小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

早速、英文HPの効果が、Airbnbの予約で、出始めた!!:

2016年05月31日 | 社会戯評

早速、英文HPの効果が、Airbnbの予約で、出始めた!!:
ボランティアで、早速、英文HPを開設したら、早速、その効果が出始めて、6月、8月と12月末と海外インバウンドの予約が、入り始めた。一応、予想通りと云えば、そうでるが、極めて、順調で、しかも、様々な分析が可能になってきた。サービスも、きめ細かく、お客様の意見をどしどし、取り入れてゆけば、面白い展開になりそうである。しかも、レビューを書いて貰って、他人の褌で、宣伝してもらえることは、誠に有難い話である。確かに、このレビューは、ホスト側も、顧客側から評価されると同時に、顧客側も、ハウスルールを守らなかったとか、ホスト側から、低い評価をされると、今度は、ほかの宿泊場所に、泊まる権利を制限されたりもするし、ホスト側から、レビューを評価されないと、レビュー自体が、公開されない仕組みになっている。成る程、なかなか、考えたモノである。これなら、一定のレベルの顧客を常に、維持できそうである。要するに、質の悪い顧客が宿泊することは、どうやら、なさそうである。しかも、顧客側は、ある程度の評価を、レビューを読みながら、判断出来るというモノで、なかなか、考えたモノである。徐々にではあるが、こうした相乗効果が、しっかりと表れてくることであろう。

 


地域のお年寄りと一緒にネット・ショップを立ち上げる:

2016年05月28日 | 社会戯評

地域のお年寄りと一緒にネット・ショップを立ち上げる:

今の時代というモノは、ITを駆使すれば、いとも簡単に、ネット・ショップが立ち上がってしまうモノである。地域のお年寄りと話をしてみて、『顔の見えるネット・ショップ』を立ち上げることにした。要するに、分業・協業である。即ち、こちらのこれまでの会社でのネット・ショップの経験とお年寄り達のサプライ側との分業・協業で、これに、若い人達の感性を外部から、都会の顧客として、アドバイザーで参画してもらい、箱や袋のデザインなども、地元のデザイナーなどや、クラウド・ソーシングで、袋やロゴなどを、着実に、構築してゆけば、しっかりと、『顔の見える関係性』を生産者と消費者の間で、可能になろう。私は、よそ者だから、地元は、地元の人にお願いするのが一番である。何事も、小さな第一歩からである。既に、商品リストとプロジェクトチームは、発足済みである。もっとも、発足と云っても、お茶飲みながら、の茶話会だけだったが、、、、、、。ミーティング・ミニッツもレジュメもない。何も、大きな組織ではないから、、訳の分からぬ出来の悪い部長やお偉いさんの承認を貰う必要も、全く無い。サプライ・チェーン。マネージメントも、お手の物であり、又、食品ラベルも、これまで、イヤと云うほど、やってきた。又、マーケティングも、これまでのビジネスの延長線上である。後は、もうやるだけであるから、プラット・フォームを構築して、宿泊して貰ったり、農業体験に理解を示してくれる顧客への告知と宣伝・組織化である。既に、生産者の個別、ニック・ネームと顔写真・自己紹介シールも、準備済みである。年寄りの生きがいになれば、これに勝るものはないし、都会の消費者が、喜んで貰って、体験に、来て貰えれば、有難い。今度は、庭作りも消費者には、手伝って貰おうかとワークショップを企画中です。なにせ、都会のマンションでは、自分の庭もないでしょうから、、、、、、、。ひょっとして、雑草取りも、やって貰えるからも知れませんネ。只、モノを売るだけでは、誠に、勿体ないコンテンツである。7月目標で、開店準備中です。

 


熊本震災義援金の協力:

2016年05月26日 | 社会戯評

熊本震災義援金の協力:

阪神・淡路大震災の時には、義理の妹の神戸の実家が、崩壊して、当時90歳以上であったお爺さん夫婦が、生き埋めになって、何とか救助されたが、そんな長生きをして、怖い目に遭うなんて堪らないと、当時思った記憶がある。会社の同僚の実家やら、結局、義援金やら、様々な支援物資を送ったことを想い起こす。3.11の東日本大震災の時も、徒歩で、4時間以上かけて、携帯電話のテレビの画像を見ながら、自宅まで、帰宅したことをこちらも、想い出さずにはいられない。又、当時は、その前に、NZのクライストチャーチでの地震もあったりと、NZの取引先からは、支援の募金要請があって、こちらも又、義援金を海外送金したことを想い出す。こうして考えてみると、相互互助の精神ではないが、お互いさまで、持ちつ持たれつ、災害の時には、何らかの手を差し伸べるのが、災害や地震の多い日本では、やはり、当たり前なことなのであろう。そうしてみれば、父や祖母も、関東大震災の被災者であったことも、我が家の歴史の中では、記憶遺産に該当するかも知れない。今回は、義援金という形とは、異なり、版画作品を購入するという形で、その代金を全額、義援金として、寄附して貰うことにした。田植えも観ているだけの田植え参加で、せいぜいが、ロジスティックくらいしか、お手伝い出来ない以上、年寄りに出来ることと云えば、せいぜい、お金を寄附することくらいか、使って上げることくらいしか、出来ないのが、関の山であろう。まぁ、それでも、精神的な支援よりも多少は、役に立つかも知れない。何に、どう使われようが、税金の使途を監視する市民オンブズマンではないから、それは、宜しいであろう。購入した作品に、代わりに、作品の中に描かれたなまず様には、地震被害に合わないように、せいぜいが、守って貰うように、お祈りするしかないかな?

 


香港の若いワーキング・ホリデーに学ぶ

2016年05月24日 | 旅行

香港の若いワーキング・ホリデーに学ぶ:

ボランティアをしていると、随分と、色々な海外旅行者達に、出会うと共に、同時に、生き方を勉強させてくれるのでありがたい話である。まだ、独身の若い女の子である。何でも、1年間のワーキング・ホリデーを活用して、京都の着物レンタル会社で、アルバイトをしながら、たまたま、軽井沢から、長野や金沢・福井を回って、京都に戻る度の途中に、宿泊してくれている1人である 最初、メールを英語で打ったところ、流暢な日本語で、返事が返ってきた。どうやら、英語よりも、日本語の方が、勉強になるらしい。日本の歴史や文化、食文化も含めて、農家の体験も貪欲に、勉強したいので、都会の画一的なホテルや老舗旅館よりも、敢えて、格安な農家民宿を選択したと、最初は、素泊まりだと云っていたのに、どうやら、コンビニで、食事は、お握りで済ます予定だったらしいが、結局、話をしている内に、蕎麦も自分で、打つ体験をした上で、明日の晩は、民宿の75歳になるお母さんと一緒に、天ぷらを作ることにも、挑戦したいというではないか?そして、今度は、夏休みには、ちゃっかり、軽井沢で、アルバイトしながら、小諸へも、再び、電車で、泊まりに来たいと言うことになってしまった。確かに、都会の大きなホテルでは、オーナーシェフが、料理の説明をしてくれることはないでしょうね、明日の朝は、畑に出掛けて、レタスとキュウリとトマトを朝採りしてきて、自分で、サラダをつくり、シェフ特製の手作りドレッシングをかけて、食べることにしたいと、、、、、筍、蕗、黒豆の煮付け、グリーン・アスパラ、わさびの説明、お米の説明、寿司の説明、そして、江戸前・前浜の説明から、例によって、江戸時代の醤油の話、天ぷらや寿司の歴史、極めつきは、刺身のつまが、食べられることを初めて知ったというこの驚きに至ると、何をやであろう。大葉をつまと一緒に、食べた後では、手作りの健康ドリンクの赤じそジュースが、振る舞われ、その色と味に、驚嘆していた。勿論、無添加のリンゴ・ジュースは、お土産に、ジャムやクッキーと共に、持ち帰るという。それにしても、未だ、若いのに、大したモノである。言葉も、半年くらいで、判るようになったという。確かに、外国語は、生活の中で、学ぶのが、一番である。今は、スマホでも、翻訳が簡単に検索できるから、便利になったモノであるが、しかしながら、生き方までは、流石に、翻訳は可能ではない。全く、五里霧中の中での試行錯誤のアナログである。京都に住んでいる私のベトナムの友人夫婦を紹介することにした。満月が、明るくて、綺麗だと、これも又、感激していた。若いと云う事は、とにかく、素晴らしいことである。李賀ではないが、『我が心、17にして、朽ちたり』の私達、団塊の世代には、羨ましい限りの無限の柔軟な吸収力と感受性であることに、改めて、教えられると同時に、学んだ。

 

 


天体観測会へ参加してみた:記事のタイトルを入力してください(必須)

