小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

第一次世界SNS市民情報戦争のなかで:

2022年03月20日 | 社会戯評

第一次世界SNS市民情報戦争のなかで:

 

Twitter@FedorofMykhailo や Twitter@Zelensky 等をフォローし始めた途端に、やたら、中国やロシア語によるメール・アカウントへの詐欺メールが、増えてきたのは、考えすぎだろうか?(Telegramは、流石に、秘匿性が微妙に、怪しげで、私的には、TikTokも含めて、使用していないが、、、)それとも、所謂、サイバー空間では、既に、昔から、Big Dataや、動画・写真・ブログの#キーワード検索によるある種の反ロシア、反中国の発言が、解析されていて、スノーデン流に言えば、国家治安維持に対する挑戦として、ブラックリスト化されて、どこぞの国のサーバー上でのデータベースに、もう何十年も前から、攻撃対象リストの一員に入れられているのであろうか?そう言えば、スノーデンは、亡命先のロシアで今まさに現在進行中の#第一次世界SNS市民情報戦争に、どのように関わっているのであろうか?興味深いモノであるが、、、、漏れ聞こえて来ませんね。

日露戦争時代には、ロシア語が堪能であった駐在武官が、帝政ロシアに放棄する予定であった革命勢力側に、密かに、資金や政治工作を行っていたことは、公然の秘密であったことを後世の歴史を知っている私達は、認識しているものの、その当時は、一部の中枢の関係者しか知らなかったことも、事実であろう。それは、後のバルチック艦隊の航跡の追尾でも明らかなように、緻密な情報網の連携と情報の解析・状況判断が、適宜必要不可欠で、それが、勝負の分かれ目になっていたことは。周知の事実である。

その意味では、近年の歴史では、2010年頃のTwitterを活用した#拡散希望#シェアーに伴い、或いは、ウォール街の#Occupy運動や、#Weare1% #MeToo 運動など、瞬く間に、世界中に#中東の春も含めて、香港やアジア各国に、拡がっていったものの、#GAFAと言うグローバルな国境を越えた国家権力にも手に負えないような#情報プラットフォーマーによるユーザーの個人データを広告利用収入に結びつけるビジネスモデルの成功や、トランプの大統領選挙での#FakeNews問題を経て、大きな揺り戻しが起こり、謂わば、コインの表と裏、ネットの光と蔭の問題により、組織の#コンプライアンスや、#Literacy が、とりわけ、商道徳やビジネスモラル、#企業倫理の問題を惹起してきた歴史的経緯があることも事実であろう。

今や、ボーダレスになるにつれ、その反面、固有の#民族主義や#専制権威主義国家による独自の歴史観や固有のNarrativeな国策的な#愛国主義が反面で、跋扈し始めてきている。ますます、老若男女を問わず、ますます、スマホとSNSによる#デフォルト化が進行する中で、ゲッベルツ時代の旧来型の#情宣大衆操作手法から、テレビ・ラジオ・新聞などのマスメディアから、明らかに、新しい形での#ハイブリッド型の個別ツールへと、手法が変わりつつあるように思えてならない。恐らく、それは、旧来型のスパイ網も含めた、アナログ的な諜報・インテリジェンス活動から、これをオンサイトとすれば、明らかに、オフサイト型の無人偵察機やドローンではないが、或いは、監視カメラや衛星監視写真や動画を駆使した、或いは、空中・宇宙空間・水中・地下での#交信通信傍受やサイバー空間上での#ハッキングという手法や、#偽旗作戦、#FakeNewsのによる、<グローバルな味方作り>、<世界的な価値観作り>と言う手法に、政治も、戦争それ自体も、変質しつつあるように思えてならない。

チトー後のユーゴスラビア紛争の時に、ホロコーストと言う言葉の代わりに、#民族浄化 #Ethenic Cleansing という言葉が、謂わば、米国代理店のエージェントにより、一種の戦争マーケティングの手法として、<国際社会の中での味方作り>に、世論形成に作り出された事実も、決して、忘れてはならない。或いは、ビンラディンによる9.11の原型にもなる、#ジハード 聖戦 というスローガンも、更には、義勇兵を世界的にリクルートする際に作られたPR動画や、稀代な#メディア戦略を忘れない。決して、小さな弱者が、巨象や凶暴な熊に立ち向かうときに、必ずしも、巨大な緻密なメカニックな組織だけが、必ずしも、不可欠であるとは、思えないことを知っている。丁度それは、小回りの利くソーシアルメディアなどに代表される#オープンソース情報を活用した、或いは、組織からは明らかに独立した形のボランティアや市民ジャーナリスト、更には、ありとあらゆる地域に点在する調査員やボランティアやエージェントの情報を、集約したり、解析する手法で、所謂、#Open Source Investigation で、自前の組織とは別のフォーメーションで、柔軟に、解析する新しい手法のようである。但し、この手法は、提供される情報が、本当に正しいものかどうかを判断することが、キーであり、Palantir Technologyではないが、データ解析、とりわけ、非構造化データに於ける解析Solutionの何らかの秘匿されているノウハウが、不可欠になるのであろう。その観点からすれば、#OSINT : Open Source Intelligence というものも、それが善意の正しい情報であれば、通信衛星画像の解析や、交信傍受や気象衛星からの情報や、果ては、アナログのスパイや、内部通報者による直接的な生の声も加味して、総合的に判断する、謂わば、<自主的な有る意思を有した総合的な解析力>は、旧来型の現場で、大本営や参謀本部からの上意下達式の指揮命令系統と指示をひたすら待つ形での、フレキシブルに決定と決断をすることが出来ない組織とでは、どんなに、総合的な数の上での、或いは、武器の質やハード面での数的な優位性があったとしても、必ずしも、大が小を制するのではなくて、寧ろ、逆に、どんなに、情報を統制、抑制したところで、砂が、指の隙間からこぼれてゆくように、口コミや、直接的なアナログの電話で、漏れ出ていってしまうであろうし、そうした会話自体が、何も、軍事秘密にすることではなくて、敵国民へ、直接、生の情報発信を行う事で、多いに、情報戦を優位に薄めることになるであろう事は、ロシアへの死亡者問い合わせサイトの開設とか、捕虜の肉声を動画公開したり、或いは、目撃した戦車の位置情報をGPSを駆使して、瞬時に、どこにいるかをウクライナ軍の現場の部隊に連絡したり、これを衛星画像の解析や、日本が独自に開発した衛星データ画像と地図上のデータを統合するソフトで、位置情報が把握できれば、当然、ドローンや低空での無人探査機や、無人攻撃機による戦術強化や、歩兵による移動可能式の対戦車砲や地対空ミサイルなどでしょうか、驚くべきは、武器の使い方のマニュアルを動画でスマホに配信するとは、いかにも、IT先進国ですね。太平洋戦争時の無謀な戦国時代にも劣る竹槍戦術とは、異なる次元ですね。戦車目撃者によるGPS解析集積ソフトといい、如何にも、IT先進国である。

更に、ゼレンスキー大統領による米国連邦議会でのオンライン演説の実施や、ドイツ議会での同様なダイレクトなリアルタイムでのオンライン・メッセージや民間人被害の戦争犯罪の動画のアップなどは、大型モニターや前例がないという日本の国会での演説要望に対する最初の日本政府によるリアクションの落差は、相当なものがあり、これまでの北方領土交渉を担ってきた森や安部晋三や鈴木宗男らにも、直接、プーチンにも、オンライン会議の機会を作って貰って、日本国民への直接的なアッピールをして貰っては如何なものでしょうか?それにしても、これを気にして、これまで、蔑ろにしてきた大戦期末の北方領土の不法占拠を国際世論を味方にすべく、国際マーケティング手法を学ぶ良い機会ではないでしょうか?恐らく、それは、竹島でも、北朝鮮による拉致問題も、更には、尖閣列島の問題でも、共通する問題ではないでしょうか?真田幸村が、大好きな日本人にとっては、弱小国ではあるものの、あの改造された遼寧になった、元ウクライナ製の空母は、その技術などは、黒海のウクライナ海軍には、どのような形で、軍事技術が、承継されているのかは、闇の中の闇で、流石に、自ら、手の内を見せることはないでしょう。哨戒機能と潜水艦探査技術を誇る自衛隊などは、今回のロシアによるウクライナ戦争から、どんなノウハウと国防技術を学んだのでしょうか?どうみても、北朝鮮制裁などは、これまでの中国に加えて、ロシアによる北朝鮮への接近は、間違いなく、軍事的にも、労働者派遣や兵員の補給なども含めて、密接に行われるであろうし、中国も、ひたすら自国の国益優先で、面従腹背で、世界の世論に人道的な配慮を見せつつ、結局は、裏で、北朝鮮経由とか、様々な形で、サポートすることは間違いないでしょう。

私の父方の叔父は、ギルバート諸島のタラワ島で佐世保陸戦隊で参加し、Missing in Action中で、玉砕したとされているが、未だに、遺骨はなく、戦死公報のみである。硫黄島での激戦玉砕でも、2万余柱の日本兵の死のみならず、米国海兵隊の死亡者・死傷者数は、7千余で、その期間たるやわずかに1ヶ月程度であることと較べると、ロシア軍の死亡者は、非公式でも、6千人程度であろうと(将軍クラスでも4名)となると、既に、侵攻後20日余であることを考えると、かなりの戦死者すうであろう。SNSによる情報の収集は、戦争犯罪の証拠集めや病院や学校等へのミサイル攻撃や受約に加盟していなくても、クラスター爆弾や、気化爆弾の使用などによる国際法違反の事例も考えると、明らかに、日常的な情報は、60年代のベトナム戦争の時時代とは、全く、世界の世論は、異なる次元にいるように思えてならない。尤も、それにしても、ウクライナというのは、欧州に近く、1年前に軍によるクーデターが起きたミャンマーとは、比べものにならないほど、関心が薄くなってしまったことは、残念である。


ミャンマー、ウクライナに想う: 世界史年表にみる自身の人生、誕生からの位置づけ、

2022年03月10日 | 社会戯評

ミャンマー、ウクライナに想う:

世界史年表にみる自身の人生、誕生からの位置づけ、

 

