小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

第一次世界SNS市民情報戦争のなかで:

2022年03月20日 | 社会戯評

第一次世界SNS市民情報戦争のなかで:

 

Twitter@FedorofMykhailo や Twitter@Zelensky 等をフォローし始めた途端に、やたら、中国やロシア語によるメール・アカウントへの詐欺メールが、増えてきたのは、考えすぎだろうか?(Telegramは、流石に、秘匿性が微妙に、怪しげで、私的には、TikTokも含めて、使用していないが、、、)それとも、所謂、サイバー空間では、既に、昔から、Big Dataや、動画・写真・ブログの#キーワード検索によるある種の反ロシア、反中国の発言が、解析されていて、スノーデン流に言えば、国家治安維持に対する挑戦として、ブラックリスト化されて、どこぞの国のサーバー上でのデータベースに、もう何十年も前から、攻撃対象リストの一員に入れられているのであろうか?そう言えば、スノーデンは、亡命先のロシアで今まさに現在進行中の#第一次世界SNS市民情報戦争に、どのように関わっているのであろうか?興味深いモノであるが、、、、漏れ聞こえて来ませんね。

日露戦争時代には、ロシア語が堪能であった駐在武官が、帝政ロシアに放棄する予定であった革命勢力側に、密かに、資金や政治工作を行っていたことは、公然の秘密であったことを後世の歴史を知っている私達は、認識しているものの、その当時は、一部の中枢の関係者しか知らなかったことも、事実であろう。それは、後のバルチック艦隊の航跡の追尾でも明らかなように、緻密な情報網の連携と情報の解析・状況判断が、適宜必要不可欠で、それが、勝負の分かれ目になっていたことは。周知の事実である。

その意味では、近年の歴史では、2010年頃のTwitterを活用した#拡散希望#シェアーに伴い、或いは、ウォール街の#Occupy運動や、#Weare1% #MeToo 運動など、瞬く間に、世界中に#中東の春も含めて、香港やアジア各国に、拡がっていったものの、#GAFAと言うグローバルな国境を越えた国家権力にも手に負えないような#情報プラットフォーマーによるユーザーの個人データを広告利用収入に結びつけるビジネスモデルの成功や、トランプの大統領選挙での#FakeNews問題を経て、大きな揺り戻しが起こり、謂わば、コインの表と裏、ネットの光と蔭の問題により、組織の#コンプライアンスや、#Literacy が、とりわけ、商道徳やビジネスモラル、#企業倫理の問題を惹起してきた歴史的経緯があることも事実であろう。

今や、ボーダレスになるにつれ、その反面、固有の#民族主義や#専制権威主義国家による独自の歴史観や固有のNarrativeな国策的な#愛国主義が反面で、跋扈し始めてきている。ますます、老若男女を問わず、ますます、スマホとSNSによる#デフォルト化が進行する中で、ゲッベルツ時代の旧来型の#情宣大衆操作手法から、テレビ・ラジオ・新聞などのマスメディアから、明らかに、新しい形での#ハイブリッド型の個別ツールへと、手法が変わりつつあるように思えてならない。恐らく、それは、旧来型のスパイ網も含めた、アナログ的な諜報・インテリジェンス活動から、これをオンサイトとすれば、明らかに、オフサイト型の無人偵察機やドローンではないが、或いは、監視カメラや衛星監視写真や動画を駆使した、或いは、空中・宇宙空間・水中・地下での#交信通信傍受やサイバー空間上での#ハッキングという手法や、#偽旗作戦、#FakeNewsのによる、<グローバルな味方作り>、<世界的な価値観作り>と言う手法に、政治も、戦争それ自体も、変質しつつあるように思えてならない。

チトー後のユーゴスラビア紛争の時に、ホロコーストと言う言葉の代わりに、#民族浄化 #Ethenic Cleansing という言葉が、謂わば、米国代理店のエージェントにより、一種の戦争マーケティングの手法として、<国際社会の中での味方作り>に、世論形成に作り出された事実も、決して、忘れてはならない。或いは、ビンラディンによる9.11の原型にもなる、#ジハード 聖戦 というスローガンも、更には、義勇兵を世界的にリクルートする際に作られたPR動画や、稀代な#メディア戦略を忘れない。決して、小さな弱者が、巨象や凶暴な熊に立ち向かうときに、必ずしも、巨大な緻密なメカニックな組織だけが、必ずしも、不可欠であるとは、思えないことを知っている。丁度それは、小回りの利くソーシアルメディアなどに代表される#オープンソース情報を活用した、或いは、組織からは明らかに独立した形のボランティアや市民ジャーナリスト、更には、ありとあらゆる地域に点在する調査員やボランティアやエージェントの情報を、集約したり、解析する手法で、所謂、#Open Source Investigation で、自前の組織とは別のフォーメーションで、柔軟に、解析する新しい手法のようである。但し、この手法は、提供される情報が、本当に正しいものかどうかを判断することが、キーであり、Palantir Technologyではないが、データ解析、とりわけ、非構造化データに於ける解析Solutionの何らかの秘匿されているノウハウが、不可欠になるのであろう。その観点からすれば、#OSINT : Open Source Intelligence というものも、それが善意の正しい情報であれば、通信衛星画像の解析や、交信傍受や気象衛星からの情報や、果ては、アナログのスパイや、内部通報者による直接的な生の声も加味して、総合的に判断する、謂わば、<自主的な有る意思を有した総合的な解析力>は、旧来型の現場で、大本営や参謀本部からの上意下達式の指揮命令系統と指示をひたすら待つ形での、フレキシブルに決定と決断をすることが出来ない組織とでは、どんなに、総合的な数の上での、或いは、武器の質やハード面での数的な優位性があったとしても、必ずしも、大が小を制するのではなくて、寧ろ、逆に、どんなに、情報を統制、抑制したところで、砂が、指の隙間からこぼれてゆくように、口コミや、直接的なアナログの電話で、漏れ出ていってしまうであろうし、そうした会話自体が、何も、軍事秘密にすることではなくて、敵国民へ、直接、生の情報発信を行う事で、多いに、情報戦を優位に薄めることになるであろう事は、ロシアへの死亡者問い合わせサイトの開設とか、捕虜の肉声を動画公開したり、或いは、目撃した戦車の位置情報をGPSを駆使して、瞬時に、どこにいるかをウクライナ軍の現場の部隊に連絡したり、これを衛星画像の解析や、日本が独自に開発した衛星データ画像と地図上のデータを統合するソフトで、位置情報が把握できれば、当然、ドローンや低空での無人探査機や、無人攻撃機による戦術強化や、歩兵による移動可能式の対戦車砲や地対空ミサイルなどでしょうか、驚くべきは、武器の使い方のマニュアルを動画でスマホに配信するとは、いかにも、IT先進国ですね。太平洋戦争時の無謀な戦国時代にも劣る竹槍戦術とは、異なる次元ですね。戦車目撃者によるGPS解析集積ソフトといい、如何にも、IT先進国である。

更に、ゼレンスキー大統領による米国連邦議会でのオンライン演説の実施や、ドイツ議会での同様なダイレクトなリアルタイムでのオンライン・メッセージや民間人被害の戦争犯罪の動画のアップなどは、大型モニターや前例がないという日本の国会での演説要望に対する最初の日本政府によるリアクションの落差は、相当なものがあり、これまでの北方領土交渉を担ってきた森や安部晋三や鈴木宗男らにも、直接、プーチンにも、オンライン会議の機会を作って貰って、日本国民への直接的なアッピールをして貰っては如何なものでしょうか?それにしても、これを気にして、これまで、蔑ろにしてきた大戦期末の北方領土の不法占拠を国際世論を味方にすべく、国際マーケティング手法を学ぶ良い機会ではないでしょうか?恐らく、それは、竹島でも、北朝鮮による拉致問題も、更には、尖閣列島の問題でも、共通する問題ではないでしょうか?真田幸村が、大好きな日本人にとっては、弱小国ではあるものの、あの改造された遼寧になった、元ウクライナ製の空母は、その技術などは、黒海のウクライナ海軍には、どのような形で、軍事技術が、承継されているのかは、闇の中の闇で、流石に、自ら、手の内を見せることはないでしょう。哨戒機能と潜水艦探査技術を誇る自衛隊などは、今回のロシアによるウクライナ戦争から、どんなノウハウと国防技術を学んだのでしょうか?どうみても、北朝鮮制裁などは、これまでの中国に加えて、ロシアによる北朝鮮への接近は、間違いなく、軍事的にも、労働者派遣や兵員の補給なども含めて、密接に行われるであろうし、中国も、ひたすら自国の国益優先で、面従腹背で、世界の世論に人道的な配慮を見せつつ、結局は、裏で、北朝鮮経由とか、様々な形で、サポートすることは間違いないでしょう。

私の父方の叔父は、ギルバート諸島のタラワ島で佐世保陸戦隊で参加し、Missing in Action中で、玉砕したとされているが、未だに、遺骨はなく、戦死公報のみである。硫黄島での激戦玉砕でも、2万余柱の日本兵の死のみならず、米国海兵隊の死亡者・死傷者数は、7千余で、その期間たるやわずかに1ヶ月程度であることと較べると、ロシア軍の死亡者は、非公式でも、6千人程度であろうと(将軍クラスでも4名)となると、既に、侵攻後20日余であることを考えると、かなりの戦死者すうであろう。SNSによる情報の収集は、戦争犯罪の証拠集めや病院や学校等へのミサイル攻撃や受約に加盟していなくても、クラスター爆弾や、気化爆弾の使用などによる国際法違反の事例も考えると、明らかに、日常的な情報は、60年代のベトナム戦争の時時代とは、全く、世界の世論は、異なる次元にいるように思えてならない。尤も、それにしても、ウクライナというのは、欧州に近く、1年前に軍によるクーデターが起きたミャンマーとは、比べものにならないほど、関心が薄くなってしまったことは、残念である。


ミャンマー、ウクライナに想う: 世界史年表にみる自身の人生、誕生からの位置づけ、

2022年03月10日 | 社会戯評

ミャンマー、ウクライナに想う:

世界史年表にみる自身の人生、誕生からの位置づけ、

 

77年前の今日は、1945年03月10日の未明に行われた東京大空襲の日である。10万人以上が死傷したとされている所謂、焼夷弾による夜間大規模空襲である。1960年年代には、米軍によるベトナム戦争時には、一層威力が増したナパーム弾と言う言葉を聞いたときには、成る程、ジャングルだけでなく、その地域もろとも、人も家畜も家も、何もかも、根こそぎに、焦土と化し、東京の下町などは、当時は、瞬く間に灰燼と化し、多くの人名が失われたことは、今は亡き両親から、聞いていたから、3.11とともに、思い起こす。それにしても、当時は未だ、戦後20年ほども、経過していなかったものである。それを言えば、1950年の朝鮮戦争も、戦後わずかに、5年後でのことで、ヤルタ・ポツダム体制から、それ程の年月が経過していないことが、改めて、再認識される。日本人は、とりわけ、忘れやすい民族だから、<人の噂も75日>、観て見ぬふりをして、<不条理なことも75年経てば、勝てば官軍で、歴史に正当性が付与されてしまう>のであろうか? 或いは、戦争体験の話も、子どもが怖がり、トラウマになるから、辞めて貰いたいなどと真顔で訴える若いギャル・ママもいると言われている。

  改めて、時間軸の歯車を逆回しに遡って、自分の生まれた年と、当時の年齢と世界史が、どのように関わっていたかを眺めてみることにしたい。 1950年には、朝鮮戦争、1956年には、ハンガリー動乱、1965年には北爆開始、1968年には、チェコ侵入、1975年、サイゴン陥落、1979年、イランホメイニ革命、70年代には2度に亘る石油危機、1979年には、ソ連軍によるアフガン侵攻、1980-1988年、イラン・イラク戦争、1985年、ポーランド・ワレサ連帯運動、1986年、米ソ首脳会談、1988年ミャンマー民主化運動、ペレストロイカ、グラスノチス進行、1989年6月4日天安門事件、同年11月9日ベルリンの壁崩壊、マルタ会談冷戦終結、、、、、、一寸長くなってしまったので、、、、、本題に戻るとしましょう。因みに、左側縦列軸に、生まれた年の10年ほど前の年代から始めて、自分の余命予想年代まで、、、そして、右の列軸に、自分と家族の主たる出来事、その右に、日本の主たる出来事、その右に、世界史年表をと言う具合に、EXCELでも、作成してみると、確かに、面白いかも知れませんね。

  NHKのファミリー・ヒストリーではないですが、父や母、祖父母、曾祖父母の時代とか、成る程、こんな時代を生き抜いてきたのだとか、想像力を巧みに使ってみたら面白いですね。それにしても、<失われた20年とは、良く言ってみたモノ>である。戦前の10有余年にも及ぶ日中戦争のその先に、国体の護持を最優先として、より悲劇的な太平洋戦争を迎えることになったのに対して、、、、、、明らかに、失われた20年などと言うものは、血で血を洗うような悲劇的な長期戦ではなかったことは、少なくとも、極めて、僥倖であるとしかいいようがないのではないでしょうか。それに較べたら、ナチスによる、1939年のポーランド侵攻や、1933年迄遡る所謂、終戦に至る15年戦争は、自国民の生命財産居留民保護を名目に、どうみても、戦争そのものではあっても、○○事変と称することで、#主権国家の侵略と#国際法の事実上の違反という物事の真実、事実という本質から、目を背けさせ、戦時下での報道統制とプロパガンダで、宣戦布告無き、無責任体系という暴走機関車という、誰も止められない状況を追認、黙認してきてしまった事は事実で、敢えなく、小さな幸福な日常生活は、突然、一転して、暴力と恐怖による有無を言わせない、非日常が、常態化することになってしまい、それが、世界史の歴史の中では、10年や20年の単位と言う時間軸の中で、否、自分自身の人生の時間軸では、一体どのくらいの長さとして、実感されるのであろうか?その中で、毎日、人は食べ、排泄をし、息を殺して、子どもを育て、或いは、赤ん坊が生まれ、理不尽も、前途のある有為の若者が死に、家族がちりぢりに引き裂かれ、異国の地で、どうやって、難民として、これから、生きてゆくのであろうか?満州の国境から、鴨緑江を越えて、更に釜山港まで、赤児を連れて歩いてきたという話を、実際に聞いたことがあるが、或いは、沖縄戦での非戦闘員への無差別攻撃やら、戦争の悲惨な事例を直接見聞きしても、今日のミャンマーや、ウクライナの悲惨な状況に対して、あらゆる想像力を駆使しても、せいぜいが、ナチスによるポーランド侵攻や、米国の中立主義は、今日の状況とどこか、類似しているなと想わざるをえません。当時も、あの時代は、そんな受け止め方だったのであろうか? それとも、 ハイブリッド戦争だから、サイバー攻撃でも、人間の盾を逆手にとった、人道回廊でも、原発への攻撃も、何でもありの下の選択なのか、戦争をやるときの出口戦略も、途中でシナリオが狂ったときには、何十ものカードをロシア(プーチン)のAIは、持っていなかったのであろうか?それとも、SWIFTの経済制裁も、初めから、NATOや米軍の参戦はしないとする足許を見透かした観点からも、世界を敵に回してまでも、断固、ロシア大帝国の飽くなき野望を達成し、果ては、中華大帝国による覇権を目論む習金平と共に、破壊後のインフラの建設は中国に任せるというような密約でも事前に、北京オリンピック大会前になされているのであろうか?

