番組という分野で、現在おかれているところの地位と問題点を浮き彫りにしているようにみえて、その意味では、なかなか、面白い。それにしても、お笑いの芸人の発掘なるものは、別の意味からすれば、流石のメディアをもってしても、要するに、紹介するプラットフォームが、あっても、非常に、難しいものなのであると云うことではなかろうか?或いは、演劇で云えば、舞台が、大きくても、小さくても、物理的に、確保されていても、もっとも、キャリアのない芸人や俳優というものは、そういう『舞台』にすら、既に、立てるものは、ごく一部の限られた『選ばれし者』だけが許されるものであって、大半は、生活を維持するために、毎日毎日、アルバイトで、働いて行かねば、そのエントリーさえも、出来ない現実があるのかも知れない。この主人公が、一体、過去、五年間に、出演料をどれ程、補償されていたのかは、定かではないが、番組の中で、いみじくも、ダイノジが、涙ながらに、語っていたように、玄人のお笑い芸人は、当時、藁にもすがる思いで、必至に、争ったものの、唯一、玄人ではない、『素人』という一点のみで、敗れ去った、その無念さは、逆に、そっちの方にこそ、芸人魂を見てとれるのはどうしたものであろうか?エアー・ギターでも、必死になって、舞台へ上がろうとした、ダイノジの方こそ、応援したくなってしまう。それにしても、お笑いというものは、一発ギャグでも、30年、50年、やり続ければ、一発『芸』になる可能性を秘めているものの、それをやり続けるという『恐怖』、それで、本当に喰っていけるのか、家族を養って行けるのかという重圧は、並大抵なことではなかろう。成る程、芸人というものは、お笑いの世界も、俳優もそうなのかも知れないが、企画して、或いは、ある種の作られたプラット・フォームが、事前に、与えられても、所詮、その俎上に挙げられた素材が、好機と捉え、活用しなければ、ものにしなければ、全く、機能しないということが、これからも、証明されようか?それにしても、子供の頃に見慣れた、公開オーディションなども、今や、全国的な第二の石原裕次郎オーディションではないが、どうも、この種の第二の○○とかというオーディション企画や、国民的な○○というものが、流行らなくなってしまったのは、何か、関連や理由があるのであろうか?どうやら、少なくとも、云えることは、お笑いの世界には、カネも、血縁や地盤や看板は、全く、通用しないということなのであろうか?20年後か、30年後には、きっと、『あの人は、今!』などと、性懲りもなく、又、二次・三次加工するのが、この業界の常なのではなかろうか?そんな後味の悪い番組だから、投票もしなければ、最後には、結果を確認することもなく、床についてしまった。案の定、不合格になってしまったらしい。そりゃ、そうであろう。それにしても、めちゃイケ自体が、或いは、その出演者自身こそが、そんな他人事で、いられるのであろうか?明日は、我が身であることをうすうす、感じてはいるのであろうが、、、、、。


G20で、資本の海外流出が止められるのか?:

2016年02月28日 | 社会戯評

G20で、資本の海外流出が止められるのか?:

各国の利害が激突する最中で、原油安と中国経済の先行き不安を払拭するために、各国が、一堂に会して、資本の海外流出を食い止めるために、中国に対して、構造改革も含めた抜本的な対策を要求するとされているが、果たして、額面通りに、うまく行くのであろうか?確かに、何らかの方策と妥協策が、世界経済の一定の安定化に向けては、打ち出されることは、必至であろうが、そんなに、簡単に、国際的なマネーは、一筋縄でいくような甘いものでもあるまい。翻って、日本を見ても、そもそも、自国の構造改革と財政問題を根本的に、解決する方策すら、見いだせないのに、隣国の余剰生産設備の廃棄や、経済構造の改革や金融・証券・外為通貨政策に於ける内部透明性の改善を、よくもまぁ、云えたものである。一体何処まで、本気で、物言いをするのであろうか?経済原理の原理原則で、今や、グローバルに、カネは、国境をいとも簡単に、容易く、水が低きに流れるかの如く、移動する時代である。資本や金融・財政政策の規制を相互に、設けようとするのであろうが、所詮は、世界的な最終的なババ抜きに終始することはないのであろうか?何処の国も、国益を犠牲にしてまで、自国に不利と承知の上で、合意するのであろうか?南シナ海の対立も見え隠れする中でのG20の成り行きは、それなりに、注目されてよいであろうし、今後の政治的な日程とも絡んで、どういう共通する政策が合意されるかたのしみである。

 

 


泡沫候補の底流:

2016年02月26日 | 社会戯評

泡沫候補の底流:

バーニー・サンダースやドナルド・トランプが、予備選挙の前に、これ程までに、善戦するとは、ワシントンの政治プロ達の中で、一体、誰が、的確に予想しえたのであろうか?それにしても、以前から、we are 99%というスローガンや、Occupy Wall street などのムーブメントを、政治のプロと称する者達は、どれ程、看過してきたことだろうか?今になって、自分が、誇れるものは、唯一、人種的なWhiteだけであることに気が付いてしまったPoor Whiteは、一体、どのようにして、American Dream を実現させ、Great America を復活させることが可能なのであろうか?又、没落の一途を辿っている中間層のこれ以上の没落を、どのようにして、食い止めるに足るような政策を打ち出せるのであろうか?日本でも、問題になっている学生への奨学金制度の貸し付けや返済の問題でも、社会に出る前から、10万ドルに近いローンを背負って、スタートしなければならない『ハンディキャップ・レース』に、本当に、『公平性と平等性』が、 何処に存在するのであろうか?民主主義というものは、今や、大衆の声なき声を、吸い上げて不満を解消するというシステムではなく、むしろ、大衆の漠然とした『不安や不満』を、ある種の過激なスローガンの下で、扇情的に、爆発させてしまうような状態に、陥ってしまっているのであろうか?欧州でみられたような極右勢力の国政への進出を懸念されるが故に、選挙民は、ある種の政治的な『バランス感覚』から、一定の勢力の拮抗を、一時的に、立ち止まりながら、選択したようであるが、米国では、どうやら、それが、未だ、機能しえずに、現在進行形の勢いであるようである。圧倒的な楽勝を予想されていたヒラリー・クリントンですら、これらの一連の流れには、抗えずに、中国バッシングや、日本の為替政策にも、言及し始めている。何か、まるで、日露戦争終結前夜の異常な身の程知らずな過大な要求に、似ていて、空恐ろしくすら感じられる。期待された、オバマの熱狂的な『change』も、今や、『revolution』や、『移民排斥』という掛け声の前には、何を言っても、今となっては、すべてに、遅きに失したようなものなのであろうか?翻って、国内に目を転じれば、コップの中での嵐に明け暮れて、党名変更だの、理念だとか、今更の如く、野合紛いの小異の争いの真っ最中である。米国では、それが、好ましいかどうかは、分からぬが、左右で、極端であっても、ある種のうねりが起きつつあるものの、我が国では、一向に、うねりは、起きる気配がないのは、どうしたことなのであろうか?今日は、考えてみれば、80年前に、2.26事件が起こった日である。