77年前の今日は、1945年03月10日の未明に行われた東京大空襲の日である。10万人以上が死傷したとされている所謂、焼夷弾による夜間大規模空襲である。1960年年代には、米軍によるベトナム戦争時には、一層威力が増したナパーム弾と言う言葉を聞いたときには、成る程、ジャングルだけでなく、その地域もろとも、人も家畜も家も、何もかも、根こそぎに、焦土と化し、東京の下町などは、当時は、瞬く間に灰燼と化し、多くの人名が失われたことは、今は亡き両親から、聞いていたから、3.11とともに、思い起こす。それにしても、当時は未だ、戦後20年ほども、経過していなかったものである。それを言えば、1950年の朝鮮戦争も、戦後わずかに、5年後でのことで、ヤルタ・ポツダム体制から、それ程の年月が経過していないことが、改めて、再認識される。日本人は、とりわけ、忘れやすい民族だから、<人の噂も75日>、観て見ぬふりをして、<不条理なことも75年経てば、勝てば官軍で、歴史に正当性が付与されてしまう>のであろうか? 或いは、戦争体験の話も、子どもが怖がり、トラウマになるから、辞めて貰いたいなどと真顔で訴える若いギャル・ママもいると言われている。

  改めて、時間軸の歯車を逆回しに遡って、自分の生まれた年と、当時の年齢と世界史が、どのように関わっていたかを眺めてみることにしたい。 1950年には、朝鮮戦争、1956年には、ハンガリー動乱、1965年には北爆開始、1968年には、チェコ侵入、1975年、サイゴン陥落、1979年、イランホメイニ革命、70年代には2度に亘る石油危機、1979年には、ソ連軍によるアフガン侵攻、1980-1988年、イラン・イラク戦争、1985年、ポーランド・ワレサ連帯運動、1986年、米ソ首脳会談、1988年ミャンマー民主化運動、ペレストロイカ、グラスノチス進行、1989年6月4日天安門事件、同年11月9日ベルリンの壁崩壊、マルタ会談冷戦終結、、、、、、一寸長くなってしまったので、、、、、本題に戻るとしましょう。因みに、左側縦列軸に、生まれた年の10年ほど前の年代から始めて、自分の余命予想年代まで、、、そして、右の列軸に、自分と家族の主たる出来事、その右に、日本の主たる出来事、その右に、世界史年表をと言う具合に、EXCELでも、作成してみると、確かに、面白いかも知れませんね。

  NHKのファミリー・ヒストリーではないですが、父や母、祖父母、曾祖父母の時代とか、成る程、こんな時代を生き抜いてきたのだとか、想像力を巧みに使ってみたら面白いですね。それにしても、<失われた20年とは、良く言ってみたモノ>である。戦前の10有余年にも及ぶ日中戦争のその先に、国体の護持を最優先として、より悲劇的な太平洋戦争を迎えることになったのに対して、、、、、、明らかに、失われた20年などと言うものは、血で血を洗うような悲劇的な長期戦ではなかったことは、少なくとも、極めて、僥倖であるとしかいいようがないのではないでしょうか。それに較べたら、ナチスによる、1939年のポーランド侵攻や、1933年迄遡る所謂、終戦に至る15年戦争は、自国民の生命財産居留民保護を名目に、どうみても、戦争そのものではあっても、○○事変と称することで、#主権国家の侵略と#国際法の事実上の違反という物事の真実、事実という本質から、目を背けさせ、戦時下での報道統制とプロパガンダで、宣戦布告無き、無責任体系という暴走機関車という、誰も止められない状況を追認、黙認してきてしまった事は事実で、敢えなく、小さな幸福な日常生活は、突然、一転して、暴力と恐怖による有無を言わせない、非日常が、常態化することになってしまい、それが、世界史の歴史の中では、10年や20年の単位と言う時間軸の中で、否、自分自身の人生の時間軸では、一体どのくらいの長さとして、実感されるのであろうか?その中で、毎日、人は食べ、排泄をし、息を殺して、子どもを育て、或いは、赤ん坊が生まれ、理不尽も、前途のある有為の若者が死に、家族がちりぢりに引き裂かれ、異国の地で、どうやって、難民として、これから、生きてゆくのであろうか?満州の国境から、鴨緑江を越えて、更に釜山港まで、赤児を連れて歩いてきたという話を、実際に聞いたことがあるが、或いは、沖縄戦での非戦闘員への無差別攻撃やら、戦争の悲惨な事例を直接見聞きしても、今日のミャンマーや、ウクライナの悲惨な状況に対して、あらゆる想像力を駆使しても、せいぜいが、ナチスによるポーランド侵攻や、米国の中立主義は、今日の状況とどこか、類似しているなと想わざるをえません。当時も、あの時代は、そんな受け止め方だったのであろうか? それとも、 ハイブリッド戦争だから、サイバー攻撃でも、人間の盾を逆手にとった、人道回廊でも、原発への攻撃も、何でもありの下の選択なのか、戦争をやるときの出口戦略も、途中でシナリオが狂ったときには、何十ものカードをロシア(プーチン)のAIは、持っていなかったのであろうか?それとも、SWIFTの経済制裁も、初めから、NATOや米軍の参戦はしないとする足許を見透かした観点からも、世界を敵に回してまでも、断固、ロシア大帝国の飽くなき野望を達成し、果ては、中華大帝国による覇権を目論む習金平と共に、破壊後のインフラの建設は中国に任せるというような密約でも事前に、北京オリンピック大会前になされているのであろうか?

  ある軍事ジャーナリストと称する者が、1989年の天安門事件の時に、人民解放軍の中で、軍閥さながらに、各軍管区は、二分・三分化されて、内戦状態に陥るという予想をテレビで公然と持論を展開していたことを、今でも忘れることはない。今回のミャンマーでも、ウクライナでも、指導者の心理的な分析にまで、踏み込んだ専門家による解説はなく、ただただ 予想外であるとか、理解出来なかったなどと言う分析を聞く度に、一体、ド素人は、否、現地の人は、限られた情報の中で、どんな判断をしたら良いのだろうかと想ってしまう。SNSの情報というものは、とりわけ、写真や動画ですら、Fakeかどうかは、余程の専門家でない限り、分からないし、ましてや、FBのザッカーバーグが、どんなに、寄付しようが、過去に、妻の母国である中国での活動への妥協や米国での公聴会での内部告発者の発言をみても、過大な期待は避けたいモノである。寧ろ、様々な複数のSNSを総合的に使う中で、何が真実に近いのか、或いは、そうでないのかを、自分自身の中で、判断できうる独自のノウハウと見識を身につけたいモノである。

  情報が限られる中で、明らかに、ウクライナの大統領府は、様々な情報を、軍事情報を含めて、英米、イスラエルなどから、宇宙空間経由で間違いなくえており、ロシア軍の交信情報なども、ハッキングや、高度なインテリジェンス諜報活動を行っていることは間違い事実であろう。敢えて、そんなことを公開する馬鹿はいないわけで、改選前からの事前の情報リークは、2014年のクリミア併合時の苦い経験から学んだやむを得ぬ限られた選択肢の一つだったのかも知れない。大韓航空機の撃墜の際にも、一番始めに察知したのは自衛隊で、これが、米軍と情報共有されたとされているが、そう言う事実を知るのは、ずっと後のことである。 今もIntelligence War サイバー戦争は、水面下で、世界中を巻き込む形で進行中である。

  あの頃の昔の元若者は、世界中で、今、何をしているのであろうか?一体、何が出来るのであろうか?それこそ、#国際法違反、#連帯とは、#支援とは、#国家の主権とは、#人権とか、#独立とか、#生存権とか、#情報統制とは、#グローバル企業のリテラシーとは、???等など。改めて、考え直したいモノである。 自分には何が、出来るのであろうか?テレビで年寄りや赤児を観るにつけ、昔、若い頃、<What can I do for you ?> と問いかけたら、<What can you do for me ?> と応えられたことを想い出す。 先ずは、自分に出来ることが 何であるのか、そして、確実に、それを一歩ずつ、やっていくしかないのか?

 

既に、ミャンマーのクーデターからは1年余りが経過し、ミャンマー緊急支援チームへの#Myanmar21のクラドファンドには、当初の500万円の目標に対して、5000万円以上の寄付金が集まったそうです。

=日本ビルマ救援センター:

http://www.brcj.org/?fbclid=IwAR2sgmqze-0RHWCOyJ1CyfswMmqJfWkalJU3WLsCGYe3PJBckG8m_JNA2P4

直接的な寄付金の銀行口座が表記されていますね。

=国連YNHCR協会:募金先

https://www.japanforunhcr.org/donations#_ga=2.170248608.1606813986.1646708937-1762587096.1646708937

 

 Twitter では、 @Zelenskyで現在、フォロー可能である。

更に、若手の報道官であり、ウクライナIT軍の創出を構想したMikhailo Federofは、

@FedorofMykhailoで、米国のSpace X社の@elonmusk に対して直接、宇宙からのサテライト経由のインターネット接続の支援を要請し、すぐさま、支援品が提供されたとツィートしている。又、暗号資産通貨を活用したウクライナへの支援をツィートして、これに応じるツィートもアップされているのは興味深いし、ロシアによる仮想通貨での通貨制裁の逃避への対抗策として、仮想通貨へのハッキングや、ロシア国営企業のインフラへのハッキングをも、ホワイト・ハッカーに、国際的に支援要請したり、Twitter上で、見えないサイバー空間で、現実的なやりとりが行われていることが、履歴から分かる。又、グローバル企業宛に、より強力な経済制裁への要請を、厳しい言葉で、例えば、ロシア産石油を購入している大手の石油会社には、ウクライナ人の血の臭いが、その石油からしないかもと、、、。流石の米系グローバル企業も、ロシア国内での営業を一時休止せざるを得ないという事になるのであろうか?因みに、侵略13日目の3月1日のツィートには、@Hitachiglobal を名指しで、日立の部品がロシア製のタンクやミサイルの部品に使われている事実を取り上げて、直ちに中止せよと促すツィートをしている。(英語だからわかりやすい)、それ以外でも、そうそうたる著名なグローバル企業名やその創業者やオーナーの名が、列記されている。尤も、中国人からのツィートは、中国語で、ぼろくそであるが、、、、これも面白い現象である。それにしても、ウウライナには、IT関連でインド人留学生が多いことが改めて、再認識される。実際、インド人留学生が死亡していることが報道されている。北朝鮮軍傘下のハッキング部隊は、ロシア支援をしているのであろうか?もはや、水面下では、とりわけ、仮想通貨や暗号資産へのハッキングやら、サイバー上での寄付とか、これまでの常識では到底想像出来得ないような事態が、現在進行形なのであろう。そう言えば、先日、駅ネットへの偽メールや、インスタグラムへのサイバー攻撃は、.cn という中国表記がありましたね。まぁ、もう、この歳にでもなれば、価値観の異なる専制・権威主義国である、中国にも、ロシアにも、ゆくことはないであろうが、、、、、。 (韓国大統領選挙が、今日行われる予定だが、、、、韓国民の選択は、どうなることでしょうか?)

