小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

バレンタイン・チョコに考える:

2013年02月13日 | 社会戯評
バレンタイン・チョコに考える:
何でもかんでも、商業主義に踊らされて(?)国中が、否、全世界もが?今や、デパートでも、スーパーでも、どこでも、バレンタイン・デイ用のチョコレート商戦が真っ盛りである。一頃は、おじさんや上司向けの義理チョコが、持てはやされたが、最近では、自分用に、彼氏用とは、別に、より高額な高級チョコレートを、贈るのが主流となりつつあり、更には、その変型として、女性同士で、お互いに贈り合ったり、極めつきは、男性でも、自分用にと、自ら購入する傾向があると、何かの記事で、読んだことがある。もう、こうなると、業界の本来の意図を遙かに超えて、一人歩きしだして、一大市場化してしまっている観が無きにしも非ずである。こうなると、近い将来は、孫から、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんへとか、夫婦同士でとか、節分の豆まきも、トリフ・チョコを包んで投げるとかも出てきそうである。アイディア・コンテストでも開催してみたら、面白うかろうにとも、思えてしまう程の拡がりと深さである。自分で、自分の財布から、お金を支払って買い、愉しむのだから、文句を言う筋合いはないであろう。もっとも、それが、一粒、1500円以上するらしいと云うことになると、オジサンとしては、もう、理解の度を遙かに超えてしまいそうである。口に入れる前に、まずは、パッケージのデザイン・包装美を愉しむのであろうか?それとも、創作したショコラテの名前や意図が、頭に、浮かぶのであろうか?将亦、カカオの含有率が、ポリフェノールの含有率が、気になるのであろうか?それにしても、恐らく、口溶けは、きっと、良いのであろうから、あっという間に、舌の上で、トロッと溶けて、口の中に、鼻孔を通して、各種の香りが行き渡り、喉へと、スムースに、一粒1500円以上する液状化したチョコレートが、見事に、流れていくのであろう。糖尿病予備軍の退役兵としては、いつ何時、又、予備役に、召集されるかどうか、分からぬ身であるし、更には、血糖値の数値次第では、最悪、正規軍へと格上げされてしまう可能性も、否定しきれない。そういう危うい身の上の人間にとっては、余計なお世話、迷惑な話である。(もっとも、値段と数値には、相関関係がなさそうであるのも、事実であるが)美しい各国のショコラテが、競うように創り出す芸術的な作品を、写真広告や、デパ地下のショーケースで眺めるにつけ、ひとり、寂しく、こんな妄想に耽ってしまう。バレンタイン・デーは、私にとっては、そういう日なのであろうか、それとも、厳しい修行の修練の場であるのか?(まるで、我が老犬が、その昔、待て!を教えるときに、ダラーリと、涎が、長く、糸を引くように垂れるのを想い出す)広告の中のチョコレートは、我が老犬同様に、垂涎の的以外の何ものでもない。残念無念!一粒を作る時給は、一体、いくらで、原料費は、一粒、幾らくらいするのであろうか?そんなことは、どうでも宜しいではないかという業界の声が聞こえてきそうである。それよりも、お金を使って貰って、流動性を高めて貰うことの方が、より喫緊の課題であろうか。みなさんは、どちらに与する方でしょうか?



PCなりすまし犯の逮捕に思う:

2013年02月12日 | 社会戯評
PCなりすまし犯の逮捕に思う:
何とも、皮肉なことである。サイバー犯罪の捜査という代物は、大変厄介なものであることが今回の事例からも見てとれよう。結局、アナログ捜査の積み重ねでしかないのか?容疑者の自己顕示欲から、現実社会で不用意に、馬脚を表した相手の敵失ミスにより、逮捕に繋がったとは、考えさせられてしまう。もっとも、サイバー捜査を担当する警察官が、自転車泥棒で、捕まったという小さなニュースが、その以前に、報じられていたのも、何と、更に、皮肉なことであろう。ヒト・モノ・カネが、簡単に、国境を超えてしまう時代であるから、ネットや、IPアドレスの足跡は、いとも簡単に、消去されて、所謂、「証拠が残されない」と、防犯カメラの動かぬ証拠とやらのほうが、決定的であろうとは、、、、実に、難しい時代に、生きているものである。もっとも、犯行を否認し、自白をしなければ、十数件のなりすましに関しても、間接的状況証拠だけで、公判をどのように維持していくのであろうか、何とも、難しい、長い時間の掛かる裁判になるのではなかろうか?それにしても、犯人が、逮捕されたからと言って、将来、この種の犯罪が、起こりえないとは言い切れないのが、何とも、この種サイバー犯罪の特徴で、実に不気味なものである。既に、銀行のネット振り込み画面には、いよいよ、「詐欺の偽画面による乱数表の入力要求には、くれぐれも、ご注意下さい!」という告知が、全面に大きく出始め、ユーザーのログイン時に、注意を喚起し始めた。スキミングも巧妙になり、うかうか、ATMやゴルフ場の貴重品預け金庫でも、一々、暗証番号を押す前には、超小型の隠しカメラが貼附されていないかどうかを、手で、確認したり、暗証番号の数字を見られないように、片方の手で、隠しながら、入力しなければならないのかも知れない。全く、便利になればなったで、次から次に、厄介な問題が、派生的に生じて来て、困ったものである。初老の人間達は、もう疲れてしまう。中国でも、新手の進化した、或いは、国情に適合したと言った方が良いとしか云いようのないような振り込め詐欺が、横行し始めているようである。公安の名前を騙った役人への賄賂、汚職、愛人、等の脅しとか、こちらは、孫よりも遙かに確立が高いかも知れない。サイバー犯罪でも、それを取り締まる側も、どこか、アナログに、頼るところがあるのであろうか?海外からのサイバー攻撃、国内からのなりすましPC犯罪と、セキューリティーが、改めて、問われているが、考えてみれば、「セキューリティー」は、安全保障、国防、海防にも、使用されている言葉であることをも、想起せざるを得ない。何とも、皮肉なことである。どうも、心配性の年寄りは、一件これ無事落着とは、思えそうにないのが、実に、残念であるし、心寒い思いがしてならない。今や、「水と安全と空気」は、タダでは、済まされない時代のようである。