 


南シナ海でのレーダー・サイトの建設写真公開:

2016年02月25日 | 社会戯評

南シナ海でのレーダー・サイトの建設写真公開:

中国によるとされる一連の建設現場写真の公開は、一体、何を意味しているのであろうか?もともと、静止衛星なるものが、打ち上げられたときに、何でも、地上、30センチ四方の物体も、宇宙空間からの静止衛星による撮影では、簡単に、ものが識別出来ると、当時は、云われていたが、そんな時代から、今や、一体、何十年間が経過しているのであろうか?今や、防犯カメラの画像識別でも、デジタル化のお陰で、マスクを掛けていても、画像処理の上、或いは、深夜に疾走する車のナンバー・プレートまでもが、人の眼では識別不能であっても、デジタル処理やある種の加工により、その番号までもが、はっきりと、判明する時代に、滑走路やミサイルやレーダー基地の建設が、軍事衛星や監視衛星で、分からぬ訳がなかろうにとも思われるが、何で、今更、完成してから、写真が公開されるのであろうか?何でも、軍事筋の話では、そんなことを一々、公表していたら、こちらの手の内を、或いは、暗号コードを公表するようなもので、まるで、大韓航空機が撃墜されたのを公表した後で、一斉に、暗号コードが書き換えられたのと同じレベルのことなのであろうか?一体、何処まで、知っていて、或いは、どうなるであろうかを予測できたにも拘わらず、どういう意図を持って、建設途中で、公表しなかったのであろうか?完成した暁に、爆撃でもして、破壊できるとでも考えているのであろうか?それとも、的確な暗号解読が出来ているから、相手の動きなどは、手に取るように、分かるようになっているから、実は、そんなミサイルもレーダー基地も、危機でも何でもない、『想定範囲内』ということなのであろうか?何とも、素人眼には、この写真発表の意図が、判然としない。何のための偵察衛星や軍事監視衛星なのであろうか?軍事アナリストや軍事評論家というものも、実に、不可思議な職業である。嘗て、イスラエルが、イランの核関連施設が、建設完成間近になって、爆撃したことがあったが、一体、今回の中国軍の滑走路やレーダーサイトの建設、軍事化との違いは、何処が、違っていて、何処が、共通するのであろうか?どうも、素人眼には、チグハグで、その公表の意図が、判然としてこないのは、どうしたものであろうか?北朝鮮のミサイル開発についても、そんなことは、既に、前々から、分かりきったことでことであったのか?それとも、穿った見方に寄れば、意図的に、相手の出方を承知の上で、放っておいて、こちら側の自己防衛を正当化するためのある種の手段だったのかとか、時計を逆廻しにしない限り、分からないのであろうか?何故、未然に、防げなかったのか?それとも、防ごうといなかったある種の意図が明白に、存在するのか?

 


アルバイトの届けと同じレベルなのか?:

2016年02月23日 | 社会戯評

アルバイトの届けと同じレベルなのか?:

何とも、表現の自由とか、集会への参加への問題に、関して、とりわけ、18歳選挙権の付与に伴って、論じられている高校生のデモへの参加の届けに関して、可笑しな議論が起こっている。1960年代の後半には、今から、時計を逆廻しにしてみても、世界的に、何処でも、学生、とりわけ、若者による反乱が、そこかしこで、みられたものであるが、一体、どれ程の数の学生が、とりわけ、未成年や高校生も含めて、デモへの届けを出したのであろうか?アルバイトの届けとは、全く、異質の次元の異なるものであるにも拘わらず、公然と、『安全性』の問題に、すり替えられていることに、全く以て、驚いてしまう。どの時代でも、何処の国でも、若者には、『造反有理』が、心の何処かに、共通するものなのであり、決して、そんなものは、大人や親の了見や、社会の束縛から、拘束されるモノではない。五・四運動も、そうであったし、パリのカルチェ・ラタンでの5月革命も、韓国での学生による反軍事政権民主化運動も、天安門民主化暴動も、すべて、例外ではないし、これからも、政治を下から突き動かすムーブメント足りうるマグマのように煮えたぎるような憤りや怒りや不満は、既存のエスタブリッシュメント化された政治体制の枠組みの中で、安穏と治まりうるモノではない。それは、歴史が、証明していることであろう。何故、老人ばかりが、政治的な影響力を有していて、貧困家庭や片親や非正規労働者の政治的な影響力が、声がとどかないのかを、誰かが、したり顔に、分析していたが、本当にそうなのであろうか?今振り返ると、60年代の後半は、全く、不可思議な時代であったのかも知れない。一体、あの頃の若者は、あの紅衛兵達は、今、どうしているのであろうか、拝金主義と腐敗と富の格差にまみれた現実を、どう見ているのか?あのカルチェ・ラタンの街頭を占拠した若者達は、今、どのように、移民問題を考え、プラハの春をくぐり抜けた若者達は、何を思って生きているのであろうか?コロンビア大学で、銃剣をつけられたベトナム反戦デモに参加した若者達は、今、we are 99%に属しているのか、それとも、ITで、成功して、1%になっているのであろうか?アルバイトの届け出と一緒くたにされてはたまったモノではない。

