小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

フランスの青年とEU難民問題を語る:

2015年09月11日 | 社会戯評
フランスの青年とEU難民問題を語る:
この青年は、元々、父親が、チュニジア出身であり、母が、フランス人という関係から、フランス国籍を有しながらも、フランス語とともに、アラビア語も話せるわけで、なかなか、難民問題や最近のテロ事件にも、極めて、敏感である。日本人は、今日、満蒙開拓団の問題や、戦時中の植民地支配の問題に関して、ましてや、朝鮮人労働者強制連行の問題や、昨今、EUに押し寄せている30万人にも及ぶ、否、それ以上に、実際にはもっと登るであろう数のシリア・アフガン・イラク・リビヤ、或いは、西アフリカ諸国からの難民受け入れの問題に、全く、アパシーで、有効な受け容れ策を提示出来ずにいる。結局、アフガンやイラクではないが、得意のお金で以て、貢献する以外にないのであろうか?既に、難民申請の再申請に関しても、抑制策をとろうとしているし、何とも、世界の人道的な難民受け容れ策にも、極めて、消極的である。それよりも、何としても、安保関連法案の採択の方が、最優先課題なのであろう。フランス人にとっては、旧植民地諸国は、今日でも、責任ある対応をとらなければならないという極めて、当たり前な責任感のようなものが、果たして、日本人には、朝鮮半島の有事の時には、どれ程の難民対策が想定内で、可能なのであろうか?全く、そういった議論は、マスコミにも、又、巷間にも、風聞されない。恐らく、水面下で、行われているのであろうか?それとも、そんな事自体、歴史認識の違いから、考えたくもないというスタンスなのであろうか?そんなことよりも、もっと、アベノミックスの第二ステージのほうが、或いは、消費税の還付の方が、喫緊の課題であるとでも、云うのであろうか?考えてみれば、人手不足も労働力の需給バランスのミスマッチも将来の少子高齢化の問題や移民政策、外国人技能労働者制度や留学生や先端技能外国人労働者の長期滞在期間の延長問題、難民申請許可の在り方など、いずれも、関連・共通するところが、重なりうる課題が山積みである。


古道具カフェという空間:

2015年09月10日 | 男の手料理・食
古道具カフェという空間:
何でも、知り合いから、軽井沢のプリンス通り沿いの馬越ゴルフ場の手前角に、赤いレンガ色の小さな面白いカフェが、開店したから、一度、尋ねてみてあげて下さいと乞われたので、一寸東京へ戻る途中に、フラッと何気なしに、訪問してみた。元々、古道具・骨董品などには、その人間の思いが、何か、焼き付いて、染みついているようで、どうしても、購入したいとは、思わないし、そもそも、女房殿からは、全く、その保管や保存を、肯んぜられることは決してない。その昔、海外出張した度に、土産で購入していた各国の海外人形も、飾られていたピアノの上から、いつの間にか、消え去られていたものである。そういう経験もあるので、元々、ハードルの高い、骨董品屋などは、外人の友人にでも観てみたいと言い出されない限り、訪れることもないし、ましてや、購入することは考えられない。この小さなお店の中には、所狭しとばかりに、様々なジャンルの古道具類が、インテリアとして、飾られている。温厚そうなオーナーは、自分から、その小物類ですら、自らは、問われることもない限り、曰く因縁、故事来歴を語ることはない。そこには、絶妙の間合いが、訪問する顧客との空間には、存在するかのようである。骨董品や古道具といったものを販売するのでもない、何か、有名な名物の美味しいスィーツを提供するカフェでもない。その狭い空間には、10人も入れば、一杯になってしまうような狭い空間には、しかしながら、無限の旧い時間へと旅するような間合いと、「蘊蓄」を聴く、或いは、語り合うという会話の愉しさの可能性が存在するのである。まるで、それは、行きつけのお好みのスタンドバーで、気の置けないバーテンダーや懇意の店主と語り合うときかのようである。私にとっては、所詮、小さな旧い刺繍ミシンも懐かしいおもちゃにも見えてくるが、何とも、その横に、窓の仕切りを飾る木製のボビンに巻かれたミシン糸の方が、少々気になった。随分、色々な色のグラデーションが揃っているものである。しかも、どうも、木綿ミシン糸の色合いでもなさそうである。そこで、恐る恐る、優しそうなオーナーに、キレられる事を恐れながら、敢えて、尋ねると、何でも、世界遺産に認定された富岡製紙工場の周辺で、その昔、どうやら、生産されていた絹糸のボビンだったそうで、これらを周辺で、購入したそういう曰く因縁・故事来歴が、この小物には、隠されていたと云うことを知ることができました。成る程、この空間には、なかなか、この種の面白い小道具が、あり溢れている事に気が付く、又、そのことをオーナーと話しをするということも、新たな「旧い時間への旅行」のような空間と時間を改めて、求められるようなもので実に面白いモノである。そうした想像力とノスタルジックな時間的な誘いがある。そう言えば、壁に飾られている何気ない、旧い竹製のスキーのストックも、スキー靴と一緒のスキー板も、ビンディングも、越後新潟の雪国の高田出身であった、母の子供の頃の話を想い起こすものである。今日、「断・捨・離」や、幸福を呼ぶ魔法のようなお片付けが、世界的にも、流行りであるが、こうした由緒ある敷居の高い骨董品とは、異なり、何か、ノスタルジックな思いというか、道具を通じた「想い出の時間を共有」というものは、確かに、日常生活の中で、あっても然るべきものなのかも知れない。そう考えると、こういう古道具カフェとでも云うのか、骨董カフェという空間があっても、ちっとも、可笑しくはないのかも知れない。むしろ、何故、なかったのかとも思われてしまう。しかも、これが、インテリアを訪問する度に、少しずつ、違っていたら、それは、それで、又、面白いのかも知れない。籐のバスケットも、旧い木製のトランクでも、楽器でも、古本でも、おおいに、宜しいのかも知れない。
ル・テロワール軽井沢 Tel:0267.41.0949  軽井沢町発地1408-27
https://www.facebook.com/le.terroir.karuizawa?fref=ts
https://twitter.com/Leterroir_
まだ、不定期営業というのも、実に、温厚な優しい顔に反して、我が儘なポリシーで、媚びを売らない、何か筋が一本通っているようでいて、宜しいではないか?もっとも、出掛ける前に、電話でもいれた方が宜しいかも知れない。

