小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

司馬遼太郎、空海の風景(上・下巻)を読む:

2015年05月31日 | 書評・絵本
司馬遼太郎、空海の風景(上・下巻)を読む:
今日、これだけ、旅が、何処へでも簡単に、出掛けられ、しかも、ネットで、欲しい情報に、簡単にアクセス出来る時代からすれば、8世紀の時代に、航海術ですら、満足に発展していない頃に、命懸けで、当時の世界的文化的な大都市に、海外留学しにゆくが如きことは、おおいに、大変であったことは、容易に、想像されよう。
目的地へ、きちんと、到着した最澄と異なり、福建省の土地に漂着、辿り着いてしまった空海が、皮肉にも、彼の地で、語学の才と当時の文化的知的な教養である書道(五筆和尚という称号)・文章道・漢詩・文才に恵まれ、奇跡的に、これを活かすことになること、誠に、皮肉な廻り道であるものの、長い人生から、見た時には、おおいに、興味深いものがある。
その生い立ち、渡航目的、そして、何より、語学と書道の才に長けた空海の思想的な成り立ちと時代背景、そして、最澄や当時の様々な僧達との交流と政治的な背景を、1200年以上に遡って、考証しながら、構想・想像するという作業は、並大抵なエネルギーではない。
しかも、それを一日本の仏教の歴史だけに止めずに、広く、中央・東アジア・インドなどとの思想的な交流とも、絡めて、当時の密教の伝来を考察する作業は、単に、空海という一人の宗教僧の思考方式だけでなくて、広く、当時の世界文化史的な視点からも、興味深いモノがある。
改めて、そうした視点から、今日の中央アジアの歴史や中近東での出来事を再考察するときに、仏教の伝来とその東の果ての国である日本という国の思想的な在り方に、深く、考えさせられる。

15歳の時に、讃岐の国を出奔して、778年に桓武天皇時代に、平城京へ登った。
釈迦没後56億7千万年後に出現する弥勒菩薩を待つのではなく、弥勒が常住し、説法をし続けていると謂われる兜率天(とそつてん)にこちらから出掛けて救われようとする機能性を作り上げた。
18歳で、仏教・道教・儒教の盛衰を踏まえた優越論を戯曲風に論じた、三教指帰(さんごうしいき)を著し、儒教は、世俗の作法に過ぎないと断じる。
官吏になる途である大学の学生(がくしょう)を捨てて、官僧としてではなく、私度僧として、仮名乞児(かめいこつじ)として、入唐するまでの空白の7年間を旅に出て、「私は仏陀の勅命を奉じて兜率天への旅に登っている者である」と称し、山野を修行して歩く。
7歳年上の初めからエリート官僧たる最澄とは、そもそも、出発点が、異なるのか?
アジア大陸には、生命とは何かという普遍性からのみ考える以上、そこには、時間とか、誰とかという固有名詞もなく、只、抽象的な思考のみで、宇宙を捉え、生命をその原理の回転の中で考え、人間の有する人種やあらゆる属性を外しに外して、ついには、その一個の普遍的な生命という抽象的一点に化せしめることにより、物事を考え始める。従って、漢民族が引き寄せられる歴史とか社会的な思考には、印度的な思考法は、かけらほども、入ることはなく、密教の伝授という観点から、広義のみでの漢語・サンスクリッド・梵字、イラン語にも、当時は、学ばなければならなかったのであろう。
二つの系統の密教というモノがあるという。純密と雑密(没体系的なかけらのような形の密教、巫女、外法の徒、山伏など)、現世を否定する釈迦の仏教と、現世という実在もその諸現象も宇宙の真理の現れであるとする密教の創始者は、宇宙の真理との交信の手段として、魔術に関心を持った。魔術・呪文・まじない・陰陽五行説・陰陽道・陰陽師など、後の純密以外の所謂、雑密である。最澄のそれは、不覚にも、それを拾ってしまったことなのであろうか?
虚空蔵求聞持法、という万巻の経典をたちまちの内に暗誦出来るという秘術、真言とはやはり、人間の言語ではなくて、原理化された存在である法身たる如来達が喋る言語で、虚空蔵菩薩という密教仏にすがり、その菩薩の真言を一定の法則で唱えて、記憶力をつけると謂われている。その秘宝を会得することになる。解脱という釈迦とは、逆の道を選ぶことになる。虚空蔵菩薩という自然の本質は、それへ修法者が参入してゆきたいと希い、且つ、参入する方法を行ずる時に、惜しみなく御利益を与えてくれるという。
術者が、肉体を次第に、形而上化してゆくことにより、諸仏の機能の中に身を競り入れ、ついには、その機能を引き出し、それによって、現世の御利益をうるというところで、初めて、宗教的に完結することになる。
求聞持法を行ずるには、場所を選ばねばならず、とりわけ、宇宙の意思が降りてきやすい自然の一空間であらねばならないと、それが空海にとっては、阿波と土佐の地だったのかも知れない。室戸崎洞窟での明星が、口に入るという超自然的体験も、決して、密教の概念には、無縁ではないのかも知れない。
密教の断片に於いて、科学の機能を感じてしまった空海と後世が知ったつもりでいる科学なり、自然の本質、とりわけ、原子力やら、津波や地震といった自然災害の脅威を間近に体験した我々の考え方は、どちらが、果たして、1200年も経過した今日、本当なのであろうかと司馬遼太郎は、問いかけている。(むろん。著者は、東日本大震災は、経験せずに、他界してしまっているが)のちの世の平安末期の厭世観的な出家ではなくて、むしろ、肉体と生命を肯定する密教に直進し、解脱を目的とする途とは別のものを追求してゆく。
咒(しゅ)という概念を、毒虫を食ってしまう孔雀の悪食を引き合いに出して、司馬は、説明する。それは、古代インドの土俗生活に於いては、生命を維持する不可欠なもので、苛烈な自然と会話する為に、自然の一部と考えられていた一種の言語であっても、人語ではなく、むしろ、密語の一部でもあり、人間がその密語を話すとき、自然界の意思が響きに応ずるが如く動くと謂われている。自然と人間は、対立するモノではなくて、人間の五体そのものが、既に、小宇宙であり、この小宇宙の人間が大宇宙にひたひたと化してゆくことも可能であり、その化する時に媒体として、咒(しゅ)が、あるのであると、孔雀の鳴き声には、それが、含まれていると、人間がこの密語を発すれば、孔雀に化すると、何か、動物の言葉を話すドリトル先生のようでいて、面白い。
インドに於ける咒(しゅ)の歴史から、古代アーリア人、バラモン教、土俗的な雑密・純密の考察を経て、いよいよ、密教的な宇宙に於ける最高の理念である大日如来なる絶対的な虚構の設定に移ってゆく。
無限なる宇宙のすべてであると同時に、存在するすべてのものに、内在し、舞い上がる塵の一つにも、内在し、あらゆる万物に内在しつつしかも、宇宙に普く充ち満ちている超越者でもあると、しかも、宇宙を過酷な悪魔のようなものとは、考えず、絶対の叡智と絶対の慈悲で捉えて、釈迦のように、敗北感を有することなく、絶え間なく万物を育成して、無限に、慈悲心を光被して止まないという思想で、こうした純粋密教こそが釈迦教の一大発展形態ではないかと考えるにいたる。この空海の陽気さというものは、何処から、来るのであるか?