 


ローパーと労働力の流動化は?:

2016年02月22日 | 社会戯評

ローパーと労働力の流動化は?:

Low Performance のことを、ロー・パーと称するらしいことを知る。考えてみれば、右肩上がりの時には、何もしなくても、需要が多くて、購入人口も溢れていて、所得も毎年、右肩上がりに、増えてゆき、スチャラカでも、スイスイ、スーダララッと、世の中を極楽蜻蛉然として、生きてゆけたのに、今や、そんな生き方自体が、全く、許されるような時代ではなくなってしまった。労働生産性というか、労働の価値などと云うクライテリアというものは、いつの時代でも、一定の基準があるものでもないし、企業の経営判断の数値基準もそうであるのかもしれないが、売り上げ中心とか、そうではなくて、総利益なのか、それとも、総労働時間とか、或いは、利益を稼ぎ出す上での実質的な費やされた実労働時間なのか、そうであれば、裏方で、まるで、撒き餌のように、或いは、私的な時間も使って、仕事のために使われたような時間も含めると、一体、どんな時間と利益と、更に云えば、個人だけではなくて、チームで実施されるようなプロジェクト型の仕事など、チーム構成員の経験とか、技能とか、そういった要素や要因といったものは、どのように、トータルな中で、或いは、分業との相関関係において、評価されるのであろうか?もっとも、それは、逆説的に謂えば、つねにそれは、『評価をする側』の一方的な価値判断の下で、行われるもので、決して、客観的且つ、双方が満足するようなものではないことは、明らかである。それが、嫌だったら、フリーランスの独立自営か、創業して、一匹狼の起業家になるしか、残された途はないのかも知れない。いつも、日本型の『労働の流動性』が、叫ばれて、既に、久しいけれども、所詮、『個人的な労働の在り方の個性的な追求』という美名の下に、呈の良い『非正規』が、既に、労働人口の4割にも達してしまっただけなのかも知れない。所詮、流動性とは、雇い止めやら、或いは、人材会社による、呈の良い、『人員の合理化』を、自らが、手を染めることなく、或いは、無自覚なまでの罪の意識のない、きれい事の二重構造なのかも知れない。だからこそ、『再就職支援助成金』の要件を悪用したリストラや人員削減への提言は、当たり前と云えば、当たり前なのかも知れない。いつまでたっても、常に、被評価される側では、何を云っても、正当に評価される試しはないことであろう。ローパーではなくて、自らが、ハイパーになろうとしなければ、駄目であろうことは、今更、誰に云われるまでもなく、分かりきっている。

 


IoTに思う:

2016年02月21日 | 社会戯評

IoTに思う:

何でも、Internet Of Thingsというコンセプトが、最近では、現実味を帯びてきて、何でも身近なものまでもが、インターネットに接続されて、その利用者のBig Dataの解析を制するものが、これからの産業を制すると云われ始めている。それにしても、その昔、若い頃には、『ユビキタス社会』なる言葉が、もてはやされ、近いうちに、ユビキタス社会の到来が、間近であると喧伝されたことを、想い起こすが、一体、この延長線上であるということなのであろうか?それにしても、いつも、議論されることは、新しい動きがある度に、国際的な統一基準を制するものが、すべてに、覇者となりうると考えられることである。それにしても、便利になればなる程、セキューリティーのガードも、しっかり、しておかないと、なりすましや知らぬ間に、被害者が、加害者に陥ってしまう怖れも決して、否定は出来ないのが、昨今の事象からも、容易に、判断出来ようというものである。家庭LAN内のWi-Fiルーターのセキューリティーに始まり、一体、この先、IoTが, どんどん、技術革新と進化を繰り返し、便利な家電が普及してくると、一体、どんなリスクが、生じてくるのであろうか?もっとも、そんなリスクを開示していたら、折角の『夢の家電』も、世界制覇も、放棄してしまうものであるから、今から、そんなネガティブな危険性を指摘する馬鹿もいるまいが、、、、、、、。LINEの会話の公開などをみても、或いは、アップルとFBIとの個人情報のロックの解除を巡る法的な攻防も、一体、何処に向かって、行くのであろうか?無線発電ではないが、コンセントに、繋がずとも、自動的に、いつの間にか、充電できてしまうような仕組みと共に、ますます、人類は、AIの進化と共に、怠惰に、何も、考えなくなってしまうのであろうか?余りにも、技術革新の進化のスピードの速さに、驚くと共に、ついて行くのも、大変なことである。

 


白梅を生ける:

2016年02月20日 | 自然・植物・昆虫

白梅を生ける:

何か、こう、描写すると、如何にも、高尚な趣味でも有していて、春先になると、庭の白梅を、生け花にでもして、観賞するのではないかと、錯覚を起こしてしまうから、面白いモノである。何と言うことはない。先月、女房殿の実家に、顔を出したときに、庭先の黄色いろうばいの花が、匂い立って、綺麗だったから、帰り際に、貰ってきて、玄関の花瓶に、挿しておいたところ、その香りが、何とも言えず、ほのかに、春先の香りを届けてくれたものの、やがて、その花達も、ひとつひとつと、落ちてしま、今では、そのかぐわしい臭いどころか、羞悪な枯れた花弁が、廊下に、落ちている始末である。書斎のシャッターも、冬場は、寒くて、暖房効率が悪いからと言う理由から、滅多に、開け放たれることもなかったが、先日、天気の良い日に、布団を干そうとベランダ越しに、二階から、階下に眼をやると、何と、知らぬ間に、白梅が、見事に咲いているではないか!特に、お礼の追肥をやるわけでもなく、何もしないでいるにも拘わらず、未だ寒い冬の2月には、毎年、決まって、蕾が大きくなり、やがて、これから、華々しく咲き乱れる春の花達の魁として、開花する。何と言うことはない、気まぐれに、シャッターを開け放てば、一瞬、その窓越しの風景が、パアッとその限られた空間だけが、一瞬にして、明るくなったのである。そこで、高枝切りを持ち出して、単に、徒長枝を、何本か、切ってきて、花瓶に、挿しただけの話である。その時に、恐らく、もう花時は、満開を少し、過ぎていたのであろうか、何片かの白い小さな花弁が、ひらひらと、廊下やフローリングの上に、落ちる。何とも、その花弁の落ち方が、堪らなく、宜しいではないか!まるで、それは、春の訪れを、自ら、その魁の役割を、終えたことを暗示するかの如きで、、、、、、、、。誠に、美しいと想う。花の美しさなどというものはないなどと、小林秀雄を想い起こすことも、必要ない。只、その一瞬の花弁の散り際だけを愉しめば宜しい。やがて、5輪の花弁が、開き尽くして、それは、散り始めることを暗示しているのかも知れない。無造作に、活けられたピンク色の桜草の花と一緒に、只、一枝、スックと伸びた短い枝振りに、密集した白梅は、まるで、『凜』とした孤高を、しばし、愉しんでいるかの如くである。敢えて、廊下やフローリングに、落ちた一枚の白い花弁は、きっと、間違いなく、誰かによって、『こんなところに、花びらが、落ちているわよ!誰も、気が付かないの?、誰も拾わないのかしら?』とばかり、綺麗さっぱりと、ゴミ箱に、消え去る運命にあることは、100%間違いないであろう。それまで、しばしのあいだ、そのゴミと間違われるまでの時間を、愉しもうではないか?この次、外国人に生け花の神髄を説明するときには、活けるまでの過程と、活けた後の散りゆくさまに関して、講釈を垂れてみたいとも考えてしまう。一輪挿しというものは、なかなか、面白いモノである。ホテルのロビーの大きな創作生け花も宜しいが、貧乏でも、金持ちでも、関係なしに、存在することのない花の美しさ(?)を愉しめるから、面白いのかも知れない。白梅の後には、雪柳、白木蓮、小手毬、沈丁花、ハナミズキの花達が、順番を争うかのように、蕾を大きくしながら、控えている。文学的には、やはり、白梅の一枝を手折ると言う表現のほうが、響きが宜しいであろうか?


辺見庸、『1★9★3★7』(イクミナ)を読む:

2016年02月19日 | 書評・絵本

辺見庸、『1★9★3★7』(イクミナ)を読む:

歳をとるにつれて、段々、目が弱ってきはじめて、最近では、白内障を遅らせる眼薬を点眼するのを、ついうっかり忘れようものなら、鳥目ではないが、視界全体が、何やら、うっすらと、霧が掛かったように、ぼんやりとなってしまい、ページの文字が、ぼやけてしまい、老眼鏡を掛けても、いまいち、うまく読むことが出来ない。しかも、それ以上に、本の文字を追いながら、作者の意図をくみ取ろうとする集中力が、間違いなく、落ちていることに、残念乍ら、気づかざるをえない。そんなこんなで、本来、年末から正月休みかけて、何冊かの本を読破する予定で、購入したものの、結局、2月の終わり頃まで、眼をしょぼしょぼさせながら、やっと、読破し終えたところである。

本の内容に関しては、編集・飜訳の友人である専門家に、任せるとして、詳細は、別途、一連のブログで、下記の如く、参照して貰えれば、助かります。本稿では、主として、読む際の心構えを中心に、論じてみたいと思う。http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2015-11-21

三菱重工連続爆破事件の大道寺が、上梓した句集、『棺、一基』のなかで、確か、辺見は、その情景を、まるで、何処か、茫洋とした霧のような靄に蔽われた中で、棺が、一基、おかれているような感じであると評していたが、この『1★9★3★7』の読後感というものは、更に、謂いようのない、何とも、後味の悪い、まるで、何か、悪いものを見た時のような、或いは、悪いものを食してしまった後味の悪さのようなものを、感じざるをえない。謂わば、『良薬は口に苦し!』といったモノなのかも知れない。初めから、心地良さなるものを期待して、読み始めると、緒から、落胆することは間違いないであろう。極めて、居心地の悪さを感じながら、読み進まなければならない、謂わば、映画で謂えば、Rの数が、大変大きな数字であろうか?