  ある軍事ジャーナリストと称する者が、1989年の天安門事件の時に、人民解放軍の中で、軍閥さながらに、各軍管区は、二分・三分化されて、内戦状態に陥るという予想をテレビで公然と持論を展開していたことを、今でも忘れることはない。今回のミャンマーでも、ウクライナでも、指導者の心理的な分析にまで、踏み込んだ専門家による解説はなく、ただただ 予想外であるとか、理解出来なかったなどと言う分析を聞く度に、一体、ド素人は、否、現地の人は、限られた情報の中で、どんな判断をしたら良いのだろうかと想ってしまう。SNSの情報というものは、とりわけ、写真や動画ですら、Fakeかどうかは、余程の専門家でない限り、分からないし、ましてや、FBのザッカーバーグが、どんなに、寄付しようが、過去に、妻の母国である中国での活動への妥協や米国での公聴会での内部告発者の発言をみても、過大な期待は避けたいモノである。寧ろ、様々な複数のSNSを総合的に使う中で、何が真実に近いのか、或いは、そうでないのかを、自分自身の中で、判断できうる独自のノウハウと見識を身につけたいモノである。

  情報が限られる中で、明らかに、ウクライナの大統領府は、様々な情報を、軍事情報を含めて、英米、イスラエルなどから、宇宙空間経由で間違いなくえており、ロシア軍の交信情報なども、ハッキングや、高度なインテリジェンス諜報活動を行っていることは間違い事実であろう。敢えて、そんなことを公開する馬鹿はいないわけで、改選前からの事前の情報リークは、2014年のクリミア併合時の苦い経験から学んだやむを得ぬ限られた選択肢の一つだったのかも知れない。大韓航空機の撃墜の際にも、一番始めに察知したのは自衛隊で、これが、米軍と情報共有されたとされているが、そう言う事実を知るのは、ずっと後のことである。 今もIntelligence War サイバー戦争は、水面下で、世界中を巻き込む形で進行中である。

  あの頃の昔の元若者は、世界中で、今、何をしているのであろうか?一体、何が出来るのであろうか?それこそ、#国際法違反、#連帯とは、#支援とは、#国家の主権とは、#人権とか、#独立とか、#生存権とか、#情報統制とは、#グローバル企業のリテラシーとは、???等など。改めて、考え直したいモノである。 自分には何が、出来るのであろうか?テレビで年寄りや赤児を観るにつけ、昔、若い頃、<What can I do for you ?> と問いかけたら、<What can you do for me ?> と応えられたことを想い出す。 先ずは、自分に出来ることが 何であるのか、そして、確実に、それを一歩ずつ、やっていくしかないのか?

 

既に、ミャンマーのクーデターからは1年余りが経過し、ミャンマー緊急支援チームへの#Myanmar21のクラドファンドには、当初の500万円の目標に対して、5000万円以上の寄付金が集まったそうです。

=日本ビルマ救援センター:

http://www.brcj.org/?fbclid=IwAR2sgmqze-0RHWCOyJ1CyfswMmqJfWkalJU3WLsCGYe3PJBckG8m_JNA2P4

直接的な寄付金の銀行口座が表記されていますね。

=国連YNHCR協会:募金先

https://www.japanforunhcr.org/donations#_ga=2.170248608.1606813986.1646708937-1762587096.1646708937

 

 Twitter では、 @Zelenskyで現在、フォロー可能である。

更に、若手の報道官であり、ウクライナIT軍の創出を構想したMikhailo Federofは、

@FedorofMykhailoで、米国のSpace X社の@elonmusk に対して直接、宇宙からのサテライト経由のインターネット接続の支援を要請し、すぐさま、支援品が提供されたとツィートしている。又、暗号資産通貨を活用したウクライナへの支援をツィートして、これに応じるツィートもアップされているのは興味深いし、ロシアによる仮想通貨での通貨制裁の逃避への対抗策として、仮想通貨へのハッキングや、ロシア国営企業のインフラへのハッキングをも、ホワイト・ハッカーに、国際的に支援要請したり、Twitter上で、見えないサイバー空間で、現実的なやりとりが行われていることが、履歴から分かる。又、グローバル企業宛に、より強力な経済制裁への要請を、厳しい言葉で、例えば、ロシア産石油を購入している大手の石油会社には、ウクライナ人の血の臭いが、その石油からしないかもと、、、。流石の米系グローバル企業も、ロシア国内での営業を一時休止せざるを得ないという事になるのであろうか?因みに、侵略13日目の3月1日のツィートには、@Hitachiglobal を名指しで、日立の部品がロシア製のタンクやミサイルの部品に使われている事実を取り上げて、直ちに中止せよと促すツィートをしている。(英語だからわかりやすい)、それ以外でも、そうそうたる著名なグローバル企業名やその創業者やオーナーの名が、列記されている。尤も、中国人からのツィートは、中国語で、ぼろくそであるが、、、、これも面白い現象である。それにしても、ウウライナには、IT関連でインド人留学生が多いことが改めて、再認識される。実際、インド人留学生が死亡していることが報道されている。北朝鮮軍傘下のハッキング部隊は、ロシア支援をしているのであろうか?もはや、水面下では、とりわけ、仮想通貨や暗号資産へのハッキングやら、サイバー上での寄付とか、これまでの常識では到底想像出来得ないような事態が、現在進行形なのであろう。そう言えば、先日、駅ネットへの偽メールや、インスタグラムへのサイバー攻撃は、.cn という中国表記がありましたね。まぁ、もう、この歳にでもなれば、価値観の異なる専制・権威主義国である、中国にも、ロシアにも、ゆくことはないであろうが、、、、、。 (韓国大統領選挙が、今日行われる予定だが、、、、韓国民の選択は、どうなることでしょうか?)

#国際法違反、#国際連帯、#支援、#国家主権、#基本的人権、#独立国家、#生存権、#情報統制、#グローバル企業 #サイバー戦争 #ハイブリッド戦争


映画、<田中 泯、 名付けようのないダンス>に想う:Innommable Dance

2022年02月20日 | 映画・テレビ批評

映画、<田中 泯、 名付けようのないダンス>に想う:

 

60年以上前の野球小僧は、その昔、長嶋茂雄の華麗なステップをイメージして、三遊間のゴロを、さっと左手のグローブを差し出すと、スッと、白球が入ったもので、その後の送球後の一寸した、右手首を曲げる仕草も、今や、<頭の中での空想>であって、間違いなく、華麗なステップを踏むどころか、両脚で立っているだけでも、脚もとがもつれ、フラフラ、バランスを崩すほどの身体的な衰えを自覚すると、もはや、この映画の観賞の仕方も、随分と変わってくるモノであると思われます。

昔の元若者は、60年代の後半に、何やら、白い粉を体中に塗りたくり、頭も剃髪して、ペニスも包帯でグルグル巻いたり、真っ裸同然で、まるで、脳性麻痺か、肢体不自由児のような動きを、前衛舞踏家と称されたり、アングラ演劇だとか、果ては、Street Performance とか称して、公道を何か大声で叫びながら素っ裸で疾駆したり、流石の10代後半の元若者であった私も、その記憶を辿ると、<何じゃ、こりゃぁ!>と驚きあきれ果て、単なる、<舞踊>のセオリーも知らない、素人集団の狂気であるとしか、感じられなかったと言う記憶が残っています。それから暫くして、どうやら、そうした流れは、#大野一雄、#土方巽(暗黒舞踏:肉体の反乱、1968年)、#麿赤児(大駱駝艦)、天児牛大(山海塾)、と言う形で、後年、寺山修司(天井桟敷)、唐十郎(状況劇場)、他の演劇論、或いは、文学界、評論、芸能史、民俗学史、などの分野を巻き込み、澁澤龍彦、三島由起夫(禁色)、(今日で言えば、ジェンダーの問題や女装などの今日的な課題をも取り上げていたようである)、他にも、互いに、影響を及ぼしながら、まるで、明治初期のフェノロサや岡倉天心らによる、日本美術への再評価の如く、欧米での(フランス・米国、他)一種の驚きを以てなされた海外公演の評価と賛辞(賛否両論も含めて)に伴い、<Butoh>(舞踏)という言葉と共に、凱旋帰国を果たし、今日、まさか、田中 泯にまで、連綿として、受け継がれてくるとは、流石の素人である、私のような、たまたま、同時代を共にした元若者も、もっと、当時から、この方面の勉強をして、右脳を磨いておけば良かったと、自分の肉体的な機能の低下と共に、気がつき始めた次第です。

  更に、今から、約7年程前に、<Artist-In-Residency>の運動の中で、化石化した右脳の再生に、海外の来日アーティスト達の支援活動の中で、各国のDance Performer や、Musician, 画家や、彫刻家などと、或いは、地元の関係者との交流を通じて、<表現の媒体>としての、身体(肉体)、楽器、絵画、踊り(コンテンポラリー・ダンスやクラシック・バレーやら、ジャズ・ダンス、タンゴ、インド舞踊、日本民謡、盆踊り、新日舞、など)を通じて、<自己表現>とか、<内発的な湧きい出る原動力(踊りたくなる気持ち)>とは、何か?とか、<作風の変化とは、何が原因となっているのか?>などを、話し合ったモノである。しかしながら、この映画を通じて、自分の右脳の再生も、やや、違った方向ではなかったのかとも、思い始めた次第です。海外出張などで、その土地土地の土着的な音楽や踊り、文化・歴史に触れることをモットーとして、タイやベトナム、韓国、台湾、中国、ビルマ、ネシア、ポリネシアやNZ、メキシコ、チリなども含めて、(アルゼンチン・タンゴとスペインのフラメンコは、現地には仕事の関係では、出張できなかったのは、残念ではあるものの、)休日には、美術館と土産物屋も含めて、愉しませて貰いましたが、、、、、。

  皮肉なことに、土方巽は、1928.03.09生まれで、昭和天皇の即位の日に、生まれ、田中泯は、1945.03.10という終戦の年の東京大空襲の真っ赤な炎に地上が燃えさかる中で、生まれてきたという<奇妙な共通な符号>を有しています。しかも、<一子口伝>ではないが、今風のマニュアルや、ノウハウ・ノート、日舞の流派や流儀とも、或いは、舞踊家とも、一線を画した、集団を作ることの決してない、或いは、勝手に、舞踏家などと分類化されることを断固として、拒否するような、<一つとして常に同じ踊りは存在しない>という、秘儀を内在したところの<伝授>の仕方で、従って、どうやら、正統派のお師匠さんからのお墨付きをえたお弟子さんも、とらない、何か、念仏踊りにも似たような、一遍上人ばりのOdoriとでも言えべきモノなのであろうか、<Innommable Dance>と、この映画では、表現されているが、、、、。日本語訳では、<名付けようのない踊り>のようである。

  2002年の映画、たそがれ清兵衛の映画初出演でも、<演技ではなく、ただ、踊ってみただけだ>とも、その演技を表している。一体、<演じる>と<踊る>とは、どう違うのであろうか?自分が、感じていた、役者の演技とは、飽くまでも、自分と言う肉体(器)を通じて、その役の人物を演じるのであり、そこには、ひたすら、その人物と、役の上で、一体化するある種の何物かであっても、そこには、ある種の役者としての、自己表現が、加味されるわけ(?)であり、だからこそ、同じ役柄でも、異なる俳優が、同じ役柄を演じても、微妙に、演技という音色は、違った響きがするのであろうか、、、、、、、と、 他方、踊りというモノは、とりわけ、田中泯のこの映画の中では、<一つとして常に同じ踊りは存在しない>という信念と<踊りは、個人に所属することは決してない>、或いは、<身体気象:Body Weather>と言う概念、<頭上の森林>と言う概念、頭の上へ、上へと、その頭上の空間に、無数の気のような何物かが、身体のありとあらゆる穴から、まるでタネが発芽するように、そしてぐんぐん育つように、樹が生えて森林を形成するようになるというもので、自然と身体を通じてコミュニケーションが出来るような状態、土方巽の肉体の反乱になぞらえると、<ありとあらゆる形象・形態の言語化により、動植物ら自身の肉体の部位すら、その動きを誘導する>とか、<千本の枝を知覚する>、<歩こうとして身体の中にカチャッと鍵が掛かった部屋がある。>やら、<左耳筋に這うナメクジ>など、<器としての身体:Body as a Vessel>へのアプローチを通じて、時間と空間の無限と極小の体感と表現、に至り、ゆっくりと見えることを理解出来ると、、、、、。もはや、この領域になると、哲学的なサトリに近い境地なのでしょうか?

  舞踏の土着的なもの、とりわけ、<東北に根ざしている所のモノは、イギリスにもある>と言う言葉を聞く限りでは、謂わば、暗黒舞踏の系譜のタネは、決して、日本では、異端やキワモノと半世紀前には、評価されなかったモノも、その後、海外、とりわけ、フランスや欧州各国での評価やNYでの賛辞により、足の長い、指先の細くてすらっとした形状のバレーや、(冬のオリンピックのフィギュアスケートの美意識が典型・主流とは言わないけれど、、、、)、寸胴・短足・がに股・のっぺり顔などの土着的な劣等感的な欠点は、場違いな治外法権的な海外からの評価で、一転してしまったのであろうか、それは、長髪とラッパズボンのビートルズが、あたかも、極東の果ての果てから、近代の超克とも言えべき欧米では考えられないような、常識を覆すような概念の紹介と具体的なデモンストレーションだったのかも知れない。<舞踊(Buyoh)は立ったところから始まるが、舞踏(Butoh)は、立てない状態から始まる>と、、、、、。<一生に一度でも良いから立ち上がりたいと思う気持ち、>と<座れるような立ち姿>、更には、<石の上>と<土の上>との違いで、踊りの思いが異なると言うことの気付き、まるで、工業と農業、狩猟と農耕の対比のようであろうか?