#国際法違反、#国際連帯、#支援、#国家主権、#基本的人権、#独立国家、#生存権、#情報統制、#グローバル企業 #サイバー戦争 #ハイブリッド戦争


現役学生とのオンライン会議に参加して:コロナ氷河期世代?との対話

2021年10月23日 | 社会戯評

現役学生とのオンライン会議に参加して:コロナ氷河期世代?

 

IT ディバイドと言う言葉を聞き始めてから、一体、年齢的に、どの年代を境に、パソコンやITを使いこなせるのかと考えてきましたが、(勿論、職業やキャリアによって、個人差は否めませんが)、自分の経験からすれば、社会に出たときは、まだ、PCフロッピーも下敷きのようなもので、未だ、ワープロも、普及しておらず、LAで、現地のキャノンが2000ドルで販売していた、テロップの液晶が、10cm程の長さで、しかも、都度印刷しないと、記憶容量がなくて、電話などが掛かってきて、一度中断すると、とんでもない、痛い目に遭った覚えが懐かしく想い出されます。海外とのやりとりも又、テレックスの紙テープに、さん孔機を利用して、事前に、文章を打ち込み、これを即時コールと対時コール(繋がるまで、延々と待ち続ける、残業代稼ぎの若手の仕事だったし、これが縁で担当の女子社員と結局、社内結婚に発展したケースが多かったような気もするが、、、、)で、電話回線をKDD経由でお世話になったものである。のんびりとした、新入社員の残業代稼ぎが出来たゆる~い、余裕のある時代だったのかもしれない。従って、これらを勘案すると、技術の進歩にもよるが、恐らく、現在、75歳位の年代を境に、ITディバイドなるものが、存在するような気がしてならない。

 そんな最中、コロナ禍の以前からも、オンラインとオフラインとの会議の在り方について、試行錯誤を繰り返してきたものの結局、デジタル・フォーメーションと言う方向に舵を切らざるをえない状況に、とりわけ、ここ2年間の間に、コロナ禍のなかで、ハイブリッド方式も含めて、ケース・バイ・ケースで対応せざるをえない切羽詰まった状況になってきたのも否めない。そんな背景の下で、限られた人数ではあるものの、文化祭のオンライン開催に際して、その実行委員会の中で、オンライン・チャット・部屋を開設して、そこに入室して、オンライン会議を開催し、現役生・OBも含めて、18歳から75歳までの意見交換会に参加した次第である。

 それにしても、この2年間のキャンパス・ライフは、薄々、風聞してはいたものの、想像以上に、学校での授業・友達作り・サークル活動・就職活動などへの影響が、<コロナ氷河期世代>とも、(現役生曰く)揶揄される当事者達は、後年、社会に出てから、こんな呼ばれ方や、レッテルを貼られるのであろうか?丁度、自分たち、50年前の怒れる若者が、若い頃に、やれ、<団塊の世代>とか、<全共闘世代>とか、呼ばれたように、同じ、Z世代でも、格別に、区別されてしまうのであろうか?必ずしも、否定的な側面だけではなくて、肯定的な側面からも、大変興味深いものがある事は事実であろう。

 ストライキや社会運動で授業が物理的に出来ないのとは異なり、そもそもの<他者との距離間のあるコミュニケーション>それ自体が、<会話をすることで、飛沫が飛びかねない>と言う理由で、キャンパス閉鎖やロックアウトになること自体が、過去に、全く経験したことのない自体そのものである。      オンライン会議などは、そもそも、自分の経験から言えば、海外とのやりとりは、Skype等で、当たり前と言えば、当たり前に、何の抵抗もなしに行われていたものである。それが、音声から、技術革新に伴い、テレビ電話になったもので、その昔には、東京と大阪の事務所を結ぶテレビ会議システムなるものに、100万円以上もの投資を会社はやっていたものである。全く技術革新に伴い、当時は、よくもまぁ、こんな多額の投資をやっていたものであると、昔の余裕には呆れ果てたものである。

 学業が出来なければ出来ないで、勉強が出来ないことも、勉強だと思えば、或いは、ノンポリも、Activistも、それぞれ、今思えば、それなりに、人生勉強になっていたものであることに気がつけば、全て、前向きに、80分の2年くらいに、或いは、100分の2くらいに、前向きに考えてみるのも、良いのかも知れない。それにしても、距離のある一定程度のcommunicationというものは、人間関係に、どういった影響を及ぼすことになるのかは、将来検証されることになるのかも知れないが、その時には、こちとらは、もうこの世にはいないだろうから、ある意味で、興味深いことであろうか?

どんな社会的な影響が出るのか?超新人類のような別個の固有種が発生するのであろうか?一体、どういう肯定的な影響が、或いは、否定的な影響が出てくる可能性があるのであろうか?

 ただ単に、Global Supply Chainの一つの歯車が狂っただけで、様々な影響が出てくる以上、所謂、人間関係の相対的な育成課程でのギクシャクとした問題は、恐らく、若者への未知のインパクトが、人生観にも出てくるのではないかとも想像されよう。それが、将来、吉と出ることになるのか、それとも、凶として具現化してくるのか、或いは、個人レベルで済まされるのか、それとも、それ自身がその世代特有な共通的な人生観、Life Styleにも、直接的に、影響を及ぼすことになるのか?50年前の怒れる若者には、今の若者達が、50年後に、あの時を振り返ってみたときに、どう振り返るのか、大変興味深いものがあります。それは、それぞれ、戦争というものを経験したり、戦後の混乱期での就職困難期を経験したとか、或いは、高度成長期に、或いは、失われた20年の中で、就職氷河期に遭遇して、派遣社員にならざるを得なかった世代とか、生まれてきたときが悪かったのか、産んだ親を恨むのか、それにしても、海外からの会員のアクセスも含めて、なかなか、時代のリアルタイムでの問題に触れる機会が最近は、少なくなってきている中で、改めて、若い世代の或いは、現役の働く世代の人達の立ち位置が、理解されて、オンライン会議も、大変、充実した印象を受けましたし、おそらく、オフライン・オンラインも含めて、ケース・バイ・ケースで、ハイブリット方式も含めて、時代はそういう方向に移行しつつあるのであることが、再認識されました。それにしても、肩組み合って、歌を歌ったり、メガホン片手に、声援を、或いは、相手へのエールを送れる日常が、早く戻ることを期待してやみませんね。当たり前な日常が、こんなにも、あっけなく、マスクと共に、消えてしまうとは、経済的な損失はさておき、改めて、人類の経験したことない未知のかけがいのない経験を、若い人達は、ここ数年で、経験している最中であることは、間違いなさそうである。

 そんな印象を受けた次第です。


=開かれた福祉風呂というコンセプト=: 身障者と健常者の考え方の微妙な乖離を知る:

2021年10月01日 | 社会戯評

=開かれた福祉風呂というコンセプト=:

身障者と健常者の考え方の微妙な乖離を知る:

 

先日、<福祉風呂>施設を有する東御市の<御牧の湯>(FBページ参照)に下記のようなメッセージを投稿したところ、早速、私が話をしたお客様と話しが出来て、福祉風呂をゆっくりと活用して戴けるようにご案内しましたとの回答を得ました。この間の私の感想を述べてみたいと思います。

 

 私は、やや、歩行が困難とは言え、未だ、健常者の部類で、身体障害者手帳を持ち合わせておりません。しかしながら、一歩行困難者として、パラリンピックではないですが、(障害者の立場を理解するように努力しています)、説明を聞く限りでは、<世間様の風当たり>は、なかなか、厳しいものがあるようです。 その一つが、身体者障害手帳、そのものの特典(利用料金の割引優待も含めて)を、当然の権利者として、自ら、ある種の負い目から、十分活用せずに、<自主的に辞退してしまう現状がある>そうです。

 そんな当然の権利を、何故、積極的に使わないのであろうかと、私などは、思うのですが、それは、健常者の立場からの考え方で、身体障害者の立場からではないようです。それ自体が、確かに、一種の壁なのかもしれません。自分は、その意味では、一歩手前の身体障害者未満、であっても、健常者の部類に依然として、属しているものなのかも知れません。又、駐車場の優先スペースも、身障者マークをつけていると、<身障者のくせにこんな良い車に乗りやがって!>といやがらせを受けるそうです。だから、遠慮して、普通のスペースに駐車するそうです。更には、片腕のない人や入れ墨も含めて、<見えない形でのinvisible な暗黙の差別も、未だ、解決されず>に、厳然として、残っていて、従って、私が提案した、丸椅子や脱衣棚に、優先マークなどを貼ろうものなら、逆に、一般の顧客が、<不当な逆差別だ!>と利用を差し控え兼ねないそうです。そんな気持ちの上で、健常者と身体障害者の間で、<微妙な乖離があること>に、改めて、気づかされました。

 パラリンピックのアスリートの活躍に、健常者も、勇気づけられましたが、まだまだ、現実の日常生活の中で、ハードは、整えられつつあっても、<内なる心というソフト面のハードル>は、高いようです。<福祉風呂>と言うものは、それなりに、一歩前進の<ハード面での改善>ではあるかもしれませんが、そのコンセプトである<内なる心のソフト面>:<差別のない多様性の共生・協働・尊重>を、健常者も身体障害者の双方が、どのように歩み寄れるのであろうかと、考えさせられました。

 そんな折りに、人工透析を認定されている多くの友人達の中で、長年、心臓病と糖尿病を患っていた後輩が、重篤化の末に、結局、脚の左右の指が壊死して、切断したと偶然、聞き及びました。又、親しかった友人は、同じく、透析中に、脳溢血で、転院を繰り返した上に、結局、コロナ禍と個人情報の壁で、連絡がつかなくなり、50年余りの連絡もプッツリつかなくなってしまいました。知り合いの中でも、大腸癌から、人工肛門装着や、心臓弁膜症手術やら、コロナ禍で、どうしているのかと思いますが、身体障害者手帳も、自動車マークも、正々堂々と、権利の行使を享受して貰いたいと思います。

 同じ事は、貧困という問題や、生活保護受給申請にも、言えるのかも知れませんが、、、、、本当に、必要な人ほど、自分からは、プライドや面子から、出来ないものかも知れません。周囲の人間、社会自体が、協力してあげる雰囲気が、必要で、どのようにしたら、そんな社会は、実現するのでしょうか? 傷痍軍人が、アコーディオンと松葉杖で、えび茶色の国電の暗い電車に乗車してきた時に、子どもの頃、感じた記憶が、脳裏に焼き付いていることを想い出します。自分が、今、身体障害者未満、歩行困難者の一員になって初めて感じたこの感覚は、改めて、肉体的な老いによる衰えと、内なる壁を感じさせられました。

 