新たな人生の目標:

2015年09月09日 | 社会戯評
新たな人生の目標:
もう、現役を退いてしまうと、人生の目標なるものも、漠然とは、見当たらないし、新しいチャレンジなどが、そもそも、起きないものである。それに対して、久しぶりに会ったこのフランス人の青年は、実に生き生きとしていて、今の日本の若者には、失われてしまった人生の目標なるものがはっきりと、明確に結論づけられていて、実に、羨ましい。もう、3年くらい前になるであろうか?上田の酒蔵で、酒造りを勉強したいというので、その夢の実現のきっかけを作るサポートして上げたが、それをきっかけに、様々な酒蔵で、日本酒の醸造学を学んで、日本酒作りを学んでいる。上田を皮切りに、松江や広島や諏訪での著名な酒蔵参りの修行の延長線上に、いよいよ、フランスでの日本酒の輸入販売実績ばかりでなく、自らが、フランスで、美味しい水と、酒米と、独自の自分が日本人の杜氏の親方達から、各種学んだテクニカル・ノウハウを駆使して、限定版の日本酒作りの酒藏を現地で、興して、販売を行うという人生目標まで、樹てていると云う。又、杜氏になることは、決して、後、5年も立たないうちに、実現不可能ではないとも云っているが、それよりも、自分の夢は、自分の手で、フランス現地で、本当に美味しい、日本酒を生産し、美味しい日本酒を自国のフランス人に楽しんで貰いたいと云う究極の人生目標のほうが、優っていると、要するに、日本産の日本酒を輸入販売するのではなく、自分で自ら修行したノウハウで、日本酒を造り、飲ませたいという、まさに、「フランス人のマッさん」である。ハードワークを嫌う日本の若者は、いつも、暑い、寒い、面倒だと、文句ばかりを言っているそうで、そんな中で、彼は、逆に、日本人職人の鑑だと、杜氏の親方には、云われているそうである。伝統的な世界の中でも、徒弟奉公的な労働条件の中で、よくこれまで、3年間も頑張ってきたものである。まだ、もう5年修行を積んでから、夢の実現に向けて、準備に掛かりたいとのことであるが、その時には、こちらも、その夢の実現を見るべく、フランス現地に、行けるかどうか、健康が危ぶまれるが、頑張りたいものである。こちらも、負けずに、人生最後の目標を、協力できるように、一緒に夢を抱いて、樹てたいものである。頑張って貰いたいものである。蔭ながら、応援したいものである。


