小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

喪中葉書の変化にみる時代:

2015年11月30日 | 健康

喪中葉書の変化にみる時代:

毎年、11月末から12月掛けては、喪中葉書が、次々と、舞い込んでくる。昔は、友人達からの喪中葉書は、両親が、中心で、それも、60代やら、70代やらが、多いような気がするが、最近のそれは、90代やら、100歳間近で、亡くなってしまったとか、介護から解放されたとか、長寿社会を反映してなのだろうか、何とも、時代を感じるものである。もっとも、両親などの場合には、それはそれで、順番だからとまぁ、納得(?)は、されようが、昨今では、これが、両親、伯父伯母から、徐々に、兄弟や、姉妹、連れ合いだったり、更には、子供や、娘婿だったりと、誠に、自分よりも、ずっと、若い人達の訃報をしたためられると、誠に、心痛いものがある。もっとも、友人達の何人かは、お中元の品を贈ると、必ず、筆まめに、御礼や時候の挨拶を、返してきていたのに、突然、ぷっつりと、返事も来なくなると、おおいに、病状が心配になるところである。誠に、ゆったりとした時間があって、それなりのお金に、困らず、健康で、家族の問題や介護の問題がないなどということは、一生のうちで、そんな条件が揃った時が来ることがあるのであろうか?いつも、喪中葉書を受け取る頃には、色々と、考え込んでしまうものである。そろそろ、年賀葉書の準備をしなければならない時期が、又、やってくることになる。

 


加藤の次は、又、村上か!?:

2015年11月29日 | 社会戯評

加藤の次は、又、村上か!?:

旧誠備グループの加藤が、不正株価操作で、逮捕された次は、又、村上か?!「ライブドアーとニッポン放送株のインサイダー取引」で、起訴され、多額の追徴金を課せられたたにも拘わらず、結審後は、容疑を否認し続けるだけではなく、多額の保釈金と娘や親族をも巻き込んだ新たなM&Aファンドの立ち上げや、更には、隠れ簑としてのNPO寄附団体への支援とか、更には、マスメディアまでも、翻弄するような「もの言う株主」と称して、再び、シンガポールを拠点として、海外を股に掛けて、世代を超えて、復活してきている。それにしても、普通のサラリーマンでも、せいぜいが、生涯給与の総額でも、数億円になれば、大したものであるのに対して、片や、インサイダー取引や、不正株価操作やら、証券取引法の違反で得た不当な利益を、既に、海外のタックスヘブンへ、移転して、いくらでも、追加の追徴金を課せられたとしても、或いは、高額な保釈金を支払って、自由に、或いは、ダミーを通じて、引き続き、業務を継続可能にする訳である。何とも、経済犯罪なるものは、刑事罰事件と異なり、何でも、司法では、カネで、解決されてしまうものであるのも、不可思議であろう。昭和初期の井上日召の「血盟団」事件、「一人一殺」ではないが、相変わらず、マス・メディアやバラエティー番組に、性懲りもなく露出してくるような輩に、似たような刃が、向かうような風潮が、蔓延する可能性は、否定しきれないし、既に、富と教育、生活の格差が、或いは、眼に見えない形での「拝金主義」が、じわじわと、進行中であることに、そして、ますます、社会正義の不条理、不当性に対する不満の爆発が、或いは、こうした暗いマグマが、沸騰点に向かって、爆発寸前に、向かいつつあり、そして、何かのきっかけで、突然、火山噴火のように、或いは、パリのテロ同様、遭遇する事態に至らないか、おおいに、心配になるところである。

 


小沢剛、帰ってきたペインターF展を覗く:

2015年11月28日 | 社会戯評

小沢剛、帰ってきたペインターF展を覗く:

藤田嗣治の戦争画コレクションを観賞した帰り途、銀座の資生堂ギャラリーで、12月27日まで、開催されている現代美術家、小沢剛による、「その後のペインターF」というテーマの絵画とインドネシアの音楽家達とのコラボによる映像・ミックス展を覗くことにした。それにしても、銀座の地上の雑踏とは、異なる、この地下空間のギャラリーの静けさは、大変貴重で、銀座の高額な地価に換算したら、贅沢な静けさであることは、間違いないであろう。小沢によれば、「歴史に、もしもはないが、芸術には、それがあっても良いのではないか」と、絵画で、戦争が、止められるということはないが、と彼は云うが、少なくとも、原型となった画家、藤田嗣治の戦時下の複雑な心の裡を、二つの異なる人物設定を通じて、作品として結実させたものである。Fは、戦争画の仕事に最初は、戸惑うものの、やがて、没頭するが、戦後、祖国に居場所をなくして、インドネシア・バリ島で、無名画家として、亡くなる。その後、Fに似た男が二人、日本に現れ、一人は、逃げて、新しい場所で以前と変わらない人生を始める。もう一人は、芸術の力で平和な世界を作ろうと試みるが、結局、「うまくいかなかったようだ」、そして、最後は、「数十年後、再びペインターFが帰ってきて、魔法のような絵をみせてくれるだろう」と結んでいる。これらを、Chapter 1 ~Chapter 8 という形で、インドネシアの美術史家や学芸員、路上画家やミュージシャン達とコラボで、絵画と映像、ガムランの音色と歌詞と共に、作品を仕上げている。

