小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

サウジアラビアの次は、ベトナムの友人ご一行様か?:

2016年08月18日 | 旅行

サウジアラビアの次は、ベトナムの友人ご一行様か?:

サウジアラビアの留学生を迎えた後は、今度は、古いベトナム人の友人が会社の幹部を連れて、日本へ展示会の見学のついでに、お盆休み期間中にやってきた。全く、この期間中の交通の混雑など、全く、眼中になく、誠に、ベトナム人らしい、脳天気な連中である。しかも、私に、富士山をみたいので、レンタ・カーを借りて、お金を支払うから、6人丸ごと、一日掛けて、観光できないかと、、、、、、、彼らは、ベトナムでは、運転手付きだからよいが、私の経験では、アメリカ駐在の時も層だったが、運転手兼、ツアーコンダクターは、すべて、自分一人で、請け負わざるを得ないのが、宿命である。結局、国民性の生かどうかは、判らないが、案の定、予想はしていたが、各人てんでんばらばらのニーズで、朝八時に、都心のホテルにピックアップに往けば、いきなりWiFi ルーターが借りられないかと、何でも、前の晩、成田空港で店が閉まっていて、駄目で、結局、近くの新橋のヤマダ電機で、ルーターを借りに云ったが、最終的には、親切な店員が対応してくれて亜、SIMカ^ドに、アクティベーションまで、英語でやって貰って、ネット接続が可能になった。すると、我も我もと、結局3人が購入して、1時間ばかり、余計な時間を費やしてしまった。何やかやで、出発は、11時過ぎにずれ込んでしまった。そこから、首都高速経由で、一路、河口湖へ、雲に蔽われた富士山をみながら(?)五合目まで、往きたいとかで、車で、行こうとしたら、この期間は、マイカー規制で、通行禁止になっていて、結局、山中湖へ、そして、混雑を避けて、御殿場のプレミアム・アウトレットへ、何せ、初めての所ばかりで、外人にでも、連れて行って貰わなければ、来ないところばかりである。それにしても、ひどい混み方である。時間をわざとずらしても、何せ、15日では、如何せん、無理である。それにしても、買い物も、スニーカーとか、靴が多いのは、何故だろうか?本物と云えば、本物だが、逆説的云えば、如何に、現地では、偽物が多いかが、判る。困ったものである。それにしても、中国人とか、外国人観光客、とりわけ、アジア系が買い物は、多いのには、驚いてしまう。軽井沢のショッピングセンターも、アジア系が大きな声で闊歩しているそうである。何とも、品格が疑われる。これは、国民性だけなのであろうか?それとも、拝金主義の成せる技なのであろうか?美味しい、お寿司をご馳走になったから、あまり、文句も言えないけれども、、、、、、。更に、お金を落として貰うべく、帰りの時間を午後八時まで、すらしたせいか、帰りの高速道路は、多少、混雑していたが、何とか、夜10時半までには、ホテルに戻ることが出来たのは、幸いであった。結局、富士山は眺められなかったことから、又、次回、春にでも、桜の季節に、富士山を是非見に来たいと、云う事になった。


エアビを、日本人客も利用し始めてきた:

2016年06月07日 | 旅行

エアビを、日本人客も利用し始めてきた:

驚いたことに、エアビでの予約活用に、いよいよ、日本人も参入し始めたようである。もともと、海外インバウンド向けに、英文で、設定していたにも関わらず、どうやら、外人観光客だけではなくて、海外在留日本人や、日本に住んでいる純粋の日本国籍の人達が、サイトを観て、予約を入れてくれることになってきたようである。考えてみれば、逆に、日本人が海外旅行に出掛ける時に、エアビを利用していれば、成る程、その又、逆も可也であることは、決して、不思議なことではなかろう。インスタグラムなどと云うものも、これまでは、どうしても、オジサンには、プリクラのようなデコレーション写真は、どうしても、文章中心の、言葉中心の世代だから、どうも、馴染まなかったけれども、マーケティングの観点からすれば、若い女性の感性に、共感して貰えれば、必然的に、男性の方は、自ずと、ついてくるものであろう。そう考えれば、まずは、女性のファンを拡大する方策が、緊急、且つ、不可欠な必須要件なのかも知れない。そう考えると、料理やサービスの質を落とすことなく、しかしながら、その量や、女性の好みを重視したメニューの開発も、考慮しなければならなくなることでしょう。現代の若い女性の感性というモノを、十分理解して、こちらも、対応しなければ、どうやら、いけないようである。随分、様々なことを教えて貰うことになってきたのは、驚きでもあり、良い刺激であることは、どうやら、間違いないようである。

 


Airbnbオーストラリアからの旅行客に、教えて貰う:

2016年06月04日 | 旅行

Airbnbオーストラリアからの旅行客に、教えて貰う:

それにしても、色々なことが、個別に、話をしてみると、分かり始めるモノである。海外旅行をするときには、交通費は、金持ちでも、貧乏人でも、同じである。もっとも、ファースト・クラスとエコノミーでは異なるけれども、従って、宿泊費を節約したし、食事代も、中には、たまには、美味しいモノを食べても、毎日の食事は少々、コンビニのお握りでも、カップ・ヌードルでも、節約してしまうそうでそうである。そう考えると、海外旅行客と云っても、様々な客層がいて、バックパッカーなどでは、そういう傾向がけんちょうであるものの、多少中年で、資金に余裕がある人は、逆に、レストランで食べられる食事を、リーズナブルに、ボリュームたっぷりに、家庭風の味付けで、日本食アンドを提供されると、驚くほど、感激するそうである。因みに、アルコール飲料も、日本は、大変安くて、しかも、すき焼きや刺身の盛り合わせ、鯉の甘煮、アユの塩焼き、野菜の天ぷら等などと、次から、次に、日本人でも贅沢なほど、豪華絢爛に出てくると、それこそ、多いに、感激してしまうモノである。又、食べるだけでなくて、大きな農家の台所で、一緒に、作るところを、見せることで、お手伝いして貰ったところ、多いに、興味を持たれた。蕎麦打ち体験も、おやき作りも、餅つきも、天ぷらも、手巻き寿司作りも、すき焼きの鍋をつつくのも、何でもかんでも、コンテンツ足りうることが、納得された。おまけに、作り手は、何せ、元軽井沢のホテルで修行したコック経験のあるホスト・ファミリーのオーナー・シェフだから、味とプレゼンテーションの技術は、一流の本物である。それを勘案すると、逆に、安すぎるのかも知れない。成る程、喜ぶことは、必至である。ーオーナーによれば、あまり、期待していないのに、実際に出されたモノは、想像以上に、優れものだったので、ボリュームも品質も味も含めて、期待以上のレベルだったと喜んで貰えた。しかも、オーストラリアでは、乗ったことのなかったスポーツ・タイプの電動アシスト自転車を半日活用して、標高900メートルの地域の坂道を登ったり降りたりして、駅まで、車で10分くらいの所を、走破してしまったそうである。日本酒も判らないから、酒屋で、アドバイスして、有名な濁り酒と純米原酒とを購入して貰い、それぞれ、小瓶で、夕食には、お猪口で、味の違いを愉しみ、終了したら、箸と箸置きを、セットで、記念のお土産に、持ち帰って貰った。温泉の名称に関して、布引伝説を説明したり、とにかく、文化と歴史と民話も含めて、地元のお年寄りと交流したり、或いは、朝食には、たまたま、若い二人の女性客が、英語を話したので、朝食も、英語で会話できたりと、見知らぬ旅先で知り合った日本人とも話が出来たと、大変喜んでいた。ベジタリアンだったから、存分に、野菜を豊富に、食べられ、満足して貰いました。最後の朝には、フルグラに果物とヨーグルトを載せて、こだわり卵のスクランブル・エッグと一緒に、食べて貰い、新幹線で、次の訪問地の京都へ、向かうことになっているそうです。合計、2週間での滞在でも、小諸では、温泉を毎日愉しみ、電動自転車で、体を動かしたり、新鮮な野菜や、日本食を、リーズナブルな価格で、愉しみ、東京、下北沢でのパンクロックのライブ・ハウス体験とは、全く異なった体験が出来て、凄いことであると、唸っていました。(エレキギターを手作りで製作、ネット販売しているそうで、だから、下北沢のパンク・ロックも詳しいはずである)農家だと思っていたら、どっこい、都会のそれよりは、ずっと、静かで、快適だったと、印象を、ノート・ブックに、書き込んで貰いました。先週の香港からの若い女性もそうでしたが、オーストラリアのこちらの中年のカップルも、又、日本文化や歴史、住民との意思の疎通を、図りたくて、わざわざ、選んでくれたと話してくれました。今回は、二度目の来日ですが、次回は、北海道に行きたいというので、いつでも、メールで、アドバイスするから、又、是非、来日して貰いたいと、再会を約束しました。