三拍子はなかなか、人生では、揃わない?:

2015年09月08日 | 健康
三拍子はなかなか、人生では、揃わない?:
もう、友人達と飲んでも、出てくる話は、まずは、初めの1時間程度は、健康問題ばかりで、誰が病気だとか、やれ、亡くなってしまったとか、、、、、である。考えてみれば、金に困らずに、時間があって、健康で、ストレスがなく、夫婦・家族円満などという3拍子・4拍子・5拍子揃うことは、長い(?)人生の中で、あるのであろうか?親から、たんまりと、財産相続を貰うか、テメェの稼ぎで、たんまり、溜め込まないでもしない限り、少なくとも、カネに苦労することはないし、若い時には、がむしゃらに働けば働くほど、中年になってから、間違いなく、そのつけは、自分に、廻ってくるものであることは、友達を見ていても、間違いなく、事実であろう。そんな風に、考えてみると、間違いなく、余裕が出来てくる頃には、何処かしら、ほころびが、出てきてしまうものである。カネがあっても、健康に恵まれずに、健康に恵まれても、仕事がうまく行かずに、或いは、夫婦・家族の問題があったり、時間ができて、さえ、これから、自由な時間を旅行やゴルフ三昧と考えていたら、健康を害したりと、全く、思うようには、ゆかないのが、人生である。仏教の煩悩などと言うものは、よく言ったものである。「これでよいのだ!」などと、赤塚不二雄をして、言わしめたのも、植木等が、「分かちゃいても、やめられない!」という実に、印度哲学並の名言も然りである。突然、左手の握力が衰えて、更には、心臓裏の背中に、違和感を覚えたりすると、スワ、脳梗塞や狭心症の疑い有りやとも、思い悩み、脳ドックやMRIでも検査しなければいけないかなどと、思い始めるものである。実に、健康寿命等というものは、結果論であって、予測不能なものである。白内障の手術で、友人は、両眼のレンズを交換できて、裸眼で、視力1.2まで、回復したから、よかったが、依然として、人工透析は、週三日、各4時間していると云う。部品交換が効くものと効かないものとでは、何とも、辛いものがあろう。そえにしても、人生、3拍子も、4拍子も、なかなか、一気には、揃わないものであることを学んでおかなければならないであろう。そろそろ、金属疲労してきた肉体のオーバーホールの時期にきているように、薄々、感じているが、どうやら、その時期が近づきつつあるような身体の予兆である。寒い時期には、冬眠ならぬ病院での検査入院も視野に入れなければならないか?もっとも、散々、これまで、生命保険料も、納め続けてきているのであうから、保障をエンジョイしても、良さそうである。高齢者医療費が、嵩むなどとは、云わせないぞ。正当なる権利の行使に過ぎない。

今年も栗の実がなりそうだ:

2015年09月06日 | 自然・植物・昆虫
今年も栗の実がなりそうだ:
桃・栗、3年、柿8年、であるが、随分、前に、植えた栗の木が、いつの頃からか、秋になると、実を付け初め、最近では、大きな実を付けるようになってきた。もう一本、植えた栗の木は、植えた時期が悪かったのであろうか、水遣りに失敗して、枯れてしまったのは、残念である。それにしても、大した肥料もやらないのに、緑色の栗のいがが、いつの間にか、茶色くなり、自然に、はじけてきて、中の実が顔を出してくる。今年も、大きな緑色のいが栗が、幾つかつき始めている。無事に、収穫になればよいが、毎年、せいぜいが、ひと粒くらいしか、まともに、収穫できない。昔の人は、柿も、桃も、栗も、胡桃も、飢饉の時には、そのまま、食料になる訳だから、大したものである。今では、栗菓子として、信濃の国の地方名産品として、欠かせないものなってしまったのは、嬉しい限りである。栗に対して、なかなか、柿の方は、一向に、実を付けないのは、残念である。松の大木の根の張り具合で、大きくなれないのであろうか?理想としては、柿の実がなって、これを吊し干し柿に加工したいものである。毎年、期待しているものの、花芽がつかない。これでは、実がならないわけである。モミジの紅葉もおおいに楽しみであるが、栗や柿の収穫も本当は、期待したいところである。