  田中泯は、詩人、吉田一穂の桃花村の概念に基づく、山梨での農作業実戦運動や、敬愛するロジャ・カイユワ(戦争論を著す)のお墓の前で、踊ってみて、改めて、<これからも、ずっと、名付けようのないダンスそのものを、ずっと踊り続けたい>と確信する。そして、唯一の弟子と認める、石原淋に、一子口伝のレッスンをつけるところで、115分に亘る、<自分の中の内なる子ども>との対話を通じて、これから先の自分の踊りを、どうするつもりなのかを暗示しながら、エンド・ロールとなる。

それにしても、3度目のワクチン接種を終えたであろう昔の元若者が、100席の狭い映画館には、今の若者と一緒に、70-80%を占めていたことに、驚いてしまいました。

  最期に、慶応大学のアートアーカイブに、興味深いワークショップをYouTubeで見つけたので、URLを付け加えておきます。併せて、<#土方巽>、<#肉体の反乱>、<#山海塾>も検索してみて下さい。初めて、この種の動画をみるというヒトは、事前に、右脳をしっかりと覚醒させた上で、ご覧戴くことをお薦め致します。さもなくば、当時、リアルタイムで観劇した女子大生は、一斉に、退席したとか、、、、多分、理由は、すぐに理解出来るかと思いますよ。

Dance リーグの素早い、集団の揃った振り付けのやり方にも、驚いてしまうし、又、ストリートダンス対決のような頭で、くるくる回転させたり、まるで機械体操の床運動さながらの回転を伴った攻撃的なヒップホップ張りのダンス・対決も、大変興味深いモノです。しかしながら、改めて、当時の動画を観てみると、過ぎし来し方と行く末の両方にも、人生観での新たな発見が見つけ出されそうです。

映画の予告編

https://happinet-phantom.com/unnameable-dance/

 

YouTube 慶応義塾大学アートセンター Keio University Art Center

没後26年 土方巽を語ることⅡ

https://www.youtube.com/watch?v=p_UGwSwMM6s

YouTube 土方巽 肉体の反乱(1968年) 

https://www.youtube.com/watch?v=dANmcbepNdY

YouTube Kazuo Ohno My Mother:

https://www.youtube.com/watch?v=hzmkYu0d8rM


キーワードで読み解く、<デジタル・ファシズム(堤 未果著)>:(NHK出版新書655)

2022年02月15日 | 書評・絵本

キーワードで読み解く、<デジタル・ファシズム(堤 未果著)>:(NHK出版新書655)

もう50年以上も前の事となると、今の私の脳内細胞では、全く記憶が曖昧になり、当時読んでいた著作の名前も著者の漢字も性格に想い出せないとは、全く焼きが回り始めたモノである。

当時のファシズム研究のやはり主流は、王道をゆく、丸山真男であって、どうしても、ここを入り口にして、手探りで、進んでいったことを想い出す。そのうちに、(順不同であるが)、吉本隆明、橋川文三、(日本浪曼派序説)村上一郎、磯田光一、桶谷秀昭、(思想の科学)、三島由起夫、保田輿重郎、蓮田善明、埴生雄高、司馬遼太郎、柳田国男、竹内好、神島二郎、谷川雁、谷口健一、鶴見俊輔、松本健一、猪瀬直樹、大川周明、北一輝、等の著作を片っ端から、左から右まで、読み進めるうちに、私は、どうやら、正統派よりも、野戦攻城派の考え方、とりわけ、橋川文三・松本健一らの、昭和初期の恐慌と相俟って台頭してくる農本主義(橘孝三郎、権藤成卿)や家の光運動、、アジア主義、反近代土着主義、これらに内包する体制変革志向と相反する矛盾するような逆方向の力学が、産・軍複合体と共に、大陸進出の原動力になったという考え方に、傾きつつあり、当時のメディアによる言論統制・世論情報操作は、どちらかと言えば、従属的な側面であろうと考えていました。

戦後の農地解放や、工業国家へと変貌してゆく中で、農村という地域共同体の文化的・産業的な崩壊とも相俟って、今日的には、戦後の農村から労働者として出ざるをえなかった都市労働者層の意識変化の方に、重きを置かれた研究の中で、過去の分析よりも、それでは、どのように、戦後の政治・経済・精神構造の中で、日本は変容しつつあるのか、とりわけ、戦後の経済成長期を経過した後の、失われた20年以降の、或いは、東南アジア、グローバルな位置づけの中で、、、、、、という内容が、十分解明されないうちに、テクノロジーだけは、待ったなしの状態で、どんどん進み、韓国や中国の経済的な発展、ドル通貨支配に対する日本円による国債基軸通貨たらんとした試行錯誤と蹉跌の中で、気がつけば、グローバリズムの大波に呑み込まれながら、技術大国、(嘗てのソニー、ホンダ、家電業界、半導体、ロボティックス技術、太陽光パネル、等も、今や金型の輸出だけではなしに、中堅技術者・研究者すらも国を捨てて、報酬の働く環境の良い方へとなびいていく現状)も、1stランナーのメリットも享受出来ずに、ズルズルと、世界規模の競争から脱落し初め、Japan as No. 1ともてはやされたRising Sun 陽が昇る国から、少子高齢化の波の中で、凋落し初め、実効賃金が上昇する代わりに、内部留保だけが上積み増され、国際競争力の低下、世界のGDPに対する比率も低落し、貧富の格差が拡がり、事大主義と事なかれ主義が跋扈跳梁し、訳の分からぬ忖度と不作為のなかで、一個も独立することなく、虐めと育児放棄、弱者へのSafety Netも、嘗ての福祉国家の理想も、あっけなく、コロナ禍の中で、消失し、説明責任もなされないまま、組織にひたすら従属しながら、自己保身に明け暮れしながら、戦前の下には下がいるというカーストの最下層民並の被害者意識の他者転嫁やヘイト・スピーチにみられる不遜な民族排外主義的内なる差別の壁を、トランプのアメリカ・ファーストを批判する一方で、戦後50年代の米国のよき黄金時代復活を夢想しているプアー・ホワイトや、いつかきた道の黄禍主義や大中華思想に、心の底では、無意識に、同調してしまう自分達の心とは、体力の衰えをカバーしてくれるITやAIテクノロジーの利便性や便利な無料アプリの中で、植木等の<分かっちゃいるけど、やめられない!>と言う呪文とともに、日常生活の中に、茹でがえる同然、埋没させられているという現実的自己矛盾!一体全体、何処が、昭和初期の農村荒廃と、当時の状況と、今日、異なっているのであろうか?

当時の青年将校達に匹敵する勢力など、何処を眺めても、今の日本には、右も左も、ましてや、政党支持のない無党派層も、安保法制に反対した老人左翼達も、気持ちだけは元気なものの、もはや、口番長を自覚していて、基礎疾患だらけの明日をも知れぬ、人工透析未満、車椅子、特養老人ホーム以前といった、存在と化しつつあるのが現実で、既存宗教界、戦後の新興宗教界もどっぷり、既得権享受者に、陥ってしまっているというていたらくである。

 

 そうした状況の中で、二つの著作を読み比べてみました。

年末から年初にかけて、<(ハラリ著)、21 Lessons for the 21st Century>(英語版電子書籍)と、<デジタル・ファシズム(堤 未果著)>を、同時並行しながら、読み比べながら、読み進めてきた。久しぶりに、英和辞書を引きながら、言葉の意味を反芻しながら、読み込んできたところ、様々なこれまで、漠然と感じつつあったある種の肌で実感してきた危機意識が、まんざら、間違ってはいないのではないかと、やや未だ、確信に至らずとも、そうなる可能性が、徐々に、増しつつあるのかもしれないと思い始めました。

そこで、#ハッシュタグでは、ありませんが、#キーワードを、なるべく使いながら、読み解いてみたいと考えました。

副題は、<日本の資産と主権が消える>です。ここでは、ネタバレではないので、必ず、著書を読まれることを是非とも、お願い致します。

 

プロローグ:

#技術(テクノロジー)、一般大衆が理解出来ていないことを理解している少数の人々が、大衆に対して支配的な力を手にしてしまうと言うこと、ある時点から、専門家以外には、魔法と区別がつかなくなる。既に、日常の隅々に入り込み、必要なときに、必要な情報が差し出される環境は、便利で快適である。#自動運転 #ゲノム編集 #ビッグデータ #人工知能AI #キャシュレス #バーチャルリアリティVR など、

 

#デジタル庁 #スーパーシティ #オンライン教育 #デジタル技術 #少子高齢化 #地方の過疎化 #貧富の格差 今日本が抱えているいくつもの課題が、解決されてゆくと言う事への疑問と、それを読み解く、<3つの要素:おカネの流れ・人事・歴史>から、全体像と、個別事象を取り上げてゆく、

#コロナ禍 #パンデミックス #東京オリンピック #新自由主義 #新しい資本主義政策 #米中デジタル戦争 (中国ファーウェイ問題に象徴される)、<誰一人取り残さない社会を作る>という虚構、

 

<今だけ、カネだけ、自分だけ>の強欲資本主義が、デジタル化によって、いよいよ、最終ステージに入り、ファシズムと組み合わされたときに、もっともその獰猛さを発揮することになる。そして、今問題なのは、そのことを良く理解しないままに、急かされていることであると、どんどん、便利な暮らしと引き換えにいつの間にか選択肢を狭められてゆく方がずっとずっと恐ろしいと、#テクノロジーのスピード #迫り来る危機 冒頭に掲げたSF作家のクラークの法則は、現代にも、今まさに、生きていて、その法則とは、いつも、後からきた誰かによって破られるためにあるから、だからこそ、著者は、この書籍を発行したのであると、、、、、、。

 

第Ⅰ部:政府が狙われる:

第1章: 最高権力と利権の舘、<デジタル庁>:

#3.11 #日本全国デジタル化計画(Society 5.0) #オンライン会議ツール #ZOOM #生体識別情報(顔・指紋・静脈識別) #TikTok生体識別情報自動収集 #GAFA #GOOGLE Amazon #Face Book (Mega) #Apple #惨事便乗型資本主義 #ショックドクトリン #アクセンチュア #データセキュリティ #無料通信アプリ #LINE #個人データ流出 #情報漏洩 #回転ドア #日米デジタル貿易協定 #クラウド法 #BATH(バイドウ・アリババ・テンセント・ファーウェイ) 

 

個人情報と言う形での資産が、海外へ、流出・漏洩、無断で使用されている現実的な事態に無自覚

グローバル企業と政府の間を理外か傾斜が頻繁に往き来するアメリカでは、#回転ドアとは、利益相反と同異義語であるインサイダー的な情報漏洩の危険性よりも、むしろ、合法的利益相反システムであると、官民人事交流という形での非常勤公務員(臨時雇用職員という身分)である。

 

第2章:スーパーシティーの主権は、誰に?

#デジタルシティー #スーパーシティの3つの落とし穴 #デジタル版国家戦略特区

#公共という名が消えた自治体 #公務員が要らなくなる事態 #福祉の不正受給者あぶり出し

#ケースワーカーのロボット化 #AIによる信用スコア化の現実味

 

無人行政、無人スーパー、無人銀行、無人ホテル、自動運転などによる究極のデジタル都市計画の推進、逆に、デジタル化が進めば進むほど、人間同士が分断化されてしまうと言う現実を、どのように防止できるのか? 違いを超えた他者の姿がよく見えなくなってしまうという現実、社会から存在を消された人達が団結したり理不尽な扱いを受けている人々が互いの苦しみや怒りを共有し、共に立ち上がり行動を起こす可能性はあるのか? 明日は我が身の自分にもなり得るという想像力とお互い様という公共精神こそがデジタル行政化には不可欠であると言われているが、機能不全に陥りつつある労働組合や政党に、果たして、何処まで期待できるのだろうか?

 

第3章:デジタル政府に必要なたった一つのこと:

#フィリピンの失敗例 #危険なRCEP #エストニアの秘策 #ブロックチェーン #グレートリセット #デジタル新世界 #ID2020計画(難民デジタル管理) #個人情報は性悪説で守秘せよ #街からGoogleを追い出した市民 #ネット検索されない権利 #一帯一路 #エストニアの事例 #デジタル・セキュリティ #第4次産業革命(4th Industrial Revolution ) #肉体とデジタルの融合 #デジタルとIdentityの融合 #忘れられる権利 #個人による個人データを消去する権利

#ネット検索されない権利

 

#RCEP(地域的包括的な経済連携協定)と#中国版TPPの陥穽とは?サーバーを制するモノが、デジタルを支配するという過酷な現実とは?最大の戦略的なツールである他国のデジタルデータへの介入を中国に譲歩してしまったという事実への無自覚さ、サーバーが北京におかれても文句を言えない現実、(GAFA vs BATH(バイドウ・アリババ・テンセント・ファーウェイ))基本的に、中国企業(中国内の外国企業も)は、中国共産党からの情報開示要求を拒むことが禁じられていると言う現実、

 

#デジタルセキュリティを国家の最優先課題とし、国家の役割を変えることと、信用を電子化すること、ハッキングを想定して、国民の個人情報や国家データの安全確保のために、海外にも、バックアップ体制を構築する必要があろうと、個人データの所有権は本人に属し、厳格な透明性と、いつ誰が、どのような目的でアクセスしたかを自由にオンラインで確認出来る担保と厳しい規制措置が保証されなければならない。又、いつでも、削除できる権利を有していなければならない。この観点からすると、大手銀行による個人情報の販売などは、交通系カードの利用データとも絡んで、一体、何処まで個人情報の守秘義務と機密性が担保されているのであろうか?甚だ、心寒い思いが否めないが、、、。#ブロックチェーン技術は、本当に、どこまで、そうした観点から、有効なツールになりうるのであろうか?東芝の事業部門の切り売りなどは、海外へ流出しないのであろうか?年寄りは、老婆心ながら、心配してしまうが、、、、、、。

 

一体、5Gで繋がったスマートシティーの世界や肉体やIdentityが、デジタルと融合したり、私達の思考方式・嗜好や行動パターンまでも巨大プラットフォームの中に組み込まれ、読み取られてしまう先にある世界は、一体どんな世界なのか? #Post Great-Reset の世界とは?

 

#忘れられる権利 #個人による個人データを消去する権利 #ネット検索されない権利 という<譲れない核心的な大切な価値観である>3大権利は、どのように担保されるのであろうか? #透明性・信頼性・協力・双方向性という要素のルール化、欧州での個人情報保護法案、#GDPR(General Data Protection Regulation:一般データ保護規則) vs GAFA 規制 (欧州でのヤフーメールのサービス停止問題)、

 

第二部:マネーが狙われる:

第4章:本当は怖いスマホ決済:

#現金大国日本 #QRコード決済 #電子マネー5大分類 #サービスデザイン推進協議会 #電通 #パソナグループ #デジタルイノベーション実現会議2018 #キャッシュレス決済第一位の韓国のカード地獄 #私生活まるごと国家管理の中国 #AIによるスピード融資審査 #改正資金決済法の改定 (Apple Pay) #全国銀行データ通信システム(全銀システム) #銀行間資金移動システム手数料 #フィンテック #ノンバンク(キャッシュレス)決済事業者 #NTTデータ利権が崩された訳 #政権関係者はペイペイ関係者 #デジタル給与 #預金者保護法は担保されるのか #地方銀行淘汰 #危険な竹中平蔵式のベーシックインカム #スマートファイナンス #AIによる信用スコア化 #SaaS(Surveillance as a Service:監視によるサービス)

 

1997年のアジア通貨危機と2008年の世界金融危機により打撃を被むり、外資金融業界の格好のターゲット(餌食)になってしまった韓国に於ける禁断の規制緩和である、#キャッシング貸出金額の上限規制の撤廃に端を発したクレジットカードの増刷とカード・ローンによる#キャッシング返済という#自転車操業キャッシングという仕組みと終わりなき#カード地獄の始まりという図式、#カード支払い遅延率の増加と#多重債務者の増加という現実 

 

コロナ禍での#非接触のツールという追い風から、#電子マネーや#モバイル決済が急速に普及し始めた現実、圧倒的に自国通貨への信頼性が低い中国での皮肉な#デジタル人民元や#デジタル通貨への移行、 しかしながら、そうした便利さとの引き換えに、国民は、知らず知らずに、デジタル社会での最大の資産を、国家へと無条件に、(私生活の情報が丸ごと監視され)、差し出しかねない自体に気がついていない。オレオレ詐欺やアポ電強盗による現金詐取被害は、外国では考えられないくらいに、日本では多いという驚くべき現実と現金への信頼、

 

学歴・勤務先・資産・人脈・行動パターン(買い物履歴・交通違反・各種トラブルなど)返済履歴(負債・支払い遅延)など、個人情報を商品化した一種の信用格付け情報サービスで、これが、今や、個人生体認証や顔認証ともバイオメトリックスとして融合すると、不愉快そうな、おどおどした状態で、スーパーに入店しただけで、いきなり、万引Gメンがピッタリとマーク監視したり、無人コンビニでは、何度入店を試みても、自動的に入り口で、入店お断りになる可能性が、現実味を帯びてきますね。ヒトは、見かけで判断されるどころか、乞食のコスプレでも大金持ちは、裸の王様でも、入店OKになるかも知れません。

 

#フィンテックの進展に伴う、ノンバンク決済業者と全銀オンラインシステムの関係、或いは、これらと政界・海外コンサル会社・銀行金融界の人脈間での利害相反が見え隠れ中で、#マイナンバーカードと#保険証や#eタックス申告による税額控除増額というインセンティブなど、年金・税金・保険・給与・ポイントカード・GoToトラベル、他のありとあらゆる生活の分野で、今や、デジタル化の統合と包括化を謳った<便利さ>と引き換えに、<撒き餌>が、公然と現在進行中であることも事実である。

これから先の世の中では、一体、誰が、蛇口の水(自分のカネと資産)を開け閉めするのであろうか

お行儀良く、よい子にならないと、蛇口は突然、締められてしまう恐れはないのであろうか?

