小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

パソコン周りの断・捨・離が、強制代執行される:

2014年12月31日 | 社会戯評
パソコン周りの断・捨・離が、強制代執行される:
美意識というものは、大変厄介なもので、ある種の人間にとっては、何の変哲もない、雑然とは、多少しているものの、何処に何があるのかを熟知していると思われているので、全く、汚いとは、気に掛けないものである。しかしながら、それは、きれい好きという主婦の眼から眺められると、とりわけ、年末になっても一向に、掃除もしなければ、新年に向かって、間違いなく、キャリー・オーバーされることが、確実な状況になると、それは、甚だしく、美意識において、大いなる対立に転化するものである。従って、こういう状況下では、圧倒的に、権力と武力を保有する主婦の方が、間違いなく、勝つものであることは、明々白々である。従って、撤去期限の猶予も糞もなく、突然、前触れもなく、雑巾と大きなゴミ袋が、寄ってきて、強制執行の趣旨書を読み上げることなく、有無を言わせずに、断・捨・離の強制大執行の開始である。いやはや、出るは出るは、次から次へと、今や屑と化したレシートの山、それも、2011年頃のものや、美術館の半券、ご丁寧にきちんと取っておいたパンフレットの山、反省のためにと後生大事に取っておいた屈辱のスコアがしたためられたゴルフのスコア・カード、捜しても捜しても出てこなかった切手のシートと葉書、等…、いやはや、恐れ入りました。圧倒的に、広いスペースが、突然、顔を出してきました。それにしても、後片付けが、出来ないで、ゴミ屋敷と化する人が増えているそうですが、少なくとも、自分は、違っているという自負も、若干、揺るぎそうになります。決して、後片付けがヘタなのではなく、ものを保管しておく美意識が、一寸、異なるだけなのであると、、、、、、、、。そう思いながらも、断・捨・離の強制大執行は、恙なく、主婦権力側の圧倒的な強さの下、駄目亭主のパソコン周りは、跡形もなく、綺麗になってしまいました。はてさて、これが、いつの頃まで、保てるのでしょうか?この性懲りもない駄目亭主の考え方は、死ぬまで、直ることはないでしょうかねぇ!

雪景色を見ながらの朝食と温泉:

2014年12月30日 | 自然・植物・昆虫
雪景色を見ながらの朝食と温泉:
年末年始を小諸の里山で、過ごすことに毎年しているが、今年は、12月初めには、既に、所用で東京に戻っていたので、約一ヶ月ぶりのことである。今年は、一寸、寒いから、雪のほうも、先日には、約15センチ程積もって、早くも除雪車の出動となったそうである。今年は、この分だと、年末から年始に掛けて、久しぶりに、雪景色が愉しめるかも知れない。昨晩からの雨のせいで、夜には、みぞれに変わり、翌朝には、窓のシャッターを開けてみれば、うっすらと、雪化粧をしていた。雪化粧の景色を眺めながらの朝食とは、なかなか、趣きがあって宜しいではないか?すっかり、向日葵の種がなくなってしまった野鳥の餌台にも、久しぶりに、向日葵の種を入れて上げることにしよう。外気温は、ほぼ、零下である。道には、車の轍の跡が、くっきりと、ついている。久しぶりの温泉詣でである。坂道を慎重に滑らぬように、運転しながら、近くの温泉施設へ向かう。フジや王林のりんごが、一寸熱めのお湯にプカリと浮かんでいる。近くで香りを嗅ぐと、如何にも、りんごらしい香りがする。少々熱めのお湯だから、半身浴で、じっくりと下半身や脚の指先を中心に、じっくり、温めて、味わうことにする。残念乍ら、露天風呂は、ガスっていたために、外の景色は、愉しめなかったのは、残念である。久しぶりの雪景色を観ながらの朝食と温泉は、一寸、ゆとりを感じる非日常の風景なのかも知れない。たまには、こんな経験も宜しいのではないだろうか?次は、雪見酒と洒落たいところである。

カセット・テープで聴き直す「小椋佳」:

2014年12月28日 | 映画・テレビ批評
カセット・テープで聴き直す「小椋佳」:
NHKの生前葬コンサート・ダイジェスト版を観て、ふと、昔のカセット・テープを聴き直してみた。胃癌の手術をしてから、体力・気力の衰えを感じて、4日間に亘って、毎日25曲、合計100曲を香典返しのつもりで、歌うというものだそうである。むろん、50分ほどのダイジェスト版であるから、曲は限られているのであるが、昔の映像を交えながら、その当時を想い起こさせるのには、充分である。聴衆も、同じ時間を共有して、一緒に生きてきた似たような世代が、中心であろう事は、容易に想像に難くない。唄というものは、実に面白いモノで、一度聴いて、その心に響いたものは、何年、経っても、その往事にタイム・スリップさせてしまうものであろうか?遊びで、絵を描いていたときに、個々人の作風・画風というものは、変わらないことが、何かの拍子に分かり、ふと、一体、作風や画風というものは、どのように変わるモノなのか、それとも、意図的に、変えられるものなのであろうか、それとも、無意識に、変わってしまうモノなのか?興味深いところである。それと同様に、歌手というものも、唄を作曲したり、作詞するときにも、年齢やキャリアを重ねるにつれて、商品ライフサイクルではないが、テイク・オフや、絶頂期や衰退期があるのであろうか?体力や気力の衰えと共に、やはり、歌手というものも、その範疇の一員であることに変わりはないのであろうか?そうすると、人生というものも、そういうものなのであろうか?松任谷由実よりも、やはり、荒井由実が、ユーミンと呼ばれる前の荒井由実が、おおいに、宜しいという風に、「小椋佳」も、やはり、初期作品、とりわけ、70年代の作品が、我々、団塊の世代には、同じ頃、社会に出て、同じように、組織の歯車の中で、懸命になって、馬車馬の如く、競争の中で揉まれ、学生時代とは違った、社会の価値観の変化や矛盾の中で、葛藤したあの時代を共に、生き抜いたこの古希を迎えた老人歌手とどこかで、その姿を重ね合わせているのかも知れない。「さらば青春」、「しおさいの詩」、「少しは私に愛を下さい」、「屋根のない車」、「残された憧憬」、「落書き」、「糸杉のある風景」、「野ざらしの駐車場」、「白い一日」、「花化粧」、「木戸を開けて」、「春の雨はやさしいはずなのに」、「盆がえり」、「シクラメンのかほり」、「時」、「心のひだ」等…、時間とか、少年とか、少女とか、母とか、恋とか、ありふれた日常にある風景、駐車場でも、糸杉でも、海でも、言葉を大切にして、そこに無限の想像力を吹き込むことにより、譜面が読めなくても、テープに、曲を口ずさんで録音すれば、それをプロが、楽譜に、音楽的に、変換してくれ、この作業の中で、銀行員でありながらも、可能になったのであろうか?その意味では、フォークソングの世界というものは、やはり、唄を一部のプロの特権的な作曲家や作詞家から、ある種、「独占を解放した」といっても、過言ではないのかも知れない。初期作品には、お馴染みの星勝氏も、今では、三原綱木同様に、タクトを振っているのをみると、その風貌も、昔とは、様変わりだったのにも、驚かざるを得ない。もっとも、小椋佳然り、聴く側の我々、聴衆も、然りで、既に、同じように、40数余年の時間を共有しているのであるから、同じように、頭の毛も薄くなろうというものである。美空ひばりを聴いていたら、「愛燦燦」だけでなくて、密かに、ファンの中で評価が高い「函館山」という楽曲も、作詞・作曲を小椋佳がしていたとは、何とも、興味深いことである。旧いカセット・テープで、聴き直す「小椋佳」は、飽くまでも、70年代前半の小椋佳そのものだった。井上揚水の「白い一日」も、宜しいが、小椋佳のそれも、作詞の観点から、聴くに充分、価しよう。長い間、銀行印と歌手・作詞家・作曲家として、ご苦労様でしたといいたいものです。

誰でも映像が作れるという時代:

2014年12月27日 | 映画・テレビ批評
誰でも映像が作れるという時代:
何でも、携帯のビデオで撮影した画像を簡単に、スマホなどで、ユーチューブなどへアップ出来るそうである。昔は、映像を作ると云うことは、そんなに容易いことではなかったけれども、それでも、愛好家は、8ミリ撮影機か何かで、自作自演の短編映画を作っていたことを思いおこす。それを考えてみると、随分と隔世の感があるものである。未来の映画監督は、きっと、自分で、小さい時から、作品を簡単に、作れて、しかも、発表出来る場に、おおいに、恵まれるのであろうか?作品の構成と役者と、或いは、映像の加工なども、今や、PCソフトでもって、簡単に編集も出来ることを考えると、プロの映画人達もウカウカしてはいられないかも知れない。世の中は、だんだん、こうした誰でも、平等に、作品を作れ、発表の機会に恵まれ、誰でもが、評論でき、誰でもが、甲乙を簡単につけられる時代になってしまったのかも知れない。それが、果たして、良いことなのか、どうかは、何とも皆目わからぬ。逆に、出来なかったからこそ、一生懸命に、努力して、勉強したり、工夫したりして、作品が出来上がったときの芸術的な喜びも、一塩だったのかも知れないが、それが、今や、簡単に、出来上がってしまうとなると、有り難みも浮かばぬことになる怖れも無きにしも非ずではないだろうか?大きなスケールでの大作も、初めは、ちっぽけな映像の中から、次第に、洗練されて、育てられながら、作られてゆく過程が楽しめたものが、初めから、何事も簡単に、マニュアル本ではないが、いきなり、ロボットの機械化ソフトのように、あっけなく、80点以上のレベルに作品が達してしまうのでは、何とも味気ないものである。評判になった映像作品が、或いは、新進気鋭の監督が、成長して、今後、どのような作品に結実して、化けてゆくのかをじっくり、観たいものである。そんなアッと言わせるような映像作品が、CMでも、映画でもドキュメンタリーでも、期待したいところである。

世界の似而非和食文化・演歌を退治する!:

2014年12月26日 | 映画・テレビ批評
世界の似而非和食文化・演歌を退治する!:
世界にはびこる似而非日本文化をドッキリ企画で、その本来の神髄を思い知らせるという企画の番組である。成る程、アメリカ西部の鮨屋やエチオピアの演歌ショウという題材もなかなか、面白い嗜好である。余りにもひどいライセンス料も支払わないような紛い品は、別にしても、文化というもの自体は、そもそも、模倣から、始まるわけで、その模倣自体や、学ぼうとする意欲は、歴史的に観ても、日本人は、その文化的なルーツを否定は知れない矛盾を有するものであろう。そういう観点から見ていると、なかなか、興味深く、面白いものである。ラーメン等という食文化にしても、元々は、東南アジアや中国の麺の文化を深化(?)或いは、進化(?)させたものなのであろうか?いずれにせよ、どこか、極限まで、麺も、汁も、具材も、日本なりに、アレンジして行き着いた果てが、今日の究極のラーメン食文化であると考えると、オーセンティックな鮨は、鮨で、結構ではあるものの、無論、オーセンティックな本物を否定する気はサラサラないが、それはそれで、純粋培養のようなもので、歌舞伎の型のようなもので、その技術とか、神髄は、継承・保存されなければならない必要性は、充分認識されよう。それにしても、何らかの形で、動機は、不純であっても、それが、仮に、よしんば、金儲けを目的にしたとしても、ある時点から、オーセンティックなものを示しさえすれば、如何に、その鮨が、似て非なるものなのかは、了解されよう。もっとも、江戸時代にそのルーツを辿る立ち食いの前浜の鮨にしても、天ぷらにしても、元来は、ファースト・フード屋台的なものであったことも忘れてはならないであろう。その意味からすれば、包丁による飾りアートにしても、中華料理の飾り切りや飾り盛りに、同じルーツを辿ると云えば、云えないことはないであろう。それはさておいても、確かに、国勢的なグローバルの基準ではないが、最低限の条件を、或いは、基準をクリアしてこそ、グローバルに、食文化は拡がるものなのかも知れない。その意味からすれば、和食というものは、危険危惧種的なものであり、その普及どころか、存在自体が、危険な水準に陥っているのかも知れない。ましてや、この番組でも紹介されたエチオピアの演歌ショーなどは、元々のエチオピア民謡歌手が、そのメロディー・ラインが類似していることから、番組の中の説明では、北島三郎の祭りや与作を歌い始めたものらしい。もっとも、歌詞を全く理解せずに、「演歌はノリである」というだけで、理解していたのは、確かに、天誅に価するのかも知れないが、、、、、。更には、現地では著名な怪しげな音楽プロデューサーも、20余年アメリカに住んでいた経歴から、演歌を聴いたというものであったのには驚くが、確かに、最近でこそ、外国人による演歌歌手やら、上手に、日本語を日本人以上に歌いこなす外国人も出てきているのであるから、無理からぬ事なのであろうか?考えてみれば、漫画であれ、コスプレであれ、演歌であれ、似而非鮨であれ、導入部は、どんな形であれ、まずは、日本文化、食文化、柔道・空手などから、日本自体への理解が始まれば、とりわけ、子供の頃から、日本文化に接する機会が少しでもあれば、エチオピアだろうが、砂漠の果てであろうと、宜しいのではないだろうか?もともと、日本人は、初めは、物真似で、始めて、これを文化的に或いは、哲学的に、深化・進化させて体系化させていったわけであるから、これは、これで、まずは、良しとしようではないか、むしろ、こちら側の方が、世界に対する文化的な情報発信が下手だったのではないだろうか?そう思えば、これからの彼らの精進こそ、おおいに、楽しみである。むしろ、あるべき姿に導くのも宜しいが、私は、もっと、別の形で、カリフォルニア・ロールではないが、どんな世界的な進化が、これから、将来、観られるのか、観てみたいものである。そんな期待をしたいものである。例えば、フレンチ・クジーンと鮨との融合とか、エチオピア版の与作とか、もっとも、現地に、木こりが居るかは分からぬが、、、、、、現地の祭りとか、新しいバージョンが創り出されるとか、そうした手伝いをすることで、新たな刺激も出てくると考えれば、演歌も、おおいに、世界を舞台に、飛躍できる可能性が、大きいと考えるが、そういうことを構想する若い音楽プロデューサーは、日本には、出てこないのであろうか?ユーチューブを外国の人は、結構観ているのであれば、これを逆利用して、やってみたら、おおいに、ビジネス・チャンスがあるのではなかろうか?今や、小さな日本だけに拘らず、発想の転換で、事に当たらなければ、萎縮する一方ではなかろうかとも思うが、、、、、、。将来は、海外の人だけに向けた、専門の演歌チャネルというものがあってもよいし、年末には、紅白歌合戦を各国の国際放送を通じて、ネット配信で、観られても良いのではないだろうか?そんな企画が出てこないだろうか?演歌も、これからは、ENKAの時代かも知れない。

菅原文太までもが、、、、、、、:

2014年12月25日 | 動物・ペット
菅原文太までもが、、、、、、、:
どうやら、投稿が、うまく反映されていなかったようでしたので、一寸、遅れて、投稿することにします。高倉健が、昭和初期の任侠の「静」の裏美学とすれば、菅原のそれは、戦後混乱期の現代暴力団のという「動」の表の実録版とでも云えるものだったのかも知れません。2人とも、若い頃には、顔立ちが端正で、ニューフェースやモデルであったことは、誠に、その後の俳優人生を思うと皮肉であるが、人生とは、所詮、そんな皮肉なものなのかも知れません。住まいも、隣に、小学生の同級生が住んでいたこともあって、同じ町の住人としての親近感はあったものの、映画の方は、残念乍ら、既に、こちらは、社会に出てしまっていたので、健さんの頃の映画と違って、映画館で観たという記憶がありません。こちらは、せいぜいが、TVでの放映くらいである。従って、どうも、記憶の中に、インパクトがないのが、残念であります。役者としては、インテリなのに、その風貌からか、やたらと、広島弁が印象に残ります。もっとも、それは、身近な友人が、広島出身者だったからか、広島弁に親しみを感じていたものだったのかも知れません。後年、故郷の仙台が震災で被害を出したことから、原発問題や、農業、とりわけ自然農法、或いは、政治・平和へのこだわりから、沖縄基地問題や反戦政治活動へも積極的な関わりを持ったのも、現役の頃の暴力団、山口組との付き合いで問題を起こしたことと相殺されても宜しいのではないだろうか、裏世界の実録ものは、今日、全く、影を潜めてしまったものでありますが、今や、映画界も、そんなドロドロした粘っこい情念の塊のようなものは、影をすっかり、潜めてしまったものであります。そして、俳優も、様変わりしてしまったような気がするのは、私一人だけでありましょうか?おおいに、残念であります。遺作になってしまった「ブラック・レイン」で現代ヤクザを好演した松田優作も、刑事役だった高倉健も、考えてみれば、戦後混乱期の暴力団を演じた菅原の演じたやくざ達も、その後、演じられることも無くなったようであります。せいぜいが、北野たけしによる「アウトレイジ」くらいでしょうか?そういう俳優が又一人銀幕の中へと消え去ってゆくことは、淋しい限りであります。今の醤油顔の端整な顔立ちの若い役者に、是非、挑戦して貰いたいところであります。観る側の観客も同様に、そんなドロドロした剥き出しの暴力や人殺しは、受けなくなりつつあるのでしょうか?