そもそも、『記憶の墓場を暴く』という言葉事体が、もはや、一定の覚悟を読む側に要求するかの如くであろうか、考えてみれば、1937年という年は、私が、生まれた約10年ほど前の出来事で有り、それから、8年後には、戦争が終わり、私の生まれた1948年の2年後には、朝鮮戦争が、勃発している。戦争前の10数年前、或いは、天皇による戦後30年談話、或いは、戦後50年、戦後70年という区切りは、本当に、そんな区切りは、可能なのであろうか?それにしても、加害者と被害者を繋ぐ、歴史認識、様々な文化人・政治学者により分析された日本ファシズムのメカニズム、とりわけ、心理的精神的な超国家主義の分析や、多くの小説家や評論家による戦中・戦後の著作や、コメントを、引用しながら、論評するその鋭さは、まるで、さながら、無制限一本勝負の異種格闘技戦デス・マッチの様相である。本書の中に、登場する数多くの評論対象者の著作は、少なくとも、私にとっては、複数の著作は、既に、読みおわったか、或いは、何らかの形で、影響をこれまで受けていたことは間違いあるまい。それらを悉くと謂っては何であるが、根底から、木っ端微塵に打ち砕かれるというのは、読む側の読者にとっては、とても、耐えられないことではなかろうか。作家では、永井荷風、大岡昇平、野間宏、武田泰淳、火野葦平、堀田善衛、金子光晴、石川達三、富士正晴、阿川弘之、そして、名だたる文化人・評論家・学者達までも、小林秀雄、丸山真男、梯秀明、埴生雄高、林房雄、家永三郎、半藤一利、相馬御風、串田孫一そして、吉本隆明ですら、その呵責のない墓を暴こうとする強い意思には、抗することは出来ない。映画の小津安二郎にしても、その映画の描写には、鋭く、切り込んで、その静けさのありふれた日常の場面描写の心の奥深くに潜むものを暴いてしまう。『海ゆかば』の歌詞やメロディーと早稲田の校歌の底流に潜む共通性や、勇ましい行進曲の旋律などの考察も、何か、改めて、気づかされて愕然とするのは、どうしたものであろうか?超国家主義の二重抑圧構造やら、無責任体系の分析も、或いは、今日的な歴史認識の問題も、『現在が過去に追い抜かれ、未来に過去がやってくる』という強迫観念に強い感情も、決して、ズルズルと、そう、なることとなったり、或いは、そう、『なってしまった、』更には、『なっていた』と気が付く時には、全く、茹で蛙状態で、取り返しがつかない、確かに、時間的な経過となっているのである。嘗て、若い時に、両親の世代に対して、『何故、あんな無謀な戦争を止められなかったのか?あんたは何をしたのか?』と詰問したそのこと自体が、そっくりそのまま、今度は、自らに、鋭く、将来、対峙する可能性はないのだろうか?一体、時間とは、『今』とは、何か?そして、記憶とは何か、忘れてしまうとは、どういう意味なのか?忘れないと言うことは、忘れてよいことと、忘れてしまってはいけないこととは、何なのか?私達の脳細胞は、生まれたその瞬間から、脳科学者によれば、忘れるように、出来ているというではないか?それでは、歴史は、いつまでたっても、過ちを繰り返すであろう。考えてみれば、この8年後には、戦争が終わり、その戦後3年ほど後に、自分は、生まれて、再び、その2年後には、朝鮮半島で、戦争が勃発して、その10年後、第一次安保闘争があり、ベトナム戦争を挟んで、第二次安保闘争があり、天皇による戦後30年談話、更には、戦後50年談話、70年談話へと繋がっているが、確かに、『記憶の墓を暴く』という作業は、自らの手で、行った試しは、なかったのかも知れない。加害者と被害者とが、依然として、その歴史認識において、交わらないように、今日、まるで、虐めの加害者が、いつまでたっても、加害者意識を、その関係性の中で、認識しないように、同じ繰り返しが、裁ち切れないでいる。あんなに、進歩的文化人や戦後民主主義の虚妄を暴かれても、或いは、あれ程、鋭く問われた自己否定も、一体、今日、何だったのであろうかと、思われてしまう。阿川弘之への『化石しろ、醜い骸骨!』と言う罵声も、一定の距離感を敢えて保つことを偶然の出会い頭でのふとした衝突なのか、それとも、仕組まれた老人への宣戦布告だったのだろうか?阿川ではなくて、三島由紀夫だったら、どうだったのだろうか?或いは、吉本隆明だったら、更には、司馬遼太郎だったら、どうだったのであろうか?と、私の頭の中では、妄想が、まるで、無制限一本勝負の何でもありの幻のデス・マッチか、或いは、全員参加でバトル・ロワイヤルを、熱望してしまいそうである。もう、眼の前にある、ただ、茫洋とした視界不良は、実は、初期白内障ではなくて、そんな進行を遅らせる小手先だけの眼薬による治療だけでは、視界が、晴れることはなくて、自らの手で、自らの記憶と過去の時間を、自らの墓を掘り起こすかのように、暴かない限り、そうやら、視界不良のままなのかも知れない。読み終わると、まるで、自分の頭を、ぶっとい棍棒のようなもので、ガツンと殴られたかの如き感覚に襲われる。

 


三遊亭円丈、『グリコ少年』を聴く:

2016年02月18日 | イベント 祭 催し

三遊亭円丈、『グリコ少年』を聴く:

浅草の六区にある、浅草演芸ホールなどというところは、その昔、母に連れられて、浅草寺にお参りに行くとき、仲店通りを歩いているときに、何やら、お化け屋敷やら、いかがわしい見世物小屋があるから、しっかり、手を握って放さないようにと、言われたことを、どういう訳か、幼い子供心に、残っていたことを想い出す。それにしても、すっかり、通りも、近代的に生まれ変わってしまったものである。外人観光客も、これならば、浅草の仲店通りから、下町情緒を愉しむために、人力車による散策も可能なことであろう。落語は、古典落語も宜しいが、手品や紙切りや曲芸、漫才、漫談も含めた、演芸ものを、ただ、所在なげに、愉しむことも、なかなか、贅沢な半日の過ごし方ではないだろうか?これが、毎日だと、ある意味で、大変なことであろうが、たまには、そんな贅沢な時間の過ごし方があっても良さそうである。今日は、女房殿も伴って、半日、お昼の部を、浅草演芸ホールで、落語鑑賞会の会で、更に、終了後は、久しぶりでの駒形、どぜう鍋をつつくという趣向である。申年生まれの年男だから、この噺家も、72歳になるそうである。同じ昼の部で、出演していた川柳川柳とは、圓生の許で、兄弟弟子の関係で、本人も謂っていたが、前座時代には、意味不明なぬう生という名前であったらしい。それにしても、師匠・弟子という関係の中では、他の出演者もそうであるように、師匠による圧倒的な命名権の専権事項であるが故に、天どんとか、小田原丈などという命名をされた事例があることに、改めて、驚いてしまう。