ロス・インディオスを聴く:

2015年09月05日 | 社会戯評
ロス・インディオスを聴く:
久しぶりの歌謡曲談義である。今の若者は、好きな曲をダウンロードしたり、更には、これを上廻って、ストリーミングで、聞く方向へ向かっていると報じられているのを何かで、読んだような気がするが、年寄りには、やや、ついて行くことができない。依然、ダウンロードした曲は、そのサービスが終了してしまい、おまけに、セイブしておいたPCのHDも、PCのバージョンアップに伴い、結局、どういう訳か、再生不能・読み込めずに、パーになってしまった。そういう経験から、どうも、CDの方が、どうやら、信用がおけるというか、資産価値としては、安心する訳(?)である。たまたま、フラッと、スーパーの売り場の帰りに、ワゴンに眼をやると、様々なCDが、眼に飛び込んできた。ただ、それだけが理由である。ロス・プリモスか、インディオスの違いもよく分からないが、曲名くらいは、想い出しそうである。「コモエスタ赤坂」、「別れても好きな人」、「星降る街角」、「知りすぎたのね」、「男と女のラブ・ゲーム」等々、そう言えば、その昔、お客さんを連れて接待した外国のカラオケで、おネェちゃんと一緒に、歌った曲ばかりである。なかにし礼や佐々木勉、浜圭介、山口洋子、馬飼野康二、森田公一等の作詞や作曲に、懐かしさを感じて、衝動買いしてしまっただけのことである。お陰で、スーパーのポイントに貢献したが、、、、.。それにしても、ムード歌謡コーラスというか、デュエットというものは、今や、絶滅危惧種になってしまったのであろうか?又、唄の中に出てくる土地の名前にも、懐かしさを覚えるものである。火災で焼失してしまったホテル・ニュージャパンがあった頃の赤坂、青山、原宿、表参道、青山通り、渋谷、高輪、乃木坂、そして、ラテン語の響きとネオン街や、ダンス・ホールの灯の光とか、そうした今や絶滅危惧種になってしまった風物詩や子供の頃の場末の雰囲気とかが、曲や歌詞の中で、仮想空間として、蘇ってくるのである。まともに、現実の生活の中で、こんな歌詞のようなことをしていたら、実生活は、おろか、ビジネスでも、身体が持つことはないであろうことは、言を俟たない。その意味で、これらの曲を聴くと云うことは、一種の仮想空間での昔の、或いは、現実離れした夢想に近い虚構の世界の願望(?)を、或いは、又、別人格の自分や、不可能である別のもう一つの人生という生き方を、更には、現実にはあり得ないような疑似恋愛体験願望をも、愉しませてくれる時間なのかも知れない。そう考えれば、1480円で、16曲とは、考えようによっては、安いものであろう。「小雨降る街を ぬれて二人 恋いの哀しみを 胸にかくして、、、、、雨の赤坂の 白い坂道、、、、雨の青山の ぬれた灯、、、、、」と曲と共に、過去の時間と仮想空間の世界を想像するのも、「涙と雨に濡れて 泣いて別れた二人 肩を振るわせ君は 雨の夜道に消えた、、、、、、わけも知らずに僕は 後ろ姿見てた、、、男泣きして僕は 涙と雨にぬれた、」と、一時を愉しむのも、おおいに、精神的なストレス解消にはなるのではないだろうか?こういうスローテンポの曲が、年寄りには、秋の夜更けには、宜しいですね。ちょっと、ブランデー・グラスなどを温めながら、ソファーで、ゆったりと、耳を傾けるのも、宜しいかも、、、、、。もっとも、認知症防止にもなればもっと、宜しいが、それは、どうなのであろうか。カラオケが、効果があるとも風聞するが、一緒に、口ずさんでみるとしましょうか。

人手不足と現場の労働者:

2015年09月04日 | 社会戯評
人手不足と現場の労働者:
国立競技場やオリンピック・エンブレムの白紙撤回により、東京オリンピックも、損害賠償や監督当局者の責任の所在が危ぶまれているが、それどころか、実際、労働力不足や熟練技術者の奪い合いによる問題が、人手不足と現場労働者の働き方という形で、今や、様々な問題を顕在化し始めてきている。もともと、小売りや外食などは、外国人労働者の先駆的な雇い入れ先であったが、今や、こうした業種だけでなくて、安全管理・建設業・農業・工業、あらゆる業種で、少子高齢化や団塊世代の大量退職とも相俟って、ますます、深刻化しつつあるようである。実際、労働者の働き方で、週休3日とか、残業ゼロの限定雇用とか、極めつけは、2時間勤務とかいう最低時間単位での勤務とか、何とも、こうなってくると、私などのシニア層は、色々な種類の外食で、少しづつ、色々な職種を渡り歩いて、ビジネス・ノウハウのスキルを学ばせて貰って、初めから計画的に、若い頃から、自分で、ノウハウに磨きを掛けてから、海外で、独立して、店を運営するとかという新たなビジネス・モデルも可能ではないだろうかなどと、想像してしまう。今更、そんなことをするつもりもないが、考えようによっては、他人様の褌で、たっぷりと、ノウハウを勉強して、一旗揚げることも、必ずしも夢ではないのかもしれない。実際、過去の留学生達の何%かは、そういうことを既に実現している。それにしても、鉄筋工や型枠工などの外国人研修制度でも、なかなか、うまくゆかないのは、もはや、日本の賃金体系自体が、必ずしも、魅力的なものであるとは限らないのも、ひとつの理由であろう。母国で、現地の日系企業に就職した方が、ひょっとして、有利なのかも知れないのが、現実ではなかろうか?年収200万円余で、しかも、交通費や道具購入費用が自前で、控除にもならないのでは、結婚もできないし、将来の親方への展望も開けっこないのが、実情であろう。社会保険未加入や労働条件・環境の向上、有給休暇制度の拡充、IT活用と生産性の向上などの問題とか、賃金体系とかも含めて、もっと、利潤の分配率を上げてゆかなければ、終いには、若者ばかりではなくて、ミドルや中堅の不足を招き、JRのように、いつも、考えられないような初歩的なミスや事故を起こしかねないかも知れない。留学生の活用や将来の移民問題対策とか、シニアや女性の活用だけでなく、或いは、働き方の多様性とか、ワーク・バランスなどと言う虚飾に満ちた言葉や美しい掛け声だけでなく、対症療法だけでなくて、国家戦略として、根本的なところで、考え直さないと、このままゆくと、結局、現場の労働者や中間管理職への一層のしわ寄せが、生じかねないと危惧する。それにしても、現場の解決を本部のベテランと連絡とりながら、iパッド等の端末を使用して、マニュアルを説明するような現実が、結局は、目の前に迫りつつあるのが、まさに、現実なのであろうか?何とも、大変な時代になりつつあるような気がしてならない。現役の現場の人は、さぞかし、大変なことであろう。

中国外貨準備高の怪と米国債売りの噂:

2015年09月03日 | 社会戯評
中国外貨準備高の怪と米国債売りの噂:
桜島の噴火の予想は、最近、やや、下火になりつつあるのに対して、中国の経済情勢の動きには、どうやら、眼が離せないようである。一連の上海での株式相場の下落が、世界株安を引き起こす引き金になっているともいわれているものの、引き続き、八月末には、今度は、人民元の連日の切り下げ策で、外貨為替政策を強行したかと思えば、今度は、更に、人民元売りを規制するために、或いは、外国資本の海外流出と逃避を防止する目的で、新たな為替規制に、入り始めている。何とも、この国は、外貨取引の自由化に逆行して、なりふり構わずに、都合のよいときには、二大大国と称し、都合が悪くなると、まるで、発展途上国の如き我が儘体質の権力主義者へと豹変してしまうというのが、どうやら、その素性のようである。余程、心して、掛からなければ、痛い目に遭うのは、こちらの方であろう。しかも、人民元の切り下げにより、一方的に、輸出のてこ入れを図ったにも拘わらず、逆にこれは、一挙に、一割にも近い外貨準備金を減少させ、ますます、減少する傾向に拍車が掛かっていた矢先のことである。それ程までに、減少が激しいというのも甚だしく、不可思議なことであり、この裏には、どうやら、何か、別の事情が隠されているのではないかとも憶測されかねない。とりわけ、東芝の不適切な経理やギリシャ経済の国としての粉飾ではないが、中国という国の経済指標に関するそもそもの「疑問」、とりわけ、7%と言う経済成長自身が、粉飾されているのではないかという疑問と言うよりも、既に、「疑惑」となって、上がり始めている。又、更には、保有している米国債の売却が、密かに、進行しているという「噂」が、市場にも、漂い始めているが、そもそも、市場で、囁き始めたら、何らかの物証があるのが、通例であろう。その意味で、これまでのアフリカでの資源開発や国家的な開発投資への資金、或いは、AIIBへの巨額な設立基金投入も、実際には、どこか別の財布から、流用されているのかも知れないと勘ぐるのは、考えすぎであろうか?資源高から、一変して、資源安の中で、長期の開発投資のリスクと、自国の経済状況の悪化とバブルの崩壊、不動産価格の停滞、株式市場の下落に伴う資本の逃避とか、難しい局面での更なる為替規制には、何か、間違いなく、別の理由があっても良さそうである。どうも、この国の金融・経済政策は、常に、裏がありそうな気がしてならないのは、私だけのことであろうか?そう言えば、天津の爆発事故による長期的な影響のニュースも、とんと、聞こえてこなくなってしまった。依然として、目が離せない。

