小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

晩年の愛犬の声を再び聴く:

2016年04月05日 | 動物・ペット

晩年の愛犬の声を再び聴く:

子供達が未だ小さい頃には、よく、ビデオを撮影したものであるが、未だその頃は、せいぜいが、テレビ画面に撮影した動画を再生したり、その後に出てきたビデオデッキで、DVDに焼き付けて、コピーしたりというくらいであった。もっとも、その後、デジタル化がが、進行するに連れて、我が家の機器は、対応に乗り遅れて、PC中心に移行してしまい、考えてみれば、デジカメで、撮影したものも、我が愛犬などは、子供の頃にカメラで撮影したものを、改めて、スキャン・デジタル化したものを、PCの中に、保存しておいたり、再び、写真に焼き直したりという具合であり、途中の成長過程が、空白で空いてしまったものである。もっとも、この間は、こちらも現役で、忙しかったし、愛犬も若かったから、写真や動画も、それ程、とっておくような必要性も感じなかったのかも知れないのが、実情であろうか?もう、我が愛犬も亡くなってから、3年弱ほどが、経過してしまったが、部屋のあちらこちらに、家族の想い出として、写真や絵が飾られている。たまたま、息子が、携帯で撮影した、晩年の短い30秒から1分程度の動画が、PCの中~、整理をしていたら、見つかったというので、早速、USBにコピーさせて貰った。もう、眼も耳もほとんど、見えない状態の中で、私が、何かを料理している時に、お座りをして、『私にも、頂戴よ!』とばかりに、一声、大きな声で、ワン!とおねだりの催促の一声が、記録されている。又、水飲み台の所で、ペロペロと必死になって、お水を飲んでいるところだったり、涎を垂らしながら、嬉しそうに、ペロペロといつまでも飽きずに、息子の手を舐め回しているところだったりと、この数ヶ月後には、18歳と4ヶ月の天寿を全うして、息を引き取ってしまうのであるが、最後の生命を一生懸命に燃焼しているさまが、短い動画の画面からも、伝わってくる。又、桜の季節がやってくるが、一緒に、よく花見にも家族と云ったものである。散りゆく花びらが、君の鼻先に、くっついたことを懐かしく、想い起こす。もっと、ビデオを撮っておけばよかったと、今更ながら、思う。

 

 


ネコノミクスという奴:

2016年03月22日 | 動物・ペット

ネコノミクスという奴:

別に、自分は、18年余も犬を飼っていたから、イヌ派とか、否、ネコ派だとか、という論争に、荷担するわけではないが、何でも、今や、ペットを飼う時に、猫の飼育頭数の方が、犬を上廻る勢いで、その出版物やペット用品などの関連グッズなどを、含めると、今や、2.3兆円を超える程の経済的な効果をもたらすという試算が、喧伝されている。どのように、数字を計算されているかは、定かではないが、消費者マインドが冷え込んでいて、消費購買動機が、低迷化しているというのに、どうしたわけであろうか?まだまだ、売る側には、消費者のマインド分析なるものが、実は、不足がちであるということの反面的な証左にもなりうるのであろうか?それにしても、イヌとの比較では、トイレの躾が、それ程、必要なく、散歩や運動も、少なくて済むし、ペットフード代や、医療費も、イヌに、較べると、相対的に、安上がりらしいし、『ツンデレ』と謂われるが故に、人間関係(?)も、それ程、べったりせずに、勝手、気儘に、自由奔放に、時に、ツンとしていて、時に、デレっと、すり寄ってくる、そういう関係性が、何とも、ネコ好きの人達には、堪らない、魅力だそうである。何とも、人間社会を、そのまま、投影したような姿で、面白いと言えば、ペットに、『癒やしを求める』という一面も、毎日の現実のストレス社会を、垣間見る思いである。それにしても、いつの時代も、人間さまの都合のよいように、何事も、商品化されてしまい、我が輩は猫である、とばかりに、ほざいたとしても、結局は、人間商品社会という枠内の中でしか、猫も犬も、生けて行けぬ存在なのであろうか?もっとも、それを創り出した人間自身が、そのことに、一番、気が付いていても、素知らぬ顔をしているのかも知れないが、、、、、、、。突然、病気になったり、歳をとって、呆けの介護が始まると、仮想の癒やしの世界から、『命』という尊い現実の世界に引き戻されてしまう。