 

第5章:熾烈なデジタルマネー戦争:

#デジタル通貨構想 #仮想通貨:リブラ、 #ビットコイン #基軸通貨 #世界金融システム #米ドルの支配 #デジタル人民元 #CIPS(人民元クロスボーダー決済システム) #世界統一デジタル通貨 #国家による通貨発行権の消滅 #高額紙幣の消滅 #体内マイクロチップによる秒速決済完了

 

どうやら、ことは、個人の生活上では、済まされずに、今や、国家間でのレベルになりつつあるようである。国家権力と通貨発行権の主体という根源的な問題に迄至りつつある。#基軸通貨という考え方と、#SWIFT(国際銀行間通信協会)も含めたドル決済による国際的な銀行間取り引きシステムとも絡んでくるし、ウクライナ危機に対する非軍事的な制裁措置としてのSWIFTからの排除とも絡んできそうである。

 

果たして、嘗て、日本がドルの支配から脱却を目論んだ、日本円の第3通貨構想を、果たして、人民元が、全く異なる視点であるデジタル通貨の普及で、一帯一路と相俟って、果たして、本当に近い将来、実現出来るのであろうか?虎の尾を踏んでしまったリブラは、あえなく頓挫してしまったが、習金平は、果たして、ゼロ・コロナや恒大グループの不動産不良債権問題」を克服して、ドル基軸通貨に風穴を開けられるのであろうか?

 

キャッシュレスに始まった現金・コイン廃止の動きは、銀行にとっても、都市部のATMの廃止やオンライン通帳による経費の削減と効率化に向かい、更には犯罪の撲滅と税収の増大という二つの目標をも、その延長線上に、近い将来、同時に実現出来るのだろうか?

 

第6章:おカネの主権を手放すな

#匿名性と個人のプライバシー #違法資金洗浄 #マネーロンダリング #脱税 #犯罪対策 #サイバー犯罪 #現金がなくなることで犯罪は減るのか #預金封鎖 #タンス預金の行方 #デジタル財産税 #デジタル訪問販売サギ #改正特定商取引法改定 #18歳成人制度への移行 #改正銀行法 #韓国と連携した郵貯による信用スコア 

 

テロとの戦いの中で浮上してきた資金洗浄の対抗策としての現金との戦い、現金を悪者にする、本当の真の意図はどこにあるのであろうか?自国政府は、いつも、善い正しい行動をとる等という保証は何処にもないのであり、政府は必ず嘘をつくという名言を、どのように読み解いたら良いのだろうか?

 

昔の歴史を読み解くときに、#徳政令 #モラトリアム 等という言葉を単に、借り得だとか、支払い猶予だとか理解していたら、戦後間もない悪政インフレ退治や財政の破綻防止にとられた旧貨幣価値の更新や#預金封鎖の強行は、決して、インドの高額ルピー紙幣の廃止ではないが、まんざら、忘れやすい日本人でも、他人ごとでもなさそうであろう。これらの政策の真の狙いは、実質的な#財産税の徴収と将来的な#個々人の資産把握を可能にさせるための予備準備であろうか?

 

実際、ピケティ等が、提唱する国境を越えた富裕税の徴収や、#デジタル財産税の創設導入も含めて、1%の一部の人間のために、99%の難民も含めた全てのデジタルID総背番号管理に至る序章なのであろうか? 匿名性と個人のプライバシーとの国境を越えた両者のせめぎ合いは永遠に続きそうで、イタチごっこなのだろうか? 本当は、デジタル化で利便性が向上するのは、消費者・利用者ではなく、実のところ、サービスを提供する側とそれを統括するひと握りの組織だけなのであろうか?

 

成る程、#報道しない自由とメディアによる#報道の自由への自主規制(ある種の政治的な忖度)などは、改正特定商取引法の内包する問題、老人(かんぽ生命他で契約上の問題になったデジタル契約書を認知症の老人が告知認識せずに一方的に締結された問題)や若年層(18歳成人年齢の引き下げ問題)への具体的・潜在的な危険性は、何も、#ジャパンライフ詐欺訴訟や#マルチ商法、等を取り上げるまでもなく、十分、報道されていないことは、まことに遺憾ではなかろうか?

 

<おカネとは、思想そのものである>、<少しでも違和感を抱いたら、躊躇せずにノーと言うことだ!><まだ、声を上げられるうちに、>という著者の一言は、誠に、傾聴に十分値するモノである

確かに、言論・行動・思考・嗜好・表情、など、あらゆる分野でアルゴリズムとAIとバイオメトリックスが、複合的に融合して、瞬時にして、信用スコアが、デジタル化で判定され、みえない手で監視されてしまう未来が来る前に、、、、、、<なぜ、私達は、おカネの為に、一所(生)懸命に、働いているのか?>、又、物心がついてから、長年、働いてきたのか? 自問する必要があろう。

 

第Ⅲ部: 狙われる教育

第7章: Googleが教室に来る

#GIGAスクール構想 #生徒の個人データの収集 #デジタル改革関連法の大幅改定 #個人情報保護条例 #緩められた自治体の個人情報保護ルール #公立学校内の5G基地局設置 #電磁波健康被害と通信機器との相関関係 #デジタル教科書 #教師採用の変容 #電波規制緩和 #パンデミックスと邪魔な規制撤廃 #プログラミング教育の導入 #加速するオンライン教育 #世銀とGAFAとアフリカの子ども

 

電波通信事業という分野は、これまで、NTT電電公社の民営化で、電信電話であると理解していたが、土光民調や中曽根内閣による、事業の民営化による移管だというように、国鉄も電電公社も、更には、その後の小泉による郵政民営化も含めて、官から民への衣替えくらいにしか、当時は、感じていなかったが、上記の歴史的な一連の流れの中で、改めて検証してみると、間違いなく、ある種の<利権構造>そのものであり、しかも、とりわけ、(通信)電話・電信とは、電波であり、まさしく、今日的な広い意味での<宇宙的なサイバー空間・ネット領域>・<通信分野の国際的な自由化>を意味していることに、改めて、気づかされる。それは、もはや、単に、一世を風靡したあの<i・モード方式やPHS方式携帯電話の隆盛と衰退>と言う問題だけでなく、或いは、何故、ソフトバンクが真っ先にiphoneに飛びつき、最期まで、NTTドコモは、導入を躊躇っていたかという疑問も自然と解かれてしまう。

 

嘗て、田原総一郎が、<デジタル教科書はいらない>と言う著書の中で、デジタル教科書もデジタル黒板も不要だと主張したのを記憶しているが、当時私は、国際貿易の最前線で現役ビジネスマンの真っ只中で、しかも劇的な為替変動相場の中で、必死に、日々刻々進化する黎明期のPCデジタル技術の習得に、日夜励んで、それというのも、Faxから、ワープロに、そしてNEC98から、Windows95へ、そして、テレックスから、E-Mailへ、国際電話代が高額だったから、SKYPEで、やりとりしたりしながら、海外の取引先から、花火が綺麗だからと貰ったPCのファイルが、後日、コンピューター・ウィルスだと知ったときは、もう、後の祭りだった、そんな時代背景を想い出す。

 

私は、ほとんど、運動神経は、文武両道で、負けてはいないが、それでも、左脳中心だから、最近目にした、ダンス科目の導入やヒップホップ・ダンスの履修など、流石に、右脳が化石化している自分などは、今の小学生でなくて良かったと思いました。更に追い打ちをかけるように、#プログラミングの履修必修化に至ると、もうココまで来ると、流石に、英語や貿易用語・金融用語・PCの扱い方などは、マシな方で、こちらは、飯の種だから、嫌が応にも、ツールを習得しなければ、生き残れず、<喰うための不可欠な武器・ツール>と割り切って、マスターするために自己流の勉強をせざるをえませんでした。美術や技術工芸や家庭科の裁縫や音楽のリコーダーなどはまだしも、ヒップホップやプログラミングなどは、生徒も大変だが、教える側の教師自体が、専門的な知識を持ち合わせておらず、更には、日進月歩の技術を教えるとなると採用試験自体が、教員免許制度自体が、採用自体が変容を迫られることになろう。

 

第8章:オンライン教育というドル箱:

#米国発の教育ビジネス #学校に投資する意味 #チャータースクールの陥穽 (費用は税金、運営は民間) #ベンチャー型チャリティー(寄付金控除)事業 #教育の投資商品化 #民主党オバマ大統領の功罪 #教育ビジネス #オンライン教育市場 #教育(学校運営)の外部委託 #子どもを仮想空間へ移せ #公教育解体と教育のデジタル化 #立ち上がる親と教師

 

#ヘルス産業と同じような将来まさに金の卵を産むガチョウが、#教育ビジネスで良いのであろうか?それは、もはや、昔の塾の経営とか、予備校とか、#公文式学習法とかいう範疇では、済まされないレベルになりつうあるのが、現実であろう。恐ろしいことに、公共教育という共有財産分野に、正々堂々と寄付金控除が可能な民間資金に、公金が投入され高い配当性向が還元されるというビジネス・モデルが確立されている。

 

米国に於ける公共教育の場への私的な資本が、公的資金の利用という名目で、事実上、投入されていったビジネスモデルの陥穽があるとしても、私立の教育機関では、なかなか、この流れは、流石に、<学の独立>と言う歴史的な<倫理上のリテラシー>から、飽くまでも<個人による善意での母校への寄付金>と言う形で、行われていて、あからさまな形でのリターンを求める迄には、今のところ、いっていないようであるが、私学の独自の伝統と尊厳と会計報告公開義務だけに委ねるのは、問題かも知れない。返還義務を免除された奨学金制度上の募金や運用改革など、コロナ禍で問題になった喫緊の課題でもあろう。

 

 

第9章:教科書のない学校:

#生身の教師は不要になる #タブレットなしには自分の頭で考えられない子ども #自分の子どもにスマホを持たせない #荒川区学校図書館活性化計画 #待つことの価値 #早くしないとおいていかれるという考え方#スピードこそが価値を持つという価値観 #教育改革は急いではならない #ミラーニューロン脳内細胞 #手書きと脳の関係性 #倫理を持たないAI vs 未来を選ぶ私達

 

国家公務員法には、公共のために働く条項や、憲法99条で、公務員は憲法を尊重し擁護する義務を応という一文があるが、非正規の臨時職員採用などにより、実質的な形骸化と空洞化が進む中で、単に、知識の伝達や検索する方法、ツールの使い方を教えるインストラクターさえいれば善しとする現状は、真の教育とは、教師の本当の役割とは、何かを改めて、考えさせられる。

 

幕末の松下村塾吉田松陰による教育とは、デジタル・オンライン教育と何処が違い、或いは、明治期の札幌農学校のクラーク先生や、お雇い外国人教員の教えは、一体、何処が違っていたのであろうか? 実に、興味深いところである。

 

二つの特徴ある授業とは、①すぐに答えをおしえてくれないこと。自分とは異なる考え方に傾聴する事を学び、活発に議論する。②教師が決して、生徒の答えに○×をつけないこと。正しいかどうかではなくて、その答えに辿り着いたプロセスに興味を持って貰うことに重点を置き、思ったことを自由にありのままの自分でいられるようにすること。 

生身の存在として、教師の一番重要な役割とは、違う考えのあるひとの存在を同じ空間の中で受け入れることや、想像力を駆使して、他社に共感する訓練をせざる終えないこと、又、答えの出ないことを考える道のりに何よりも価値が置かれている。(結果よりもプロセスの重視)ヒトとしての繋がりや生徒を褒め、励まし、上達を共に喜ぶことこそではないか!、

 

子どもの健康な身体、創造性と芸術性と感受性、規律と自制の習慣や 柔らかい頭と機微な精神を十分に発展させる能力が妨げられないためには、デジタル機器を13歳未満の子どもに利用させないことであるそうである。

 

#共感力を育むためには、実際に、人と対面で会う事が必要で、#ミラーニューロンと言う脳内神経細胞が機能して、他者の行動やその意図を理解出来ると、モニターやスクリーンを通じて会っても、画面を見ているだけで、生物学的なメカニズムが作動しないと、

 

子ども達の自身による<情報分析・収集能力>と<批判的な思考>を育むためにも、又、<情報の多様性を身体で感じる>ことを学ぶには、図書館活性化計画が必要であろう。 多様なヒトが集まれる場所が次々に消えていっているという現実が、コロナ禍で進行中、地域コミュニティも機能せず、子どもだけでなく大人にとっても、公共的なプラットフォームまで失いつつある。

 

SNSとは、思想を蛸壺化して囲い込むことができ、創業者のザッカーバーグ自身が20世紀最大の大衆操作ツールであるとまで、まるで、ゲッベルツもビックリするくらいの認識で語っていると、そして、その情報とはビッグテックによって意図的に操作され、作られた情報格差で、決して平等ではなく、また、万能ではない。全て、便利な機器やネット回線のインフラの提供も私企業であるという構造を、しっかりと、子ども達に、しっかり教えておく必要があろうと、実際、現実の世界は、GAFAやBATHの外にも、存在していて、そこでは何ら評価されないような人達が同じように生活しているという事実を、、、、、。

 

確かに、生まれたときからテレビがあり、スマホがあり、パソコンもタブレットある世代には、国家権力をも超える眼に見えない影響力と支配力を有する得体の知れない、利便さを提供してくれる様々なツールやアプリやサービスを、自分たちで選択しているようで、実は、思考を形成されながら生きているという現実的矛盾を、デジタル世代は、気がつくことが出来るのか?また、気がついたとしても、抵抗できうるのであろうか?そんな<心の眼と気付き(覚醒)>を、どのようにしたら、育むことが出来るのであろうか?

 

テクノロジーと人間の考える力、忘れない事、問いかける力、まつことを厭わない忍耐力、想像力、等の教育との関係性をもう一度、じっくりと考え直してみる必要がありそうである。#透明性 #説明責任 #公平性 #倫理性 #未来を選択する権利 #基本的人権 #個人情報保護 #憲法の順守 を改めて、考え直し、同時に、AIが、人間の頭脳に限りなく近づくよりも、もっと、危険なことは、どうやら、人間が知らぬ間に、茹で蛙の如く、無感覚になってしまい、AIに忖度して、コンピュータのような思考方式に、気がつかないうちに、感情も、表情も、行動も、思想も、判断も、委ねることで、考え始めたときにこそ、真の<デジタル・ファシズム>に陥り、その時には、既に手遅れになるということであろうと、そのツールを動かすのはだれなのであろうか?