釈迦以前のインド思想、から、釈迦以後を経て、華厳経の成立へ、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、禅的な武道の中での「静中動有り・動中静有り」という思考法とも、関連づけられる。万物は、相互にその中に一切の他者を含み、とりつくし、相互に無限に関係し合い、円融無限に旋回し合っていると説かれ、毘盧舎那仏の悟りの表現でもあり内容でもあると、
華厳経では応えてくれなかった答が、大日経には、あるのだろうか?即身成仏の可能性とご利益を引き出してくれる法とは何か?そして、どのようにすれば得られるのか?大日経にあっては、華厳のそれより、更に、より一層宇宙に偏在しきってゆく雄渾な機能として毘盧舎那仏は、登場し、人間に対して、宇宙の塵であることから、脱して、法による即身成仏する可能性も開かれていると説く。
奈良南都六宗にみられたような人間の本然として与えられた欲望を否定する解脱だけをもって、修行の目的とするものとは、異なる方向性、有余涅槃と無余涅槃(=死)をも止揚しうる境地へ、向かう。死よりも煩悩や生をありのままに肯定して、好む体質だったのであろうか?大日経は、文章的にも難解で、サンスクリット語で書かれていて、この不明な部分を解読するためにも、漢語だけでは、不十分で、いよいよ、入唐を決意することになる。

奈良六宗に対する「論であって、宗教ではない」という最澄の痛烈な不満、経典は研究すべきものでなくて、声を上げて読誦すべきもので、その声の中に、呪術的な効果があると、読経と止観という瞑想行の必要性、華厳経の注釈書を読んでいたときに、法華経にぶつかる。体系としては、般若経の空観(くうがん)という原理を基礎にして、数字の零(空)にこそ一切が充実している、宇宙そのもので有り、極大なるものであり、同時に、極小でもあり、全宇宙が含まれていて、そこでは一大統一が矛盾なく存在していると、説かれる。
空海は、天台は、宇宙や人間はこのような仕組みになっているという構造をあきらかにするのみであり、だから、人間は、どうすれば良いかという肝心な宗教性において、濃厚さに欠けているとのちに、やかましく、議論することになる。

六世紀半ばでの仏教の伝来を考えるときに、玄奘三蔵が、インドへ経典収集の大旅行を敢行してから、或いは、それ以前のバラモン教や拝火教でも、現地の言葉(言語)というものを、何らかの形で、輸入言語・飜訳語・造語されることになることを、今日、忘れがちである。その意味で、サンスクリッドだけでなく、イラン語、中央アジアや印度・ネパールなどの言語も、改めて、その当時の造船・航海術、通信網やら交通の発展程度、当時の技術も、よくよく、念頭に入れておかなければならないであろう。
しかしながら、当時の人々の考え方というものが、今日の我々と根本的に、1000年も2000年も経過したところで、おおいに、隔たりがあるとも、思われない。形而上学的な宇宙論も、一神教も多神教も、旅をするという心も、外国語を学ぶということも、どれ程の違いがあるのであろうか?そう考えると、四隻の遣唐船のうち、運良く、辿り着けた二隻の船に乗り合わせた二人の運命は、当時の航海・操船技術を考えると運が良かったということなのであろうか?それとも、幸運だけでは説明しきれない何ものかがあるのかも知れない。

ヒト・モノ・カネ・情報では無いが、人脈と資金、写経ですら、アルバイトや専門の僧侶雇わなければならず、大変なプロジェクトであることが分かる。サンスクリットの原語を朗読する者、唐語・漢語に飜訳する者、それを整えて文章化する者、校正し直したり、議論したりしながら、何百人という専門家や学僧が関わることになる訳である。印刷技術が発達した今日では、いかにも、当たり前に、経典自身が、印刷されていると錯覚しがちであるが、当時の写経という行為を考えれば、或いは、つい100年も前ですら、本自体が、人の手から、手へと、書き写されていったことも又、事実である。それを考えただけでも、文化の伝来、その基礎となるべき本や、経典ですら、コピーをベースに、或いは、飜訳・造語を経て、行われていることに、改めて、思いを巡らさなければならない。それ程までに、多大な時間と人的なエネルギーが必要とされていたことであろうし、それは、換言すれば、お金がかかっていたと言うことにもなりえようか?
20年と云われる留学期間をあっさりと2年ほどで、終えて、帰国することになるわけであるが、長安での漢民族ではない不空から恵果へと伝授される密教の極意との出逢い、イラン、ペルシャ、回教徒、景教(ネストリウス派の基督教徒)、マニ教、インド僧、ラマ僧、中央アジアとの異文化・異教徒、異国のウィグル族の商人達との出逢い、謂わば、大いなるシルクロード経由での文明論・宗教観との激突という風景が、今日からでも、容易に、想像されよう。一体、現地では、どんなものを食べて、どんな言葉で、どんな人物と文化交流していたのであろうか?護摩修行とバラモン教、ゾロアスター教、拝火教との関連性は、どんなところから、影響し合ったのであろうか?
何故、空海は、密教の中に釈迦が嫌悪した護摩を取り込んだのであろうか?印度系の土着宗教であるバラモン教から系譜を引いているといわれるが、単に、バラモンの修法が、高度に思想化されて、火を真理として、薪を煩悩に喩えて、焼却し尽くすという思想的な進化を遂げることになるのであろうか?炎と行者と、その行者の前に佇立する本尊という三者の三位一体性ということが、果たして、身・口・意という三密行を感応せしめるということに繋がるのであろうか?それは、又、後の内護摩・外護摩(観念のなかで、具体的なものを抽象化して清浄にする)という二つの思想に分化してゆくになる。
具体的な世界は、すべて、煩悩の刺激材であるとみて、具体的な世界がなければ即身成仏という飛躍はできず、その抽象的な世界を、一瞬で浄化(抽象化)してしまう思想と能力を身につけることこそ、密教的な作業であると、だからこそ、後年、空海は、護摩をも、思想化してしまって、護摩の火に薪という具体的なもの、即ち、煩悩が、瞬時にして、焼かれて消滅してしまうという(抽象化)を遂げるという、そういう考え方を持つに至るのか?
護摩業とか、雑密に今日でも連綿として、残っているものは、どのように思想化されてきたのであろうか?それとも、思想が何故、風化されて、単なる儀式行為としか、残らなかったのか?
密教には、二つの体系があると云う。一つは、精神原理を説く金剛経系、もう一つは、物質原理を説く大日経系で、前者は、インド僧、金剛智が伝え、後者は、善無良という、これも又、インド僧が伝えたと謂われている。金剛智は、これを不空に、更に、恵果へ、更に、空海へと伝えたわけであるから、成る程、インド僧たる般若三蔵について、空海が、長安ので、サンスクリットを学んだとしても、何の不思議はない。更に云えば、キリスト教の宣教師である景浄とも般若三蔵が深い関わり合いを有するとなると、もはや、大日経の経典を入手するという目的だけではなくて、広い意味での当時の中央アジア・インド・ペルシャ・イラン・唐に至る文化的宗教学的な視点が、実は、密教の誕生には、深く、関わっていたのかも知れない。そう思うと、文化交流というもの、宗教の成り立ちにも、様々な、国籍の錚錚たる異国のメンバーが、広く、深く、何らかの形で、直接的にも、間接的にも、関わっていたことが改めて、再確認されよう。それは、これ程、旅が便利になった今日でも、はるかに、想像を超えるものである。単なる大乗仏教と小乗仏教という二つの流れで、アジアへ、仏教が伝播したという単純な問題ではなさそうである。
しかも、西域人であろう不空:インド僧たる恵果:日本人留学僧である空海という系譜の中で、この二つの異質な流れが、互いに、反撥しあい乍らも、生き身の精神の中に、相克しつつ、この両部を一つに、「両部不二」として、空海の中で、止揚・完結されたという事自体が、驚くべき歴史的な事実なのかもしれない。しかも、その密教は、中国では死滅し、国境を超えて、曼荼羅や経典、秘具も含めて、空海により、日本にもたらされたという事実。その意味でも、精神原理と物質原理との双方からのアプローチとしての密教を考えると、今日の素粒子理論やニュートリノ実験の課題なども、まんざら、素粒子だけの問題ではなくて、宇宙理論、物質とは何から出来ているのかという永遠の課題にも、行き着いてしまうほど、底流に、共通項があるようにも思えてならない。
そう考えると、印を結ぶとか、密語を話すとかも、そういう観点からも、考察する必要があるのかも知れない。