確かに、戦争は、芸術家にとっても、最も、無慈悲で、しかも、残酷で生きにくい時代であったし、一方では、植民地に於ける文化・芸術啓発運動が、実際、インドネシアでも、1943年頃、「啓民文化指導所」と言う形で、派遣された画家達が、美術を通じた現地での文化交流を行っていたという史実もあるそうである。実際、占領地域での文化啓蒙活動というものは、占領政策の一環として、プロパガンダや、統治への合法的な理解促進として、飴と鞭の飴として、位置づけられるものであることは、事実であろうし、実際、朝鮮半島でも、台湾でも、そして、インドネシアでも、行われたことは、間違いないのであろうが、それを差し引いても、一体、芸術というものは、その国の歴史の中で、とりわけ、植民地化した側の国と植民地化された側の国民の間では、どのような受け止められ方をされていたのであろうか?逆説的に謂えば、日本も、戦後アメリカ軍による統治の中での文化活動は、どのように、日本人に受け容れられていったのかも、同時に、気になるところである。その点日本人は、幸か不幸かは、分からないが、二つの双方の側を皮肉にも、経験していると云っても過言ではなかろう。小沢が、何故、インドネシアを、「そのもしも」という場所に選んだ理由も、分からなくはない。これが、実際、朝鮮半島という場所では、成立し得なかったのかも知れない。まるで、ゴーギャンの南の島に逃れた理由とも、符合するようなペインターFの「その後の、もしも」の想定である。国立近代美術館での戦争画の後編を見るようでいて、面白い。こちらも、無料であったとは、申し訳ない。カンパ代わりに、資生堂パーラーで、名物のチーズ・ケーキでも、土産に買ってあげて下さい。

 

 


再び観る、戦争画、藤田嗣治展:

2015年11月27日 | イベント 祭 催し

再び観る、戦争画、藤田嗣治展:

画家は、戦争中に、何をなし得たのであろうか?上田の戦没画学生を鎮魂するために、作品群を展示している「無言館」とは異なり、この戦争画の展示は、一見、対照的でもあろうか?何故ならば、戦没画学生は、志し半ばにして、未来を奪われた画家の卵が、その未来を奪われてしまった作品群であるのに対して、こちらのそれは、既に、パリで、乳白色の肌色の魔術師として、世界的にも、名声を博して、画壇の重鎮として、その名誉も地位も確立していたにも拘わらず、辺見庸の「1937」ではないが、何故、それ以降、終戦後に、大日本画壇の戦争責任を一身に受け容れ、一言もエクスキュースをすることなく、故国を去り、GHQのビザの支援を受けて、NY経由で、最終、パリへ戻り、レオナールFOUJITA として、1968年チューリッヒで亡くなるまでの所謂、出発点にも当たる年な訳である。過去に観たコレクションとは異なり、今回の14点のMOMATコレクションの大作には、所謂、前半期と後半期とでも呼ばれ得る違いが、厳然として、存在していることが、観賞をしていて、理解される。それは、まるで、以後のレオナールFOUJITAと称するに足る理由がそこには、暗号符のように密かに仕込まれたメッセージが、隠されている。美術評論家ではないから、彼の絵の描き方が、全面に、微細に拡大するが如きの迫力溢れる描写と、後方に描かれた遠い遠近法を活用した風景の対比は、ここでは、問題ではない。どうやら、1942-43年頃を境にして、明らかに、それ以前の明るい色調の戦勝と戦意高揚を目的(?)とした感じから、戦況の悪化とともに、変化している。もっとも、その画風は、必ずしも、表向きの戦意の高揚を狙って描かれたかどうかは、おおいに疑問である。それでも、このコレクションには、入っていない、実は、もう一枚の絵が、あったそうである。それは、ノモンハン事件を題材にした(ハルル河畔之戦闘:1941年)、ある陸軍中将から戦死した兵士達の鎮魂のために、依頼されたもので、展示されているものは、大きな碧い空を背景にして、戦車の前を匍匐前進する兵士を明るい色調で、描いているものの、これとは、別に、死屍累々とした凄惨な場面のもう一枚が、あったそうで、残念乍ら、それは、何処かへ、消失されてしまったらしいと説明にはある。恐らく、戦争画の後半に観られるであろう暗い殉教・宗教画とおぼしき同じタッチで、描かれたのであろう事は、容易に、想像がつくものの、当時の開戦直後の戦意高揚という目的には、誠に、国辱的な戦意喪失の絵であることは、間違いないであろう。その意味では、画家は、必ずしも、戦意高揚のために、画壇を代表して、進んで、協力したものであるとは、必ずしも、云われる筋合いはないであろうし、後に、発表される「アッツ島玉砕」(1943年)、或いは、同年の「ソロモン海域に於ける米兵の末路」、更には、「血戦ガダルカナル」(1944年)、そして、最期になる「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)にいたる訳である。私には、この絵の題材を誰がつけたのか、疑問に残る。本当に、画家が、自分自身の絵に、こんな題材を命名したのであろうか?明らかに、そこには、絵の依頼者足る軍部と、軍医であった父の死を境にして、断り切れなかった画家の心の底の葛藤をみるようである。本当に描きたい絵を描いているのでなくて、しかしながら、描いている内に、死者が乗り移り、或いは、兵士への直接的な取材を通じて感じ取った画家としての、更には、既に、芽生え始めていた後年のカソリック教徒としてのレオナールFOUJITAへの想いが、何らかの形で、この戦争画の中に、神髄を見せつけているのではなかろうか、もっとも、それは、直截な表現ではなくて、微妙に、検閲をかいくぐるかのような装いを纏った、眼をしっかりと開けて、観ないと分からないような小さな暗号のような符号で、キャンバスに、塗り込められているのかも知れない。ひょっとしたら、検挙をも辞さない覚悟があったのかも知れないが、分からない。「アッツ島玉砕」の中下部分に、小さく描かれた「紫色の花」達、もっとも、実物では、残念乍ら、余程、眼を懲らして、腰を屈めて、近づいて、凝視しないと、既に、紫色は、色褪せて、確認ができないのは、おおいに、残念である。本の印刷物でしか、やっと確認出来る程度のものである。この作品が展示された当時は、遺族とおぼしき老婆が、手を合わせている所をみて、画家は、後年、「画家として、快哉と叫びたくなった」とまで、云っているのであるから、恐らく、未だ、はっきりと、紫色の小さな花々達は、みられたのであろうし、「密かな暗号符」は、観る側の受手には、しっかりと、画家という発信者の側から、伝わったのではないだろうか?上述した「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)にしても、米兵とおぼしき兵士達の乗るボートの左上奥には、鮫と鮫の背びれが、描かれていて、末路を暗示している、既に、暗い画風であるものの、観る側にとっては、それは、米兵だけでなくて、戦闘に参加した日本兵でも同じ局面が、ありえるし、戦闘に参加したすべての兵士に、共通することは、容易に、想像されよう。そうして観ると、何とも、「末路」なる言葉は、皮肉にも、この2年後に、自分達に、跳ね返ってくることを、この時点では、わからないものの、何故か、暗示めいたものを、画家は、その鋭い感性を通じて、感じていたのかも知れない。だからこそ、受け手側でも、画家のホンネとタテマエとが、理解出来たのかも知れない。最期の戦争画となった、「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)」の公開された4月は、既に、その年3月10日には、東京大空襲が行われ、沖縄では、既に米軍が上陸して、一億総玉砕に向けての闘いが進行中、敗色濃厚の時期である。様々な美術評論家達が、アリ・シェフェールの「スリオート族の女たち」や、ドラクロアの「民衆を導く女神」や、グロの「レフカス島のサッフォーのサッフォー」の崖から身を投げる画になぞらえたり、色々と、解釈・論評しているが、やはり、観る側には、その描き手の想いを想像しながら、観賞することが、何よりだろう。どれも、大きな大作で、じっくりと、その絵の前に、腰を下ろして、眺めることがお薦めであるが、展示された当時のことを思うと、一体、どんな気持ちで、眺めたのであろうか?一億総玉砕を覚悟したのであろうか、それとも、殉教画、或いは、宗教画としての死へと誘うような「救済」を、そこに感じ取ったのであろうか?平和な時代に、見直してみても、同世代のピカソの「ゲルニカ」が、フランコへの反戦の象徴として、世界的に評価されているのに対して、実に、対照的な皮肉な評価である。従軍画家という役割は、戦勝国の米英でも、或いは、敗戦国の日独でも、同じように、戦場を描き出しているものの、そのプロパガンダやイデオロギーの違いで、全く、立場と評価が、異なるのも致し方ないのかも知れない。それでも、私は、今日、これらの一連の大作を前にして、息をするのも忘れてしまうような衝撃を、この画家から、受取り、感じ取ってしまうのは、一体、何故なのであろうか?中国から南方戦線へと転戦し続けた戦争時代を青春時代として、過ごした亡き父は、多くを語らず、又、その兄(私の伯父)は、ギルバート諸島のタラワ島で、玉砕しているが、もしも、これらの絵を観たならば、どんな感想を述べたであろうか?ふと、そんな想いを巡らしてしまった。絵画というものは、実に、面白いモノであり、例えば、若冲や宗達にしても、その時代に、描かれた技法のみならず、描き手といつまでも、永遠に、観る側は、時代や場所や時を超えて、間近に、インターアクティブに、対面でき、自問自答することが出来るし、それは、音楽であれ、絵画であれ、何であれ、芸術の素晴らしいところであるようにも、思われる。残念なことに、「戦争画制作の要点」という本に掲載された藤田嗣治の文章は、文字が細かすぎて、読み取れませんでした。大きく拡大して、パネルにしてもらえれば読めたものを残念です。1935年に藤田が監督をして撮影した対外的な「現代日本 子供篇」という映画も、貧しくて国辱的だと批判されてオクラ入りしてしまったそうであるが、こちらのフィルムも、なかなか、面白いですね。とりわけ、子供の頃から、チャンバラごっこの末に、互いに、差し違えて、或いは、割腹自決するところなどは、子供の頃から、遊びの中で、既に、負けて虜囚の辱めは受けないという刷り込みが、身についていたのでしょうか?12月13日まで、竹橋の東京国立近代美術館で、開催予定ですから、地方からも見に来るに充分、値しますね。尚、シニアは、無料であるとは、誠に、申し訳ないことです。