 

エピローグ:

#ステークホルダー資本主義 #情報の非対称性 #個人情報保護=基本的人権 #一般データ保護規制(GDPR) #アルゴリズム #プライバシー保護 #デジタル権利法 #未来を選ぶ自由 #深く考える力 

 

#無法なネット空間で荒稼ぎをしてきた勢力に対して、企業が収集したユーザーの個人データにアクセスする権利、不正確な情報を修正したり削除したりする権利、そして、アルゴリズムが下した決定を制限する権利を手に入れること、個人情報=基本的人権であるということ

 

もう、若い頃に読んだ著者達も、数名を除いて、鬼籍に入ってしまいましたが、改めて考えてみると、今日的な課題は、エネルギー問題も、基軸通貨の問題も、貧富格差の問題も、排外主義思想も、領土・国境の問題も、違法なテロリズム・暗殺も、ナチズムや軍国主義のくびきから、多大な犠牲と生命財産を失われた上に、解放されたにもかかわらず、高邁な理想と普遍的な人権・言論の自由、安心・安全を享受しうる正当な権利すらも、70有余年の後の世には、いまや、風前の灯火であり、形を変えた新たな専制権威主義と価値観を異にした闘いの火種を、宿していることが、何とはなしに、感じられる。それは、あるときには、剥き出しの暴力であったり、また、あるときは形を変えた、眼に見えない空間で自覚することなく自身に迫り来る暗闇のような精神的な恐怖やトラウマのような未知への将来への漠然とした恐怖なのかも知れない、そんな不確実性は、新型コロナ禍の拡大と共に、一層、ヒトとヒトとの非接触と一定のSocial Distance という距離を置くという、人類がこれまで育んできた生物学的な細胞学的なメカニズムまでも、ライフ・スタイルのみならず、明らかに、年齢世代や性別・貧富の差にかかわらず、間違いなく、影響を及ぼそうとしていることは、どうやら、カミューのペストの時代のスペイン風邪やインフルエンザとは、異なる様相を呈し始めていることが、この著書を通じて、考えさせられる。とりわけ、若い世代、これからの時代を牽引するであろう、子ども達は、一体、どのような世界を過ごすことになるのであろうか?

今日では、あからさまな軍事的な謀略だけではなくて、準軍事的な、内戦型・謀略騒乱型の情報騒乱や情報・交通・基幹産業インフラを狙った事前的ななし崩し的なサイバー空間での衝突を前提にしたシナリオが、常套手段とされ、昔の中野学校的なインテリジェンス活動が、事前に、緻密に、プログラミングされていて、気がついたときには、既に、敵の術中に嵌まってしまって、身動きが取れなくなってしまう状況に陥ることも、珍しくない。

少なくとも、それ程もう、残された時間もない50年前の元若者達には、何が出来るのであろうか?少なくとも、子ども達の未来をしっかりと選べる権利を残すためにも、何をしたら良いのか、自問自答しながら、本を閉じることとしたい。


ビデオ<新聞記者>を 観る:

2021年11月13日 | 映画・テレビ批評

ビデオ<新聞記者>を 観る:

 

GAFAと言う存在を快く思わないにもかかわらず、日常生活の中では、アマゾン・プライムの無料配達や無料ビデオで映画を観たり、本を読んだり、急いでもいないのに、無料翌日配送で、ネット注文した商品が届けられてしまうなどと、全く困ったモノで、<21 Lessons for the 21st Century>(by Yuval N. Harari)という英文の著作を読みながら、改めて、これからの自分自身の矛盾に満ちあふれた生き方も、含めて、じっくり、この映画のように、巨大権力と眼に見えないAIとSNS・メディア他との関係性の中での自身のこれからの残された短いであろう生き方を見つめ直す機会としましょうか?

それにしても、コロナ禍で、何本かの映画を見逃してしまったが、そのうちの1本である。

この映画の中で、取り上げられている<新設の大学>とか、<生物兵器研究所>(感染症研究も含めて)とか、或いは、<ジャーナリストによるレイプ事件>、<国家公務員の自死>とか、何とも、東京新聞や文春砲などによる、既存マスメディアとは一線を画したまるで独立愚連隊的な、或いは、個別ゲリラ的な<権力に忖度しない、真実に迫ろうとする取材と情報の公開>という姿勢は、ある種、獲物を追いかけ、臭いを嗅ぎ廻る、そして、獲物(真実と呼べるべきモノ?)を追い詰めてゆく飽くなき猟犬の性(さが)のような感じがしないわけではない。むろんそれが、ある範囲の倫理的なガイド・ラインや行動コードに抵触しそうなギリギリのきわどい、或いは、超えてしまうモノであったとしてもである、、、、、。そんなものは、検察審査会なるもので、再調査が行われまいが、不起訴判断(いつもの茶番劇だから、決して、驚くべき事ではないが)だろうが、そんなことは、どうでも良いほど、限りなく、噂であったとしても、証拠が見つからなくても、真実に近いモノを、人々は、どこかで、嗅ぎつけるモノであろう。確かに、この映画の中で登場するような事件というモノは、<あぁ、あれは、あの事件だったのかなぁ、>とか、<こっちの方だったのかなぁ>等と、勘ぐってしまうモノである。暗い部屋の中でモニター画面だけを凝視しながら、まるで、ロシアや北朝鮮のITハッカーのように、人々のSNS上の発言や、フェイク・ニュースやヘイト・スピーチも含めて、左から右も含めて、ありとあらゆる情報監視・操作を、<権力の犬たち>は、<嘗ての国体の護持や国家の安寧という大義・名分のため>に、日夜、この霞ヶ関のビル群の中のどこかで、或いは、オフ・サイトで、ネット・ワークに繋がれながら、<権力の走狗>として、(内閣府情報調査室?)で、この映画の中の多田役の田中哲司(NHK大河ドラマで、荒木村重役で、すっかり、私は、ファンになってしまったが、仲間由紀恵の旦那にもなってしまった事を知ったときには、一寸、驚きだったが、、、、それはさておき、)の指示・命令系統のもと、行なっているのであろうか?

 ネタばらしになってしまうから、あらすじは、割愛させていただくモノの、キャリア組の上級国家公務員の中でも、各省庁から選抜や出向されてきた人物達とそれを束ねる室長(多田)との葛藤や暗闘、或いは、仕事と情報の機密性・公益性のバランス、或いは、誰が、誰のために、何故、そうしなければならないのか、自らの愛する家族を置き去りにして、投身自殺せざるを得ないまで、<守らなければならない価値とは、一体、何なのか?> 自死と言う行為により、残された者達、とりわけ、その家族の中でも、子供という弱い、一番守られなければならない者にとっては、この映画の中での投身自殺してしまう元上司の神崎の娘や妻、ヒロインの新聞記者の吉岡(シム・ウンギョン)も、彼女自身の父の無念を晴らそうとする行動や、その自死を迫られた理由、あんなに強かった父が、何故、自死に至ったのかという理由の追求を通じての<真実を追い求める姿勢>と、皮肉にも、杉原役夫婦(松坂桃李・本田翼)が、激務の中で、破水から、赤ん坊が早産で命の危険の瀬戸際に陥る(私は、てっきり、死んでしまったと早とちりしたものだが、命が助かって 本当に安堵したものだ!)場面、そして、初めて、後日、対面するときに、3人で小さな指に触れあうところなど、黒塗りの記録といい、財務省の本省からの無言の圧力などを考えると、映画のストーリーにも、出てくる実在する記者達(本映画の原案の望月衣塑子、元文部科学省事務次官の前川喜平、日本在住のアメリカ人ジャーナリスト、マーティン・ファクラーの対談が現実のTVニュースで放映・挿入されるという形で映し出されるのも印象的で)、それは、別の意味で、象徴的に、現実の姿が、如何んなく、<現実の冷酷さと冷徹さ>という形て、まざまざと見せつけられる事になります。

 そして、最期には、この映画のもっとも、象徴的な、シーンとして、多田から吉岡への電話:「よく書けている。お父さんにそっくりだ。あなたのお父さんの記事は誤報じゃなかった。でも死んでしまった。残念ですね!」と、そして、一方で、多田は、杉原へも、恫喝にも近い慇懃無礼な今後の身の振り方に関するオファー(こちらも、そう言えば、海外への転属をどこかの国の女性内閣広報官も、似たような事例で、異動させられたことをチラッと、脳裏をかすめましたが、、、、)と、そして、<最期の最期に一言発した捨て台詞>が、私には、気になって仕方ありません。

「これ、お前じゃないよな、お前なわけがないよな、」、「外務省に戻りたいか? しばらく外国に駐在しろ。そのうち、世間は忘れる。そのかわり、今持っている情報はすべて忘れろ!」、更には、「杉原、撤回することは恥ずかしいことじゃないぞ。この国の民主主義は形だけでいいのだ!」と、この言葉を聞いた瞬間の杉原(松坂桃李)には、妻の顔が、或いは、赤ん坊の顔、或いは、元上司の神崎の顔が、或いは、その妻や娘さんの顔が、浮かんだのでしょうか?それとも、父の自死の理由と真実を追究してやまなかった吉岡の顔が、浮かんだのでしょうか?映画のシーンでは、暗くて、その形相と心の底は、垣間見られませんでしたが、想像に余りあるモノがあることは事実でしょう。残念な事に、先日、<孤狼の血、Level 2>の中での鈴木亮平と松坂桃李との競演をみたかったのですが、生憎、映画館に、日程を問い合わせたら、既に、終演になってしまっていて、観れなかったのは、誠に、残念な事でありました。それにしても、昔の社会派映画が、今日、権力への忖度か何かは分からないが、製作自体が少なくなってしまったことは、誠に、残念な事です。マスコミ、政界、汚職事件、警察・犯罪事件内幕、ヤクザや宗教の世界、医療業界・医療行政の内幕、金融・企業の内幕他、ネタには尽きないと思われるが、、、、、。昔のような第二の山本薩夫監督や大島渚は、出てこないのであろうか?一体何処で、何をしているのであろうか?AIとの戦いが、今や不可避と言われている中で、これから先、どのように、真実とフェイクを見極めるツールを私達は、持っているのであろうか、それとも、見つけることが果たして、出来るのであろうか?又、もし可能であれば、どのように、見つけることが出来るのであろうか?まさに、現在進行形であり、喫緊の課題であろう!<答えのない答えを探す旅>を、いつまでも、続けざるを得ないのであろうか?

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映画、<モーリタニアン 黒塗りの記録> を観て、思う!

2021年11月08日 | 映画・テレビ批評

=映画、<モーリタニアン 黒塗りの記録> を観て、思う!

 1988年の頃だったか、ワシントンDC に赴任した後輩の自宅を、ロス・アンゼルスから、はるばる、大陸を空路で横断して、家族とともに、尋ねた帰途に、東海岸への旅行も兼ねて、NY観光を愉しんだが、その時に、訪問した世界貿易センタービルのツィン・タワーのキップが、たまたま、ラミネート・フィルムの中に記念に残っている。あれから、12年後に、まさか、あのビルが、9.11テロ現場として、グラウンド・ゼロになるとは、全く想像だにすらしていなかったものである。

コロナ禍が、やや、収まりつつあるせいだろうか、それとも、良い映画というモノは、時代を超えて、人々が、待ち望むせいなのだろうか、映画評論家ではないから、その辺は、不明だが、確かに、ほぼ、満席の状態であったことには、少々驚いてしまった。

それにしても、ジュディー・フォスター他、<タクシー・ドライバー>の14歳での娼婦役以来、<羊たちの沈黙>のFBI捜査官役といい、<告発の行方>、或いは、自身が監督として携わった、映画、<ジョーカー>に出てくるまさに、同じようなシーンを、取り上げた、<マネー・モンスター>など、社会派のテーマについて、圧倒的な存在価値を見せつける演技力で、この映画の中でも、両極端の弁護士として、人権弁護士役を演じている。

先般、観た映画、<ミナマタ、水俣>でのジョニー・デップといい、俳優というモノは、一方で、成功を収めて、一定の金額的な裕福さとは別に、やはり、俳優としての社会的性(さが)のようなモノを捨てきれないものなのだろうか、60歳近い年齢になっても、その演技の中には、<大義と正義のような凜とした生き方としての演技>が、自然と、一本貫かれているのだろうか?

米国という国は、世界の警察官を自負しつつ、一方で、戦争を引き起こしておきながら、或いは、Justiceという正義・大義と真実を、自らの手で、忖度することなく、片一方で、公然と否定しきれるような、そんな懐の深い、国柄なのであろうか?それとも、キリスト教的なクリスチャニティーが、どこかに、バックボーンとして、個人のアイデンティティーの中に、確固として、生き残っているのであろうか?それは、この映画の主人公の相対極に位置する一人の人権弁護士である、ナンシー・ホランダーという女性人権派弁護士と訴追する側の謂わば、米海軍側の検察官(弁護士)である元海兵隊出身で、9.11で殺害された操縦士の友人をもつ、スチュアート・カウチ中佐と言う構図の中で、キューバにある米軍のグアンタナモ収容所には当時、700人以上を裁判なしで不当に拘禁・拘留されている一人として、政府・軍組織による至上命令である、起訴の上での死刑の執行という絶対的な組織的な命令の下、モーリタニア人(=モーリタニアン)の青年モハメドゥ・オールド・サラヒ容疑者に対する、裁判の実話に基づく、社会派映画である。

警察を決して信じることのなかった青年が、奨学金を貰うことで、一族の期待を担って、初めて、警察を信じることが出来る国、ドイツに留学することになるものの、ビン・ラディン一族からの電話を受けたことや、一夜の宿として宿泊させた人物が後の9.11の実行犯だったことから、無実のいわれのなき、全く不条理な嫌疑を掛かられ、同時多発テロの容疑者達と深く関与する首謀者の1人として告発されながらも起訴も裁判もされないまま長期間身柄を拘束され、結局裁判での勝訴後も、通算すると、14年にも及ぶ長期の身柄拘束と、拷問・虐待を受ける結果になる。長いときには1日20時間も、精神的。肉体的な苦痛を味わわされ、或いは、足枷で中腰の苦痛な姿勢を強いたり、光の明滅による刺激を与えたり、ヘビメタの大音量を聞かせたり、更には、水責めをしたり、女性尋問官からの強制的な性的陵辱を受けたり、暴力を受けたり、一方的な人間性の破壊行為を強いられることになる。それでもスラヒは英語を学ながら、耐えぬくものの、姑息にも、尋問官は新たな自白用作戦として、母親を盾に取った脅しの言葉に屈して、自白・供述書へのサインを強要されます。(浅間山荘事件の時も、そうだったことを思い起こすが、、、、、、)それにもかかわらず、手記の製作を継続させ、オンライン裁判へと漕ぎつけることになる。