2016年05月22日 | イベント 祭 催し

天体観測会へ参加してみた:

もう、30年も前のことであろうか?子供達が小さかった頃に、小さな天体観測用の望遠鏡を購入して、月のクレーターを家族で。眺めては感動したことを想い出す。もう、5月末だというのに、夜になると、長袖でも少々寒いくらいで、ダウンを羽織っている人もいたくらい、少々寒い観測会である。アマチュアとは云うものの、先生が、レーザー・ビームでの、あれが、火星、こちらが、土星、ベガ星、等などとブルーの光線が、まるで、室内のプラネタリウムで、説明を受けているかのような錯覚に陥るが、ここは、室内ではない、明らかに、屋外なのである。この日は、満月間近の月だったので、空が、明るすぎて、星の観測には、不向きな明るい夜で、多少残念であったが、それにしても、参加者全員、感動の連続であった。静けさとか、光がないこととか、真っ暗闇というモノは、実は、最大の天体観測には、強みなのであることが再認識される。それと、自然の条件とりわけ、空気が澄んでいること、春や秋の澄み切った空が、好条件だそうで、必ずしも、夏とか、冬とかに限らない、その時に巡り会うことも、必須条件であると説明があった。成る程、自然相手ということは、幸運にも、恵まれなければ云えないようである。この次は、空気が澄んで、新月の晴れた夜が、狙い目なのか?楽しみである。次回も、参加してみたい。

 

 

 


シャープの7000人人員削減計画?:

2016年05月19日 | 社会戯評

シャープの7000人人員削減計画?:

おやおや、鴻海からの再建支援金が、いつのまにか、1000億円も削減された挙げ句の果てに、今度は、人員削減をせずに、何とか、再建計画を軌道に乗せようと、身売りの契約をしたはずだったのに、一体、どうなっているのであろうか?やはり、おぼこい日本人経営者達は、叩き上げの鴻海の嘗てのやり方と同じく、再び、煮え湯を、案の定、飲まされることになるのだろうか?何とも、やはり、予想していたかのような展開になりそうである。一体全体、最近の日本に於ける経営者のだらしなさは、一体、どうしたことなのであろうか?甘利・猪瀬・桝添と連続して、政治家の不祥事は、何をやであろうが、下部構造のほうも、どうやら、東芝や三菱やスズキではあるまいが、シャープも含めて、勿論、それぞれの問題は、異なろうが、地震の如く、脆弱な地盤の上に、組み立てられていたのかも知れない。それにしても、凄まじい規模での人員削減案である。私が、昔、新入社員で、入社した会社の規模が、約1万人であったと記憶するが、ほぼ、丸丸、当時の会社が、見事に、消え去ることになるのであろうか?考えてみれば、皮肉なことである。自分の手で、人員削減を出来ずに、結局、きれい事を並べて、再建計画の中身を、次々と違えてきて、これで、よく、労働者の権利が、生活権が、雇用が、守れたなどと云えるのであろうか?中高年・若者も含めて、再び、人材と技術の草刈場になることは、もはや、必至の状況ではなかろうか?サンヨーもそうであったし、東芝も切り売りで、そうなのかも知れないし、どこもかしこも、落ち武者狩りのような様相を呈し始めてきている。何か、アベノミックスが、どこかで、ボタンの掛け違いをしたように、どこか底知れない心理的な地震による不安感のようなものが、蠢き始めている様に感じられる。オリンピック招致に沸いた頃から比較すると、明らかに、競技場の問題、エンブレムの問題、招致に要したコンサル費用の問題、過剰な海外視察費用に要した問題等…、明らかに、冷や水を浴びせかけられたような様相である。何か、心理的に明るくなったはずなのに、知らぬ間に、地震のいつ又襲っているのではないかという不安と恐怖のような予感が、漂い始めて来ている。こういう状況になると、やはり、倫理観・清貧の思想が、必要・不可欠であり、厳しいガバナンスとコンプライアンスが、とりわけ、必要不可欠であると、まるで、今度は、振り子を逆に、大きく振られるかの如く、議論が声高に行われると、又、日本人のお得意とする、空気を読みながら、いつか来た道へと、再び、戻り兼ねもしない。

