小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ビールの味は、酒税が決めるのか?:

2014年10月30日 | 社会戯評
ビールの味は、酒税が決めるのか?:
昔、現役の頃、酒類の輸入を担当していたときに、酒税を如何にして、下げられるか、或いは、高い酒税を適応されずに、酒類を輸入するかということを、多いに、研究をし、結構、これが、収益や販売に、大きく影響をしていたことを懐かしく想い出した。自分は、毎日酒を飲む必要も感じないから、毎日、ビールや日本酒などを購入する必要は、ほとんど、感じないが、これが、毎日、どうしても、酒を飲まないと駄目だという亭主でもいようものならば、酒に費やすお金も並大抵なものでは済まされないであろう。従って、一円でも安い酒を、質よりも量を重視で、購入しなければならない訳になるのであろうか?だからこそ、焼酎や発泡酒や、果ては、第三のビールという一円でも安い商品へという構図になるのであろうか?それが故に、ビールの売り場は、あんなにもたくさんな酒類が、様々なブランド、酒類、季節商品、ご当地限定商品等で、溢れかえっているのであろう。そんな中、何でも、相対的に酒税の幅が大きい本物の(?)ビールの酒税を下げて、逆に、発泡酒や第三のビールの酒税を、増税して、税収を上げることを、政府は考えているそうである。どうやら、日本市場での酒の販売というものは、酒税如何によって、決定されているような気がしなくもない。一体、麒麟に対するアサヒのスーパードライの逆襲は、一体何であったのであろうか?ドライとか、切れとか、本来の味に対する闘いから、今や、酒税の多寡、プリン体ゼロとか、糖質ゼロとかという機能性の方に、マーケティングが、制約され始めているのであろう。そして、それは、明らかに、企業収益性という面では、そっちの方が、得策であるのかも知れない。何とも、消費者は何処かに置き去りにされたような側面がない訳ではない。本当に消費者が望んでいるモノではなくて、商品的に、様々な制約を受けざるを得ない状況の下での商品開発なのかも知れない。これもなかなか、大変な仕事でもあろう。消費者には、何とも、難しい、複雑な心境である。肝心の大酒飲みは、どのように、考えているのであろうか?今や、愛煙家と大酒飲みは、肩身の狭い、生き辛い、大変な時代になりつつあるのか?大酒でもない私ならずとも、同情を禁じ得ないが、、、、、。今度は、再び、ビール需要が復活するのであろうか?

県政対話集会in 小諸:

2014年10月29日 | 社会戯評
県政対話集会in 小諸:
もう、今更、若い時のように、イデオロギーや政治党派性でもあるまい、地域が、活性化されて、若い人達が、これから、希望を持ちながら、安心して、幸福に、家族揃って、生活してゆければ、それで宜しいのではないだろうか?国政レベルとは異なり、県政・市政・町政のレベルでは、何も、政党間での、或いは、党派間での足の引っ張り合いを、コップの中の嵐のようにしていても、全く、生産的でもなく、4年毎に、県知事がコロコロ、変わっても、政策やビジョンの継続性は、担保されることは決して無いであろう。「対話」と云う言葉は、想い起こせば、美濃部亮吉東京都知事が、確か、選挙戦のキャッチ・フレーズとして、使用したのが、初めてだったように、記憶しているが、、、、、今日、対等な対話というものは、ITを活用すれば、代議制民主主義から、より直接的な、双方向性の意見反映や、提言、或いは、アカウンタビリティーの担保に、多いに役立つものであろう。後は、市民なり、有権者が、一人一人、自立して、声を大にして、訴えれば良いし、監視の目を研ぎ澄ませばよろしい、もっとも、この年では、若い時のように、或いは、香港の学生のように、街頭で、直接行動に訴える訳にもゆかないのも事実である。若い人が、昔に較べて、声をなかなか、挙げにくければ、年寄りは、代わって、多いに、声を上げてあげれば宜しい。それにしても、なかなか、興味深い課題が、山積である。県としての成長戦略、再生可能エネルギー活用、観光政策、少子高齢化、福祉や弱者対策、有害鳥獣対策、空き家や空き店舗、地域交通の在り方、六次産業化や松食い虫対策などの農政・林業関連、文教、危機管理、保険・医療関係、等、如何に、実行に移して行くのか?もはや、待ったなしであろう。来春の統一地方選挙に向けて、どのような政策の提言と実現を図ってゆくのかをしっかりとサポートしてゆかなければならないであろう。