 

 


香港の若いワーキング・ホリデーに学ぶ

2016年05月24日 | 旅行

香港の若いワーキング・ホリデーに学ぶ:

ボランティアをしていると、随分と、色々な海外旅行者達に、出会うと共に、同時に、生き方を勉強させてくれるのでありがたい話である。まだ、独身の若い女の子である。何でも、1年間のワーキング・ホリデーを活用して、京都の着物レンタル会社で、アルバイトをしながら、たまたま、軽井沢から、長野や金沢・福井を回って、京都に戻る度の途中に、宿泊してくれている1人である 最初、メールを英語で打ったところ、流暢な日本語で、返事が返ってきた。どうやら、英語よりも、日本語の方が、勉強になるらしい。日本の歴史や文化、食文化も含めて、農家の体験も貪欲に、勉強したいので、都会の画一的なホテルや老舗旅館よりも、敢えて、格安な農家民宿を選択したと、最初は、素泊まりだと云っていたのに、どうやら、コンビニで、食事は、お握りで済ます予定だったらしいが、結局、話をしている内に、蕎麦も自分で、打つ体験をした上で、明日の晩は、民宿の75歳になるお母さんと一緒に、天ぷらを作ることにも、挑戦したいというではないか?そして、今度は、夏休みには、ちゃっかり、軽井沢で、アルバイトしながら、小諸へも、再び、電車で、泊まりに来たいと言うことになってしまった。確かに、都会の大きなホテルでは、オーナーシェフが、料理の説明をしてくれることはないでしょうね、明日の朝は、畑に出掛けて、レタスとキュウリとトマトを朝採りしてきて、自分で、サラダをつくり、シェフ特製の手作りドレッシングをかけて、食べることにしたいと、、、、、筍、蕗、黒豆の煮付け、グリーン・アスパラ、わさびの説明、お米の説明、寿司の説明、そして、江戸前・前浜の説明から、例によって、江戸時代の醤油の話、天ぷらや寿司の歴史、極めつきは、刺身のつまが、食べられることを初めて知ったというこの驚きに至ると、何をやであろう。大葉をつまと一緒に、食べた後では、手作りの健康ドリンクの赤じそジュースが、振る舞われ、その色と味に、驚嘆していた。勿論、無添加のリンゴ・ジュースは、お土産に、ジャムやクッキーと共に、持ち帰るという。それにしても、未だ、若いのに、大したモノである。言葉も、半年くらいで、判るようになったという。確かに、外国語は、生活の中で、学ぶのが、一番である。今は、スマホでも、翻訳が簡単に検索できるから、便利になったモノであるが、しかしながら、生き方までは、流石に、翻訳は可能ではない。全く、五里霧中の中での試行錯誤のアナログである。京都に住んでいる私のベトナムの友人夫婦を紹介することにした。満月が、明るくて、綺麗だと、これも又、感激していた。若いと云う事は、とにかく、素晴らしいことである。李賀ではないが、『我が心、17にして、朽ちたり』の私達、団塊の世代には、羨ましい限りの無限の柔軟な吸収力と感受性であることに、改めて、教えられると同時に、学んだ。

 

 


函館・江差・松前の桜10景を訪ねる:

2016年04月30日 | 旅行

何と、函館は、カニ族で北海道を周遊した頃から、もう45年ぶりである。今年は、これで、花見が、3度目である。東京・小諸・函館と、、、、、、、。ブラタモリで見た函館の街並みが、見たくなったので、2泊3日のお手軽な旅に夫婦ふたりで参加した。もっとも、開通したばかりの新幹線ではなくて、往復飛行機の旅である。年寄りには、こちらの方が、楽なのかも知れない。ついでといっては何であるが、江差・松前は、行ったことがなかったので、ぐるりと、観光バスで、廻れたのは、幸いであった。少なくとも、今後、これらの小さな地方都市でも、充分、観光的な価値がおおいにあると、実感した。しかも、景気の反映というものは、やはり、人が来て初めて、そして、お金がそこに落ちなければ、ニシン御殿も、建たないし、ましてや、ニラの栽培で、儲からなければ、ニラ御殿も建つわけがない。その意味でも、地方都市の栄枯盛衰は、その建物にも、皮肉にも、表れていることが伺われて、面白いモノである。それにつけても、歴史とか、文化とかというものは、カネでは、買えないものである以上、今日、遺されたものは、大変貴重な観光資源であることが了解されよう。函館などと云うところは、浦賀に上陸したペルリ提督が、有名であるものの、考えてみれば、当時のことを慮れば、北の海防というものは、既に、当時から、重要であったことがここからも窺える。何も、横浜開港だけが、唯一の開かれた港ではないのである。函館も、そのうちの一つだった訳である。しかも、昔から、『北前船』による海上交通による物流拠点であれば、当然、文化自身も、一緒に、お菓子なども、京風のものが、移転されて独自の発達をみたものであろうことは、成る程と納得される。鰊御殿なというものも、当時の豪商の富と文化と心意気を、今日まで、調度品や部屋の佇まいなど、伝えていて、趣きがある。観光の在り方というものは、何も、有名な京都や東京ばかりに限ったモノではないことが、了解される。それにしても、町の発展の仕方、街並みの歴史的な作られ方、函館戊辰戦争の歴史とか、考えてみれば、コンテンツというものは、そこかしこに、いくらでもあるものであり、バスで、容易く、峠を越えても、戊辰戦争当時は、山道を迂回して、激戦が繰り広げられたことが、実感、理解されよう。それにしても、有名な函館山の夜景には、中国人観光客や外人観光客が数多くて、それこそ、押すな押すなの盛況ぶりには、驚きました。又、それが、そっくりそのまま、翌朝の大沼公園でのホテルの朝食会場にも、反映されているとは、想像だにすら、していませんでしたが、それはそれは、凄まじいものでした。12台のバスの内、10台が、中国人観光客のバスで、わずか、2台が、我々、日本人客のバスだったそうです。そして、函館朝市にも、同じ光景が、反映されているとは、凄まじい勢いである。この人達が、間違いなく、個人旅行で、再び、ゆっくりと、リピートしてくれると、観光の裾野は、今後とも、大きく、拡がることは、間違いないでしょうね!文化・体験型へと、爆買い型から、移行してくることは、必至であり、たからこそ、コンテンツが重要になってくることでしょう。疑いのないところですし、対日感情も、当然、変化してくることでしょうね。まるで、蒙古襲来の如き様相でした。トラピスチヌ修道院では、昔、バター飴が有名だったのに、今日では、平均年齢が高齢化してしまい、クッキーの生産に、移行してしまったと、一寸、淋しい説明がありました。そう言えば、細長い缶のバター飴を昔、お土産に買ったのを、懐かしく想い出しました。45年前に見た五稜郭での『碧血の碑』(義に殉じた人の血は、碧い)という碑が、戊辰戦争の激戦地の峠のダムの横にも、あることを、ガイドの説明で、知りました。石川啄木の記念館が、土方歳三とともに、あるのも、時代を反映しているのでありましょうか?函館市内の坂道や市街路面電車の風景も、各国の基督教会の建物も、なかなか、街並みを保存することで、景観も含めて、観光地というものは、鰊御殿でも、豪商の商家でも、建築遺産というものは、やはり、保存することで、付加価値が高まることが、再認識される。それでも、人口の減少が止まない現実は、おおいに、困ったことである。もっとも、皮肉にも、都市が衰退すればするほど、都市遺産というものが、逆に、価値が上がってくるという現実には、本当に、困ったことである。ヒトが、足を運び、そして、リピーターとして、再び、やってくるようになり、そこに、お金が落ちることで、又、元気になることは、やはり、必要不可欠であり、年寄りは、お金を地元に、落としてあげることくらいしか、出来ないのであろうか?実に考えさせられるものがある。小椋佳の作詞作曲で、美空ひばりが歌った、『函館山から、立待岬、、、、、』という歌を想い出す。

 


ツバメの巣作りに出会う:

2016年04月15日 | 旅行

ツバメの巣作りに出会う:

小諸の北西部にあるとても景色がよい糠地の里山生活体験宿である、青雲館と、今後の地域活性化での緩いネットワーク作りに関して、意見を交換するために、来たところ、庭先に張られた線の上に、尾の長い鳥が、二留まっているのが、眼に入ってきた。ひょっとして、あれは、ツバメかもと、眼を懲らせば、確かに、嘴、赤い色が一寸、見られる長い羽である。宮坂さんの話では、毎年来るので、軒先には、木製の板で、巣を作りやすいように、しているそうである。何でも、150年以上前の古民家であるから、きっと、昔から、毎年、はるばる、海を越えて、やってくるのであろう。暫くすると、一和が、地上に舞い降り、歩き出しては、止まりながら、何やら、雨が降った後の土をつついている。虫にしては、何やら変である。『そうか、巣作りの泥をついばんでは、運ぶのか!』と思いきや、軒先へ、サッと飛んで来て、嘴で、その泥を木の板のうえに、くっつけているようである。やがて、一羽から、二になり、つがいであろうか、交互に、泥を運び始めた。都会では、酢が出来上がったのを見かけるものの、なかなか、貴重な瞬間である。家人によれば、毎日毎日、必死の思いで、泥土を運び込むそうである。多少、軒下が、泥で、汚くなるが、縁起もので、縁起がよいというので、毎年、受け容れていると、成る程、そう言えば、昔、南タイのハジャイという都市部で、海岩ツバメが、民家の窓から、家の中に入り、その家は、燕の巣のお陰で、大金持ちになったという話を現地の人から聞いたことを想い出したが、毎年、燕がやってくるのは、まるで、家族が、増えて、舞い戻ってくるかの如きで、縁起がよいではないだろうか?何も、金持ちにならなくてもよいから、何やら、『招福』ではないが、健康で、安心安全に、毎年毎年、一緒に、無事、暮らせるように、戻ってきてくれるのであれば、それも、宜しいではないか?150年前の家人のご先祖さまも、同じような事を思っていたのかも知れない。そんなことを思いながら、眺めることも、又、日々是好日でもあるのかも知れない。今年、初めて、偶然に、こんな現場に遭遇するとは、面白い巡り合わせである。貴重な瞬間を撮影してみた。軒下は、一寸無理だったが、、、、、、。

http://seiunkan.com/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B9-2/

 


Japan Information というカテゴリーで英文ブログを創る:

2016年03月26日 | 旅行

Japan Information というカテゴリーで英文ブログを創る:

酒と食事をとりながら、若干、世代の異なる近所の住人達による話の中で、海外からやってくるInboundの人達に、日本のよいところを、ガイド・ブック風ではなくて、文化や歴史、生活、地域社会紹介も含めたそんな英文のブログがあれば、私達でも、コメントを英文で、載せやすいというそんな、無茶ぶりが、酒の程よい酔いに紛れてか、或いは、どさくさに紛れて、出てきたものだから、一同、うち揃って、ペン・ネームまでも、含めて、何人も、候補名があがり、終いには、とある名前に、全会一致(?)で、盛り上がった末に、知らぬ間に、結着してしまった。そんなこんなで、それでは、ボランティアの活動の一端として、人肌脱がざるをえないということで、これまでに、書きためておいた、文化や、外国人観光客に、口頭で、説明してきたような事柄を、記憶を頼りに、簡単な英語で、(難しい表現は、出来ませんので)、したためてみようということにしました。

 

Komoro Diary By Andre というタイトルです。

 

http://nkmrimc.wix.com/komoro-diary-andre

 

Legend of Nunobiki Kanno

SANADA Samurai Battle Field Festival: March 22, 2016

Sushi & Tempura as Original FAST Foods ?! : March 21, 2016

How to enjoy ONSEN, Hot Spa, in Japan ?: March 20, 2016

Enjoy local amateur Kabuki Performance: March 19, 2016

Thinking of Japanese ZOUKIN: March 16, 2016

 

布引伝説、真田祭りでの火縄銃、寿司・天ぷらの歴史、温泉の効用、愉しみ方、祢津の田舎歌舞伎、日本の雑巾、等…、思いつくままに、、、、、。未だ、完成とは言い難いので、ボチボチ、やっていこうかと考えています。これからは、一人に限定するのではなくて、有志が集まって、藤子不二雄A.B ではありませんんが、複数のアンドレなる人物が、寄稿する方式も宜しいのではないかとも考えています。はてさて、どうなることやるお楽しみです。

御笑覧のうえ、奇特な方には、リンクやシェアーをお願い致します。

爆買いの旅行者は、対象外とさせて戴いておりますので、ご容赦下さい。

 

 


四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その10:現代の便利さについて

2015年07月21日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その10:現代の便利さについて

今の世の中は、カネさえ出せば、何でも、手に入るものなのであろう。自分の力ではなくて、一寸、アクセルを踏み込むだけで、急峻な坂も、難なく、登れるし、ワイパーを駆動させれば、雨も何のその、行く手の景色は、クリアになってしまうものである。防水も、菅笠や簑笠ではない。吸湿速乾の素材を活用した下着やレイン・ウェアーで、快適に、過ごせる。飲料水にしても、竹筒に入れて、湧き水を都度、補給するのではなくて、今日では、保温の効く魔法瓶で、或いは、自動販売機で、水分補給も可能であろう。もっとも、そうした便利さは、その恩恵に預からない情況の中に、置かれたときに初めて、或いは、災害時になって初めて、実感されるのかもしれない。ありとあらゆるものが、進化を遂げ、カスタマー・ニーズを具現化し、これでもか、これでもかと実現化して行く結果、「便利」が当たり前と化してゆくことになる。そして、それに、慣れ親しめば親しむほど、便利さは、当たり前となり、その有り難みは、いつしか、薄れてゆくことになるのかもしれない。いつも、メール中心で、連絡しているのに、今回の旅行中には、葉書で、しかも、虫が這って歩くような字で、友人達に、書き送った。通信手段はどうであれ、近況報告をしあうということは、嬉しいものである。歩くことの意味、早起きの意味、雨に打たれることの意味、不殺生の意味、読経を挙げるということの意味、作法を守ると云うことの意味、当たり前に朝食を戴くということの意味、見知らぬ旅の宿での見知らぬ人と会話や挨拶をするという意味、様々な日常生活の中で、普段自分では気が付かなかったことを教えて貰った決め打ちの旅であったような気がしてならない。喘ぎあえぎ、3時間半余りを要して、自転車を押しながら山中、登ってきた峠をわずか、30分程で、あっという間も、文明の利器では、冷たいエアコンの効いた中で、景色を見ながら、過ぎ去ってしまったことには、実にガッカリさせられた。無事に、これで、1番霊山寺から、17番井戸寺まで、今回の阿波決め打ち、自転車による足馴らし篇は、これにて、徳島市内のホテルに泊まるだけで、無事、日程完了である。徳島駅で、輪行バッグから自転車を降ろしていると、安保戦争法案に反対する労働組合の集会に、囲まれてしまった。明日は、フェリーに乗って、再び、東京港まで、帰るだけである。何とか、三つの台風だけは、うまく、逃れることが出来そうである。一路、徳島市内のホテルを目指して、再び、小雨の降り出した中を、自転車をこぐことになった。この晩は、久しぶりに、美味しい阿波牛と寿司でも食べようかと、既に、気持ちは、俗世間に逆戻りの食欲であるのは、凡人、困ったことである。眉山方向とハーバー・ビューの景色を眺めながら、食べる阿波牛と寿司は、久しぶりの有難いご馳走のように、自分の胃袋には、思えた。日常生活の中で、如何にして、凡人は、遍路の精神を保持できるのであろうか?成る程、山中で、峠越えの時に、山頭火の歌ではないが、「ほととぎす、明日はあの山越えて行く」という感慨が、初めて理解し得た喜びは、部屋の中で本を読んでいるときの感慨とは又、別のものがある。久しぶりに、この旅行中に、何句か、発句してみたが、たまには、旅の中で、やってみたいモノである。
「白鷺の 翼羨む 青穂かな」
「谷の雨 迷い打ち消す 沢の声」 
「冷や汗も 熱くしたたる 鬼龍野(オロノ)谷」
「御仏に 心通わす 雨の経」
「石仏 雨に苔むす 遍路道」
何故か、すべて、雨の中での句であるのは、興味深い。
今回は、無事、足馴らしが終了したが、残りは、天気の良い10月頃にでも、今度は、一挙に、無理することなく、車で、ゆっくり、打つことにしてみたい。次は、作法をしっかりと、初めから、愉しみたいものである。これにて、ウォーミング・アップの足馴らしは、ひとまず、終了とする。次の計画を練りたいモノである。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その9:不殺生は難しい:

2015年07月20日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その9:不殺生は難しい:

十善戒という遍路における行動規範がある:
1. 不殺生:生きているもの、すべての命を大切にする。
2. 不偸盗:物を盗まず、他人のものを大事にする。
3. 不邪淫:性は尊いものであり、節度をもって、性を考える。
4. 不妄語:うそ、偽りはいわず、真実をはなすことを心掛ける。
5. 不綺語:虚飾のことばは話さず、飾らない本当のことばを話す。
6. 不悪口:悪口は言わず、相手をおもいやることばで話をする。
7. 不両舌:どの人に対しても二枚舌を使わず、温かな気持ちで話す。
8. 不慳貪(ふけんどん):強欲をはり、貪ることなく、感謝の気持ちで過ごす。
9. 不瞋恚(ふしんに):怒りを抑え、心を落ち着けて、優しい気分で過ごす。
10. 不邪見:邪な間違った考えを捨て、どの人にも平穏な気持ちで接する。