それにしても、ソ連によるアフガン侵攻以来、サウジや米国によるビン・ラディンへの支援は、公然の秘密であり、後年、これは、アルカイダやISにもつながってゆくことになるが、大国の思惑や方針の転換によって、全く一個人の人生が、踏みにじられることは、いつの時代でも、理不尽であるものの、そういうことが、決して、一個人、自分の身に降りかかってこないとも、誰しもが、言い切れるとは限りません。北朝鮮のキム・ジョンナムの暗殺や、旧KGBによるスパイに対するウラン暗殺やイスラエルのモサドによるアラブ人テロリストや岡本公三への拷問手法、或いは、韓国軍政下での一昔前のKCIAによる拷問や、戦前の特高警察・中野学校による自白強要手法など、現代ですら、中国で問題になっている少数民族への漢民族による民族浄化対策ほか、イラクの捕虜収容所の薬物投与による自白の強要他、アウシュビッツ収容所の問題だけでなく、いつの時代にも、組織的な真実隠しは、MFR (Memorandum for Record)として、我が国でも、暗黒の2.26事件・軍法会議記録や、財務省・厚生省での桜の会・森かけ問題などでも、他人ごとでは決してない。人権保護の在り方、司法の在り方、裁判の在り方、弁護の在り方、証拠・自白の手法、ビデオ公開、訴追の在り方、個人がよって立つべき宗教的・規範や信条・理念とその属する地域・組織・友人・社会的な背景との関係性の在り方、結果的に、友人を失う結果になることのリスクと、その結果への覚悟の問題、一見、イスラム教とキリスト教が、相対立するような印象をあたえるものの、最終的には、釈放されたスラヒ本人が、ボブ・ディランの曲を聞いて一緒に歌いながら、笑いながら、「拷問を受けたけれども、アッラーの神様から与えられた試練、それを私は許す」と、一種、この本人からの楽天的なコメントには、何か、<ある種の救済>を感じざるを得ません。この一言がなければ、或いは、Prosecutor からの<誰でも良いというわけにはゆかない。それが、彼であったとしも、、、、、>という言葉にも、どこか、まだ、大義とか、正義とか、Justice とかいうものが、米国には、あるのかな?と思う反面、我が国には、果たして、そんな人物や、仮に自分自身が、そんな当事者や、容疑者になったら、そこまで、不条理・理不尽さに抵抗出来るだろうかと、考えさせられてしまいます。それにしても、<組織のシステム>ではなくて、結果的には、何か、<情緒的なエモーショナルな人間関係性:友人関係>の中で、<「グアンタナモ収容所 記録用覚書」というファイル、MFR (Memorandum for the Record : 32番のボックスを開けたか?!>と言う情報を、友人であるニールから、スチュアート中佐は聴くことになり、これを、<軍からの組織的な裏切り者呼ばわり>されながらも、相手側のナンシー弁護士と情報共有することになる。

 エンドロールでは、結局、未だに、この基地収容所は廃止されることもなく、CIAも、軍当局も、政府関係機関も、関係者からの組織的な謝罪も、弁明も、改善策もないそうで、ましてや、再発防止策や、第三者委員会による検証などは、どうやら、今日、20年後に至るも、ビン・ラディンの抹殺後も、なされてはいないし、恐らくなされることはないだろう、、、(広島を訪問したオババも、結局、釈放や廃止には至らなかった事実がある。)、、、、。かつて、<日本の黒い霧>とは、良く言ったものだが、今日、こうした<黒塗りの記録は、闇の、又、闇>というような状況で、再び、同じ過ちが、繰り返されない、自分の身には、降りかかってこないと言う保証は、全くなさそうである。心して、このことを肝に銘じて、これからの時代を生き抜いてゆかなければならないような気がする。

ハリウッドと言う伏魔殿は、おかしなモノで、このBBCフィルム製作の映画を、平気で、商業主義第一優先の中で、上映公開してしまうことも、凄いことである。一方、日本の映画界の中で、こんな社会派映画を作れる監督、演じることの出来る俳優が、果たしているのだろうかと考えると、スポンサーも含めて、そんな硬派が、いるのだろうか、それとも、現れる可能性があるのかと、日本映画界で、第二の大島渚は、出現するのかとかとも考えると、暗然としてしまうが、、、、、、、。

是非、若い人にも、観て貰いたい。


現役学生とのオンライン会議に参加して:コロナ氷河期世代?との対話

2021年10月23日 | 社会戯評

現役学生とのオンライン会議に参加して:コロナ氷河期世代?

 

IT ディバイドと言う言葉を聞き始めてから、一体、年齢的に、どの年代を境に、パソコンやITを使いこなせるのかと考えてきましたが、(勿論、職業やキャリアによって、個人差は否めませんが)、自分の経験からすれば、社会に出たときは、まだ、PCフロッピーも下敷きのようなもので、未だ、ワープロも、普及しておらず、LAで、現地のキャノンが2000ドルで販売していた、テロップの液晶が、10cm程の長さで、しかも、都度印刷しないと、記憶容量がなくて、電話などが掛かってきて、一度中断すると、とんでもない、痛い目に遭った覚えが懐かしく想い出されます。海外とのやりとりも又、テレックスの紙テープに、さん孔機を利用して、事前に、文章を打ち込み、これを即時コールと対時コール(繋がるまで、延々と待ち続ける、残業代稼ぎの若手の仕事だったし、これが縁で担当の女子社員と結局、社内結婚に発展したケースが多かったような気もするが、、、、)で、電話回線をKDD経由でお世話になったものである。のんびりとした、新入社員の残業代稼ぎが出来たゆる~い、余裕のある時代だったのかもしれない。従って、これらを勘案すると、技術の進歩にもよるが、恐らく、現在、75歳位の年代を境に、ITディバイドなるものが、存在するような気がしてならない。

 そんな最中、コロナ禍の以前からも、オンラインとオフラインとの会議の在り方について、試行錯誤を繰り返してきたものの結局、デジタル・フォーメーションと言う方向に舵を切らざるをえない状況に、とりわけ、ここ2年間の間に、コロナ禍のなかで、ハイブリッド方式も含めて、ケース・バイ・ケースで対応せざるをえない切羽詰まった状況になってきたのも否めない。そんな背景の下で、限られた人数ではあるものの、文化祭のオンライン開催に際して、その実行委員会の中で、オンライン・チャット・部屋を開設して、そこに入室して、オンライン会議を開催し、現役生・OBも含めて、18歳から75歳までの意見交換会に参加した次第である。

 それにしても、この2年間のキャンパス・ライフは、薄々、風聞してはいたものの、想像以上に、学校での授業・友達作り・サークル活動・就職活動などへの影響が、<コロナ氷河期世代>とも、(現役生曰く)揶揄される当事者達は、後年、社会に出てから、こんな呼ばれ方や、レッテルを貼られるのであろうか?丁度、自分たち、50年前の怒れる若者が、若い頃に、やれ、<団塊の世代>とか、<全共闘世代>とか、呼ばれたように、同じ、Z世代でも、格別に、区別されてしまうのであろうか?必ずしも、否定的な側面だけではなくて、肯定的な側面からも、大変興味深いものがある事は事実であろう。

 ストライキや社会運動で授業が物理的に出来ないのとは異なり、そもそもの<他者との距離間のあるコミュニケーション>それ自体が、<会話をすることで、飛沫が飛びかねない>と言う理由で、キャンパス閉鎖やロックアウトになること自体が、過去に、全く経験したことのない自体そのものである。      オンライン会議などは、そもそも、自分の経験から言えば、海外とのやりとりは、Skype等で、当たり前と言えば、当たり前に、何の抵抗もなしに行われていたものである。それが、音声から、技術革新に伴い、テレビ電話になったもので、その昔には、東京と大阪の事務所を結ぶテレビ会議システムなるものに、100万円以上もの投資を会社はやっていたものである。全く技術革新に伴い、当時は、よくもまぁ、こんな多額の投資をやっていたものであると、昔の余裕には呆れ果てたものである。

 学業が出来なければ出来ないで、勉強が出来ないことも、勉強だと思えば、或いは、ノンポリも、Activistも、それぞれ、今思えば、それなりに、人生勉強になっていたものであることに気がつけば、全て、前向きに、80分の2年くらいに、或いは、100分の2くらいに、前向きに考えてみるのも、良いのかも知れない。それにしても、距離のある一定程度のcommunicationというものは、人間関係に、どういった影響を及ぼすことになるのかは、将来検証されることになるのかも知れないが、その時には、こちとらは、もうこの世にはいないだろうから、ある意味で、興味深いことであろうか?

どんな社会的な影響が出るのか?超新人類のような別個の固有種が発生するのであろうか?一体、どういう肯定的な影響が、或いは、否定的な影響が出てくる可能性があるのであろうか?

 ただ単に、Global Supply Chainの一つの歯車が狂っただけで、様々な影響が出てくる以上、所謂、人間関係の相対的な育成課程でのギクシャクとした問題は、恐らく、若者への未知のインパクトが、人生観にも出てくるのではないかとも想像されよう。それが、将来、吉と出ることになるのか、それとも、凶として具現化してくるのか、或いは、個人レベルで済まされるのか、それとも、それ自身がその世代特有な共通的な人生観、Life Styleにも、直接的に、影響を及ぼすことになるのか?50年前の怒れる若者には、今の若者達が、50年後に、あの時を振り返ってみたときに、どう振り返るのか、大変興味深いものがあります。それは、それぞれ、戦争というものを経験したり、戦後の混乱期での就職困難期を経験したとか、或いは、高度成長期に、或いは、失われた20年の中で、就職氷河期に遭遇して、派遣社員にならざるを得なかった世代とか、生まれてきたときが悪かったのか、産んだ親を恨むのか、それにしても、海外からの会員のアクセスも含めて、なかなか、時代のリアルタイムでの問題に触れる機会が最近は、少なくなってきている中で、改めて、若い世代の或いは、現役の働く世代の人達の立ち位置が、理解されて、オンライン会議も、大変、充実した印象を受けましたし、おそらく、オフライン・オンラインも含めて、ケース・バイ・ケースで、ハイブリット方式も含めて、時代はそういう方向に移行しつつあるのであることが、再認識されました。それにしても、肩組み合って、歌を歌ったり、メガホン片手に、声援を、或いは、相手へのエールを送れる日常が、早く戻ることを期待してやみませんね。当たり前な日常が、こんなにも、あっけなく、マスクと共に、消えてしまうとは、経済的な損失はさておき、改めて、人類の経験したことない未知のかけがいのない経験を、若い人達は、ここ数年で、経験している最中であることは、間違いなさそうである。

 そんな印象を受けた次第です。


落ち葉の季節が近づいてきた!

2021年10月16日 | 自然・植物・昆虫

落ち葉の季節が近づいてきた!

 

春は、毎年、花々が咲き誇る順番があるが、秋も又、木々の木の葉が、色づき始める順番が決まっていて、今年も又、東京のハナミズキが、赤く、茶色に色づき初めて、ぽろぽろとアスファルトに、駐車場の屋根に舞い落ち始めた。地面の上ならば、そのまま、竹箒で、かき集めた落葉をさささっと、掃くだけですむのだが、都会のアスファルトでは、なかなか、そうはゆかず、箒で、落葉を入れるポリ袋を拡げながら、押し込んでゆく。微かに、落葉の臭いが辺りに漂ってきて、季節の移ろいを感じざるをえない。10月だというのに、真夏日の暑さで、半袖で、落葉掃きとは、何とも困った状況である。その昔には、サツマイモでも焼き芋にして、煙も愉しみながら、落葉掃きを愉しんだものだが、今日では、火気の取扱が厳しくなり、そんな愉しみもなくなってしまったことは、残念な事である。こんな真夏日が、続いた後は、後の雨で、きっと、急に、秋が深まり、晩秋の面影が濃くなってくるのは、想像に難くない。もう山は、そんな都会の心配をよそに、容赦なく、絨毯の織り色が、変化してきつつある今日この頃です。そろそろ、冬の準備をする季節ですね!

 


映画 MINAMATA ミナマタ・水俣を観る:

2021年10月08日 | 映画・テレビ批評

=映画 MINAMATA ミナマタ・水俣を観る:

 

この2年間、コロナ禍で、映画館で前回、どんな映画を愉しんだのか、想い出せないし、そもそも、電車や地下鉄に乗った記憶が、想い出せないほど、遠い昔のような気がする。全く久しぶりに、電車に乗ると、社内の中刷り広告や電子広告ですら、何か新鮮な感じがしてならない。すっかり、アマゾン・プライムのビデオによる映画鑑賞というパターンが、年寄りの行動様式の一部に定着してしまった。

 それにしても、もう、50年も前の記憶が、ジョニ-・デップのメイク・アップによる顔つきそのものが、の時代のユージン・スミスのイメージと重なってくるから、映画という奴は、人間の記憶というものは、面白いものである。それは、50年の時を経て、忘れかけていた記憶が、蘇ってきた。

 ジョニーデップという俳優については、私は、せいぜいが、昔観た、PLATOONやシザーズハンド、エルム街の悪夢や、テレビで観たチャーリーとチョコレート工場、或いは、パイレーツ・オブ・カリビアンの海賊シリーズや、ローンレンジャーのインディアン役、等が、想い出されれるものの、一寸、駄目親父的な何か、仕事に没頭しすぎて、妻や子供・家族を忘却した挙げ句に、相手にされなくなる仕事最優先の高みを極めるアル中寸前の人物像が、プライベートな生活とも相俟って、二重写しに、ユージンスミスとダブって浮き出てくるのは、決して、間違った解釈とも思えない。だからこそ、製作・主演を自ら、やってのけたのにも、何か、内面的な理由が隠されいるように思えてならない。

 60年代から70年代にかけての高度経済成長期での<4大公害>(KOUGAIという恥ずべき日本語自体が、英語でも世界中に、通用することになったことは、誠に、皮肉なことであるが、、、、)とは、熊本県の水俣湾で発生したメチル水銀汚染による「水俣病」、同じくメチル水銀汚染による新潟県の阿賀野川流域での「新潟水俣病」、三重県四日市市で発生した主に硫黄酸化物による大気汚染が原因の「四日市ぜん息」、富山県神通川流域で発生したカドミウム汚染による「イタイイタイ病」も、何か、今日では、人々の記憶の中に、スゥーと想い出されることもなくなりつつあるのが現実で、水・海・地下水・空気・土質・環境汚染が、食物連鎖と相俟って、未だに、50年も60年も経た今日でも、インドの殺虫剤工場、ネシアの火力発電、ダム工事、チェルノブイリ原発事故、福島原発放射能汚染事故、エンドロールに記載されている世界的な規模での環境汚染・山火事や豪雨による気候変動やマイクロ・プラスティックによる海洋汚染も含めれば、脱炭素社会を目指すと言いながらも、この半世紀・1世紀の間では、何ら、問題解決のきっかけすらも、見つかっていないのが現状なのであろうか?

 映画の中で、真田広之演じる住民運動のリーダーの名前が、なかなか、想い出せない、訴訟派に対して、飽くまでも、住民運動を組織して自主交渉派として、22年間の長きに亘って、市議を3期務め、成田闘争で検挙された、川本輝夫を好演していたり、國村肇演じるチッソの社長役、江頭豊と言う名前も、なかなか想い出せない。71年という年は、社会へ出る1年前で、この年の年末には、想像だにしていなかった友人との突然の永遠の別れを経験することになる。そんな個人的な事情もある時代背景を伴って、感慨深く、映画を見つめていた。

 写真というものは、今日、オート・フォーカスで、デジカメにしても、スマホにしても、ある程度の水準で、失敗のない写真が撮影できるが、アメリカ先住民であるインディアンによれば、写真を撮影される被写体になることは、<魂そのものを奪われる>と言われてきたが、同じ先住民の血を引く、ユージン・スミスは、逆に、撮影する立場であるフォトグラファーとして、<写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない>ともいっているし、又、フォト・ジャーナリズムについても、<これは(写真集は)客観的な本ではない。ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞきたい言葉は『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の『自由』は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん『自由』は取りのぞくべき二番目の言葉だ。この二つの歪曲から解き放たれたジャーナリスト写真家が、そのほんものの責任に取りかかることができる> 更に、こうも言っている、<ジャーナリズムにおける私の責任はふたつあるというのが私の信念だ。第一の責任は私の写す人たちにたいするもの。第二の責任は読者にたいするもの。このふたつの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果たすことになると私は信じている>(英語版序文から)

 言葉によるジャーナリズムと異なり、<フォト・ジャーナリズムとは、LIFEの如く、写真を通して、リアリズムを追求したのであろうか、それとも、(ユージン・スミスが、主張するように、)徹底的に、リアリズム(写実主義)を排除するところから、成立しているのであろうか?>ファインダーからのぞいた風景とスマホの四角い画面から撮影する構成画面は、同じ風景なのか、それとも、異なる風景なのであろうか? ジャーナリズムの神髄は、人嫌がるところをあぶり出すところにあるとまで、映画の中で、言っているが、この時代には、まだ、文春砲も、パパラッチもいなかった時代だが、、、、、。ユージン・スミスは、1918年生まれだから、サイパン(1944年)、硫黄島・沖縄戦(1945年)に、戦場カメラマンとして、従軍していることも、写真を撮る側と撮られる側の立場の違いは、自ずと若い頃から、ありのままの生と死の違いを見つめざるをえなかったのではないだろうか?