伊集院 静著、「別れる力」を読む:

2013年02月11日 | 書評・絵本
伊集院 静著、「別れる力」を読む:
昨今、出版界では、何々「する力」というタイトルの本が、多く出版されているような気がする。「聞く力」とか、等々。従って、大人の流儀その3とは、タイトルをつけなかったのかも知れない。出版編集者の某かの臭いがしない訳ではなさそうである。大人の流儀は、その続編は、あまり、面白そうでなかったので、読んでいない。今回は、伊集院静のことであるから、3度目の結婚から、そろそろ、女と別れる為のノウハウ本だなどと、(失礼千万ではあるが、)期待すると、とんでもないしっぺ返しを喰らってしまいますよ。(まあ、そんな読者はいないと思うが)、数少なくなった絶滅稀少危惧種である無頼派の作家であり、飲む・打つ・買うの遊び人の奥義を究めた人物の、或いは、作詞家の一面も有する、更には、在日の思いも熟知したその生い立ちを有する作家によるこの著作は、なかなか、人生を斜めから見た毒舌風評論で、面白い。もう、こうした「大人の毒舌」自体が、もう既に、世の中から、消え去りつつあるし、それを口にする人物も稀有である。同世代としては、当たり前に、結構、同感するところが多いが、若い人向けにこそ、読まれるべき物であるかも知れない。人生とは、時代を捉える目を持つとは、人生に於ける経験の価値とは、本当の大人の男になる美学とは、品格とは、立ち位置とは、野球、相撲、テニス、ボクシング、サッカー等のスポーツを通じて、男の美学の観点から、世の中の風潮を改めて、考えることになる。更には、男の覚悟とは、誇りを以て生き抜くとは、どういう意味なのか?カネだけで、幸せになれないことがあるという本当の理由、自分の生を真剣に考えることの重要性、遊ぶことの意義と仕事の神髄、遊ぶから、よく仕事も出来ること、そして、大人の人前で採るべき態度とは、目線とは、現代の若者についても、考える。同世代としては、同感するところがおおいにある。遊びを極めた著者だからこそ、別れを余儀なくされた著者だからこそ、そんな様々な体験をしてきた著者だからこそ、我慢さえすれば納まるのであれば、、、、という人生素晴らしき哉と、結べるのかも知れない。もう少し、肝臓も労って貰いたいところである。毒と共に、読後は、それが昇華してなのか、何か、清涼感が漂うのは、どうしてだろうか?