 

 


老犬・老猫の介護:

2016年02月04日 | 動物・ペット

老犬・老猫の介護:

何でも、最近では、ペットの介護が、親や兄弟などの介護よりも、話題になっているらしい。もっとも、かく言う私も、個人的には、両親の介護を、(もっとも、如何にも、自分が手を患わせたかの如き物言いであるが、実際には、女房殿が、その大半を担ったモノである。)足かけ、3年+4年の間、その間、介護保険が実施されたお陰で、随分と、助かったモノであるが、それでも、肉体的、精神的に、介護施設に、預けた訳ではなかったから、自宅で、介護の末、最期は、病院付属の施設で看取ったものである。そんなことあってか、我が老犬の場合には、私が、主として、その晩年には、なるべくすべての面倒をみるという約束で、一生懸命、介護にあたったモノである。随分と、その間、色々と、人生の終末医療に関して、我が愛犬から、学ばせてもらったモノである。口がきけなくても、我が愛犬から、その命を如何に全うするかという重い課題を、人生の教訓として、学ばせて貰ったことは、大変よい勉強であった。確かに、一人暮らしの老人であれば、そのペットの行く末は、とても、心配であろうし、又、人によっては、自分の老後のことよりも、ペットの老後のことが心配になってしまうと謂う逆転現象が、分からなくもない。散歩にも、一緒に行けず、面倒も、みられなくなると云う心配は、切実なモノであろう。災害によって、やむなく、ペットを手放さざるをえなくなったり、自分が年取ることで、手放さざるをえなくなるとか、事情は、様々ではあろうが、誠に、考えさせられてしまう。我が愛犬の場合には、元々、殺処分をされるところを三ヶ月の子犬で身受けして来たもので、何事も、最初から、決めこととして、自然の天命に任せるという大方針の下、18歳4ヶ月という誠に、長寿を全うしたモノであり、死に際も、誠に、私には、勉強になりました。亡くなる前、2年くらい前から、お漏らしと夜泣きが激しくなってきたので、オムツを当てて、庭先から、玄関内へと移して、家族みんなと一緒に、暮らすことになり、最期には、私の書斎で、一日中、一緒に、暮らし、最期には、私が、隣の部屋で、夜鳴きと徘徊に、対応したモノである。事前に、ネットなどで、老犬の異変を検索して、学習していたから、特に、驚くことは無かったし、覚悟もしていたから、冷静に対処できたが、それでも、目が見えなくなり、昼間から、居眠りを始めて、昼夜の違いが分からず、夜鳴きするようになると、流石に、夜中でも、起きてきて、安心するように、身体や顔を撫でてやると、一安心して、又、眠りに入るが、それも、数時間後には、今度は、オムツが濡れてびっしょりで、気持ちが悪いのか、オムツ替えという繰り返しである。まるで、赤ん坊であり、年寄りそのものである。間違いなく、自分も、きっと、いずれは、こうなるのであろうなと思い描きながら、身体を撫でながら眠い目を擦りながら、介護したモノである。晩年の夏には、一緒に、隣に、添い寝しながら、大丈夫、安心して、寝て良いから、、、、、、と身体を撫でて、安心させたモノである。動物の看病というモノは、犬や猫に限らず、考えてみれば、子供の時から、カナリア、ジュウシマツ、インコ、金魚、アメリカザリガニ、カブト虫とか、想い出せば切りが無い。その死を様々な形で、体験して、更には、両親の死を、経て、今、愛犬の介護から、看取りへ、そして、やがて、間違いなくやってくる、自分の被介護・死へと繋がって行くのであろう。そう考えると、実に、興味深いモノであり、又、反面、おおいに、考えさせられるモノがある。

 


飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

2016年02月01日 | 動物・ペット

飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

何でも、最近、犬・猫を、飼っている人の中で、散歩が、余り、必要では無いという理由で、犬よりも、猫の方を飼うことを、優先する傾向が目立ち初め、その飼育頭数が、逆転間近であるらしい。自分の個人的な体験からして、老犬は、初めから、老犬ではなく、子犬の時から、毎日、朝・晩、或いは、朝・昼・晩の散歩は、欠かさずに、一緒に、散歩に出掛け、こちらも、その恩恵とは言っては何であるが、お陰様で、強制的に、運動をする機会を与えられ、もちつ、もたれつで、お互いに、ストレスの解消をも兼ねて、一挙両得であった訳である。しかしながら、そういうことも、徐々に、お互いに、歳を重ねるに従って、自分も、そうであるが、犬の方だって、同じように、歳をとってゆく訳で、とりわけ、相手の方は、人間さまの6倍ものスピードで、どんどん歳をとって行くのである。そして、終いには、人間さまも、散歩が億劫になり始めると、御犬さまの介護が、待ち受けているのが、昨今の厳しい事情なのであるのかも知れない。成る程、そうなると、動物病院への出費も、自分の医療費用よりも、ずっと、嵩んでくるし、食費だって、老犬食は、若干、高めになってくるし、、、、、、という訳で、犬よりも、猫の方が、食費も少なく、食べる量も少ないし、何よりも、自分で、この寒い最中に、一々、散歩や風呂場で、シャンプーをしてやる必要も無いし、、、、、ということになってしまったのであろうか?誠に、犬の犬種も、昔は、番犬で、外で飼っていたのが、当たり前だったのに、毛足の短い、抜け毛の少ない、しかも、大型犬ではなくて、室内で大人しく、あまり、キャンキャン騒がない室内犬へと人気が移ってゆき、そして、とうとう、それよりも、究極の選択である、諸々の諸般の事情を勘案してみると、総合的に、犬より、猫の方が、人間さまには、問題が多くなく、都合がおおいに宜しいということになってしまったのであろうか?何とも、世の中、世知辛いモノなのであろうか?

 


飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

2016年02月01日 | 動物・ペット

飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

何でも、最近、犬・猫を、飼っている人の中で、散歩が、余り、必要では無いという理由で、犬よりも、猫の方を飼うことを、優先する傾向が目立ち初め、その飼育頭数が、逆転間近であるらしい。自分の個人的な体験からして、老犬は、初めから、老犬ではなく、子犬の時から、毎日、朝・晩、或いは、朝・昼・晩の散歩は、欠かさずに、一緒に、散歩に出掛け、こちらも、その恩恵とは言っては何であるが、お陰様で、強制的に、運動をする機会を与えられ、もちつ、もたれつで、お互いに、ストレスの解消をも兼ねて、一挙両得であった訳である。しかしながら、そういうことも、徐々に、お互いに、歳を重ねるに従って、自分も、そうであるが、犬の方だって、同じように、歳をとってゆく訳で、とりわけ、相手の方は、人間さまの6倍ものスピードで、どんどん歳をとって行くのである。そして、終いには、人間さまも、散歩が億劫になり始めると、御犬さまの介護が、待ち受けているのが、昨今の厳しい事情なのであるのかも知れない。成る程、そうなると、動物病院への出費も、自分の医療費用よりも、ずっと、嵩んでくるし、食費だって、老犬食は、若干、高めになってくるし、、、、、、という訳で、犬よりも、猫の方が、食費も少なく、食べる量も少ないし、何よりも、自分で、この寒い最中に、一々、散歩や風呂場で、シャンプーをしてやる必要も無いし、、、、、ということになってしまったのであろうか?誠に、犬の犬種も、昔は、番犬で、外で飼っていたのが、当たり前だったのに、毛足の短い、抜け毛の少ない、しかも、大型犬ではなくて、室内で大人しく、あまり、キャンキャン騒がない室内犬へと人気が移ってゆき、そして、とうとう、それよりも、究極の選択である、諸々の諸般の事情を勘案してみると、総合的に、犬より、猫の方が、人間さまには、問題が多くなく、都合がおおいに宜しいということになってしまったのであろうか?何とも、世の中、世知辛いモノなのであろうか?

