小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

古関裕而と作曲

2020年06月29日 | 映画・テレビ批評

=古関裕而と作曲

NHKの朝ドラは、それ程、興味もなく、又、その題材によって、これまでも、連続して、観たり観なかったりするが、別に、主演女優や主演男優や脇役陣や、注目の売り出し中の若手俳優にも、それ程、興味が湧く歳でもないものである。新型コロナ禍の中、家籠もりの中で、たまたま、作曲家としてコロンビア・レコード特約契約したにもかかわらず、一曲もヒット曲も、レコーディングも出来ずに、その才能に苦悩し、自分を推薦してくれた山田耕筰に出向くシーンが、目にとまり、というよりも、新型コロナで急逝した志村けんが山田耕筰を演じていたからなのかも知れないが、その後、何故、生涯を通じて、5000曲以上の作曲を手がけた偉大な作曲家として名声を得るに至ったのかを、何故か、知りたくなり、観ることになった。

1909年、福島県出身で、後に、作詞家としての野村俊夫、歌手の佐藤久男(四三男)とともに、福島のコロンビア三羽がらすと謳われることになる。それにしても、作曲のジャンルが、広範で、歌謡曲、戦時歌謡曲(軍歌と総称されるのであろうか)、映画音楽、ラジオ主題歌、ミュージカル、スポーツ行進曲、マーチ行進曲、社歌、校歌、地域都市の歌、県民歌、等、とりわけ、私が、興味を抱くのは、生まれた時代が悪かったのか、どうか分からぬが、西条八十らと共に、戦線慰問と共に、国策である軍歌によるプロパガンダに組み入れられるという時期と作曲創作時期が不幸にも一致してしまったということだろうか?その歌詞の言霊を作曲するメロディーに乗せて、あるときは、鼓舞し、あるときは、反戦の思いを隠し、暁に祈るや若鷲の歌(予科練の歌)や所謂、数々の戦時歌謡曲と称する所謂、軍歌には、複雑な思いが反映されていて、これにより、戦場に送られて戦死した数多くの人々に思いをはせるときに、忸怩たる思いを抱きながら、やがて、それは、戦後の長崎の鐘(サトー・ハチロー作詞)という形で、鎮魂歌として、結実してゆくことになる。それは又、イヨマンテ(佐藤久男による歌唱)や怪獣映画、モスラの中で、ザ・ピーナッツが、インドネシア語で歌ったモスラの歌の中にも、平和記念とアジア民族への井鎮魂が含まれているのかも知れない。そんなことを知らない私たち子供達は、映画の中で、モスラよ、モスラ、、、、、、、訳も分からず、お題目のように、呪文のように唱えて真似したものである。今や早稲田の第一応援歌となった、紺碧の空、慶応の我ぞ覇者、そして、高校野球の栄冠は君に輝く、恐らく、古関は高等学校野球大会や六大学野球だけでなく、戦時下の神宮外苑での学徒出陣式にも、複雑な思いを抱いたことであろう、さもなくば、戦時下の検閲の厳しい中で或いは数多くの制約と政治的な圧力の中であれ程の軍歌を、今日に至るも歌い継がれているような数々の軍歌を作れなかったのではないかと思われる。未だ、JRが、省線という茶色の電車だった頃、私の子供時代には、傷病傷痍軍人が駅頭や車内で、松葉杖とアコーディオンで、白い軍帽と軍服を着て、旨の前には、賽銭箱ならぬ募金箱を掛けて、ジッと座っていたり、或いは、車両を廻って募金を迫ってくる記憶が頭の底に残っている。とりわけ、耳の底には、暁に祈るや若鷲の歌などが、どういうわけか、そのメロディー・ラインが、駆け回る。戦後のマーチや行進曲、六甲おろしや巨人軍の歌とか、スポーツを古関はやらなったせいなのかは、知らぬが、スポーツショー的なメロディーは、子供時代に、とりわけ稲尾全盛の三原西鉄黄金時代の日本シリーズのテレビ中継に際しては、胸躍らせながら、テレビの前で、今か今かと待っていたことを想い出す。それらの作曲を手がけたのが、欣ちゃんの家族揃って歌合戦で、ニコニコしながら審査員席に座っていた人だとは、、、、、、、後に知ることになる。舞台でも、菊田一夫と共に、演劇音楽でもタッグを組んだことは、記憶に新しいが、それにしても、島倉千代子の東京だよおっかさん(野村俊夫作詞)などのメロディーは、どういう訳か、耳の奥底に、残っていて、闇市の混雑と一種の臭いと共に、記憶の片隅にメロディーラインが蘇ってくるものである。トンガリ帽子の赤い屋根というラジオ放送の主題曲も、或いは、高原列車はゆくや、君の名は、のメロディーや有名なナレーションは、恐らく、亡き母の世代が夢中になって聞いていた時代のことだが、未だ幼児期の私たちにも、知らぬ間に、記憶の片隅に焼き付いているようである。早慶戦での肩組み合って、謳った応援歌も、今年は、新型コロナで、新入生達は味わえないし、栄冠は君に輝くも、難しそうである。