少々、気に懸かる文章を章毎に追いながら、しばし、一緒に、考えてみることにしましょう。
人は、出会った瞬間から、別れることを運命づけられていると、愛する人を失ったとき、悲哀のどん底に落とされた時でも、いつしか、再び、歩み始める目には見えない力、生きる原動力が、備わっていて、それこそが、人間の有する尊厳と美しさでもあると、
別れることは、決して、誰かを不幸にさせるだけではないと、
「別れて始まる人生がある」:海ガメや競走馬の例から、生きる物は、生まれてすぐに別れを経験する。別れこそが、一つの生を、生涯を与えることになると、夏目雅子との死別から、小説家になる人生が、始まったのだろうか、
「生きることの隣に哀切がある」:人間が生きると謂うことは、辛いことや切ないことが向こうからやってくるものである。それらを経験したことで、生きることの意味を知るのであると。それは又、限られた短い時間であることも、又、知ることになると。若い弟の水難事故死の体験から、自分が人生を決めて、そこに向かって、歩んでゆくこと、そして、命を大事にすることを教えて貰ったと、
「飲んで笑って、別れて飲んで」:また、ひとつ酒をやる理由とは、、、、、?
「二度と逢えない、それは真実、残酷でもある」:立川談志の想い出のこと、笑い声が絶えなかった家に静寂だけが拡がっていたことの意味とは、、、、、、?
「ギャンブルの流儀」:競輪、競馬、麻雀、博打打ちの哲学について、
「出逢いが生きた証しなら、」:別れることも、生きた証しであると、犬との別れを受け止めるのも生き物と暮らすことなのであろう。別れが前提で過ごすことが、私達の生であろうと、
「恋に死ぬ男は、馬鹿なのか?」:時間は薬という言葉の意味の考察をしつつ、、、、、。
「あの人は私の中に生きている」:クリスマス・カードと送り主の想い出、
「楽して得られるものなんてない」:哀しいかな、人間というものは辛酸を味わう時に、心の姿が見えてくることがおおいと、それを知らずに、人生を終えるより、少なくとも気づかされてよかったと、それに気が付くと、名誉や、ましてや金などは、大したモノではないと謂うことがわかると説く。あの人を観るとホットすると謂う人ほど、そんなことを経験したひとであると、成る程、苦境苦節こそが、人を成長させ、新価を得ると。人生は、決して、結果ではないのであると、大人の男が、苦境の時に、何をなすべきなのか?正しいことと云うものは半分以上、人の目には見えないものであると、成功体験だけでなく、挫折も、辛酸も、考えようによっては、病気も、回り道も人生には、必要なものであろう。
「忘れ去られるものたち、時代遅れで何が悪い!」:公衆電話、携帯電話のこと、電話を使うときの風情、情緒とたたずまいのこと、時代を捉える目とは? 便利が正しいという見方への疑念、現代人には、やや、耳が痛いところである。
「安けりゃいいワケないだろう」:高速バス事故について、食べ放題を考える、確かに、価格優先の現代の風潮に警鐘を鳴らしているようである。
「人生に無駄な経験などない」:どんな些細な出来事であれ、当事者として接すれば、無駄になることはない。大人の男への訓であると、大人の男は、辛い、酸っぱいトンネルを抜けて出てくれば、風情・形がよくなると、松井秀喜に対して、謂うところの野球だけが人生じゃない、人生を好打できる方が百倍イイと、
「マーケティングという名の巧言令色」:広告会社や市場調査会社の中に宿る巧言令色のこと、実際に、どっぷり、浸かっていた業界だから、よく分かるのであろうか?相撲の八百長の件と自らの義理の兄になる野球選手を通じて、勝負の世界で闘う者の情念・情愛を語る。
スペイン、イタリア、ギリシャ、各国の生き方に触れながら、各金融・経済・政治分野での危機に関して論じる。まるで、クルーグマンに似たコメントには、驚かされてしまう。
「大人の男だけが座れる場所がある」:子供を鮨屋のカウンターに座らせてはいけない理由とは?、グリーン車にふんぞり返る若者や我が物顔の子供への思い、ひとかどの事をなして長くきちんと生きて初めて、座れる場所というものがあることを知ることの大切さ、成金の品格のなさ、そして、鮨屋は、どんな時でも一席は空けておくべきであると云う持論、
若いエコノミストが何故、私達大人の前で分かったような口をきくのかと、
「勝てばいいってモンじゃない」:スポーツ中継のウィンブルドン・テニス、サッカーのヨーロッパ選手権、等の観戦を通じての品性論の展開、
「誇りを捨てずに生ということ」:鯨の太地町とシー・シェパードを引き合いに出しながら、誇りと命を懸けて生きることの大切さを語る
「大人の男の覚悟とは何か」:子規の俳句、六月を 綺麗な風の吹くことよ と、夏目漱石を引き合いに出しながら、たとえ若者であれ、己の生に覚悟を持っていたと、大人の男の覚悟を語る。そして、己と時代とを見る目がないと置かれた立場に気づかないと、更に、若い人に何かを任せられない大人はつまらない大人であると、日本の四季を、風情を感じ、人には人情があること、金だけで幸せになれぬことを若い人に教えなければならないと、
「本物の大人はこう考える」:
「綺麗に遊んでグッドバイ」:金に遊ばれるのではなくて、綺麗に遊び続けるとは、そこから、逆説的に、仕事の神髄とは、誠実と丁寧、そして、品格と姿勢、だからこそ、仕事には、揺るぎない尊厳があると、遊んだ経験があるからこそ、こう言えるのではないか?
仙台で体験した震災と津波の体験から:自分達とは何だったのかという問いかけ、震災孤児に対する大人の使命、メディアの仕事について、問いかける。原発事故の瓦礫拒否に対する恥知らずな行為への憤り、
「グリーン車に乗る馬鹿な若者へ」:世の中には若者が座って然るべき席があることも知らない無知さは、どこから来るのか?、金を払えば何でもOKと考える親が育てた子供は、更に、馬鹿な人間になると、大人の男のいる場所に子供を入れるなと謂う論理とは?、
「大人が人前でとるべき態度とは?」:石田礼助翁と父を引き合いに、目線をちゃんとすること、品格というものを考える。更に、シリアで殉職された山本美香さんの死を、今一度、考察する。
「我慢すればおさまるのなら」:雪にも堪えて、凜として立っていた杉の木が、地震に耐えられず、枯れてしまったこと、家人(篠ひろ子)の実家である見ず知らずの土地である仙台で暮らすことになった自身の宿命と重ね合わせて、、、、。
「道に倒れて泣く人がいる」:行き倒れと、年を越せないということを考察しながら、長期ローンを考える。
「親は子供の云うことを聞かなくて良い」:子供は父親をただ観察して、大人の男というものを理解してゆくもので、それで十分であると、
そして、最期に、素晴らしき哉、人生!と、締められている。



川鵜に久しぶりに出会う:

2013年02月10日 | 動物・ペット
川鵜に久しぶりに出会う:
いつのことであろうか?自宅近くの散歩コースのひとつである善福寺川で、一羽の川鵜が、小さなザリガニをくわえて、捕食しているのを見かけたことがあった。久しぶりである。その個体だろうか?今日は、器用に、水深30センチ程の川底に生えている草の間を、嘴を伸ばしながら、何かを捜しているように、泳いでいた。草の中に、頭ごと、嘴を突っ込んだかと思いきや、見事に、一匹の小魚をくわえて、水面に、ヒョイと顔を出し、一飲みで、小魚が、左右に身をよじるのをお構いなく、飲み込んでしまった。河には、野生の鴨が、越冬し、未だ、春の旅立ちの準備は、整っていないらしい。都会の河でも、最近では、水質が改善され、カワセミも棲みつき始めているし、様々な種類の鴨や、小鷺や、蛇や20センチもあろうかと思われる甲羅を持って、悠然と泳いでいるスッポンをも観たことがある。確かに、小魚や、ドジョウやら、ザリガニなどの餌になる生き物たちが、生育しているようであるから、生存可能なのであろうか、あの川鵜の大きさからして、食事のためには、随分と、餌を毎日食べないと、生きて行けないのではないかとも思うが、、、、、。それにしても、橋の上から、眺めていたら、ひょいと水面に頭を出すや、後ろ脚を器用に、左右交互に、水面を蹴りながら、翼を大きく拡げて、川面を飛び立っていってしまった。 又、いつか、無事に、再会する日が来ることを願いつつ、、、、、。地方によっては、鮎や養殖魚をたらふく食べるとかで、自然保護か、駆除かとで、論争があるようであるが、都会では、まだまだ、自然保護なのだろうか?