何かの番組で、千日回峰を達成した阿闍梨の様子を見たことがあるが、解脱したような老僧の風貌ではなくて、まるで、極地から生還し立ての冒険家のようなエネルギーに、あふれたような風貌であったことを想い起こす。さすれば、若い時の空海という者も、恐らく、当時は、そんな風貌で、山野を跳び回っていたのであろうか?
話を元に戻すことにしよう。
下巻:
千人もの門弟を有すると云われた、金剛界と胎蔵界の二つの密教の世界観を同時に、修めた恵果和尚、しかも、その人生が終わろうとするまさに最後の僅か7ヶ月前に、空海が現れたというその奇蹟にも近い、偶然性、更には、その後、密教自体が、中国でも、消滅してしまったという事実を考えると、得がたい絶妙のタイミングであろうか。
恵果和尚による法を譲り渡すときに行われる灌頂(結縁灌頂・受明灌頂・伝法灌頂という3種類:)の前での投花の儀式での二度に亘る奇蹟、中央の大日如来の上に、投げた花が落ちる。この二回ともというものも、又、偶然なのか?それとも、必然だったのであろうか?そして、恵果より、大日如来の密号で、本体が永遠不壊で、光明が遍く照らすということを意味する、「遍照金剛」という号を与えられる。
灌頂を受けつつも、僅か三ヶ月で両部の秘密(象徴)を悉く学び、二百余巻もの根本経典も原典・新訳・漢語訳を含めて、これらをすべて、独学で、修得したという離れ業。
天台宗を体系自体を全部、国費で仕入れに渡った最澄とは異なり、空海は、謂わば、私費で、経費も与られずに、密教を一個人として、留学生(るがくしょう)として、請益してしまう。しかも、長安での滞在は、僅か2年に満たないで、本来の20年分の経費をも、惜しげもなく、一挙に、曼荼羅や密具への謝礼や経典写経の経費に充ててしまったのである。そして、帰国のタイミングも、後から考えれば、これを逃していれば、帰国できなかったかも知れないという、奇蹟に近い絶妙なタイミングである。入唐時での偶然の漂着、帰国に際してのタイミングという奇跡的僥倖、幸運の強さ、更に、「異芸、未だ嘗て倫(たぐい)あらず、」と唐僧から謳われた異能は、どこから、培われたのであろうか?生来、その人間が有していた固有の才覚なのであろうか?書道の達人、帰国後の三筆と称せられた嵯峨天皇との関係、或いは、長安での文化人との交流、帰国時での詩文の交換など、入唐に至るまでの現地交渉過程での文章力、漢文作成能力、など、こんな多彩な異能は、どう考えたら良いのであろうか?

帰国後から上京までの謎の期間を、必ずしも経典資料の整理の期間とは考えず、むしろ、自分に宗教的、政治的に有利な環境が醸成されるのを意図的に、待ち望んでいた感があると、司馬は解釈する。桓武天皇の死がその後の最澄の政治宗教上の苦境を徐々に、迫ることになる。天台宗が公認されたにもかかわらず、奈良六宗に対する否定的な立場と彼らからの反感を持たれるという相克を生み出すが、空海は、逆に、むしろ、親近感と排撃することをしなかったという政治状況が皮肉にもやがて、醸成されてくる。
最澄は、宮廷に、一定程度の影響力と旧仏教勢力との対決が不可避であったのに対して、無名に近い空海は、むしろ、逆に、それを有していなかった、そのことが、むしろ幸いしたのであろうか?
最澄は、天台過程を止観業と呼び、密教過程を遮那業と呼び、二つを同格視し、伝法公験という証明書紛いまで発行させたことは、密教を飽くまで、仏教の最高地位に位置づけ、これを教学・筆授ではなく、人から人へ秘伝として伝えようと目論んだ空海とは、密教それ自体に対する考え方で、徐々に、相容れなくなる。最澄が、仏教を人間が解脱する方法を道であると考えて、経典を基礎とした教えに、重きを置き、釈迦から自分はこう聞いたということが書かれた経典を中心に、一つの体系として、これを必要とした。むしろ、奈良仏教には、この体系がないとした。

