小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

特売に考える:

2012年12月30日 | 社会戯評
特売に考える:
或る人から、ネットで、情報をとれるのに、どうして、地方新聞をとるのですかという質問を受けたので、「一昔前のアナログの活字人間だから」と応えたが、ハタと考えてみれば、デジタルのWEB版では、広告やビラが入ってこないのではないだろうか?最近では、リハビリの運動も兼ねて、一寸、遠いスーパーまで、自転車で、20分位掛けて、わざわざ、買い物代行にも出掛ける。とりわけ、山の神御用達の特売商品購入専門要員である。無償のボランティアである。何もそこまですることはないとも思われるが、昔は、マーケティングが目的で、買い物に付き合ったが、今や、ミッションが、全く、予期せぬ方向へ、変質してしまった。特売初日の広告のビラには、確かに、白砂糖や鶏卵が載っている。お一人様一点限りという表示も見える。異常なくらい安いそうである!目玉商品なのであろうか?開店5分くらい前に、チャリンコで、到着すると、既に、30人ほどの行列が整然と並んでいる。次から次へと、人が、とりわけ、ウィークデーだから、老人が多いのは仕方ない。若い人も、若干、混じっている。旦那が先に来て、後から、奥様が合流するケースもある。開店は、時間ピッタリである。と同時に、人々は、売り場へとすごい勢いで、ダッシュしていく。こちらは、走れないし、何処に、どの目指す商品があるのか、分からないので、仕方なしに、その「一群」の目指す同じ方向へと、身を任せつつ、誘われることにした。成る程、白砂糖があった。そして、それをゲットすると、今度は、鶏卵である。こちらは、何と、家族総出で、冬休みなのであろうか、子供と姑を従えた母親が、統制の取れたチーム・ワークで、私の前に、しっかりと、割り込んでくる。係員も手慣れたモノである。「お一人様、一点限りです、、、、、、、」と。これも、無事ゲットすると、踵を返す方角に、行列があるので、何も考えずに、並んで、ゲットすると、バター風味マーガリンだった。我が家では、もはや、「食べてはいけない食品」に属するので、無駄になると思い、返却することにしたが、どういう訳か、喜ばれてしまった。特売とは、何なのであろうか?客寄せの目玉なのであろうか?それ以外の商品を購入しないと云うことは、特売の意図する所に反することになるのか?消費者からすれば、平均原価を下げられることになるのか?それにしても、点から点へ、決して、他の商品を購入すべく、線から、面へとは決して拡がりがない我が導線である。もはや、特売も、ゲーム感覚なのであろうか?本当に、特売を必要としている人間が、特売商品をゲットしているのであろうか?どうみても、この光景は、そうではないのではなかろうか?生活に困窮している人は、そもそも、開店当初から、来られるはずがない。新聞も、定期購読していなかったら、知るはずもないが、、、、、。どうなのであろうか?特売のビラを見る機会があるのだろうか?浜矩子著、「新・国富論」という本を読んでいたら、アダム・スミスが、いみじくも、カネの価値とは、当時のまさに、金貨(キンカ)という金地金に裏打ちされた金証券という「カネ観」から、「貯めるためではなくて、使うためにある交換の手段」であり、共通の価値尺度であると喝破して、独り占めと出し惜しみの重商主義を批判したが、そんなカネでも、現在進行中のデフレの中では、流石に、エブリデイ・ロー・プライスでも、特売は、止めることはないのが、現状である。一体、どうしたら、カネを使うようになるのであろうか?本当に買うものがないのか?社会不安や将来の老後への不安が、過大な貯蓄の原因なのであろうか?アダム・スミスもビックリするような重傷である。デフレだからなのか?賃金が上昇しないからなのか?インフレになると焦って、或いは、消費税のアップが、実施される前に、未来の消費を先取りで、或いは、平均原価を上げないためには、今度は、カネを使おうと人は、思うのであろうか?何か、特売・販促は、既に、麻薬的な臭いのする貨幣価値を麻痺させるような危険を感じるが、、、、、、そして、それに、ゲーム感覚で、嵌まってしまっている自分という存在にすら、気が付かないようになりつつある自分が、この群衆の中にいると、ふと、思った。「新・国富論」という本については、又、別途、読後、書評で、考えてみたいと思います。面白そうである。今年も、多くの方々に、ブログに、ご訪問戴き、ありがとう御座いました。月並みではありますが、皆様が、健康に恵まれ、心豊に過ごされますように、お祈り申し上げます。年末、年始は、少々、雪景色でも眺めながら、家族と一緒に、地酒と温泉を愉しむ予定です。では、良いお年をお迎え下さい。




