小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画、『スノーデン』を観る:

2017年01月31日 | 映画・テレビ批評

映画、『スノーデン』を観る:

一寸、用事が立て込んだ関係で、休日に映画を観る羽目になったことは、皮肉である、いつもなら、がらがらの映画館なのに、ネットで、確認したところ、何と、この映画もまた、ほとんど、満席同様な状態であった。何とも、不可思議な光景である。最近観た三作品の映画共に、皆、ほぼ、満席状態であったとは、驚いてしまう。『プラトーン』や、『7月4日に生まれて』という、これまでのアカデミー受賞作品の延長線上で、或いは、歴代の大領を扱ったJFK,ニクソン、ブッシュ、等の作品を挙げるまでもなく、オリバー・ストーン監督脚本の問題作のドキュメンタリーを基にした映画である。1995年に、サンドラ・ブロックが、主演で演じられた『ザ・インターネット』で、糸も容易く、自分という保証(?)された存在すらも、ネット上の操作で、なりすましの危うさに、驚かされたものであるが、今日、その後のネット上や仮想空間で繰り広げられた犯罪の手口を考えるときに、改めて、その危険性と進化のスピードに驚かされるものである。それでも、ごく、最近、約3-4年程前の2013年6月に、実際に、起こったこの事件には、その後の展開を見聞きするときに、改めて、その衝撃の小さくないこと、或いは、成る程、こういうことだったのかと、改めて、問い返される。ましてや、トランプの登場以後には、フェイクニュースも、ポスト・トゥルースも、今や、現実なのであろうか?

『個人の自由と安全』というバランス、とりわけ、9.11以降の世界的な風潮である、『私権の制限と安全』というバランスは、もろくも、法の支配による自由の制約や、法律には至らぬが、規範による、制限や、更には、緩い宗教的な道徳や、公徳心という範疇での『自主規制』とは明らかに、異なるところの、『安全最優先に基づく自由の制限』へと、『テロとの戦い』という錦の御旗の元で、ありとあらゆる生活の側面で、現在進行中(?)である。NSA(米国国家安全保障局)や、CIAは、この当時、29歳の元海兵隊出身の天才ITエンジニア、(反面では、ハッカーと、呼ばれて、ホワイト・ナイトなのか、どうかは、判らぬが)に、結局は、国家反逆罪の汚名を着せることでしか、訴追出来ずに、結局は、モスクワへと、逃げられて(?)しまう結果となった。電話、メールでも、チャットでも、SNSでも、トランプのツイッターも含めて(?)そして、ありとあらゆる通信、ビッグ・データも、友達の友達やあらゆるインターネット・プロバイダーも、ネット・サイバー上では、行き過ぎた監視体制の下、『対テロ戦争の為に』という錦の御旗で、サイバー空間も含めて、ドローンによる、或いは、無人攻撃機による攻撃まで、様々なシステムが、その唯一の目的のために、『テロには、本来関係無いのない私的な情報』も含めて、『政府の覇権を守るが故に、』、使われてきたし、現に、それは、映画の上だけではなくて、どういう政治体制をも問わずに、例外なく、『実際に、これまでも行われてきたし、現在も、そして、これからも、制限がなされようがなされまいが、断固として、行われることに間違いはない』ようである。そして、実際に、止まることを知らずに、厳然として、機能し続けているのが『現実』であることは、恐ろしいことである。『地球上で尤も、怖れられ追われている男の真実』とは、最近の『Fake News』や、『Post Truth』ではないが、アメリカにせよ、中国にせよ、ロシアにせよ、あの北朝鮮ですら、寸分も、違うことはないのが、現実であろう。国家反逆罪の罪から逃れることよりも、国家のために働くのではなくて、人々のために働くことを、自らの選択とした彼には、残念乍ら、皮肉にも、CIAからの『安全』は遠い遠い異国のモスクワの地で、保証されたものの、結局、彼の目指した理想の『自由』が、決して、保証されたわけではなかったことは、事実であろう。尤も、エンディング・ロールの最後の一行に、てんかんの持病を有するスノーデンを心配して、一緒に、ハワイへ、旅立った恋人も、結局は、事件後には、モスクワに渡航して、現在も、一緒に、生活している由であるという一文が、一抹の朗報とでも云えようか?それでも、自身の信念を貫く一方で、職場の同僚や、上司は、その後、どんな処分が科されることになったかは、告げられずに、エンディングになってしまったが、ガーディアンの記者達や、関係者は、どうなってしまったのであろうか?オバマから、トランプへと、更に、政治情勢が変わる中で、逆に、CIA、軍情報機関機能が、強化されるような傾向のなか、ロシア情報機関によるアメリカ大統領選挙へのサイバー攻撃が実際になされたとか、トランプの私的な不適切な情報が、リークされたとか、云われているが、一体、スノーデンや、ウィキリークス、アサンジーらは、モスクワから、今日の劇的な変化をどのような視点で、眺めているのであろうか?何とも、興味深いものがある。そして、この映画の中で、スノーデンが、デル・コンピューターや、日本でも、勤務していた実態が明かされたり、自衛隊の幹部が、ハワイを訪問して、情報監視システムを見学しているという事実を、我々は、どのように、考えたら良いのであろうか?日本での個人情報の監視と盗聴とコントロールは、どのように、現在進行形で、行われているのであろうか?映画の切符を購入するシステムもきっと、それなりに、分析されているのであろう!すると、最近観た3本の映画、『アイヒマンを追え』、『沈黙―サイレンス』、『スノーデン』も、人工知能のスクリーニングで、どのように、思考分類、或いは、思想分類されているのであろうか?パソコンのウェッブ・カメラが、突然、知らぬ間に、碧く点滅したら、やはり、ガムテープで、目隠しすべきなのであろうか?困ったものである!全く、考えさせられるも、では、どのように、このような便利なサイバー空間の中で、自分は、その自由と安全を守り抜いたら良いのであろうか?全く、考えさせられてしまう。