古典落語とは、ことなり、実験落語家、創作落語というものは、開口一番で、よく使用される、『寿限無』なども、よくよく、古典的な噺を、まさに、その演じる側の口八丁、手八丁で、バイオ・テクノロジーや、スタップ細胞事件や、様々なアップ・デートな話題を絡めることで、全く、新しいバージョン・アップした異次元の新たな落語へと、リメイクされるということは、落語という話芸は、本当に、奥深いし、そこには、一定の先人の著作権を尊重されながらも、自由に、脚色したり、或いは、されることを決して、しかつめらしく、著作権を侵害するななどという野暮ったい台詞を吐くことなく、何か、すべてを『笑いの文化』というオブラートの中で、包み込んでしまうようなそんな大きな『創造的な自由闊達さ』が、あるように、思われるのは、何故なのであろうか?試しに、古典的な『寿限無』も、噺家が、変われば、各人各様の十人十色の噺が、聴かれるのかも知れない。その意味からすれば、まさに、これこそ、『噺』とは、口で、新しく噺を創造し、演じるもので、噺家というものは、それを創造するプロデューサーや演者なのかもしれない。

私は、圓丈よりも、少しばかり、若い世代であるものの、『グリコ少年』に登場する、様々な噺の素材、とりわけ、コーラ、コーヒー、ピザ、砂糖、人工甘味料、給食の脱脂粉乳ミルク、おまけ付きグリコ・キャラメル、森永キャラメル、甘辛・ピリ辛、カバヤ製菓、フルヤ、不二家もペコちゃん、ミルキー、アーモンド・チョコレート、渡辺の粉末ジュースの素、駄菓子屋、サクマのドロップ、サイコロ・キャラメル、等…、どれも、懐かしい食文化の歴史の一コマで有り、又、実は、それは、食文化のみならず、当時の世相や心持ちを表している人生の一場面での宝石にも匹敵するかのようなキーワードのようでもあり、自分たちの『人生そのもの』なのかもしれない。逆説的に謂えば、これらのキーワードを知らない世代には、将来、笑われることのないようなのかも知れない。偉大なキャッチ・コピーとして、大正末期に、使用された、『一粒で300m走れる』というものも、『ミルキーは、お母さんの味』なども、記憶の片隅で、否、実験落語という範疇の中で、まるで、化石のように、時間と共に、永遠に、語り継がれるのであろうか?それとも、古典落語のように、進化しつつ、受け継がれてゆくのであろうか?それにしても、平日の浅草演芸ホールは、団体客とは云え、満席の熱気の中で、程よい距離感の中で、最後には、恒例の節分の豆まきよろしく、グリコ製品を播き散らかして、福のお裾分けとは、実に、嬉しい限りである。終了後に、駒形でのどぜう鍋、どぜう尽くしという定番のコースは、何か、病みつきになりそうである。子供や若い人も、こういう一時を、是非、愉しむことをお薦めしたいものである。固有名詞が忘れがちであると謂うのも、ご愛敬で、健康に留意して貰って、末永く、演じ続けてもらいたいモノである。ドッカン、ドッカン、楽屋裏でも、受けていたことを他の参加者達も、実感されたことであろう。又、機会を改めて、聴きたいものである。少しは、右脳が、果たして、これで、再生されたであろうか?

 

 


デザイナー・フィッシュ?:

2016年02月14日 | 社会戯評

デザイナー・フィッシュ?:

海老の海外加工・生産・輸入業に携わっていたときに、少しばかり、原料である海老の養殖を勉強をしたことがあった。その時、原料の安定供給のためには、まずは、病気に強いこと、そして、養殖時間が短いこと、そして、環境汚染、この時には、塩害が問題になっていたが、更には、飼料も含めた、複合的な垂直統合的な供給システムが、必要であることを学んだものである。あれから、もう、既に、20年余が経過している。その当時は、むしろ、畜産のように、認可されていない抗菌剤や抗生物質の使用のほうが、大きな問題と扱われていた。もちろん、当時から、農産物での遺伝子組み換えとか、有機栽培とか、様々な議論はあったが、鰻や鮪などの養殖やら、畜養などと共に、将来の資源の枯渇に向けての安定的な確保を如何にして、対応するかという視点に、重点が置かれていた。今日、既に、魚の養殖の世界では、病気に強いとか、成長が早いとか、そのDNAを比較検討して、その特性を有した配列(マーカー)を選抜して、育種するという手法が、ノルウェイ・サーモンではないが、様々な魚種で、試作され、現在進行中であるらしい。更には、その養殖の際に使用される飼料ですら、菜食主義ではないが、これまで、人間が実際食べている魚を利用した飼料ではなくて、植物由来とか、人間が食べない材料で、養殖する技術を確立しようとしている。こんな線上には、植物由来の魚などというますます、ヘルシーな魚のイメージが、売り物になってくるのであろうか?それにしても、農産物では、遺伝子組合の安全性が、問題視され、貿易交渉にまで、影響が波及しているのに対して、魚の方では、随分と違った状況になりつつあるものである。天然真鯛と近大真鯛、ブリも、ヒラメも、鮪も、水田で、簡単に養殖される鯉も、将来は、どんな形で、消費者に、提供されるのであろうか?原産地だけでなく、既に、様々な科学的な手法で、食卓のデザイナー化への革命が、現在進行形で、進んでいるのかもしれない。医食同源ではないが、魚に、あんたは、何を食べて、育てられたのですか?と尋ねると、同時に、逆に、人間のほうが、貴方こそ、何を食べて育ったのですかと、問われそうである。いやはや、大変な時代が現在進行形で、進行中であることに、驚いてしまう。

 


韓国、開城の操業中断:

2016年02月13日 | 社会戯評

韓国、開城の操業中断:

中国が、石油の北朝鮮への供給を止まない限り、何をやっても、北朝鮮への制裁は、実効性のあるものではないことは、誰の眼をみるまでもなく、分かりきっている。可哀想なことに、韓国内で、散々、煮え湯を飲まされてきた開城の団地に、進出している中小企業は、一体、どんな操業停止に伴う政府補償を受け取れるのであろうか?それとも、これまで、散々、安い労働工賃で、儲けてきたのであるから、何の補償も見返りもないのであろうか?それにしても、投資した機械や設備などは、どうしたものなのであろうか?北朝鮮側にそっくりそのまま、接収されてしまうのであろうか?それとも、仕掛かり途中の原材料などや半製品などは、誰のリスクで、一体、契約書には、そんなリスクも、記載されてはいないのであろうか?団地での操業契約書を覗いてみたいものである。それにしても、過去の政治的、軍事的な対立がある度に、この開城の団地は、その都度、操業の停止・中断に追い込まれてしまう。もはや、現代財閥創業者による第二の金剛山観光にもなりかねない。もっとも、恐らくは、進出している先の中国の企業は、しっかりと、何の制裁も科せられることなく、今日も操業を続けていることは間違いないであろう。もっとも、現在は、既に、旧正月入りだから、みんな旧正月休みで、帰国しているのであろうか?韓国の後釜は、そっくり居抜きで、中国企業が戴くのであろうか?しかし、それにしても、なかなか、したたかな国である。ある意味では、こうしたかの国のしたたかさは、我々、日本人や日本という国は、反面で、しっかりと学ばなければならないのかも知れない。忠誠を誓ったはずの人民軍の軍総参謀長までもが、未確認情報では、処刑・粛正されてしまったというが、その昔の韓国での朴大統領暗殺事件を、想い起こさざるをえない。もう、ここまでくると、まるで、こうなると、戦国時代ではないが、光秀の謀反を防ぎきれなかった信長の末路を、日本人は、想像せざるを得なくなるかもしれない。どんなシナリオを、一体、日本の諜報機関は、幾つ、持っているのであろうか?中国にとって、韓国にとって、米国にとって、そして、日本にとって、どんなシナリオが、ベストで、或いは、ベターで、更には、ワースで、そして、最悪のシナリオは、?外交評論家は、決して、口を開こうとしないが、、、、、誰か、ポートフォリオ分析をする軍事・外交評論家は、いないのであろうか?マトリックス分析が、出来そうな気がしないでもなかろうに、、、、、、、。そうした最中での韓国による核武装論や日本による核武装論の論議は、なかなか、興味深いものがある。それらの議論が現実的か否かは、別にしても、両国の心理的なフラストレーションが、理解出来なくもない。即ち、韓国側にしてみれば、対話と平和外交という大義名分の下、一方で、融和策やら、中国頼みの経済外交政策にも拘わらず、思うような期待するシナリオにはならず、勝手気儘にやられ、かといって、日米中の狭間の中で、軍事的な抗戦論を唱えるわけにも行かず、又、さりとて、反日の国是を、曲げるわけにもゆかず、米国の政治的な圧力や核の傘の下、日米との連携もせざるを得ず、ひたすら、我慢とフラストが、経済運営の悪化とも伴いつつ、飽和点に、達しようとしているのであろうか?誠に、八方ふさがりの打つ手なしの状況であろうか?拉致問題も、これでは、どうなることか分からないであろうし、何処の国も、打つ手がないのが、現状なのであろうか?火中の栗を敢えて拾おうとする国は、当面、出てきそうにない。

 


角川シネマ新宿、『ディーパンの闘い』:

2016年02月12日 | 映画・テレビ批評

角川シネマ新宿、『ディーパンの闘い』:

映画というものは、見終わった後で、何か、悪いものを食べてしまった様な後味が感じを抱くのも、又、ホッと胸をなで下ろすのも、監督の胸先三寸なのであろうか?その意味では、この重苦しいテーマに富む映画のエンディングと、生き詰まるラスト10分間の展開には、ある種の監督へ感謝の意味を伝えなければならないかも知れない。カンヌ映画祭のパルムドール最高賞受賞作品であるのも、成る程、納得される。四半世紀にも及ぶ長いスリランカ政府とタミル・イーラム解放の虎との内戦によって生じた主人公達・難民が、偽装家族になりすまして、フランスへと渡るが、異国の地で、文化も、宗教も、言葉も、異なる環境下で、互いの絆と愛を深めながらも、現地の麻薬組織の売人チンピラ・グループの抗争に巻き込まれる中で、やむなく、過去に、決別した暴力から、逃れられなくなるという、まるで、昔の任侠路線の映画さながらの内容であるものの、そこには、今日的な重い問いかけとしての、『政治難民』、『異文化・共生』、『宗教の違い』、『学校での虐め』、『家族とは』、『identity』、『二重の差別』、『貧困とは』、そして、人間は、そんな中で、果たして、どのように、生きていくべきなのか?そして、どんな限られた選択肢が、残されているのか?それとも、残されていなかったら、どんな選択肢を選ばなければならないのであろうか?パスポート入手のための偽装家族という形から、本当の真の家族・夫婦・親子へと時間的な経過と共に、露わになって行くフランス郊外の老朽化した団地に巣くう犯罪者集団の抗争を通じて、しかも、そのフランス人チンピラの世界でも、同じくよそ者としての二重の差別と貧困の関係が、描かれてもいる。それは、紛れもなく、表の一見、平和そうな、幸福そうに見えるシャバの世界も、又、裏で、生き抜いている難民達の世界も、同じように、どこか、『暴力』という力による世界の均衡が、微妙に、何かのきっかけひとつで、崩壊してしまうきわどいガラス細工のような壊れやすい世界なのかも知れない。古アパートの管理人という職業も、家政婦という職業も又、生き抜くためには、殺されるよりはマシという限られた選択肢の一つであることを、私達は、頭で、理解出来ても、本当に、理解出来るのであろうか?カメラワークの中で、逆光線を活用したようなシーンが、幾つか、みられるし、又、元ゲリラ兵士であったディーパンの心の奥底に潜むであろうドロドロした鬱積したマグマのような怨念が、崇高なインド象の映像と共に、ジャングルの密林の中から、垣間見られるのは、何かを象徴しているようでもある。それでも、エンディングが、結局、妻の姪がすむイギリスへ渡れたと云う事、そして、二人の子供とおぼしき赤ん坊をあやすシーンには、やはり、胸をなで下ろせたことは、地中海で、難破して溺死したり、チンピラの抗争で、流れ弾に当たって、非業の死を遂げるエンディングよりは、マシなのかもしれない。或る日、突然、管理人に、難民がなったら、我々は、どんな対応をするのであろうか?彼らのidentityや尊厳を、しっかりと、日本人は、人間として、リスペクト出来るであろうか?考えさせられる映画である。