シンガーソングライターは、自分の好きな歌だけを作詞・作曲し、謳うだけなのであろうか?それは謂わば、自分の世界観だけを貫くだけで、生活のために作るという謂わば、時勢に媚ながら、媚びなくても、多少曲げたり、妥協したりしないと生きてゆけないのであろうか?或いは、そうこうしている間に、才能が枯渇してしまうのであろうか?一曲でもヒットさせることが大変な世界で、50年も或いは、5000曲も、数多くのメガヒットを飛ばせるコツとは何なのであろうか?


New Normal とSecond Third Job:

2020年06月11日 | 社会戯評

New Normal とSecond Third Job:

 

緊急事態宣言の解除後も、第二波・第三波への警戒が続く中で、本格的な<Post New Corona>時代への対応予想が、とりわけ、<New Normal> 新たな<新常態>へのライフスタイルについての議論が始まりつつある。私のような老人達にとっては、老い先もう短いのであるから、それ程、大きく影響されるものではないものの、大変興味深く思われ、若い人達とのオンライン飲み会の席でも、自分なりの元50年前の若者と現在の若者達との比較において、論じることも、意義がありそうであるので、少々、考察してみたいと思います。

私の同世代が、若い頃には、就業規則そのもの事態に、<アルバイト兼業禁止>という項目が、厳然として存在していたし、直接、直属の上司からも、注意喚起を促されたことを今でも思い起こす。尤も、今や、就労のミスマッチもあり、或いは、就業労働人口の減少によるアルバイトの禁止の廃止を余儀なくされているのが、<時代の趨勢>ではなかろうか?!

 如何に、<一極集中>することへの反省は、謂わば、<集中と選択>から、<分散・多様化>へと移ろいゆく中で、自分の稼ぎも、今や、不労所得ではないものの、main job から、second, third job へと準備万端整えておかないと、人生そのものが、リスクに曝されかねない時代なのかも知れない。それは、これまでの感染症による影響以上に、根本的な働き方改革どころではなくて、<生活様式への革命>、<生き方の大変革>なのかもしれない。いやはや、知らないうちに、<そんな大変な時代の入り口>にきているのかも知れない。もはや、好むと好まざるを得ずに、否応なしに、どうしたら良いのかを考えざるを得ない時なのかも知れない。海外貿易の仕事上、これまでは、否応なしに、通信費の削減を、インタネット回線を使用することで、当時から、一種のテレワークを実戦しなければ生き残れない時代だっただけでなく、その時から、<働き方事態への考察>を余儀なくされてきたわけでもある。

成る程、そう考えれば、都市型過密による経済成長モデルから、相変わらず、<過密な痛勤電車>が当たり前だったと思っていた若い時代から、<social distance>を意識しながらの生活様式への変容は、まさに、<New Normal>への在り方を考察しつつ、どのように、生活を、生業を、稼ぎをリスクを排除しつつ、担保するかということを真剣に考えなければならないのかもしれない。これまで、製造業などは、テレワークに不向きであると謂われてきたにもかかわらず、日立やリコーなどは、積極的に、全社を挙げて、継続する方針を示唆しているし、都心中心部の高層ビルに事務所を構えるIT企業などは、寧ろオフィス契約を不動産会社に契約解消を申し入れるなど、不動産への風当たりも、日本だけではなくて、シリコンバレーなどのこれまで、家賃の急上昇に悩まされてきたIT企業群にも見直しの機運がみられ始めてきたことは、大変興味深いものがあろう。それは、恐らく、遅かれ早かれ、時間差はあるであろうが、広く他業種、企業の大小を問わず、人件費の削減、家賃の削減、交通費・定期券の返納とか、間違いなしに、拡がってこざるを得ないし、それに乗り遅れることは、企業の生き残りに直接関わってくる、まさに<Survival of the Fittest> であろう。