それにしても、経済・経営の分野でも、政治の分野でも、新しい時代を先取りする社会的なテーゼは、一体、何なのであろうか?少なくとも、子供の頃のガンジーの高貴な孤高の哲学と強靱な不屈な精神力に支えられた非暴力(無)抵抗主義などという、当時のテーゼ、或いは第三世界と言う言葉なども含めて、どうも、実に、見えてこない。見当たらないのではなくて、私達自身が、創り出そうとする努力をしていないのか、それとも、創り出せないのか、それとも、若冲ではないが、千年具眼の徒の出現を俟たなければならないのか?うーん、唸ってしまう。

 


ヨーカ堂の社長交代に思う:

2016年05月17日 | 社会戯評

ヨーカ堂の社長交代に思う:

企業というモノは、とりわけ、オーナー企業の場合でも、或いは、中興の祖による輝かしい業績を有する企業でも、随分と、最近では、組織ガバナンスの問題とか、オーナー宗家との関係性やら、宗家内部での骨肉を相食む親子の関係やら、或いは、米国流の物言う株主などと云う複雑な問題が、出てきて、更には、最近では、外部監査役とか、訳の分からぬ社外重役とか、学者も含めた人材の登用など、誠に、一筋縄ではゆかない様相を呈しているようである。新聞報道で読む限り、イトーヨーカ堂、セブンイレブンの社長交代劇を見るたびに、改めて、こうした問題が、大きなリスクなのであることを、感じざるをえない。マクドナルドの藤田田ではないが、『勝てば官軍!』、何でも宜しいから、業績がすべてであって、どんなに、屁理屈、理論を並べ立てたところでも、業績が上がらず、結果として、衰退へと坂道を下って行けば、もう組織というモノは、それで、一事が万事、評価されないモノでもある。逆に、どんなに、業績が良くても、時間をある時点の未来の一時期から、逆廻しに見た時に、実は、その時が、好調な業績のピークであって、そこから、知らぬ間に、下降してゆく下り坂の始まりだったとは、誰しもが、気が付かないモノかも知れない。一強多弱のコンビニ業界でも、錯覚ではないが、鈴木氏は、決して、オーナー宗家ではなくて、実は、創業者・宗家でもなかったわけで、もっとも、自らが手掛けたこのコンビニという業態事体が、もう1人の嘗ての番頭であった鈴木氏と一緒に、二人三脚で作り上げてきたものの、いつしか、出来上がった道を、様々な後からやってきた人達が、企業ガバナンスだとか、物言う株主のファンドとか、外部社外取締役とか、学者先生達によって、どうやら、自らのカリスマ性を否定された挙げ句の果てに、商人の根本である、『動物的・本能的な勘』までも否定されてしまい、つまり、業績が一番良いときに、何故、社長を交代させる必要があるのか、という実に悩ましいが、誰もが反対が出来ない理由で、辞任せざるをえなくなったことは、誠に、御本人は、忸怩たる思いがあったことであろう。もしも、藤田田が生きていたら、どのようにコメントしたであろうか?なかなか、興味深いモノである。『終わりの始まりの兆し』とでも、云ったであろうか?もう、後は、これから先、何年後かの業績の推移を見守るしかないであろう。しかし、科学的な理論と、果たして、カリスマの勘とは、どちらが、将来、優っていたことを証明するのであろうか?他人事といえば、それまでの話であろうが、、、、、、。社員や、取引先、関係者・フランチャイジー達は、他人事ではなかろうが、、、、、。この先、どうなるのであろうか?

 

 


映画、『オマールの壁』を観る:

2016年05月15日 | 映画・テレビ批評

映画、『オマールの壁』を観る:

大都会の便利なところと云えば、演劇や映画の好きな人々には、インディー系の施設が、選り取り見取りで、そういう所が、堪らない魅力であるかも知れない。観よう観ようと思いながら、結局、一月ばかりが経過してしまい、新宿の角川では、夜の部しか、上映していないので、渋谷のアップリンクという30人ほどが入れば、満員になってしまうような小さな映画館で、観ることにして、トコトコと、スマホ片手に、徒歩で、行くことにした。もっとも、年寄りの性で、地図アプリをいつも使ってはいないので、GPSで、自分の位置が、確認出来ても、目指す地点とは、どんどん離れて行くではないか!?結局、交番の前で、操作していても、埒が明かないので、訪ねたところ、どうやら、地図で場所を確認していたにも関わらず、道元坂と公園通りとを、年寄りの思い込みで、勘違いしていたらしく、危うく、上映時間に、遅れるところであった。それにしても、映画監督とか、脚本家というモノは、主人公達を、自分の好き勝手な結果へと、導くモノである。もっとも、題名の通り、巨大な壁に分離されたヨルダン川西岸のイスラエルによるパレスチナ被占領地域での話であるから、ハッピー・エンドに終わることはないとは予想しつつも、このアサド監督は、最期のどんでん返しを、よくもまぁ、観客を見事に、裏切ってくれたモノである。ストーリーは、兎に角、ネタばらしをしてしまう必要も無いので、是非、ご覧ください。冒頭の画面の左方隅に、小さい字で、監修:重信メイという名前を発見した。確か、重信は、あの元赤軍派の重信房子の娘で、現在は、パレスチナ問題などで、三カ国語で、ジャーナリストとして、活躍している人物であることを、ふと、想い出した。成る程、この映画の主人公達とも共通する気持ちを理解出来る立場なのかも知れない。それにしても、占領という余りにも、厳然とした展望の見えないインテファーダの絶望と無慈悲な現実の中でも、人間は、働き、食事をし、毎日、生活し、生きなければならないし、それは、自分自身でも、味方でも、或いは、敵側でも、家族がいて、お金を稼ぎながら、生きて行かなければならない、決して、例外のない人間の宿命のようなものなのであろう。若い頃に、『影の軍隊』というフランス映画で、ナチス占領下のフランス・レジスタンス運動を題材にした映画を観たことをふと、想い出す。レジスタンス組織の維持の為に、自らの命を助けて貰った恩義のある仲間を、やむなく粛正したり、結局、そこに、登場したすべての人物は、何らかの形で、全員、生き抜くことが叶わなかったのであるが、この『オマールの壁』にも、最期のシーンは、とりわけ、エンディング・ロールは、音声が、意図的に、かき消されている。ただ、左側の英語と右側のアラブ文字が、まるで、イスラエルとパレスチナの決して、交わることのない永遠の対立を象徴しているかのように、静かに流れ去って行く。それは、恐らく、観る観客の側に、一種の想像力を掻き立てざるをえないほどの『ある種の力』を有しているかのようである。つまり、この主人公、オマールは、結局、どうなってしまったのであろうか?逃げ延びて、逃げ延びて、助かったのであろうか?それとも、協力者という汚名をそそぎ、パレスチナ抵抗運動の戦士に、変貌していったのであろうか?それとも、自らの命を絶ってしまったのであろうか?そして、幼なじみだった友人は、裏切り者、協力者という新たな汚名の下で、果たして、家庭を守れたのであろうか?それとも、組織の仲間から、密かに、粛正されてしまったのであろうか?7人の独身の姉たちは、、、、、、、或いは、元カノは、どうなってしまったのであろうか?そのふたりの赤ん坊達の未来は、どうなってしまうのであろうか?モサドの側の家族は、どうなったのであろうか?帰りの電車では、そんな『想像力』が、頭の中をグルグルと駆け巡って仕方なかった。『人権』とは、何か、『生存権』とは、何か、『被占領地域の現実』とは、何か、そして、そこでの、敵味方・双方の側での『生きるという』意味とは、『裏切り者・協力者』というレッテルとは、?『自白をしないと宣言することが、犯罪になる現実』とは、?上映後、パンフレットをみていたら、See This Brilliant Film ! ―マドンナと、推薦文を寄せているのが、眼に入ってきた。是非、映画館へ、脚を運んで、観てもらいたい映画である。結局、『さざなみ』の方は、まだ、観れずにいる。

 


イスラム勉強会に考える:

2016年05月14日 | 社会戯評

イスラム勉強会に考える:

考えてみれば、もう、随分と長い間の付き合いである。半世紀ほどにもなろうか、親しい友人達との誠に、内々の茶話会(?)もっとも、冷たいビールを結局、戴きながらに、なってしまったので、途中で、眼が泳ぐようなことになってしまったが、、、、、。まぁ、気の許せる仲間達との肩肘張らない一種の勉強会のようなものである割には、なかなか、考えさせられる内容になった。とりわけ、一神教と多神教の問題とか、奴隷という言葉の定義とか、今日的なインテリジェンス、情報収集の在り方とか、石油価格の予想とか、それにしても、次から次へと、考えさせられる課題が、浮き彫りになるものである。新聞やマスメディアには、書かれていないサウジの裏話や、なかなか、興味が尽きないモノである。もう、みんな第一線を退いた年寄り連中であるから、それぞれ、一家言は有しているものの、人間には、やはり、知的な好奇心が、どこかで、くすぐられないと、生涯現役で、勉強をしようとする内的な、或いは、積極的な意欲とでもいうか、そういうムーチべーションが、人間には、とりわけ、年寄りには、どこかで、沸いてこないと駄目なのかも知れない。昔は、実存を問われるように、口汚く(?)刺々しく、ののしり合った(?)仲間でも、みんな昔のふさふさの黒かった長髪も、グレーになったり、ほとんど、透けて見えるような状態になってしまったが、気持ちは、若い頃と変わらないのは、面白い。たまには、こういう類の会合を主宰して、出たとこ勝負で、集まるのも、宜しいのかも知れない。別に、もう、ギラギラした、利害関係もあるわけではないし、生き方や実存を問われるわけでもないから、気軽と云えば、気軽である。しかしながら、そんな中でも、根源的に、考えさせられる問題というモノが、結構、存在しているものであうことに、気づかされる。昔、読んだ本も、再び、読み返してみようかとも、考え始めた。それにしても、都会の地下鉄の駅と言う奴は、簡単に、迷うし、おまけに、長い距離を歩かされるモノである。電車に乗っている時間よりも、ひょっとしたら、体感では、乗り換え時間のほうが、長いのではないかと疑ってしまうほどである。

 


竹細工・藁細工の復古を企むことにしてみた!:

2016年05月13日 | 社会戯評

竹細工・藁細工の復古を企むことにしてみた!:

先日、農民伝承、伝統工芸品の話を聞いていたところ、今日になって、幾つかの写真がメールで送られてきた。何でも、猫つぐら(ちぐら)が、面白そうである!もっとも、自分の家の飼い猫は、中に嫌がって入ってくれなかったそうである.どういう理由なのであろうか?興味深い話である。それでも、今時、こんなモノを創っている人がいることに、改めて、驚いてしまう。それでも、キャット・ハウス等と云うよりも、この名称自身が、まるで、危険危惧種・絶滅寸前の化石寸前でいて、おおいに、宜しいではないか?農民の伝統工芸の復古を、ネット販売で、企んでみることにするか?こちらは、商品企画開発で、素材も含めて、販売マーケティングを担当して、後は、お年寄りに、毎日、少しづつでも良いから、或いは、予約販売でもよいから、少量から、作って貰うことにしたい。フランス・バケットタイプのパンを運ぶ小粋な藁バスケットとか、昔、子供の頃にイヤと云うほどあった、お弁当入れとか、何せ、若い人の感性で、商品開発をおこない、地元のお年寄りに、製作を1個から、まさに、手作りで、製作して貰って、製作過程をYouTubeででも、アップしてみようか?藁細工だけでなくて、竹細工も宜しいではないか?!先日、爪楊枝の作品を見せてもらったが、お母さんには、爪楊枝などと命名するのではなくて、フルーツ・ピックやスィーツ・ピックとか、名称を小粋な感じに、変更して販売すれば、新しい切り口で、面白いのではないかと、これも又、企みが日々、募ってきた。それにしても、色々なアイディアが、沸々と沸いてくるものである。又しても、今日、用事が、出来てしまった。間もなく、ネット販売を開始しますから、お楽しみにしていて下さい。これと並行して、今度は、庭園作りを企むことにするか?感性に満ちた若い庭園デザイナーを発掘したいところである。

 


ドッグランと古民家再生計画:

2016年05月12日 | 社会戯評

ドッグランと古民家再生計画:

小諸、糠地の農家民宿、里山生活体験宿の『青雲館』にある、露天の手作り『五右衛門風呂』の眼下には、対岸の八重原にある明神館の芸術村が、遠望できる売りがある。最も、すぐ隣接している耕作放棄地には、草が生い茂り、その更に下に拡がる元畑とおぼしき土地には、枯れすすきが、背高2メートルほどにもなり、実に、折角の美しい景観が宜しくない。司馬遼太郎ではないが、『庭園と景観は、何世代にも時間とカネを要する芸術作品である』と言う言葉通り、カネでは、買えない代物であろう。何せ、ない知恵を絞りに絞り、考えてみたところ、この草ぼうぼうの荒れ果てた土地に、山羊でも借りてきて、2頭ばかり、杭に繋いで、自由に放牧しておけば、ロープの範囲で、数週間でもすれば、雑草は、見事に、食べられてしまうだろう。そして、この土地を活用して、ドッグラン運動場を、害獣防止柵を活用して、DIYで、お客さんと一緒に、(他人の褌で)ワークショップでもやりながら、フェンスを設置して、そこに、イヤと云うほど、生えてくるアイビーでも植樹しておけば、目隠しにもなり、宜しいのではないだろうか?無償ボランティアの報酬は、提供された労働時間に応じ、無料使用権を、与えれば宜しい。土は、半分芝生で、残りは、在庫処分で行き場をなくしたバークの小さいサイズをバラ播いておけば、取り敢えずは、完成に、漕ぎつけられるかも知れない。おまけに、隣接する土地には、テントでも張れる芝生を用意しておけば、飼い主も、安心であろう。兎にも角にも、乾いたタオルを絞りに絞って、他人の機能を活用して、ミスマッチを、グッド・マッチへと繫げることが出来れば、大いなる再生へと、耕作放棄地も変身できるかも知れない。更には、子供達向けに、山羊や兎という小動物との触れあいとかを、お年寄りを活用して、やって貰えれば、これも、願ったり叶ったりではなかろうか?築100年以上にもなろうとする古民家も、格安で、借りられれば、これを内装工事改造することで、格安で、その『眺望権と使用権』を、マルチ・シェアリングという形態で、格安に、中小企業の従業員やその家族、或いは、オーナーの家族向けに、別荘として、使用権販売が、可能になるかも知れない。そして、自分たちが、宿泊したいときには、予約を事前に、ブロックしておいて、空いた日時を、今度は、Airbnbへ、一般公開して、活用して貰えれば済むであろうし、現地の草刈りや管理は、現地の人に、管理料という形で、お支払いすれば、これは、もう、一つのビジネス・モデルになり得るのかも知れない。モノは、試しであるから、月額1万円でも、借りることが出来れば、後は、改装費用を友人の建築・設計士と、法律的な契約事項を友人の弁護士と相談しながら、コストを抑制できれば、廃墟同然の古民家再生も、夢の又夢とは、云わせない。専門的な不動産屋に、任せて、しっかりと、仲介料を取られずに、宅地建物免許を有する友人に、お小遣いでもあげて、或いは、使用権を少し、分ける形で、付与すれば、多いに、可能性が大であるのかも知れない。又、一つ、今日、用事が出来てしまった。お愉しみですよ!

 


100円い草草履は、優れものである:

2016年05月11日 | 社会戯評

100円い草草履は、優れものである:

まぁ、謂わば、衝動買いに近いものであるかな!。脊柱管狭窄症であり、且つ、脚の裏が、謂わば、象さんの足裏のような感覚であるから、スリッパーが、おおいに、苦手である。しっかり、履ければ、宜しいのであるが、これが、むしろ、中途半端な段差を助長してしまい、バランス問題発生である。い草で、出来た恐らく、外国人観光客向けの100円ショップの草履は、27cmというLLサイズは、騙されたと思って、衝動買いした割には、なかなか、優れものである。まずは、草履の底が、フラットなのが実に宜しい、しかも、裏底がゴムだから、滑りにくい、そして、何よりも、夏には、蒸れなくて宜しい。安いから、こいつは、外人への土産物にもなるかも知れない。おおいに、期待できるかも知れない。何せ、100円だから、、、、。布製の草履も、室内履きには、宜しいかも知れない。何でも、伝統工芸で、田舎でも、作られているものであるが、色々と、試してみることにするか?こうなると、靴下も、変えなければならないのかも知れない。いずれ、お祖母さんにでも、布製でも、作り方を教えて貰うことにしてみようか?何も、爆買いの品を揃える必要は無かろう。伝統工芸でも、充分であろう。

 


サイクリングの目線:

2016年05月10日 | 社会戯評

サイクリングの目線:

普段、車を運転していると、坂道でも、冷たい風も、何も感じることなく、アクセルを一発、一寸、ふかすと、ビューンと一気に、登ってしまうものである。もっとも、四国の一部巡礼の時には、自転車で、嫌と云うほど、山道の苦労を思い知らされたものであるが、又、性懲りもなく、スポーツタイプの電動自転車を購入して、天気の良い日には、Ⅰ時間程度は、坂道を上り下りして、カロリー計算をしているが、走っていて、自分の目線の変化に気が付く、恐らく、徒歩で歩くのも、そうなのかも知れないが、サイクリングというものは、風を感じ、空気を愉しみ、道端のお地蔵さんとか、小さな花とか、川に降りてゆく小さな小径とか、何かの石碑とか、車では、パッと過ぎ去ってしまい、目に留まることが、絶対にないことが、しばし、そこで、立ち止まってみるということは、実に、人生にも、必要なことなのかも知れない。そして、『目線を変えてみること』、或いは、この『立ち止まってみること』も、人生には、必要なことなのかも知れない。すると、これまでは、自分自身、気が付かなかったことが、『新たな視点で』、見えてくることになるのかも知れない。どんな風景が、これから、見えてくるのだろうか、おおいに、愉しみである。