#御牧の湯  #福祉風呂  #東御市  #小諸市 #福祉サービス  #身体障害者 #健常者

#身体障害者手帳   #日帰り温泉

 

<御牧の湯、他への提案概要:>

いつも共通温泉カードで、ほぼ毎日、快適に、利用させて戴き感謝申し上げております。

昨日、偶然に、松葉杖の若い身体障害者のお客様と脱衣所で、一緒になり、私も、脊柱管狭窄症でやや、足が不自由な上に、湯―ふる田中の風呂場で脚がもつれて、転倒したことがあるなど丸椅子に座りながら、雑談を致しました。 その時、下記のようなサービスがあったら、如何でしょうかと提案したら、是非、お互いに、身体が不自由な客の立場から、関係当局に、提案をして戴きたいというので、文書とメールする次第です。

 

提案する具体的なサービス内容:

 

  • 温泉脱衣場に、身障者マーク付きの専用の脱衣BOX・箱(真ん中の柱の隣に)利用指定する。
  • 身障者マーク付きの丸椅子を追加設置する。(PCでマークを印刷して、貼り付ける)
  • 温泉入り口のドア付近に、滑り防止用の4脚アルミ製の補助歩行器具を最低1脚は希望します
  • 仮に経営難で、予算的に難しいのであれば、私個人が、寄贈しても構いません。
  • 尚、身障者マーク付きの限定的な駐車場への、健常者による違反駐車への警告とモラルの低い客への指導を徹底することを望みます。余りにも、モラルが低くて、注意も憚られる。

 

以上、上記ご検討の上、メールにて、ご回答お願い致します。

 


<言葉の軽い時代になったものだ!>:

2021年05月11日 | 社会戯評

<言葉の軽い時代になったものだ!>:

 

加齢と共に、眼や指先の衰えがすすみ、大丈夫だと思い込んでいた腎臓機能も油断していたら、一向に数値が改善されず、結局、ドクターから、最後通牒を突きつけられ、やむなく、本格的な管理栄養士の監視下での食餌運動療法と血圧・体重のデータ提出による月一の通院となり、既に、二ヶ月目に突入となりました。めっきり、読書量は激減し、ブログの更新も、遅れ気味で、様々な世間の出来事にも、コメントをしたくても、なかなか、その気になれず、ズルズルと今日に新年が明けても、至ってしまいました。

  50年前の怒れる若者(イカレタ馬鹿者)であった私は、当時、大江健三郎や三島由起夫や、吉本隆明や、高橋和巳などから、イヤと言うほど、毎日、<その言葉の重み>と<行動との関係性>を、考えさせられる日々を過ごしてきたモノです。尤も、そんな彼等も、今や、大江のみが、存命中で、皆、鬼籍に入ってしまいました。

  それにしても、森元首相や、麻生某の呆れた物言いには、口が塞がることがありませんし、コメントのしようがありません。実際、戦後生まれの男女同権意識を子どもの頃に、すり込まれた戦後民主主義の申し子であり、教え子チルドレン世代の我々には、何とも、奇妙に思えてなりません。ビジネスの世界でも、言葉に出してはならないことを出せば、どうなるかは、分かっていても、本音が、内々の会議の中で、ポロッと出てしまうモノなのでしょうか? アメリカ人なども、Lady Firstなども、本音のところでは、実際どうなのかは分かりませんが、況んや、人前で、ダーリン、愛しているよとしょっちゅう言うのも、実は、離婚訴訟の時に、不利にならないように、普段から、自己防衛のために発言しておくのだよと、極めて、本音に近いジョークとも取れるような旦那だけの酒の席でアメリカ人の模範的な旦那様から、聴いてことがあります。

それでも、場と相手と、TPOをわきまえて、常に、発言することを求められ、訓練されてきた者達は、皇室や貴族ではないが、言葉に対して、一種の制御を課しているのかも知れない。

  振り返ってみれば、50年も前には、三島由起夫に、<最後の最後まで>というのは、結局、<最期の最期まで命を賭して>ではなくて、その言葉をただ単に、スローガンのみに使うだけで、結局、君達の行動は、<言葉の遊び>で、勇ましいことを言っていても、<言葉と行動が伴っていないではないか>と、鋭く、喝破されたことを思い起こす。それでも、吉田松陰の言葉を想い出して、<いつでも、この時が死するときであると思い立ったら死ねば良いが、今はその時ではないとすれば、逃げても一向に構わない>とも、だから、その後も、何故かしらぬが、半世紀もの間、生き恥さらしながら、言葉を選びながら、延びてきてしまったのかも知れない。

  官僚というものは、主人の意向を忖度して、行動するモノであれば、主人とは、国民であって、人事権を握っている内閣府ではないはずで、よくもまぁ、ロッキードの頃の小佐野の、記憶に御座いませんとか、<言葉遊び>に、終始できたモノある。又、総務省の接待問題でも、昔の大蔵官僚によるノーパンシャブの接待事件をすっかり忘れて、公務員倫理規程を空文化する行動も、全く、理解に苦しむものである。戦後70余年もすれば、戦争の教訓も、忘れっぽくなって来るモノだろうか?


<使わないと損をしますよ!>という考え方:

2020年09月25日 | 社会戯評

<使わないと損をしますよ!>という考え方:

 

コロナ禍の中で、最近、気になる傾向として、Gotoキャンペーンなどでみられるところの<ある種のインセンティブ>を、<使わないと損をしますよ>式の、<余計なお世話だよ>ともおもえるような一種の心理的な圧力が、少々、気になりますね。 観光業や飲食業への支援促進という目的は分からなくもないが、だからといって、コロナの感染リスクの拡大にも、繋がりかねない、人の弱みにつけ込んだような、<使わないあなたは、損をしていますよ!>式的な甘い誘い声は、どうしたものであろうか?マイナポイントの+5千円相当のインセンティブや、更なる+7千円相当のキャッシュレス・ポイントの付与とか、別に、使わなければ使わないで、損をするわけではないのに、要するに、<利用すれば確実に+αのメリットがあります>ということであれば、やはり、心貧しい卑しい自分などは、<活用しない手はないか!>とばかりに、すぐさま、ITデジタル化の波に乗って、登録参加してみるかと、お誘いに、乗ってしまいますが、、、、、。その心は、果たして、正しいものなのでしょうか?

何でもかんでも、そんなに、実利主義で、毎日を、セコく、生きてゆかなければ、或いは、情報をネットで収集して、時流に乗って、<使わないと損をするするのではないか?>というある種の強迫観念に陥りつつ、生活しなければ生きてはゆけないのでしょうか?何でもかんでも、損得計算を日常生活の一瞬一瞬にそれ程、影響しているのでしょうか?自分は、若いときから、否応なしに、デジタル化の波に乗ることで、生業としての仕事もそうせざるを得なかった訳ですが、税制改正で、青色申告の特別控除額や基礎控除額の見直しが、電子申請や電子データ書類の保存と関連つけられて、明らかに、損得勘定の延長線上で、選択を迫られてくると、成る程、話は別ですが、<つかわないと損をしますよ!>という悪魔のようなささやきは、本当にそうなのでしょうか?それは、確かに、使う側も得をし、更には、そのサービスを受ける側も、又、恩恵を被る、そういう相互に、Win-Winの関係でもあるのでしょうか?使って初めて、徳を得るわけであって、使わなければ、使わないで、<損をする訳では決してないのに>、<使わないと損をする錯覚>に陥るのではなかろうか?微妙な強迫観念と、心卑しい根性のわたしのような人間は、そんなトラップに、引っかかってしまうことになるのではないでしょうか?何とも複雑な気分に陥ります。心の持ちようは、どのように保てば宜しいのでありましょうか?昔、<清貧の心を以て暮らす>という時代がありましたが、どこへ行ってしまったのでしょうか?


三浦春馬の自死と嘱託殺人に思う

2020年07月26日 | 社会戯評

=三浦春馬の自死と嘱託殺人に思う:

 別に、この歳にでもなれば、イケメン俳優の追っかけでも、芸能週刊誌キャンダル好きでもあるまいし、ただ、何かの折りに、NHKの番組だったか定かでないが、ミュージカルの舞台に挑戦する若手舞台俳優を、その役作りの裏側を特集するような形で、取り上げていたのをたまたま、観ただけのことである。多少は、ミュージカル俳優であるくらいは、知ってはいたものの、子役時代から地道に着実に、様々な映画や舞台も含めて、キャリアを積みながら、着実に成功の会談を上りつつあるという時期での事である。従って、その舞台の役作りとして、女装をして、しかも、実生活の中で、舞台と同じ10cmもある高さの女性用ハイヒールを履きながら、生活し、どういう気持ちであるかを実感するために、彼は、そういう眼に見えない訓練を積んでいたそうである。又、音楽・ミュージカルだから、ギターや歌唱能力の向上も、仕事とは言え、基礎から学んでいたそうで、その延長線上での海外での活躍を目指す上での英会話も見事にこなしていたと言われている。

 そんな成功を掴みつつある前途洋々とするイケメンで、様々な才能に恵まれた、他人から観れば、順風満帆に観られていた30歳になる若者が、18歳くらいのティーンネージャーとは違って分別ある三十路の若者が、何故、自死を選ばなければならなかったのか?子役時代からマネージメントしてきた事務所の側も、晴天の霹靂だったと、コメントを発しているくらいの衝撃である。 昔、ある人から、<自分よりも歳が若い部下で、実際に、自分よりも優れた才能を有すると者とであったときに、どのように育てるのか、或いは、独立をしたいと言われたときに、経営者としては、どうするのかを、いつも、考えていなければいけない>と言われたことを、何故か、ふと、想い出す。

 だんだんと、歳を重ねてくると、自分よりも若い人達で、才能のある、前途有望な若者が、謂われもない理由で自死を選ぶという事実をみることは、誠に・、心折れる思いがする。我が子をネグレクトしたり、育児放棄したり、児童虐待したりではなくて、多彩な才能に恵まれて、成功と名声を手にしつつある、恵まれた境遇にもかかわらず、(尤も、それはないのかも知れのかも知れないが、、、、、その理由は、永遠に、たとえ、遺書を読んでもわからないのかもしれないが、、、、、)、自死に至るプロセスは、何とも不可思議である。それ以上に、もっと売れない歌手や芸人や大部屋俳優や俳優志望の若者が世の中には、一杯いるのに、、、、、、、。何故?

 時代劇俳優になるための役作りのために、EXILEのあるメンバーは、舞台公演の時にも、木刀を持って歩き、極力、笑わないように努力するとか、立ち居振る舞いも、ダンスとは異なる動きを日常生活の中で、自己規律をいていると言われているが、そういう姿勢は、まるで、宮本武蔵の究極を貫き目指す哲学のようで、日本人好みの、鏡とするような哲学なのだろうか?それにしても、その最後の瞬間に、踏みとどまらずに、突き進んでしまったその瞬間は、どこが、紙一重なのでしょうか?

