小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その1:地名には要注意である!

2015年07月11日 | 旅行
=四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その1:地名には要注意である!
88箇所を一挙に、歩いて廻ることなど、初めから、脊柱管狭窄症の手術を3年前に、受けて、足許不如意の自分には、無理であることは承知の上で、自転車でなら、何とか、足慣らしの意味で宜しかろうと思って、取りあえず、1番から17番まで、トライすることにしてみたわけである。まずは、自宅から、オーシャンフェリー乗り場のある有明埠頭までの約23Kmの行程である。一応、既に、予行演習しているから、道順とおおよその時間は、頭に、入っている。しかしながら、旅行用のリュックを背負っての本番は、思っていた以上に、身体に、重くのし掛かるものである。そもそも、地図上やスマホのナビの距離表示には、高低差は、加味されていない。自転車やサイクリストの専門ナビには、高低差や坂道回避のコースの選択と時間もあるが、実際には、それどころの話ではなかったのが、正直なところである。そもそも、出発自体が、晴天ではなくて、梅雨空の雨具を被ってのいきなりの行軍である。地名というのは、よくよく、目を懲らして、吟味すべきものである。そのことは、後日、山中で、イヤと云うほど、思い知らされることになるとは、この出発時点では、つゆ知らずであった。(荻)窪と言う地名自体、そもそも、荻の自生していた窪地である。(中野)坂上、まさに、坂の上である。(成子天神)坂下、字の如く、坂の一番下で、これから先は、再び、下りて、登ってである。(四)谷に至っては、四つの谷が、合わさったところなのか?半蔵門下から、警視庁の前を、皇居沿いのマラソンコースに沿って、桜田門から、銀座のソニービルを目指して、ひたすら、今度は、フラットになる前に、下りである。もっとも、この時点では、既に、梅雨空は、お構いなしに、梅雨のしとしと雨を容赦なく、ポンチョの上に、浴びせかけて来て、体力を消耗する。三越前から、歌舞伎座、東銀座を過ぎて、築地に出ると、今度は、勝ちどき橋である、意外に、この橋というのが、難物であることが、後日、吉野川を何度も渡る時に、感じようとは、この時点では、漠然と予想はしていたものの、まだ、実感は湧かない。人生とは、時計を逆廻しにしてからでないと、案外、分からないものなのであろうか?困ったことである。その先、橋を渡ると、再び、今度は、巨大な晴海大橋という巨大な行く手を遮るような坂道の橋が眼に入ってくる。予行演習では、この坂は、途中まで、漕いで渡れたのに、本番では、荷物が、重すぎる。想定外である。途中から、橋の中程まで、雨に濡れながら、結局、自転車を押すしかなかった。(誰も助けてくれないのである。もっとも、そんなことは、合点承知の介であるが、、、、、)新豊洲を右折して、今度は、ゆりかもめの市場前駅を左折、この辺りは、既に、新しい魚市場の移転の為なのか、道幅が、広い上に、突貫工事現場が多くて、自転車の道が整備されていて、入りやすい。ベイブリッジの良い眺めが愉しめる場所だが、雨で、それどころではない。それでも、アップ&ダウンを繰り返しながら、もう、この辺になると、大型トラックやトレイラーが、数多く見受けられるようになり、有明フェリー埠頭までの大きな道路標識も出てきたので、一安心というところであろうか?距離感を肌で感じることは、大切なことである。人間、これも、後から、感じたことであるが、目的地という目標を目指して、後何キロとか、距離感が、つかめないと、人間というモノは、全く、精神的に弱い動物であることが、後に、山中で、ひとりぼっちの中で、実感した。しかも、後で、地名を確認したら、猪頭、とか、鬼龍野(オンロと読むそうである)、どちらも、成る程、凄い名前である。昔の人は、確かに、そんな名前を命名した事自体、後で、納得である。トンネルや隊道も、又、鬼門である。要するに、山をぶち抜いたということは、如何に、急峻であるかということが、窺われる。考えてみれば、峠という字は、山の中を上に、登り、下に、下るのであるということを身体で、初めて知ることになる。又、峰とか、谷とか、沢とか、坂、窪、など、目的地の地名の漢字を迂闊に、読んではならない。何故、地元の人が、そんな名前を命名したのか、一考してみた方が、宜しいかと思いますね。帰りには、淀橋というところで、休んでいたら、歴史的な経緯を記した石碑があって、、実は、元来、「姿見ずの橋」と云われ、中野長者が、資産を隠すために、人足に、頼んだのに、これを殺害したので、「行ったきり、帰ってこない」という不吉な橋の名前を、家光が、淀川に似ていることから、改名命名したそうである。そう言えば、15番の国分寺でも、お年寄りから、源 義経の登った山とか、近江源氏の石碑とか、様々な名所旧跡の石碑を見たり、聞いたり出来たことも、又、旅の一興であった。旅の印象を、続けます。今度は、いよいよ、船旅です。