 

 


映画、『沈黙―サイレンス』を観る:

2017年01月30日 | 映画・テレビ批評

映画、『沈黙―サイレンス』を観る:

いつも、映画は、がらがらの中で、観ているものであるから、こんな満席の中で、映画を観るのは、久しぶりである。それにしても、斜陽産業と云われて久しいが、こんなに、大勢の人が観に来るとは、やはり、良い作品を、作り上げれば、結構、需要があると謂うことなのであろう。買うものがないとか、既に、飽和であるなどと云われているものの、まだまだ、商品企画と丁寧な商品つくりを行えば、需要はあるということに決して、間違いはない。

それにしても、もう、45年以上も前に、原作を読んだものであるから、映画を見終わってからでも、再び、読み返してみることにでもしようか?篠田正浩監督が、1971年、製作した同名の映画は、記憶にない事からすると、見てはいなかいのかも知れない。原作の本だけである。スコッティー監督の『タクシー・ドライバー』は、記憶にあるが、、、、、、。

 映画を観る上での時代考証と前後の歴史的な経緯を、他方整理してから、論評に入ることにしたい。時は、1641年キリシタン弾圧が厳しくなりつつある長崎、五島・生月島での話である。ザビエルが、鹿児島にキリスト教を伝えに、鹿児島に上陸したのが、1549年であり、その少し前の1543年には、種子島に、火縄銃が伝来したとされている。1552年には、ザビエルは、マカオで、ぼっしているから、インドのゴアを拠点とした、マカオ等のイエズス会系の極東への布教活動も、安土桃山時代の、信長・秀吉・家康へと覇権が移行してゆく過程での南蛮貿易やキリシタン大名、世界的な政治状況下の中での出来事として、ある程度、理解しておかないと、ポルトガル・オランダ・イギリス・スペインの世界的な覇権をも、充分、念頭に置きながら、観ておかなければ、単なる内面的な『神の問題』としてのみ、尤も、それこそが、主題であることには、変わりはないのであるけれどもである。それは、後半に、論じることにして、これらの一連の流れの中で、1587年の場t4エレン追放令や」九州征伐の過程での秀吉の当時の黙認市井が、1596年サンフェリペ号事件や1597年のフランシスコ会系の日本26聖人処刑事件へと、日本でのキリスト教布教に於ける、ドミニコ系、フランシスコ系、イエズス会系の主導権争いや、日本人奴隷売買の摘発などやらから、これまでの緩やかな間接統治、現地主義から、より根源的な直接的な宣教方式への転換とが相待って、既存仏教宗教勢力への排外主義・衝突も有り、更には、1637年の島原の乱による藩主の切腹ではない、斬首という形で、喧嘩両成敗的に、処罰される絶滅的なキリシタン抹殺へと、突き進んでゆくことになる。それは、皮肉にも、スペイン・ポルトガルから、徐々に、オランダ・イギリス、ウィリアム・アダムスや、八重洲の基になる、ヤン・ヨーステンなどの、事例を皮肉にも、観るまでもなく、世界貿易の実利と宗教の乖離を、徹底して、長崎平戸の出島へと、向かう過程でもあろうか、それは、世界史的にも、丁度、アルマダの海戦から、オランダ独立戦争に至る80年戦争への過程とも、符合する過程なのかも知れない。