さて、ここで、鎮護国家という考え方:護国思想という罠:について、考えてみよう。
誰一人として、密教伝来の正嫡という、嘗て入唐した日本人僧が得られなかった栄誉を単なる一留学生たる空海が、与えられたという事実。これは、最澄ですら、否定できない事実であろう。空海は、自分が、遠い異国からやってきた異種・異能の者であるという、人種・国境・身分を超えた普遍的な宗教思想家であるという自負、自意識、日本の矮小性を初めから、自覚していたのかもしれない。仮にそうであるとすれば、世俗との関係性において、皇帝とか、貴族とかを認めていたとしても、その宗教上の思想性の展開については、必ずしも、自身の経験と唐での様々な国との、今で謂う外国人との人的文化交流や生活から、そういう類の階層・身分に固執することはなかったのかも知れない。むしろ、異国での異文化交流や様々な宗教に広く触れ、且つ、言語の段階から、直接触れることで、謂わば、当時のコスモポリタン的な視野に、立脚できたのかも知れない。その意味では、国家護持仏教であるにもかかわらず、必ずしも、国という小さな枠では、守れない視点があろう。後の世での高野山の既得権益化と政治支配者化を考えたときに、宗教家の於かれた政治的・社会的な情勢は、権力による庇護なのか、対立・構想へと突き進むのかが、微妙に、別れるところである。
華厳経の世界を具象化した毘廬遮那仏(大仏)が鎮まっているという東大寺の政治的な位置、
新しいものが、旧いものを駆逐するという考えの中では、何故、共に、外国から入ってきた旧来の奈良仏教も、最澄・空海の新しい仏教も、併存する形が可能なのであったのであろうか?純思想的な、或いは、宗教上の純然たる論争による結着ではなくて、むしろ、当時の経済的、政治的、社会的な理由と取り巻く環境の要因が考えられるのであろうか?
平安朝に於ける藤原氏や薬子の乱や道鏡による政争の影響から、或いは、唐での政争を経験することで、安禄山の乱より、如何にして、自身の思想・宗教を守るのか?影響されることなく、如何に守るのかに腐心したのかも知れない。鎮護は、決して、根本的な鎮護国家仏教へと、空海の場合には、繋がるモノではなかったのではないだろうか?
顕教と密教:顕教とは、外側から理解出来る真理で有り、密教とは、真理そのものの内側に入り込み、宇宙に同化するという業法と理論で、空海は、真言宗という体系を樹立することで、密教が顕教をも包含する最高の仏法であるということを、自ら、体現し、明らかにしようとした。顕教を棄教して、宇宙で唯一の真理である密教を、身体と心で、挙げて服することが、本当に、最澄には、出来るのかと疑い始める。書物による伝授法、経典の借用、写経や筆授は、密教に於いては、あり得ないという空海の立場、師承という形以外に、秘事に類する重大なことを含めて、密教は決して相続されないものである。
泰範という最澄の弟子の改宗というエピソード的な出来事についての考察、:
経を読んで、教養を知ることは真言宗では第二のことで、真言密教は、宇宙の気息の中に、自分を同化する法である以上、まず、宇宙の気息の中にいる師につかねばならす、その師の指導の下で、一定の修行期間が与えられ、心身を共に、没入することによってのみ、生身の自分を仏という宇宙に近づけられ得る。宇宙とは、自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、すべての活動という三密(動作・言語・思惟)を止まることなく、旋回しているが、行者もまた、この宇宙に通じる自己の三密という形で、印を結び、真言(宇宙の言葉)を唱え、そして、本尊を念じ、念じ抜くこと以外に、宇宙に近づくことは出来ないし、筆授では、決して、成し遂げられないと考えられた。最澄は、密教の一部を取り入れようとし、決して、密教そのものの行者になるつもりは決してなかったのではないか?だから、灌頂を受けても、あとは、書物で、密教の体系を知ることが可能であると、考えていたのであろう。最終的には、伝法灌頂を授けずに、程なく、経典を貸すのみで、両者は、その途中の紆余曲折の過程は別にして、結果として、断交状態に近い形になる。

飛白書という奇抜な書体についてである:書というよりも絵に近い、文字によって、筆も変えなければならない。能書は、必ず、好筆を用うと、南帖流の王義之や北魏流の顔真卿らの書風・書聖に話は、移ってゆく:「書とは、自ずから己の心が外界の景色に感動して自ずから書をなすもの」であり、「万象に対する感動が書には、籠もっている」と、更には、「書の極意は、心を万物に散じて心情をほしいままにしつつ万物の形を書の勢いに込める」のであると、「すべからく、心を境物に集中させよ、思いを万物に込めよ」、更には、「書勢を四季の景物にかたどり、形を万物にとることが肝要である」と、何とも、悪筆の自分などは、いつも、PCのタイプの助けを借りなければ、文章を書けないのに対して、誠に、苛烈な容赦ない言葉である。
しかも、その書体自体が、思想的な論理構造にも、何らかの形で、関係しているとまで、云われると、もはや、グーの音も出ないし、おおいに、悪筆を恥じ入らざるを得ない。
空海の書には、「霊気を宿す」とまで云われると、何をや、謂わんであろうか?
自然そのものに、無限の神性を見いだすという考え自体、自然の本質と原理と機能が大日如来そのもので、そのもの自体が、本来、数で謂えば、零で、宇宙のすべてが包含され、その零へ、自己を同一化することこそが、密教に於ける即身成仏徒でも云えるのか?

入定という思想:空海は835年に、紀州高野山にて、62歳でその生涯を閉じる。奥の院の廟所の下の石室において、定にあることを続け、黙然と座っていると信じられている。後年、俗化してしまった高野聖や高野行人や後世の中世半ばの荒廃を思うとき、その思想性の高邁さと孤独性が感じとられる。入定と入滅とは、おおいに異なり、この世に、身を留めて、定に入っているだけであると。一切が零で有り、且つ、零は、一切であると云う立場の空海が、「留身入定」という考え方を、信じながら、なくなっていったとも、考えられず、後世の結局は、言い伝えなのであろうか?「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなむ、」とは!!、「薪尽き、火滅す」と弟子の実慧は、師匠の死を唐のにも、伝えている。
風速計で、風力の速度を知ることが、顕教とすれば、密教は、むしろ、風そのものですら、宇宙の普遍的な原理の一部に過ぎず、認識や近くを飛び越えて、風そのものになる(化ける)ことであり、即身にして、そういう現象になってしまうにしても、それはちっぽけな一目的で、本来は、宇宙の普遍的な原理の胎内に入り、原理そのものに化してしまうことを究極の目的とする。当時の宗教のレベルは、1200年も経った今日でも、誠に、不可思議で有り、「人間の肉体は五蘊(ごうん)という元素が集まっているものである」そうであるが、確かに、般若心経の一句でも、「照見五蘊皆空」(ショウケンゴウンカイクウ)「度一切苦厄」(ドイッサイクヤク)となっている。よくよく、文字の一語一語をしっかりと理解して、読経をしなければならない。まるで、ナノテクか、原子物理学の世界に迷い込んでしまいそうである。それでは、ひとつ、般若心経でも、唱えてみることにするか?さてさて、いよいよ、四国巡礼、阿波足慣らしのまずは、決め打ち準備に、掛かろうとするか!?足許不如意だから、サイクリングで、ゆっくり、ゆくとするか?雨が心配であるが、考えてみれば、雨も又、自然、宇宙の一部に過ぎないのであれば、自分も又、同様なのであろう。そう考えれば、濡れることも当たり前なのであろう。恐るるに足りぬか?でも、やはり、レインコートは、必要かな?一応、リストに入れておこう。