一方、ALSに苦しむ患者からSNSで知り合った上に、おカネを受託した上で、薬物を投与して、嘱託殺人にとわれた医師が逮捕されたと報道されているが、安楽死以前のモラルの問題で、こちらも、ALSに苦しむ患者の気持ちは、どれほどの人間が、その患者に対する処遇への問題や、患者の立場をどれほど、ALS患者の尊厳を理解出来るのであろうか?私たちは、映画や文学や歴史を通じて、或いは、絵画や音楽を通じて、一定の想像力と疑似体験を通じて、理解は出来るものの、病気の苦しみや死への誘惑や身体が自分の意思通りに動かせないことへのもどかしさや悔しさは、当人でなければ、理解出来ないものなのあろうか?

7年前に、自分も、歩行能力への突然の違和感の自覚から、ALSを疑ってみたことがあるが、それも、せいぜいが、物理学者のホーキンス教授の病気程度の知識からで、結局、脊柱管狭窄症という診断結果で、令和しんせんぐみの参議院議員誕生をきっかけに、調べ直す程度のことだったかも知れない。それでも、ほったらかしに、何もしなければ車椅子は必至という診断結果から、三ヶ月に亘るウェイティング・リストの末に、5時間に亘る全身麻酔の高度医療を受けて、何とか、今日まで、7年後も日常生活と自立歩行を維持しているが、なかなか、患者本人にしか、分からないものがあるのは事実かも知れない。どんなに、想像力を駆使しても、そこにある壁を乗り越えることは、難しいのではないだろうか? もちろん、安楽死のガイドラインや尊厳死の権利という問題以前のことであり、全く論外のことであろうが、、、、。17歳にして、棋聖のタイトルを獲得した藤井聡太という若い天才は、今後長い人生をどのように生きてゆくのかも、とても、興味深いところである。若くして成功を手にした者は、天才ボクサーや若いアイドルと棋士とでは、比較にならないかも知れないが、どのような心境なのであろうか?

それにしても、歳を重ねるに従い、若い前途ある成功を手にしつつある若者が自死を最終的に選ばざるを得なかったことをみるのは、何とも、耐えがたいことであり、又、難病を患いながら、他人に、自らの命を絶つことを懇願しなければ、自分の尊厳を確保・守ることできないというこの社会の現実を、改めて、コロナ禍の下で、曝されると言うことは、誠に残念な事である。長雨に濡れて、花弁がその重さで頭を垂れてしまった擬宝珠の花に支柱を立ててあげることにしようかな、、、、。まだまだ、この雨は止みそうにないようである。晴れ間はいつみられるのであろうか?そして、いつ答えが見いだすことが出来るのであろうか?


New Normal とSecond Third Job:

2020年06月11日 | 社会戯評

New Normal とSecond Third Job:

 

緊急事態宣言の解除後も、第二波・第三波への警戒が続く中で、本格的な<Post New Corona>時代への対応予想が、とりわけ、<New Normal> 新たな<新常態>へのライフスタイルについての議論が始まりつつある。私のような老人達にとっては、老い先もう短いのであるから、それ程、大きく影響されるものではないものの、大変興味深く思われ、若い人達とのオンライン飲み会の席でも、自分なりの元50年前の若者と現在の若者達との比較において、論じることも、意義がありそうであるので、少々、考察してみたいと思います。

私の同世代が、若い頃には、就業規則そのもの事態に、<アルバイト兼業禁止>という項目が、厳然として存在していたし、直接、直属の上司からも、注意喚起を促されたことを今でも思い起こす。尤も、今や、就労のミスマッチもあり、或いは、就業労働人口の減少によるアルバイトの禁止の廃止を余儀なくされているのが、<時代の趨勢>ではなかろうか?!

 如何に、<一極集中>することへの反省は、謂わば、<集中と選択>から、<分散・多様化>へと移ろいゆく中で、自分の稼ぎも、今や、不労所得ではないものの、main job から、second, third job へと準備万端整えておかないと、人生そのものが、リスクに曝されかねない時代なのかも知れない。それは、これまでの感染症による影響以上に、根本的な働き方改革どころではなくて、<生活様式への革命>、<生き方の大変革>なのかもしれない。いやはや、知らないうちに、<そんな大変な時代の入り口>にきているのかも知れない。もはや、好むと好まざるを得ずに、否応なしに、どうしたら良いのかを考えざるを得ない時なのかも知れない。海外貿易の仕事上、これまでは、否応なしに、通信費の削減を、インタネット回線を使用することで、当時から、一種のテレワークを実戦しなければ生き残れない時代だっただけでなく、その時から、<働き方事態への考察>を余儀なくされてきたわけでもある。

成る程、そう考えれば、都市型過密による経済成長モデルから、相変わらず、<過密な痛勤電車>が当たり前だったと思っていた若い時代から、<social distance>を意識しながらの生活様式への変容は、まさに、<New Normal>への在り方を考察しつつ、どのように、生活を、生業を、稼ぎをリスクを排除しつつ、担保するかということを真剣に考えなければならないのかもしれない。これまで、製造業などは、テレワークに不向きであると謂われてきたにもかかわらず、日立やリコーなどは、積極的に、全社を挙げて、継続する方針を示唆しているし、都心中心部の高層ビルに事務所を構えるIT企業などは、寧ろオフィス契約を不動産会社に契約解消を申し入れるなど、不動産への風当たりも、日本だけではなくて、シリコンバレーなどのこれまで、家賃の急上昇に悩まされてきたIT企業群にも見直しの機運がみられ始めてきたことは、大変興味深いものがあろう。それは、恐らく、遅かれ早かれ、時間差はあるであろうが、広く他業種、企業の大小を問わず、人件費の削減、家賃の削減、交通費・定期券の返納とか、間違いなしに、拡がってこざるを得ないし、それに乗り遅れることは、企業の生き残りに直接関わってくる、まさに<Survival of the Fittest> であろう。

最近のテレビの製作手法をみていても感じられることは、オンライン画像も、徐々に違和感が、抵抗感が薄れてきて、結局、<やれば出来るじゃん!>ということに、<新常態化>してくれば、今まで、高いコストを掛けて、蜜を造り、顔色を見なければ所詮ダメなんだよねというスタイルが、見直され始めることになりかねない。それならば、今までやらなかったのは、何なのさということにもなりかねないし、一度、そうなれば、そう簡単には、資本の論理では、元に戻ることもないだろうし、ましてや、同じ常態には戻ることはあり得ないでしょうね!往復各1時間を掛けていた通勤時間も、24時間の内の2時間/24時間 X 365日 X人生年齢で計算すれば、膨大な時間の無駄をしていたことにも気づき、新しい隙間仕事が、second job として、或いは、人によっては、起床したら、化粧もすることなく、寝間着のママで、一仕事ならぬ、二仕事・三仕事も、スマホで瞬時にして、おカネを稼ぐ時代が来ることも夢物語ではなくなるかも知れません。ヒョッとしたら、室内バイクをこぎながら、スマホで、チョチョイと1-2分程度操作するだけで、おカネが稼げる時代がくるやも知れませんね。そういう夢物語が、夢想ではなくて、現実化するチャンスが到来することでしょう。大変な時代かも知れないが、考えようによっては、とても、面白い時代かも知れません。時代が変わる節目というものは、意外とそういうものかも知れません。その真っ只中にいるときは、分からないが、後から時計を逆回しにすると、あぁ、あの時がそうだったのかと思うものでしょうかね。とりわけ、戦争がなくなると、<感染症という一種の戦時下という概念>が、なかなか、実感できないからかも知れないので、、、、、尚、一層そう感じられるのかも知れません もう、<昔の名前で出ています>という時代ではなくて、<新しい源氏名でオンラインでお目にかかりましょう!>という時代かも知れません。何か、どんどん、時代の方が、自分よりも先へ先へ、遠くへ行ってしまい、取り残されないようにするか、それとも、周回遅れの、取り残されても良いような働き方、生き方を探し出さないと生き残れない時代なのかも知れません。


オンライン申請とITディバイド:

2020年06月06日 | 社会戯評

オンライン申請とITディバイド:

存命していたら101歳になる亡き父は、70歳頃にアルファベットも分からぬのに、NECの98シリーズを勉強して、ワープロから、PCへと未だ、板状の記録媒体が当たり前の時代に、一生懸命に、勉強をしていたものである。私は、その点、生業が海外貿易だったこともあり、社会に出てから、テレックスから、FAX,ワープロ、携帯電話から、LAP TOP PC,スマートホーンへと次から次へと息つく暇もないくらいに、技術革新に乗り遅れることなく、IT武器を使いこなすことになる。とりわけ、海外通信費が高額であったこともあり、如何にして、海外との通信コストを下げられるかということが、死活問題であった。だからこそ、メールに移行するときも、或いは、複数の国とのネット電話会議も、テレビ会議も、全く問題なく、テレワークが喧伝される前から、自分の中では、全く問題なくこなし、尤も、そうしなければ、世界標準からは、取り残され、死滅化せざるを得なかった究極の選択であったのかもしれない。

 今回の新型コロナ禍の中で、オンライン会議も、ファイル共有システムも、一種の働き方改革も含めて、<変わらなければ、生き残れず>、しかも、<新しい生活業態>に移らない限り、皮肉にも元の日常生活には戻れない訳である。さすれば、もうこれは、廃刀令やちょんまげの禁止のようなもので、もはや、好きか嫌いとかという問題ではなくて、変わらなければ、死滅する以外に選択の余地がないのかも知れない。今や、残された道は限られてしまっているのである。

 給付金の申請手続きにしても、書類で申請するよりも、オンラインを薦めている以上、過去のマイナンバー登録は、住民基本台帳の問題はさておき、アナログではなくて、システムとデジタルを駆使すれば、明らかに、スピード感を持って処理できるはずである。にもかかわらず、マイナンバー・カードを登録していても、マイナポータルのアプリをスマホにダウンロードして、そこにアクセスして、昔登録したパスワードを使用して、申請手続を行わないと、最終的には、申請が完了しない。おまけに、e-Taxで、既にマイカードを利用していても、連携も、銀行口座名・番号とは、連携されていません。更に、フリーランスや個人事業主への持続化給付金の支援申請に至っては、本来、e-tax申告していれば、当然データが、税務署に行っているはずにもかかわらず、ファイルでJPGやPDFファイルを貼り付けなければ申請手続が、完了せず、もちろん、自分でそういうパソコンの操作に手慣れていなければ、全く、零細個人事業主には、或いは、キーボードに触ったことがない人間には、全く、出来ないことであろうことは、やってみて初めて納得できるものである。