USTREAMで観る民主党代表選挙中継:ネット選挙の予感

2012年12月29日 | 社会戯評
USTREAMで観る民主党代表選挙中継:ネット選挙の予感
火中の栗を敢えて拾うことを決断した海江田万里君が、民主党代表に選出されたようである。NHKのテレビでも放映されていたようであるが、敢えて、ネットで生中継を観ることにした。総選挙前(AKB48ではない)の党首討論会程のアクセス数には、勿論、遠く及ばないけれど、こうした生中継をネットで公開する事自体に、意義があるのではなかろうかと思われる。もっとも、新政権が云うように、選挙活動のネット解禁が、即、投票率の向上に効果が必ずしもあるとは、思えないが、、、、、。(それよりも、政治の信頼性の回復の方が、投票率の向上には、必要不可欠なのではないかと考えるが)。いずれにしても、やらないよりは、ずっと、マシなような気がしてならない。今回、どれ程の人が、文書による選挙公報を、或いは、テレビの立候補者演説をみているのであろうか?更には、立ち会い演説会なるモノに、後援会や組織的に動員された運動員以外のどれ程の人数が、明治の自由民権運動ではないが、自発的に、参集してくるのであろうか?そうしたデータを、総務省は実証的に収集しているのであろうか?甚だ、疑問である。ネトウヨ(ネット右翼)のせいなのか、どうかは、定かではないが、保守陣営からのネット選挙解禁への発言が、際立っているにも関わらず、あれ程、ツィッターやスマホで、盛り上がったはずの反原発運動デモの拡がりも、護憲陣営や反原発陣営からは、皮肉にも、余り、ネット選挙へのアプローチがみられないのは、どうした訳であろうか?マス・メディアへの補完性としてのネットには、確かに、ある程度の影響力があるかと思われるが、新聞などでは、今回の韓国の大統領選挙におけるネットの影響力が、どのような役割を選挙戦で、担われたのかを、その筋の専門家に、分析して貰いたいところである。只単に、保守層のアナログの年長世代が、危機感から、朴候補に、土壇場で、投票へ向かわせたというだけでは、今一つ、ネット選挙の本質が見えてこないような気がしてならないが、、、、、、。如何なものでしょうか?



生まれた年、1948年(昭和23年)を思う:

2012年12月28日 | 社会戯評
生まれた年、1948年(昭和23年)を思う:
64年の歳月が流れたことになる。前年には、マッカーサーによる2.1ゼネストの中止命令が出されている。又、翌年には、ドッジ不況下の社会不安が高まり、国鉄総裁の下山事件、国電の三鷹事件、松川事件が起きている。為替レートは、1ドル=365円となるものの、商品別商品為替レートなるものが存在していたとは、驚きである。国際情勢は、朝鮮半島で、韓国と北朝鮮が、成立し、その翌年には、中華人民共和国が成立することになる。戦後経済の自立化・復興・悪性インフレの沈静政策としての占領軍による経済安定9原則や政令201号公布による公務員の争議行為の禁止他、ガリオア(占領地行政救済資金)・エロア(占領地域経済復興援助資金)、翌年の後のドッジ・ライン、シャープ税制勧告、経済復興政策へと布石が、繋がってゆくことになる。又、2年後の朝鮮戦争を契機とした警察予備隊、海上警備隊、保安隊、後の自衛隊へ、或いは、レッド・パージ、公職追放令へと連なるアジア冷戦構造の変化の萌芽がすでに、みられる。今も、共通する課題が、そのまま、未解決で、残されているが、何とも、きな臭い時代に、生まれてきたものである。いつの時代でも、考えてみれば、きっと、人間というモノは、安心、安全な、幸せな時代に生まれてくることはないのであろう。もっと、既に他界してしまった両親から、当時の話を聞いておくべきだったと、、、、、、、、。そう言えば、昔、丸善書店で、自分の生まれた年の新聞の一面をコピーするサービスがあったことを想い出した。一年に、一度くらいは、自分の生まれた年を振り返ってみるのも、なかなか、意義があろう、、、、、、。次は、女房殿の生まれた年、結婚した年かな???そして、子供達の誕生した年、父や母が、生まれた年も良いかも知れない。子供を育て上げた人も、今、現在進行形の人も、これから、授かり、育てようと思う人も、考えてみれば、自分では、決められない以上、一番良いベストの時などは、存在しないことを改めて、知ることになろう。



ノロウィルスの衛生対策:

2012年12月27日 | 健康 医療
ノロウィルスの衛生対策:
海外で、輸入食品製造に携わっていたときに、牛肉のO-157という腸内出血性細菌による中毒が、猛威を振るっていた。次亜塩素酸ソーダ液による手洗い・調理器具の消毒を徹底したものであるが、今回の新種亜種のノロウィルスの対策として、塩素系の消毒液が、使用されているということを改めて知り、当時を想い出した。数年前に、義理の妹家族が、全員、見事に、ノロウィルス中毒に罹ってしまい、大変な思いをしたことがある。その時にも、嘔吐した汚物等の掃除・処理による経口感染が叫ばれていた。更に、最近のニュースによれば、水洗トイレで、汚物を流すときにも、蓋をしていないと、ウィルスが、空中に舞い飛ばされて、浮遊して、口や喉などの呼吸器からも、感染するということを新たに知った。防御マスクや、使い捨てのエプロンも必要になるらしい。どうやら、これを怠った医療機関では、専門家でもあるにも関わらず、寝たきりのお年寄りが、多数犠牲になってしまったと報道されているが、、、、、、、、。家庭でも、今や、油断が出来ない。特に、水洗トイレは、ただ、流せば良いと思いがちである。それにしても、南京虫が、スーパー南京虫に進化し、旧種のノロウィルスも、新種の亜種ウィルスに進化したりと、PCのウィルス・マルウェアーだけでなく、実生活での衛生管理でも、全く、ウカウカ出来ない時代である。昔、風邪を引かないことも、ましてや、他人様に移さないことも、健康管理を上手にすることも、「出来るビジネスマン」の必須条件であるなどと、云った覚えがあるが、いやはや、新しい鬱病、新型インフルエンザの流行といい、大変な時代になったものである。参考までに、厚生労働省の関連HPを引用しておきましょう:お忙しい方は、ご一読下さい。
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/yobou/040204-1.html 



インド版「巨人の星」に期待する:

2012年12月26日 | 社会戯評
インド版「巨人の星」に期待する:
私達の世代は、梶原一騎の「巨人の星」が、発表されたときには、もう学生の頃だったから、それ程、こういうスポーツ根性物語の漫画は、あまり、興味がなかったが、むしろ、アルバイトの家庭教師をしていた中学生の生徒達が、同時期の「柔道一直線」等を観ていたので、共通の話題づくりのために、時々、観ていたことを想い起こす。何でも、講談社が、インド版クリケットに場面を替えて、リメイクして、現地で、最近、放映が開始されたという。しかも、その場面、場面には、具体的な日本企業のスズキ自動車やANA等の企業ロゴが、その商品と共に登場して、「メード・イン・ジャパン」を、積極的に、露出させて、アニメ・コンテンツとともに、売り込むというプロジェクトだそうである。近い将来は、これを見て育ったインド人の青年達とも、「巨人の星」が、共通の話題として、英語で、話が出来るようになるかも知れない。Kポップや韓流ドラマでなく、これまでのジャパン・アニメ以上に、こうしたコンテンツ産業の文化輸出が盛んになることは、単なるモノの輸出だけでなくて、その文化、考え方などを国際的に理解してもらうという点では、画期的なことであろう。反日教育や歴史認識の問題に関しても、正々堂々と、自国の文化の紹介や、積極的な対外的な啓発というモノは、官製的なものと並行して、民間レベルでも、商業ベースでも、有機的に、総合的に、行うべきであろう。戦後、まだ、幼かった頃に、テレビで観た「うちのママは世界一」とか、「パパは何でも知っている」等のアメリカン・ホームコメディーを通して、アメリカ文化に触れたのと同様、今や、世界的にも、各国が競って、海外向けの文化宣伝工作が盛んで、既に、中国や韓国は、とりわけ、自国ロビイストや支援者や理解者の囲い込みが、始まっている。それらに対抗するためにも、確固たる戦略的な方向性が、しっかりと、商業的にも支援されなければ、またぞろ、ソフト産業やコンテンツ産業の衰退・失敗に、陥りかねないのではないだろうかとも思うが、、、、、、、、、。個性的な教育指導で名高い在日インド人インターナショナル・スクールの子供達は、このテレビ番組を視るのであろうか?感想を聞いてみたいところである。



新工法による高層ビルの解体:

2012年12月25日 | 社会戯評
新工法による高層ビルの解体:
赤坂プリンス・ホテルが、解体されるそうである。そう言えば、外人に逢うために、ロビーで、エレベーターを待っていたら、何と、プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントが、ドアーが開いた途端に、頭を一寸、すぼませながら、降りてきたのに遭遇し、人間は、こんなに、大きくなるんだと、驚かされた想い出があったが、もう随分と、昔のことになってしまった。そのアンドレも、今では、亡くなってしまったが、、、、、、。建物の解体とは、テレビ等を通して、派手に、爆薬を使用して、爆破するものであるという先入固定観念を抱いていたが、最近では、まるで、積み木を上から順番に、取り除くように、ジャッキで、徐々に、階毎に、低くしてゆくという新しい工法があることを初めて知った。考えてみれば、包装用のパッケージなどは、使用後には、簡単に、折りたためるように、初めから、折られていたり、組み立てられている。成る程、高層ビルも、初めの設計段階から、そういう解体時点のことを想定して、建設されていたのかと、驚ろかされる。生産とは、設計段階から、部品、組み立て、修理、保全・維持、管理、解体まで、一連の流れを想定していなければならないということを、改めて、考えさせられる。トンネルも、橋も、ダムも、原子力発電所ですらも、そうあらねばならないであろう。子供の頃は、建設現場でのパイル打ちが、ドカンドカンと騒音を、撒き散らかすのが、当たり前であったが、今では、余程の後進国にでも行かない限り、それすら、観ることが出来ないほどである。昔、家を建て替えるときに、あっけなく、重機で、解体されて更地になってしまったことを想い出すが、考えてみれば、あの瓦礫も、当時は、未だ、細かく分別はされていなかったのであろう。資源の活用の観点からも、新しいビル解体工法は、もっと、注目されても良いのかも知れない。こうした技術は、日本の成長戦略のひとつにもなるかも知れない可能性を秘めている。公共事業への投資戦略が、経済活性化のために、必要であると叫ばれているものの、こういうエコなリサイクルを前提にした考え方も、おおいに、重要視されなければならない。さもないと、又、原子力のゴミの問題と同様、再び、何十年か後には、同じような問題を子孫に残しかねないことになろう。爺さん、婆さんは、勝手なことをしてくれたものであると、墓前で、言われたくはないでしょうから、、、、、、、。こういう発想は、大切であろう。もっとも、人生は、リセットやリサイクルという訳にはゆかず、初めから、エコなこういう考え方を導入できれば良いのにとも、、、、、、、、、、。