昔の散歩道を走る:

2015年05月29日 | 動物・ペット
昔の散歩道を走る:
といっても、若い時のように、ジョギングではない。自転車であるが、、、、、、。まだ、愛犬が、若い頃には、一緒になって、1時間コースを半分くらいは、ジョギングしたものであるが、後の半分は、いつも、歩くことにしていた。帰りには、「あれ!、走らないのですか?」と、私の方を、拍子抜けしたように、我が愛犬が、見上げていたのを想い起こす。一緒に散歩した道も、相変わらず、基本的なコースは、変わらないものの、旧近衛邸の荻外荘は、今や、相続の為なのであろうか、広大な庭も、鯉が悠然と泳いでいた大きな池も、やがて、駐車場になり、その駐車場も、今や、区の芝生の公園へと変貌していた。のんびりと、親子連れが、小さな子供達と一緒に、木陰で、初夏の風を愉しんでいる。川沿いの公園は、護岸工事なのであろうか、途中で、行き止まりになっていて、我が愛犬と行った散歩道も、途中で、迂回しなければならない。もうすぐ、丸3年になるのかと、感慨も一塩である。自転車でも、平気で、片道30分程度は、良く走ったものである。小さい頃から、よく、走るのが好きだったから、きっと、足腰が鍛えられて丈夫で、18歳4ヶ月も長生きすることが出来たのかも知れない。足腰が、衰えても、亡くなる前まで、外の空気を、その鼻で愉しんだものである。一緒にお花見を愉しんだ川沿いの桜も、昔のままであった。

舞踏家、麿 赤兒の「斥力」とは、:

2015年05月28日 | 社会戯評
舞踏家、麿 赤兒の「斥力」とは、:
別に、舞踏に、興味があるわけでも、その世界に、精通しているわけではないが、60年代の頃、土方巽や、田中泯などの一連の所謂、前衛舞踏家と呼ばれる集団や演劇界の唐十郎の流れの中で、舞踏家、麿 赤兒という名前くらいは、知っている。強い磁力から、「逃げる力」は、決して、単なる消極的な回避し、逃避するというものではなくて、むしろ、しっかりとした「エネルギー」が必要とされるそうである。怯えて、逃げて、開き直って、生きて行くことこそ、大切あのであると、この舞踏家は、まるで、「武闘家」の如き、内に秘めたエネルギーを70歳を超えても、信念として、有している。昆虫の譬えを引用して、他者を無理矢理支配するやり方は、むしろ、退化なのではないかとも、今日の政治手法や安保法制のことを暗に批判しながら、「引き返す矜恃」を、意識的に有さなければならないと、説いている。戦争は、そうした「逃げる力」、「斥力」が、働かなくなったときに、始まるのであるとも云う。なかなか、戦う前衛舞踏家(武闘家)としては、勇気ある発言である。

ストリーミング・ハイとは

2015年05月27日 | 社会戯評
ストリーミング・ハイとは、
生配信で、アクセスを増やして、クラウド・ファンディングではないが、支援者に、資金を要請して、それで、本当に、生計が立てられるとでも本当に、考えているのであろうか?全く、困った発想である。まるで、タニマチのようなものなのか?否、それとも、スポンサーと、現代風な、ディレクターやプロデューサーのような役割分担なのであろうか?それにしても、自作自演のまるで、一昔前の劇場型マッチポンプのような様相であろうか?まともに、ドローンを新たな産業イノベーションに役立てようとして、日夜、研究している人達にとっては、これはもう、ほとんど、呆れ果ててしまうほどの愚行であろう。一時、バイト先で、動画配信して、威力業務妨害で、起訴されるような行為が記憶に新しいが、それにしても、他人のカネを支援金としてあてにして、素晴らしいコンテンツ(?)を、その要望されるがままに、ストリーミング生配信してゆくという手法は、どこまで、ゆくのであろうか?行き着く先のその先が、おおいに、心配になる。人間の有する欲望が、やる側にも、支援する側にも、止まるところを知らないものがあるのであろうか?いやはや、どこまで、エスカレートしてゆくのであろうか?新手の高揚感なのであろうか?困ったことである。やる方の側も、如何なものであろうかとも思われるが、それを更に、資金や心情をエスカレートさせて愉しむこうした心情にも、呆れ果ててしまう。ニーズ対応の観客参加型の新手のマッチ・ポンプなのであろうか?

これで、連続満員御礼というのは、本当なのか?:

2015年05月26日 | スポーツ
これで、連続満員御礼というのは、本当なのか?:
別に、相撲ファンでもないし、かといって、アンチ相撲ファンでもない、まぁ、大相撲が開催されていれば、テレビ観戦を愉しまない必要もないので、毎場所、みることにしているが、何でも、連続して、満員御礼だそうである。そえは、果たして、相撲人気のバロメーターなのであろうか?結果としては、観客動員数というモノが、一つのバロメーターであることには、変わりはなかろうが、、、、、、相撲の内容や、将来の展望を見たときに、本当に、そうなのであろうかとも、素人目には、映ってしまう。所詮、ひとり横綱の時代から、よく頑張ってきた白鵬にも、流石に、金属疲労の影が見られてきたし、万年、日本人横綱を期待されてきた稀勢の里にも、ここぞという一番で、毎場所、期待を裏切られて、今更、おしん横綱を期待する程の勢いも、最近では、みられない。他の大関陣に至っては、なにをやであろう。それにしても、相変わらずのモンゴル勢の照ノ富士、逸ノ城の大関争い、など、まるで、政界での一強他弱ではないが、同じような状況であろう。かつて、横綱に、駆け上がっていった過程を、各種のデータベースで、年齢とか、勢いとか、ライバルとか、各種の要素を解析した結果、やはり、ある種の「勢い」と、「ライバルの賞味期限」とが、関係しているそうである。換言すれば、勢いよく登ってくるときに、トップが、ライフ・サイクル上で、下降傾向が見られるときに、まるで、エアーポケットのように、逆転現象がみられるそうである。そういうことから、考えると、自己の情況と外部状況と、うまく、それらが、合致したときに、どうやら、下からの「新しいうねり」が、みられるのかも知れない。はやく、そういう局面が、ファンならずとも、観たいものである。演じる側の質もそうであるが、観る側の質は、どうなのであろうか?(千秋楽を前にして)