 


Farmer’s Guest House SEIUNKAN 英文HPのUP完了!:

2016年05月08日 | 社会戯評

Farmer’s Guest House SEIUNKAN 英文HPのUP完了!:

Farmer’s Guest House SEIUNKAN Woodland Life Experience, 農家民宿 里山体験宿、小諸市糠地の『青雲館』の英文HPのアップ完了である!ボランティアのやっつけ仕事と云えば、それまでであるが、兎にも角にも、無料サイトでの作成だから、その出来映えは、コンテンツ次第であろうか?何せ、素人の年寄り仕事だから、取り敢えずは、致し方ないか?見るに堪えられるだけのことはないであろうか、おおいに、心配である。これは、まだ、試運転の段階だから、徐々に、アップグレードしてゆくことにしましょう。とりわけ、写真の差し替えは、重要なのかも知れませんネ。後日の毎月のアップ・デートにご期待下さい。これに加えて、Airbnbでも、英文で、こちらは、日本語も併せて、考えていますが、取りあえず、インバウンド向けに、奧の大きな古い風格のある日本間一室のみを紹介することにしました。

 

http://nkmrimc.wix.com/seiunkan#!home/mainPage

 

https://www.airbnb.com/rooms/12897786 (21日以降は、下記に、移行します)

https://www.airbnb.jp/rooms/12916576

 

外国人の友達に、ご紹介下さい。7月から動き出す、長野県下、10都市での『交流の駅構想』に向けて、まずは、試運転です。

 


野鳥の巣立ちでの明と暗:

2016年05月07日 | 自然・植物・昆虫

野鳥の巣立ちでの明と暗:

何でも、女房殿の説明では、東京の巣箱に元気でピーピーと啼いていたシジュウカラの雛たちが、先日の雨降りの次の朝には、パタッと、鳴き声が聞こえなくなり、どうやら、無事巣立って行ったようであると、一方、糠時の青雲館で、一生懸命、子育てに励んでいたツバメのつがいの方は、先日、写真を撮ろうとしたときに、オスが、警戒にあったっていて、メスが、卵を抱えていたが、家人の説明では、野良猫が、網戸を登ってきて、その詰めで、網戸が、ズタズタに引き裂かれてしまったようである。軒下まで、爪を立てて、勢いよく、登ってくるそうである。一つの酢の方は、雀の攻撃により、無惨にも、巣が破壊されてしまったそうである。一茶の俳句に出てくるイメージや、都会でのカラスに襲われる雀とは、随分、違っているものである。土地が廻れば、鳥たちの生き方も、異なるのであろうか?全く、驚きである。そして、隣家の空き屋の土蔵には、知らぬ間に、野良猫たちが、子猫を産んでしまい、それが、野生化してきて、その数が、増え続けているそうである。殺処分するのも、可哀想であるとかで、放っておいたところ、手がつけられないほどの数になってしまったらしい。どうやら、今、日本中を騒がせているキュートな猫ブームとは、様相を異にするらしく、野良猫も生きるためには、とうとう、燕の巣を狙って、網戸をよじ登って、燕の雛を食い殺してしまったそうである。庭先には、巣の残骸と、卵の殻が、落ちえていたそうである。何とも、非常な掟であり、仕方の無いことなのかも知れないが、都会と田舎では、随分と、同じ野鳥の子育ても、事情が、随分と違うことを改めて、知らされる。春ゼミが、ギーギーと喧しく、鳴き始め、林の遠くに、見え隠れしていた建物も、もはや、薄緑色の木々の木の葉の海に埋もれて、見えなくなってしまいました。ベランダから、見下ろしている低木の木々達も、一斉に、その芽と枝を伸ばし始めています。やがて、後一月もすれば、緑が、もっと、濃くなってきて、初夏を迎えることになりますが、もう、既に、半分が過ぎ去ろうとしています。