ヘイト・スピーチに考える:

2014年10月28日 | 社会戯評
ヘイト・スピーチに考える:
橋本大阪市長と所謂、在特会なる団体との狂った闘犬のような何とも、品格に欠けたテレビ報道を観たが、全く、食傷気味である。全く、何か、悪いものを観てしまったそんな思いをしたのは、私一人だけであろうか?それにしても、辞任する前の松島うちわ法務大臣による国会での答弁にも、全く呆れかえるが、「被害を特定できない以上は、規制は出来ない」式の法的解釈には、全く、法を守る番人としての誠意さえも感じられないのは、全く、こんな報道が、海外に配信されていたとしたら、日本人として、恥ずかしくて、困ったものである。それにしても、戦後のドイツに於けるネオ・ナチのヘイト・スピーチの規制に較べたら、全く、戦後70年間、一体、日本は、マイナリティーに対するどんな保護政策や教育政策を施してきたのであろうか?明らかに、ヘイト・スピーチの延長線上には、ヘイト・クライムに繋がり、更に、その行き先には、民族浄化に名を借りたジェノサイドが、あることは、歴史を検証するまでもなく明らかなことである。問題は、法制度の整備や解釈だけではなくて、我々一人一人の心の中の在り方と、不断の心構えこそが、こうしたヘイトスピーチを断固として許さないという素地を作ることこそが、必要不可欠ではないだろうか、さもなくば、小さな虐めや虐待や差別にも、或いは、マタハラにも、人権侵害や弱者保護にも、我々は、常に、見て見ぬ振りをしたり、眼をつぶってしまうのではないだろうか?法解釈の課題もさることながら、我々の「心の在り方」が、同時に、問われそうである。

消しゴム判子で手作り名刺を刷る:

2014年10月27日 | DIY
消しゴム判子で手作り名刺を刷る:
先日、消しゴム判子を製作したので、これを葉書のスタンプだけに使用するのも、何とも、勿体なく、何か別のものに、使えないかと思案していたところ、手作り名刺を、消しゴム判子で、製作できないかと思い立ち、色々、デザインを練ってみたが、考えてみれば、小さな名刺サイズの版の上に、細かな文字を、或いは、数字を彫り込むのは、なかなか、至難の業であることが理解される。それでも、幾つか、考えてみたけれども、どうも、うまくしっくりこない。そこで、「逆転の発想」ではないが、葉書の端に、もともと、刷ろうと考えたデザインだから、これを、逆に、名刺に印刷して、その余白の白いところに、PCで、文字やメルアドを印刷してみたら、これなら、いけるのではないかと、思い立ち、トライしてみることにした。成る程、文字も、若干、意図的に、白地の余白に、うまく収まるように配置し、文字のフォントも、それに合わせるべく、PCで、調整してみたら、何と、うまいことに、収まりも宜しいではないか?これなら、手彫りで、細かい文字を彫らないでも済みそうである。スタンプでも版画でも、刷り終えてみないとなかなか、その出来映えが、確認出来ないものである。だからこそ、手作りなのだと云ってしまえばそれまでであるが、なかなか、その辺の加減が、難しいものである。「すすきの穂と遠い山並み」の図柄に、名前と住所・連絡先が、何とか、うまく、調和がとれて、収まり、取りあえず、10枚程が刷り上がった。もう、昔みたいに、名刺交換もあれ程必要なかろうから、手作り名刺でも、充分であろう。これも又、右脳の刺激になって、おおいに、宜しいのではないだろうか?もっとも、最近では、もはや、名刺を交換する必要も無くなりつつあるが、、、、、、、。

亡き愛犬の絵を描く:

2014年10月26日 | 動物・ペット
亡き愛犬の絵を描く:
玄関の横にあるモミジの紅葉が、いよいよ始ってきた。今から、2年前の11月08日付けの日付の入った愛犬の写真が、写真立ての中でこちらを見つめている。あれは確か、昨年の6月11日に永眠してから、愛犬の絵を描こうと思い立ち、スケッチブックを買ってきて、子供達が小さい頃に使用したクーピーのクレヨンで、彩色しようとしたが、なかなか、スケッチが、難しくて、断念したという曰く付きの絵である。足かけ二年に亘って、作業が中止されたままのスケッチを、たまたま、版画を彫ってみる図柄を幾つか考えていたときに、そう言えば、未完のスケッチ絵があったことを想い起こして、スケッチブックを捜してきて、突然思い立って、彩色してみようとするものである。それにしても、鮮やかな真っ赤に紅葉したモミジの樹をバックにして、もう足腰も衰えて、後ろ脚をやっと、何とか踏ん張りながら、太い前脚で、階段の上から、亡くなった母の冬のスラックスを、女房殿が再生利用で、冬の散歩用のコートを作ってくれたので、これを羽織って、これから、階段を辛うじて、降りて、散歩に出掛ける前に撮った写真が、元になっているものである。考えてみれば、もう、この時には、眼も、耳も、不自由で、おまけに、足腰も衰えて、やっと、鼻だけで、なんとか、散歩していたことを想い起こす。目が不自由だったのに、何故か、こちらを凝視して、カメラにポーズをとってくれた訳である。私は、モミジが紅葉する季節になると、毎年、この出来事を想い出して涙が溢れてきます。一緒に散歩の途中で、投げては、拾って遊んだ松の枯れ枝の棒きれも、リードを外して、自由に走り回った松林も、もう、私は、君を思い出すので、哀しくて、行きません。家族みんなで、君と一緒に愉しんだ春の桜の花見も、秋のモミジの紅葉も、冬の雪の野原で走り回ったことも、その季節が来る度毎に、君を想い出されます。絵の中の君は、一寸、私の拙い腕のせいか、顔が大きく描かれてしまいましたが、許して下さい。でも、モミジが、紅葉する度に、私は、ずっと、君のことを、君と一緒に過ごした時間を、忘れることはないでしょう。今年も又、その時間が、近づいてきました。君は、そのモミジの樹の傍で、深い眠りについていることでしょう。今度は、桜の樹の下で一緒に愉しんだお花見の絵を描くことにしましょう。いつになるか、又、分かりませんが、待っていて下さいね。


石原裕次郎を聴く:

2014年10月25日 | 社会戯評
石原裕次郎を聴く:
突然、石原裕次郎の歌が、何故か、聴きたくなった。最近では、レコード店も絶滅危惧種になってしまい、ネットでのダウンロードが主流になってしまい、年寄りには、実に面倒なことである。やれないことはないが、実に、面倒くさい話である。そこで、検索の末に、コンビニでの受け取りを選択することにした。なかなか、便利なシステムである。店員さんもご丁寧に、親切に、受け取りの手続きを教えてくれたのは、有難い話である。
歌というものは、明らかに、歌い手の生きた時代の記憶や臭いまでもが、その歌と一緒に、聴き手の耳を通して、その聴いていた時間や場所や、一緒に聴いていた懐かしい人達を、不思議と、その記憶の中に呼び覚ますものである。別に、石原裕次郎が、必ずしも、好きなのではない。団塊の世代だから、明らかに、フォーク世代に属するものの、しかしながら、ふと、そのメロディー・ラインを想い起こすと、そう言えば、何気なしに、まだ、子供だったころの50年代のキャバレーのネオンやら、たばこの煙だったり、今では、すっかり飲まれなくなってしまったブランデーのグラスやら、函館・札幌・小樽の北海道の街並みが、何気なしに、脳裏に、何処かに無意識のうちに残っている遠い記憶のように、蘇ってくるから実に不思議である。最近流行の意味不明な歌詞に較べると、山口洋子や浜口庫之助も、なかにし礼などのそれは、実に、分かりやすくて、口ずさみやすい。ギターやサックス、ピアノの音も、子供の頃に、何処かで、聴いていたような気がしてならない。流しのギター弾きのような響きである。裕次郎も、尖っていた若いデビュー当時の太陽族のイメージからは、歌を聴いている限りは、想像も出来ない程、人生に、深みと円熟味が、増しているように感じられるのは、どうした訳であろうか?たまには、優しい耳懐かしい歌を、じっくり、聴きながら、一緒に、口ずさんで歌ってみるのも、晩秋の夜長を過ごすのには、宜しいかも知れない。飾り棚に今や、腐りかけたように保存されている昔のブランデーでも、飲むとしましょうか?