節分の翌朝の散歩での出来事:

2013年02月09日 | 動物・ペット
節分の翌朝の散歩での出来事:
節分の豆まきである。我が老犬は、相変わらず、鼻をクンクン、地べたに這いつくばるようにしながら、とぼとぼ、歩みを始める。「拾い食い」は、よわいを重ねても、一向に、改まることはないようである。それが、子犬時代からの悪食・旧弊であっても、まるで、自分の「犬であるアイデンティティー」を誇示するかのように、固守している。流石に、何を拾い食いするか、分からず、とても危険なので、一緒になって、私も、地べたを舐め回すように、よく見ながら歩いて行くが、、、、、。何せ、早く見つけたものが、勝ちである。
もっとも、「節分の翌朝」は、例外である。道路には、「鬼は、外!」とばかり、恐らく、勢いよく、玄関先へ、播かれた大豆の豆粒が、散乱している。これが、車のタイヤで、轢かれて、潰れていたり、その丸い粒々のまんま、道路に落ちている。その香ばしい臭いが、堪らないのか、生来の捨て犬だった「無頼の血」が、そうさせるのか、定かではないが、我が老犬は、「待ってました。ゴッツァンです!」とばかりに、年に一度だけの公認された「拾い食い」を始めるのである。カリ、コリッと、一粒一粒、口に入れては、丈夫な歯で、口の中で、かみ砕かれた豆の音が響く。何とも、小気味よい音であることだろうか。本人は、一心不乱に、味を噛みしめながら、鼻をピクピクさせながら、大豆の豆を捜している。どういう訳か、豆は、もとより、木の実とか、晩秋になると、ドングリの実までも、果ては、口にする始末で、外側の固い皮を器用に、かみ砕いて、中身の柔らかい部分を食べてしまうのである。これまで、特段、それで、お腹を壊したこともない。もっとも、それ程、大量に、食べるわけではないが、、、、、。流石に、殻付きの胡桃の実を与えたことはない。犬は、嚼むことで、太古の野生の本能が、呼び覚まされるのであろうか、今日一日だけは、「年に一度の正式公認の拾い食いOKの日」である。少し、いつもよりも、心なしか、嬉しそうに感じられるのは、私の思いすぎだろうか?果たして、来年も、同じように、その日を迎えられるであろうか?



ヒート・テックとチェキに考える:

2013年02月08日 | 社会戯評
ヒート・テックとチェキに考える:
マーケティングの基本は、何でも、ニーズ・シーズ・ウォンツ、或いは、心理学的な志向の分析であるとまで、謂われてきているが、何とも、作る側による「想定された使い途」とは、どうやら、最近の商品は、消費者が、はるかに別の「想定外な使い途」を開拓し始めているようである。その昔、まだ、デジカメが、発明される以前には、見本の撮影取りには、よく、ポラロイド・カメラを使ったものである。もっとも、やたら、フィルム代が高くて、ピンぼけで、失敗すると、何か大損したような気がしてならなかった想い出がある。あのポラロイドも、いつの間にか、コダック等とともに、消え去ってしまったのは、何とも、皮肉である。もっとも、銀盤フィルムの技術が、富士フィルムの化粧品に生かされる時代だから、その変容にも、驚くべきことではないのであろうか?その名前の所以の通り、ヒート・テックだから、冬場に、着用とばかり、思っていたのに、何と、季節が真逆の夏にも、寒いほどの室内冷房から、身を守る必要上、或いは、避暑地でも、ヒート・テックが、盛んに、東南アジアの人々の間で、人気商品になりつつあると。そう言えば、東南アジアで、車に乗っていると、やたらと、寒いと感じるくらいの温度に、現地の人は、設定していて、時として、風邪を引いてしまう原因になることもあることを想い出す。40年ほど前に、働き出したときには、繊維不況だとか、もう、日本では、繊維の縫製品は、「衰退・絶滅危惧産業」だとか、謂われていたが、どっこい、商品の開発や市場開拓に、もっと、知恵を絞り出せば、何と謂うことはない、安い労働工賃の競合国や加工国に対しても、十分、競争を勝ち抜き、棲み分けることが可能であるということを物語っているようである。俄然、勇気づけられ、元気が出てきそうである。もう安いTシャツのお土産を買う代わりに、逆に、ヒート・テックをお土産に持っていってあげたら、重宝されるかも知れない。白物家電や、大手のメーカーの衰退の暗いニュースが、喧伝されているが、久しぶりに、晴れ間をみたような気がしてならない。思った以上に、「消費者の望むもの」、「欲しいもの」は、結構まだまだ、「潜在的にある」のではないかという事実を思い知らされる。まさに、「逆転の発想」である。(一寸、一時代前で、旧いか?糸川さんも鬼籍に入ってしまったが)ものつくりの側も、もっと、真剣に、季節が、真逆でも、使用できる高機能な商品開発を考えて貰いたい物である。下着も、今や、抗菌、消臭、吸熱湿、放熱湿、臭いの粒、形状記憶ブラとか、もっとも、家電では、余りに、高機能重視戦略の為に、逆に、そのパラドックスに、陥ってしまった観が無きにしも非ずであるが、3Kならぬ、4Kテレビとか、何が何やら、訳が分からなくなってきてしまった。またぞろ、急ぎ買いで、失敗したから、ここは、「周回遅れ」買いにするか、どうか、難しい所である。そう言えば、プールも、温水プール化したことで、水着が、通年売れるようになったり、健康ジムの増加で、半袖のウェアーが、通年、販売されるとか、ますます、マーケティングと仕入れには、工夫を凝らさないと、絶滅危惧種に、転化してしまうかも知れませんね。大変な時代ですが、考えようによっては、知恵と才覚があれば、面白い時代なのかも知れません。いつの時代も、、、、、。そんな風に、思えますが、現役の人は、いずれにせよ、ご苦労様です。頑張って下さい、期待しています。



食文化にまつわる閑話をもう一つ:

2013年02月07日 | 動物・ペット
食文化にまつわる閑話をもう一つ:
ことのついでに、もう一つだけ、何でも、ベトナム北部には、厄落としの風習とかで、犬肉食が、繁盛しているそうである。中には、家庭で飼われているペットの犬を、一般の労働者の月給程の金額になるそうであるから、盗んできては、売り飛ばす荒っぽい犯罪が、多発しているらしい。そう言えば、朝鮮半島でも、犬肉のスープは、冬場には、身体が暖まって良いとかで、古くから、未だに、今日でも、食べられていると風聞するが、、、、。
何とも、科学的根拠のない風習であると、一蹴は、愛犬家ならずとも、出来そうもない。その昔、米国に駐在していたときに、シカゴで、ライオンや熊、ヘラ鹿の料理を提供する野獣肉専門のレストランがあって、一度だけ、お客さんと出掛けてみたことがある。もっとも、そこでは、合法的に、仕入れた肉を提供しているという触れ込みではあったが、真偽の程は、定かではない。熊の手は、何でも、利き手の方が、蜂蜜を採る方で、美味しいとか、メニューには、高額で謳われていたような気がするが、、、、。何とも、食事の最中、ずっと、壁に掛けられた剥製の動物たちの目線が、じっと、私を恨めしそうに、見下ろしているように感じられて、筋張った肉と臭みを消す香草の臭いしか、覚えていない。ということは、勿論、味の方は、最悪であったと云うことだろう。想い起こせば、随分と、ゲテモノを色々な国で、食べたものである。野外のレストランに、鉄で出来た檻があるので、お客の観賞用に、動物でも飼っているのかと思いきや、蛇や蜥蜴で、それが食用目的だったり、食べた後で、美味しいと思えたものに限って、後で、ゲテモノと知らされたり、山羊の肉なんかも、精力がつくとか、現地の人に騙されて(?)、焼き肉で、正々堂々と、これ幸いにと、一緒に、食べたりもしたし、又、ある時は、食品の衛生管理の専門家とスープを飲んでいたところ、不意に、その人が、紐のようなものを箸で、摘まみ上げたかと思うと、一言、「これは、寄生虫のようですね!」と、謂った瞬間、全員、凍りついたように、食べるのを止めたこと。そりゃそうでしょうね、にしき蛇のスープだったのだから、確かに、色々なものが、出てきますね。後から、納得しました。SARSが、一時、大流行した頃に、その原因であろうと推測されたハクビシンの肉料理が禁止になりましたが、それ以来、これをきっかけにして、所謂、ゲテモノ料理(というよりは、現地の人と同じモノを食べて、衣食をともにし、親しくなるという目的ですが、)は、それ以来、一切、食べるのを止めました。流石に、台湾の生きた猿の脳みそ食いは、鄭重に、ご辞退申し上げましたが、、、、。自分は、愛犬家であると、自認していますが、恐らく、犬のスープが、黙って出されたら、きっと、「美味しいですね!」とばかりに、飲んでしまうでしょうね。知らなければ、飲んじゃいますよ、きっと。固有の「食文化」とは、動物愛護の精神とは、やや、地平を別にするところではないかと、思いますが、、、、宗教的な意味合いから、牛肉や豚肉を食べないとか、食べてはいけないとか、身近なところで、食文化や食育について、子供の頃から、(大人になってからでも、遅くはないが)考え直してみることは、重要なことでしょうし、その民族の歴史や宗教観を、或いは、命の尊厳とかを学ぶ上でも、現地の人との相互理解の上でも、大切なことであるでしょう。もう、二度と、あのシカゴの有名なレストランには、行くことはないでしょう。きっと、、、、、。生殖細胞の技術による鯖が鮪を産むという記事から、昔の事を想い出しました。



鯖が鮪を産む!?:

2013年02月06日 | 社会戯評
鯖が鮪を産む!?:
生殖細胞移植とやらで、既に、ニジマスから、ヤマメが生まれているので、理論上では、不可能ではないらしいと報じられている。残る課題は、具体的な技術上の問題を克服して行くだけであるそうである。何とも、クロマグロの絶滅危惧種扱いやら、日本鰻の乱獲による(?)相場の高騰とか、何かにつけ、日本の食文化の話題は、事欠かない。昨今は、「生命倫理学」の観点から、卵子の提供による所謂、「代理親」の問題は、どうやら、魚の世界では、遺伝子操作や、クローン技術ではなくて、生殖細胞の移植や不妊手術技術だったり、精巣の冷凍凍結技術だったりと、既に、ドンドンと、技術革新が進歩しているようである。もう、やがては、オスは、不要で、メスだけで、子供が出来る時代が、すぐそこまで来ているとも、何かの本で、読んだことがある。何とも、ウカウカしてはいられない時代になったものである。人間様の世界であれば、おおいに、「生命倫理学上」の観点から、論じられるのであろうが、こと、「魚の世界」では、そんなことは、食糧問題、絶滅危惧種の保護、漁獲資源保護・枯渇の観点からは、品種改良ではないが、生殖細胞の技術発展であれば、推進されて然るべきであると云う議論になってしまうのだろう。何とも、これからの世界は、原産国表示だけではなくて、魚すらも、氏素性ではないが、父方は、誰それの魚、母方は、誰それの魚、更には、バーコードを携帯端末で読み取ると、それに関連する様々な情報にアクセスでき、食べる前から、一騒動は、必至であろうか?もっとも、北京の高級フカヒレ・レストラン等では、公然と、ゼラチンの偽物・混合フカヒレが、高値で出回っていて、それを識別することは、容易ではないとも謂われているではないか。固有の「食の文化」を守ることは、何とも、難しい問題になりつつあるように思われる。実に、考えさせられてしまう。そう言えば、国産の鯨の肉の天ぷらを提供していたお店が、閉店してからというもの、鯨の肉も、食べなくなってしまった。そんなことを考えながら、馬刺しや鯨肉を食べても、美味しくはないヨ!と、、、、。成る程、ご尤も、犬肉のスープを、皮肉っぽく、論評は、出来ませんね、ノー・コメントとしましょうか?鯨の大和煮の缶詰、竜田揚げも、とんと、食べていませんね。生殖細胞の技術で、何とか、復活は、出来ないものでしょうか?シー・シェパードに、怒られそうですが、、、、、。