夢心地の中で聞くテレサ・テン:

2012年12月24日 | 社会戯評
夢心地の中で聞くテレサ・テン:
もう、20年以上も前に、購入したソニーのステレオ・コンポが、とうとう、CD部分が故障してしまった。スピーカーも、木製で、しかも、機器類も、すべて日本製である。良くこんなに長い間、長持ちしたものである。大したモノである!まだ、使えるパーツは、そのまま、引き継ぐことにした。最近は、我が老犬の早起きに、付き合って、少々寝不足気味で、軽い昼寝でもしないと、身体が持たない。結局、新しい小型のコンポに買い替えたので、昼食後には、昔、海外出張時に、飛行機の中で聞いたテレサ・テンの唄のSDカード録音をうたた寝しながら、再生して聴いて見ることにした。久しぶりに、聞いてみると、なかなか、宜しいではないか、海外出張中の懐かしい昔の往事を想い起こさせるモノがある。中でも、大ヒットした「つぐない」、「愛人」、「時の流れに身をまかせ」、「別れの予感」、もよいが、やはり、個人的には、「空港」、「恋人たちの神話」、「旅人」、「ふたたびの」「あなたと共に生きる」、「夜のフェリーボート」、「雪化粧」、「ジェルソミーナの歩いた道」、「ふるさとはどこですか」、「香港」その他、カバー曲の「そして……めぐり逢い」、「もしかして」他も、よろしいのではないでしょうか?とりわけ、作詞家の荒木とよひさ、坂井泉水、山上路夫、来生えつこ等による作詞には、日本語の情感が溢れていて、堪らないですね。(苦笑)言葉の大切さを、改めて、外人歌手に思い知らされる。お笑い芸人は、知的所有権が確立していないから、流行語大賞を取っても、「一発ギャグ」だけで終わりになってしまい気の毒であるが、歌手は、一曲ヒットすれば、それが、聴衆の心の中に共鳴するモノを刻印すれば、それでよいのではないだろうか?もっとも、しっかりと、著作権が入ってくるであろうが、、、、、。もう何十年とずっと、それをひたすら歌い続ければよろしい。何も、時流に媚びすることなく、或いは、新曲も出さなくても、ただ、ひたすら、「持続と継続」の中で、孤独に大衆に迎合することなく、歌い続けることが大切ではないだろうか、、、、、、、、と。次は、桂銀淑・浜圭介の「北空港」でも、聴くことにしようか、、、、、、、。その次には、趣向を変えて、荒井由実かな?何だか、カラオケの曲の様になってきてしまった。中高年のCD購買に支えられて、ダウンロードを凌ぐようになるでしょうか?それにしても、旧い所蔵のテープのCD転換を進めなければ、、、、、、、宝の持ち腐れである。ビューイックで、カリフォルニアの砂漠を走っているときに、思いっきり、車中のボリュームを上げて、眠気覚ましに、大声で、唄った八代亜紀のテープも、そう言えば、そのままになっているのを想い出した。



食物アレルギーを考える:

2012年12月23日 | 社会戯評
食物アレルギーを考える:
小学五年生の女児が、粉チーズ入りチジミを食べて、アナフラキシー・ショック死を起こして、死亡してしまったというニュースには、本当に、痛ましいことである。とりわけ、給食の管理栄養士が、事前に、粉チーズが入っていないモノをわざわざ、別に、提供したにも関わらず、自分で、お替わりをして食べてしまったらしいと、、、、、、。私も、子供の頃に、祖母の実家がある掛川の田舎に、夏休みに遊びに行ったときに、取り立ての鶏の生卵で、じんま疹が出来たことを思い出す。それ以来、学生時代にも、大学病院で、アトピー性皮膚炎の治験研究に、4年間、タダで、協力したものである。当時は、アレルギーのパッチ・テストが実施されたものの、病名も、はっきり、確立されておらず、どういうものにアレルギー反応するかという程度しか、分からなかった。その時に、強い反応を示したモノが、甲殻類、ブタ草、埃、ナッツ類、牛肉、青魚、等であった。しかしながら、社会人になってから、米国の東海岸へ海外出張した時に、夕食に招待された家で、大きなロブスターが出されたので、断り切れずに、完食しその後、ホテルに帰り、就寝したところ、深夜に、外耳道の内側辺りがひどく痒くなり、寝ている間に、無意識に爪で、何度もひっかいた様で、そこから、バイ菌が入り、翌朝には、ひどく、痛み出し、おまけに、瞼の横が、腫れ上がり、結局、その日は、急遽、現地の医者に行き、抗生物質を大量に、投薬されたことを想い出す。私の場合、死に至る程のものではなかったが、それ以来、抗ヒスタミン剤の服用と、「食べてはいけない」リストを、持ち歩くことにしている。この記事では、不幸にして、アナフラキシー・ショック死に至る程の強い食物アレルギー反応であったのであろうが、、、、、、学校の個別アレルギー対策も、大変であろう。何とも痛ましい事件であることは、事実である。余程の対策を講じないと、再び同じような悲しい事態が生じないとは限らないであろう。自己責任との狭間で、難しい、且つ、悩ましい問題であることは間違いないであろう。



歩行リハビリ月報:術後5ヶ月の経過

2012年12月22日 | 健康 医療
歩行リハビリ月報:術後5ヶ月の経過
脊柱管狭窄症とすべり症の手術後、5ヶ月が、経過しようとしている。寒さのせいだろうか、或いは、神経回路が、修復しつつある証拠なのか、これまでは、全く感じていなかった背中の腰の縫合痕が、ピリッと、最近、電流が走るような感じが、時々するようになってきた。週2回の近所の整形外科での歩行リハビリ訓練は、40分程度であるものの、額には、うっすらと、汗を掻く始末である。足の裏の末梢神経は、相変わらず、象の足のような感覚であるが、どうやら、神経回路が、修復されつつあるようなので、歩行訓練後には、血行がよくなり、赤く火照るようになってきた。同時に、足先の左右の両指に、力が徐々に入るようになって、左右のバランスは、問題なくこなせるようになったものの、まだ、前後、とりわけ、前に重心を乗せるときが、どうしても、後ろに、かかと部分に、バランスを持って行き、均等には、うまく行かない。それにしても、ステップを使用した片足で、立ちながら、もう片方の足で、跨ぐ動作は、何とも、自分でも、情けないほど、覚束ないし、歯がゆい限りである。結局、片脚立ちが、不安定なのである。腹筋やら、背筋は、そこそこ、鍛えていたので、「貯金(筋)」があるものの、流石に、爪先立ちと前への体重移動は、依然として、大きな課題である。とりわけ、左脚が、右脚に較べて、若干弱い。一直線に、足を交互に、交差させながら、真っ直ぐに、歩行するのも、これまでは、全く、問題なかったのに、少々、ふらつき気味に、酒も飲んでいないのに、千鳥足になってしまう。未だ、75%といった段階だろうか、横への蟹歩きの訓練は、足を横に、前、後ろ、前、後ろと交互に、横一線に歩くのであるが、これも、又、手摺無しには、結構、悩ましいものである。こちらは、ほぼ、85%程度であろう。全く、これまでは、そんな歩行の不自由さを全く、感じることなく、歩いたり、走ったり、ボールを蹴ったりしていたものであるが、何気ない動作も、実は、大変であると云うことを実感する。サッカー大程のビニール・ボールを片脚だけで、受け止めて、一旦止めてから、その足裏で、蹴り返す動作などは、一見、簡単そうであるが、(脳の理解では、簡単であるが、)腰で身体を支えながら、片脚だけで行うのは、存外、難しいものである。サッカーの選手は、これを走りながら、更に、相手を交わしながら、自由自在に、受けたり、パスしたり、テレビで試合を見ていても、つまらない動作にも、新たなる感動が、自然と生まれてきてしまう。プラスチック製のイボイボが表面に、突き出た足の裏を刺激し、且つ、その上に立つとバランス感覚が養われるというバランス・ポッドという器具を、訓練に使用しているが、同じ製品が、アマゾンにあったので、早速、買い求めて、自宅でも、使用してみることにした。なかなか、効果的な代物である。当面の目標は、前へのバランスの強化と指先に力が入り、握りしめられること、そして、爪先立ちが出来ること、まだ、ゴルフが出来るようになるのは、相当先のことのように思われるが、、、、、、、目標管理と工程表をしっかり、管理してゆかなければ、、、、、、、、、と。我が老犬との散歩にも、気合いが入ろう。来月は、いよいよ、6ヶ月検診である。



恒例の枝払い終了しました!:

2012年12月21日 | 自然・植物・昆虫
恒例の枝払い終了しました!:
全く、都会では、落ち葉の処理が、大変である。とりわけ、濡れ落ち葉亭主ならば、イザ知らず、空っ風に吹き飛ばされて、コンクリートの道路に落ちた枯れ葉は、お向かいの先の玄関先にまで、容赦なく、飛び散らかされている。掃いても掃いても、次から次に、落ちてくる。雨でも降ろうものなら、もう一大事である。天気の良い暖かい、紅葉も終了した頃合いの日を見計らって、思い切って、年末恒例の枝払いを敢行することに決した。濡れ落ち葉亭主は、梯子に、よじ登れないので、基本的に、女房殿がノコギリで払い終えた樹の枝を短く切る係である。姫林檎の樹は、高枝切り鋏で、来春、短枝に蕾が付くように摘める。大きなお屋敷では、庭師が入って手入れをしているが、我が家は、毎年、ガーデニングが趣味なのでということを口実に、御手づから、身体を張って枝払いを挙行することにしている。道往く人からは、「毎年、花桃を眺めさせて貰い、有り難う御座います。来春が、楽しみですわ。」などと煽てられる始末である。(豚も、おだてられば、本当に、樹に登ってしまう)確かに、花桃の樹は、小さな蕾が、既に、準備段階である。料理は、食べる側、花見も、観る側が、どうやら、一番であるが、、、、、、、、。暖かくなれば、払った枝も又、いつの間にか、芽吹いてくるであろう。やれやれ、腰を伸ばさないと、、、、、、、、。


久しぶりに夜の銀座を愉しむの巻:

2012年12月20日 | 男の手料理・食
久しぶりに夜の銀座を愉しむの巻:
全く、もって、変わってしまったものである。建物というモノは、或いは、それが、建っていた場所が、その地域ごと、そっくりと、新しいビルに建て替えられてしまうと、そこには、嘗て、どんな建物が建っていたのかを思い出す方が、至難の業である。(恐らく、住んでいた人も、そうであろう)兎に角、人が多い、歩く速さが、とても、尋常ではない、早いのである。小学校のクラスメートが、京都で著名な料亭の「たん熊」で、日本料理の修行を積んで、その後、高知、博多と、更なる修行を積んで、日本料理の板前として、業界でも、そこそこ、有名になってから久しい。久しぶりに、銀座のお店に、元の会社の先輩を紹介すべく、お邪魔することにした。何とも、日本料理は、奥が深いことに、改めて、感激する。お品書きの字も、写経やお習字で、著名なお寺で、書道の修行を積んだそうである。又、茶器や、生け花も、さりげなく、その食事の場をわび・さびの精神で、盛り上げ、白い椿の一輪挿しと花器、清楚に置かれた苔玉が、品の良さを醸し出す。お吸い物の漆器の蓋には、金粉で、書かれた景色が、優雅に、湯気の中に、浮かびたつ。(このデザインも、自ら、考えて、特注したものである。)それにしても、料理の味も、薄味の舌に残らない、上品な日本料理の神髄を感じさせるものである。たまにしか、こういう雰囲気を味わえないが、実に、至福の一時である。(入院していたときの糖尿病予備軍食と比較してしまう。)料理の話、とりわけ、素材の話、包丁の研ぎ方、食器の洗い方、ふき方、仕舞い方等、素人にも分かりやすく、説明を受けながら、お食事を戴くと、更に、料理を味わうことに対して、愛着が生まれてくるものである。帰りがけには、落ち着いた雰囲気のバーで、一寸、一杯、引っかけて、帰ることになったが、大衆的な居酒屋も良いが、たまには、こういう本格的な王道中の王道的な料理をじっくり、味わうのも、決して、悪くはなさそうである。(懐具合が許せばの話であるが、、、、、)都心の地下鉄の電車やエスカレーターを乗り降りするのも、人混みを歩くことも、存外、いやはや、疲れるものである。やはり、田舎の方が、どうも、ゆるりとしていて、宜しいのではないでしょうか? 少々、おいしい「麒麟山」が、効いてようである。(反省!)