年末恒例の高枝切りを行う:

2014年12月24日 | 自然・植物・昆虫
年末恒例の高枝切りを行う:
といっても、ブロック塀に、梯子を掛けて、高い枝を払うのは、女房殿の役目と決まっていて、自分は、カットされた枝を受け取る係であるが、、、、、、、今や、、、、、。それを小さく、細かな枝に、再カットして、袋詰めに供するだけのことである。それにしても、爆弾低気圧のせいもあったのだろうか、悉く、強い風雨に曝されて大半の樹の葉は、落葉してしまっていたので、後は、枝を払うだけの話である。花桃のほうは、随分と毎年、毎年、カットしても、すぐに伸びて、今年は、二階の窓の高さを越すような勢いである。来春の開花後には、強剪定する時期を迎えているのかも知れない。年中行事とは云え、今年は、だんだん、作業も遅めになってしまった。例年は、12月初めには、作業終了するところであったが、歳のせいだろうか、遅れ遅れになっているような気がしてならない。庭師にでも頼めば、簡単なのであるが、実際、家の前を何人もの庭師が、これまでも、女房殿に、声を掛けているらしいが、その都度、我が家は、自分でやると言い張って鄭重にお断りしていることにしている。もっとも、それも後何年くらい持つだろうか?年々、樹は生長して、大きく、太くなり、落葉する量も半端ではない。都会では、アスファルトに落ちる落ち葉ほど、厄介なモノはない。とりわけ、雨の後の濡れ落ち葉ほど、厄介なモノはない。半ば、自分自身も「濡れ落ち葉」同然だから、簡単に、非難できうる立場でもないのが、辛いところである。何とも、情けない話である。結婚以来、長い間、よくも続けてきたものである。後10年くらいは、続けられるであろうか?横に寄り添うように植えられている白木蓮の樹も、大きくなって、春を待ち焦がれてか、蕾を一杯つけている。やがて、3月末頃には、真っ先に、白い花を春に先駆けて咲かせてくれる。冬来たりなば、春遠からじであろうか?年末恒例の高枝きりも、これで、一段落である。

50年ぶりに再び観る、「アラビアのローレンス」:

2014年12月23日 | 映画・テレビ批評
50年ぶりに再び観る、「アラビアのローレンス」:
新宿ミラノ座のさよならラスト記念上映である。1963年の上映であるから、もう、50年も前の話である。確か、父と一緒に、この映画が観たいと云って連れて行って貰った記憶がある。LPレコードのサウンド・トラック盤を購入したり、岩波新書で出版された同名の本や、原作の「知恵の七柱」(東洋文庫)をむさぼり読んだ覚えがある。初めてのアラブとの出逢いだったような気がしてならない。漠然とした砂漠への思いが、この映画に流れる、時には勇壮な、時に、もの悲しい音楽と、美しい風景・映像美と流血ですら何もなかったかの如く、すべてを吸い込んでしまう砂漠の恐ろしさ、そして、政治的な「イギリスの三枚舌」外交とアラブの部族対立の狭間で、空しく散っていったローレンスの目指したアラブの大義の蹉跌が、当時の少年の私の心には、焼き付いたものである。改めて、50年という時間を超えて、ノー・カット完全版という映画を夫婦で鑑賞しても、全く、この映画は、色褪せないほど、現代的な課題を我々に今日でも、突きつけてくるものである。公開された1963年というこの時期は、今、振り返ってみれば、ナセルによるスエズ運河の国有化の後で、BPの石油利権が大きく揺らぎ、しかも、第二次・三次・四次中東戦争の狭間で、パレスチナの問題が、本格化する頃である。考えてみれば、その50年程前での出来事であったわけである。サイクス・ピコ秘密協定に伴う英仏両国によるアラブ・オスマン帝国の分割、或いは、英仏によるパレスチナの共同統治や、フサイン・マクマホン協定なるものによって、或いは、バルフォア宣言というオスマン帝国からの一定のアラブによる独立保証という矛盾した内容に反して、ローレンスの汎アラブの大義などは、全く、政治的に、「邪魔な存在」に転化してしまうわけで、おまけに、英軍内部でのアラブ支援の在り方に於ける内部対立にも翻弄された結果、所謂、英軍によるトルコ・オスマン帝国への後方攪乱作戦は、アカバ湾の陸路による奇襲成功や、北部戦線、シリア・パレスチナ、最終的には、ダマスカスへの反転進攻も、一足先に、入城を果たして、アラブ国民会議を発足させたにも拘わらず、部族間同士の対立に伴い、遂には、瓦解に至り、失意の内に、エンディングを映画は、迎えることになる。それは、確かに、映画の冒頭で、疾走するバイクで、事故死してしまうローレンスの姿を暗示されたが如きものであり、又、ラクダに乗りながら帰るアラブ部族を横目に、ロールスロイスが、あたかも、英軍の勝利の象徴でもあり、又、その車を、砂煙を上げながら、追い越してゆくオートバイに、何か、彼の象徴的な立場を浮かび上がらせるような演出でもあり、冒頭のオートバイによる事故死とも重なり合う。今日的に観ても、この映画は、無駄に虐殺されるオスマン帝国の敗走兵達には、恐らく、クルド人兵士達が、混じっていたことは確かであり、砂漠の中に、敷設されたビジャール鉄道なども、彼らの手によって、砂漠の中に、同じ遊牧民のノウハウを利用されて、工事が完工されたであろう事は、容易に、想像出来よう。そう思うと、アラブの部族対立、当時の国民会議での対立、統治能力の無さ、その後の1932年のサウジアラビアの成立とか、パレスチナへのその後のユダヤ人の入植問題など、北の後ろに控えるロシア帝国、オスマン帝国、クルド人、パレスチナ問題、むき出しの植民地主義と帝国主義の本性が、この映画の敢えて残酷な戦闘シーンを、ノー・カット完全版という形で、見せつけていたのには、訳がありそうである。初めの部分で、或いは、インターミッションで、勇壮なモーリス・ジャールによる音楽だけが流れたのも、充分聴くだけの価値はある。映画は、やはり、大きな劇場で、画面の後ろから流れてくるサウンドを、身体で受け止めながら、想像力を膨らませながら鑑賞するのも、実に必要不可欠なものであろう。それにしても、この映画は、台詞に、数々の意味深長な言葉が多くて、脚本やデイビット・リーン監督の思いが、込められていて、実に、面白い。いつの時代も、若者が表舞台に立って闘い、その後の処理は、老人達がそのシナリオ通りに処理するのであろうか?人生も、そんなものなのであろうか?自分がこの世に、生を受けて出てくるほんの10数年前に、ローレンスは、事故死してしまったのである。そう考えると、今日的な中東の問題は、依然として、解決されていないとは、全くの驚きである。何故か、日露戦争時の明石元二郎参謀や満州事変の石原莞爾参謀をも、想い起こしてしまった。現代には、こうした情報将校なり、インテリジェンスの裏方役は、日本にはいるのであろうか?それにしても、4時間余りの大作は、体力勝負である。疲れましたが、、、、、実に映画観賞は楽しいものであります。

