小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

高橋まゆみ人形館にゆく;

2016年10月17日 | 伝統工芸・展示会

高橋まゆみ人形館にゆく;

飯山は、これまで、いつも、素通りしていたが、たまたま、戸狩温泉スキー場の民宿に行く途中で、初めて、高橋まゆみ人形博物館に、立ち寄ってみることにした。勝手に、年寄りの人形ばかりだから、その作者も又、年寄りだろうとくらいに、タカをくくっていたら、存外、作者は、若い作者であったこととに、少々、自分の不明を恥じ入ると共に、拍子抜けしてしまった。それにしても、紙粘土で、様々な情感を、とりわけ、老夫婦の関係性や、老母と娘の関係性、或いは、お爺さんと男子の孫や、チンドン屋や、寅さんや、お瞽女の集団や、兎に角、今や、化石と化してしまっているような『関係性と情景』が、小さな粘土細工の人形の中に、見事に、表されている。その表情の、或いは、その仕草だけでなくて、その皺の一筋一筋までもが、見事なまでに、表現されていることに、驚かされる。これは、もう、言葉自体が、必要では無い、只単に、国を超えて、民族を超えて、この芸術的な作品を観るだけの価値は、おおいにありそうである。魚釣りを一緒に、愉しむ情景、看護で、たまたまうたた寝をしてしまった娘を気遣う老婆の手のぬくもり、もう恐らく、80歳をゆうに超えてしまった老夫婦の愛情溢れる情景と仕草など、よくも、こんな情景を、その瞬間、瞬間を、見事に、切り取って、作品に、凝縮・昇華させてしまう技術力は、全く、驚くべきものがある。情景とか、仕草とかというものは、成る程、その一瞬を切り取ってみると、写真撮影とも繋がるような共通点があるのかも知れない。なんだか、既に亡くなってしまった両親や祖父母のことを、遠い昔の記憶の片隅を、想い起こすようで、なかなか、興味深い作品の数々である。又、新幹線から、外れてしまった寺町の佇まいも、今回は、ゆっくり観ることが叶わなかったが、こちらも、面白そうである。真っ赤な郵便ポストが、時間を超えるかの如く、銀座の柳の二世の下で、佇立していた。映画、『阿弥陀堂便り』のロケ地巡りと併せて、飯山という所も、小布施とは又、一味違った趣があるように思われる。次は、いつも、やはり、素通りしている須坂の藏街をゆっくりと、散歩でもしてみたいところである。

 

 


農民資料館を作ってみよう:

2016年06月18日 | 伝統工芸・展示会

農民資料館を作ってみよう:

玄関の前に、大きな凹を逆さにしたような門がある。その両側には、昔、漬け物用に使用された六畳ほどの部屋が一階にある。今では、物置小屋のように、様々なモノが詰まっている。たまたま、お父さんが、少し前に、農作業で使用されていた大きな鋤を、見つけてきて、見せてくれた。何でも、昔は、こんなモノで、人力や馬を使って、畑や田んぼを耕していたらしい、成る程、畑や田んぼになる以前には、元々、こんな山間部は、里山と、今日云われているものの、車も耕耘機やトラクターの無い時代には、人力で、唐松の林を、開墾して、今日、棚田などと云われているが、背に腹は替えられぬとばかりに、猫の額ほどの土地を必死になって、開墾して、新しい畑や田んぼにしたのであろうことは、容易に、想像がつく。そういう歴史とか、文化とか、暮らしに関する道具類は、今どうなってしまっているのであろうか?食育などと云う言葉も、農作業の体験なども、医食同源・食文化ばかりではなくて、暮らしの歴史や開拓の歴史なども、道具を通じて、理解して貰うことも、とりわけ、若い人や、子供達にも、おおいに必要なことかも知れない。例えば、この間、お父さんが、土蔵の中から、大きなノコギリを二つ持ってきたが、一つは、樹を切ることは、すぐに、判ったけれども、もう一つの歯の欠けたようなノコギリは、何でも、天然氷を切り出すモノであることを教えられた。そう言えば、子供の頃は、氷屋さんが、毎日、大きな氷を自宅で、切って、冷蔵庫に、運んでくれたモノであることを想いだした。そんな想い出も、60代以上の世代でないと、今日、もはや、実感されないのかも知れない。何も、郷土博物館の様な箱物の中で、展示されるのではなくて、身近な生活の中で、宿泊客に、無料で、見て貰えるような展示も、必要では無いかと感じ始める。地域の人達にも、応援して貰って、色々な古道具を集めて、保存展示してみたらどうだろうかと思い始めた。外国人観光客にも、英文で説明しみたら、どうだろうか?しかも、みるだけでなくて、実際、使用・体験してもらったら、先人の苦労を実感して、古い井戸を掘ってもらった人への敬愛の念も沸いてくるかも知れない。景観も、耕作放棄地も、長い期間に培われた歴史や努力も、一瞬にして、無に帰する可能性は否定しきれない。


竹細工の商品開発:

2016年06月17日 | 伝統工芸・展示会

竹細工の商品開発:

実証実験をしてみたところ、実に様々なことが判ってきた。竹藪対策として、筍と蕗の収穫と竹細工の製作、とりわけ、原材料がタダ同然だから、手間賃だけで、それも、年寄りが製作するから、ほぼ、コストが掛からないか?さすれば、100円ショップ感覚で、使い捨ての方が、長持ちなんかしてくれない方が、有難いかな?そう考えれば、値段も安くして、使って貰うことに力点を置こうか?使い捨て感覚?そうしたマーケティングの観点から、商品開発をしてみよう。例えば、イタリアンやフレンチの高級料理に、和の食器として、前菜やオードブル、パスタの小皿としてとか、イメージが、様々に、拡がってきた。少し、勉強してみるとするかな!具体的に、試作作りに入り、写真撮りをして、高級レストランのシェフに、使い捨て感覚で、使って貰うことも一つの手ではなかろうか?或いは、個人レストランでの差別化とか、、、、竹藪対策として、或いは、耕作放棄地対策への協賛とでも、銘打って、野菜と共に、付録か、おまけとして、つけても宜しいではないか?ひょっとして、喜ばれるかも知れない。あるいは、ネット販売の景品でも構わない。兎に角、資源は無限で、使ってくれなければ駄目で、長持ちは、敵であると謂う珍しい商品かも知れない。まさに、『逆転の発想』である。又、やらなければならないことが、ひとつ、増えてしまった。最近、ゆっくり、ブログを書いている時間がなくなってきた。

 


地元のコンテンツに考える:

2016年05月01日 | 伝統工芸・展示会

地元のコンテンツに考える:

何でも150年あまり前に建てられた農家の自宅で、女房殿と一緒に、夕食に招かれたので、先日の函館土産を携えて、お食事を呼ばれてきた。久しぶりの運転手付きだから、その日は、日本酒を一杯だけ、戴くことにした。成る程、冷や酒を頼んだから、お猪口かと思いきや、大きなコップに、つがれて、出されたが、何かの拍子に、お猪口と徳利の話になり、お母さんが、そんなものは、腐るほど、漆器と共に、裏の土蔵に、埃を被っていると云うではないか?そこで、台所の引き出しから、徐ろに、三つばかりを見せてくれた。なかなか、時代物風である。裏返して、よくよく、見れば、九谷焼と記されている。どうやら、江戸時代の代物でありそうである。話が、それで、盛り上がり、漆器のお膳の話になると、今度は、お祝い用の大きな膳や漆器、お皿のセット共に、古い大きな酒徳利までもが、運ばれてきた。いやはや、あるところには、眠っているものである。全く、明治期の美術品の価値を知らなかった日本人の如きである。何でも、好きな人は、遠慮なく、無断で、ポケットに、お猪口などは、持ち帰ってしまうような不届きな者が多いそうである。そんなこんなで、いつの間にやら、セットが、欠けてしまい、端数になってしまったそうである。全く、勿体ない話である!それにしても、観光のコンテンツというやつは、何処にでも、ひっそりと、眠っているものであることが、実感される。問題は、その価値を知り、どのように、活用するために、付加価値をつけるかと云うことなのであろう。考えてみれば、精進料理なども、所詮、安い野菜なのに、ストーリーを作り、作り方を説明し、食文化の歴史を、食器や漆器と共に、宣ってしまえば、『日本人は、舌で味わう前に、眼で、食べるのである!』などと、説明すれば、もうそれは、立派な文化的な付加価値が、つくことになるのである。誠に、勿体ない話である。これは、溜まらなく、面白くなりそうである。

 


根津美術館、『物語をえがく』展を観る:

2015年12月16日 | 伝統工芸・展示会

根津美術館、『物語をえがく』展を観る:

王朝文学から、お伽草紙まで、という副題の絵巻物を中心とする美術展である。一体、どれ程の人が、今日、本を読んでいるのであろうか?電車に乗れば、ほとんど、向かいに座っている人は、スマホをいじっているが、本を読んでいる人は実に少ない。幕末から、明治期に掛けて、学校を作って、教育を受ける機会の均等ということを目指したものであるが、一体、平安時代や、それ以前には、文字を読むということは、どれ程の人が出来たのであろうか、又、どのように、文化とは、創造され、或いは、継承されていったのであろうか?思わず、この展示会を観ながら、そう思わずにはいられない。絵巻物をみていると、確かに、当時の人々の様子や生活の様が、如実に実感されるが、文字だけでは、確かに、確認されないのかも知れない。その意味では、当時の絵の描き方というものも、絵画史の中では、重視されなければならないのかも知れない。又、それは、日本だけではなくて、アジアの歴史や西洋との文化史や絵画史として、正当に評価されなければならないのかも知れない。そういう比較文化史や絵画史という側面から、改めて、この絵巻物を眺めると、大変興味深いものがある。物語というものは、どうやら、書物としての存在よりも、絵巻物として、描かれていることで、その存在が、再発見されていることは、実に面白い。この伊勢物語などは、文献上では、源氏物語の中で、知られているものであるが、そこにおいては、既に、絵巻物として、登場する。もっとも、墨画淡彩故に、(墨を主体に淡く、描かれている以上)、現物の屏風絵や画帖は、残念乍ら、薄く霞んでいて、絵の解説が施されていないと、何の事やら、さっぱり、認識できないのも、事実である。それにしても、絵巻、冊子、色紙、懐紙、扇子、巻物、画帖、屏風、画巻、等のこれらが、やがて、大画面の襖、屏風へと、室町・江戸時代へと、技法や絵の具の発展と共に、近世へと進化して行くことになる訳である。この物語の描写では、『和歌のやり取りの情景描写』が、名場面として、描かれていたり、或いは、軍記物や仇討ちものや、お伽草紙などのストーリーともに、順に、その描かれた絵を目で追って、楽しむという手法は、現代の漫画のようでいて、面白い。西行物語絵巻・酒呑童子絵巻・曽我物語図屏風・平家物語画帖、等は、絵を目で追うだけでも、当時の人が、どのように観ていたのかを想像するだけでも、往事に、タイム・スリップしたみたいで、不思議な感覚に陥る。江戸時代、17世紀頃に、描かれたとおぼしき『源氏物語・浮舟図屏風』は、巨大な6曲1隻な屏風で、しかも、俵屋宗達にも、影響を及ぼしたであろうと思われる黄金色の金箔色に塗られた(もっとも、現物は、今日、くすんでしまって、その輝きを失ってしまっているが、)左下から、右上へ大胆に描かれた舟の中で、男女が、情交をかわす情景を、和歌で、描いているのは、何とも、印象的である。

『年経とも 変わらぬものか 橘の 小島の崎に 契る心は』

(何年経とうとも、変わりません、橘の小島の崎で約束する私の心は)

『橘の 小島の色は 変わらじを この浮舟ぞ 行方知られぬ』

(橘の小島の色は変わらないでも、この浮き舟のような私の身はどこへ行くのやら)

往事の人々は、この屏風図を眺めたときに、何を、一体、感じたのであろうか?想像するだけでも、興味深い。

美術館の日本庭園には、旧い石像が多数配置されていて、それが、茶室や池や樹木と実に、大都会の喧噪の中で、そこだけは、微妙な静寂と日本的な空間が織りなし、しし威しの音色だけが、初冬の温かな午後に、突然、コツンとこだましていた。展示物を見終わったら、庭園内のカフェで、一服しながら、庭園を散策するのも、これ又、一興であろう。12月23日(水・祝)まで開催予定、 


東京江戸博物館、「花燃ゆ」展を観る:

2015年07月25日 | 伝統工芸・展示会
東京江戸博物館、「花燃ゆ」展を観る:
様々な人々の生きた時代のグラフが、重なり合っていたり、途中で、途切れていたり、何とも、自分の人生も、よくよく、考えてみれば、所詮は、100年も生きられるわけではない。そう考えると、自分が生まれてから、死ぬまでのグラフの長さは、何処まで行っても、せいぜいが、この先、15年程度であろうか?人生、如何に、生きるべきかということも、この歴史上の人々の写真や手紙や資料をみていると、おおいに考えさせられる。それにしても、昔の人といっても、幕末の人達は、杉 文ではないが、私の父が大正7年生まれであるから、文が亡くなる年が、大正10年であることからして、同時代という同じ時間を共有していたのかと思うと、なかなか、彼らの人生模様というものも、身近に感じられるものである。それにしても、当時の人々は、手紙をよくしたためたものである。恐らく、残っているものだけでも、これだけあるのであるから、今日の如く、データ・ベースやハード・ディスクでもあれば、どれ程の手紙の原稿や著作が、原本として、残されていることであろうか?そう考えると、昔の人は、随分と、筆まめだったということが了解されよう。久坂玄瑞の文に宛てた手紙を再婚の際に、「涙袖帖」という形に纏められているが、合計すると、凄い量の巻紙であることに、改めて、驚かされる。しかも、その内容たるは、どうみても、蛤御門の変で、自刃するという選択肢は、この手紙の中には伺えないほど、日常的な内容である。今や、現代は、メールやショート・メールでのやり取りが当たり前であるが、手書きの手紙というものも、巻紙で、筆で書くのもよいかもしれない。当時の人々の紙に対する思いとか、コミュニケーションに対する考え方の一端が、忍ばれよう。
それにしても、昔の人は、よく歩いたものである。自分の脚で、一体、地図など、販売されていたのであろうか?詳細な地図などは、今日考えてみても、実際に、測量して、歩いて作成しなければ正確性を損なうわけだし、そもそも、正しい地図などは、作成出来ないはずである。ましてや、それが、当たり前に、旅をするときにも、街道を辿るだけで、出来たのであろうか?否、手紙なども、どのようにして、配達されたのであろうか?誰かに、常に、託して運んで来られたのであろうか?藩内の通信や公的な文書のやり取りであれば、まだ、了解できようが、私的な私信のやり取りなどは、飛脚などを使用したものなのであろうか?昔、外国に出張したときに、その会社の事務所に、創業当時の創設者の旧い手紙が、額に入れられて、飾ってあったことを想い出したが、父や母の手紙などは、我が家には、残っているであろうか?筆まめだった父や母からのそう言えば、海外赴任先で、随分と手紙をまだ幼かった頃の子供達宛てに貰ったモノである。そんな手紙も、今や、宝物なのかも知れない。それにしても、よく、昔の人達は、歩いたし、手紙を書いたことに、改めて、感心せざるを得ない。
よく見ると、手紙の毛筆の字体というものも、高杉晋作も、吉田松陰も、久坂玄瑞も、それぞれ、性格が表れているのであろうか?今日では、もはや、私のような悪筆は、パソコンで、打つことで、ごまかしがきくが、当時は、そうはゆかなかったのであろうことは、容易く、理解されよう。フィルム写真が普及する以前の原板写真には、何故か、画像が呆けたところが何とも言えない被写体の人物に、その映るんだという意思が感じられて、面白い。ジッと動かないでいることからくる緊張感なのか、それとも、魂を抜き取られまいとする強い意思が互いに、格闘しているのであろうか、画像がハッキリしていなくても、何か、その被写体の意思を感じざるを得ないところが面白い。奇兵隊士のそれぞれの出で立ちも面白いが、その面構えに、野心が萌え出ているようでいて、生き生きとしている心模様が発露されているようである。又、写真が、発明される前の絵も、或いは、恐らく、後に、写真から描かれたであろうと思われる人物画像も、なかなか、味わいがあって興味深い。まるで、その人物の息遣いと立ち居振る舞いが窺われるようである。とりわけ、様々なルートで伝えられるところの吉田松陰像の絵は、微妙に、その仕草が異なっていて、興味深い。それにしても、紙が貴重な時代だったのであろう。メモ書きもさることながら、余白にも、これでもか、これでもかと、まるで、殴り書きでもしたかのように、小さな文字で、補足やリマークを書き込まれた文字をみていると、その人物の、本というもの、情報というものに対する当時の必至な思いが、熱意が、今にも、こちらにひしひしと伝わってくる。墨蹟も手紙も、絵も、地図も、写真も、すべて、直接的に、時間と空間を越えて、当時、生きてきた人達の必至さとか、重いが、直接的に、現代の我々、観る側に、迫ってくることが、おおいに、感じられて実に楽しいモノがある。テレビの大河ドラマの史実と異なる展開とは違って、真実の資料は、そのまま、我々に、直接、自分の生き方までをも問いかけてくるように思えてならない。

藤田嗣治、戦争画を観る:

2015年04月09日 | 伝統工芸・展示会
藤田嗣治、戦争画を観る:
なかなか、観ることが叶わなかった藤田嗣治の戦争画を、東京国立近代美術館で、観賞することが出来た。先日、たまたま、レオナール・フジタ展という上田市立美術館での作品展を鑑賞する機会に恵まれたものの、ポッカリと、戦時中の作品群は、そのコンセプトから、ぞぐわなかったのか、写真でも、展示がされていなかったので、是非とも、観たいと思い立ったものである。竹橋駅に近い東京国立近代美術館の3階に、それらは、観るものを圧倒するかの如く、壁面に飾られている。そもそも、「サイパン島同胞臣節を全うす」の絵には、何故、現地人と思われる人々が、非戦闘員として、日本人軍人と共に、描かれているのは、どういう理由なのかというこれまでの疑問が、この展示の説明を観て初めて、理解出来たのは、まるで、眼から鱗のようである。どうやら、従軍画家という役割、或いは、戦意高揚としての宣伝工作隊という軍部の目的だけでは、語れないその画家の思いを改めて、観るようである。そうすると、所謂、「戦争画」というものも、見方が、やや、変わってこよう。「サイパン島同胞臣節を全うす」というこの絵は、1944年7月の製作であるから、この1年後には、もう、終戦に至る時期であるが、絵の右端の小さな解説によれば、この現地女性達とおぼしき人々は、「アリ・シェフェール作のスリオート族の女たち:1827年ルーブル美術館」から、構想を得ているというではないか? これは、異民族に追われる現地先住民族を強く意識して、意図的に、その心の中で、想像して描いたところの「バンザイ・クリフ」が、僅かに、隠れるようにして、右端隅に、小さく描かれているのも、興味深い。その絵の題名に冠した「同胞臣節を全うす」に、較べると、穿った見方をすれば、この絵で本当に訴えたかった画題のために、フェイントで、冠したのではないかとも、思われる。謂わば、画家が本当は訴えたかった暗号を絵の中に、秘しておきながら、表向きは、軍部に対して、題名だけは、意図的に、妥協したのかも知れない。そういう観点から、眺めていると、「アッツ島玉砕」の絵も、その画家が訴えたかった主題というものが、骸骨のような様相にも、小さな花も理解出来るのかも知れない。そういう意味から、所謂、「戦争画」というものを眺めていると、必ずしも、「戦意高揚・プロパガンダ」という側面から、単純に、バッサリと、一刀両断する訳には、ゆかないものがあるようにも思えてならない。これらの大きな壁面を飾る絵を観ていて、是非、ゆっくりと、椅子に腰掛けながら、全体を俯瞰して、或いは、近くによって、精緻なタッチを眺めるもよし、一度は、生の実物の絵に接することをお薦めしたい。これまでの藤田嗣治という画家に対する何か、心の何処かで、感じていた「違和感」が、やっと、氷解するような感慨が湧いてきたのは、不思議である。当時、この絵は、日本で、果たして、解説無しに、どれ程の人々から、その真意が理解されたのであろうか?そういう自由すら微塵も無い時代であったのであろう。それとも、画家は、理解されずとも良い、いずれ、平和な時代に、再び、理解されようということで、納得して、押し黙り、戦後、美術界の戦争批判を一身に引き受けて、故国を去って行ったのであろうか?その心情を考えると、その画家が、云ったと言われる、「この絵を見ながら、手を合わせて祈っている母親とおぼしき遺族を見た時に、画家としての興奮を覚えた」というのも、きっと、真実なのではなかろうか?それにしても、平日雨だったから、予想外に、外人観光客が多いのには、驚かされたものの、ゆっくり鑑賞できて、良かった。その他にも、個人的に、跡見玉枝による50種類以上に及ぶ桜の花の桜花図巻とか、川瀬巴水による版画など、素人なりに、絵を描いていたり、版画を彫ってみたりしたいなぁと心動かされる作品が少なくなかった。写真もフラッシュ無しで撮影が許可されているのも有難いし、データ・ベース・ライブラリーも充実しているので、専門家にも、便利であろう。「片岡球子」展も、同時に開催されている。