後見人の着服とは!?:

2015年09月02日 | 社会戯評
後見人の着服とは!?:
何でも、後見人に任命された弁護士や司法書士の不祥事が、後を絶たないと報じられている。人間は、権力を有する制服とか、権威を有するある種の資格を有する何々士に、おおいに、弱いものである。しかしながら、金銭の着服など、考えてみれば、中小企業でも、或いは、大企業でも、組織の大小を問わず、複数による「相互牽制」や、「複数承認」制度を採用すれば、そうした、着服とか、使い込みは、一定程度、防止可能ではないかと思われるが、如何なものであろうか?流石に、裁判所も、弁護士という肩書きをコロッと信用してしまうのであろうか?もっとも、裁判官自身も、胸に手を当てて、よくよく、反省してみなければならないであろう。ますます、これからの時代は、後見人制度への傾斜が、加速されることは、間違いないところであろう。安全なセーフティー・ネットではないが、何らかの防止予防対策が、きちんと、施されない限り、安心して、こちらも、呆けてしまう訳にはゆかない。それにしても、制度というものは、いつも、落とし穴があるものである。よくよく、注意しておかなければならないであろう。

「ゆとり就職」を考える:

2015年09月01日 | 社会戯評
「ゆとり就職」を考える:
どうも、子供の時から、詰め込み教育と、せかせかとしたせわしない生活の中で、競争に追われた現役人生を過ごしてきた団塊の世代には、「ゆとり」というイメージが、毎日日曜日の状態が日常化しても、未だに、今一、ピントこないのが実感であろうか?実際、学生時代に、「ギャップ・イヤー」のような制度が、確立されていれば、別の人生を歩んでいたかも知れないなどと、海外からのウーファーや訪日観光客の友人達と接してみて、そう思わざるを得ない。それ程、当時は、選択肢が、限られていたのであろうか?それとも、時代が、そういう選択を許さなかったのか?実際、ドロップ・アウトしたら、或いは、ヒッピーで、世界をゆっくり、インドやアフリカ等を観て歩いたら、どのような人生の選択肢があったことであろうか?今更、そんなことを想像してみても、仕方のないことかも知れないが、人生には、そういう廻り道の選択肢が、若い時には、必要なのかも知れない。考えてみれば、若い時には、週休3日でも、その休みの間に、全く、別の自分の目標を叶えるための予習や準備に当てても宜しいのかも知れない。その時には、給料が極端に安くても、様々な準備活動ができるやも知れない。一度、就職してしまえば、会社では、アルバイトや副業の禁止が、規定されていて、極めて、制約されてしまうが、本来の意味での非正規雇用やパート・タイマーという選択肢には、こういう積極的なポジティブな働き方や「ゆるい就職」が、あっても良いのかも知れない。所謂、「悟り世代」も、今や、社会の中で、起業しても可笑しくない年代になりつつあるであろう。在宅勤務であれ、何であれ、新しい形での生き方や就職の仕方がそろそろ、出てきてもよいであろう。もっとも、現実的には、若者の貧困や格差の問題も、深刻化しているのも、事実であるが、それらをものともせずに、打ち破る孤高の若者が、どんどん、出てきて、成功してもらいたいものである。