別に、これらは、遍路の旅の道中に限ったことではない。日常生活の中でも、あって然るべきものであろう。もっとも、熾烈なビジネスの世界でいきていると、そうも言ってはいられないかもしれない。それはともかく、お遍路の旅行中、一番悩ましいのは、初めにあげられた「不殺生」ではないだろうか?とりわけ、今回、様々な生き物が現れる。まずは、「蚊」、「蟻」、「蜂」、「やもり」、「沢蟹」、「雨蛙」などであろうか?面白いことに、宿坊の中には、しっかりと、防虫・防蚊の殺虫剤のべープマットや蚊取り線香が、建物内や室内には、備え付けられている。どうしたものであろうか?それでも、部屋の中まで、蚊は、侵入してくる。もっとも、デング熱が、徳島県で、流行っているという話を聞いたことがないが、何とも、悩ましい限りである。鬼龍野(オロノ)の山中では、雨の降る中で、カーブ・ミラーの所で、一休みしていると、すかさず、大きなスズメバチとおぼしき蜂が、ブーンという大きな羽音を立てながら、耳許をかすめてゆく。恐らく近くに、巣でもあったのであろうか、それとも、偵察隊の一匹であろうか?左手で持つ金剛棒で、叩きつぶすわけにもゆかないし、仕方なしに、その場を撤退・移動することにした。しかも、沢沿いに、坂道を登ってゆくと、小さな赤い「沢蟹」が、足許と自転車の車輪の間をチョコチョコと挟みを立てながら、まるで、威嚇するかの如く、横切って行く、これでは、車両で登ってきたら、間違いなく、無意識のうちに、轢き殺してしまっているに違いない。実際、小諸の里山では、真夏の夜間に雨の日などは、小さな雨蛙が、ピョコピョコと飛び跳ねて道を横切ってくる。実際、沢カニではないが、小さな雨蛙も、雨水に誘われるようにして、道端に出てくるので、これも又、要注意である。極めつけは、2番の納経所で、扉を開けると何と、一緒になって、ヤモリとおぼしき蜥蜴が、納経所の中に、入ってきてしまった。私は、踏みつぶすわけにもゆかないので、じっと、待っていたら、納経所の女性の人が、出ていて下さいとばかり、そのヤモリを外に追い出すようにして出てきた。それにしても、不殺生とは、なかなか、至難の業である。虫除けスプレーを皮膚に塗布したり、長袖のシャツを着用して、出来るだけ、不殺生を徹底するように、促されているように、思われるが、確かに、悩ましい限りである。それにしても、日常生活の中でも、不殺生を実行するとなると、これ又、難しい課題であろう。それでも、普段気が付かないようなこんなことに関しても、改めて、考え直す機会を持てたことは、実に、有難い貴重な体験である。野宿しているとまむしにも遭遇すると云われている。日常生活の中で、厳格に実行することは、至極、難しく、悩ましいことである。そんな事柄も、今回、学ばせて戴いたことは有難い話である。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その8:早起きと朝食を食べるという習慣:

2015年07月19日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その8:早起きと朝食を食べるという習慣:

現役の時には、何が何でも、朝、決まった時間に起床して、身支度を調えて、出勤しなければならなかったが、引退してしまえば、前日、多少飲み過ぎても、何も、決まった時間に起きる必要は無い。もっとも、どういう訳か、ゴルフをしていた頃には、必ず、目覚まし時計を掛けていても、自分で、どんなに、前日遅くに就寝しても、眼がぱっちりと開くモノであることは全く、不思議である。それに較べて、毎朝、午前5時に起床して、6時半頃には出発するという生活を繰り返していると、こういう生活のリズム感が身体の中に宿ってくるモノであろうか?自然に、バイオリズムがそうなってくるのであろう。恐らく、鬱病などと云うものも、ある種のタンパク質が脳内細胞に溜まり始めるのが原因であるとも云われるが、ある種のバイオリズムがどこかで、変調をきたした結果、精神的な障害が生じるのであろう。この短い自転車遍路巡礼のなかで、何か、「汗をかく」と云うこと、それは、どうやら、身体が汗をかくだけでなくて、実は、頭も、脳内の血流も一生懸命、筋肉も体内の全細胞も、緊急事態であると思ってだろうか、実は、運動をして、汗をかいているのかも知れないと、こんな風に、勝手に考え始めました。多分、朝、早くから起床することも、又、声を上げて、お経をあげることも、きちんと、朝食を摂取することも、どうやら、生活習慣のルーティンの一環であって、或いは、農作業でも、肉体労働でも、何であれ、労働するということも、とりわけ、汗をかくこと、陽に当たること、雨に打たれることも、ずぶ濡れに濡れることも、大いなる自然・宇宙と一体となる契機や橋渡しなのかも知れないと感じ始める。実は、人間の肉体は、その精神との間で、そうした関係性の中で、微妙に保たれているのではないかと思わざるを得ない。食事を摂取すると云うことも、いつもカロリー計算をしてしまうが、今回は、毎日、腹が減っていて、朝と晩の一日2回の食事は、それどころではない。提供された食事は、嫌いなものも難なく、口にして、お腹の中で、その日のエネルギーの回復と明日へのエネルギーの蓄積に廻され、決して、累々と蓄積されて行くモノではない。毎日が、プラス・マイナスが、零ベースで、均衡していて、バランスよく、機能しているのであろう。これが、自然に、毎日、行われていれば、しかも、これが、毎年、毎年、長年、行われていれば、決して、糖尿病予備軍と正規軍の間を行ったり来たりする必要は無いのであろう。身体を動かすと云うことは、そういう意味からも、バランスが、よくなるのであろう、そしtれ、何よりも、自然と、或いは、広い意味での空海の目指した宇宙との一体化を所作振る舞い、読経、印を結ぶことで、或いは、真言を唱えることで、目指すことになるのかも知れない。そういうことの一端を、ほんの少しだけ、実感出来るものなのかも知れない。比叡山での「千日回峰行」などというモノは、更に、食事も水も運動量も、ましてや、場所もとんでもない急峻な山岳地帯で行うわけだから、凡人の遍路とは較べものにならないのであろうが、それでも、そういうことのほんの万分の一でも実感出来ることは、ありがたい貴重な体験である。一日山道を夜間に、60Kmも歩けるのだろうか?もはや、これは、歩くのではない、翔ぶが如く、まるで、山猿の如きであろうか?それも、千日もの長い期間に毎日、天気も体調も関係なし、季節も、しかも、睡眠時間3時間も限られていたら、肉体的な疲労はどのように回復させるのであろうか?精神に異常はきたさないのであろうか?最期の9日間に亘る断食、断水・不眠・不臥の荒行はどうなるのであろうか?それだけでも、こちらは、宿坊や民宿・ホテルで、戴きますと、ご馳走様と唱えるだけでも、(うっかりすると、腹が減っていて、そんな約束事すら忘れてしまいそうであるが、、、、、)ひょっとして、万分かの価値が、そこにはあるのかも知れない。いつでも、そうしたことが出来ることであると確信することと、実際に、毎日、毎日、実行することは、これは又、別の次元なのであろうが、それでも、凡人は、それに気が付くだけでも、宜しいではないだろうかと勝手にそう考える次第である。さて、帰宅してから、きちんと、戴きますとご馳走様が云えるであろうか?そろそろ、身体が、とりわけ、太腿の筋肉や脚が悲鳴をあげ始めていることに気が付く。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その7:12番焼山寺は、タクシー活用:

2015年07月18日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その7:12番焼山寺は、タクシー活用:

11番藤井寺の近くの旅館、吉野で一緒になった歩き遍路の人達は、「遍路転がし」を越えて、12番焼山寺に、雨の中を向かったが、朝6時半頃に出発して、お昼過ぎには、踏破する予定であったと云っていたが、、、、、、。どうしたであろうか?無事、問題なく、登り切れたであろうか?藤井寺の奥まった山の脇に、焼山寺へと登ってゆく狭くて、険しい登山道が、山肌に沿って、並んでいる苔むした旧い地蔵群の中に、見受けられる。少々、そこを金剛杖をつきながら、登ってみたが、なかなか、風情のある急峻な山道である。もっとも、こちらは、足許不如意だから、そもそも、そんな急峻な山道を登って行けるはずもない。やはり、その遍路を志す一人一人の特性に合った打ち方があっても宜しいとは、歩き遍路の人達は、云っていたが、、、、、、その体力に応じて、時に、バスを利用したり、鉄道を利用したり、タクシーをある区間だけ、活用したりと、臨機応変に、対応することが望まれるそうである。成る程、まずは、怪我をせずに、無理することなく、疲れたら休み、休みで、熊本からやってきた同宿になった歩き遍路の人の話では、去年は、この場所で、脚を痛めてしまい、途中断念したそうである。今回は、再度、挑戦で、ゆっくりと、全部を廻る予定だそうで、出来れば、高野山までも一挙に、打ちたいと云っていたが、、、、、どうしたであろうか?後30日ほどで、うまく、結願に至るであろうか?こちらは、そんな風にはゆかないので、まずは、神山温泉、四季の里で、旅館のスタッフに、焼山寺への道のりを尋ねたところ、事前に、調査していた徳島バスでの輪行袋による自転車登坂を、途中の杉杖庵の先から、歩き遍路で、打ってゆこうと考えたが、何でも、バスの停留所が、寺のずっと手前で、その停留所から歩いても、年寄りの脚では、2時間以上は掛かりそうであるとの説明であった。地図に記載されている小さな数字の標高は、わずか、450m程度で、たいしたことなさそうであるが、実際には、高度差、300mでも、随分と急峻である。後で、タクシーの運転手に聞いた話であるが、山、又、山、谷に辿り着いくと再び、又急峻な山が、待ち構えていて、これでもか、これでもかと、身体もさることながら、精神的に、ガックリ落ち込んでしまうそうである。成る程、そういうことなのであるのか?!途中には、2足歩行ではなくて、重い荷物を背負ったまま、四つん這いで登らなければならない場所もあるそうである。確かに、前日一寸覗いた藤井寺からの急峻な山道も、なかなか、地図だけでは分からないものである。神山温泉からのタクシーの道は、それでも、下りてくる道を逆に車で登ってゆく道であるから、まだ、楽であるが、それでも、道幅が狭くて、くねくねと曲がりくねっている。伝説の蛇が山を焼き払ったという話もまんざら、伝説だけではなさそう(?)である。インターネットで、事前に調べておいた旅行記では、杉杖庵(せんじょうあん)から、大きな杉の木のある車道と歩き遍路道の分かれ道が、確かに判別・了解されたが、そこからでも、まだまだ、急峻な山道が続いていた。これでは、確かに、自転車を杉杖庵に置いて、歩いて行っても相当なもので、やはり、私の場合には、タクシーで打つ選択が、正しかったようである。そう納得せざるを得ない有様であった。実に、急峻な石階段の先に、大きな杉の木に蔽われた山寺が、現れる。いやはや、凄まじい山の中であるが、年寄りに便利なように、大きな駐車場が、備え付けられてある。(300円の特別駐車料金を戴くのも納得である。)帰りには、You tubeのビデオで見たとおり、駐車場から、山門へ至る境内の舗道に、石像を見ながらきたが、これが、苔むした旧いモノではなくて、4-5年前に完成した石像群であるとは、若干、興ざめであった。これは、おおいに、残念なことである。境内では、ゆっくりと、作法に則り、鐘も、しっかりと、撞いたり、読経もゆったりと、行なうことが出来た。こちらは、大した願い事もあるわけではないが、一緒になった男性のお年寄りは、昨今の自分の有様を細かく報告し、お願いしていた。成る程、こういうことも、やるのであると、、、、、、。様々な一人一人に応じた参拝の仕方があるものであると、改めて、了解される。単に、読経するだけではないようなのである。これは、もはや、一人の遍路による空海との精神的なコミュニケーション、心的交流なのであろうか?きっと、毎年、一年の報告とお礼と新しいお願いと、又、再び、お礼という未来永劫続きそうな繰り返しの作法なのであろうか?中年の四人組のオバサン達は、一緒に、せいので、揃って般若心経を読経していた。帰る下り坂の道では、黙々と、自転車を重い荷物を積んで、喘ぎ乍ら漕いでくる若者に遭遇した。本当にご苦労さまです!。何のお手伝いも出来ないのが、残念ですと心の中で、健闘を祈りながら、杉杖庵(遍路の原型を作った場所)で、一時停止してから、再び、長い坂道を、クーラーの効いた車で、下っていった。それにしても、外は、一寸出ただけでも汗びっしょりになるほど蒸し暑い!成る程、人間とは、一寸、文明の利器に慣れてしまうと、便利に慣れてしまうものなのだろうか?
「遍路転がし」という意味が実感される11番焼山寺打ちである。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その5:山中雨に打たれてひとり思う:

2015年07月16日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その5:山中雨に打たれてひとり思う:

毎朝、五時半には、起床して、朝食を6時には終了して、旅支度を調えて、6時半には、出発するという日程を繰り返していると、不思議と、身体が、それに慣れてくるものであるから、不思議である。昨今流行の朝方早朝出勤ではない。この日も、歩き遍路の人達を見送ってから、自転車に、荷物を積んで、出発するときに、うっかり、金剛杖を忘れるところであった。何処の寺にも、必ず、数多くの金剛杖や、ビニールのポンチョや雨具類、或いは、菅笠までもが、忘れ物として、遺されている。もっとも、お遍路の人々は、それらの遺失物を拾ってゆく訳ではないから、そのまま、遺されていることになるのであろうか?何はともあれ、毎日雨模様であるから、朝から、毎日、雨具だけは、しっかりと、メンテナンスをしておかなければならない。この日も、前日には、風呂に入りながら、洗濯機と乾燥機をフル活用して、まとめ洗いである。それにしても、下着も、白いポロシャツも、ズボンも、レインウェアーを着用していても、雨と自分の汗で以て、びしょびしょになり、宿でも、乾燥機を利用しない限り、着替えを持っていても、乾くことがない。やっと、この日になって、初めて、着替え分も含めて、湿っぽい衣服から、乾燥した衣服に着替えることが出来た。リュックも、防水加工や撥水加工などでは、駄目で、やはり、しっかりとした、カバーを掛けて、二重袋にでもしていないと、中身までもが、濡れてしまうことになる。(結局、ゴミ袋を被せて凌ぐという緊急手段を講じたが、結構、アナログが案外、役に立つモノであることは皮肉である。)確かに、歩き遍路の人は、リュックに、分厚いナイロンの袋を被せて、背負って歩き始めていた。靴も、又、防水の靴でなければならないことが、既に、再認識されたが、手遅れであった。靴の中に古新聞紙を包んで湿気取りに入れたが、そんな程度では乾燥しないモノである。「お気をつけて、お元気にいらっしゃって下さい!」と送り出しましたが、程なく、曇り空からは、無情にも、一粒、二粒と、雨粒が、又、今日も落ちてきた。天気予報では、回復するような予報であったが、どうやら、その期待も、空しく、裏切られることになる。192号線をひたすら、徳島駅に向けて、東方向へ、17番井戸寺を目指して、自転車をこぎ始めるが、通学途中の高校生の自転車の早いこと、この上ない。やはり、ここら当たりで、太腿の筋肉痛と尾てい骨が痛んできて、休み休みゆかなければ、先が思いやられる。徳島駅行きのバス停で、一時休憩していると、乗客が、「ご苦労様です」と労いの言葉を掛けられた。不思議なことに、これまで、何回となく、鉄道の踏切を横切ったが、悉く、何故か、電車が、偶然、通過するのに、遭遇する、その都度、止まって、再び、ヨイショと掛け声とともに、単線の線路を横切らなければならない。そんなに、頻繁に電車は通らない筈であるが、、、、、実に、不思議である。しかも、17番井戸寺に通じる踏切は、異常に狭くて、前後・双方から、車両が渡ろうとすると、両脇の自転車は、通るスペースがない。こちらは、朝の通勤や通学で、急いでいる訳ではないので、車両が、すべて、渡るのを待ってから、踏切を渡ることにした。狭い道なりである。17番井戸寺では、ベルギーからやってきたという歩き遍路の老夫婦と一緒になったが、二人で、ガイドブックを見ながら、ゆっくり廻るそうで、「have a nice trip !」といって、道中の互いの無事を祈りながら、別れてきた。比較的、この付近は、寺と寺の距離が近いので、気分的には、気が楽である。後は、16番観音寺、15番国分寺、14番常楽寺と、そして、少し離れて、13番大日寺へと、午前中には、逆打ちで廻れそうで、宿で作って貰ったお握りを、ゆっくり、大日寺で、食べ終えてから、この日の宿の神山温泉四季の里へ、軽い気持で、向かう予定であった。内心、楽勝、楽勝!と、タカをくくっていた節が見られる。既に、この頃になると、読経も作法も、慣れてくると同時に、自信もついてきている自分に気が付く。精神的に余裕が出てきたのであろうか?13番大日寺に到着する頃には、既に雨が強くなり、山門の横の椅子で、雨宿りも兼ねて、お握りを戴くことにした。同じく、数人の歩き遍路の人達が、雨具の再点検を行なっていた。ここまで来る途中の道路標識には、神山町役場・神山温泉への方向を207号・21号・438号、約16キロと表記されていたし、地図で、確認しても、これなら、食事を終えてから、1時頃に出発しても、3時半頃には、充分到着できるであろうと勝手に、頭の中で、想定していたが、、、、、、。どっこい、実際には、4時間程度も掛かろうとは、この時点では、全く予想だにしていなかった。
少し、走り始めると、街を抜け始めるが、どうも、道の様子がおかしいのである。舗装された広い道は、徐々に、曲がりくねり始めて、しかも、傾斜が、初めは、ダラダラと、そして、きつくなり始め、道幅も狭まってくる。更に、どうも、山の方へと向かっているらしい。スマホのナビで、現在位置を確認しても、丸い点が、なかなか、進まない。もはや、自転車で、漕いで登れる傾斜ではなくなった。やがて、人家は、気がつくと、もう、見当たらない。道が、沢に沿って登っていると云うことは、結局、山か、峠へ入ってゆくことを意味するわけで、雨は、ますます、激しさを増してきて、もう一度、地図を再確認する。207号、この先、21号と合流して、438号で、神山温泉へと至ることは、どうやら、間違いではないらしい。地元の軽トラや乗用車が、登り坂を難なく、ポンチョで、安全帽を被り、後方安全確認の為に、フラッシュ・ライトを後ろに光らせながら、自転車を押している自分を追い越してゆく。気温が上昇していない割には、体温が高く感じられてならない。どうやら、防水のポンチョの内側で、汗が、あふれ出して、びしょびしょになっているかららしい。おまけに、やたらと、喉が渇き出す。100m程、登っては、その都度、スタンドを立てて、水を飲み、小休止し、位置確認をカーブ・ミラーの電波情況の良い場所で、確認するが、なかなか、一向に進まない。一体、こんな山道の中で、どうなるのであろうかと漠然と不安を抱き始める。歩くということは、自分で、前に歩を進めないことには、誰も助けてくれないことが嫌やが応にも理解される。まぁ、当たり前と云えば至極当然なことであるが、、、、、、。とんでもない山中に、迷い込んでしまったものである。今からでも引き返して、路線バスの通る道に向かうべきであろうか?沢沿いの100m程度毎のカーブ・ミラーで、小休止する度に、そんな迷いが、脳裏をよぎる。鶯の鳴き声がやたらと、耳に響く、沢を流れる河の音は、雨にもまして、ザァー、ザァー、と水しぶきを上げて、これでもか、これでもかと、迫ってくる。そんな中、狭い山道を登りながら、一句、浮かぶ。
「谷の雨、迷い打ち消す、沢の声」 まるで、沢の音が、自分の心に宿っている迷いを、打ち消すかの如く、このまま、間違いなく、進んでゆけば、目的地に辿り着くと示唆しているかの如くに聞こえ始める。後で、地図を見ると、地名に、鬼龍野(オロノ)とか、猪ノ頭という、地名を見つける。成る程、昔の人が何故、こんな名前をつけたのが、納得がゆく。もう引き返せる地点ではないようである。神山森林公園入り口へ800mの標識を見つけるも、ゴルフ・コースでのロング・ホール、パー5のようには、ゆかないものである。距離感とは、情況が異なるときには、本当に、面白いモノである。それでも、喘ぎ乍ら、更にこれを過ぎると、今度は、暗い隊道が、目の前に、現れる。桜○○トンネルとか、書いてあるが、緑の枝で、判別できない、いよいよ、この先は、下りの開始だろうかと期待する。確かに、期待通りである。もっとも、下りでも、山道だから、しかも、雨の中であるから、ブレーキの効きが悪くて、道も濡れているので、慎重に下ってゆかなければならない。それでも、この先、まだ、長い坂が、幾つも、幾つも、続くことになる。既に、3時間以上は、押して、止まって休んで、漕いで、押して、、、、、、この繰り返しである。もはや、自転車を漕ぐのではない。押して、歩くことになってしまった。神山温泉の標識が見える頃には、既に、五時近くになってしまった。一体、いつになったら、着くのであろうか?水も、いよいよ、尽きてきそうだが、自動販売機などは、なさそうである。どうなってしまうのであろうか?

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その4:歩くという行為:

2015年07月15日 | 旅行
=四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その4:歩くという行為:
動力を使用して、移動するという事が可能になる以前には、所詮、自分の脚以外に、頼るべきモノがなかったから、結局、馬やロバや駱駝にも乗らない限り、自力で、歩いたのであろう事くらい、誰しもが、頭の中で、理解は出来ている。しかしながら、そんな単純明快な理屈は、歩いたり、自転車を自力で、自らの脚力を信じて漕いでも、所詮、それは、自分の力だけで、誰の助けも期待できないのが、真実であることを了解する。一度、始めてみれば、もう、後戻りは、出来ないことにもなるわけなのである。
2番極楽寺の宿坊では、早朝五時半からの勤行である。急な内階段を右に左に何度も上り詰めるとやっと本堂に出る。若いお坊さんの後について、(正座が、出来ないので、事情を説明して、)和椅子に座らせて貰って、開経偈、懺悔文、三帰、三竟、十善戒、般若心経を、少し遅れながら、唱えることになる。毎朝、この時間帯に合わせて、お参りに来る人もいるようで、外で、一人のお年寄りが、拝んでいた。都会の飲んだくれが、朝の始発を目指して、繁華街から、フラフラと歩き出てくる情景とは、全く大違いな風景である.同じ時間帯を共有していても、随分と場所が異なると、大変な違いがあることを改めて、思い知らされるモノである。同じ地上世界には、戦争もあれば、平和もあるし、酔っ払いも、読経を毎朝する人もいる訳である。そういうことを改めて実感する。
事前に作成した日程表では、当日は、11番の藤井寺の近くの旅館、吉野に午後3時までには、入らなければならない。おおよそ、40キロ弱の行程である。それにしても、朝から、梅雨の雨で、完全防水対策の予定だったのであるが、結局、それは、絵空事であった事をこれ又、後になってから、思い知らされようとは、まだ、この時点では、分かっていない。3番金泉寺までは、近いので、そこで、詳細な地図が入手出来ると云われている。(何のことはない、この地図も、びっしょり濡れて地図の紙は、ボロボロになってしまった。)結局、4番の大日寺を後回しにして、まずは、5番の地蔵寺、そして、6番安楽寺、そこから、7番十楽寺へ、ここで、現在、眼の病気を患っている学生時代の友人二人に、眼のお守りを購入してお土産も兼ねて、帰京後、贈ることにした。8番熊谷寺につく頃には、坂が、多くて、結局、雨中、自転車を押しながら、歩き遍路になってしまい、もう、へろへろになってしまった。おまけに、雨は止む気配がない。残りの距離計算では、約17キロ程度であるが、これでは、所定の時間に間に合わず、10番の切幡寺の333段の急な石段は、到底、金剛杖を以てしても、上り下りは、難しいと判断して、急遽、順番を逆にして、10番・9番とタクシーで、打ってから、ストレートな道なりに、192号をひたすら目指して、南下して、吉野川を渡って、本日の最終目的地たる11番藤井寺を、目指すことに変更した。後で、宿で一緒になった歩き遍路の人達によれば、結構、切幡寺の急峻な石段で、脚を痛めて、12番の焼山寺に向かう「遍路転がし」の前に、断念する人が多いらしい。何せ、こちらは、そんな無理は、ご勘弁願いたいので、適宜、自転車で、行けないところは、無理せずに、文明の利器を活用させて貰うというポリシーで行くことに初めから、決していた。もっとも、ここまででも、結構、毎日、自力走行だったから、既に、太腿の筋肉は、右も左も、パンパンである。しかも、尾てい骨が、ひどく、痛んでいることが、漕ぐ度に、認識され始めた。もう雨には、慣れたと思いきや、これも又、その後、見事に、打ち砕かれることになるとは、この時点では、未だ、実感していない。いつも、毎日、毎日、期待が裏切られることになる。吉野川の橋を渡るときに、関西から来たとおぼしき大阪弁の女性の一人歩き遍路の人が休んでいたので、声を掛けると、「想像以上に、しんどいですね!この先、もうどうなるのでしょうか?」と嘆いていた。後で、旅館で一緒になった歩き遍路の人の話では、どうやら、この女性を追い抜いて歩いてきたようである。この女性は、どうしたであろうか?この地点からでも、有に、10キロ以上は、残りの距離があったであろうか?それにしても、山寺というのは、近づくにつれて、いつも、決まって、人を試すかの如く、急な坂道が待ち構えているのである。人生とはそんなものであろうかとも達観し始めるのも、不思議なことでは決してない。もう、この頃になると、般若心経の読経も、悪びれもせずに、堂々と、唱えられるようになった。もっとも、後から来た人の方が、ずっと、堂に入っている時には、流石に、へこんでしまうが、それにしても、色々な読経のスタイルがあるものである。途中の札所で、納経帳が、汗の湿気で、墨が滲んで、濡れてしまいかねないので、わざわざ、小さなポリ袋を2枚戴きました。成る程、雨の時には、必要な準備である。雨だけではなくて、汗の湿気で、ぐっしょりになるのである。既に、手帳も地図帳は、湿気で、ボロボロになってしまった。今日も又、へろへろになりながら、旅館、吉野へ、少々予定より遅れたもの、やっと、辿り着いた。
同宿の熊本からやってきた歩き遍路の人は、一日約3万歩くらい歩いてきたそうである。1万歩が、約7-8キロ程度だから、一日21-24キロくらいも歩くことになるのか?それにしても、朝、6時過ぎ頃から、午後4時頃まで、休みながら歩くのであるから、人間とは、凄いものである。自転車でも、この日は、約40キロ弱を走行した計算になるが、、、、、、、、、。それにしても、昔の人は、何処へ出掛けるのにも、歩いたわけだから、それは、人に会いにゆくためでも、情報を入手するためにも、連絡をする為にも、すべてが、自力で、歩いて行ったわけである。それを考えると、もはや、歩くという行為は、只単に、歩行をするというモノだけではないのは、明らかである。歩きながら、何を考えたのであろうか?簑笠を被って、雨に打たれながら、或いは、菅笠を被りながら、びしょ濡れになりながら、何を考えて歩いたのであろうか?伊能忠敬も、吉田松陰も、坂本龍馬も、芭蕉も行基も、山頭火も、お太師様も、皆、自分の脚で、歩いて旅をして、情報をとり、人と人的ネットワークを結び、何かを学んだのであろうか?今日、これだけ、文明の利器が発達しても尚、人は、歩くことを欠かそうとしないし、むしろ、そこから、学ぶべき事が多いにありそうである。そう言えば、ガンジーは、独立闘争の時にも、塩の道を行進して歩きながら、植民地主義からの脱却、自立を企てたことも、想い出す。足許不如意の自分にとっては、自転車を漕ぐこと、そして、荷物を押しながら、坂を上り下りして、越えることの意義は、或いは、雨に打たれて走行することは、何ほどかの意義があるのであろうか?明らかに、この3日間で、既に、答は、見いだされている。同宿の歩き遍路の人は、明日、いよいよ、「遍路転がし」を経て、焼山寺へと向かうそうである。こちらは、宿の人の勧めもあって、自転車なら、逆に、先に、17番井戸寺から、逆打ちで、13番大日寺までを攻めた方が、宜しいと勧められて、192号線をひたすら、東へ走行することにした。目指すは、神山温泉で、一泊するというコースを選択する。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その2:船旅で思う:

2015年07月14日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その2:船旅で思う:

前回の船旅は、いつのことだったろうか?うまく想い出せない。よくよく、考えてみれば、学生時代の夏休みに、青函連絡船に乗船して、青森から、函館へと、大部屋で、渡ったことを想い起こす。もう、45年も前のことになるであろうか?それにしても、有明埠頭のオーシャン・フェリーの乗り場というモノも、随分とうらぶれた寂れた感じの漂うところである。これが、今日のフェリーという乗り物の於かれている立場とポジショニングを象徴しているかのようである。非常時の災害時の輸送などで、もっと、見直されて然る出来であろうが、、、、、何とも勿体ない限りである。それにしても、今回、交通費を節約するために、手荷物として、2900円ばかりをセーブし、輪行バッグ(アマゾンで、ドッペルゲンガーと言うブランドのマルチ・ユース輪行バッグを購入したが、これは、なかなかの優れもので、前輪を外すことなく27インチのシティー・自転車をハンドルを捻るだけで、包婿とが可能である。後で、バスを利用するときに、改めて、納得するが、、、、、)に、梱包して、船内持ち込みを図ったところまでは、大正解であったものの、乗船時、船底の倉庫から、狭くて、やたら、急峻な階段をリュック・手荷物を持ちながら、3階分上り詰めるとは、全く、想像だにしていなかった。おまけに、デッキ階から、船室へ、荷物をもったまま、更に、もう2階、登るというので、デッキ階にして貰いたいと要望すると、20畳ほどの2等部屋に、私一人で、寝ることになった。輪行バッグは、便利のようでいて、多いに、問題であることが、この後、徳島港に接岸して、下船するときに、これ又、思い知らされようとは、この時点では、知るよしもなかった。有明埠頭では、ビルには、エレベーターとエスカレーターがあるものの、徳島港には、一切なかったのである。今度は、デッキ階から3階分の階段を下りなければならなかったのである。既に、この時点で、帰りの便では、往復割り引きを利用して、自転車を預けることに、半ば、内心決していたのは、至極、当然の成り行きであった。
それにしても、大型船である。自家用自動車は、僅か、12台ほどと大型バイク2台と自転車1台、乗船手続きも、出港1時間前開始で、すぐに、完了してしまう。韓国のセウォル号の事故もあってか、念の為に、救命胴衣とか、安全確認をしたが、考えてみれば、空海が唐のを目指して、船出した時代には、まさに、風次第、命懸けだったのであろうかと、想像を巡らせる。それに比べると、蒸し暑い梅雨の中にも拘わらず、船内は、冷房管理、空調設備有り、食事や飲み物は、すべて、自動販売機や、セルフの電子レンジで、チンであるから、成る程、簡便である。更には、浴室からは、いつでも、航海中、風呂を愉しみながら、景色、といっても、大海原だけであるが、一応、愉しめる。僅かな干飯とごく少量の飲料水で、毎日、揺れと長期の航海に堪え忍ぶのとでは、全く、天国と地獄の差もあろうことか?現代の船旅などと云うものは、実に、ゆったりとした時間が流れる贅沢なモノである。要するに、カネさえ払えば、日常の生活の延長以外の何ものでもない。とにかく、一番下の等級である2等大部屋であるから、そんなに、贅沢は言っていられない。存外、太平洋に出てからも、それ程、大きな揺れに会わずに、夜の9時半頃には、消灯になってしまう。すると、スマホの充電なども、夜中にしようと思っていると散々な目に遭ってしまう。その前に、やっておかなければ駄目である。予備のバッテリーの充電と本体の充電、最低限これは、必要不可欠である。そのうち、風呂も済ませて、夕食も終わり、テレビを観ながら、消灯後は、すぐに、就寝である。東京湾内を過ぎる頃までには、東京湾ベイブリッジの下を通過したり、景色を愉しみながらしていたが、あっと言う間もなく、景色が遠ざかって終い、東京湾外の太平洋の大海原へと出て行ってしまう。飛行機であれば、上空から、海岸線沿いが愉しめるのであるが、夜間のフェリーは、案外と沖合を航行するものなのである。全く、陸地が見当たらない。航海術がまだ、発達していなかった時代には、結局、陸地伝いに、港、港に、立ち寄りながら、風任せに、航行していたのであろう。水や食料の補給は、一体どうしていたのであろうか?しかも、船倉は、夏場などは、蒸し風呂状態ではなかったのではなかろうか?結局、航海術とは、後の世、幕末に、ジョン万次郎ではないが、西洋から、羅針盤やら、星の方位の測定方法、或いは、操舵術や造船工学、或いは、蒸気船というモノが紹介されて初めて、可能になってくるのであろう。そう考えると、出島で、オランダ語や西洋の武器の技術などを情報収集していながら、何故、操船術というものが、普及しなかったのであろうか?所詮、長い間の鎖国政策に、限界があったのであろうか?それを考えると、快適な船旅というものも、所詮、たかだか、100-150年程度の歴史というところなのであろうか?船に乗っていて、父や叔父達は、戦時中、どんな気持で、次の戦場へと向かっていたのであろうかと思わずにはいられない。今日、豪華クルーズのような旅が、当たり前だが、そういえば、父は、70代半ば過ぎ頃であったであろうか、一人で、香港やベトナム、シンガポール、インドネシアと、まるで、自分の戦争体験を巡るように、最期のクルーズの旅を愉しんだが、今にして思えば、もっと、その時に、どうして、そんな旅に出たのか、どんな気持で、戦場での旅を思っていたのか、尋ねてみるべきだったと、今にして思わざるを得ない。船上の旅は、ゆったりとした時間が流れるモノで、自動車や鉄道、とりわけ、新幹線での慌ただしい旅とは、又、ひとつ、異なる時間の流れがあるようである。若い頃には、そう言えば、未だ、本土復帰が果たせなかった頃の沖縄にも、ビザをもらって、船旅をしたこと、又、結婚間もなく、仕事の関係で、横浜港から、ナホトカまで、青森から、津軽海峡経由、日本海を横切って、繊維製品の輸出の商談で、同じく、船旅をしたものである。記憶などは、曖昧なモノで、考え直して見れば、前回は、青函連絡船ではなくて、こちらのナホトカへの船旅が、もっとも、新しい船旅だった事が、改めて、想い出される。そうすると、新しい順には、ナホトカ航路、青函連絡船の北海道への旅、沖縄への船旅、そして、まだ、子供の頃の大島への船旅だろうか?それ以外は、いつも、飛行機か、車での旅だったことを想い起こす。そうすると、歩き旅とか、自転車での旅というモノは、なかなか、貴重な体験であろう。いよいよ、徳島の港が、翌日の午後Ⅰ時半頃に、見えてきた。天気は芳しくなく、梅雨の長雨の様相である。取りあえず、その日の宿である2番の極楽寺の宿坊を目指して、自転車を漕がなければ、誰も助けてはくれない。そんな当たり前のことをまだ、この時点では、結構、楽観的に、考えていた節がある。