Margaret Wise Brown詩「詩の絵本」を読む:

2013年02月05日 | 書評・絵本
Margaret Wise Brown詩「詩の絵本」を読む:
図書館から、ネットで、検索して借りてきた。いつもの出たとこ勝負の本屋での立ち読みや歯医者の待合室での読書ではない。同女史は、1910年NY州生まれで、1952年には、亡くなっている訳だから、既に、長い歳月が、経過していることになろう。日本語には、「上から目線」とか、「下から目線」とか謂う言葉があるが、どうやら、絵本には、人間目線ではなくて、動物や植物や虫などの「異なる視点」からの「ものの見方・眺め方」を、子供も含めた私達人間に、改めて、教えてくれる効果がありそうである。それは、丁度、この本を通じて、作者は、身近な自然の景色・事象や、小動物達や虫や魚を通して、具体的に、どうしたら、というよりも、子供達に、その読書の間に、子供の中で生じるであろう「想像力」を膨らませることで、それらを感じ取る誰しもが有する天賦の生まれ持ってきた「五感」を研ぎ澄ますことが、重要であると訴えているような気がしてならない。それは、逆説的に謂えば、皮肉にも、私達、大人に対しても、子供達同様に、今日、必要不可欠ではなかろうかと、問題提起しているのかも知れない。そして、最後に、「詩が、言葉の音楽であり、言葉の唄こそが、詩である」ということを、子供達に、学んで貰おうとしているとしたら、
「虫の唄」では、身近な小さな虫たちの眼から眺める未知なる大空の広さ、飛べない虫たちから見た羽を持った虫たちへの憧れ、「自分達の夢」をあたかも託すかのように、大空へ飛翔する虫たちの視点・目線、或いは、葉っぱのてっぺんから眺めた空間と距離感、それは、子供達の「不安や未知」なるもの、「将来への不安」とも重なるであろうものであることは、容易に、想像に難くないし、又、小さな虫たちは、それすら、乗り越えて、勇気を持って、「未来に飛翔」してゆくものであることを、知らず知らずのうちに、語りかけているのかも知れない。そして、聞き手である読者は、やさしく、「心配はいらないよ」と暗黙のうちに、語りかけていることを、きっと納得するのであろう。
「耳を澄まして聴いてごらん: 秘密のうた」、バラの花びらが落ちる音、夕焼けが鳥を染める瞬間、霧が降り始める時、太陽の光が射し始める時、石の上を蔽う苔の成長、「眼には見えない瞬間、瞬間」の音や光、まるで、超スローモーション映像でしか、捉えることの出来ない瞬間を、「想像力=創造力でもあるのか」という力で、耳を澄まして、観てご覧と、、、、、、。
「眼を閉じて」、「鼓動」、小さな動物たちの一挙手一投足の中に、それらの生きている「心臓の鼓動」を感じたり、「心の中の優しい鼓動、穏やかになっている鼓動、生きている実感・生命の躍動感」を、子供達は、作者と共に、或いは、読み手・語り部と一緒になって、共有し、共感するのかも知れない。
「どうして、春がきたってわかるの?」、四季折々の豊かな自然を通して、季節の移ろいを、子供達に実感させ、最後に、「言葉の音楽」、「言葉の唄」が、「詩」というものであることで、さりげなく、締めくくっている。読み聞かせるも良し、イラストの絵だけを観て、聞くも良し、次第に、瞼が重くなって、想像力と共に、眠りの世界に、導かれるのも、又、良ろしいのではなかろうか。そして、子度達が、その眠りから、目を覚ましたときには、きっと、未来に対して、身近な動物や、虫たちや、植物や、みんなに対して、決して、負けないように、しっかりと、勇気を持って、飛翔しようとする「明日に向けての新しい力」が、きっと、知らず知らずのうちに、備わっていることであろう。絵本には、読んでいる間に、そんな心に作用する「秘密の薬効」が、あるのかも知れない。文字と絵とは、60年以上を経過しても、時空を超えて、直接的に、一人一人の心に、響いてくるものなのであろう。なかなか、色あせない内容であるし、今でも、読み継がれる理由が分かろう。




我が老犬の誕生日に想う:

2013年02月04日 | 動物・ペット
我が老犬の誕生日に想う:
といっても、誕生日が、書類で、ハッキリしている訳でもない。出生証明書も、血統書が有るわけでもない。只単に、城南島の動物愛護センターから、二回に亘る講習終了後に、貰い受けてきた日(1995年5月1日)が、生後3ヶ月程の子犬であったという事実以外には、何らの証明書も無いのである。従って、当然、氏素性も、どんな母犬から生まれて、どんな犬が、父親だったのかは、皆目、見当がつかない。但し、4匹の姉妹犬の一匹であったことだけは、紛れもない事実である。背中の模様からすると、恐らく、シェパードの血が、何処かに、そして、前脚を一寸曲げて、臭いを嗅ぐところは、何処か、猟犬の血が、いくらか、混じっているようであることは事実であろう。小さな段ボール箱に入れられて、車で、運んでくる間中、淋しかったのだろうか、ずっと、私の左指を、舐め続けていたのを想い出す。脚の弱った父の散歩のお供に、又、私と中学生の息子の希望もあって、子犬を飼うことに決めたが、いきなり、その日は、息子の部屋で、環境の変化に慣れなかった為なのか、お腹を壊して軟便を垂らして、すさまじい臭いが、部屋中、廊下中に、充満した。近くに、開業したばかりの動物病瓶で診てもらうと、助かるかどうか、分からないとも、云われたが、何とか、その後、回復して、犬年齢満で、18歳になる。幼少の時から、散歩の時に、ティッシュ・ペーパーを、必ず、拾っては食べる癖があった。私は、氏素性が分からない(卑しい?)から、全く、悪食癖であると、いつも、叱責しながら、口にくわえた塵紙をとったものであるが、今でも、この癖は、矯正されることがない。殺処分・ガス室送りになるところを、自分の力で、こちらが呼びかける口笛に反応して、小さな足で、チョコチョコとついてきたことは、この犬の持って生まれてきたところの「運の強さ」だったのかも知れない。だから、初めから、口笛に、反応して、応えてくれた犬を、引き取ろうと決めていたのである。まさに、これに、応えたから、君は、Luckyという名前を命名されたのである。エメラルド・グリーンの瞳が、いつも、飼い主である私の眼から、アイ・コンタクで、凝視して、「絶対に、もう、目を離さないぞ」という強い意思を、その瞳の奧に、子犬の頃から、いつも感じられた。流石に、今では、もう、その瞳も、濁って、澄み切った美しいエメラルド・グリーン色の瞳は、見ることが出来ないし、目も耳も不自由になってしまい、更には、後脚も弱ってきているが、指を舐めて離さないのは、子犬の頃と同じである。シャンプーをする度に、嫌がるのも、きっと、雨に濡れて、びしょ濡れにでもなった嫌な経験からなのであろうかと、勝手に、推測したりするが、今でも、風呂場では、大きな声で、嫌がって吠えることを止めない。流石に、海外旅行にこそ、連れてはゆかなかったが、何処にでも、家族と一緒に、車で、(自分の席に、チャンとお座りして、もっとも、段ボール箱であるが、)連れて行ったものである。大好きだった父と母が逝くのを見送り、子供達の成人を見届け、後、どのくらいの時間を一緒に、過ごせるのであろうか?よしよしと、身体を撫で回してあげると、安心したかのように、目を細め、すり寄ってくる。もう、自由に、吠えたいときに吠え、歩きたいときに歩き、寝むたくなったら、寝て、自由気儘に、ストレスなく、生きてもらいたいものである。犬でも、猫でも、小鳥でも、動物というモノは、長い間、一緒に暮らしていると、大切な家族の一員になるものである。決して、目を離さないのは、アイ・コンタクトで、きっと、「私を見捨てないで下さいね!」、と見えなくなってしまった目で、訴えかけているようである。自分で、自分の生を切り拓いたから、君は、「ラッキー」なんだよ!



BS ドキュWAVE、毛沢東について大討論:

2013年02月03日 | 映画・テレビ批評
BS ドキュWAVE、毛沢東について大討論:
中国で、公然と囁かれ始めた「社会の富の格差」を、鄭州に於ける親毛沢東主義支持派と反毛沢東主義派との間でなされつつあるサロンでの議論を通して、取り上げているドキュメンタリーである。50年以上も真面目に働いても、月々の年金が僅かに、日本円にして、1万円少々であると云う農民工の日雇い労働者達、嘗て、文化大革命の中で、指導的中心的な役割を担った当時の紅衛兵達の年老いた姿、官僚達に、非情にも、駆逐・抹殺されたという旧左派指導者の残党達や、一方で、毛沢東の写真を公然と破り捨て、ネットで、民主化を訴えた人達、或いは、毎朝、公園に集い、たとえ、貧乏であったけれども、金権・腐敗とは、無縁であったと当時を懐かしみ、真の共産党に復帰すべきであると訴える嘗ての若者・老人達、どちらが、左派で、どちらが、右派だとかは、断定できないが、それにしても、今日、今や、中国と言う国は、共産党大会で、問題提起された問題である「貧富・格差の是正」にすら、極めて、絶望的で、懐疑的であるのは、皮肉である。公式な歴史的な評価とは別に、文革の時代は、彼らに言わせると、歴史上初めて、民主的な「造反有理」というスローガンの下、たとえ、それが、毛沢東による権力奪取闘争であったとしても、初めて、民衆が、党官僚を民主的に(?)下から、訴えることが出来たという歴史であったと、今でも考えているのは、興味深いことである。又、その「暴力革命が、絶対である」と未だに信じている事実は、逆説的に謂えば、いつでも、第二次天安門事件の芽が、何かのきっかけで、大気汚染による旧正月の帰省の足が混乱したり、健康被害が悪化したり、チベットでの武装暴動とか、地方官僚や公安の汚職の暴露とか、どんな些細なことでも、ガス爆発のように生じる危険な兆候が、垣間見られる。「重慶の簿事件」の背景にあった毛沢東時代の歌を歌おうという思想的な背景を、早急に収束することに躍起になるのも、毛沢東主義という亡霊を、早めに、消し去ることが、今や、一番不可欠であることが、このドキュメンタリーからも、よく分かる。それにしても、「造反有理」という文化大革命時のスローガンが、未だに、当時の紅衛兵世代の老人達の中に、受け継がれていることは、まるで、「時限爆弾」を抱えたままのようなものであろう。それにしても、公式的な、文化大革命の評価は、実際には、あたかも、左派による極悪非道のような政治の嵐として、葬られているが、実際には、どうなのであろうかと、思わざるを得ない。勝てば官軍、勝者の歴史観以外の何ものでもない。親毛沢東であれ、反であれ、いずれにしても、共通する敵は、金権主義と腐敗であり、その結果としての富の格差である以上、彼らが言うところの、0.04%から、今や、0.02%の人間が、70%の富を独占しているのが、中国の現状であると。まるで、一枚の鏡の表と裏のような関係を観たようなものである。そして、まさに、その格差は更に悪化しつつあると。中国を崩壊させるのに、戦争は要らないという、即ち、中国共産党の師弟・家族で、アメリカや海外在住している人間の名前と銀行預金をネットで、公開したり、反地方政府暴動に、武器を密輸でもしたら、すぐにでも、大混乱に陥るのは、必至と囁かれている。それは、まあ、荒唐無稽としても、甚だ、現状は、越境汚染や重篤な大気汚染を一つとっても、ますます、事態は悪化しつつあり、今や、中国は転機を迎えつつあるように思えてならない。難しい隣人との付き合いをどうしていったら良いモノなのであろうか?そして、又、そのお隣には、朝鮮半島という難しい隣人達が、いるのも現実であろう。