身体検査は、機能していたのか?:

2014年10月24日 | 社会戯評
身体検査は、機能していたのか?:
政策論争・論議によるものではなく、皮肉にも、又、週刊誌頼みの、スキャンダルや、政治とカネ、団扇とは、果ては、ワインまでもとは、何とも、攻める方も、攻められる方も、情けない話であろう。それにしても、一体、政党内では、誰が、どのようにして、事前に、身体検査をしているのであろうか?前回の轍を踏まないように、事前に、ダメージを最小限度に抑えられるように、危機管理が、なされていたのであろう、今回こそは、情に流されることなく、一日に一挙に、2人もの閣僚辞任を受け付けるとは、全く、前代未聞である。しかも、目玉にした女性の登用のスローガンも、今や、形無しである。これで又、成長戦略の目玉が、色褪せてしまうのも、何とも困ったものである。しかも、やや、陰りを見せ始めた経済成長への実感も、今や、アベノミクスの先行きが甚だ、不安定になりつつある。しかも、来年度の消費増税の決断をするのも、又、延期するのも、どちらに転んでも、難しい選択であることに変わりはなかろう。鬼の首を取ったように色めき立つ野党側にしても、何ら、自分たちの政権構想の青写真が、示されることが、残念乍ら、みられないのが、現実であろう。経済の回復とデフレの克服、成長戦略や規制改革を目指していたにも拘わらず、何とも、先行き不透明になりつつあるのは、世界経済の先行き同様、困ったことである。それにしても、会社ならば、決算報告や、公認会計士の目を通して、公にされるのに、カネの責任を負うことなく、親からの地盤・看板・金庫まで、相続した上に、説明責任を果たさずに、辞任するとは、全く、有権者の理解を得るどころの話ではない。地方議員の政務活動費の問題も、通信・交通費の非公開にしても、税務署に領収証を一枚一枚、法定年月の間、保管しなければならない納税者には、全く、理解出来かねる事態である。しっかり、有権者は、事態を見つめなければならないが、余りにも、次元の低い政治的な争いであることも事実であろう。何とも情けないが、再び、この種の事件が続くのであろうか?いつになったら、これらの課題は、克服されるのであろうか?それとも、、、、、、、。身体検査ならぬ、予防接種でも考えたら如何だろうか?


窓外の景色と色合い:

2014年10月23日 | 自然・植物・昆虫
窓外の景色と色合い:
ガラス越しに眺める景色も、何とはなしに、気が付けば、緑色から、黄色や赤に変色し始めた葉の移ろいに、驚かされる。司馬遼太郎だっただろうか、庭というものは、いや、庭の景観というものは、何世代にも亘って初めて、作られるもので、一朝一夕に、出来るのではない、、、、、、と云っていた言葉を想い起こすが、確かに、著名な著述家が、長逗留しながら仕事をするような有名な旅館の庭でもない限り、なかなか、普通のサラリーマンが、自分の家の庭を、キャンバスを染めるようには、思い通りにゆかぬものである。冬から、春にかけて、或いは、初夏に掛けて、草花が、芽吹いてくる頃も、なかなか、趣きがあって、宜しいようであるが、私は、何と言っても、緑の木々が、とりわけ、楓やモミジの葉達が、紅葉し始める頃から、晩秋に掛けてのやや肌寒くなり、霧がかかる季節が、とりわけ、好きである。里山の景色は、全く、春の生命の息吹を感じたり、夏の如何にも、躍動している頃とは、違って、人生の黄昏時を、まるで、自分の人生の瞬間になぞらえるようでいて、その色合いの変化を愉しめて宜しいではないだろうか。それは、日一日と、微妙に、移ろいゆく季節を、色彩というキャンバスで、景色を眺めることで感じられると言うことでもある。やはり、針葉樹だけではなくて、広葉樹も、とりわけ、黄色や赤に、変色する樹木や、草花も、必要になろう。或いは、無駄であるような蔓なども、この季節には、とても、綺麗な赤や黄色に、夕陽や朝日を浴びて、ひときわ輝きをますものである。山モミジは、どんどん、育ってゆくものの、楓やケヤキや辛夷は、種から、播いたせいだろうか、まだまだ、小さくて、おまけに、今年春の大雪で、成長したと思った枝が、途中から、何とも空しく、折れてしまったのは、残念なことである。これも、自然の摂理だから、致し方の無いことであるが、何とか、黄色に紅葉する葉を早く、みたいものである。以前ならば、この季節には、白樺の葉が、見事に、黄色く染まり始め、赤いモミジの紅葉との競演が、愉しめたものであるが、カミキリ虫に、まるで散弾銃の爪痕のように、ボロボロに、打ち抜かれて、見事に、枯れ果ててしまった。小雨に烟る赤や黄色の紅葉は、この季節ならではの趣きであろう。ガラス越しに見える景色も、後ひと月もすれば、一面、茶色一色になってしまうかも知れない。それでも今は、同じモミジでも、個性豊かに、それぞれ、彩りが異なり、ある木は、まだ、緑色だし、又、歩きは、上の方から、黄色に、更には、赤く枝毎に、木々毎に、その色合いと紅葉のスピードが、異なるのは、実に、人それぞれの人生模様とは良く言ったもので、そのグラデーションと共に、趣きがあって宜しい。

主婦学・家政学なるものを考える:

2014年10月22日 | 日記
主婦学・家政学なるものを考える:
小学校の頃、学んだ「家庭科」というものは、果たして、実生活の上で、どのくらい、役に立っているのであろうか?たまたま、朝のテレビ等で「収納・整理学」の講師が秘伝の術を教えてくれるのを観ていると、何とも、こういうノウハウが、小学生の頃に、歳をとってからでも遅くはないと思われるが、早く、若い頃に、教えて貰いたかったものであるとも、思ってしまう。たまたま、電車の中吊り広告を見ていたら、「夫が挫ける妻の一言」というものがあった。「念の為に、食器を洗っておくからね!」というものがあって、要するに、夫が、せっかく、お手伝いで洗った食器を、もう一度、自分の手で、しっかりと、再度、洗い直すという行為が、夫のやる気をおおいに、挫けさせる一言のベスト10入りをしているらしい。まぁ、妻の一言も、困ったものであるが、成る程、食事を終わった後の食器の洗い方とか、調理を終わった後の調理器具の洗い方、或いは、シンク掃除のポイントなど、更には、洗濯を終わってから、衣類を、畳むときの畳み方、クローゼットへのしまい方とか、専門的な主婦学を、詳しく、専門家の手によって、掃除・洗濯・料理、(裁縫になると一寸、厄介であるが、、、、)ここら辺りまでを、網羅したノウハウ本でも出版されれば、面白いのではないだろうか?こういう教育講座を、これから、結婚する若者から、退職後の老人まで含めて、実施したら、大変、実用的、且つ、有益ではないかとも、思われるが、如何なものであろうか?何でも、家事をこなしていると、呆けないそうであるが、本当だろうか?専門的な「主婦学・家政学」なるものも、一寸、学んでみたいものである。別の世界が、きっと、男性には、見えてくるかも知れない。そんな期待さえ、されそうである。


どんぐりアートに挑戦する!:

2014年10月21日 | DIY
どんぐりアートに挑戦する!:
秋晴れのやや冷ややかな空気の中で、有酸素運動をすべく、ノルディック・ポールを持ち出して、いつものように、散歩することにした。もう、秋の紅葉が始まっているので、落ち葉を踏みしめながら、歩いていると、足許に、どんぐりの木の実が、多数落ちている。それも、大きな丸いどんぐりの実や細長いどんぐりだったりと、随分様々なものである。しかも、実の笠が、何とも、黒人の髪の毛のように、もじゃもじゃしているではないか、普通のどんぐりは、一寸、ベレー帽のような形のものは、なかなか、可愛らしいが、、、、、。幾つかを拾ってみては、眺めて、どんな顔になるか、想像してみる。散歩を終えて、自宅に戻って、机の上に、拡げてみる。成る程、髪の毛の前髪のようでもあり、ベレー帽のようでもある。顔の表情は、POSCAのペンで、描くことにしてみた。以前、松笠に、人形の絵を描くワークショップを見学したことがあるが、その要領である。なるべく、面白い表情を描くべく、多少、眉毛と目に強調的な表情を持たせて、後は、中心に、鼻と口をつけ、両左右に、耳を描いてみた。後は、ボンドで、帽子を被らせるだけであるが、これも帽子の被らせ方で、表情が変わるものである。まぁ、右脳の活性化の為の作業だから、予備のどんぐりを保管しておいて、後で、再び、作り直しても宜しかろう。土台は、松の枝を払ったときに輪切りにした残りがあったので、これを転用することにした。後は、ボンドが乾くのを待つだけである。手先・指先の細かい作業だから、これは、退化する脳を刺激して良いかも知れない。年寄りには、もっとも、メガネが必要だが、、、、、、、。次回は、表情を事前に、絵に描いて練習しておく必要がありそうである。そこは、アバウトだから、まぁ、いいか?!良しとしよう。小さい子供と遊ぶときには、多いに楽しい作業であろう。

前頭葉側頭葉認知症の恐ろしさ:

2014年10月20日 | 社会戯評
前頭葉側頭葉認知症の恐ろしさ:
映画、「明日の記憶」を観たのは、もう何年くらい前のことあったであろうか?改めて、若年性のアルツハイマー型の認知症を、身近に感じたものであるが、映画をいつ頃観たのかも、想い出せない?困ったものである。60を過ぎてから、ひょっとしたら、自分は、妻に対して、アスベルガー症候群ではないのかと、自問(?)するように(笑)なったのは、実に皮肉なことである。そんななかで、認知症も、今や、他人事では無くなりつつあるのが、現実ではなかろうか?そんな危惧も、あと何年持つのか、わからない。そんな中で、何でもアルツハイマー型や、レビー小体型認知症やら、血管性認知症だけではなくて、最近では、老人による万引きなどのひとつの原因として、「前頭葉側頭葉認知症」というものが、あるらしい。これは、前頭葉や側頭葉が収縮してしまうことで、脳に隙間が出来てしまい、これが原因で、欲望のコントロール不全に陥り、反社会的な行動を生み出してしまうらしい。更には、繰り返し同じ行動をしてしまう常同行動という症状が出てくるらしい。後片付けが出来ずに、部屋を散らかしていても、ゴミ屋敷になっても、何も感じなくなったり、或いは、甘いものやお菓子を大量に、食べたり、飲酒を繰り返すことで、暴力的になったり、膝を擦ったり、撫でたりと、或いは、欲望がコントロール出来ずに、眼の前にある商品が、欲しくなったら、お金を持っていても、平気で、結果として、万引きしてしまうとか、、、、、、時間を追って、性格も行動も徐々に、変わってしまうらしい。ピック病やら、鬱病やらも困るが、何やら、ややこしい病気が、この認知症の分類には、色々と含まれているようである。「ドクター・ジェネラル」ではないが、様々な病気の症状を、我々は、頭の中に、インプットしておいて、家族の様子をチェックするのも必要かも知れない。(もっとも、今や、観察される側に廻っているかも知れないが)肉体的にも、精神的にも、健康年齢というものは、なかなか、厄介なものであるが、残念乍ら、避けては通れぬ途であろう。せっせと、有酸素運動や、手先・指先を動かして、脳を刺激すべく、美術・工芸などの製作に励まないといけない。

それにしても、冷えてきました!:

2014年10月19日 | 自然・植物・昆虫
それにしても、冷えてきました!:
去年の今頃は、台風の後に、停電が生じて、大変なことになっていたが、今年は、台風一過、ひどく、冷えてきた。窓越しの外の風景も、緑色に染まっていた木々の葉も、今や、桜の葉は、赤く、或いは、茶褐色だったり、黄色に変わっている。既に、葉を散らした桜の樹もあるくらいである。一寸遠くの方には、白樺の樹が、白い幹を浮き立たせて、見事に、樹木全体を黄色に、スペード状に、佇立している。風が、そよぐ度に、樹木全体が、ゆっくりと左右に、サラサラと音でも奏でるかのように、揺らしている。もう、ドングリの実は、すっかり、台風のせいだろうか、実を落としてしまっている。もはや、屋根に、ポロポロと実が落ちてくる音も、聞かれない。一部の葉は、もうすでに、茶色に変色してしまった。松の葉も、一部は、茶色に変わり、パラパラと針のような葉を落とし始めている。唐松も、これからは、変色の準備段階になるのであろう。遠い遙か高い山並みは、既に、唐松が、紅葉し始めているのであろうか、黄土色に変わり始めている。麓のケヤキは、見事に、陽の当たる所は、赤や黄色や黄土色に、紅葉し始めている。今年は、少々、色づきが早いのではないだろうか?樹木に遅れまいとして、小さな草花や、萩の葉や、すすきも、すっかり、秋の支度である。何とも、版画のデッサン素材には、全く、事欠かない様相である。すすきと月、ドングリと枯れ葉、遠い山並みと唐松の樹々、等、一寸、デッサンでもしてみるか?今年は、冬が長そうな予感がする。


ナナアユヤ工房による消しゴムはんこで手ぬぐいを作ろう、ワークショップ:

2014年10月18日 | DIY
ナナアユヤ工房による消しゴムはんこで手ぬぐいを作ろう、ワークショップ:
先日、「茶房、読書の森」で、山口マオさんの版画教室に、参加して、おおいに、右脳を刺激され、やや、活性化(?)されたので、これに気をよくして、FB上での小諸コモンマーケットによる停車場ガーデン園庭でのワークショップ参加である。何でも、どのくらいの大きさの消しゴムに、図柄を描いて、彫るのかも、想像が出来なかったから、不安であったが、白とブルーの二層に合わされた葉書大のゴム版に、工作用のカッター・ナイフで、彫ってゆくものである。その後、これを布染色専用のインクで、手ぬぐいに、スタンプを押し当てるようにして、後は、お家で、アイロンを掛ければ、マイ・オリジナル手ぬぐいの出来上がりである。一寸、彫刻が難しいという人には、特別に、先生が既に彫っておいた好みの図柄を選んで、はんこを押す要領で、製作すれば良いだけである。これなら、大人も、小さな子供も、一緒に、親子で、作業可能である。今回は、事前に、ドングリの木の実と枯れ葉のデザインをスケッチして持参したので、これで、挑戦である。基本的な作業は、木版画のプロセスと何ら変わりはない。ゴム版に、カッターを入れるときに、何せ、ど素人だから、思い切りよく、カッターの刃先を入れるのには、勇気が要る。又、その周りを浮き立たせるべく、彫るのであるが、これも、又、なかなか、先生の見本通りには、行かないものである。悪戦苦闘しながらも、しかしながら、何とか、1時間ほどで、おおまかなデザインを彫り終え、紙に、試し刷りしてみて、修正点を確認して見て、再度、修正点を版木に反映させて、最終的な刷りに至るというものである。デザイン画の周りを十分に、しっかりと、掘らなかったので、背景に、うっすらと、彫刻刀の後が印刷されてしまったが、これが又、皮肉にも、遠い山並みのような感じで、悪くはなさそうである。葉っぱの葉脈は、流石に、一部、修正を加えなければならないが、ど素人による初回の試し刷りだから、多目にみようではないか?それにしても、存外、木版画とは違って、小さなデザインで、簡単に、素人でも出来そうである。しかも、百円ショップで、版木(葉書代のゴムで、工作・手芸売り場に売っていた)やスタンプも安く入手可能であるのが、とても嬉しい。早速、次の「山並みとすすきと月」に、挑戦してみることにしよう。慣れれば、親しい友人への手土産にも宜しいかも知れないし、親子で、或いは、夫婦揃って、製作してみるのも、これからの冬の季節には、最適かも知れない。細かい手先や指先を使うことで、或いは、指先を切らないように、注意力を喚起させたり、絵のデザインを考えたり、描いたりで、退化寸前の右の脳が、ますます、活性化されることを祈るばかりである。なかなか、興味深いワークショップであった。天候に恵まれて良かった。