労働分配の不平等性:「ロボットと泥棒男爵」

2012年12月19日 | 社会戯評
労働分配の不平等性:「ロボットと泥棒男爵」
08年に、ノーベル経済学賞を受賞したPaul Krugman教授のコラム記事が、一寸、面白かったので、引用してみる。嘗ては、労働分配率の不平等性は、圧倒的に、労働者対資本家という旧来の図式であったが、むしろ、労働者間での分配の不平等性で、高学歴労働者と低学歴労働者の格差とか、金融部門などの一部の超高級所得者や、正規雇用・非正規採用労働者という差別(日本では)などをベースに、議論されてきた。企業所得は、一方、成功をもたらすはずのスキルを持つような労働者を含めて、労働者全般を犠牲にして、企業所得は、増加をしてきたと、、、、、、。何故、このような議論が起きたかという原因に関する説には、二つあると云われる。ひとつは、技術が、労働者を不利な状況に追いやったとする説、もうひとつは、独占力の急拡大の影響を目にしているのだというもの。機械やロボットが、実際、人の労働を奪い、必ずしも、安価な労働力を求めて海外に生産拠点を持たなくても良いという傾向も、業種により、確かにあるかもしれない。(アップルの事例などの国産化、マザーボードの組み立て作業のロボット化等)、技術に取って代わられる労働者が、単純作業労働者だけではなく、高度なスキルを有する労働者も又、その限りではない。言い換えれば、技術に取って替わられつつある雇用の多くが、元来は、高度なスキルを要し、且つ、高い賃金を得られる仕事であると言うことである。革新と進歩とは労働者全般に打撃を与え得ることになるのであろうかとも、、、、、、。産業革命初頭期には、実際、資本集約的な新技術が労働者の暮らしを悪化させ得るということもあったようであるが、、、、、、、。では、それならば、(ウォール街の)金融泥棒男爵達は、どうだろうか?独占や訳の分からぬ規制緩和によって、寡占が一層進み、結局、労働力需要の低迷を招いた重要な要因であるという議論もある。そう考えれば、労働者派遣法や、非正規雇用労働者の採用を、途上国による低賃金労働への唯一の対抗措置として、喧伝され、製造業も、教師も、聖域無き適用拡大の結果、アップルのような個性的な商品開発に、遅れを執ってしまったのは、一体、何処の国であろうか?技術革新や独占・寡占だけで、現在進行中の労働価値の切り下げが、どれ程、説明出来るかは、定かではないが、韓国の財閥を代表とする富の分配に於ける偏重と、国や会社だけが富んで、万骨枯れる式の経済運営と、今日、何とも不可思議な光景が、何処の国でも見られるが、、、、、、。今や、スキルや教育で、労働価値が決定されるのではなく、労働者の犠牲の上に、企業利益が増大する下で、金融独占資本で、所得格差が決まるような世界に、後戻りしてはならないと、クルーグマン教授は、コラムで、訴えているが、相続税の軽減措置とか、富の相続に対する危惧や、法人税の低減とか、に対する懐疑は、まるで、マルクス経済学者も目を丸くして、驚くような論旨で、アメリカの経済学者は、なかなか、面白い主張をするものである。日本の官製学者も爪の垢を煎じて飲んで貰いたいところである。原文が検索で見つかったので、読み返してみたが、長くないので、是非、原文を読まれることをお勧めします。自分自身の労働付加価値は、一体、どれ程の価値があるのであろうか?改めて、考えさせられるが、、、、、、、、、。
原文:http://www.nytimes.com/2012/12/10/opinion/krugman-robots-and-robber-barons.html?ref=paulkrugman&_r=0


死に票を考える:

2012年12月18日 | 社会戯評
死に票を考える:
昔、英字新聞で、地滑り的な勝利という表現を、Land-sliding Victory とすることを知ったが、何とも、今回の選挙の結果は、全く、その言葉を想い起こさせるものがある。もっとも、自陣の大勝利といっても、むしろ、相手側が、深層崩壊で地滑りを起こして、或いは、地割れを起こして、結局、内ゲバで自滅してしまったという表現の方が当たっているのかも知れない。先般の米国大統領選挙でも、支持率が、拮抗していて、少しでも勝っていた方の陣営が、その州のすべての選挙人を獲得できる方式で、総得票数が、どんなに、接近していても、必ずしも、民意が、反映される仕組みではない。小選挙区制度が、その意図する二大政党による政権交代という理想的な方向性とは裏腹に、意図せざるところの多党化や支持政党無しという浮動票層を生み出してしまったことは、何とも、皮肉なことであろう。民主主義とは、多数決主義であるなどという訳の分からぬ理屈で、少数意見が、なし崩し的に、担保・尊重されることなく、葬むり去られるようであれば、それは、又、別の意味で、「民主主義の危機」であり、一発選挙万能主義の弊害でもあろう。投票さえすれば、或いは、投票至上主義で、ほんとうの民主主義の礎である民意の意思表示、直接民主主義的な行動を持続的・継続的に、起こさなければ、いつまでたっても、死に票は、報われることはないであろうし、決して、振り向かれることはないであろう。もっとも、その投票率ですら、若者を中心にして、低迷しているのも事実であるが、、、、、、、。決められない政治から、今度は、バンバン、どんどん、有無を言わさずに、死に票を投じた人間には、受け身で、「決められてしまう政治」へと、この国は、向かってゆくのであろうか?そうならないように、どのような行動をとったら良いのか、選挙結果を見ながら、考えてしまうが、、、、、、、。