台北、故旧博物館に遊ぶ:

2014年12月21日 | 旅行
台北、故旧博物館に遊ぶ:
何せ、超駆け足旅行だから、朝早くから、毎日、日程がびっしりである。いつ頃、訪問したのかも、歳をとると、想い出せない、いすれにせよ、出張の合間に、見学したのであることに間違いないから、もう、40年以上も前の話だろうか、正面玄関2階での記念撮影の時に、確か、この風景は、、、、、と想い出した程度である。北京の故旧博物館も観た記憶があるが、やたら、広いだけで、嫌と云うほど、歩かされたことを想い出す。今回は、先日、日本でも公開された故旧博物館の秘宝である翡翠の「白菜」や象牙細工の何層にも手彫りされたものを、取りあえず、観ることが出来ればまずは、由としようかという程度のものである。それにしても、凄まじい込み方である。中国本土からの中国人団体客の数の多さといい、まずは、ガイドの劉さんの案内に併せた周波数の確認と、旗を目印にして、いよいよ出陣である。何でも、相当混み合うので、見学にもコツが必要だそうである。総勢、こちらも、40数名弱であるから、司令塔の劉さんの掛け声の下で、目指すところの秘宝を、まるで、運動会の紅白の玉入れのような要領で、すいている隙に、全員で、これを円陣のように取り囲み、説明を聞きながら、時計回りに、ぐるっと、廻りながら、一周して、正面から、裏側から、側面からとゆっくりと眺め廻るのだそうである。そうすると、中国人団体客も、流石に、割り込めないのだそうである。従って、展示品を、順番に、観る必要は全くないそうである。見れるものから、初めに見て、空いている機を見て、サッと、戻ってみるのだそうであります。成る程、このフォーメーションは、なかなか、効果的、実戦向きでありました。お陰様で、翡翠に浮き出て彫刻されたキリギリスもイナゴの姿も、或いは、派の白さも、充分堪能出来ました。又、豚肉の煮物のように、思える石の彫刻も、その彩色技術つと豚肉の皮に彫られたまるで毛穴のような紋様も、ハッキリと確認出来ました。なかなか、これ又、素晴らしい作品であります。更には、一本の象牙を何層にも、手彫りされた球の中に、又球があるように見える微細な象牙細工もしっかりと、観察できました。これだけの3点の秘宝だけでも、充分、観るだけの価値はあったかと思われます。それにしても、七宝焼きとか、小物入れとか、どれをとっても、当時の職人の技術の高さには、舌を巻くばかりであります。ルーブル美術館や大英博物館の絵画や、古代遺物にも、圧倒されましたが、こうした故旧博物館などの展示物を観ていると、その数の多さ、バラエティーの広さに、圧倒されてしまい、この次に来たとしても、同じ展示品が放られるかどうかは、宛になら無いものがあります。まさに、作品との対峙もまるで、「一期一会」のようなモノかも知れませんネ。その国の文化を、こういう芸術品や美術品などを通じて、体感することは、とても、その国やそこに暮らした人々の暮らしを理解する上で、大切であると云う事が改めて、分かります。今度は、未だ行ったことのない、イタリアとスペインにでも、ゆきたいものでありますが、何せ、長旅なので、いつ実現するのかどうか、分かりません。料理と美術鑑賞ができたらいいのになぁと思わずにはいられません。

歴史認識形成というものを考える:

2014年12月20日 | 社会戯評
歴史認識形成というものを考える:
私の海外の友人達、とりわけ、アジア圏の人達は、概して、仕事を通じてのためだろうか、概して、対日感情が、好意的である。それは、韓国でもそうであったし、中国でも、ましてや、ベトナム、タイ、ミャンマー、台湾、インドネシア、印度などでも、である。もっとも、それは、仕事で、恩恵を被っているのであるから、当然、対日感情も宜しいと云うことであるのかもしれないのであるが、、、、、、、という括弧付きではある。それを差し引いても、何故、どのようにして、歴史認識なる言葉が、作為的に、創り出されてきたのであろうか?観光というものは、面白いもので、現地の人々の日常生活や文化を、ある程度、垣間見られるという文化的な理解の導入部であることに変わりはない。その延長戦上には、広い意味での「草の根の民間交流」や、もっと、広い意味では、「民間外交」とも呼べるような極めて、重要なソフト・パワーが、含まれているような気がしてならない。食べるもの、着るもの、道具でも、踊りでも、音楽でも、住まいでも、何もかもが、その民俗・民族を理解する糧になるのかも知れない。それが引いては、歴史を学び、その民族の所作・振る舞いにも、おおいに、影響を及ぼしていることが容易に理解されよう、朝食の食事の時の本土からきた中国人達も、我先に、大量に並んでいる食べ物を取ったり、割り込みをしたり、それでも、お先きにどうぞと、悠然と譲ってやると、気恥ずかしそうに、自分の非礼をわびる素振りを垣間見せるのは、興味深いものである。事ほど左様に、海外旅行とは、その民族の習性や行動様式があからさまにみられて、大変面白いと同時に、そこには、ある種、鏡のように、自分の姿を映し出させる作用も有するようである。それは、歴史認識でも同じであって、どんなに、自国内で、すり込まれたとしても、まるで、幕末の攘夷の獅子たちが、アメリカやイギリスに行ってはじめて、その排外主義的な考え方を改めたのと同じである。どんどん、海外の若い人達に、フルブライト留学制度ではないが、海外留学でも海外修学旅行でも何でも良いから、日本へ来て貰えれば、或いは、こちらからも出掛けていってしまえば、歴史認識の相違などと云うものは、いとも簡単に、氷結してしまうかも知れない。台湾やベトナムの歴史認識と随分と、韓国や中国のそれは、おおいに異なるのも事実ではあろうが、私には、旧い海外の友人達に対しても、歴史認識の議論も、おおいにすべきであると考えているし、未来志向、もう、既に、我々の大ではなくて、次世代、次々世代へと待ったなしに進んで行っているのも確かではあろう。そういことが、無用な民族排外主義や、ヘイト・スピーチに、唯一、対抗しうる術ではないかと確信している。この駆け足の旅行から、改めて、学べました。

台南、「赤篏楼、延平郡王祠」にて、鄭成功を偲ぶ:

2014年12月19日 | 旅行
台南、「赤篏楼、延平郡王祠」にて、鄭成功を偲ぶ:
台湾の歴史というものは、なかなか、面白いものである。元々、17世紀頃には、北部をスペインが、南部をオランダ人が統治していたのであるが、これを、オランダ人が、スペインを駆逐する形で、統治していたものを、明朝の滅亡と清の勃興に伴い、ある種の反清朝との内戦に伴い、「鄭成功」が、台湾の台南をオランダ人から制圧して、台湾全土の統一に成功するという、謂わば、蒋介石の国民党による大陸反攻思想とそっくりの構図が、17世紀の半ばには、繰り広げられたわけである。もっとも、鄭成功なる人物の名前くらいは、歴史書の中で、耳の残ってはいたものの、その人物の母が、田川松という日本人で、おまけに、長崎の平戸で生まれたとは、更に、国姓を賜った大身という意味から、その俗称の「国姓爺」という名前から、後の世に、近松門左衛門によって、人形浄瑠璃化されて、18世紀初頭には、大ヒットしたという事実までは、知らなかった。それにしても、彼を日本と台湾の融合の典型的な事例として日本統治に意図的に利用(?)したかどうかは分からぬが、蒋介石にしても、日本にとっても、互いに、ある種の都合が良かったことは、間違いない。ご都合主義によるそんな政治的な利用や血筋や血脈とは別にして、台湾の人々は、台湾統一の始祖として、今でも、大切に、祀っていることのほうが興味深い。赤篏楼の中に、小さな資料であるが、細かな文字で、ぎっしり書かれた「科挙」の書物があったが、こんな小さな文字をまだ、コピー機も無い時代に、どのようにして、勉強でもしたのだろうか?古くは、隋の時代から、唐の時代、宋の時代、更には、20世紀初頭の清朝期末まで、連綿として、士太夫の創出の為に、元来は、世襲制とは別に、優秀な人材を集めるために、出来た制度が、逆に、教育の近代化を遅らせてしまう元凶になるとは、誠に皮肉なことである。更には、試験制度にまつわる様々な逸話や、経済的な理由から途中で断念するなど、一族を上げて、一身に期待を背負って受験したにも拘わらず、失敗する者など、今日でも、中国や韓国等にみられる、或いは、日本の幼児教育にも垣間見られるような熾烈な受験勉強にも、更には、太子党などの既得権益者子弟の派閥にもみられるような弊害を今日までも連綿と続いていることに驚かざるを得ない。私立の幼稚園に子供達を車で迎えに来ている親たちをバスの中からみていると、未だに、科挙の制度的な流れが、受け継がれているのかも知れないとも思わずにはいられない。それにしても、いつになったら、経済的な理由で断念したり、熾烈な試験という競争が、無くなるのであろうか?そう言えば、旧い台湾の友人は、子供達を、順番に、まずは、アメリカで、英語と経営学を学ばせてから、日本で、日本語学校に入学後、調理師学校で、料理の免許を取らせて、台湾に戻って、友人が経営する食品会社の工場に入社させて、一から、生産と販売・マーケティングを教育実習させたことを想い起こす。しかも、3人兄弟、すべてに、同じコースを歩ませて、今、中堅人ありつつある。これからの若い日本人は、大変である。こうした人達と海外市場で、競わなければならないのであるから、、、、、、、。我々の時には、教え立場で在ったが、私達の子供の代には、逆に、ひょっとすると、教わる立場に逆転するかも知れない。それ程、教育という制度は、使いようによっては、微妙なものである。次は、歴史認識について、触れてみることにしたい。