宗派的には、ポルトガル系のカソリック系から、オランダ流のプロテスタント系へ、或いは、間接統治主義だったキリシタン大名の勃興から、没落へ、至る、二度に亘る大きな殉教事件を引き起こす1619年、1622年という過程を経た上での暗黒の時代の出来事だったという背景を、私達は、十分理解しておかなければならないし、或いは、時の為政者の意図と、思想背景を理解しておかなければ、『内的な問題』、とりわけ、『神の沈黙』、『弱き者達』、『西洋と日本との思想の断絶』、『棄教の背景』、或いは、より、広い意味合いでの『転向・転び』という課題を考えるときに、充分、理解出来ずに、『今日的な課題』として、捉えることを妨げることになりはしないだろうか?心的な課題に立ち入った後で、最後に、映画評論を多生論じてみることにしたい。

 それにしても、中世の魔女狩りではないが、『拷問の歴史』、それは、ゲシュタポでも、北朝鮮の秘密警察でも、戦前の日本の特高でも、江戸時代のキリシタン弾圧の、逆さ吊りで、その血を一滴づつ、何日も掛けて、じわじわ苦しめながら、いたぶるやり方の前では、そんな『善意に満ちた信念』などは、木っ端微塵に、砕け散ってしまうことだけは、明らかであろう。とりわけ、今、若い頃を想い起こすときに、60年代の韓国でのキム・ジハの拷問前に宣誓した自白不当宣言文を、想い起こす。それは、如何なる拷問によっても、自らの信ずる『思想・信条・信念』は、決して変わることなく、強制的な拷問による自白は、有効ではないと宣するモノであった。謂わば、やむなく『踏み絵を踏む』ことと違いはない。『踏むがいい。汝を守る為に、この世に生かされ、痛さを分かつために十字架を背負った』と、どこからか、聞こえてくる、囁き掛ける声は、『弱き者』、『罪深き者』、を赦し、生き延びよとも、諭しているかのようである。『棄教』も、信仰を守りつつ、死にゆくものも、『死という鏡』の表と裏という一対だったのかも知れない。それでも、生き延びた者は、必ずその心の底に、悔悟と悔いを引き釣りながら、苦しみながら、日々、生きて行くことになる。弾圧する為政者の側にも、厳しくしても、根っこを徹底的に、叩きつぶしても、決して、根絶やしにすることは不可能であることを悟り、昔の『一向一揆』ではないが、結局、自分たちにも、或いは、キリシタン側にも、お互いに、都合の良い『形だけで良い転び』を、生み出して行くことになる。これは、『戦争中の転向』ではないが、如何にも、日本的な手法で有り、双方の面子を、互いに、折りの良いところで、融合するという一種の面子を重んじた『妥協的な手段』なのであろうか?『形だけで良い、形だけで良いのだ』という甘い悪魔のような囁きは、なかなか、刺激的なものである。棄教でもなく、背教でもなく、転向でもなく、『転ぶ』、転んでも、再び、『起き上がる』のである。日本的なるものとは、一体、何なのであろうか?そんな『甘い魅惑的な囁き』とは、果たして、何なのであろうか?きっと、日本的な思想と西洋的な思想との衝突から生じた『ある種の断絶』を、この時代には、こうしたやり方で、昇華・止揚してしまったのであろうか?究極的な虐殺という行き着いた先に、見いだしたものこそが、『転び』という八方全て、丸く収まる究極の選択であったのであろうか?