 ジャズや音楽は、私にとっては、門外漢であるから、(サントラなどやエンドロールの音楽については、よく分からないが、坂本龍一が、どのように関わっているのかなどは、わからないので、)割愛するが、確かに、<水の音>という共通キーワードは、映画の全編を通じて、観客の耳の奥に、残っているのは確かである。

 この時代には、やはり、都市工学と言う言葉自身を当時、物珍しく聞いた記憶があり、且つ、公害言論という大学の公開自主講座を開催した万年助手の宇井純や、石牟礼道子の苦海浄土(白い巡礼着と網傘)についても、最後に触れておきたいものである。当時の記憶が、映画を見終わってから、沸々と、記憶が蘇ってきた。

 尚、映画『MINAMATA-ミナマタ-』では「封印」された「入浴する智子と母」が使用されており、アイリーンは映画を見た後で「この写真を大切にするなら今何をするべきかと考えた時、『本物の写真を見せることだ』という結論」に達したと述べ、再刊する写真集で「入浴する智子と母」を含めた、上村智子の写った写真を掲載する意向を示したと言われているが、、、、、。

 

(フォト)・ジャーナリズムとは、何か?表現するとは、どういうことなのか? 写真を撮影する立場と撮影される被写体との違いは、何か? 住民運動とは何か? 資本主義のモラルとは何か? 企業家の倫理観とは? 利潤追求とは、? 労働者として、生活者として、一人の人間・一個人として、どのように、こういう環境破壊と環境汚染と対峙してゆくべきなのか? 半世紀後も、問題解決はなされているのか? 真実を追求する行為とは、公開することは、いかなる意味があるのか? 後世に記録として、残すには、何をなすべきか?

 

日本人による作品がならなかったのは、至極残念だと言う意見もあるが、私は、そんなことは、国籍・人種を問わずに、良いものは、誰が作っても宜しいではないだろうか?そんな時代に、日本のジャーナリズムが力がなかっただけで、半世紀後の今日の現実も、変わっていないのも事実であろう。むしろこちらの方が、より深刻な問題であろう。この当時、同じ頃には、戦場カメラマン、沢田教一は、ロバート・キャパ賞を受賞しているが、、、、、、、。

 

それにしても、良い映画は、平日の朝からでも結構、コロナ禍でも熱気に溢れ、混雑しているものだ!

 

#ミナマタ #水俣病 #ジョニーデップ #ユージンスミス #フォトジャーナリズム #公害 #映画 


=開かれた福祉風呂というコンセプト=: 身障者と健常者の考え方の微妙な乖離を知る:

2021年10月01日 | 社会戯評

=開かれた福祉風呂というコンセプト=:

身障者と健常者の考え方の微妙な乖離を知る:

 

先日、<福祉風呂>施設を有する東御市の<御牧の湯>(FBページ参照)に下記のようなメッセージを投稿したところ、早速、私が話をしたお客様と話しが出来て、福祉風呂をゆっくりと活用して戴けるようにご案内しましたとの回答を得ました。この間の私の感想を述べてみたいと思います。

 

 私は、やや、歩行が困難とは言え、未だ、健常者の部類で、身体障害者手帳を持ち合わせておりません。しかしながら、一歩行困難者として、パラリンピックではないですが、(障害者の立場を理解するように努力しています)、説明を聞く限りでは、<世間様の風当たり>は、なかなか、厳しいものがあるようです。 その一つが、身体者障害手帳、そのものの特典(利用料金の割引優待も含めて)を、当然の権利者として、自ら、ある種の負い目から、十分活用せずに、<自主的に辞退してしまう現状がある>そうです。

 そんな当然の権利を、何故、積極的に使わないのであろうかと、私などは、思うのですが、それは、健常者の立場からの考え方で、身体障害者の立場からではないようです。それ自体が、確かに、一種の壁なのかもしれません。自分は、その意味では、一歩手前の身体障害者未満、であっても、健常者の部類に依然として、属しているものなのかも知れません。又、駐車場の優先スペースも、身障者マークをつけていると、<身障者のくせにこんな良い車に乗りやがって!>といやがらせを受けるそうです。だから、遠慮して、普通のスペースに駐車するそうです。更には、片腕のない人や入れ墨も含めて、<見えない形でのinvisible な暗黙の差別も、未だ、解決されず>に、厳然として、残っていて、従って、私が提案した、丸椅子や脱衣棚に、優先マークなどを貼ろうものなら、逆に、一般の顧客が、<不当な逆差別だ!>と利用を差し控え兼ねないそうです。そんな気持ちの上で、健常者と身体障害者の間で、<微妙な乖離があること>に、改めて、気づかされました。

 パラリンピックのアスリートの活躍に、健常者も、勇気づけられましたが、まだまだ、現実の日常生活の中で、ハードは、整えられつつあっても、<内なる心というソフト面のハードル>は、高いようです。<福祉風呂>と言うものは、それなりに、一歩前進の<ハード面での改善>ではあるかもしれませんが、そのコンセプトである<内なる心のソフト面>:<差別のない多様性の共生・協働・尊重>を、健常者も身体障害者の双方が、どのように歩み寄れるのであろうかと、考えさせられました。

 そんな折りに、人工透析を認定されている多くの友人達の中で、長年、心臓病と糖尿病を患っていた後輩が、重篤化の末に、結局、脚の左右の指が壊死して、切断したと偶然、聞き及びました。又、親しかった友人は、同じく、透析中に、脳溢血で、転院を繰り返した上に、結局、コロナ禍と個人情報の壁で、連絡がつかなくなり、50年余りの連絡もプッツリつかなくなってしまいました。知り合いの中でも、大腸癌から、人工肛門装着や、心臓弁膜症手術やら、コロナ禍で、どうしているのかと思いますが、身体障害者手帳も、自動車マークも、正々堂々と、権利の行使を享受して貰いたいと思います。

 同じ事は、貧困という問題や、生活保護受給申請にも、言えるのかも知れませんが、、、、、本当に、必要な人ほど、自分からは、プライドや面子から、出来ないものかも知れません。周囲の人間、社会自体が、協力してあげる雰囲気が、必要で、どのようにしたら、そんな社会は、実現するのでしょうか? 傷痍軍人が、アコーディオンと松葉杖で、えび茶色の国電の暗い電車に乗車してきた時に、子どもの頃、感じた記憶が、脳裏に焼き付いていることを想い出します。自分が、今、身体障害者未満、歩行困難者の一員になって初めて感じたこの感覚は、改めて、肉体的な老いによる衰えと、内なる壁を感じさせられました。

 

#御牧の湯  #福祉風呂  #東御市  #小諸市 #福祉サービス  #身体障害者 #健常者

#身体障害者手帳   #日帰り温泉

 

<御牧の湯、他への提案概要:>

いつも共通温泉カードで、ほぼ毎日、快適に、利用させて戴き感謝申し上げております。

昨日、偶然に、松葉杖の若い身体障害者のお客様と脱衣所で、一緒になり、私も、脊柱管狭窄症でやや、足が不自由な上に、湯―ふる田中の風呂場で脚がもつれて、転倒したことがあるなど丸椅子に座りながら、雑談を致しました。 その時、下記のようなサービスがあったら、如何でしょうかと提案したら、是非、お互いに、身体が不自由な客の立場から、関係当局に、提案をして戴きたいというので、文書とメールする次第です。

 

提案する具体的なサービス内容:

 

  • 温泉脱衣場に、身障者マーク付きの専用の脱衣BOX・箱(真ん中の柱の隣に)利用指定する。
  • 身障者マーク付きの丸椅子を追加設置する。(PCでマークを印刷して、貼り付ける)
  • 温泉入り口のドア付近に、滑り防止用の4脚アルミ製の補助歩行器具を最低1脚は希望します
  • 仮に経営難で、予算的に難しいのであれば、私個人が、寄贈しても構いません。
  • 尚、身障者マーク付きの限定的な駐車場への、健常者による違反駐車への警告とモラルの低い客への指導を徹底することを望みます。余りにも、モラルが低くて、注意も憚られる。

 

以上、上記ご検討の上、メールにて、ご回答お願い致します。

 


米澤穂信著、「黒牢城」を読み較べる

2021年09月19日 | 書評・絵本

米澤穂信著、「黒牢城」を読み較べる:(7年前の遠藤周作著、「反逆」上・下巻と)

 

今から、もう50年くらいの前の元怒れる若者(イカレタ若者)は、司馬遼太郎の「播磨灘物語」から、黒田官兵衛という戦国武将のイメージを歴史小説の中から、膨らませてきたのが、始まりだろうか、コロナ禍の中で、NHK大河ドラマも、ご多分に漏れず、途切れ途切れのまるで、オムニバス映画のような形で、2020年の「麒麟が来る」も、光秀の生い立ちから、本能寺の変に至るまでの様々な人間関係、とりわけ、未だ、古文書には、発見されていない歴史的な史実とは異なる、所謂、風評も含めた、立証されていない事や、恐らく、そういう人間関係もあったことは、あり得べかりし可能性があるような人間関係も、含まれていて、確かに、2014年に放映された同じ大河ドラマの「黒田官兵衛」で、描かれていた人物像に、興味を抱き、先ず、7年前に、下記するような遠藤周作の「反逆」上・下巻を読んでみた事を想い出した。(もうそんなに時間が経過したことにも驚く)

更に、昨年、途切れ途切れに放映された上述の「麒麟が来る」も、伏線になっていることも、事実であろうが、何よりも、古文書を通じた実証主義的な見立ても確かに、正統的、教科書的ではあるものの、やはり、作家の独自の創造ととりわけ、ミステリー作家による推理というか、古文書の解釈をする上で、独特のユニークなミステリアスな解釈を著すことは、誠に、作家冥利に尽きるものがあろうかと思われる。とりわけ、1年もの長きに亘って、暗い湿った土牢の中で、一体、どんな会話、密談が、交わされたのか、それとも、されなかったのか、ということよりも、読者としては、やはり、そこには、何らかの古文書や史書には残されることがない、限りなく、フィクションには違いないが、事実ではないとは言い切れない何かが、描かれても構わないのではないだろうかと、その真偽の程は、ひとえに、その読者の判断と評価に、委ねられて然るべきではないだろうか?

社会に出た頃、上司が、「両親と上司は、自分には選ぶことが出来ないものだから、諦めるほかないね!」と言われたが、後年、自分が部下を持つ身になったときに、「自分よりも優れた部下が来たときには、どのように、育てるべきなのか?」、確かに、木村村重は、官兵衛を、或いは、光秀を、或いは、秀吉を、信長すらも、自らの器量とを較べるときに、言い知れぬ未来への不安と、自らの過去の成り上がりとしての歴史を振り返るとき、実際、(主君の追放・乗っ取りという)下克上で逆転してしまった主君と家来の関係の中に、常に、裏切られるのではないかという疑心暗鬼と、益々募ってくるその蓋然性を、自らが、否定しきれなくなったのではないだろうか?だからこそ、家来も、一族郎党・女子供も含めた部下を残して、毛利への直接的な援軍の直談判を行うことを最優先させて、実行したのであろうか?それとも、嫡男の嫁は、光秀の娘であり、実家に、離縁され戻されたとは言うものの、ミステリー作家の推理としては、本願寺や長島の一向一揆勢や、雑賀衆鉄砲隊や、佐久間信盛 ・松永久秀・筒井順慶、宇喜多の離反、或いは、高山右近などのキリシタン大名・南蛮寺宗派との水面下での連携・呼応が画策されても決して、おかしくない状況ではなかろうか?更に、読み進めると、(本のあらすじにも関係するので、詳しくは書けぬが、、、、兜首の実地検分の仕方も、興味深いものがあり、討ち取られた首の形相にも、様々な吉凶があるものであることを知る。又、死化粧を施す女房達の役割、検分に関する透明性と正当性の判定)、そこには、寸分の隙があれば、それが禍根となって、分裂や反目から、派閥対立や、内ゲバ、離反へと繋がり兼ねないというそういうリスク、どれ一つをとっても、リーダーたるものは、枕を高くして寝ることは許されないのであることが分かる。今のサラリーマンにも、組織・運動体、或いは、政党の争いにも、共通するものであるのかもしれない。

黒田官兵衛は、後年、関ヶ原の戦い後も、ひたすら、九州の地で、領土拡張をしっかりと隠居の身を蓑傘のようにカモフラージュとして、家康から、詰問された際にも、平然と堂々と自説で応えたり、竹中半兵衛は、信長の命令に背いて、官兵衛の嫡男の松寿丸(後の黒田長政、有岡城の土牢に幽閉されていた間の人質を匿って、命を救ったが)、後年、長政が家康と会談したときに、「おぬしの左手は、その時、何をしていたのか?」(何故、脇差しで刺殺しなかったのか?と示唆したと言われているが、、、、)そういう一介の秀吉の軍師、小寺官兵衛から、後に、独立創業する形になる黒田家へと勇躍する事実を示唆しているような時期の話である。村重の謀反から1年で落城、その3年後の1582年には、本能寺の変が起き、村重自身も、1586年に、52歳で、没している。

戦国武将の倣いに背いて、部下を捨て、妻子を捨て置いて、出奔したことからなのか、初めは、「道糞」(道端に転がっているくそったれの糞)という名前から、茶人として、秀吉の「御伽衆」への参画後には、「道薫」と改称した所以までは、明かされていないが、、、、、、。その改名理由も、興味深いところである。松永久秀の自害と共に、打ち壊されたと言われている、茶器の平蜘蛛に対して、村重は、一方、高麗茶器を、光秀への支援・和睦のための道具として、有効活用しようとしたことは、後の茶人としての意地を感じられないこともないが、、、、、。その対照的な選択の違いは、一体、どこから来るのであろうか?