 


オンライン飲み会をやってみた!:

2020年04月19日 | 社会戯評

オンライン飲み会をやってみた!:

 

新型コロナウィルスに感染しないために、三密を避けて、stay at home を続けているので、新しい試みとして、今人気のオンライン飲み会を早速、東京と横須賀と小諸の3カ所を無線LANで、繋げて、LINEのフェイスタイムで、5人で、家族飲み会をトライしてみた。もう何年も前から、インターネットの光ファイバーが開通してからは、基本的に、電話ではなくて、無料ネットアプリを活用して通信電話代を節約する方策を講じてきた。考えてみれば、新しいICT技術を試してみては、使わない手はない。今は亡き父は、若い頃から、仕事の関係からもあったのであるが、未だ、当時は珍しかった電気製品が発売されると、蛍光灯、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、ステレオ、冷房空調機、そして、自家用自動車と、片っ端から、新しい技術革新の恩恵を自ら、試行錯誤しながら、生活の中で、試しては、アップデート、更新していったことを、子ども心に、想い出す。更には、70歳を過ぎてから、英語もよく分からないのに、東芝ルポやシャープ書院ワープロから、何と、NEC98の未だ、出始めの頃、プラスチックの板状のフロッピーの初期の時代に、コンピューター操作を独学で勉強して、手紙や住所録をパソコンで作成し始めたのには、全く驚かされた。そのせいなのかどうかは分からぬが、息子の私にも、そんな血が同じように、流れて、受け継がれたのか、同じような歳になって、オンライン飲み会を試してみたくなった。それにしても、画面を見ながら、それぞれ各自の顔と表情を観ながら、食事したり、お酒を飲みながら、会話できることは、なかなか、興味深いものである。互いに、何を食べているのか、何を飲んでいるのか、カメラで、一品一品を映し出し、評価したり、更には、画面の人物の顔に、カチューシャをつけたり、髭をつけたり、豚の鼻に加工したりと、全く、原宿で、その昔、流行った写真の加工が、簡単にリアルタイムの会話の中で、簡単にでき、おまけに、その画像が記録されたりと、何とも、操作を教えたり、教えられたりと、いやはや、試してみないとわかないことが、多いものである。

 今回の新型コロナウィルス禍による緊急事態宣言の全国的な宣言のなかで、テレ・ワークが奨励されて、自宅での協働作業やWeb会議の開催やら、既に、これまで、技術的に不可能であるとされてきた職種でも、生産現場や土木建築現場でも、接客業種でも、否応なく、技術関心という眼に見えない形での<行動様式の変化や意識の改革>が、水面下で、現在進行中である。出来ないとか、不可能ではなくて、どのようにしたら、部分的にも、実施可能になるのか、どんなアプリの開発が可能になり、どのように、実現してくるのか、今後がおおいに、期待されてやまない。単に、今回の教訓は、一度限りに止まることなく、間違いなく、将来、今後、何度も、繰り返し、ウィルスは変容し、我々を、襲ってくることは、間違いことであろう。様々なセイフティーネット策を駆使して、速やかに、国と首長の無用な対立を克服して、災害弱者を、フリーランスや、個人事業主を救済しなければならないことは言を俟たない。それでも、過去に、ペストが、中世に宗教国家から国民国家へと変容させた如く、今日の社会をも、そんなことには目もくれずに、確実に、感染症は、何らかの変革をもたらすことは間違いないであろう。残念ながら、危機は、変化を生み、そして、<行動様式の変革と意識の改革>をもたらし、それが、又、同時に、技術革新を促進し、互いに、インターアクティブに、相呼応しながら、<あらゆる軋轢と矛盾>を、決して忖度することなく、一方的に押し流してゆくことになるのであろう。そして、その時には、我々は、<一体、どんな社会の中で、生きてゆかなければならない>のであろか?又、その時には、我々は、どんなツールを持っているのであろうか、それとも、そんな武器は、有していないのであろうか?また、持っていても使いこなしていないのだろうか?それでも、どんどん、我々を置き去りにして、ICT技術は、進化して、自己革新してゆくのであろう。そして、その時に、自分は、果たして、ついて行けるのであろうか?流石に、ウーンと唸ってしまうかもしれない。もしも、生きていれば、今年101歳の父に尋ねてみたら何というであろうか?

 


新型肺炎と(中国)情報の真偽:

2020年04月02日 | 社会戯評

新型肺炎と(中国)情報の真偽:

50年前の若者達は、当時、異様な長い髪の風体と子汚い薄汚れた風体で、親たちの世代に反抗して、一向に言うことを訊かなかったが、<極楽とんぼ>は、言うことを訊かないで、いつの時代にも、飛び回っているものだ。まるで、コンピューター・ウィルスの被害者が、自分の知らぬ間に、加害者として、ウィルスを巻散らかしているのと、何ら変わりはない。そういう無自覚な輩は、いつの時代にも、いるものである。尤も、それは、初期の段階での中国武漢からの情報を非公開・隠蔽・改竄・情報統制した習金平体制により、事態が拡大したものであることは、トランプ大統領が、今でも、執拗に<武漢ウィルス>とか、<カンフルー>と呼んでいることに、象徴されるように、決して、分からぬものでもない。たまには、あのフェイク・ニュースの主も、ファクトを叫ぶものであることに驚いてしまう。それにしても、<乳幼児の罹患率・死亡率>とか、<若者は重症化しない>などの諸説は、実に、巧妙な情報統制であり、更には、<無症状症の特徴>や<発症までに2-3週間、時間がかかり、無症状である>、更には、<エアロゾル感染の疑い>など、ノロ・ウィルス同様の糞便や<空中を舞う微細なエアロゾル>、<長時間、紙や金属・プラスチック上で死滅しないこと>、時間が経過してくると同時に、様々な<ファクト>が、日本などの専門家から、各国関係者へと、徐々に、<情報公開・開示・共有化>され始めた。そして、それは、毎日、放映されている、テレビのワイド・ショーでも、放映され始めた。成る程、NHKのあさイチの視聴率が、羽鳥モーニングショーに、視聴率で、始めて、8時台で、抜かれたことでも、明白であろう。NHKは、旧態依然として、タイムリーな番組構成に変革できずに、結局、抜き去られてしまい、それは、必ずしも、有名な女性アナウンサーが抜けたりしたコトだけではない、根本的な<会社上層部組織の危機意識へのタイムリーな対応不能>が、原因であろう。

 これまでの議論の中心であった、<PCR検査件数を何故、日本は増やす努力をしなかったのか?>、クルーズ船の事例の如く、<水際対策だけで、初めから、正しかったのか?>、<医療崩壊を防止する手立ては、何か?>、<一番効果的な緊急措置法の発令タイミングとは、いつなのか?>、<緊急措置法の法的拘束力とは?>、<私権の制限とは?>、<損失補償は、措置法とセットでなければ、効果はない!>、<国と自治体・首長と権限棲み分けとは?>、<外出禁止令とは、?>、<三密:密着・密接・密集>など、これに加えて、横文字のCluster, Lock Down, Overshoot, Lock Out,Corona Fighter,ECMOなどが、絡んできて、<言葉の定義と意味>の議論が、加わり、本来、<走りながら考えて、直ちに行動に実行しなければならない>と、分かっちゃいるけど、議論が止められない!という状況に陥ってしまい、有名なコメディアンや野球選手やスポーツ選手、芸能人から、乳幼児までも、感染が一気に拡大して、死者が増加し始めて、病床不足の懸念と院内感染、果ては、<医療体制崩壊の危険性>議論へと、辿り着きつつある。

 それにしても、自己主張の激しい、権利意識の強いアメリカ人が、暴動も起こすことなく、静に、トランプの制令に従う状況は、日本の状況とは、おおいに、異なるもので、日本の如何にも、日本らしい<なし崩し的な自主規制路線重視の対応>は、大変興味深いものがある。果たして、<中国のような強権発動型>、<日本のようなダラダラな国民自主的抑制型>、<欧米型のやり方>、一体、どちらに、どのようなタイプに、歴史は、後の世で、軍配を上げるのであろうか?それとも、どちらも、失敗に陥るのだろうか?或いは、どちらかが勝って、どちらかが負けるのであろうか?興味深いと言っては何だが、社会学者による詳細な分析が、おおいに、後の世には、必要ではなかろうか。このウィルスは、又、将来、変質を繰り返して、ワクチンが開発されても、再び、姿を変えて、出現することは間違いないであろうから、今から、<将来の対応策>を、詳細分析して、樹てておかなければならないであろう。

 無症状で、被害者が、加害者に転嫁するところは、全く、コンピューター・ウィルスと同様であろうが、まさか、<Wi-Fi電波に乗って、ひろく伝播する>ことはないであろうか?少々、自宅に籠もり過ぎの為、ホラー映画ビデオの見過ぎだろうか?たしか、そんなビデオを観た記憶があるが、、、、、。あれは、確か、ビデオ・テープだったかな?!

ウィルスを除去する効果はないとも謂われている、無償配布配布予定の布製マスク(アベノマスク?)は、中国製でしょうか、それとも、日本製でしょうか?マスクよりも、カネをくれ!という声なき声が聞こえてきそうですが、、、、、、、。同情よりもカネを、マスクよりもカネを?!どちらが必要なのでしょうかね。今、何が必要なのでしょうか?

それでも、これまで、無症状感染者を統計数字に入れなかったり、意図的に、数字を低く見せかけようとする<統計水準の改竄>は、中国の過去における経済統計の不適性さと同様に、或いは、初期段階での<自国の不都合な真実を隠蔽>したように、おおいに、糾弾されなければならないであろう。又、日本でも、本当に、厚生労働省の発表する数字も、本当に、事実なのであろうか?何もかも、現在進行形の途中では、時間を逆回しに、後の世から、検証しないと、専門家と称する人も含めて、実際の所は、闇の中の又、闇なのであろうか?