「毛唐」という差別用語:

2015年05月25日 | 社会戯評
「毛唐」という差別用語:
市原悦子が、NHKの番組の中で、日本昔話の「やまんば」という存在が、好きであると云う下りの中で、「毛唐」という言葉が、「差別用語」であるという意味のコメントを、番組の最後に、流していたが、何とも、番組の文脈の中での流れと市原悦子のこれまでの主義主張を慮れば、本当に、それが、差別用語として、使用されたモノかどうかは、おおいに、疑問であろう。むしろ、逆に、差別用語と呼ばれることで、差別する心を改めて、想起されるようにも感じられる。まるで、何処かの国との歴史認識論争ではないが、余りに、過度に、云われてしまうと、逆に、心の隅に、そんな差別の炎が、点火されてしまいかねないのではないだろうか?逆に言われれば言われるほど、人間は意固地になり、逆に、その言葉が、差別の心を助長してしまいかねないとも思われる。例えば、「片手落ち」などという言葉も、云われなければ、これが、差別用語で、身体障害者を差別しているとは、全く、気付かずに、使用しているモノではなかろうか?私の個人的な体験では、滞米中に、一度だけ、アメリカ人から、ジャップと云う言葉を何かの会話の時に、使用された経験があるが、その時、成る程、これが、差別用語かと、ハッと気が付いたが、日系二世三世ならば、大喧嘩になるところであったのであろう。もっとも、私は、日本人だったから、成る程、これが、発する人間、発せられる人間の立場で、受け取り方が、おおきく、異なるのであることを初めて、感じたことがある。後日、友人の日系三世に、そのことを伝えたら、おおいに、憤慨して、何故、その場で、抗議・議論しなかったのかと怒られたことも想い起こす。幕末の頃の「夷狄」、「紅毛毛唐」も、今の時代からみれば、どんな意味合いで、その言葉は、使用されていたのであろうか?昔の映画を観ていると、必ず、最後に、差別用語を敢えて、当時の時代背景から、そのまま、使用しておりますことをご了承ください、と、わざわざ、テロップで、入れてある場合もみられる。なかなか、考えさせられる。

画材の準備に取りかかる:

2015年05月24日 | DIY
画材の準備に取りかかる:
何せ、趣味などというものは、すべて、素人の域であるから、死滅寸前であった右脳を再生できればそれで宜しいのではないだろうか?版画も、絵画も、スタンプも、サイクリングすらもである。流石に、楽器までは、一寸、手に負えないが、何せ、左腕を包帯で吊して、右手だけで、子供達が小さい頃は、「お馬の親子」くらいしか、ピアノも弾けないから、困ったものである。ギターなどをつま弾きながら、器用に、歌のひとつでも歌えれば、それは、それなりに、大したモノであろうことは、想像に難くない。出来ればやってみたいところであるが、今更という感が無きにしもあらずである。まぁ、今回は、絵画、とりわけ、色鉛筆とクレヨン画から、一寸、本格的なキャンバスでの絵画への挑戦である。取りあえず、初心者用である水溶性アクリル絵の具とB5サイズよりも一寸小さめなSMサイズのキャンバスを購入して、先日行なったデッサン画を基にして、まずは、素描と輪郭線から、することにしようか?工程としては、、、、、、、いつもの癖で、何事もまずは、やるときには、仕事と同様、工程設計と工程管理を建てるのは、どうも、長年の癖からか、なかなか、拭い切れないのが、本音である。兎にも角にも、まずは、素描、そして、次に、色づけ、最後に、背景色と側面の仕上げというところであろうか?水溶性アクリル絵の具は、水彩絵の具と油絵の中間のようなところであろうか?画用紙とは別に、本格的なキャンバスに、絵を描くのは、初めてである。少しは、右脳の活性化に、貢献するであろうか?それにしても、ユザワ屋の店員は、懇切丁寧に、絵の具の説明、筆の選び方、それ以外にも、詳しく、説明して貰い、おおいに、ど素人には、強い味方である。これで、準備だけは、完了したので、後は、芸術的な創作意欲の高揚を待つばかりである。別に、義務でも、それで、メシを食うわけではないから、そんなことは関係ないのであるが、一応、素人であっても、せめて、形だけでも、絵画・芸術に対する「創作意欲」、内なる精神的な高揚を愉しみたいものである。まぁ、出来映えは、所詮知れているから、余り期待は出来そうにないが、この内なる「芸術的心的創造過程」こそが、飽くまでも、重要であると信じている。はてさて、どうなるのか?そして、いつ着手して、いつ頃完成するのか?工程管理は、実に、その場しのぎの、出たとこ、勝負以外の何ものでない。取りあえず、準備だけは、完了である。

予行演習のサイクリングは、結構きつかった!:

2015年05月23日 | スポーツ
予行演習のサイクリングは、結構きつかった!:
自転車での旅となると、それなりの時間をずと、自分の脚で、漕がなければ誰も助けてはくれない。有明のフェリー埠頭までの距離は、約25キロ弱だから、ナビタイムの自転車では、2時間一寸の予定である。もっとも、実際に、走ってみて、初めて分かったことであるが、成る程、地名に、坂上とか、坂下とか名付けられているところは、確かに起伏が激しい。又、車で、走っていると感じられない起伏が、一件、平坦にみえても、どっこい、これが、結構、傾斜がついていて、存外、きついものである。又、信号待ちなどのロス・タイムが、都心部では、重なり、結構、トータルでは、ダウンタイムがあるモノであることが分かる。結局、途中休憩などで、2時間30分というところであろうか?膝や腰は、大して苦痛ではなかったが、サドルが、おしりに食い込んで、結構、痛い物である。長時間の運転に何らかの対策を打たなければならないだろう。それにしても、外人のサイクリストが多いのには、驚かされる。こちらは、シティー・サイクルの自転車だから、どんどん、追い越されてゆく。しかも、車道が怖いから、舗道の端を歩行者をかき分けながら、走らざるを得ないから、その速度も、所詮、知れている。スマホの地図アプリを頼りに、ルートを検索設定して、時々、時間と走行位置を確認しながら、結構、便利である。まぁ、天気が良かったから、スムースに行けたが、これが、雨でも降ろうものならば、もっと、時間も掛かろうし、都市部の高層ビルのひどい向かい風にも悩まされるということが、良く認識された。そえにしても、往復5時間ほどのサイクリングというモノは、結構、厳しく、明日は、間違いなく、筋肉痛であろうか?本番が、おおいに心配である。