レオナール・フジタ展を覗く:

2015年04月04日 | 伝統工芸・展示会
レオナール・フジタ展を覗く:
上田市立美術館での、ポーラ美術館(箱根・仙石原)所蔵コレクション中心の藤田嗣治展である。画家の生き方と絵画による表現・主張とは、生涯一致するものなのであろうか?展示会の題名に、藤田嗣治展という名称を用いずに、むしろ、カトリック洗名であるレオナール・フジタとしたのも、何か、この異邦人と評される画家としての生き方、考え方を著しているのであろうか?藤田やFUJITA ではなくて、FOUJITAだそうである。同じ、上田にある戦没画学生慰霊美術館、無言館や信濃デッサン館とは、おおいに、この私立美術館は、趣きを異にしている。それは、丁度、その画家の戦争時期での絵の違いと生き様の違いほどもあるのであろうか?個人的には、藤田嗣治の絵は、その作品に対する海外評価と戦争画が、強烈に主張するように、戦意高揚と戦争礼賛への戦後の一種、美術史上での戦犯扱いを一手に引き受けて、自ら、祖国を後にした生き方の狭間から、好きか嫌いかと云えば、どちらかと言えば、自分の中で、絵の評価も高くなかったのが、正直に言えば、実情であろうか?ポーラ美術館所蔵のコレクション中心であるから、むろん、「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」の絵は、写真でも展示されていない。むしろ、意図的に、この戦時中の作品は、除外されていることは、展示会のコンセプト上から致し方のない事と云えば、云えなくもない。一度、これらは、東京国立近代美術館で実物を鑑賞してみたいものである。それにしても、少なくとも、ドラクロアの構図法と巨大な画面の中で想像を駆使して描いた大作は、必ずしも戦意高揚だけではなく、その一輪の小さな花の描き方とか、非戦闘員を含めた描き方には、その児玉源太郎に係累する陸軍軍医の家系の故なのか、戦後、GHQによる追及と皮肉にも国際的な評価との狭間から、美術界の戦争責任を、一手に引き受けて、故国を後にして、戻らなかったことを思うと、画家の創作意欲というか、それを突き動かすものは、一体何であったのであろうか?大作の中に、描かれた戦争の悲惨さをさりげなく、花や悲惨な非戦闘員を含めた壮絶な光景を絵にしたものは、何だったのであるかを思うと、第一次・第二次大戦を同じパリで、経験した思いが、何処かに、潜んでいるようにも思えるし、初期のグレーなモノトーンの作風もよくよく眺めると、内面が複雑に織りなしているようにも思える。所謂「戦争画」を観た遺族と思われる人々が、絵に向かって手を合わせ、涙を流しているのを藤田が見た時に、絵も言われるな画家としての興奮と充実感を覚えたと述懐しているように、必ずしも、戦意高揚として観る側には、受け容れられたと云うことが作者の側にも理解出来たが故に、戦後、責任追及を一手に受けることにしたのかも知れない。
私は、全くの素人であるから、絵を描くという場合には、画風が、作風が、一向に、変わらない。もっとも、変わらないと云うよりも、絵画技術がないから、残念ながら、変えたいと思っても、変えられないのであろう。その点、フジタは、同時代を共に過ごしたピカソやモディリアーニなどとの親好の影響からなのか、「乳白色の下地絵」に至るまでには、随分と、様々な画風が、試みられているのは、興味深い。写真家の土門拳による撮影から、アトリエ内での和光堂シッカロールの缶が、実は、乳白色の下地とおおきく関わっていることが分かったことは、同業者でなかったから故なのか、興味深い。この展示会の中で、いくつか、気になるところが、3つほどある。まずは、「旅」である。それは、フランスへの憧れからも想像されようが、時代時代に、中南米へ、極東へ、或いは、絵画の街頭進出を目指した昭和初期の壁画制作や街頭風俗とか、戦時下での戦場への旅、画家は、旅を通して、どのような画風を確立しようとしたのであろうか?そして、乳白色誕生と油彩画技法の確立、多くの裸婦像絵画、そして、1950年代末に洗礼を受ける以前にも、数々の宗教画を描いているが、これも、フランス滞在中での第一次世界大戦下での心理的な体験がそうさせたのであろうか?そして、よく分からなかったことと云えば、数多くの「小供」の絵である。それらは、お世辞にも、決して、可愛いと思えるモノではない。しかも、第二次大戦後に、主として、描かれている、「私だけの小供」、永遠の小供、実際のモデルを写生したモノではない、私ひとりだけの小供であると、何故、こんなにも無表情な、悲哀に満ちたような眼の子供なのであろうか?何故、アクティブな生き生きとした明日への希望に充ち満ちた顔の表情ではいけなかったのであろうか?おおいに、疑問である。最期に、画家の理想とするフランスの田舎の家の絵が、「理想の家」として、描かれているが、確かに、居心地の良さそうな心落ち着きそうな雰囲気である。画家が目指した究極の安寧の空間だったのであろうか?自分の中では、その画家の国際的な評価とは別にして、どちらかと言えば、複雑な評価であったが、この展示会をきっかけにして、もう少しばかり、日本画家、藤田嗣治ではなくて、画家、レオナール・フジタの軌跡をもっと、知りたくなりました。手仕事としての裁縫も陶器・木工、大工仕事も絵付けも身の回りのものは、既製品はすべて、商品であり、「芸術家たる者は、芸術品を身に纏うべし」という信念を終生持ち続け、自分好みの手作りの芸術作品へと昇華させてしまったことも、日常生活中には、出来ないことであるし、そうあるべきかとも、この大量消費時代には、考えさせられる。
「自分の身体は、日本で成長し、自分の絵は、フランスで成長し、今やふたつを故郷に持つ国際人になり、フランスに、どこまでも、日本人として完成すべく努力したい、そして、自分は、世界に、日本人として生きたいと願ったし、又、世界人として、日本人に生きることを願ってやまなかった」その画家は、遺言通り、シャンパーニュ地方、ランスの地で、ロマネスク建築の要素が至る所に取り入れられた平和の聖母マリア礼拝堂と謂う名前の最期の作品の中、自ら初めて挑んだフレスコ画の壁画やレリーフ、ステンドグラスと共に、眠りについている。死にいたる最期まで、芸術家は、その志しを貫徹したのであろう。しかも、「(礼拝堂の壁画を製作するための)足場の上で、私は、自分の80年の罪を贖うよ」とまるで、戦争犠牲者に対する贖罪とと自らの80年に及ぶ人生を処刑台の磔台に喩えたかのように、建築家に語ったと、、、、、、、。