中国不動産価格と世界経済の行方

2014年10月17日 | 社会戯評
中国不動産価格と世界経済の行方:
今更ながら、様々な個別報道を眺めていると、どこか、それらの底流では、何か、共通の方向へと向かっているのではないかと憶測してしまう。歴史は、いつも、歯車を逆廻しにみているもので、それを遡って分析解明は出来ても、今まさにその目の前で生じている事象が、いずれは、集約されて、ある一定の方向性へ向かうことを予測できる学者先生方は、なかなか、見当たらないのが現実である。不気味な中国の不動産価格の低迷や、韓国経済の先行き不透明、デフレ突入寸前だった日本と状況が酷似し始めているし、欧州を牽引していたドイツも、どうやら、ロシア制裁等で、息切れしてきて、EU全体に、デフレ懸念の暗い影を落とし始めている。又、アメリカでも、株価の急落やら、中間選挙への思惑からか、オバマも人気取りに走りがちになり、政策も産業界との軋轢を生み始め、、、、、、或いは、ウクライナ危機に端を発したロシア制裁に関連して、ロシア経済自体も、ボディーブローのように、プーチンの強気発言とは裏腹に、効き始めだしているようである。一方で、あれ程、声高に叫ばれていたアベノミックスも、流石に、ここに来て、登用した女性閣僚の答弁のほころびのせいなのかどうかは分からぬが、やや、一段落の様相を呈してきたのも、事実であろう。成長戦略も、岩盤規制も、年金改革も、地方創生も、消費税の再値上げの実施も、何もかもが、問題山積である。ブラジルやインドやトルコ等の経済成長をあんなに、期待されていた各国も、あっと言う間もなく、イスラム国の問題や、規制緩和策の問題からなのか、期待外れの有様である。一体どのような方向へと、世界経済は、向かって行くのであろうか?世界同時株安による不安定な様相を呈するのであろうか?どうやら、各国共に、それぞれ、胸突き八丁の局面なのであろう。こんな調子では、ますます、実質賃金の上昇は、又、先送りになるのではないだろうか、、、、、、。


訪日外人観光客の消費が止まらない:

2014年10月16日 | 社会戯評
訪日外人観光客の消費が止まらない:
どうやら、訪日外人観光客の数が増加するにつれて、それに比例するが如く、その消費額も、増加傾向にあると報じられている。確かに、私の個人的な経験からも、ここ数年の間に、海外から来日する友人達の買い物は、多岐に亘っていて、お菓子や食品、お土産でも、随分と多種多様で、化粧品や薬に至っては、驚くべき商品がお土産に混じって、購入されている。そんなものまでと思われるようなものまでも、、、、、、、。先日は、事前リストの中に、眼薬、毛髪を手軽に染められる男女用ヘアカラーや、UV対応の化粧品、等…、止まるところを知らない拡がりである。それにしても、食品に関しても、簡単にできるような中華料理系のレトルト食品や和風の昆布や鰹節だし、合成化合物の添加されていない、天然由来の出汁が、求められている。自国産のものは、味の素が入っていたり、添加物・合成着色料が入っていて、健康に良くないという説明ではないか?電気製品だけではなくて、食品や化粧品でも、免税枠を拡大してゆけば、へたをすると、日本人の平均消費量や消費額を大きく超える商品の登場も出てこようというものである。それにしても、年収の5分の1も、来日中に、購入する香港からの客とは、帰国後、再販売でもするのであろうか?中国人による紙おむつや粉ミルクの買い占めや転売が話題になったが、(iphone6もそうだったが、、、、、)高級化粧筆など、それまで、想像も出来なかったような商品が、made in Japanの名の下に、買い求められることになるやも知れない。誠に、マーケティング・商品企画力が、試されることになろう。それでもまだ、日本での消費レベルは、世界のレベルからは、程遠いような低いレベルであると云われているが、、、、、今後、どうなるのであろうか?知恵と頭をもっともっと使えば、面白い商品が開発されそうである。クールビズ素材ではないが、夏だけではなくて、通年、お店に並ぶ時代が来るかも知れない。