地方創生と現実の姿:

2015年05月22日 | 社会戯評
地方創生と現実の姿:
一寸、海外クライアントのアテンドで、一緒に、地方都市の栽培業者を訪問して意見交換したが、成る程、現実とは、如何に、厳しいものであることを改めて、認識する。そこでは、まだまだ、アベノミクスも、地方創生プランも、況んや、成長戦略をやであろうかという状況である。未だ、そこでは、消費税の5%から、8%への影響が、じわじわと、ボディーブローのように、効いていると云われてしまった。おまけに、急激な円安の影響により、輸入資材関係のコストがアップした結果、省益力が衰え、なかなか、コスト・アップの売値への価格上昇分の転嫁が、ままならないと云う。その上、今後、2年後の消費税の8%から、10%への再改定を考えると、先行きに、不安を抱くと、しかも、市場が、台湾などのアジア諸国での生産と海外分業の進展に伴って、ますます、日本での生産が、苦しくなって来始め、将来への後継者不足や先行きへの不安が、増しつつあると、一部で、付加価値商品の開発やら、販路の新規開拓を行っているものの、なかなか、時間が掛かり、成果が思うように、出てこないとも、地方での成長戦略といい、地方創生といい、実際には、なかなか、厳しい地方都市の情況を見せつけられる。一方で、過度な円安の影響により、海外の輸出業者の側も、為替変動のあおりももろに喰らって、円高への過度な期待があるものの、現状では、日銀も政府も、消費物価指数が2%の目標を達成するまでは、恐らく。現状の為替政策を変更するとも思えず、一部の大企業輸出メーカーのみが、大いなる経済的な恩恵を受けることになるのであろうか?トヨタ城下町の地方都市でも、業界が異なると農業や園芸分野では、なかなか、厳しい現状があることを再認識するとは、思わなかった。大都市と地方都市、或いは、輸入業と輸出業、或いは、工業分野と農業関連分野とか、いずれの分野にも薄く幅広く、恩恵が及ぶのには、相当な時間が掛かりそうであることだけは、どうやら、事実ではなかろうか?自分の依ってたつ、立ち位置で、随分と大きく、評価が分かれてしまうものである。道路を隔てて、右と左で、片や稲作と片や、休耕田対策の麦の栽培と、農業政策の光と影を見る思いがする。

シャープから、何を学ぶのか?

2015年05月21日 | 社会戯評
シャープから、何を学ぶのか?
一体、我々は、シャープやソニーから、何を学ぶのか?或いは、タカタからですら、?
トヨタではないが、次の課題は、「挑戦である」のであろうか?それとも、経営者の責任は、極めて、重く、資本集約的な投資事業に、偏っていた為なのであろうか?現役の従業員は、大変なことである。3000人もの従業員の希望退職というモノも、家族も含めると、一体、何人くらいの人達が、影響を及ぼされることになるのであろうか?軍艦島ではないが、考えてみれば、エネルギー革命の中で、石炭から、石油への転換期に、掘り尽くされた海底炭鉱の遺産を、時間を逆廻しにして、今から、眺めてみれば、簡単に、認識できようが、その瞬間には、なかなか、転換期であるという認識が自覚されないものである。産業界での栄枯盛衰とは、そういうことでもあろうか?眠っている知財の検証を、改めて、掘り起こそうとする動きが、各企業で、盛んであうが、自己の優位性と劣勢度合いとを客観的に、認識し、どういう将来的な方向性に、戦略的に、自分の組織が、向かおうとしているのかを認識して、自己防衛してゆかないと、結局は、組織もさることながら、自分の人生も、運命共同体的に、自滅してしまいかねないのが、どうやら、現実のようである。経営者の責任は、極めて、重いが、構成員の各人生も、どうすべきか、よく考えながら、自己防衛手段を講じてゆかなければならないのが、現実なのかも知れない。今、天下を取っている組織も、いつ何時、気が付けば、凋落してしまっていることになるか、全く、夢想だにできない。それにしても、一世を風靡した著名な会社が、相次いで、駄目になってしまった。

混雑した電車で思う:

2015年05月20日 | 社会戯評
混雑した電車で思う:
地方都市などでは、ほとんどの人が、マイカー通勤であろうから、大都会での通勤(痛勤)は、恐らく、想像もつかないくらいであろう。考えてみれば、30年以上に亘って、よくもまあ、若い時から、満員電車に揺られて、通勤してきたものである。この時間とエネルギーの消耗度合いを数値化できたならば、相当な国としてのロスではなかろうかとも思われる。マイカー通勤での道路混雑も苦痛であることには違いないが、満員電車というモノは、更なる苦痛以外の何ものでもない。やむを得ず、朝方、通勤ラッシュアワー時に、新幹線に乗る必要が生じて、朝の満員電車を利用することになったが、生憎、例によって、20分遅れで、凄まじい混み方で、ホームにも人が溢れ、やむなく、快速から、急遽、ホームを変更して、各駅停車で。ゆくことに変更したものの、それでも、乗ってから、気が付いたのであるが、午前10時までは、椅子が、利用できないような車両で、全員、まるで、家畜輸送列車のような有様である。それも、超満員電車に較べれば、天国であろうか?それにしても、日本のサラリーマンは、朝から、晩まで、通勤途上でのストレスは、如何ばかりの物であろうか?確かに、外国人が、こんな劣悪な環境でも、何故、乗客同士の喧嘩や暴動が、生じないのかと思うほど、秩序整然としている。というよりも、身動きがとれないのかも知れないが、、、、、、。いやはや、久しぶりに、混雑した(?)電車に、久しぶりに、乗ってみて、如何に、サラリーマンが、大変な仕事かが、改めて、再認識される。おまけに、子供を2人連れて、バギーを折りたたんで、通勤する若いママさんをみていると、これも又、大変な作業であると、同情してしまう。改めて、社会の実相を垣間見たような気がする。新幹線に、乗る前から、おおいに、疲れ果ててしまった。