サントリー美術館、「仁阿弥道八」展を覗く:

2015年01月16日 | 伝統工芸・展示会
サントリー美術館、「仁阿弥道八」展を覗く:
古田織部展に続き、一寸、陶器の展覧会が、続く、別に、陶器の製作が趣味でもなければ、特に、お茶を嗜むわけではない、ただ、何となく、耳濯ぐではないが、耳の代わりに、たまには、味わいのある旧い陶器を目で楽しみたいと思って、たまたま、展示会が、続いたまでに過ぎないものである。それにしても、茶釜の蓋ではないが、なかなか、趣向が凝っていて、面白いものである。「高橋道八」のとりわけ、第三代が、特に有名で、「仁阿弥道八」(にんなみ どうはち)と呼ばれるようになったらしいが、江戸時代から明治期に掛けての京の焼き物でも、独自の創作とは別に、所謂、流行の或いは、お気に入りのコピーものも、極めて、技量の高い焼き物を残していると、今風に謂えば、OEMも手掛けていたのであろうか?それにしても、茶碗、水指、文鉢、文皿、煎茶道具としての急須、酒を飲むだけでなくて、お茶も楽しんだ猪口、そう言えば、中国でお土産に買ってきた茶器のセットも、(今では、飾り棚で眠っているが)確かに、小さな猪口が、セットに入っていた事を想い起こす。久しぶりに、茶器で、美味しいお茶を飲んでみることにでもしてみようか?或いは、一寸大きめの好みの茶碗で、抹茶でも点てて飲んでみることにしようか?本当は、毎日、習慣づけたいところである。草花や景色の絵柄も宜しいし、漢詩がぎっしりと小さな文字で描かれた茶碗や猪口も、興味深いものがある。ドイツワインを連想するかの如き徳利も、面白いし、狸などの彫塑作品、猿や猫の置物、山羊他の手焙り、炉蓋、香炉、生活の中で、やはり、今日、忙しすぎてしまうのだろうか?それとも、そんなことに、気を遣わない現代人の方が、どこか、おかしいのか?やはり、人は、様々な器や焼き物との付き合いの中で、美意識を再確認する作業が、子供の頃から、箸置きひとつをとっても、振出のような薬味入れでも、香合でも、何でも、食器や花器、茶碗も、皆、ある種の生活の中に美意識を確認すると謂うことが、食文化も、広く、文化というもの、引いては、歴史や意識・所作振る舞いという形で、継承されてゆくのかも知れないと謂うことが、様々な陶器を眺めながら、感じる。コンピューター画面ばかり見つめている疲れた目を、たまには、濯ぐことも必要なのかも知れない。余りにも、現代ビジネス社会では、日常、そんな暇もないのかも知れない。だからこそ、たまには、暇を見つけて、やってみたら宜しいのではないだろうか?ミッドタウンの窓の向こう側には、スケート・リンクが遠望され、まるで、冬のNYを想い起こすような景色でもあった。3月1日まで、六本木ミッドタウンのサントリー美術館で開催中です。次回は、若冲と蕪村の絵画かな、、、、、、。

古田織部展を覗く:

2015年01月12日 | 伝統工芸・展示会
古田織部展を覗く:
東京という大都会は、確かに、美術展示会を観覧するには、便利なところである。中小の地方都市では、余程の文化や芸術、美術に関心を払っている都市は別にして、なかなか、思うようにゆかず、難しいものである。銀座松屋で、年末から19日まで、開催されている、「古田織部展」を覗いてみることにした。ウィーク・デイの昼過ぎだから、茶道や生け花の関係のお年寄りのご婦人方が多いのは当然のことなのであろう。こちらは、特別、茶道や生け花に精通をしているわけではないが、焼き物・陶器を眺めるのは、おおいに、興味深く、とりわけ、海外文化との影響を受けて、独自の日本文化を反映させてきた織部焼きは、只単に、茶道具というだけの範疇では、括れない何か、日本人の潜在的な能力をこの没後400年の武人茶人に見いだせそうである。桃山・慶長文化の中で、開花した様々な陶器にしても、それ以前の時代には、神仏に捧げられた供物や食物などを白木製の謂わば、その時・場限りの今で謂う、ディスポーザルな感じで、処分されてしまっていたものを、この時代、陶器で、再現したようなものであるそうである。その意味で、茶会での釜・水指・竹茶杓・茶入・茶碗・猪口・向付(皿)・花生・蓋物・振出(薬味や調味料、菓子などをいれたもの)等、今日の様々な食器や、或いは、酒器、会席料理にも影響したと謂われている器(食器・酒器・皿・徳利)、猪口、今日的に謂えば、ぐい飲み盃のような酒器セットにも、大きな影響を及ぼしている。デザインに於けるデフォルメされたような三角や四角、三日月型や扇型や、手付け鉢、その歪みや斬新な幾何学紋様、漆黒を基調にした白と黒のコントラストの美意識感覚とか、内面と外面とにみられる自然の水辺の景観とか、渦の模様とか、当時の絵画からの影響も見られるような斬新な、変化に富み、優れた意匠が多いようである。没後400年でも、現代風なデザインの勉強には、おおいに役立つのかも知れない。私は、陶器の産地や、様式には、門外漢ではあるが、流石に、織部の果たした、美濃焼・薩摩焼・上野(あがの)焼・唐津焼・信楽焼・高取焼・備前焼・伊賀焼等、各地の窯元とのアドバイザー的な役割も、今日的には、興味深い。元々は、荒木村重の謀反の折には、中川清秀の調略の勲功や、山の闘い、賤ヶ岳の戦いでも武功を上げているところからすれば、やはり、千利休の自刃以後は、茶の湯を通じて、政治の中枢世界で、それなりの裏交渉や、政治的な人脈を築いてきたことが、推測されようが、やはり、利休にとっての秀吉同様に、織部の徳川家に対する関係性(二人の自刃という形での死そのものを考えると、それ)も、所詮は、文化の庇護者と支配者という関係性からは、逃れられない宿命を背負っていたのかも知れない。それにしても、当時の作品を眺めて、その時代に生きた人々や作者や所有者の息遣いを感じたり、想像したりすることは、とても、楽しい事ではないでだろうか?最後に、庭園や数寄屋作りというものも、路地という概念も、茶室作りや、部屋廻りから、歴史的に、来ているのかと、或いは、床の間を飾る生け花の花瓶というものも、そういうものなのかと、改めて、日常生活の中で、花瓶を見直してみたり、庭をみる目も変わってくることなのかも知れない。とりわけ、最近では、花瓶というものは、花を飾るという意味合いで、平地に、置くというイメージを持っているが、この時代には、壁に掛ける竹篭や、空間や空中に飾るという様式もみられることに、改めて、新鮮さを感じざるを得ない。黒織部も良し、蓋物も良し、デフォルメされた意図的な斬新な紋様も、或いは、きず物や割れ物にすらも、新たな美意識を見いだすという感覚も、おおいに、宜しいし、素晴らしいものである。個人的には、小さな「香合」と呼ばれる美濃焼には、色使いといい、斬新なデザイン性といい、或いは、フォルムといい、なかなか、小さいながらも、作者の想いが、凝縮されているように思えて、好きな焼き物である。百円ショップで、簡易な安い商品を使用するのも、決して、否定するモノではないが、やはり、日常生活の中でも、食に関わる、或いは、酒を嗜むときには、お茶を飲むときにも、茶碗や、器にも、何か、美的感覚を子供の頃から、培い、休みの日には、花を活けたり、或いは、テーブル・マットを敷いたりして、楽しみたいものである。茶碗というものは、上からだけみるものではなくて、やはり、底部までも含めて、本当は、自分の手にとって、下からも眺めたいものであるが、旧い美術品ではそういうわけにもゆかないのが、残念なところである。一階下の7階では、美濃焼のラーメンどんぶりの展示会も開催されていたが、これも、なかなか、力作揃いで、しかも、世界に打って出るには、こうした丼のデザイン性も必要不可欠かも知れない。ラーメン屋には行ったら、丼の器も様々なデザインを選べるようであると、面白いかも知れない。庭先の梅の枝も一寸、カットして、箸置きにでもして、今晩は、日本酒をお気に入りのお猪口で、戴くことにするか?又、新しい理由付けと絶好の良い言い訳がつけられて宜しいかも知れない、、、、、、。

「庄司貴和子」展を覗く:

2013年11月22日 | 伝統工芸・展示会
「庄司貴和子」展を覗く:
刻の審判の場へ、「祈り」という題名の展示である。絵画というモノは、とりわけ、自分がよく未だ知らない画家の絵を鑑賞する機会を得ることは、まるで、友達から良い本を薦められた時のような感じに似ているものであろうか?何か、そんな気がする。茶房、読書の森で、コーヒーを飲んでいたら、丁度、ケーナの名匠ご夫妻が、やってきて、梅野記念美術館で、見てきた帰りであると知らされた。39歳という若さで、腸癌で夭逝したこの画家は、見舞いに来た、赤ん坊を身籠もった友人との別れ際の言葉は、どんな思いで、発せられたものであったのであろうか?自らの意思ではなく、時代により、その絵筆を置かざるを得なかった、信州の「無言館」で覧られる戦没学生画家達とは異なるものの、その肉体的な「死」により、創作を続けられなかった無念さは、加山又造が、評するように、「単純極まりないのに、典雅で、えらく洒落た感じ」、「日本画のみが可能と思える抽象作品を、地道に、、、、、、」、題名を読みながら、その絵を観ると、成る程、エレガントで、ある程度は、半抽象画のような気がしないでもない。しかしながら、風景そのままの写実ではなくても、題名が、無題、不詳なるものになると、何とも、観る側には、心細い、何か、不安げな感慨が湧いてこないではない。たまたま、居合わせた小学校の低学年の子供達が、担任と美術の先生に引率されてだろうか、絵の前で、何を描いたのであろうかと、想像しながら、素早く手を挙げて、「ここは、ボールに見えます」とか、「あそこは、雲に見えます」とか、一生懸命に、絵の鑑賞の授業をしていたが、何を描いたのではなくて、何を描きたかったのかと謂うことは、まだ、幼い子供にも、大人にも、分からないことかも知れない。いずれにしても、私が、この年で、初めて観た絵に対して、この子供達は、幼いときに、既に、触れることが出来たことは、それ自体、すごいことではないだろうか?又、50年後にでも、この子供達が、同じ絵を、もう一度鑑賞する機会があるとしたら、どんな思いで、その時は、この同じ絵を観ることであろうか?私が子供の頃には、学校でも、家庭でも、物質的にも、文化的にも、貧しかったのか、そんな機会はなかったような気がする。併設展示されている、青木繁・菅野圭介展も、なかなか、興味深い展示である。梅野満雄と青木繁との友人関係とか、代表作、「海の幸」の絵を観ながら、想いを馳せるのもまた、一興である。第13回「私の愛する一点展」も、なかなか、様々なジャンルの展示で、何か、食事にたとえると、それこそ、色々なジャンルのお好み料理が、少しづつ、小出しにされていて、観る側の興味をそそられる。アンケートに答えて、菅野圭介の絵葉書、「海」をゲットしました。来年、1月13日まで、東御市梅野記念絵画館で、開催予定だそうです。館内の喫茶店から、目の前の湖面に、唐松が黄金色に映えて、窓越しに、眺められる浅間山の景色は、まるで、絵画のようでした。帰りには、明神館の温泉も宜しいですよ。



井上井月が俳句にした衝動を踊りで表現するとは?:

2013年09月17日 | 伝統工芸・展示会
井上井月が俳句にした衝動を踊りで表現するとは?:
腰の手術以来、歩行という何気ない動作に、不自由を感じ始めると、リハビリをしている時にも、頭の中では、自由に、歩いている頃のことや、爪先立ちが自由に出来たりしていた頃のことを夢想するようになる。そして、踊りとか、ダンスとか、それは、クラシック・バレー・ダンスでも、コンテンポラリー・ダンスでも、それこそ、最近、上田ねぷた祭りで実際に観て驚かされた創作ヒップ・ホップばりの浴衣を着た盆踊りダンスでも、そこに、肉体による一種の表現力を伴ったコミュニケーション表現に、何とはなしに、憧れてしまう。あんな風に、踊れたら楽しいだろうなぁと、、、、、、。それは、60年代後半の土方巽らの山海塾の「肉体の叛乱」ではないが、どうも、気になってしまう何ものかがそこにはあるようだ。そんな中で、幕末から明治期にかけて、伊那谷を放浪しながら作句した俳人、井上井月に因んで、舞踏家の田中泯(たなか みん)が、330人もの観客の前で、その女性観を1時間に亘って踊りを演じたという記事を見つけた。曲に合わせて、その独特な刺激を受けて、自分の中で何かが動くその「俳句の心的な内面の衝動」を「踊りを通して、表現した」そうである。YOU TUBEとか、何かで、是非観てみたいものである。誰か、アップして貰えないであろうか?ある程度は、田中泯という舞踏家の動きは、想像は出来るものの、それが、どのように、表現されたのは、想像でしかない。新聞の記事の中の小さな写真だけでは、なかなか、その表現を理解するには難しいわけである。それにしても、伊那谷地域は、文化的に、面白そうなところである。大鹿村・下条村の田舎歌舞伎の保存と言い、、、、、。何か、舞踏を理解する文化的な素地でもあるのであろうか?残念乍ら、一度も、脚を踏み入れたことはないが、一度は、訪れてみたいところである。YOU TUBEでみる舞踏家の田中泯や土方巽の表現力とは、今尚、ビデオでみても、その不可解な表現力は、魅力的であることは間違いないであろう。ゾンビみたいな動きだから、自分でもやれそうだろうか?小さな子供でもいれば、一緒に、踊りで、その思いの丈を表現するお遊びも面白いかも知れませんね。例えば。今日の一日あったことを踊りで、子供に、表現して貰うとか、、、、、、。そして、今度は、お父さんに、そして、お母さんに、、、、、と、、、、、、。そして、それを互いに、何を表現していたかを当てっこするのも、ゲーム機よりは、ずっと、面白いかも知れません。



祢津東町歌舞伎、「一谷嫩(いちのたにふたば)軍記、熊谷(くまがい)陣屋の段」を愉しむ:

2013年09月16日 | 伝統工芸・展示会
祢津東町歌舞伎、「一谷嫩(いちのたにふたば)軍記、熊谷(くまがい)陣屋の段」を愉しむ:
今春に、祢津東町歌舞伎舞台で野外での地芝居を満喫したが、更に今秋には、満員札止め盛況の市民会館での公演である。私の家は、行政区域では、小諸市に属するものの、御牧ヶ原の里山だから、行動半径はどうしても、旧北御牧・東部町にお世話になってしまうのは実に皮肉なことである。何でも、開演前の解説によれば、長野県には、地芝居の保存は、大鹿村などの天竜川系が、有名であるものの、千曲川系のそれは、今や、東御市の祢津の東・西町のみになってしまったらしい。その理由としては、徳川家の直轄知行地であったことが関係しているらしく、江戸との連絡の際に、農民やお供のもの達が、江戸歌舞伎を当時から堪能して、この娯楽文化を自分達の故郷にも、根付かせたいという強い思いから、今日まで、伝承されてきたものであるらしい。それにしても、260年以上もの長きに亘って、地道に、地芝居として、田舎歌舞伎の伝統文化が、今日まで、幾世代にも亘って、職業や年齢・世代を超えて、継承されてきたことは、大変な無形文化財であり、確かに、千曲川無形文化遺産というものでもあれば、顕彰されてもよいくらいのものであろう。併設展示されていた歌舞伎史資料展の写真や旧い資料を眺めると、まだ、テレビや映画などの娯楽が無かった時代でも、終戦の翌年の物資が乏しい頃にも、人々は、勇んで、自費で、再興に努力し、喜び勇んで参集している多くの住民達の明るい顔が見られる。江戸時代からのそういう観客や地元の役者の熱情を、今日、想像するだけで、何か、気持が和らいでくる。歌舞伎という伝統芸能野田市ものを通じて、何代も前のご先祖様が、どのような気持で、同じ芝居を観たのかを想像するだけでも、場所を超越して、当時の時間を一緒に共有することは、実に、価値があるのではないだろうか?ずっと、墓参りなどより、身近に、先人を感じることになろうか?それにしても、長い台詞・口上を、素人衆が良く憶えるだけでなくて、うまく芝居をするものである。しかも、舞台装置や大道具や小道具も、役者兼大工さんやイラストレーターさん達が、手仕事で、器用に製作したそうである。これにも、又、驚ろかされてしまう。来年春には、野外の東町歌舞伎舞台が、その観客席の土手一面が芝生に蔽われて、屋根瓦や舞台も改修されるそうである。これ又、楽しみなことである。入口付近で、「祢津煎餅」が、復活、振る舞われたが、これは、同地区出身の著名な画家である丸山晩霞画伯が、磯辺鉱泉煎餅のような味の煎餅に、12名勝風景画のデザインを刻印して大正の頃まで販売されていたものの復刻版であるらしい。こういうものを地元のツルヤ等のスーパーや産直売り場、高速道路のSA、道の駅にでも、PB商品だけでなくて、販売して貰いたいものであるが、、、、、。「祢津歌舞伎煎餅」とか謂うブランドで、しかも、保存協賛支援金込みとかで、観光協会も、もっと、支援すべきではないでしょうか?「祢津歌舞伎揚げ煎餅」というものも、販売してみたら良いのではなかろうか?デザインも、研究してみたら、面白いのではないでしょうか?何も、高いお金を払って、新装なった東京、東銀座の歌舞伎座に行かずとも、年に、2回の公演で、様々な演目を堪能させて貰い、先人との時間を共有できれば、実に、愉快なことである。演目に先立って、舞われた開幕儀式としての「三番叟(さんばそう)」も、なかなか、見事なものであったし、舞台右端に位置した義太夫と三味線も、野外舞台では、顔しか見れなかったが、室内では、身振り手振りまで、しっかり見えて、とても、興味深かった。黒子・貢献・裏方、皆、保存会の皆様、ご苦労様でした。又、次回が、おおいに愉しみになった。入場料が、無料であっても、保存会支援のカンパの募金箱があっても良いくらいの盛況であった。平家物語の敦盛・熊谷直実・義経を題材にした、「闘いの世の無常と人生の儚さ」を描いた、江戸古典歌舞伎の人気作の粗筋などは、下記参照して下さい。舞台に登場する「桜の制札」に書かれている、「桜の花の枝を一本切り取る者がいたら、指を一本切って捨てるぞ」という花をこよなく愛でる愛護する制札に因んで、「一枝を斬らば、一指を斬る」は、「一子を斬る」という意味に、同じ「シ」の音で、敦盛の首の謎かけになっていることも、初めて知りました。