=新型コロナ・ショックと監視社会:

2020年03月15日 | 社会戯評

=新型コロナ・ショックと監視社会:

 

既に、春節前には、中国の金持ち達は、5000万人も、武漢他を離れ、海外疎開してしまい、日本にも、多数の観光客が来日していることは、周知の事実であるが、与野党を含めて、一体どれ程の観光客が武漢から来日し、何処を訪問していたのかなどは、国会でもメディアでも詳しく取り上げられていない。まるでマッチ・ポンプみたいに、自分で、火をつけておきながら、今度は、逆に、火消しを誇るような習金平による政治ショーにはやや、ウンザリするが、12億の人間を束ねるには、強権的な強引な都市封鎖以外には、新型コロナ・ウィルスに対抗するためにも、何が何でも、<ヒト・モノ・カネ・情報>を強権的に、私権を制限してまでも、ある種の監視社会を、構築してゆかないと、致し方ないのであろうか?それにしても、忖度政治の最中でも、韓国、或いは、日本による中国への忖度は、最たるモノで、WHOすらも、右へならえとは、恐れ入ってしまいます。それにしても、インバウンドの4000万人目標も、又、2020東京オリンピック・ゲームの予定通りに開催も、主催者がどんなに、声高に叫ぼうが、相手があっての話で、既に商業主義化してしまったオリンピックは、莫大なテレビ放映権料を支払って貰っている以上、谷町のご意向を忖度せざるを得ないのはなかろうか?

中国国内のこれまでのビッグ・データによるヒトの流れ・移動は、交通網の整備というお題目に関わらず、初期の高速道路の監視カメラから、徐々に、町中の監視カメラ、或いは、<顔認証システム>とも、リンクしながら、赤信号を無視して横断歩道を渡ろうとするとすぐさま、警察官に拘束されるという所にまで急速に発展し、更には、この新型肺炎を機に、一気に、QRコードやドローンまでも活用した、<個人のヒトの流れ>、即ち、地下鉄を乗り換えて移動するときにも、全ての<ヒトの移動の追跡履歴>が、<当局に監視管理される仕組み>となりつつあると謂われている。何でも、地下鉄の車両を乗り換えて移動しても、新しいQRコードをスキャンしないと拘束の対象になると謂われている。若い頃、よく、<ヒト・モノ・カネ・情報を重視せよ>と謂われてビジネスの世界で闘ってきたが、今にして思えば、正鵠を射ているようで、実に、感慨深い。確かに、ヒトが移動しなくなり、モノが動かなくなり、人の心理が消費意欲やマインドが冷却すると、供給が、サプライ・チェーンが崩壊連鎖してゆき、グローバリズムの中では、どうすること出来なくなる事態に陥り、やがて、過剰な加熱していた株式相場や、眼に見えなかった潜在的な不動産市場を含む金融市場の矛盾が、顕在化してきて、そこへ、未知への恐怖・不安心理から、様々な憶測情報やデマ情報が一人歩きしだし、フェイク・ニュースが、フェイク・ニュースを呼び、収拾が困難になってくるものである。

かつてのオイル・ショック時のトイレット・ペーパー買い占め騒動にも、全く、その歴史的教訓を学ばず、又、中国人留学生を動員した<転売ヤー>や、オークションと称した、或いは、抱き合わせと称して、不足気味のマスクや消毒綿などのネット販売など、誠に、IT企業の<品格のない、なりふり構わない商道徳の堕落>・<矜持の無さ>が、何故に、生じてくるのであろうか?更には、東日本大震災の時のメガソーラー発電構想と同じように荒唐無稽のマスク供出というよう孫正義による元メルカリのオーナーまがいの大風呂敷宣伝など、<経営者としての品格や矜持>も、問い直されて面白いモノである。こういうときこそ、経営者や人としての品格が、ハッキリと出てくるモノである。しかしながら、何故に、<チャイナ+>ともう、何年も前から、喧伝されていたにも関わらず、同じ轍を踏むのであろうか?そもそも、<モノ消費~コト消費へ移行>等と、謂われていたにも関わらず、結局、ツアーバスの運転手や中国専門旅行社や芸能スポーツ・イベント関連や、スポーツジムのフリーのインストラクターとか、或いは、フリーランスのミュージシャンや小規模経営のライブ・ハウスなど、飲食業界、クルーズ業界など、嘗てのSARS・MERSの事象から、何の教訓も得てこなかったのであろうか?結局、最終的には、一番の零細弱者である労働者や派遣・非正規の被雇用者が損害を被り、内定取り消しとか、新規採用抑制、とか、<セイフティー・ネットの機能不全>に陥ることになるのだろうか?。厚生労働省の幹部は、<コネクティング・ルーム・スキャンダル>の張本人が、感染対策のクルーズ対策の陣頭指揮を執るなど、こちらも、<官僚組織の機能不全>に陥り、感染病研究のヘゲモニー争いとも絡んで、連日のテレビ報道を風聞していると、成る程、そういうことなのかと納得されよう。むしろ、地域・地域の首長による感染症対策を、国があてにならなかったら、独自に、和歌山県のように、クルーズ船隔離対策とは別のスクリーニング検査の独自対応策の積極的なシステム構築をしなければならないかもしれない。それにしても、<どさくさ紛れでの特別緊急措置法>など、私権の制限を伴う案件にも関わらず、国会では、十分審議されることなく、お友達内閣の閣僚の辞任や<説明責任の放擲>というていたらくである。いつの何やら、今年の<桜のお花見の会>も、濃厚接触を避けるべく、どうやら、自然消滅の様相である。

テレワークをみていると、これからの時代は、今更ながら、会社へ出社して、顔つき合わせて、結論の出ない長時間に亘る会議をする必然性もなくなり、むしろ、ウェッブ会議や交通費の削減とか、人件費の抑制を図り、クラウド上で、互いの日程を確認し合い、ファイル共有システムから、シェアワークで書き込み。アップデートする方式へと移行を加速させてくることでしょう。ますます、<飲み会と称した濃厚接触からウェッブ上へ>と<人間関係も希薄>に、<組織への忠誠心も、薄れてくる>ことは間違いなく、加速化されてくることでしょう。コロナ・ショックは、株式相場のみならず、人々の意識改革と行動パターンにも影響を及ぼし、やがては、長期的には、社会事態への変革を促してくる可能性が、高いのではないかと思います。

それにしても、短期的に解決すると思われていたコロナ・ウィルス禍が、むしろ、南半球とかに拡がるこれからのグローバルなパンデミックを考えると長いスパンでの対応を個人個人に強いるような展開になるであろう。年寄りは、じっと我慢、家籠もり状態とライフ・スタイルの変更をよく考えないと駄目かもしれません。

 


人は死して後、ヒトを残せるのか?:追悼野村克也

2020年02月20日 | 社会戯評

人は死して後、ヒトを残せるのか?:追悼野村克也

 

小さな子どもの頃は、23区内でも、家の周りには、未だ、空き地や雑木林が散在していて、友達同士で、ゴロ・ベースや三角ベースで、野球を、学校帰りには、陽が暮れるのも忘れて、暗くなってから、帰宅して、よく、母親から叱られたものである。その頃は、遊びやスポーツと謂えば、今日のように、多様化していなくて、サッカーとか、Vリーグとかではなくて、相撲か、野球と相場が決まっていたものである。

子どもの詠む少年誌には、必ずと言って良いほど、その当時のスタープレイヤーが、バットを持って、或いは、グローブを振りかぶって、今にも剛速球を投げそうな写真が、表紙を飾っていたものである。千葉・大下・川上や、稲尾や中西や、杉下、金田とか、往年の名選手達が、そして、その後の世代では、長嶋・王・野村・張本と続いたものである。そんな中で、三原の西鉄黄金時代の後から、南海で現役選手兼任で、監督に就任した野村のことは、どういうわけか、記憶に残っている。確か、就任した頃は、余り成績が振るわず、やはり、名選手は、必ずしも、監督としては成功しないものであると、喧伝されたことを思い起こす。後に、監督に就任した金田や長嶋も、皮肉にも、就任間もない頃は、似たような結果に陥ることになるのであるが、同じ日本一を勝ち得ても、野村語録のような、或いは、野村再生工場のような、そんな<ヒトを育てる>という、<死して、虎は皮を残す>というような評価は、残すことはなかった。今や、<昔の巨人・大鵬・卵焼き>の世代には、今日の金権まみれの渡辺路線には、大いに、違和感を覚えることになろう。

それとは対照的に、野村は、ID野球と称して、頭を使うこと、プレイヤーの前に、<考えるヒトを作ること>を、育てることに、舵を切ることになる。確かに、それは、勝者の論理に対抗すべき<弱者の論理>だったのかもしれない。今日の育成選手を一軍に、あげてゆくような手法なのかもしれない。なかなか、<野村語録>というモノは、興味深いものがある。<勝ちに不思議の勝ちあり、負けに、不思議の負けはなし>、成る程、これはもはや、まるであの<失敗の本質>をわかりやすく謂っているようなものである。

それにしても、野球の監督業というモノは、優勝すれば、そのリーダーシップや野球理論に関する書物が、公開されて、まるで、あまたあるゴルフ理論のようなモノで、三原マジックの路代、川上の哲のカーテン、西本・仰木の時代、<勝てば官軍>ではないが、勝ち将軍の監督は、<商品の賞味期限と同じ>で、いつの日にか、劣化が始まるし、選手の世代交代は、長嶋や王の引退後の例をみるまでもなく、悲惨なものがある。監督業とは、コーチ業との差は、一体どこにあるのであろうか、私は、相撲やボクシングを見ていて、いつも、不思議に思えるのは、システムとして、ボクシングのように、具体的な名伯楽コーチが存在しているのに対して、相撲などは、旧態依然たるしごき体質が蔓延していて、相変わらず、近代的な合理的な分業態勢ではない。恐らく、野村が監督をしていた時代のコーチは、誰だったのであろうか?選手は、確かに、小早川や山崎のような野村再生工場の代表格はわかりやすいし、又、赤星などの走塁の分業専門家を育成発掘したことなど、納得できるが、それならば、何故、直接薫陶を得た古田のような選手は、監督として、成功しえなかったのであろうか?どこにその差は、あるのであろうか?戦争孤児・母子家庭の赤貧の中で育ち、ユニフォームも買えない中で、野球に励み、甲子園とも無縁な中で、閑古鳥の鳴くパリーグの球場で、ひたすら、まばゆい太陽を夢見つつ、月を眺めながら、自らを<月見草>と揶揄してきた、反骨の人生は、ぼやきを、<その選手の性格やTPO>に応じて、使い分ける手法は、まさに、人生そのもの、普遍的な人の生き方、処世術にも、繋がるモノではなかろうか?

昔、<数字の裏を読め>とよく言われたが、ID野球もビッグ・データ分析野球も、結局は、昔の鉄道系や新聞社系から、今や、IT関連企業に変貌しつつある以上、本来ならば、ソフトバンクも楽天も、或いは、DNAにしても、もっともっと、素晴らしい成績をビッグ・データから解析して、活用できるはずだが、そうもゆかないところをみると、やはり、<データを解析するヒト>次第なのであろうか?やはり、泥臭い話なのであろうか?