 


愛犬の若い頃の顔:

2015年12月04日 | 動物・ペット

愛犬の若い頃の顔:

我が家には、写真の額縁に、様々な愛犬の写真が納まっている。1995年に、我が家に貰われてきてから、亡くなるまで、18年余も、一緒に、我が家の一員として、過ごしたわけで、子犬の時代には、まだ、デジカメが、普及していない頃だったから、フィルムを写真に焼いて、保存しているものが、大半で、後年になって初めて、デジカメやPCに画像の保存が可能になったものである。従って、後年は、随分と画像も短いビデオも、数多く、保存されているものの、子犬時代や若い頃の愛犬の写真は、残念乍ら、それ程、多く残っていないのが、実情である。それ故、額縁に入って、色々な場所に、おかれている写真は、今や、大変、貴重なものである。たまたま、ヒョイと、目を向けると、偉そうに、お座りして、凜として、こちらに向かって、まるで、挑戦的なようなポーズをとっている若い頃の写真がある。我が家の愛犬は、メスなのに、若い頃は、犬相が、オスのようないかめしい顔つきで、お座りしているときにも、まるで、偉そうな直立不動のような恰好だったから、よく、飼い主に似て、偉そうだなどと、家族からは、揶揄されたものである。従って、私には、他人事とも思えず、飼い犬までも、飼い主の顔や態度に、酷似するものなのかとも、何とも、複雑な気持ちになったものである。犬の相というものは、面白いモノで、時間の経過を辿ってみると、成る程、その年齢に応じて、違ってくるもので、確かに、子犬時代、若い頃と、壮年の頃と、老犬になってからでは、顔つきも、違っているものであることが、今にして、初めて、理解出来る。息子のグローブを噛んだり舐めたりして、結局、最後は、中身のあんこまでもが、出てしまったり、松の枝の棒きれを加えて、スックと、遠くをジッと、見つめている姿や、桜の花の下や花壇の花々と一緒に、或いは、落ち葉の中で、モミジの紅葉の下で、雪の散歩道で、一緒に、その影とともに、撮った写真など、尽きぬ事のない愉しい想い出が一杯である。愛犬の一生と言っても、18年余であっても、それは人間の年齢で言えば、92歳にも相当するもので、自分も、齢を重ねるに連れて、愛犬の一生と重ねて、想うようになってくるものである。額縁の中の若い頃の写真は、まるで、偉そうに、「あんたも、しっかりしなさい!」と言っているように、感じられるし、又、別の晩年の写真には、「ボスも、歳をとったものだね!」とも、言われているようにも、思われるものである。君は、今でも、想い出の中で、偉そうに写っている。

 


君をふと想い出す:

2015年10月20日 | 動物・ペット

君をふと想い出す:

赤信号待ちで、何気なく、隣の車に眼をやると、左後ろの座席の窓から、一匹の犬が顔を外に出して、何やら、外の空気を嗅いでいる。そういえば、君も、良くしていたことを何気なしに、突然想い出す。もっとも、我が家の場合には、窓を全面的に、開放せず、半分くらいまでとする旨としていたが、、、、、いつも、車で、出掛ける時には、君は、ソワソワし始めて、家族のみんなが荷物などを積み込み始めると、もう、鎖をチャリチャリ云わせて、ジッとしていられずに、犬小屋から、出てきて、盛んに、尻尾をちぎれんばかりに振っては、「誰かを忘れていませんか?」とアピールして、一寸、意地悪をすると、終いには、とうとう、吠え始めましたね。君の席は、左の後ろ窓際と決まっていて、鎖を外して、リードにすると、一目散に、車内にピョンとジャンプして、座席の段ボール箱の毛布の上に、背筋を伸ばして、きちんとお座りをして、みんなが座席に座るのを待っていました。春の桜の開花する頃、夏の湖畔で、喉が渇いて、恐る恐る水辺で、美味しそうに、水を飲んだこと、ベランダでみんなと一緒に、バーベキューを愉しみ、その時だけ、特別に、お肉をお裾分けして貰ったこと、ベランダから、網戸を器用に、鼻先で、開けては、室内に土足で(?)入り込もうとして、いつも、女房殿に、怒られて、引き戻されたこと、辺り一面、紅葉の落ち葉の中を、枯れ枝をくわえて、狂ったように、走り、跳び回ったこと、みんなで、落ち葉焚きをして焼き芋を食べたこと、雪が積もった誰もいない冬の野原を、リードを外して、長い耳を後ろになびかせながら、ハァハァいいながら、力の限り、走り回ったこと、次から次へと愉しかった懐かしい想い出が、走馬燈のように、頭の中を駆け巡ってきます。今年も又、紅葉が赤く色づき始めました。もう、甘い香りの金木犀の花は、散ってしまいましたが、君は、落ち葉の香りも、嗅覚が鋭かったから、いつも、落ち葉に、鼻先を突っ込んでは、クンクンと、嗅いでいましたね。徐々に、景色が、黄色に色づき始め、やがて、真っ赤に、間もなく、染まることでしょう。真っ赤な紅葉の下で、晩年の秋に撮ったお気に入りの写真の中で、君は、こちらをジッと向いています。