一向門徒も、悪人尚もて、往生すという親鸞の教えも、ジハードを厭わずに、殉教するモスリムも、この時代に、タイムスリップしたら、彼らは、どうしたであろうか?そして、肝心要の観客である我々は、果たして、どんな選択をしたことであろうか?密告もせずに、唯ひたすら、何度も形だけの踏み絵を踏み、唾を吐きかけて、転んでは何度もまた、立ち上がり、懺悔を繰り返しながら、結局、キチジローのように、処刑されるのであろうか?それとも、モキチのように、転びながらも、信念の中で、死んで行く途を選ぶのであろうか?『弱き者』は、どう生きて行けば良いのであろうか?

 窪塚洋介が、日本側での『よわき者』を代表する、片方の主役とすれば、明らかに、その対極にある相手方の主役は、イッセー緒方演じる、奉行であろう、その英語の演技もなかなかなものであると同時に、如何にも、悪意を内に包みながら、その自覚をおくびにも出さずに、飄々として、冷徹な官僚の役で、確信犯的な役柄と心理的な描写の演技は、実に、特筆すべきモノがある。そして、通史役の浅野忠正は、英語の台詞もあることながら、その小役人的な心情が、微妙に、台詞や演技にも、醸し出されていて、実に、これも面白い。それにしても、この時代の『貧困と格差』とは、映画とは云え、想像を遙かに超えるものがある。映画の中では、その後も、思想の再犯チェックは、とりわけ、厳しく、常に、確認、再確認、再々確認が、行われていたことがよく理解出来る。二時間40分程の大作出るから、その間、ずっと、観客は、嗚咽をひたすら、堪えながら、あるときは、堪え忍び、あるときは、堪えきれすにと、息苦しい連続であった。精根尽き果てると云うが、映画を観ながら、そんな感じで、上映後は、皆、押し黙りながら、映画館を後にしていった。少々、年寄りには、体力を必要とする映画であろうか?若い人には、是非、見てもらいたい映画であるし、無論作品を、読んでもらいたいと思う。もう一度、再読することにしようかな。それにしても、来日する中国人観光客が、きっと、中国の地下教会信者に向けて、DVDのコピーを持ち帰ることは必至であろうが、彼らは、中国現地で、どのように観賞するのであろうか?ロケ地が、台湾で、コストを節約するために、重視されたことは、長崎、五島の隠れキリシタンの子孫達には、少々、残念であった事は確かであろう。もっとも、転んだ人達がいなかったら、今日の子孫も存在しないことは、誠に、歴史の皮肉と云うほかないが、、、、、、、、、。

 


稀勢の里の思う

2017年01月23日 | スポーツ

稀勢の里に思う:

何とも、糖尿病と闘い、苦しんだ往年のおしん横綱でもあり、又、師匠であった、隆の里親方にも、通じる土俵人生模様である。それでも、『そんなに急いで横綱にならずとも良い』とは、思っていたものの、瞬間的な短期的な二場所程度の勢いで、あっという間に、先を越されそうな状況の中では、おいおい、本当に、いつも、ここ一番と云うときには、期待を裏切る、気弱な大関であると、呆れ果てられてしまう矢先の出来事である。誠に、今時、流行らない、叩き上げの中学出の愚直で、要領の悪い、不器用な力士で、まるで、醜いアヒルの卵のようであろうか?これまでも、ここぞという、肝心な一番には、負けてしまうのは、メンタル・トレーニングや、コーチが、相撲界には、いなかったのであろうか?これ程までに、科学的なスポーツ・トレーニングが、進んでいる今日でも、相撲界という所は、祭器と士魂とが、宿る神聖不可侵な土俵という聖域なのであり、スポーツは無縁の場所だったのであろうか?昔、何かのスポーツ番組で、横綱になる力士の条件を、その時の