 


三島由紀夫、没後、45年か!!:

2015年11月26日 | 社会戯評

三島由紀夫、没後、45年か!!:

1970年11月25日のその日のことは、いまでも、忘れない程、衝撃的だった。二人の子供を遺してまで、守らなければならなかった自身の「言葉と行動」の言行一致は、自刃という形で、壮絶に、若い私達には、とりわけ、東大全共闘との安田講堂での討論会で、三島により、挑発的とも受け取られた、「言葉に対する責任の取り方」のやり取りは、その時点では、彼の結末が、予測できなかったが、一報を聴いたときに、皆、一様に、「してやられた」と思ったに違いない。それは、戦後体制に対する所謂、右からのアンチテーゼと左からのアンチテーゼが、何処かしら、ぶつかり合いながら、しかしながら、何処かで、心情的に、共感できるようなところがあったのかも知れない。しかしながら、今日、没後、45年経過した時点でも、提起された問題は、未だに、解決されていないことだけは、事実である。虚構に生きて、自作自演の虚構に、自らをおいて、自刃しか遺された途は、なかった等と、マス・メディアに、或いは、文化人ずらした評論家に、したり顔に、分析されたりもしたが、それでは、「檄」文に、提起された課題が、今日、解決されているのであろうか?一様に、当時の「楯の会」の若い会員も、或いは、東大で討論会に参加した学生達も、同じ、45年と言う時間の経過の中で、どのように、変節してしまったのであろうか、それとも、まだ、当時の燃えたぎるような情熱と怨念が、沸々と、心の底に、心凍らせて、残っているのであろうか?そして、当時、市ヶ谷のバルコニーで、野次っていた当の現役の自衛隊員達も、同じように、45年という時を経て、既に、退官してしまったのであろうか?少なくとも、当時の自衛隊の治安出動を前提とした、民間・学生による祖国防衛隊構想は、どうなってしまったのであろうか?時代が変わったという一言では、到底、未だに、解決され得ない課題が、遺されているし、永遠に、解決され得ない課題を、問題提起する為に、或いは、私達に、死よりも、大切なものがあることを、身を以て、提起したのであろうか?50年経っても、100年経っても、この問題提起は、解決されないのであろうか?戦後70年、沖縄返還からも、50年経過しても、何も変わらないのか、それとも、何が、変わったのであろうか?三島没後45年で、又、又、考えさせられてしまう。