その3:金剛杖のこと

2015年07月13日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その3:金剛杖のこと :

徳島港の階段を何とか、一番最後の乗客として、地上に降り立てば、既に、自家用車達は、とうの昔に、埠頭を後にしていた。誰一人居ない切符売り場前で、手荷物を荷台に、据え付けて、安全ヘルメットを被り、透明ゴーグルを装着して、いよいよ準備、完了である。(雨の日のゴーグルは、すぐに、曇ってしまい、視界不良になりやすい。)当面、一番の霊山寺までのナビを再確認である。しかしながら、事前に購入して置いたこの防水ケースのスマホのホルダーというものが、実に、いい加減なモノであることが、既に、この時点で、分かっていたのは、誠に、皮肉なことである。まず、防水が完全ではないということ、又、更には、ホルダーに装着しても、走行中に、突然、何度も、落下してしまうのである。その防止策として、成る程、落下防止の紐がついているわけである。ましてや、雨の中、表示は、曇ってしまい、全く、画面が見えなくなってしまう。この後、結局、ジップロック袋に入れて、都度、見る方式に、変更する。考えてみれば、2000円の投資が空しく、消え去るのみである。ユーザー・レビューにも、出ていたが、大して気にも止めていなかったが、否定的なレビューは、尊重すべきであろう。
まずは、徳島県庁を目指して、走り出すが、既に、雨は、容赦なく、無常に降ってくる。当面、藍住町、板東を目指して、ひたすら、大きな道に沿って、29号線から、192号線へそして、徳島大を右折してⅠ号線を北上、一路、板東目指して、自転車を漕ぐことにした。徳島の道は、自転車には、結構優しいモノである。車道とは別に、自転車専用道路ではないが、実質的に、自転車しか通っていないのである。もっとも、夏草が道半分を蔽っているから、狭まっていることには変わりはない。そんな夏草を払いながら、進んでゆく。道路の整備・管理とは、大変な事であるとつくづく感じる。それにしても、藍住町付近までくると、流石に、疲労感が増してくる。何せ、高校生の自転車にも抜かれるくらいのスピードだから、推して知るべしである。東京でのデータの分析の結果、坂をどのくらい、距離に反映させるかが、ポイントであると考え始める。徳島港から、計算上では、18km程度であるものの、実質的には、2時間以上要した。とりわけ、河というのが、もっとも、それは、言い換えれば、橋なのである。地図上では、フラットな表示であるから、河を渡るのだと、頭では分かっていても、手前から見ると、何と、これが、まずは、長い上り坂である。ギヤーを一番軽くしても、荷物と自分の体重のせいなのだろうか、一挙に登坂することは出来ない。途中で、休み休み、結局、100m自転車を押しながら、休み、又、これを繰り返し、繰り返し、反復して、二つの大きな長い橋を越えることになる。雨が降り続いていると、今度は、登りから、下りに差し掛かると、ブレーキの効きが悪くなり、思い切って、スピードを挙げて下るという訳にはゆかないことが、改めて、実感することになる。高速道路の高架下は、雨よけと小休止には、最適な場所である。途中、道を間違えて、地元の住民に、道を尋ねて、1-2キロのロスは、あったであろうか?昔の人は、地図はどうしていたのであろうか?喘ぎ喘ぎ乍ら、自転車を漕いでいると、目の前を悠然として、白鷺がⅠ羽、右から左前方へ、静かに、緑の穂に蔽われた一面の田んぼの上を飛び去って行った。思わず、一句、浮かんだ。「白鷺の 翼うらやむ 青田かな」こういう心境でした。未だ、目的にも辿り着いていないのに、既に、出発から、2時間ばかり、漕ぎ続けているのに、一番の霊山寺の標識は、見えてこない。しかしながら、程なく、12号線との合流地点で、霊山寺への表示板が眼に入ってくる。遂に、写真で見たことのある一番札所、霊山寺である。作法に従って、山門で、一礼、手水場で、手口を濯ぎ、本堂へ、もっとも、ポシェットに入れてあった線香・蝋燭の箱は、ポンチョの内部の汗と雨のために、湿気ている。おまけに、ライターは、具合悪くて、なかなか、蝋燭や線香に、火が付かない。それでも、何とか、無事に、般若心経を唱えるも、経典はこれ又、湿気ている。こんな雨の日に、しかも、遅い時間だから、参拝者も少ない。大半は、車での巡礼者で、ましてや、自転車や歩き遍路は、ほとんどいない。写真等は、撮る暇もないし、とにかく、宿に着きたい一心である。納経所へ立ちより、山門を出るときに、再び、有り難う御座いますと一礼して、退去する。次の2番である極楽寺の宿坊までは、もう、目と鼻の先である。結局、西へ、自転車で、10分程である。同様に、作法を実行するも、本堂の手前の階段が急峻である。巡礼品の売り場に入ろうとすると、ヤモリが、一緒に、土産店の中に、入ってきた。不殺生を尤もとする以上、踏むことなく、やり過ごして、「金剛杖」を購入することにした。何せ、境内の中でも、歩く場所が、結構、広くて、石の急な階段もあったりで、足許不如意の私には、普段から、念の為に、ノルディック・ポールを杖替わりに、ついているので、今回は、階段で、転けないように、金剛杖をつくことにしたのである。般若心経が、4面に細かく墨字で、書かれた杖を購入することにした。杖は、「同行二人」の意味で、常に、お大師様が、一緒に、傍に連れ添っているという意味があるが、この時点では、そんな意味合いが再認識されようとは、全く想像だにしていなかった。この後、それは、山中で、思い知らせようとは、、、、、、。今回は、残念乍ら、「菅笠」は、安全ヘルメットを被っているので、荷物が多くなるので、購入は見送った経緯がある。従って、死に装束を意味する白い半袖ベスト・タイプと輪袈裟と100円ショップで購入した透明のポンチョを参拝時に、着用することにした。雨に濡れると云うこと、顔を濡らすと云うことの恐れは、既に、この時点では、消滅していた。何と言うこともない訳である。車は、余りに、便利すぎるのかも知れない。雨に濡れないし、群れないし、車内エアコンで、汗で、びしょびしょになることもない。有難い話である。そういうことも、この経験から、学んだ訳である。又、アクセルを踏み込むだけで、急峻な坂道も、苦もなく、登ってしまう。実に大した文明の利器である。
びしょびしょになりながらも、最終的に、2番極楽寺の宿坊へ、五時前には、到着した。宿泊客は、私一人だけであった。金剛杖を洗って、チェック・インである。翌朝は、五時半起床の勤行体験である。不殺生の割には、宿坊内は、蚊取り線香とべープマット完備であった。デング熱も怖いから、ここは、文明の利器に守って貰うこととするか?食事の前には、合掌して、「一滴の水にも天地の恵みが籠もっております。一粒の米にも、萬人の力が加わっております」と合唱して、「戴きます」として、食事を摂取することになる。野菜と刺身のカルパッチョ中心の精進料理は、実に一日2食の身には、実に、贅沢な満腹感をもたらすことになった。「ご馳走様でした、合掌」、久しぶりの一人旅での巡礼は、なかなか、その苦労の割には、様々な日常生活で気が付かないことを、改めて、気づかせて貰えることになる。まだ、旅は、始まったばかりである。余裕がなかったので、一番から二番途中にある、第一次大戦時のドイツ人捕虜収容所跡の記念公園やその当時初めて歌われた第九の里、賀川豊彦記念館に立ち寄れなかったのが、至極残念であった。又、次回にするか?