横綱の年齢・成績・怪我と休場の回数とかをデータ分析してみて、誰が、近い将来、横綱になれそうで、又、なれそうにないかということを推理していたことを想い出すが、やはり、力士の商品ライフサイクルではないが、そういう、伸び盛りか、下降時期なのかということも、ある意味では、生まれたときが悪かった式なタイミングもあるのかも知れない。大鵬がいなければ、柏戸ももっと、優勝回数が増えていたかも知れないし、稀勢の里も、白鵬がいたから、或いは、モンゴル勢に囲まれて、これまで、散々煮え湯を飲まされてきたのかも知れない、そう思うと、なかなか、相撲界も、人生模様を観ているようで、なかなか、面白いモノがある。今回は、流石に、白鵬も、変わることなく、正々堂々と、真っ向勝負で、力の限りに、といっても、自分の衰えを自覚しながらかも知れないが、短期決戦で、勝負に、強引に出てきたのかも知れない。そうしないと、勝てないのかとも、うすうす、自覚していたのかもし得ない。どう考えても、これまでの実績がなくて、負け越しや、休場や怪我で負け越しているのに、突然変異の如く、全勝優勝などが出来てしまう相撲というスポーツも、実に、面白いではないか?優勝しても、翌場所が振るわないなどと云うのも、これも又、妙なことである。時間が、かかった分、人は、その地位により、その器量が備わることになると云われていますが、これからが、本当の始まりで、これからの稀勢の里の活躍に期待しましょう、そして、これまで通り、師匠の教えをしっかりと守り実行出来るか、一番苦しい稽古をしてきたから、勝利する自信が生まれてくるはずで、嬉しくとも、土俵上では、表情に表さないという、祭儀の礼儀を、横綱として、常に、実行出来るのかが、改めて、これからの土俵上で真に、その横綱としての品格が、試されることになるのかも知れない。力士の怪我が多い中で、これまで、休場がなかったと云うことは、又、優勝のない力士の最多勝利獲得ということも、特筆されるべきことである。元大乃国や、元霧島などの優勝が出来なかったことへのコメントを解説で聞いていても、人生、実力だけでなくて、プラスの運も味方すると謂うこともあるものである。それにしても、地位がその人を作るように、大器晩成でもよいから、急がずに、自分なりの横綱像を築き上げて貰いたいことを願ってやまない。

 


映画『アイヒマンを追え』を観る (渋谷:BUNKAMURA ル・シネマ)

2017年01月12日 | 映画・テレビ批評

=映画『アイヒマンを追え』を観る (渋谷:BUNKAMURA ル・シネマ)

東京という都市は、随分と便利且つ、贅沢なところである。平日の午後だというのに、良い映画を観たいという中年の映画ファン達に、席がほとんど、埋められているのには、驚かされる。丁度3年程も前のことだろうか、映画『ハンナカーレント』を新宿で観た時と、同じような情景である。同じホロコーストの『アイヒマン』を題材にしているものの、こちらは、裁判そのものではなくて、拉致・裁判に至る迄のドイツ人検事総長とその周辺の関係者の内面に関わる、ナチス残党(というよりも温存されたエスタブリッシュメント)との闘い、ドイツ人の歴史認識精算に関する問題、そういう観点から、翻って、日本人は、一体どうだったのであろうかと、考えると、実に、考えさせられる内容の映画である。