 


育成ということ:

2015年11月25日 | 社会戯評

育成ということ:

Plan, Do, See, Check & Action というサイクルなどは、もう、40年も前の話であるが、カイゼンの原理も、これに加えて、フォーミュラー・システム化を加えて、マニュアルを作成することが、重要であると、海外での工場立ち上げ、運営時に、実行したことを想い起こすが、教師の育成も、これまでの反省を生かして、本当に、研修などで、或いは、OJTを通じて、人を育成することが、可能になるのであろうか?考えてみれば、マニュアルなどと云うものは、コンピューターのシステムではないが、常に、どんどん、改善して、アップデートを、無限に、繰り返して行かなければ、その効果は、結局、現れてこないことは、分かりきっている。換言すれば、如何にして、マニュアルを疑い、或いは、それを否定して、新たな発想と創意工夫を施して、打ち壊しながら、新たなマニュアルを、それこそ、これでもか、これでもかと、作り替えるエネルギーこそ、必要で、そういう指導者を輩出できる育成システムが、本来は、望まれるはずであろう。それは、教師に限った話ではない。確かに、団塊の世代が、大量に、定年退職し始めて、潜在労働可能人口も、減少して行く中で、如何にして、組織は、そのノウハウを次世代に、継承して行くのだろうか、単に、マニュアルだけで、継承しても、それは、まるで、ロボットのシステム開発と同じで、云われたことは出来るが、応用が利かない人間を輩出することになり、どこか、限界が見えてくるものである。終いには、人工知能搭載のロボットに、打ち負かされてしまうのではないだろうか?それを如何にして、打破できるかが、そうした人間力・能力が、問われているのかも知れない。とりわけ、人が、人を育てるとなると、これは、単なる研修や、マニュアルだけという訳にはゆかないであろう。この辺は、どうなるのであろうか?又、年寄りは、要らぬ心配をしてしまう。

 


一寸、気になるCM:

2015年11月24日 | 健康

一寸、気になるCM:

ダイワハウスのCMに出てく竹野内豊が、何気なしに、心の裡を語るつぶやきが、何やら、気になって止まない。二人の子供達が、ボール遊びで、天井まで届かんばかりに、ボールが浮き上がっても、結局天井には届かず、思わす、その妻が、「天井が高くていいわねぇ!」と云われたので、「そうだねぇ!」と思わず、本音とは別のつぶやきが、思わず、出てしまった。しかも、それが、一度ならずとも、二度も、自分を偽って(?)同意してしまうのである。それは、丁度、平和な理想的な円満な家庭なのか、それとも、見栄えの良い夫婦関係なのか、或いは、それを演じている自分が、実は、愚かしいいのか?最近、CMには、この種の風景が、やたらと、多いような気がする。リリー・フランキーをして、「俺は、家庭では、野党である」、とか、ラ王のラーメンを作ってくれと、妻に、はっきりと、ものを云えない西島秀俊演じる夫とか、昨今は、こうした、「亭主の心の裡」を吐露するかのような類のCMが、数多く観られると云うことは、それだけ、亭主が、精神的に、誰かの眼に見えない重圧に、押しつぶされてしまっているという時代背景があるのであろうか?私には、それが、分かっていても、誰だなどとは、断言出来る勇気は、残念乍ら、持ち合わせていないからこそ、一寸、気になってしまうのであろうか?昔なら、主客転倒して、髭を生やした偉そうな親爺が、「天井が高い方が、良いなぁ!」と妻に向かって、同意を求めそうなCMであろうが、時代も、変わったモノである。若い現役のご主人達は、如何が、受け止めるのであろうか?気になるところである。

 


死に寛容な国、日本:

2015年11月23日 | 社会戯評

死に寛容な国、日本:

北の湖理事長の現役の頃の強さを知っている相撲ファンであれば、その突然の死後に、マスメディアが、論評した一連の現役力士時代の輝かしい記録と、理事長時代での諸行に対するこれまでの鋭い批判の落差は、一体、何なのであろうか?それにしても、野球の世界でもそうかも知れないが、相撲の世界でも、現役時代と引退後の業績とは、なかなか、正比例しないものであろうか。とりわけ、現役引退後にも、現役時代と変わらぬ功績を残すと云う事は、至難の業のようである。とりわけ、弟子を死に至らしめるほどの苛烈な暴力事件や、賭博行為に至っては、なかなか、急激な改革が、一挙に、進まなかったのも、まるで、硬い岩盤規制と既存の秩序・特権で、改革が進まない経済や政治分野と同じなのであろうか?それにしても、生前では、散々、悪者呼ばわりされたにも拘わらず、突然、死んでしまえば、偉大な横綱であったとか、負けた力士へ、手を差し伸べなかったのも、勝負に敗れた者への配慮で、それは、逆説的な意味で、敗者への勝者からの心配りである、という美しいエピソードを持ち出されると、今更、何で、生前に、そうした事実を公表しなかったのかとも、考えてしまうものである。生前、保守的な頑迷な理事長というイメージを散々、作っておきながら、マスメディアとは、全く、無責任に、その功罪を、平等に、論じることが無いものである。そういうことからすると、誠に、マスメディアというものも、死者に鞭打つことなく、極めて、ある種、寛容であり、すべてを死と共に、万事、水に流してしまう、そんな訳の分からぬ、日本的な寛容性が、そこには、観られて興味深いものである。どこかの独裁国家のように、歴史から、完全に抹殺されることもなく、只、あんなに、好かれた「巨人・大鵬・卵焼き」に、変わって、嫌われ者の代名詞として、「江川・ピーマン・北の湖」というものがあったそうであるが、強すぎることで、結果として、正当に、人気が出なかったのであろうか?それでも、あんなに、批判を浴びた朝青龍を、横綱を張った人間しか分からないという心情から、かばったと云う事は、やはり、21歳から、最高の地位に就いた人間しか、分からない苦労があったことであろう。果たして、相撲界は、今後、一体、誰の手によって、北の湖理事長がやり遂げられなかった、真の改革を行い、歴史に、名を残すのであろうか?野球やサッカー、ラグビーと異なって、相撲界は、やはり、横綱でないと、駄目なのであろうか?