現地旅行ガイドに、日本の歴史を学ぶ:

2014年12月18日 | 旅行
現地旅行ガイドに、日本の歴史を学ぶ:
これまで、さんざん、出張してきたが、旅先でのグループ・ツアーに参加する以外に、団体ツアーに参加することはなかった。謂わば、初めての参加である。総勢40名弱である。ほとんどが、ほぼ同じ世代の参加者で、最大グループは、中国語を勉強している10名で、次は、姉弟の3人が、それぞれ、夫婦での参加で、後は、家族や結婚40年前後の同じ世代である。5日ばかりでの駆け足での台湾一周旅行である。それにしても、台湾の旅行ガイドの劉さんから、日本の歴史を改めて学ぼうとは、思わなかった。我々の世代は、戦後教育のせいなのか、台湾統治の両側面と云うよりもむしろ、どちらかと言えば、政治的な統治ばかりを指弾されて、台湾でのインフラ整備とか、文化に対して、日本人が、行ってきたことに対して、台湾の人々が、どのように、評価していたか等ということには、余り関心を払ってこなかったし、況んや、教科書で教えられることなどはなかったものである。とりわけ、親日家でもあった李登輝による、日本人先駆者への評価、例えば、台湾での水利事業に、貢献した「八田與一」等の話は、人名としては、何かの番組で、知ってはいたが、改めて、その業績と実際に、砂地だったところが、現在、水路が張り巡らされ、豊かな土地に変貌して、現地の人達から、感謝されていると云うことは、随分と、韓国の歴史認識に対する考え方とは、大きく異なるものであると云う事が、改めて、知られて、おおいに、興味深いものがある。又、タロコ(太魯閣)国立公園の道路も、鉄道網なども、先住民族文化の継承とか、改めて、中華民族とは、漢民族だけが、単一民族だけから成り立っていないことも、理解される。それにしても、観光地の行き先々で、本土で、政治的な弾圧を受けている「法輪功」による反中国共産党キャンペーンとウィグル族弾圧への抗議活動は、一体、どのように、中国人観光客の目に映ることであろうか?どんなに、本国で、情報遮断しても、これでは、必ず、何処かから、水がしみ込むように、人々の中へ、拡がってゆくことであろう。旅行というのは、教科書で学んだ日本史でも世界史でも、改めて、その歴史的な事実を、自分の目で、確認し、しかも、それが、今日の文化に、どんな影響を及ぼしているのかを肌身に感じるのも面白いものである。民俗史、文化史、音楽や、楽器や、踊りや、或いは、食文化、なかなか、興味は尽きないものである。そんなことを、色々と、現地の台湾旅行ガイドさんから、教えて貰う機会を得ようとは思わなかった。次は、文化に関して、考えてみることにしよう。

叔母を見舞う:

2014年12月09日 | 日記
叔母を見舞う:
もう、私くらいの年齢になると、叔母や叔父達も、それぞれ、もう、二人づつになってしまった。しかも、皆、80代、90代である。ある喪中葉書から、従兄弟の筋から、辿っていったところ、脳出血を三回繰り返して、右半身不随に陥り、幸運にも、自宅近くのナーシング・ホームに入居出来たそうである。早速、叔父に電話して、一緒に、お見舞いに伺う段取りとしたものである。二ヶ月ほどの短い期間であったが、関西での新入社員研修の時には、唯一、親戚の中で、枚方に、たまたま、住んでいた関係から、休日には、よく、自宅を訪問したものである。その時、ヤマガラをどういう訳か、自宅の居間の中で、自由に飛ばしていたのを今でも、小諸の野鳥の餌台に、ヤマガラが来る度に、懐かしく想い出す。山歩きが大好きであった叔母は、糖尿病を気遣って、食事や健康には、人一倍、注意をしていたのに、、、、、、皮肉にも、叔父より先に、倒れてしまった。叔父の言では、「冗談で、先に、倒れるなよ!」と散歩の度毎に、云っていたらしいが、思うようにならないのが、世の常のようである。楽しみにしていた孫達の結婚式にも、残念乍ら、出席叶わなかったものの、次の目標としては、曾孫を観なければならないという大きな目標が出来たようである。ニコニコ笑いながら、孫が買ってくれたおしゃべり人形に、言語障害が出ているにも拘わらず、一生懸命に、話しかけている姿をみていると、私の顔を認識しているものの、言葉に出して、発音しにくい名前らしく、最後まで、名前を呼ぶことは叶わなかった。まぁ、それでも、子供や妻からのメッセージを読み聞かせることが出来たし、元気そうな顔をみれたし、何よりも、残された叔父を励ますことが出来たことは、良かったのではないだろうか。ナーシング・ホームに、入居できたのも、良かったが、病院見舞いというものは、患者へのお見舞いもさることながら、ヘルパーさんや、その残された連れ合いや家族への労りとひょっとすると、見舞う側、こちら側の心の在り方も、同時に、問われているのかも知れない。胃ろう手術で、やっと、一命を取り留めた叔母も、次の目標である、曾孫の顔を見たいと思う心情、叔父によれば、自分も、罪滅ぼしのつもりで、毎日、様子を見に来ることくらいはしないといけないという責任感で、毎日、一日一日を過ごしているという。そういう思いも、年齢を考えれば、それ相応で、宜しいのではないだろうか?いずれ、人間だから、万人に、同じ途はやってくるわけだから、今から、しっかりと、その心情を準備しておいたほうが、良いのかも知れない。孫から貰ったというお喋り人形に向かって、一生懸命に口をモグモグさせながら、話しかけている姿を観ながら、ニコニコして、バイ・バイを残された不自由な左手でしてくれた。頑張って、療養に、励んで貰いたいものである。叔父と久しぶりに、夕食を共にして、車で、自宅まで送り届けたが、やはり、夜、一人になると、一緒に過ごした昔を想い出し、淋しくなるそうである。