最近のテレビの製作手法をみていても感じられることは、オンライン画像も、徐々に違和感が、抵抗感が薄れてきて、結局、<やれば出来るじゃん!>ということに、<新常態化>してくれば、今まで、高いコストを掛けて、蜜を造り、顔色を見なければ所詮ダメなんだよねというスタイルが、見直され始めることになりかねない。それならば、今までやらなかったのは、何なのさということにもなりかねないし、一度、そうなれば、そう簡単には、資本の論理では、元に戻ることもないだろうし、ましてや、同じ常態には戻ることはあり得ないでしょうね!往復各1時間を掛けていた通勤時間も、24時間の内の2時間/24時間 X 365日 X人生年齢で計算すれば、膨大な時間の無駄をしていたことにも気づき、新しい隙間仕事が、second job として、或いは、人によっては、起床したら、化粧もすることなく、寝間着のママで、一仕事ならぬ、二仕事・三仕事も、スマホで瞬時にして、おカネを稼ぐ時代が来ることも夢物語ではなくなるかも知れません。ヒョッとしたら、室内バイクをこぎながら、スマホで、チョチョイと1-2分程度操作するだけで、おカネが稼げる時代がくるやも知れませんね。そういう夢物語が、夢想ではなくて、現実化するチャンスが到来することでしょう。大変な時代かも知れないが、考えようによっては、とても、面白い時代かも知れません。時代が変わる節目というものは、意外とそういうものかも知れません。その真っ只中にいるときは、分からないが、後から時計を逆回しにすると、あぁ、あの時がそうだったのかと思うものでしょうかね。とりわけ、戦争がなくなると、<感染症という一種の戦時下という概念>が、なかなか、実感できないからかも知れないので、、、、、尚、一層そう感じられるのかも知れません もう、<昔の名前で出ています>という時代ではなくて、<新しい源氏名でオンラインでお目にかかりましょう!>という時代かも知れません。何か、どんどん、時代の方が、自分よりも先へ先へ、遠くへ行ってしまい、取り残されないようにするか、それとも、周回遅れの、取り残されても良いような働き方、生き方を探し出さないと生き残れない時代なのかも知れません。


オンライン申請とITディバイド:

2020年06月06日 | 社会戯評

オンライン申請とITディバイド:

存命していたら101歳になる亡き父は、70歳頃にアルファベットも分からぬのに、NECの98シリーズを勉強して、ワープロから、PCへと未だ、板状の記録媒体が当たり前の時代に、一生懸命に、勉強をしていたものである。私は、その点、生業が海外貿易だったこともあり、社会に出てから、テレックスから、FAX,ワープロ、携帯電話から、LAP TOP PC,スマートホーンへと次から次へと息つく暇もないくらいに、技術革新に乗り遅れることなく、IT武器を使いこなすことになる。とりわけ、海外通信費が高額であったこともあり、如何にして、海外との通信コストを下げられるかということが、死活問題であった。だからこそ、メールに移行するときも、或いは、複数の国とのネット電話会議も、テレビ会議も、全く問題なく、テレワークが喧伝される前から、自分の中では、全く問題なくこなし、尤も、そうしなければ、世界標準からは、取り残され、死滅化せざるを得なかった究極の選択であったのかもしれない。

 今回の新型コロナ禍の中で、オンライン会議も、ファイル共有システムも、一種の働き方改革も含めて、<変わらなければ、生き残れず>、しかも、<新しい生活業態>に移らない限り、皮肉にも元の日常生活には戻れない訳である。さすれば、もうこれは、廃刀令やちょんまげの禁止のようなもので、もはや、好きか嫌いとかという問題ではなくて、変わらなければ、死滅する以外に選択の余地がないのかも知れない。今や、残された道は限られてしまっているのである。

 給付金の申請手続きにしても、書類で申請するよりも、オンラインを薦めている以上、過去のマイナンバー登録は、住民基本台帳の問題はさておき、アナログではなくて、システムとデジタルを駆使すれば、明らかに、スピード感を持って処理できるはずである。にもかかわらず、マイナンバー・カードを登録していても、マイナポータルのアプリをスマホにダウンロードして、そこにアクセスして、昔登録したパスワードを使用して、申請手続を行わないと、最終的には、申請が完了しない。おまけに、e-Taxで、既にマイカードを利用していても、連携も、銀行口座名・番号とは、連携されていません。更に、フリーランスや個人事業主への持続化給付金の支援申請に至っては、本来、e-tax申告していれば、当然データが、税務署に行っているはずにもかかわらず、ファイルでJPGやPDFファイルを貼り付けなければ申請手続が、完了せず、もちろん、自分でそういうパソコンの操作に手慣れていなければ、全く、零細個人事業主には、或いは、キーボードに触ったことがない人間には、全く、出来ないことであろうことは、やってみて初めて納得できるものである。