高校が過疎を救うということ:子供を産める田舎の再生モデル

2012年12月17日 | 社会戯評
高校が過疎を救うということ:子供を産める田舎の再生モデル
先日、新聞で、「高校が過疎を救う」という島根県の離島・海士島(あましま)に移住して、地域再生の取り組みをしている離島魅力化コーディネーターを紹介している記事を読んだが、なかなか、示唆に富んでいて面白い。山村留学や離島留学を通じて、「人つなぎ」という観光ツアーでの街おこし、村おこしで、第一回観光甲子園グランプリを獲得して、今も、継続中であるらしい。離島の連絡船やバスの接続の悪さを解消するダイヤ改正を提案したり、生徒の少ないことを逆手にとって、学校での個別指導や、島の自然・文化・歴史を研究したり、キャリア教育を実施したり、Iターン誘致にも、積極的に関わって、提言やら、島民とのウチ・ソトの交流を図っていると、、、、、、。とりわけ、子供を産み育てる20/30歳代層に対するIターン策として、「教育と産業振興」が、どうやら、キーポイントであるらしいことが、分かってきた。刹那的な一瞬の愉しみではなくて、何世代にも亘って、持続可能な幸福を享受できる仕組みを作り上げることが、重要で、それを度台にして、「田舎センス」というものが、成り立つらしい。資源が乏しく、少子高齢化も急速に進行する島国では、田舎に昔からある「三方良し」という概念、都会的な競争に勝った、負けたと一喜一憂することなく、「なるべく、負けを作らない」伝統的な文化を、学校教育、とりわけ、高校での教育に取り入れて、外からの部外者と地域協同体の人間とが、協働してゆけば、未来の新しい文化の地平が、切り拓かれてくるのではないかと、、、、、、、、。大人達の諦めない、全力で何かに立ち向かおうとする姿勢と継続性・持続性を子供達に、見せてさえいれば、自ずと、子供達は、育ってきて、若者は、一度は、外へ出て行っても、再び、又、戻る人が増えてくるのではないかと、、、、、、。離島モデルとしてだけではなくて、全ての日本国中での過疎化、少子化対策にも通じるモノがあろう。確かに、子供を産めない、或いは、育てる環境に乏しい中では、結局、安い賃金で、働くことを余儀なくされ、ますます、高齢化と老齢化と少子化とのダウン・スパイラルに、陥ってしまうことになる。存外、産業振興と子育て環境の整備と高校の重要性とは、街おこしや地域振興の中では、盲点のように、見落とされてきたところがあり、行政の方でも、個別の縦割り行政的なものであるような気がしてならない。古民家の格安賃貸紹介・補助制度も、産業振興がなければ、或いは、学校教育も確保されていなければ、結局、一部の芸術家やITプログラマー・陶芸家のような特殊な職業の人間しか、移住できない仕組み作りになりかねないのが現実であろう。資本の論理で、勝ち組・負け組を峻別して、そうした貧富の格差社会までもが、一律に、田舎の地域の中にまで、持ち込まれてきてしまうのでは堪ったモノではない。そうしないと、一度、下り坂になろうものならば、ひたすら、国中が、疲弊して、右へならいとなり、それこそ、戦前の貧困と身売りを出しかねない。当時に比べれば、むろん、豊かになってはいるものの、まだ、高齢化と少子化と、そして、安心して、子供を産める、そして、育てられる、生活が出来る環境つくり、再生モデルは、まだ、構築されていない。美しい日本から、新しい日本へ、言葉だけ、変更されて、日本が、本当に、取り戻されるのか?こういう草の根の地道な取り組みは、確かに、もっと、もっと、評価・検討されてもよいのではないだろうかと思われるが、、、、、、、。小布施や湯布院とも、又、違った取り組みである。



スーパー南京虫という存在:

2012年12月16日 | 自然・植物・昆虫
スーパー南京虫という存在:
随分、前のことになるが、SARSが、猛威を振るっていた頃、これが、飛行機や交通網の発達によるグローバルな密接な繋がりにより、その被害の拡大が、早かったと云われていた。Bed Bug, 所謂、「床しらみ」の異名を持つ南京虫は、もう、団塊の世代ですら、その存在を実際に見たような経験を有する人は、少ないのではないだろうか?せいぜいが、蚤やダニ程度ではなかろうかと想像するが、、、、、、、、何でも、最近では、神経性の殺虫剤に、耐性を有する新種のスーパー南京虫が、アメリカで、小売業やオフィスに甚大な経済的な被害を与え、現在、猛威を振るっていて、日本でも、既に、その被害が拡大しているそうである。新種のSARSも、中近東で、出現したそうであるが、このスーパー南京虫といい、人間の創り出した殺虫剤にやられながらも、生き残った種族が、再び、繁殖した結果、大多数が神経ガスに耐性の新たなスーパー南京虫が出現したと、何とも、皮肉なイタチごっこである。ゴキブリも、蚊や蝿も、その他の害虫たちも、遅かれ早かれ、神経ガスに、耐性を有する新種の亜種が、出現するのであろうか?天敵の活用も研究されているらしいが、天敵がいないような害虫に対しては、どうしたらよいのであろうか?温暖化による蚊を媒介にしたデング熱の北上や、背赤ゴケグモといい、進化した新種のノロ・ウィルスといい、人類は、原子力や核の制御技術も大切であるが、それだけではなく、日常の身近な脅威の研究・対策を何とか講じてもらいものであるとも、思わざるを得ない。昆虫の遺伝子の研究も、仕分けの対象にすら、なっていなかったのであれば、幸いであるが、、、、、、、、。現代のファーブルは、何処かに、いるのであろうか?