準備完了なるも、天気が心配である:

2015年07月02日 | 旅行
準備完了なるも、天気が心配である:
はてさて、どうなることやら、四国お遍路88箇所のうち、取りあえず、歩けないから、サイクリングで、足慣らしの意味で、18番くらいまでを目標にして、出掛けてみたいと考えている。何せ、海外旅行は、散々、慣れ親しんで云っているが、一人での国内旅行、しかも、サイクリングでは、学生時代の卒業旅行に、カニ族で、周遊券を使って、列車と駅舎の中で、野宿して以来だろうか?阿波国くらいは、取りあえず、サイクリングで、後もう一度ほど、残りを廻ってみて、後は、軽自動車で、廻ってみようかと、今から、本音が、垣間見られる。若い時は、結構、晴れ男を辞任していたが、結婚してからは、何故か、どうも、天気に、恵まれない。もっとも、ゴルフの時は、大概が、天気に恵まれ、雨合羽を着てプレイしたのは、数えるほどしかないが、、、、、、。今年は、空梅雨と踏んでいたのに、存外、長梅雨のようである。まぁ、一日や二日は、多少ぬ得れても仕方ないとも考えるモノの、出来れば、天気が良いに越したことはない。残りは、天気の回復する秋口にでも、敢行することにしようか?道中のブログは、記録を纏めて、アップするとして、暫く、1週間程は、お休みです。どんなことを巡礼(?)のあいだに、感じるか、楽しみです。暫く、テレビ、新聞、PCとも、お別れですが、取りあえず、スマホで、情報と連絡は、とりたいと思います。では又、、、、、。台風に遭いませんように、、、、、、。フェリーが、揺れないようにと、

台北、故旧博物館に遊ぶ:

2014年12月21日 | 旅行
台北、故旧博物館に遊ぶ:
何せ、超駆け足旅行だから、朝早くから、毎日、日程がびっしりである。いつ頃、訪問したのかも、歳をとると、想い出せない、いすれにせよ、出張の合間に、見学したのであることに間違いないから、もう、40年以上も前の話だろうか、正面玄関2階での記念撮影の時に、確か、この風景は、、、、、と想い出した程度である。北京の故旧博物館も観た記憶があるが、やたら、広いだけで、嫌と云うほど、歩かされたことを想い出す。今回は、先日、日本でも公開された故旧博物館の秘宝である翡翠の「白菜」や象牙細工の何層にも手彫りされたものを、取りあえず、観ることが出来ればまずは、由としようかという程度のものである。それにしても、凄まじい込み方である。中国本土からの中国人団体客の数の多さといい、まずは、ガイドの劉さんの案内に併せた周波数の確認と、旗を目印にして、いよいよ出陣である。何でも、相当混み合うので、見学にもコツが必要だそうである。総勢、こちらも、40数名弱であるから、司令塔の劉さんの掛け声の下で、目指すところの秘宝を、まるで、運動会の紅白の玉入れのような要領で、すいている隙に、全員で、これを円陣のように取り囲み、説明を聞きながら、時計回りに、ぐるっと、廻りながら、一周して、正面から、裏側から、側面からとゆっくりと眺め廻るのだそうである。そうすると、中国人団体客も、流石に、割り込めないのだそうである。従って、展示品を、順番に、観る必要は全くないそうである。見れるものから、初めに見て、空いている機を見て、サッと、戻ってみるのだそうであります。成る程、このフォーメーションは、なかなか、効果的、実戦向きでありました。お陰様で、翡翠に浮き出て彫刻されたキリギリスもイナゴの姿も、或いは、派の白さも、充分堪能出来ました。又、豚肉の煮物のように、思える石の彫刻も、その彩色技術つと豚肉の皮に彫られたまるで毛穴のような紋様も、ハッキリと確認出来ました。なかなか、これ又、素晴らしい作品であります。更には、一本の象牙を何層にも、手彫りされた球の中に、又球があるように見える微細な象牙細工もしっかりと、観察できました。これだけの3点の秘宝だけでも、充分、観るだけの価値はあったかと思われます。それにしても、七宝焼きとか、小物入れとか、どれをとっても、当時の職人の技術の高さには、舌を巻くばかりであります。ルーブル美術館や大英博物館の絵画や、古代遺物にも、圧倒されましたが、こうした故旧博物館などの展示物を観ていると、その数の多さ、バラエティーの広さに、圧倒されてしまい、この次に来たとしても、同じ展示品が放られるかどうかは、宛になら無いものがあります。まさに、作品との対峙もまるで、「一期一会」のようなモノかも知れませんネ。その国の文化を、こういう芸術品や美術品などを通じて、体感することは、とても、その国やそこに暮らした人々の暮らしを理解する上で、大切であると云う事が改めて、分かります。今度は、未だ行ったことのない、イタリアとスペインにでも、ゆきたいものでありますが、何せ、長旅なので、いつ実現するのかどうか、分かりません。料理と美術鑑賞ができたらいいのになぁと思わずにはいられません。

台南、「赤篏楼、延平郡王祠」にて、鄭成功を偲ぶ:

2014年12月19日 | 旅行
台南、「赤篏楼、延平郡王祠」にて、鄭成功を偲ぶ:
台湾の歴史というものは、なかなか、面白いものである。元々、17世紀頃には、北部をスペインが、南部をオランダ人が統治していたのであるが、これを、オランダ人が、スペインを駆逐する形で、統治していたものを、明朝の滅亡と清の勃興に伴い、ある種の反清朝との内戦に伴い、「鄭成功」が、台湾の台南をオランダ人から制圧して、台湾全土の統一に成功するという、謂わば、蒋介石の国民党による大陸反攻思想とそっくりの構図が、17世紀の半ばには、繰り広げられたわけである。もっとも、鄭成功なる人物の名前くらいは、歴史書の中で、耳の残ってはいたものの、その人物の母が、田川松という日本人で、おまけに、長崎の平戸で生まれたとは、更に、国姓を賜った大身という意味から、その俗称の「国姓爺」という名前から、後の世に、近松門左衛門によって、人形浄瑠璃化されて、18世紀初頭には、大ヒットしたという事実までは、知らなかった。それにしても、彼を日本と台湾の融合の典型的な事例として日本統治に意図的に利用(?)したかどうかは分からぬが、蒋介石にしても、日本にとっても、互いに、ある種の都合が良かったことは、間違いない。ご都合主義によるそんな政治的な利用や血筋や血脈とは別にして、台湾の人々は、台湾統一の始祖として、今でも、大切に、祀っていることのほうが興味深い。赤篏楼の中に、小さな資料であるが、細かな文字で、ぎっしり書かれた「科挙」の書物があったが、こんな小さな文字をまだ、コピー機も無い時代に、どのようにして、勉強でもしたのだろうか?古くは、隋の時代から、唐の時代、宋の時代、更には、20世紀初頭の清朝期末まで、連綿として、士太夫の創出の為に、元来は、世襲制とは別に、優秀な人材を集めるために、出来た制度が、逆に、教育の近代化を遅らせてしまう元凶になるとは、誠に皮肉なことである。更には、試験制度にまつわる様々な逸話や、経済的な理由から途中で断念するなど、一族を上げて、一身に期待を背負って受験したにも拘わらず、失敗する者など、今日でも、中国や韓国等にみられる、或いは、日本の幼児教育にも垣間見られるような熾烈な受験勉強にも、更には、太子党などの既得権益者子弟の派閥にもみられるような弊害を今日までも連綿と続いていることに驚かざるを得ない。私立の幼稚園に子供達を車で迎えに来ている親たちをバスの中からみていると、未だに、科挙の制度的な流れが、受け継がれているのかも知れないとも思わずにはいられない。それにしても、いつになったら、経済的な理由で断念したり、熾烈な試験という競争が、無くなるのであろうか?そう言えば、旧い台湾の友人は、子供達を、順番に、まずは、アメリカで、英語と経営学を学ばせてから、日本で、日本語学校に入学後、調理師学校で、料理の免許を取らせて、台湾に戻って、友人が経営する食品会社の工場に入社させて、一から、生産と販売・マーケティングを教育実習させたことを想い起こす。しかも、3人兄弟、すべてに、同じコースを歩ませて、今、中堅人ありつつある。これからの若い日本人は、大変である。こうした人達と海外市場で、競わなければならないのであるから、、、、、、、。我々の時には、教え立場で在ったが、私達の子供の代には、逆に、ひょっとすると、教わる立場に逆転するかも知れない。それ程、教育という制度は、使いようによっては、微妙なものである。次は、歴史認識について、触れてみることにしたい。