 


パリのテロと難民・移民:

2015年11月22日 | 社会戯評

パリのテロと難民・移民:

昔、ロンドンやパリに、出張した折に、アフリカ出身者が、ゴミ収集や様々な社会の底辺で、所謂、3Kの仕事に、関係しているのを目にしたのを、想い出す。旧植民地からの移民で、1世達は、如何にして、その国へと同化と、異民族としての出自と誇りを両立させてきたのであろうか?それは、丁度、ハワイへの移民が、日系1世・2世へと戦前・戦中・戦後と亘って、強制収容所や人種差別と偏見から、見事に、合衆国へ、同化し、日本人の地位向上に成功していったのに、較べて、フランスでのアルジェリアやモロッコ、等の旧植民地諸国からの移民2世・3世の現代のそれとは、全く、大きな違いがあろう。無論、植民地からの移民と、沖縄や和歌山・広島を中心に米国やブラジルなどへの移民とは、異なる面もあろうが、それでは、台湾や朝鮮半島からの移民、もっとも、それは、ある種の強制労働連行とも、不可分に関わっているであろうから、必ずしも、同一視するわけにはゆかないであろうが、私には、同じ差別と偏見を受けながらも、その国へと生活の基盤を築いてきた日本人移民とは、一体、何処が、異なるのであろうか?或いは、中国人クーリーや華僑とは、どこが、異なり、何処が、共通しているのであろうか?イスラムという宗教的な大義が、民族の誇りと共に、ISに、歪曲・利用されてしまい、不満と失業で、鬱積した将来への不安が、恰好のテロ要員として、自爆テロにかり出されてしまったのであろうか?これまで、異文化への理解と共生とを、比較的、寛容であったフランスも、流石に、こう度重なるテロに見舞われると、私見の制限とか、共謀罪の事前適用とか、移民の制限も含めて、様々な議論が出てくることは、理解されるものの、フランスだけではなくて、我が国でも、同様の議論が、程度の差こそあれ、出てくることも間違いないであろう。通信の傍受とか、秘密保護法の制定以後、更には、その運用の内容が問われそうである。ベトナム反戦運動の時、軍隊の銃剣付き銃口の先に、一輪の花を挿して、唄われたピーター・ポール&マリーの反戦歌ではないが、「花は、何処へ行った?」の、花は、実際、何処へ行ってしまったのであろうか?死者を悼む多くの花束は、何処かへ、空しく、捨てられてしまうであろうか?そして、自分には、何が出来るのであろうかと問われているような気がする。

 

 


障害者スポーツの必要性:

2015年11月21日 | スポーツ

障害者スポーツの必要性:

鈴木大地スポーツ庁長官が、障害者スポーツセンターを視察したという報道があった。障害者であれ、健常者であれ、スポーツ競技を差別なく、行える場所と機会創出の必要性は、オリンピックに向けても、おおいに、考えなければならない。とりわけ、障害者という肉体的なハンディを背負ったままで、精神的に強い意欲や医師を有する人達には、もっと、スポーツが出来うる環境を提供し、更には、啓蒙・啓発活動を予算的にも、促す必要があろう。とりわけ、ブラインド・サッカーとか、車椅子バスケットや、車椅子ラグビーなどをテレビの報道で目にすると、もっと、FIFAでも、日本サッカー協会でも、ワールドカップの分配金をもっと、こういう障害者スポーツへの支援を行っても宜しいのではないかと思える。考えてみれば、水泳でも、プールには、もっと、もっと、障害者が、リハビリや機能回復のために、ボランティアと一緒に、愉しむ機会を創出すべきでしょう。そうすることで、障害者の人生や社会に対する考え方も、前向きに、改善しうるのではないでしょうか?ハードな面だけではなくて、ソフトな面でも、対社会の理解、啓発・啓蒙活動の仕方にも、工夫が必要になるでしょう。その意味で、マラソンも、陸上競技も、水泳も、ラグビーやバレーボール、サッカーでも、何でも、障害者スポーツへの理解を広める必要があるでしょう。プロによる指導や監修なども、豊富なコンテンツの開発が、不可欠にもなるでしょうね。

 

 


今年二度目で最期のゴルフ:

2015年11月20日 | 社会戯評

今年二度目で最期のゴルフ:

昔、若い頃、米国に駐在していた頃には、週2回も、お客様の接待を口実(?)に、あんなに、ゴルフに熱中したり、或いは、そのエクスキュースをかわすために、女房殿にも、ゴルフを一緒に習うように勧めて、結局、お客様とのゴルフの人数が不足したときには、急遽、参加して貰ったものである。そんな怪我の功名ではないが、当時、歳をとった親爺と一緒に、3人でゴルフを楽しんだり、亡くなった親爺も、喜んでくれたことを想い出す。又、冬場にも、寒い本土を避けて、沖縄・宮古島やグアム島にも、避寒遠征キャンプならぬゴルフ・ツアー旅行にも、参加したものであるが、流石に、ここ数年は、とりわけ、脊柱管狭窄症の手術後には、腰を捻って、回転できないから、スィングも手打ちになり、且つ、体重移動が、不安定になったせいか、インパクトだけの振り抜きが出来ず、すっかり、飛距離も落ちてしまった。クラブの番手も、今や、1番どころか、2番手くらい大きくしないと、同じ飛距離を望むのは、無理になりつつある。もう、レギュラー・ティーですら、難しくなり、爺さんのシニアー・ティーから、打つことになってしまった。おまけに、ロングのパー5で、前方、ボールの落下予想地点付近に、池でもあろうものなら、無理をせず、女房殿と一緒に、同じレディース・ティーからのプレイになってしまう。更に、ショックなことには、同じティーから、打っても、女房殿に、オーバー・ドライブされたりするホールが、幾つかあったりすると、これは、もはや、旦那のプライドにも、関わることであり、看過出来かねる。元来、シングル・プレイヤーでもないし、むしろ、所謂、ボギー・ゴルファーだから、パットや、100ヤード似内のショート・アイアンの精度が落ちたり、グリーン周りの各種のアプローチの精度が、悪くなってくると、スコアー・メイクは、圧倒的に、難しくなるものである。そんな訳で、飛ばず、(グリーンに)乗らず、寄らず、(パットも)入らずとなると、もはや、理想のゴルフからは、遠ざかってしまうものである。そんなこんなで、今日は、パー無し、ボギーが、チョロチョロ、3パットが多くて、ダボばかりで、51(19):51(17)=102(36パット)とは、ガックリである。もっとも、OBが、でなかったのは、何よりだろうか?いよいよ、100も切れなくなってしまったとは、、、、、トホホである。女房殿は、53:54=107であった。来年のゴルフは、どうなることやら、、、、、。まぁ、まだ、一緒に、出来れば宜しいかな!しばらくは、冬眠するかな。

 


世代を継いだ誠備グループの亡霊:

2015年11月19日 | 社会戯評

世代を継いだ誠備グループの亡霊:

70年代にかけて、兜町の風雲児、最期の仕手筋と称された加藤昂の名前が、再び、新聞紙上に亡霊のように、浮かび上がってきた。しかも、世代を跨がって、大学で金融工学を教えている、その息子をして、60億円もの巨額な利益を得たと言われている。しかも、劇場型ではないが、自らが、顧客を扇動して、30億円もの豊富な資金を動員して、株価を意図的に、つり上げておいて、売り逃げるというまるで、ババつかみのようなやり方で、更には、これを、如何にも、金融数学工学に基づいて、理論づける手口は、まるで、詐欺紛いの犯罪以外の何ものでもなかろう。もっとも、手口がしたたかで、一種の新興宗教のように、顧客には、しっかりと、利益をきちんとお裾分けしておけば、間違いなく、そのカリスマ性は、教祖様のように、輝きを増して、密かに、グループは、再生、蘇生してくるものである。それにしても、金融犯罪というものは、刑事犯罪と異なって、人を殺したり、傷つけたりするモノではない代わりに、人間のカネへの無限の欲望を、これでもか、これでもかと、駆り立てることにより、より逆説的に、倫理的に、人の心を、醜くさせてしまうものである。それでも、金融取引の機会平等性とか、情報の透明性という問題において、犯罪であると、認定されるものである。もっとも、その犯罪性を、刑事責任を、立証するためには、大変な証拠集めために、労力と時間が、費やされ、巨額の保釈金を積みたてられることによって、合法的に、保釈もされ、ババを掴まされたある種の被害者は、置き去りにされて、裁判の長期化と、物理的な拘束もされることなく、美味しいものを食べて、豪華な住まいと暮らしを享受しつつ、結局は、又、前回と同様に、適当な軽い刑罰だけで、判決によっては、可もなし、不可もなしという社会正義とは裏腹の不条理な結末に至ることは、必定であろうか?既に、個人資産などは、分散された上に、合法的に、しっかりと、ケイマン諸島辺りのタックス・ヘブンに、細かく分散されているに違いない。こういう不条理は、まるで、昭和初期の金融恐慌に伴う、社会正義の不満へと集約されてゆく、得体の知れないドロドロとした、不安のようなものに、どこかで、繋がってゆくのであろうか?そんな加藤某も、74歳になって、何を思い、どんな風に、カネを使うのであろうか?心内を、尋ねてみたいものである。

 

 


爆買いの一歩先へ!:

2015年11月18日 | 社会戯評

爆買いの一歩先へ!:

数年前、海外からの友人達による買い物のすごさに、驚かされものであるが、ここにきて、「爆買い」なる言葉で、それは、定着したようであるが、必ずしも、それは、中国の経済成長の鈍化や新興国での先行き不安からして、永続的に、持続されるとは、確信が持てるわけでもないし、誰も保障してくれているモノではない。それでも、観光というコンテンツというものは、なかなか、面白いモノで、今や、徐々に、拡がりを見せ始めているのが、又、面白いではないか?確かに、外国人の友人に、逆に、面白いお菓子を教えられたり、もっとも、それらは、一般市場やスーパーには、販売されているモノではなくて、成田限定とか、羽田限定、或いは、その地方産地限定版とか、なかなか、日本人には、逆に、手に入らないものである。むしろ、その逆で、こちら側が、海外へ出掛ける時に、日本人の友人への土産の品に、成田や羽田で、購入して、これを持ち帰るという、実に、不可思議な経験をしたことを想い出す。換言すれば、外国人観光客にも、人気な商品は、実は、皮肉にも、日本人にも、受け容れられる可能性に富んでいるということが、このことからも、分かろう。又、海外に出掛けると、現地の人達は、カラオケで、日本語を勉強していることにも驚かされるし、このことから、最近では、夜の外国人観光客向けに、日本語の歌謡欲に、アルファベットで、発音を付して、歌を唄え、しかも、多言語で、選曲可能、日本語も学べるように、工夫したり、カラオケ・ルームの内装を、相撲レスラーや浮世絵、富嶽三景をポップ調に、アレンジ、改装したりして、工夫を凝らしているようである。成る程、様々な方法で、コンテンツが、充実されつつあるようである。確かに、人間ドック・ツアーではないが、優秀な医療機器による健康診断ツアーとか、温泉旅行と組み合わせたり、更には、夜には、日本食を提供、堪能したり、終われば、カラオケで、エンターテイメントで、愉しむとか、考えようによっては、無限の可能性があるのかも知れない。更には、驚いたことに、競馬場でも、JRAが、このブームを先取りして、特別席への御招待や、レースの愉しみ方、果ては、馬券の買い方までも、博打好きの中国人観光客に、日本人の客よりも、懇切丁寧に、VIPサービスを提供し始めいるそうである。もうこうなると、日本でしか、入手出来ない商品やサービスを、企画立案して、コンテンツを充実させれば、どんなに、国際ネット通信販売で、どんなに、現地購買力が、増えたとしても、ちっとも、心配することはないだろう。いずれ、メーカーの側でも、間違いなく、日本でしか入手出来ない企画商品、限定版商品とか、メイド・イン・ジャパン商品など、ネットで、まずは、親しんで貰う初期導入、お試し商品との差別化戦略を、工夫することは、必定であろう。そのように、考えると、先行きは、不安定であるとしても、逆に、コンテンツの開発次第で、その未来に向けての成長のポテンシャルは、凄まじい程可能性に富むものがあろうと信じる。全く、不安になることもないし、心配ご無用であろう。要するに、そうしたコンテンツを工夫、企画出来うる知恵と能力次第なのかも知れない。私は、日本人のそういう能力を信じてやまない。