 


金木犀の香りに想う:

2015年10月05日 | 動物・ペット

金木犀の香りに想う:

今年も又、金木犀の花の少し甘いかすかな香りが、外を歩くと漂ってくる。エメラルド・グリーンの瞳で、いつも、アイ・コンタクトを外すことなく、ジッと私を凝視していた君、耳もシェパードの血が混じっていたのか、ピンと直立して、おまけに、嗅覚も鋭い君は、いつしか、その老いと共に、美しい瞳も白内障で、濁ってしまい、足腰の弱ってきた君は、フラフラしながらも、晩年でも、良く一緒に、散歩したものである。ある時、電柱に、頭がぶつかると、君は、鼻面を空中に高く突きあげて、何やら、クンクンと、突然、嗅ぎ廻ったものである。どうしたのかと、壁際に、眼をやると、そこには、大きな金木犀の樹が、黄金色に輝く小さな花々を樹全体に咲かせていて、どうやら、その花が、甘い香りを漂わせ始めていたことに、初めて、私は、気が付いたものである。毎年、この頃になると、決まって、このほのかに甘いかすかな香りが漂い初めると、私は、そのことを懐かしく、その香りと共に、君を想い出します。君が、18歳と4ヶ月の命を全うして、逝ってしまってから、もう2年半が、経とうとしています。両親の介護は、女房殿に任せっきりであった私にとっては、君の介護は、色々と、老いてゆくことと命の最期の在り方を、教えて貰いました。口のきけない君という老犬に、人生の終末を学ばせて貰いました。金木犀の香りが漂い始めると、いつも、君のことを想い出します。そして、又、モミジが紅葉する頃が、訪れると、大好きだったおばあちゃんが着ていたベルベットで、女房殿が再利用して作ったマントを着て、真っ赤な紅葉の下で、撮った写真を想い出します。もう眼の見えなくなった君は、「ラッキー!」と声をかけると、カメラの方をしっかりと向いてくれました。金木犀の香りが漂い始め、モミジの葉が、まもなく、色づき始めると、君を想って、瞼の裏に、うっすらと、熱いものが、いつも、こみ上げてきます。

 


フクロウの声を聴く:

2015年08月01日 | 動物・ペット
フクロウの声を聴く:
約30年ほど前のことであったが、裏山の林には、フクロウの親子が住んでいて、まだ、その頃は、それ程多くの山荘が建っていなかったせいかどうかは、分からぬが、夏の夜には、例の太い鳴き声で、ホッホ、ホーと、遠くにまで、響き渡る声で、毎晩泣いていたモノである。その後、家が建つようになってからも、赤松の林やどんぐりの樹林のせいか、或いは、食物連鎖が、しっかりしているためか、亡き愛犬が元気な頃には、松林を散歩中に、頭上を黒い影がかすめていったので、首をすくめると、白い羽毛に蔽われた大きく翼を拡げたフクロウが、滑空していったことがある。ベランダの野鳥の餌台には、冬場には、どういう訳か、二十日鼠が、餌台の隅に、隠れていて、ヒョイと突然、飛び出してきたこともある。これから、判断すると、小動物達も、結構いるようで、ネズミ、蜥蜴、果ては、蛇までも、いるわけで、食べるものには、事欠かないのであろうか?独特の太い、闇夜に、響き渡るホッ、ホ、ホーという声を聴くと、何か、どういう訳か、一安心する。元気に、頑張って、この里山でも何とか、命を繋いで生きていてくれているのであろうかと、、、、、、、、、。何とはなしに、嬉しくなってしまう。姿は、確認出来ぬが、声での存在が、確認されることは、嬉しい限りである。最近では、防害獣用の電気柵の設置により、すっかり、鹿の声も、姿も、見かけなくなってしまった。流石に、昔、鹿が通っていた獣道も、爪痕がもう残っていない。もはや、行動半径が変わってしまったのであろうか?これからも、フクロウには、アイヌの「森の守り神」ではないが、この里山に、しっかりと、居座って、ずっと、命を繋いで貰いたいモノである。これからも、ずっと、毎年、あの太い鳴き声を聞きたいものである。