 


仕事がなくなるという恐怖:

2016年02月11日 | 社会戯評

仕事がなくなるという恐怖:

冗談めかしく、『(教養)今日、用事がない』とか、『(教育)今日、行くところがない』などと、笑って言っているうちが、花であって、本当にそうなってしまうと、考え込んでしまうものであろう。何でも、これからは、破壊的な技術革新の発展や、人工頭脳の進展如何では、100以上もの職業が、この世の中から、消滅してしまう可能性が大きいといわれている。それにしても、訳の分からぬような『生産性向上』とか、『高付加価値化』などと言われると、私などは、『ほんまかいな!?』などと、疑いの眼で、みた上に、聞き返してしまう。破壊的な技術による、或いは、新たなビジネス・モデルの異業種からの参入や出現で、或る日、突然、これまで過去の繁栄を極めてきた業種が、恐竜の滅亡のように、苦戦を強いられることも、決して、あながち、間違った見方とは云えなくもない。例えば、FinTechではないが、近い将来、銀行・証券会社なども、膨大な信用データなどという財産に胡座をかいていると、どこかの若造IT起業家による新たな投資サービスで、足許を掬われかねないかも知れないし、ウーバーやAirbnbなどの、それこそ、法的な隙間を巧みに、かいくぐっているような新たな隠れた需要を掘り起こした新たなビジネス・モデルに、タクシーや旅館業・ホテルなどの業界も、あっさりと、やられてしまうかも知れない。破壊的な技術革新というものが、人々に与える、『仕事を奪われかねないという恐怖』に対して、一体、我々は、どのように、自らを防衛しなければならないのであろうか?どんなに、善意で、政府に期待したところで、今や、何処の世界をみても、そんなことを真剣に、考えてくれるような政府は、何処にも存在しないであろう。人工頭脳は、ますます、今後、人間の有する特性である、『予想・予測・判断』というクリティカルな分野にまで、応用が、進化・発展することは間違いであろうし、単なる自動運転とか、無人化だけには留まらなくなるであろうことは、誰の目を見ても理解出来よう。更には、人間固有の『定型化されえない』仕事にも、触手を伸ばしかねないかも知れない。対人スキルとか、クリエイター・スキルとか、芸術だとか、安閑としていられるのも、今や、時間の問題なのかも知れない。フレキシ・キュリティー(Flexible+Security)なることばのように、離職に伴う、ある一定期間での賃金的な保証を付与する代わりに、柔軟に、労働力の流動化と職業訓練を施すことで、より新たな職種へと転換されるプログラムのようなものが、これからは、必要になってくるのであろうか?そのことは、東日本大震災からの復興にも云えるわけで、何も、元に、物理的に、戻ることが、復興では決してなかろうに、、、、とも思われる。謂わば、自らが、自身の手で、革新性を身につけることが可能なような人材育成や継続的な再教育システムを、受けられるような仕組みとして、社会に存在しない限り、或いは、それを誰もが自由に選択できる環境を提供しない限り、何日までたっても、『仕事がなくなる恐怖』というものは、永久に続くであろうし、決して、労働市場の革新的な流動化は、生じることなく、又、成長への萌芽や一大転換などは、起きるべくして起きることにはならないような気がしてならない。ハロー・ワークなどは、その意味では、何の役にも立たないのかもしれない。

 

 


中高年非正規の増加と実質賃金低下:

2016年02月10日 | 社会戯評

中高年非正規の増加と実質賃金低下:

それにしても、随分とバラ色の未来が、その輝きどころか、深刻な展開になってきてしまったものである。一体、非正規労働者の高齢化は、ますます、留まるところを知らないのが現状なのであろうか?石油価格が高騰しても、先行きが懸念され、為替が円安になったから、景気が回復するかと思いきや、今度は、輸出が伸び悩み、おまけに、今度は、日銀の黒田派による旧白川派に対する多数決によって、マイナス金利へと、一体、どっちに転んでも、エコノミストの云う事は、当たった試しがない。もし、当たるとすれば、それは、時間軸を逆廻しにして、将来から過去を見渡したときだけなのかも知れない。それ程、あらゆる事態が、先読みと先取りと、折り込み済みと、或いは、真逆のサプライズか、異次元の対応か、バズーカか、などであろうか?官製政府主導による賃上げも、最近では、一向に、聴かれなくなってしまったし、産業界も、世界的な株安と中国経済の減速と資源役の中では、体力を身構えないとやっていけないとばかりに、萎縮してしまうのであろうか?もはや、一応、報道自主規制ではないが、一億総萎縮化状態へと陥ってしまうのであろうか?何とも、お先の見えない、状態へと向かいつつあるのであろうか?年寄りは、ますます、年金防衛に、邁進し、体力作りと、定年雇用延長で、若者の仕事を浸食し、しっかりと、居座ったままで、まるで、そのこれまで築きあげてきた、既得権益を、死ぬまで、決して、放さないぞとばかりに、若者への富や知の移転を、拒んでいるかのようである。すっかり、最近では、成長戦略の3本の矢も、聞かれなくなりつつあるし、ましてや、岩盤規制の改革などという言葉も、バス事故以来、安全の開放・改革後退の影に隠れて、或いは、甘利の一件以来、はかばかしくない。米国大統領予備選も、共和・民主共に、極端な左右の政治候補や、世論の動向は、これ又、心配の種である。まるで、世界的に、どこもかしこも、南極の氷河が、溶けだしてゆくかのような様相を呈し始めているようで、何とも、薄気味悪い様な気がしてならない。こういうときには、不思議と、深刻な天災や事故や、おぞましい事件が、起きなければ宜しいが、、、、、、。