BS、「桜田門外の変」を再び、観る:

2014年12月08日 | 映画・テレビ批評
BS、「桜田門外の変」を再び、観る:
吉村昭の丁寧な歴史的な追跡の本の映画化である。劇場で観た覚えがある。映画は兎に角、本の方は、読みこなすことが大変であったことを想い起こす。よくもあそこまで、資料を集めたものである。最近、浅田次郎の原作をもとにした映画、「柘榴坂の決闘」を観たが、こちらは、落ち延び、明治まで生き抜いた浪士の話であったが、それにしても、1860年のことであるから、明治維新まで、わずか、8年前のことである。大老、井伊直弼の歴史的な評価は、安政の大獄だけによって、頑迷な保守・封建主義者、歴史を逆廻しに遅らせた張本人という、狭小な見方と評価しか受けていないことは、おおいに、残念なことである。本当にそんな狭小な人物だけであったのであろうか?もっと、時代背景や、人物像、何故、吉村は、著作の中で、もっと、こちらの方へ、時間を割かなかったのであろうか?それとも、むしろ、水戸浪士達の詳細な逃亡とそれらを支えた人々、豪商や豪農達の支援と思想の方こそ、何故、重点が置かれたのであろうか?軍部独裁へと進む過程での2・26事件がターニング・ポイントになったように、明治維新前夜でも確かに、桜田門外の変による大老の暗殺は、同じように、ターニング・ポイントであったことは、間違いないであろうが、、、、、、、。それにしても、余りにも、多くの人の命が、空しく、潰え去ってしまったものである。加害者側のみならず、被害者側の警備の者達、足軽までもが、その親族や子々孫々の者達にも、容赦なく、歴史のむごい仕打ちが、加えられたことは、事実である。浪士を捕縛するために、追撃する元の部下や、同僚達は、一体その後、明治期をどのように生き抜いて行ったのであろうか?そして、その後の人生を、どのように生き延びたのであろうか?刑場の露と消えた者達は、志を遂げたのであるから宜しい(?)が、明治期まで、生き延びた浪士の一人や、その後、警察官として、明治の時代を生き抜いた者達は、どんな思いで、「桜田門外の変」を自分なりに総括したのであろうか?それにしても、20代の若者が、皆、自刃して果ててしまったのは、いくら、武士であったと云っても、複雑な思いがしてならない。これらの者達が、明治期を生き延びていたら、どんなその後の人生を歩んだことであろうか?映画には、残された子供達や妻達、家族が出てきても、決して、語られることはない。我々は、映画の外で、これらを想像しなければならない。きっと、どこかに、彼らは、曾祖母や、曾祖父である子孫が、生き抜いていたことだけは、想像に難くない。映画とは、原作を読んだときとは違って、別の想像力を掻き立てくれるものであり、又、それを見た時の自分の年齢や、或いは、再度、見直したときの状況にもよって、微妙にその印象も変わるものである。銀幕のむこうで演じられている俳優は、変わりないが、それを観るこちら側は、既に、過去の自分とは異なり、変化しているのである。思わず、自分も、10代後半や20代初めの頃の想いを振り返ると、複雑な思いに駆られる。仮に、歴史に、早すぎたとか、時期尚早とかと言う言葉があるのであれば、それは、飽くまでも、歴史という時間を如何にも現代から、都合良く、逆廻しに、遡って観た現代人が言うことであって、まさに、その中で、真っ只中で、その瞬間を生き抜き、行動していた者には、それを云うことは、酷であろう。我々が、学ぶべきとしたら、そうした瞬間に、自分ならば、どうしたら良いか、どうすべきであったかを、歴史のなかを生きた人物達に、問い詰められているということを、自覚することから始まるのかも知れない。曾祖父や曾祖母に、いずれは、自分たちも加わることになる以上、しっかりと、誇りを持って、胸を張って、あの時には、こうしたのであるとしっかりと、子孫には、云いたいものである。

喪中葉書に想う:

2014年12月06日 | 社会戯評
喪中葉書に想う:
11月末頃から、今年も又、喪中葉書が舞い込むようになってきた。今年は、少しく、事情が異なってきたようである。これまでは、両親が亡くなったりしていたものが、親に代わって、自分の兄弟等に、変わってきた。更には、子供や、連れ合いを喪うというものもある。年賀状などの孫の写真や、甥や姪っ子の子供達や赤ん坊の写真ならば、晴れがましく、賑やかではあるが、何とも、喪中葉書は、心が、心底、寂しくなるものである。今年も又、同い年の自分の海外での後任者だった者もが、食道癌の手術後、突然、癌が他に、転移して、異国の地で急逝してしまった。会社の元の上司が、「段々、歳とともに、同僚、友人達が、欠けてゆくのは寂しい限りである。」と云っていたが、ところてん式に、時は、一秒一秒と、知らぬ間に、しかし、着実に、死に向かって、押し出されながら、歩んでいることだけは、確かである。既に、80才を過ぎた頃から、年賀状も、失礼する旨の書状を事前に戴くこともあるが、喪中葉書を戴く頃が過ぎると、いよいよ、年末、そして、新しい年を迎えることになる訳である。それぞれの一年が、どんな人生で、そして、又、来年は、どんな事が待ち受けているのであろうか?床に入って、目をつぶる度に、明日という日が来るのか、それとも、このまま、目を閉じたままで、終わってしまうのか、闇の中で、ふと、考えてしまう今日この頃である。後、何通の喪中葉書が、今年は、来ることになるのであろうか?と、、、、、、。喪中葉書を見るたびに、エンディング・ノートや終活も、考えておかなければとは、思うものである。