アイヒマン裁判は、子供の頃に、その逮捕と裁判の記事を今でも、子供心に想い出す。考えてみれば、自分が生まれた頃は、未だ、戦後復興と戦後政治秩序の処理とかが、ニュールンベルグ裁判も、東京裁判も、そうかも知れないが、歴史認識に対する政治ショー的な、東西冷戦の中での互いによるむき出しな凌ぎ合いのような様相で、フリッツ・バウアー検事総長も、決して、その枠外であったわけでは決してない。それにしても、我々は、どうやら、ドイツ人の、ドイツ人による、『ナチズムに対する歴史認識の成功的な精算』という事実は、正しくなかったことが、どうやら、改めて、この映画を観る限りは、再認識される。同じように、日本も、戦後間もなく始まった朝鮮戦争による経済再復興の最優先と、国民に開かれた(?)皇室と天皇制による政治的な統合のマヌーバーにより、日本人による、真の日本人のための、『歴史認識の精算』は、果たして、なされたのであろうか?それは、未だに、二度に亘る安保闘争と学生運動の高揚の時代を経ても、虚しく、戦後民主主義の課題、沖縄基地の問題、原発事故の問題、韓国慰安婦問題、日露の領土・戦後処理、中国との歴史認識の対立、対米従属、地位協定の問題など、明らかに、今日まで、70年以上経過していても、問題が先遅れされていることも事実であろう。考えてみれば、ユダヤ人としての出自を有しながらも、復讐ではなく、正義と信念に基づき、当時のアデナウアー首相などのドイツ政府高官の政治的な恥部を、明らかに、すべく、ドイツでの裁判公開を目論むものの、当時の東西冷戦や、既に芽生え始めているユダヤとアラブの対立や、東西冷戦、西ベルリンと東ベルリンという、東西冷戦の影響など、我々が、いやが上にも、否定しきれない状況に、当時は、もっと、制約されていたことが、改めて、認識される。当時の若者とのテレビの議論でも、考えてみれば、20代・30代のドイツの若者達も、実は、ナチスの躍進してくる頃に、幼い頃を過ごすか、教育を受けてきた世代であることも、実に、皮肉以外の何ものでないであろう。謂わば、日本での『皇国少年・少女』と、彼ら、『ヒットラー・ユーゲント世代』とは、どのように、対比、考察されるべきなのであろうか?更に云えば、世界的な、『スチューデント・パワー世代』と『紅衛兵世代』は、今日、どんな、立場で、どのような考え方で、社会の中で、根付いているのであろうか?或いは、彼らの子供や、孫の世代へ、どのように、今日的な歴史的認識という意識は、継承されているのであろうか?そう考えると、戦後ドイツに温存され、根深く巣くったナチスの残党の影響というモノは、ひょっとすると、今日の『民族浄化』や『民族排外主義』とか、『移民排斥』や、『差別・格差』、『新たな見えない敵への恐怖の創出』へと、繋がっているのであろうか?こうした観点から、この映画を観ていると、『ニュールンベルグ裁判』と、『東京裁判』、『アイヒマン裁判』というものも、『イラク戦犯裁判』も含めて、とても、興味深く思えてくる。『人は、何を裁き?何のために、裁くのか?』そして、戦争犯罪を、『正義・公正』の名の下に、戦争犯罪人として、本当に裁けるのか?アイヒマンとは、『誰でもが、簡単に、アイヒマンになれてしまうこと』に、そのナチズムの恐ろしさがあると、ハンナアーレントは、アイヒマン裁判を見守る中で、語っていたが、東京裁判での過程で、原爆投下責任論や、戦争犯罪を裁判で裁けるのかという重い課題をハル検事達が、問題提起していることを、一体、どれ程の日本人が、知らされているであろうか?アイヒマンの居場所情報を、モサドにリークさせたという事実は、バウアーの死後、10年経過して後に、初めて開示されたとか、云われているが、それ程までに、国家反逆罪という重い法的な拘束とナチス残党による政府官僚組織、或いは、メルセデス・ベンツなども含めた形での産軍共同体による資金的・人的・組織的なナチス残党への支援などを観ていると、日本でも、戦後は、同じようなことが、温存されていることは、決して、否定してもし切れない何かがあろう。若い部下が、結局、スキャンダルによる脅しを断固拒否して、自らの家庭と職をなげうつことと引き替えに、その秘密を秘守したことは、自らが『過去に犯した妥協と亡命による延命』という選択を、皮肉にも、対比しているかのようである。正義と信念を貫くことで、自らの命の断たざるを得なかった友人達は、バウアーが選択した『途』を、果たして、是としたのであろうか?それとも、結局、芋づる式に、犯罪行為を暴けなかった結果、或いは、アイヒマン一人だけに罪を被せて終了してしまったと言う結果に対して、どのような評価を加えたのであろうか?そして、我々、日本人は、『どれ程までに、自らの手で、日本人の手で、』、『自らの責任と結果』を、これまで、総括したのであろうか?そう考えると、未だに、70年経た今日でも、我々日本人は、再びの豊かさを求め、『経済復興・最優先』であり、60年代から始まる、所得倍増計画や、その後に続く『奇蹟の戦後復興・経済成長』という図式は、今でも、やはり、『すべてに、経済的な復興が、豊かさが、最優先される』という図式が、全く、変わっていないことは、どうしたものだろうか?それにしても、アメリカ映画の全盛の中で、やはり、ドイツ映画や、フランス、イタリア映画などは、興味深いモノがある。次は、遠藤周作、原作の映画『沈黙 サイレンス』、1月21日からが楽しみである。こちらも、『転向と形だけの転びと棄教』と言う観点から、共通する課題だろうか?冬の間は、少々、映画観賞に明け暮れルとしようか、、、、、、、。