参考までに、豆知識用HP: ご参考まで、
歌舞伎、「一谷嫩(ふたば)軍記、熊谷(くまがい)陣屋の段」のあらすじ:
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/16/http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%B0%B7%E5%AB%A9%E8%BB%8D%E8%A8%98
「祢津煎餅」とは:
http://www.ueda.ne.jp/info/2013/0905-2.html「三番叟」とは:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%AA%E5%8F%9F


「谷文晁」生誕250周年展の最終日を観る:

2013年08月26日 | 伝統工芸・展示会
「谷文晁」生誕250周年展の最終日を観る:
もっと、早めに知っていれば、作品が、前期・後期で、入れ替えられているので、両方を観るべきであったと後悔しても、もはや、遅かりし由良之助である。最終日での駆け込み、いつもの出たとこ、勝負だから困ってしまう。残念至極である。今更、悔やんでも仕方ない。アラブの春による政治的な混乱に便乗して、中部エジプトの美術館の歴史的な所蔵品が、ごっそり、持ち去られ、何でも重いモノは、持ち去れないから、破壊にまで及んだというニュースを聞くと、歴史的な遺産は、その保存や継承などは、なかなか、困難なものである。考えてみれば、まだ、子供の頃には、コピーなどという便利なツールは、存在せず、ひたすら、模写や、書き写す作業をしたものである。そう言えば、海外の美術館などでは、画家の卵と思しき学生が、一心不乱に、著名な画家の作品を座り込んで、模写しているのを観ることがある。谷文晁も、確かに、その初めには、まず、模写であると弟子達にも語っている。そして、様式を整えた上で、自分固有の表現に辿り着くことをといているようである。確かに、真似は、学びに通じるものである。そんな風に、考えてみると、成る程、旅日誌の写生画やスケッチも、写本も、文化・芸術・民俗学・果ては、料理や衣装・風俗までも、画家というものは、写真が存在し得なかった時代に、諸国名図、山岳絵図や地図ですら、湾内の様子や街の様子、人々の生活までも、絵巻物でも、木製の版本でも、保存され、今日、我々の目の前に、展開されることになったのかも知れない。パトロンでもあった白河藩主の松平定信や、弟子のその後、シーボルト事件に連座する渡辺崋山にしても、こういう視点から、眺めてみるとなかなか、一人の画家だけの視点とは又、別の何かが見えてこようか、それにしても、石山寺縁起絵巻にしても、400年以上もの時を経て、完成されたとは、誠に驚くべきことである。山水画も、墨絵も、屏風絵、襖絵にしても、花鳥風月画、孔雀図、動物画、草木画、眺望図、仙人図、人物図、観音図、涅槃図、富嶽図、等々、随分と、多種多様なジャンルで、変幻自在な様式で、この絵師は、あまたの作品を残したものである。写本も含めれば、大変な数の作品を残してくれた訳で、それだけでも、美術史だけでなくて、歴史公証学・民俗学的な見地からすれば、大変な足跡にでもなろうか?前期作品を見逃したことは、おおいに、悔やまれてしまいそうである。残念であったが、後の祭りである。影絵のようなシルエットを描いた人物画は、まるで、現代絵画のポスターのようにも思えるものであった。会場を後にすると、そこには、六本木、東京ミッドタウンのコンテンポラリーな容赦ない現実の世界が、迫ってきたような気がした。



田嶋 健、「大津絵っぽい木版画展」を覗く:

2013年08月13日 | 伝統工芸・展示会
田嶋 健、「大津絵っぽい木版画展」を覗く:
先月、銀座の77ギャラリー開催時には、うっかり、閉館日に、行ってしまったので、観れなかったが、旧軽井沢ロータリー前の酢重ギャラリー2階で、開催されていると告知されたので、久しぶりに、旧軽井沢銀座の散策も兼ねて、覗いてみることにした。大津絵は、芭蕉の俳句にも詠われていたり、キリシタン弾圧の隠れ蓑に使用されたとか、諸説色々であるが、その宗教画風から、やがて、風刺や教訓的な色彩が強くなり、転じて、魔除け・雷除けや子供の夜泣き防止などの護符的な要素が、強くなってきたとも謂われている。本物を観たことがないので、何とも、評論は出来兼ねるものの、タジケンさんによるそれは、現代風に、一寸、色使いや、テーマの素材や、構図が、アレンジされていて、版画、とりわけ、凸版として、なかなか、独特な雰囲気が出ていて、面白い趣向である。確かに、その点では、「大津絵っぽい」というのが、当たっていよう。何でも、大根おろしの摺りおろしを、摺り金の上に、残った大根が、まるで、山のような様相を呈し、しかも、摺り金が、サーベルのような感じにすら見えるとは、作者の繊細な心持ちを表しているようで、実に面白い。題名だけでなくて、作者の心意気を、もう少し、詳しくコメントして戴ければ、もっと、観賞する幅が拡がったのではないかとも思われた。何せ、こちとらは、素人なので、説明されないと、残念ながら、なかなか、作者の意図が理解出来ないものである。それにしても、版画家一筋とは、大したものである。彫刻刀一本に、全精神と神経を集中しつつ、頭の中に、描き出した抽象性を、具現して行くのであるから、、、、、、。机の片隅に、惰眠を貪らざるを得ないでいる我が家の彫刻刀にも、多少は、年に一度でも良いから、活躍出来る機会と場を与えてあげなければ、いけないのではないだろうかと、反省しきりである。表札だけではなくて、何か、山の風景でも、彫ってみようかと、素人ながらも、触発されるのが、何とも、情けなく、心許ない限りではある。久しぶりの旧軽銀座散策は、交通渋滞で、行きはよいよい、帰りは、こわいでした。

酢重ギャラリー(旧軽ロータリー前)2階で8月25日迄、開催中です。是非、ご覧下さい。
http://www.suju-masayuki.com/shop/gallery.php