耳、濯ぐ:ギャラリーれがろ、10周年記念チャリティー・コンサート

2015年05月18日 | イベント 祭 催し
耳、濯ぐ:ギャラリーれがろ、10周年記念チャリティー・コンサート
文化的な事業で、メシを喰うと云うことは、さぞかし大変なことであろう。しかも、画廊となれば、尚更のことであろう。長期間に亘る不況とデフレの波の中で、よく、開業以来、10年もの長きに亘って、経営してきたものである。しかも、別に、親の代からの家業を継いだモノでもなければ、それ専業の世界に、身を置いて、修行してきたわけではないのに、大変な苦労をしてきたことであろう。小諸懐古園でのさくらさくライブと生憎、重なってしまったが、幼なじみのこちらが、先約だったから、こちらを優先せざるを得なかった。それにしても、入場料のうち、ワンコイン分を、ワールド・ビジョン・ジャパンに寄附するというチャリティー・コンサートとはいうものの、その音楽性の内容としては、充分、観客を満足させるに足りうる内容である。とりわけ、これまで、CDなどでも、あまり、聴いたことのない所謂、オペラを、事前の丁寧なプロによる説明・解説を聴きながら、生で、味わうということは、なかなか、楽しいことである。ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バスによる男女混合や単独で歌いあげる様には、耳の鼓膜の奧底まで、その振動で、振るわされ、まるで、耳垢がその震えで、落ちてしまうかの如くである。「耳濯ぐ」ということは、きっと、こういうことを指しているのではないだろうかとも、実感してしまう。分かりやすい説明と解説が事前にあったせいだろうか、とんと理解出来ないイタリア語も、何とはなしに、あらすじが、理解出来たような気がして、おおいに、愉しめました。それにしても、各歌手のプロフィールをみてみると、成る程、芸術には、お金がかかるものであることが、改めて、理解出来る。ことほど左様に、芸術・文化というモノは、演じる側も、それを観る側も、どうやら、そうしたことをしっかりと、理解しうる共通項が、互いにないと、どこかで、デフレの安かろう悪かろうというスパイラルに、陥ってしまうのかも知れない。たまには、しっかりと、良いモノを観たり、聴いたりしないと、眼も耳も肥えないのかもしれないし、芸術を理解・支援するパトロンには、なり得ないのかも知れない。少しは、耳の垢も、一時、落ちたような気がするのは、大いなる錯覚であろうか?

久しぶりのスタンプ判子製作:

2015年05月17日 | DIY
久しぶりのスタンプ判子製作:
啄木鳥のスタンプ判子を製作後、一寸時間が空いてしまったが、ミニ・カレンダーの中にあった教会の写真が、なかなか、素敵であったので、これを試しに、彫ってみることにした。又、以前、東急ハンズで、購入した木製の小さな樹と犬の形をした文字盤のような物が、手製の表札から、剥がれ落ちてしまい、そのままになっていたので、これをスタンプに、彫ってみようと考えた。もう一つ、本当は、渡り鳥の飛ぶ姿を、企画しているものの、こちらは、しっかりと、創作意欲が強くならないと彫るのも、結構、大変であると云う事が、自分でも分かってもいるので、こちらは、少々、時間を暫くおくことにしよう。葉書の下部に、スタンプを押す程度であるから、それ程、手の込んでいないデザインでも宜しいか?何分、ディテイルが、結構、犬などは、難しいので、どんな風に完成されるか、少々不安ではある。いずれにせよ、幾つか、試し彫りで、やってみることにして、まずは、イルカ、教会の風景、犬と樹木、犬の足跡、これらを彫ってみることにした。犬の足跡は、小さくて、肉球がうまく彫れなかった。今後の課題である。

デッサンを開始する:

2015年05月15日 | 動物・ペット
デッサンを開始する:
湯治客だから、毎日、温泉にゆかなければならないし、陽気も良くなってきたから、ベランダで、読書もしなければならない。花も愛でたいし、木も見たいし、又、植木の手入れ、男の手料理も欠かせないところである。結構、やるべき(?)事が、目白押しである。写真を利用した愛犬をうまく描くという作業も、いよいよ、デッサンから開始することにしよう!なかなか、輪郭を思いっきり描くという作業は、難しいものである。暗いところは、濃いめに、黒の鉛筆で、しっかりと、描くことも肝心であると、、、、、それでも、頭では分かっていても、なかなか、思うように手の方が云うことをきかないものである。脳の方が思うように、云うことをきかないのであろうか?それでも、眼の描き方とか、全体の輪郭との関係での色づけとか、結構、厄介なディーテイルをうまく描くことも、必要である。右脳再生中であるから、刺激になって宜しいではないか!画用紙に、描くのは、これまでも、何度かは、あったものの、今度は、キャンバスの上に、水性アクリル絵の具で、描いて見ようかとも、考え始める。写真とは一寸違った亡き愛犬の面影が、記憶の中に浮かんで来る感じがする。不思議なことに、余り、夢には現れない愛犬が、ふと、現れ出でたのには、驚いてしまう。脳を刺激して、活性化されたのであろうか?出来映えも気になるところであるが、所詮は、自己満足であるから、おおいに、脳が刺激されることは、喜ばしいことである。画用紙とは違って、本格的なキャンバスでは、どんな出来映えになるのであろうか、たのしみである。ネットで、調べていたら、100円ショップで、ステンドグラスも出来るそうである。夢が、次々と、膨らんで面白くなりそうである。もっとも、いつ出来るかは、又、別の話であるが、、、、、、、。

山吹の花を活ける:

2015年05月14日 | 自然・植物・昆虫
山吹の花を活ける:
「七重八重花は咲けども山吹の実の(簑)ひとつだになきぞ悲しき」、毎年、山吹の黄色い花が、咲き始めると、太田道灌のこの歌を想い起こすが、新緑の緑が深まる季節には、この枝の伸びきった先に咲く黄色い花が、おおいに、目立って、美しい。我が家の玄関先に生えている山吹は、八重で、花びらが、数多くて、その黄色の色合いも、濃くて、緑に映える。この黄色と緑の葉と、花瓶の茶色の色合いが、マッチしていて、私個人としては、好きな組み合わせである。如何にも、花瓶の色が、土の色のようで、まるで、土の上に、あたかも、植えられたかの如く、見えれば、生け花としては、おおいに、満足するところである。というよりも、自己満足するというところが、正直な感慨であろうか?プランターに植えられた球根や春の花々も宜しいが、自然に毎春、花を咲かせてくる花々もある程度、観賞し終わったら、枝先の剪定も兼ねて、来年の為に、チョキンとカットして、生け花にしてみるのも、これ又、一興ではなかろうか?テーブルの上に、置いてみたら、部屋の中が、急に、この黄色い色で、パッと輝きだしたような気がするのは、錯覚だろうか?一輪挿しでも、何でも、花を活けることで、花を愛でる気持をいつまでも持ちたいものである。来年は、どんな花を咲かせてくれるであろうか?因みに、英語名では、Japanese Roseとも云われているそうです。