小沢剛、帰ってきたペインターF展を覗く:
藤田嗣治の戦争画コレクションを観賞した帰り途、銀座の資生堂ギャラリーで、12月27日まで、開催されている現代美術家、小沢剛による、「その後のペインターF」というテーマの絵画とインドネシアの音楽家達とのコラボによる映像・ミックス展を覗くことにした。それにしても、銀座の地上の雑踏とは、異なる、この地下空間のギャラリーの静けさは、大変貴重で、銀座の高額な地価に換算したら、贅沢な静けさであることは、間違いないであろう。小沢によれば、「歴史に、もしもはないが、芸術には、それがあっても良いのではないか」と、絵画で、戦争が、止められるということはないが、と彼は云うが、少なくとも、原型となった画家、藤田嗣治の戦時下の複雑な心の裡を、二つの異なる人物設定を通じて、作品として結実させたものである。Fは、戦争画の仕事に最初は、戸惑うものの、やがて、没頭するが、戦後、祖国に居場所をなくして、インドネシア・バリ島で、無名画家として、亡くなる。その後、Fに似た男が二人、日本に現れ、一人は、逃げて、新しい場所で以前と変わらない人生を始める。もう一人は、芸術の力で平和な世界を作ろうと試みるが、結局、「うまくいかなかったようだ」、そして、最後は、「数十年後、再びペインターFが帰ってきて、魔法のような絵をみせてくれるだろう」と結んでいる。これらを、Chapter 1 ~Chapter 8 という形で、インドネシアの美術史家や学芸員、路上画家やミュージシャン達とコラボで、絵画と映像、ガムランの音色と歌詞と共に、作品を仕上げている。
確かに、戦争は、芸術家にとっても、最も、無慈悲で、しかも、残酷で生きにくい時代であったし、一方では、植民地に於ける文化・芸術啓発運動が、実際、インドネシアでも、1943年頃、「啓民文化指導所」と言う形で、派遣された画家達が、美術を通じた現地での文化交流を行っていたという史実もあるそうである。実際、占領地域での文化啓蒙活動というものは、占領政策の一環として、プロパガンダや、統治への合法的な理解促進として、飴と鞭の飴として、位置づけられるものであることは、事実であろうし、実際、朝鮮半島でも、台湾でも、そして、インドネシアでも、行われたことは、間違いないのであろうが、それを差し引いても、一体、芸術というものは、その国の歴史の中で、とりわけ、植民地化した側の国と植民地化された側の国民の間では、どのような受け止められ方をされていたのであろうか?逆説的に謂えば、日本も、戦後アメリカ軍による統治の中での文化活動は、どのように、日本人に受け容れられていったのかも、同時に、気になるところである。その点日本人は、幸か不幸かは、分からないが、二つの双方の側を皮肉にも、経験していると云っても過言ではなかろう。小沢が、何故、インドネシアを、「そのもしも」という場所に選んだ理由も、分からなくはない。これが、実際、朝鮮半島という場所では、成立し得なかったのかも知れない。まるで、ゴーギャンの南の島に逃れた理由とも、符合するようなペインターFの「その後の、もしも」の想定である。国立近代美術館での戦争画の後編を見るようでいて、面白い。こちらも、無料であったとは、申し訳ない。カンパ代わりに、資生堂パーラーで、名物のチーズ・ケーキでも、土産に買ってあげて下さい。