それにしても、杉下も稲尾も金田も、そして、後任として、バトンタッチした星野も、そして、野村が鬼籍に入り、もう残るのは、ライバルだった巨人のOBだけだろうか?何とも、さみしい限りである。新たなヒーローと野村イズムを継承発展させられる人間の登場を待ち望むのは、ひとり、私だけではなかろう。球春も、間近である。

 


求人広告から透けて見えるもの:

2020年01月24日 | 社会戯評

求人広告から透けて見えるもの:

 

眼が衰えてきたせいか、新聞の広告なども、昔は、マーケティングの為に、結構詳細に、読んだものであるが、この歳では、もうそんな必要ないから、目もくれなくなってしまった。たまたま、新聞を読もうかと思い、開いたところ、中から<地域限定の求人広告>、<しごと情報のチラシ>が、まとまってパラリと出てきた。今更、<人生100年、定年70歳>まで、働こうというわけでもあるまいが、何気なしに、内容をチラ見していたら、見事に、その内容に吸い込まれるように、隅から隅までじっくりと読み進んでしまった。

なかなか、紙面構成もよく出来ていて、QRコードまで、印刷されていて、直接、携帯電話からもアクセス出来るし、雇用形態別(正社員・アルバイト・パート・契約社員・嘱託社員・派遣社員・職業紹介・職員・業務委託・その他)、待遇条件別アイコン(交通費支給・日払い可・週払い可・未経験者歓迎・社会保険有り・長期雇用・短期雇用・土日祝休み・週一日・制服貸与・高校生可・扶養控除内考慮・食事付き・深夜勤務・寮完備・車通勤可)、そして、仕事内容、給与、勤務場所、実働勤務期間、休暇、待遇、資格、イメージ写真、こんな内容で、検索も容易である。

仮に、自分の希望ではなく、客観的に、<年齢と資格と職歴と肉体的条件>を考慮しながら、読み進んでゆくと、確かに、仕事も限定され、結局、パソコン事務、データ入力作業、社員寮やマンションの管理人か、学校の用務員勤務くらいしかないわけで、炎天下で長時間屋外で立ち続けながら、トイレも我慢し続けることも無理であるし、スーパーやレストランでのホール接客や店内スタッフも、無愛想な年寄りが今更口角を上げて笑顔を取り繕うことも難しそうである。足や腰を曲げたり、かがみ込みながらのトイレやビルのオフィス清掃作業も、もはや、早朝・深夜勤務も含めて、如何なものであろうか?保育士の資格や栄養管理士・調理師や薬剤師の資格もなく、普通免許でも出来るデイ・ケア・センターでの送迎の運転手か、結構ハードな配送補助要員か、今更ウーバー・イーツのような外食宅配デリバリーや薬の配送配達員でもあるまいし、どんなに、マシュマロみたいな先輩指導員(そのような表現がしてある)が、丁寧にマニュアルを教えてくれようが、<専門知識も経験なくても>、<性別・年齢不問>、<お友達同士応募歓迎>、<未経験者大歓迎・><履歴書不要>、<意欲次第・積極採用>という言葉の裏には、<人手不足>というキーワードが、見え隠れする。

それにしても、どうやら、AIがどんなに発達しようが、最終的に運搬する作業や清掃する作業やもちろん、無人化店舗の実験とかドローンでの配達やロボット接客の実験が進行中であるものの、当分は、まだまだ、<AIに取って代わられることはない>であろうし、自動作業ではなくて、飽くまでも作業支援や補助的な立場が、<人間には未だ保証されている>ように思われる。それでも、実質賃金が伸びることなく、果てしなく、労働形態が細分化され、待遇・雇用形態も、一見、個々人の労働ニーズの多様性に応じているかの如く、きらびやかにみられるが、果たして、本当に、それは<働き手の立場に立ったものであるかどうか>は疑わしいものがある。今日、ありとあらゆる場面に、民営化による<下請け業務委託方式>が、蔓延しており、機械化に加えて、<人材派遣業務>自体が、区役所でも、会社のデータ入力でも、受付でも、家庭内でも、様々な形で細分化された上に、成立しているように思われる。時給@1000円で、8時間毎日働き、月20日勤務しても、月16万円でしかなく、25日でも、月20万円であり、果たして手取り実質賃金は、いくらくらいになり、残業手当がなくて、幸福な生活満足度が得られるのであろうか?

現在、26種の通訳などの特定業種に限定されている派遣社員契約期間も、今後は、女性登用拡大の名の下に、無期限に、如何なる職業へも拡大、適用される恐れがでてきつつある。黒字決算の上場企業の中ですら、40-50歳代の中間管理職への合理化レイ・オフ、人件費の削減、人員削減を実施しつつあり、何が何でも、固定費の削減の方向へと向かってゆく中で、65歳、或いは、70歳定年制の方向性とは別に、ハッキリとした安い労働力の確保を、全く、実質賃金の上昇を行うことなく、徐々に、組織のロイヤリティーも萎え果てた上に、将来への不安だけが、進行してゆくのであろうか?

滅多にじっくり見ない求人広告の紙面の裏側では、きっと、様々な表舞台には出てこない様々な事象が、まさに、現在進行中なのであろうことは、容易に、想像がつく。Gig Economyのような形のネットを通じた似而非個人事業主のような形態の非正規雇用型の労働形態が出始めて、働き方改革などと喧伝されされ始めると、様々な落とし穴が出てきて危うい限りである。ある日、突然、天災や交通事故や、或いは、健康を害して病気になり、寝たきりの状態にでもなれば、貯蓄を崩しながら、或いは、自己資産を切り売りしながら、生計を立ててゆかなければ、あっという間に、<下流老人の仲間入り>をすることになるのであろうか?求人広告を改めて読み直して、色々な問題が垣間見られる。その求人広告紙にも、派遣社員の募集広告が掲載されていた。


ゴーン会見から何を学ぶか?:

2020年01月11日 | 社会戯評

 

国法を犯してまで、国外逃亡、密航を果たした等というまるで、幕末時代の吉田松陰の密航を想い出させるような報道であるが、その志は、全く、<天と地の違い>で、レバノンでの自作自演のPR会社と綿密に打ち合わせた協同ショーの効果は、残念ながら、同じ時間帯に生じたトランプの対イランからの攻撃に対する声明に、引きずられる形で、相殺されてしまった感じが、なきにしもあらずである。

それにしても、日本における<人質司法制度>や<取り締まり時点での弁護士の立ち会いがないこと>、或いは、<取り調べでの可視化>とか、<ミランダ警告・自己負罪拒否権>・<司法取引手法>とか、様々な問題が、日本の警察司法制度にはあるにせよ、莫大な金額の<金融商取引法違反や会社法違反による背任横領の容疑>で、保釈中での身柄であるにもかかわらず、カネにものをいわせて、密出国した事実は、どのように、自身の身の潔白を、司法の場以外の空間で、国際世論を味方につけようとしても、なかなか、日本では、或いは、世界的にも、理解されないであろうと思われる。尤も、そもそも、日本や、日本人をターゲット相手に想定しているとも思えない。逆に、日本人というものは、いつまで経っても、<内向きの密室仲間内議論>ばかりであって、決して、<外部へ、世界に向かって発信することを前提にはしていない>ことは、誠に、残念である。

嬉々として、これまでの鬱憤を払うかの如く、<多言語での情報発信者であるゴーン被告>は、まるで、新車発表会のプレゼンテーション張りの独演会であるのに対して、受け手であるメディアの方は、日本側の同時通訳者にしても、結局、英語・フランス語のみで、全く、アラビア語(レバノン)・ポルトガル語(ブラジル)に至っては、何を話しているのか、さっぱり、解らなかったのは、極めて、残念な事である。レバノンの国法である、イスラエル渡航を禁止しているにもかかわらず、そして、ルノー時代には、渡航していることが、問題視されているにも関わらず、イスラエルという言葉は聞き取れたものの、具体的に何を質疑応答しているのかは、解らなかったことは、極めて、残念な事である。それにしても、<選ばれし日本側の記者達>は、一体、どんな真実を追求し、質問できたのであろうか?政府関係者の名前も、エビデンスも公表すると謂っていたにも関わらず、全く、肩すかしであったし、密出国という罪を訴追されることを恐れたのか、或いは、レバノン政府との裏取引での国内外での協力者が、暴露されるのを恐れたのか、今後、小出しにしてくることが、考えられるものの、果たして、どれほどの<日本人が知らない真実>が、あるのであろうか?ドキュメンタリー・番組や、多国語言語で翻訳された暴露本でも作って、高く、メディア関係者に、商業主義さながらに、売りつけるのであろうか?そして、それで、果たして、日産と検察とのクーデター陰謀説で、自身の潔白が証明されるのであろうか?

それにしても、本人が、嬉々として、話せば話すほど、或いは、ジェスチャーたっぷりに、質問に答えれば答えるほど、本質論から、はぐらかされた挙げ句に、<議論のすり替え>で、まるで、<どこかの国の首相にそっくり似てくる>不毛な様相を呈し始めてくる。それにしても、原稿もなしに、1時間以上、4カ国語で、まくし立てられるだけのエネルギーは、流石、百戦錬磨の多国籍グローバル企業経営者で、その点では、たいしたものである。これに対して、深夜での日本の法務大臣の記者会見は、全く、難しい日本語の専用語の羅列で、一体、世界に対して、これで、情報発信やカウンター・メッセージを送っていることになるのであろうか?法務省にも、英語やフランス語・アラビア語・ポルトガル語が、堪能な人間はいるはずで、韓国のミサイル照射事件の時もそうであったが、<多国語言語での広報>の在り方は、全く、問題解決に至ってないこと奇しくも露呈してしまった。英語だけでも、情報発信すれば、日本語の一億人に対して、恐らく、一桁以上の数のオーディエンスに達するであろうが、極めて、残念な対応である。全く、グローバルな広報が当たり前な時代に、前時代的な、内向きな対応は、英語の入試延期問題にも共通するような問題である。

今更ICPOに妻の逮捕請求をしたところで、やらないよりはましかもしれぬが、何故、ファーウェイの副社長のカナダでのGPS機器装着の拘束などにみられるような対応が、裁判所内で、検討されなかったのであろうか?如何にも、お上の中でのガイジン・アレルギーが、はびこっていることを露呈するだけではなくて、旧来型の人間が、旧内務省的な人材から、今日でも、脱皮し切れていないことを、国内外に、奇しくも、露呈してしまったようである。一体、いつになったら、<多国語言語で、同時に、リアルタイムで、グローバルに、意思表示を行える>国に、日本はなれるのであろうか? 何とも、ライブ映像をネットでみていながら、心寒い思いがしたことは、残念至極である。もう、若い人達に期待する以外に手はないのであろうか?おおいに、考えさせられた。