インド映画を2作続けて、愉しむ!
子どもの頃に、同時代をガンジーやネールといった、インドの偉人達と共有したという刷り込みは、とても、大きい。インディラという戦後、何もなかった動物園に、寄贈されたインド象も、子どもの頃には、何度となく、遠足で観に行ったモノである。インド映画というものに、始めて触れたのは、もう何十年も前の海外出張中に、ホテルで、日本語放送が、移らないかと、チャンネルをむやみやたらに、回していたら、歌と踊りの何とも、華々しい、まるで、キンキラキンの宝塚歌劇団のように、これでもか、これでもかのように、主役格の男女とともに、大勢の踊り子・歌い手達が、次から次へと、出てきて、これが、終わりまで、続いていたことに、驚きを禁じ得なかったことを何でも、想い出す。
それにしても、最近では、絶叫型映画上映とか、視聴者参加型コスチューム付きの上映とか、様々な形態の上映が、行われているようであるが、再来年に100年を迎える上田映劇では、流石に、そんな類いの観客が、観られなかったのは、当然と言えば、当然であるが、内心、残念だったといえば、嘘になろうか?
何はともあれ、連日展開する、朝ドラの脚本家による、一方的な15分間での見せ場作りに為のあらゆる仕組みと、独裁者並みのストーリーの劇的な展開とは異なり、或いは、難解なミステリー・ドラマのような、気の抜けないようなワン・シーンを見落とすまいとするあの緊張感とは別に、実に、このバーフバリ <伝説誕生>と<王の凱旋>という連作は、単純明快、難しいことを考えない、すべて、これまでのそんな複雑な脚本家の意図を、ほったらかしにしておいて良い程、すっきりとしている。三世代に亘る壮大な叙事詩のごとき筋書きの展開とSFXを駆使した画面、歌あり、踊りあり、ファンタジーあり、余りに壮大なスケールに、ロード・オブ・ザ・リングの大作を思い起こさせるような戦闘シーンやら、更には、現代的な、セクハラや、大国による小国への威圧とか、考えようによっては、現代的な問題がちりばめられていて、不条理とか、カースト身分制度・奴隷制とか、差別とか、貧富の格差とかも、一挙に、氷解させてしまわんばかりの、王の強さ、正しいものは正しいという単純明快さ、ヒーロー性、陰謀は、必ず、失敗に帰する、悪は、成敗されるという帰結、裏切りや謀略により、死しても、その後も、再び、血縁とともに、正義は、復活するという、まるで、今の世の中の現実とは、全く、真逆な明快な主張である。
この映画を見終わると、一体、今の世の中は、どうなっているのであろうかと、とりわけ、今の日本は、繰り返される、公文書の彩残、国家公務員による政権への忖度と不作為、嘘の上塗りでも、説明責任を果たさない為政者、言論の弾圧と人権の蹂躙を、強国の大義名分のもとで、継続し続ける、大国など、考えさせられる。尤も、ここから、安易な単純なヒーローの出現期待などを危惧する必要性も毛頭ないであろう、そんな難しい話は、忘れて、一時を、思い切り、主人公とともに、愉しむ方が宜しかもしれない、昔は、フランス映画や、イタリア映画なども、面白かったが、これからは、ハリウッド大作ではなくて、インドやイラン映画・台湾映画なども、ひとつのジャンルとして、上映して貰いたいモノである。次回作も楽しみである。難しいことは、忘れることにした!