 

 


証券会社の運用報告会で考えてしまう:

2015年11月17日 | 社会戯評

証券会社の運用報告会で考えてしまう:

年金生活者の年寄りには、毎日、「きょうようときょういく」が、必要・不可欠であると、小学校の同級生が教えてくれたが、運動も兼ねて、証券会社のラップ口座の四半期運用説明報告会へ、取りあえず、「今日、行くところと、今日、用事を作る」ということで、出席してきたが、なかなか、面白い説明であったので、記してみることにした。所詮、株式投資とか、資産の運用などと云うものは、中国人曰くではないが、「国家的な博打場で、合法的に、国家が、カネを個人から、巻き上げるところである」とまでは、必ずしも、云うつもりはないにしても、ある種の意味合いから云えば、トランプの「ババ抜き」のようなもので、如何にして、最期に、絶対に、ババを引き抜かないようにして、一番であれ、二番、三番であれ、要するに、損をしない程度に、儲けさせて貰って、安全に上がるということであろう。そう考えれば、証券会社の狙い所である、長期保有でのリスク分散型長期的ポートフォーリオ運用なるものが、最適であると云う結論を、顧客に納得させるために、様々な資料を提供された。その資料自体は、間違ってもいないし、フェイクでもない。ただ、成る程、統計・資料とか、様々な統計バロメーターなどと云う代物は、所詮、ある種の結論を導き出す側にとっては、それはそれで、大変、都合のよいもので、その都合のよい数字やバロメーターを如何にして、都合良く加工して、パワーポイントで、綺麗にプレゼンして、納得させられるかというものであることくらい、年寄り達は、何よりも、敏感に感じている。だから、私は、安倍や黒田の云うことは、参考にこそすれ、全く、信用はしていないし、信用する気にもならない。ファンド・ラップ口座なるものは、営業担当者に、始めるときに、ひょっとして、この提案は、ファンド・トラップで、ラップWrap ではなくて、実は、トラップTrap(罠)になる可能性はないかと、ジョークを飛ばしたものであるが、銀行にいくらカネを溜め込んでいても、インフレになれば、資産価値が目減りしてしまい、運用を真剣に、考えなければならないと、、、、。まるで、年金生活者には、悪魔の囁きのようである。証券会社の営業マンなるものや、ファイナンシャル・プランナーなることは、所詮、他人の褌で、相撲を取らせて貰い、お互いに儲け合い、儲けさせ貰って、そのおこぼれを頂戴するという殊勝な心構えがなくてはならないし、むしろ、積極的な「不都合なバロメーター」、例えば、今回の運用説明会では、一向に、設備投資(国内だけではなくて、国内企業による海外への設備投資額の推移)とか、実質賃金分配率の推移とか、何も、今更、財政再建の為には、インフレによる縮小を目指すなどと云う矮小な説明は、聴きたくもないものである。まぁ、若いファイナンシャル・アドバイザーだから、致し方ないが、「不都合な情報の公開・開示」も、それなりに、必要ではなかろうかと、質問をさせて戴きました。それにしても、問題の切り口というものは、可笑しなもので、自分に都合の良いようなある種の統計データの切り貼りとコピペで、全く、異なる結論が導き出されることに、我々は、如何にして、対抗し、自己防衛出来るのでありましょうや?ラップされて、いいように、丸め込まれないようにするにはどうしたらよいのでありましょうか?やはり、教育と教養を身につけておかなければ、丸め込まれてしまうのでしょうか?それとも、罠に、嵌まって、大切な資産という銭を、巻き上げられてしまうのでしょうか?考えさせられてしまいました。改めて、じっくり、戴いた参考資料を検証することに致しましょう。

 

 


映画、「FOUJITA」を観る:

2015年11月16日 | 映画・テレビ批評

映画、「FOUJITA」を観る:

そろそろ、山荘も、冬支度と休眠のために、準備をしなければならない時期が近づいてきた。その間、一寸、老眼で眼が衰えてきたけれども、頑張って、本でも、読むことにしようと、辺見庸著「1★9★3★7」、山本義隆著「私の1960年」、ハンナアーレント「活動的生」を、併読し始めながら、予定されていたこの映画を鑑賞することにした。元々、映画というものは、原作を初めに読んでから、映画を観るか、それとも、逆に、映画を観てから、原作を読むか、要するに、言語的な表現手法と、映像的な表現手法のどちらとも、愉しみたいという門外漢の欲張りな私にとっては、どちらでも良くて、実際、出たとこ勝負の場当たり的な対応以外の何ものでもない。今回は、映画に、興味を有したひとつの理由に、併読し始めた本にも、共通することかも知れないが、「戦争責任の課題」、とりわけ、当時の「画家に於ける戦争責任と芸術的な表現活動の関係性」を軸にして、観賞してみたいと思った次第である。藤田嗣治の絵画は、上田市立美術館で、観賞した箱根ポーラ・コレクションの作品の中に、実は、所謂、一連の問題作となる「戦争画」が、全く、含まれていなかったので、これだけを観るために、東京の国立近代美術館に、出掛けて、じっくりと、「戦争画」を眺めてきたことで、今回の、作品が、「近代文明の歪み」と「二つの大戦と二つの祖国の間を生き抜いた画家」の想いが、如何にして、日仏相互に、描き出せるのかという事に、焦点を当てて、観賞したかったものである。その意味では、既に、予備知識としては、充分すぎるくらいの準備が出来ていたつもりであったが、この作品を観ているうちに、それが、まだまだ、不十分であったことに気づかされる。冒頭の猫がゆっくりと、屋根を歩くさまも、考えようによっては、「猫」の作品を彷彿とさせるし、様々な画材や人物による絵の製作場面も、成る程、あの絵は、ひょっとして、こんな風に描かれたのかと想像されるシーンの連続である。最初と最期の日本人妻は別にしても、5度に亘るその結婚でのフランス人妻の描き方にも、それぞれの情感が、異なることが、理解されるし、幅広い交友関係の中でも、モジリアーニやゴーギャン、ピカソなど、場面場面で、或いは、高村光太郎のパリ滞在エピソード挿入も、戦中・戦後の戦争責任とも、微妙に、暗示されていて、面白いモノがある。別に、シッカロールを駆使して古来の日本画の技法を、乳白色の肌色の魔術師として、如何に、パリ画壇で、受け容れられたのかなどと云う美術史的な問題は、ここでは、私にとっては、どうでも宜しい。むしろ、何故、ナチス・ドイツのパリ進攻を嫌って(?)日本へと戻ることになったのか、或いは、同盟国の一員である日本人として、充分、現地に居残ることも考えられたにも拘わらず、何故、戦中の日本へ戻り、しかも、戦後、画壇の「戦争責任」を一身に受け止めて、国籍を捨て、祖国を後にして、再び、フランスへ戻り、やがて、カソリックに改宗して、レオナール・フジタとして、遠い異国の地で、墓地を創り、そこに、宗教画を描くことになったのか、それは、この映画の後半で、前半での明るい色調溢れる繁栄とデカダンスに溢れる当時のフランスの画面とは、対照的に、徐々に、墨絵風のモノトーンに蔽われた時代の風景と共に、描かれ、いよいよ、あの「戦争画」へと、導かれることになる。私は、勝手に、自分の時系列の中で、「アッツ島玉砕」の絵(1943年)と、「サイパン島同胞臣節を全うす」の絵(1945年)は、同時期だと誤解していて、しかも、聖戦戦争画展というものが、既に、1940年以前から、開催されていて、官製展覧会に較べると、圧倒的な入場者数で優っていたという事実、とりわけ、この展示会の中で、藤田は、自らは、記述しているように、年老いた老婆とおぼしき、恐らく、玉砕した遺族であろうと思われる老母が、絵に向かって、手を合わせて、祈るように、涙を流しながら、見入っていた様を観て、自分の作品が、本当に、人の心を動かす力になっていると確信したそうである。(画面上では、遺された遺児達が立ち尽くしたり、気を失って倒れる形で描かれているが)、要するに、画家は、戦意の高揚とか、聖戦完遂のプロバガンダに利用されたのでは、決してなく、飽くまでも、この作品は、鎮魂と平和希求のための画家の表現結果であったのかも知れない。それは、この絵に描かれた人達の中に、藤田として生きなければならなかったFOUJITAの「真の暗号符号」が、密かに、塗り込められていることが、自然に理解出来るし、この二つの圧倒的な大きな絵を前にすると、間違いなく、圧倒されてしまう何もかが息づいている。そんな呼吸をすること忘れさせてしまうような画家の息遣いが、感じられてならない。間違いなく、藤田は、二つの大戦の狭間で、数多くのむごたらしい死体を眺めたであろうし、否応なしに、そうした情景に、画家として、目を背けるわけにはゆかなかったのであろうことは、戦後、一言も、エクスキュースすることなく、画壇の戦争責任を一身に受け止めて、故国を捨てる結果になることを思うと、画壇だけではなくて、当時の文壇の文学者・哲学者・評論家などは、一体、どんな責任をとりながら、戦後を生きたのであろうかとも思う。戦後70年を経た今日ですら、同じ問題が、現在進行中なのかも知れない。エンディング・ロールの中で、ナントの自分の墓地に自らが描きだした宗教画は、確かに、磔にされたキリストの絵だけでも、20数年に亘って、見続けてきたこの画家が、渾身の想いを込めて、描いたことが、その映像美の中からも想像されよう。もっとも、右端後方片隅に、小さく、ひっそりと、おかっぱ頭の藤田とおぼしき顔が、描かれているのは、気が付かなかった。まるで、オダギリ・ジョーは、FOUJITA同様に、小田切として、藤田を演じきったのであろうか、それとも、藤田は、戦争中の日本滞在中には、FOUJITAを、どのように、消し去って、演じていたのであろうか?そして、今日、テロに見舞われたパリを見たとしたら、どのような感慨で想い、当時の外国出身の友人画家達と付き合っていたのであろうか?寡作の小栗康平監督による10年ぶりの作品であるらしいが、美術も、映像美も、なかなか、美しいではないか、小さな映画館であるものの、初回午前中の上映にしては、ほぼ、満席に近い状態であるとは、驚いてしまう。流石、都心の映画館である。さて、今度は、もう一度、国立近代美術館で開催中の藤田嗣治展示会を改めて、じっくりと、観ることにしよう。