現地旅行ガイドに、日本の歴史を学ぶ:

2014年12月18日 | 旅行
現地旅行ガイドに、日本の歴史を学ぶ:
これまで、さんざん、出張してきたが、旅先でのグループ・ツアーに参加する以外に、団体ツアーに参加することはなかった。謂わば、初めての参加である。総勢40名弱である。ほとんどが、ほぼ同じ世代の参加者で、最大グループは、中国語を勉強している10名で、次は、姉弟の3人が、それぞれ、夫婦での参加で、後は、家族や結婚40年前後の同じ世代である。5日ばかりでの駆け足での台湾一周旅行である。それにしても、台湾の旅行ガイドの劉さんから、日本の歴史を改めて学ぼうとは、思わなかった。我々の世代は、戦後教育のせいなのか、台湾統治の両側面と云うよりもむしろ、どちらかと言えば、政治的な統治ばかりを指弾されて、台湾でのインフラ整備とか、文化に対して、日本人が、行ってきたことに対して、台湾の人々が、どのように、評価していたか等ということには、余り関心を払ってこなかったし、況んや、教科書で教えられることなどはなかったものである。とりわけ、親日家でもあった李登輝による、日本人先駆者への評価、例えば、台湾での水利事業に、貢献した「八田與一」等の話は、人名としては、何かの番組で、知ってはいたが、改めて、その業績と実際に、砂地だったところが、現在、水路が張り巡らされ、豊かな土地に変貌して、現地の人達から、感謝されていると云うことは、随分と、韓国の歴史認識に対する考え方とは、大きく異なるものであると云う事が、改めて、知られて、おおいに、興味深いものがある。又、タロコ(太魯閣)国立公園の道路も、鉄道網なども、先住民族文化の継承とか、改めて、中華民族とは、漢民族だけが、単一民族だけから成り立っていないことも、理解される。それにしても、観光地の行き先々で、本土で、政治的な弾圧を受けている「法輪功」による反中国共産党キャンペーンとウィグル族弾圧への抗議活動は、一体、どのように、中国人観光客の目に映ることであろうか?どんなに、本国で、情報遮断しても、これでは、必ず、何処かから、水がしみ込むように、人々の中へ、拡がってゆくことであろう。旅行というのは、教科書で学んだ日本史でも世界史でも、改めて、その歴史的な事実を、自分の目で、確認し、しかも、それが、今日の文化に、どんな影響を及ぼしているのかを肌身に感じるのも面白いものである。民俗史、文化史、音楽や、楽器や、踊りや、或いは、食文化、なかなか、興味は尽きないものである。そんなことを、色々と、現地の台湾旅行ガイドさんから、教えて貰う機会を得ようとは思わなかった。次は、文化に関して、考えてみることにしよう。