昔の散歩道を走る:

2015年05月29日 | 動物・ペット
昔の散歩道を走る:
といっても、若い時のように、ジョギングではない。自転車であるが、、、、、、。まだ、愛犬が、若い頃には、一緒になって、1時間コースを半分くらいは、ジョギングしたものであるが、後の半分は、いつも、歩くことにしていた。帰りには、「あれ!、走らないのですか?」と、私の方を、拍子抜けしたように、我が愛犬が、見上げていたのを想い起こす。一緒に散歩した道も、相変わらず、基本的なコースは、変わらないものの、旧近衛邸の荻外荘は、今や、相続の為なのであろうか、広大な庭も、鯉が悠然と泳いでいた大きな池も、やがて、駐車場になり、その駐車場も、今や、区の芝生の公園へと変貌していた。のんびりと、親子連れが、小さな子供達と一緒に、木陰で、初夏の風を愉しんでいる。川沿いの公園は、護岸工事なのであろうか、途中で、行き止まりになっていて、我が愛犬と行った散歩道も、途中で、迂回しなければならない。もうすぐ、丸3年になるのかと、感慨も一塩である。自転車でも、平気で、片道30分程度は、良く走ったものである。小さい頃から、よく、走るのが好きだったから、きっと、足腰が鍛えられて丈夫で、18歳4ヶ月も長生きすることが出来たのかも知れない。足腰が、衰えても、亡くなる前まで、外の空気を、その鼻で愉しんだものである。一緒にお花見を愉しんだ川沿いの桜も、昔のままであった。

デッサンを開始する:

2015年05月15日 | 動物・ペット
デッサンを開始する:
湯治客だから、毎日、温泉にゆかなければならないし、陽気も良くなってきたから、ベランダで、読書もしなければならない。花も愛でたいし、木も見たいし、又、植木の手入れ、男の手料理も欠かせないところである。結構、やるべき(?)事が、目白押しである。写真を利用した愛犬をうまく描くという作業も、いよいよ、デッサンから開始することにしよう!なかなか、輪郭を思いっきり描くという作業は、難しいものである。暗いところは、濃いめに、黒の鉛筆で、しっかりと、描くことも肝心であると、、、、、それでも、頭では分かっていても、なかなか、思うように手の方が云うことをきかないものである。脳の方が思うように、云うことをきかないのであろうか?それでも、眼の描き方とか、全体の輪郭との関係での色づけとか、結構、厄介なディーテイルをうまく描くことも、必要である。右脳再生中であるから、刺激になって宜しいではないか!画用紙に、描くのは、これまでも、何度かは、あったものの、今度は、キャンバスの上に、水性アクリル絵の具で、描いて見ようかとも、考え始める。写真とは一寸違った亡き愛犬の面影が、記憶の中に浮かんで来る感じがする。不思議なことに、余り、夢には現れない愛犬が、ふと、現れ出でたのには、驚いてしまう。脳を刺激して、活性化されたのであろうか?出来映えも気になるところであるが、所詮は、自己満足であるから、おおいに、脳が刺激されることは、喜ばしいことである。画用紙とは違って、本格的なキャンバスでは、どんな出来映えになるのであろうか、たのしみである。ネットで、調べていたら、100円ショップで、ステンドグラスも出来るそうである。夢が、次々と、膨らんで面白くなりそうである。もっとも、いつ出来るかは、又、別の話であるが、、、、、、、。

老犬ホームなるもの:

2015年02月25日 | 動物・ペット
老犬ホームなるもの:
人間は、自分が歳衰えて、老人ホームに行かなければならなくなる時には、愛犬をどうするのであろうか?最近では、人間専門ではなくて、犬専用の老犬ホームが提供され始めていると報じられている。人間の寿命と犬の寿命の速度が、同じであれば、単純に、足し算をすればそれで、済むのであろうが、実際には、そうはゆかない。犬のスピードの方が、はるかに、6倍もの差が生じるのが、現実である。10才までが、X6で、それ以降は、+4倍だそうである。我が愛犬も、これに習うと、随分と長生きをしたものである。人間年齢になぞらえれば、92才を超えて、大往生かどうかはわからぬが、最期を看取って上げられたことは、本人は、どう思っていたのかは分からぬが、こちら側は、悔いなく、面倒をみられたという満足感はあろうか、それにしても、流石に、13歳頃までは、足腰も目も問題なく、頑張っていたのに、最期の2年ほどは、白内障で、目も見えず、お漏らしもするようになったので、外で、飼うことを諦めて、家の中に、入れて、オムツをあてて飼うことにした。本人は、心なしか、家族と一緒に住めることがとても嬉しかったのであろうか、自由、気儘に、家の中を歩き回り、テーブルの下の絨毯の上で、午睡をすることが大好きであった。老人病院も、老犬ホームも、同じように、一度入ったら、死ぬまで、出られないという点では、何とも、切ないような気がしてならない。我が愛犬は、外で飼っていたから、それが、当たり前だと思っていたが、晩年、家の中で飼ってみて、本当は、家族と一緒に、暮らしてみたかったのかなぁとも、思う。生き物を飼うとは、結局、一緒に、その生き物とともに、「人生を歩む」と云うことであって、ただ、餌を与えて、飼育するだけではない。将来は、或いは、既にそうなっているかも知れないが、遺言で、愛犬に、終身扶養保険を与える人も、出てきそうであるが、必ずしも、人間をないがしろにして、犬や猫にと、一概に、非難されるものでもなさそうである。もし、災害や何らかの理由で、最愛の動物を手放したり、先に、自分が逝く場合には、こういうホームも必要になってくるのかも知れないが、必ずしも、人間様が優先であるとも、言い切れぬものがあろう。自分の場合には、そうならなくて、見送れたから、良かったのかも知れない。もう、これからは、自分で、愛犬の面倒をみることもないであろうと思うと、少々、淋しくなるが、、、、、、、、。子供達でも、飼ってくれるようであれば、別であろうか?その時は、間違いなく、こちらが先に、見送られることになろう。

節分の翌朝の想い出:

2015年02月06日 | 動物・ペット
節分の翌朝の想い出:
節分の日の豆まきが、我が家の愛犬はとても、好きであった。とりわけ、その翌朝の散歩の時には、途を歩きながら、鼻先を地面にクンクンと擦りつけながら、何やら、盛んに、小さなものを捜して急ぎ足に、歩いて行く。時々、立ち止まっては、コリコリ、ボリボリと何かを食べ始める。我が家では、全く、食い意地が悪い奴であると、総スカンであるものの、本人は、全く、意に介さず、或いは、拾い食いの観点から、非常に危険であるというドクター様のありがたいご託宣も又、意に介さずに、毎年、18年余も続けていたものであることをいつも、この日の翌日になると懐かしく想い出す。それにしても、あの大豆の炒った豆を長い舌先で、ペロリと平らげ、カリッと小さな音がして、美味しそうに食べているので、結局、我が家では、大豆の炒り豆をおやつに、この日には、食べて貰うことにした。犬の年齢では、食べさせる数も少な過ぎるので、人間の年齢に相当する粒数を上げることにしたものであるが、年齢が進むに連れて、多くなるので、最後には、制限されたものであったが、それでも、本人は、喜んで、私の手の上で、小さな粒をペロペロ食べていた。楽しい想い出だったが、、、、、。道端に鬼は外で、播いてこぼれた大豆の粒を見るたびに、我が愛犬との懐かしい想い出が胸をよぎる。

君のいない散歩道をひとり歩く:

2015年02月01日 | 動物・ペット
君のいない散歩道をひとり歩く:
梅の蕾が、いつの間にか、膨らみ始めた。昔は君と一緒に、いつもの川沿いの散歩道を一緒に歩くと、狭い道沿いに、3種類の紅白の梅の樹が、春先前には、毎年、つぼみが膨らみ、数輪の花が、開花するのを愉しんだものである。丁度、塀際から、枝が伸びて、背の高さほどで、鼻を寄せると良い具合に、剪定されていて、春の柔らかい甘い香りを嗅ぐことが出来た。必ず、その場所から、数十メートル手前に差し掛かると、君は、いつも決まって、鼻先を風上の方に向けて、クンクンとその空気に漂うであろうこの春の香りを一緒に、愉しんだものである。もちろん、君の鼻の方が、私のアレルギー性鼻炎の鼻に較べたら、ずっと、1000倍程も感度が良かったであろうから、君の方がいつも先に、立ち止まって、クンクンと嗅いだものである。そんな散歩道も、もう、2年余り、同じ散歩道は、歩いていない。ふと、家の梅の樹を見たら、蕾が大きく、膨らみつつあるのを見ていたら、そんな昔の光景を想い起こして、一人で、トボトボと、歩いてみることにした訳である。同じように、今年も又、同じ時期に、程なく、甘い香りがすることであろう。カワセミが、魚を捕ろうとしていた場所も、今日は、前日の雨が降ったせいか、濁っていて、横目で見ながら、通り過ぎてしまったが、君と一緒に、散歩の途中で、ずっと眺めていたことを想い出した。18年間も長い間、一緒に散歩した途も、もう、再び、通うことも、こんな事がない限り、そんなにはないであろう。一人で歩いていると、君がいつものように、時々、後ろを振り向きながら、ひょっこりと、私の一歩前を歩いている姿を想い出して、涙が溢れそうになる。春先の梅の香りと夏の終わりの金木犀の香りには、君の残像が、いつまでも、付きまとわって胸が痛くなってしまいそうである。写真の君は、気持ちよさそうに、永遠に、午睡を愉しんでいるかのようである。


菅原文太までもが、、、、、、、:

2014年12月25日 | 動物・ペット
菅原文太までもが、、、、、、、:
どうやら、投稿が、うまく反映されていなかったようでしたので、一寸、遅れて、投稿することにします。高倉健が、昭和初期の任侠の「静」の裏美学とすれば、菅原のそれは、戦後混乱期の現代暴力団のという「動」の表の実録版とでも云えるものだったのかも知れません。2人とも、若い頃には、顔立ちが端正で、ニューフェースやモデルであったことは、誠に、その後の俳優人生を思うと皮肉であるが、人生とは、所詮、そんな皮肉なものなのかも知れません。住まいも、隣に、小学生の同級生が住んでいたこともあって、同じ町の住人としての親近感はあったものの、映画の方は、残念乍ら、既に、こちらは、社会に出てしまっていたので、健さんの頃の映画と違って、映画館で観たという記憶がありません。こちらは、せいぜいが、TVでの放映くらいである。従って、どうも、記憶の中に、インパクトがないのが、残念であります。役者としては、インテリなのに、その風貌からか、やたらと、広島弁が印象に残ります。もっとも、それは、身近な友人が、広島出身者だったからか、広島弁に親しみを感じていたものだったのかも知れません。後年、故郷の仙台が震災で被害を出したことから、原発問題や、農業、とりわけ自然農法、或いは、政治・平和へのこだわりから、沖縄基地問題や反戦政治活動へも積極的な関わりを持ったのも、現役の頃の暴力団、山口組との付き合いで問題を起こしたことと相殺されても宜しいのではないだろうか、裏世界の実録ものは、今日、全く、影を潜めてしまったものでありますが、今や、映画界も、そんなドロドロした粘っこい情念の塊のようなものは、影をすっかり、潜めてしまったものであります。そして、俳優も、様変わりしてしまったような気がするのは、私一人だけでありましょうか?おおいに、残念であります。遺作になってしまった「ブラック・レイン」で現代ヤクザを好演した松田優作も、刑事役だった高倉健も、考えてみれば、戦後混乱期の暴力団を演じた菅原の演じたやくざ達も、その後、演じられることも無くなったようであります。せいぜいが、北野たけしによる「アウトレイジ」くらいでしょうか?そういう俳優が又一人銀幕の中へと消え去ってゆくことは、淋しい限りであります。今の醤油顔の端整な顔立ちの若い役者に、是非、挑戦して貰いたいところであります。観る側の観客も同様に、そんなドロドロした剥き出しの暴力や人殺しは、受けなくなりつつあるのでしょうか?