再生視聴率の摩訶不思議:

2013年02月02日 | 社会戯評
再生視聴率の摩訶不思議:
視聴率競争という代物が、云々されて来始めてから、テレビの制作者の間では、「しっかり年季を入れて創ったものに限って、視聴率が宜しくない」と、よく謂われていることを耳にする。もっとも、こちらには、そんなことは、一向に、関係がないのである。テレビ局の広告収入が、減ろうが減るまいが、当方は、良い番組を好き勝手に選べばすむだけで、いささかも、問題はないのである。しかしながら、一寸、この記事には、見逃せないことが、一つだけ感じられる。それでは、ビデオリサーチとか、視聴率の実態情報の収拾とは、実際、リアルタイムで、観られている番組をある種の機器や電話問い合わせを使用して、収集した上で、判定しているのであれば、今日、既に、多様化しつつあるメディアの、とりわけ、テレビへの多様なアクセス、即ち、パーソナル・テレビ化しつつある、ワンセグやフルセグ、PCでのテレビ視聴や、ここで、問題となっている今や、全世帯の半分以上に行き渡ったビデオ録画機の再生による「遅れて視聴する」視聴率は、確かに、これらを勘案すると、一体、本当に、実体的な視聴率を表しているのであろうか、、、、、と、疑問を呈せざるを得ない。成る程、スポンサーには、CMを飛ばされてみられてしまう録画機による視聴率は、甚だ、「不都合な現実」なのかも知れない。そう考えると、随分と、世の中には、こうした「不都合な数字」というものが、実は、結構、隠されているのではないだろうか?我々は、実際には、そんな「疑わしい数字」の中で、繰られているとは謂わぬが、何か、釈然としないこうした「数字のマジック」の中で、生活しているのではないかと、ふと、感じざるを得ない。例えば、経済成長率の指標、物価指数、失業率、貿易統計の数字、銀行間金利、官公庁の数字、賃金指標、等、むろん、中国の大気汚染指数などは、論外の外であろうが、、、、、「実態を反映した真実の数字」とは、一体、如何なる物なのであろうか?よく、若い頃に、「数字の裏に潜むもの」を喝破せよと云われたものであるが、今や、「眼光紙背に徹す」と言っても、イミフメイ!などと謂われかねないが、、、、、少々、考えさせられる。テレビ局や、広告業界の皆様、ご苦労様です。視聴率競争とは無縁な一視聴者より、



動物と暮らす幸せ」絵画・作文コンテスト記事に思う:

2013年02月01日 | 動物・ペット
「動物と暮らす幸せ」絵画・作文コンテスト記事に思う:
イジメだとか、児童・動物虐待であるとか、少年の自死とか、全く、暗いニュースに、接する度に、健全な人間ですら、心が痛み、精神が病んでしまいそうになる昨今である。ペットなどの身近な動物を観察し、その気持を思いやって、「動物の笑顔」を題材にして、絵画や作文で、子供達が表現をするという新聞の記事を見かけた。そこには、亡くなった愛犬とのお誕生日会での愛犬の狂おしいほどの嬉しい笑顔の表情が垣間見られたり、恐らく家族であろう人達と一緒に、祝う笑顔とともに、金魚鉢や小鳥たちも、背景にして、描かれていて、大変印象的である。お母さんが手作りしたバースデー・ケーキを前にして、お父さんとおぼしき人が、犬のゴンの好物であろう骨を持ちながら、お姉さんと並んで、拍手しながら微笑んでいる少年の笑顔は、何と、微笑ましいことであろうか?何故か、自然と、涙腺が緩んできてしまう。(最近、歳のせいだろうか、雲を観たり、絵本や本を読んでいても、涙腺が、しばしば緩むことに気付かされる、笑)しかも、それが、既に、過去にあった愉しかった愛犬、ゴンとの想い出であったと云うことを、「桜の下のお墓」という言葉で、初めて知るのである。ここまで来ると、涙が、溢れ出てきてしまう。祖母ちゃんチの17歳でなくなったココと言う犬の笑い顔、病気の時に、看病してくれたエドという愛犬のこと、双葉町から避難してきて、家族と離ればなれになり、一時預かっているピーちゃんという犬のこと、そしてその家族との再会の様子のこと、お祖母ちゃんの家で、泣いてばかりいた子犬が、ギュッと抱きしめてあげた途端に、泣き止んで、初めてコロコロと笑ったので、コロと命名した子犬のこと、等々、どの作品をとっても、動物を通じて、その同じ「命を尊重しあう」優しい心や気持だったり、「家族の一員」としての絆だったり、物言えぬ動物という相手の気持ちを「忖度」する小さな子供達の力、何よりも、「命と真摯に、向き合おうとする」そうした姿勢、力が、或いは、限りある「命との別れ」を実感・確認するそうした辛い経験を通して何かを学ぶ力が、この子供達には、しっかりと根付いているのではないかと、感じられてならない。年賀状で元気に写真に写っていた小さな甥っ子や姪っ子達は、どうしているかと、思いを巡らしてしまう。間もなく、満18歳を迎えようとする我が老犬は、相変わらず、しっかりと、いつものように、決まって、丸まって、軽い寝息とともに、午睡中である。少し、心の中に「晴れ間」を観たような気がしてならない。