 昔、若い頃、ある友人が、物事から、徹底的に、逃げることを繰り返して、結局、逃げ切れたら、そのことは、結局、大したことは無いのだと思うことにすると言っていたが、借金でも難でも逃げ切れるのならば、それも良いかも知れないが、松陰ではないが、今、死すべき時と判断したら、直ちに死すべきだが、そうすべきでないと思えば、逃げることを厭わないことであると、まるで、逃げの小五郎と久坂玄瑞の生き方と死に方を示唆したような、或いは、榎本武揚と土方歳三との対比をも思い起こさせるものがある。しかしながら、籠城や、或いは、ガダルカナルや沖縄の洞窟で、火炎放射器の攻撃を受けざるを得ないときには、自分は、どんな選択を行うであろうか?莫大な債務を背負ったときに、1円でも、毎月支払いますと言った途端に、自分も、家族も、一族郎党共に、磔になることは、ないだろう。それにしても、碓氷峠の横川の駅の河原には、磔川原という名前がついていて、夜通過する度に、ハンドルを握りながら、往時を偲ぶと、心寒いものがあったことを想い出す。

 

 

 

(7年程前の)2014.07.01 ブログより

 

=遠藤周作著、「反逆」上・下巻を読む:

大河ドラマに出演している田中哲司(後に、仲間由紀恵の旦那になるが、その時は、私にとっては、未だ名も知らぬ存在であった)という俳優が、荒木村重役をなかなか、うまく演じていたので、改めて、荒木村重を考察する過程でこの作品を知ったので、読むことにした。戦国大名というものは、全く、主君を選ぶことも命懸けであること、又、その一族郎党ともども、ひとつ間違えば、謂われのない、或いは理不尽な理由で、磔にもなってしまう。まるで、今日のサラリーマンの人事抗争さながら、もっとも、自己破産しようが、今日では、少なくとも、磔にはならずに済むから、まだましなことであろうか?
小説というものは、ある種、作られたものであるとはいえ、当時の勝者の歴史、敗者の歴史をどれ程、反映しているかは、著者の歴史観にも関わって、おおいに、異なるところである。又、歴史上の古文書やら、後世に作成された伝聞書も、想像力と読み方次第では、不名誉な部分は、余り触れられず、おおいに面目を施した部分のみが、今日、歴史学上は、語られることが、おおいものである。それらの歴史学上の課題を見据えても、尚、今日的にも、なかなか、このタイトルの有する「反逆」なる言葉は、歴史上の人間関係の相関図を改めて、眺めても、面白いものがある。

物語は、天正6年(1578年)の荒木村重の叛乱に始まり、本能寺の変(1582年)、山崎の戦いを経て、天正11年(1583年)までを大筋として、北の庄で、柴田勝家が秀吉により滅ぼされるところまでを、様々な人間関係の中で、その各人の心理状態を解きながら進められる。とりわけ、主君、織田信長を中心として、明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀・柴田勝家・佐久間信盛・松永久秀・滝川一益・細川藤高・徳川家康・荒木村重・中川清秀・高山右近・足利義昭・朝廷、そして、武田信玄・上杉謙信・一向宗徒・顕如・毛利輝元・長曾我部元親・安国寺恵瓊・千利休ら茶人人脈・紀州雑賀衆、等、これらのきら星の如く居並ぶ人物達の中を、その友人関係・縁故関係・政治関係を、細かく、心理描写することで、何故、「反逆」を起こさざるを得なかったのかを小説風に書くものである。
 荒木村重は、何故に、叛乱を起こしたのであろうか?何故に、一族を見殺しにして、自らを、(まるで、道端に転がる犬の糞のような存在であると揶揄し)「道糞」と称して、茶の湯の世界に、埋没し、再三の秀吉からの取りなしを拒否し、息子、村次に、譲り、後に、秀吉のお伽衆として、利休の弟子7人衆の1人としてはやされるようになって「道薫」と、称して、茶の湯の世界、一方で言えば、非政治的な世界という対局であるものの、逆説的には、実は、光と影のような同じ世界で生き抜いていたのであったかも知れない。密室で、二人きりで、茶を立て、密談を凝らすと言うこともまた、当時は、生臭い政治闘争の裏舞台では、当たり前のことだったのであろう。それにしても、崇高な、自分には成し遂げられないようなカリスマ性を有する主人へのコンプレックス、嫉妬、強い執着心、おののきとおびえ・恐れ・不安、そして、未来に対する確信の代わりに芽生える捨て去られるであろうひとつの単なる道具への恐怖、やれどもやれども、報われぬ感情と成功報酬への不安、何よりにも勝るところの政治戦略的な合理性、血も涙も許さない合理的な冷徹さ、闘いの果てにみた人間の心の弱み、悲哀、寂寞感、無常観、それは、この時代を生き抜いた家臣団には、古参であれ、外様であれ、多かれ少なかれ、似たような心理的な葛藤と苦渋が、見られたはずである。それは、息子、元康を切腹に処さねばならなかった家康にも、北陸の陣中で、勝家と口論の挙げ句、戦陣から許可無く帰還した秀吉も、叔母を殺された光秀も、松永久秀も、誰もが、一様に、程度の差こそあれ、同じような複雑な感情、理不尽な感情を有して、仕えながら、結局、或る者は、謀反という形で、反逆へと収斂していったわけである。
 遠藤周作は、同じキリスト者として、荒木村重との関係の中で、敢えて、片山右近を、その友人関係の中で、詳しく、その心理描写で取り上げている。このキリシタン大名として名高い人物は、心理的な葛藤の中で、如何にして、自分の行為を正当化してゆけたのであろうか?それとも、それが、秀吉によるキリシタン禁教以降、やはり、武士の身分を最終的に棄てて、最後には、国も棄てることで、自己完結したのであろうか?キリスト教による異教徒との闘いへの疑問、この場合には、本願寺一向宗門との闘いであるが、これ即ち、信長側に味方することになったわけであるが、、、、、、、、。その意味からしても、村重同様に、秀吉からも、誘いの手がその後まで、及び、結局、武士を棄てることを決断させたのは、ある種、村重の生き方にも共通するところがあろう。当時、一体、どれ程の武士が、身分を棄て、茶人や商人になったのであろうか?恐らく、主君を理不尽に失い、一所懸命に、守ってきた先祖伝来の土地を失い、やむなく、土地を離れたり、身分を変えた人々は、歴史書の中には、決して、表には、出てくることはなかろう。村重と関係で、妻のだし、さと、(村次に明智より嫁ぎ)、その明智の娘、たま(後の細川ガルシャ)など、当時は、親戚・一族、様々な形で、養子・縁組み・血縁関係による同盟関係が、当たり前だったことを考えると、何とも、歴史の選択、情勢判断、決断の行く末とは、恐ろしいものである。
それにしても、多かれ少なかれ、当時は、誰もが、ある種、少なからず、主君には、知られずに、ひたすら、忠義を尽くす一方で、心底、己が取って代わるという野望(下克上の正当性)を抱いていたのかも知れない。この物語の中で、主亡き後の時代に際して、実に、秀吉と言う男は、変わり身の早い行動をひたすら、主君家を立てながらも、役に立てられるものは、すべて、理にかなうのであれば、友人関係、ありとあらゆる関係を駆使して、(人垂らしの本領で)調略してゆく、この人垂らしの才能は、やはり、槍一本で名をなした武硬派の行く末と比較しても、余すところなく、示唆している。(後の柴田勝家・佐久間信盛・加藤清正・福島正則等)、とりわけ、後に、加賀100万石となる前田利家などは、勝家との関係性の中で、必ずしも、賤ヶ岳の戦いで、非難されども、その後の歴史の中では、うまく、秀吉・家康の世の流れの中を無事、乗り切り、北陸に、今日、金沢・加賀100万石という国を建てられたのも、単なる「処世術」とは言い切れぬ何ものかがあるのかも知れない。賤ヶ岳の戦いの中で、討ち死にした中川清秀にしても、生き延びていたら、ひょっとしたら、村重・清秀・秀吉・光秀、等と一緒に、時代の頂点に立てた可能性もあったかも知れないと想像すると、なかなか、歴史というものは、面白い。家康は、そんな秀吉の才能と天運を誰よりも、横目で、学習していたのかも知れない。
 この時代は、後の江戸時代のような道義的な忠節はなかったのかも知れない。換言すれば、主君が、凡庸と思えば、別の主君に平気で仕え、主君も、主君で、役に立たないと思えば、部下を見限る「飴と鞭」の統治手法だったのかも知れないのである。そして、その中の最たる者が、信長だったのかも知れない。村重や光秀にしても、主君との関係は、征服者と外様家臣の関係ではなく、憎しみと恐れ、コンプレックスと嫉妬複雑な感情を抱かせる、そんな複雑な重層的な関係だったのかもしれない。そうした中でも、せめぎ合いの狭間に当たった地域の地侍、在郷の豪族達は、先祖伝来の土地と墓を守り抜く「一所懸命」と言う地侍の信念を有して、謂わば、「寄らば大樹」という地侍独特の考え方が主要で、武士道や士の忠節の考えは、ずっと、後の世の話である。
 秀吉の生き方というものは、誰よりも、率先して、主君、信長の良い道具になることこそ、何よりの奉公であると考えたのに対して、日本人特有の新参者を見下す古参家臣団による蔑視・嫉妬・悪口・辛酸に、ひたすら、当時は、耐えるという秀吉の性格は、インテリには、真似できないものがありそうである(今太閤と称された田中角栄を懐かしく想い出されるが、、、、、、)。生き抜く知恵が足りない、耐えることを知らない、又、人生を駆ける術を知らないと村重の謀反を聞いたときに、秀吉に作者が言わしめたものは、こういうことだったのであろう。人生での出来(しゅうたい)に失敗する人間、時の熟する迄を待たずに軽挙妄動してしまうそういう人間の性(さが)も、村重の中に描かれてしまう。
 光秀も又、朝廷・義昭陰謀説、怨恨説、老齢説、長宗我部元親陰謀説、等、現代でも、未だ、新しい資料が発見されても、実際の動機は、謎の又、謎であるが、少なくとも、秀吉とは異なり、教養が邪魔をしてしまったのか?歯の浮くような世辞が駄目で、お追従もできない。洒脱の振りも出来ない、猥談をすることで自分を売ったり、相手の自尊心を傷つけぬように細心の注意を払い、勘気を被ることを避けるようにした秀吉とは、何処かで、心理的な対応が、限界であったのかも知れない。カリスマの魔神力にとりつかれ、褒められれば、褒められるほどに、喜びが増すタイプ(そう振る舞っていたのかも知れないが、、、、)とは、別人格だったのかも知れない。神才信長・豪才勝家・奇才秀吉・秀才藤孝と、遠藤は、細川藤孝に言わしめる。
 人生というものは、とりわけ、生存権が権利として確立されている現代と、全く確立されていない当時の背景では、万事、一生、筋を通すということは出来ないのかも知れない。その意味で、物語の中で、村重を通じて、中川清秀や片山右近、松永久秀、そして、前田利家なども、その心の矛盾と葛藤の具体例として、茶道を通して、巧みに描こうとしている。右近の決断、とりわけ、天正6年の信長への恭順と屈服、そして、天正15年の最終決断の違い、棄教と遁世、そして、南坊という雅号を有する右近と利休のわび茶の共通意識という挿話、そして、秀吉とのよしみと親爺様と呼ぶ勝家との対立から、利家の困惑と躊躇、壮年という自分の年齢への焦り、家門と所領と家臣達の処遇との相克と決断、前田家の歴史書には、そんな葛藤、大勢に逆らうことは自殺行為、流石に、裏切りとは書いていないのは、もっともである。
 人間の有する心の弱さ、逃げの心、反逆は、怨念・野望にかられたモノではなく、人間の心がひとつではないこと、嫉み、屈辱、猜疑、怖れが複雑に絡み、絶望と希望の狭間で生じる葛藤、そんなものが、有るときに、窮鼠猫を噛むのかも知れない。京での馬そろえでの神の宣言、他よりも異なる存在であることを示唆するような示威行進の実施、等、この物語の中では、信長以外の人物は、すべて弱虫である。本能寺の変、高松城の水攻め、中国大返し、山崎の戦い、そして、賤ヶ岳の戦い、へと、、、、。
天正14年(1586年)52歳で、村重は、病没する。
 我々は、今日も、(一所懸命)ではないが、一生懸命に家族のために働き、幸せを求めて、ある種の決断を下し、明日も又、生きて行かなければならない。黒田官兵衛というキリシタン軍師のことも、今日、播磨灘物語以外にも、どんな想いで、村重や右近や光秀を見ていたのであろうか、興味深いところである。


<言葉の軽い時代になったものだ!>:

2021年05月11日 | 社会戯評

<言葉の軽い時代になったものだ!>:

 

加齢と共に、眼や指先の衰えがすすみ、大丈夫だと思い込んでいた腎臓機能も油断していたら、一向に数値が改善されず、結局、ドクターから、最後通牒を突きつけられ、やむなく、本格的な管理栄養士の監視下での食餌運動療法と血圧・体重のデータ提出による月一の通院となり、既に、二ヶ月目に突入となりました。めっきり、読書量は激減し、ブログの更新も、遅れ気味で、様々な世間の出来事にも、コメントをしたくても、なかなか、その気になれず、ズルズルと今日に新年が明けても、至ってしまいました。

  50年前の怒れる若者(イカレタ馬鹿者)であった私は、当時、大江健三郎や三島由起夫や、吉本隆明や、高橋和巳などから、イヤと言うほど、毎日、<その言葉の重み>と<行動との関係性>を、考えさせられる日々を過ごしてきたモノです。尤も、そんな彼等も、今や、大江のみが、存命中で、皆、鬼籍に入ってしまいました。

  それにしても、森元首相や、麻生某の呆れた物言いには、口が塞がることがありませんし、コメントのしようがありません。実際、戦後生まれの男女同権意識を子どもの頃に、すり込まれた戦後民主主義の申し子であり、教え子チルドレン世代の我々には、何とも、奇妙に思えてなりません。ビジネスの世界でも、言葉に出してはならないことを出せば、どうなるかは、分かっていても、本音が、内々の会議の中で、ポロッと出てしまうモノなのでしょうか? アメリカ人なども、Lady Firstなども、本音のところでは、実際どうなのかは分かりませんが、況んや、人前で、ダーリン、愛しているよとしょっちゅう言うのも、実は、離婚訴訟の時に、不利にならないように、普段から、自己防衛のために発言しておくのだよと、極めて、本音に近いジョークとも取れるような旦那だけの酒の席でアメリカ人の模範的な旦那様から、聴いてことがあります。

それでも、場と相手と、TPOをわきまえて、常に、発言することを求められ、訓練されてきた者達は、皇室や貴族ではないが、言葉に対して、一種の制御を課しているのかも知れない。

  振り返ってみれば、50年も前には、三島由起夫に、<最後の最後まで>というのは、結局、<最期の最期まで命を賭して>ではなくて、その言葉をただ単に、スローガンのみに使うだけで、結局、君達の行動は、<言葉の遊び>で、勇ましいことを言っていても、<言葉と行動が伴っていないではないか>と、鋭く、喝破されたことを思い起こす。それでも、吉田松陰の言葉を想い出して、<いつでも、この時が死するときであると思い立ったら死ねば良いが、今はその時ではないとすれば、逃げても一向に構わない>とも、だから、その後も、何故かしらぬが、半世紀もの間、生き恥さらしながら、言葉を選びながら、延びてきてしまったのかも知れない。

  官僚というものは、主人の意向を忖度して、行動するモノであれば、主人とは、国民であって、人事権を握っている内閣府ではないはずで、よくもまぁ、ロッキードの頃の小佐野の、記憶に御座いませんとか、<言葉遊び>に、終始できたモノある。又、総務省の接待問題でも、昔の大蔵官僚によるノーパンシャブの接待事件をすっかり忘れて、公務員倫理規程を空文化する行動も、全く、理解に苦しむものである。戦後70余年もすれば、戦争の教訓も、忘れっぽくなって来るモノだろうか?


女芸人、吉住:異種格闘技のお笑い

2021年01月14日 | 映画・テレビ批評

=女芸人、吉住:異種格闘技のお笑い

 

R1とか、M1とか、お笑い芸人達は、人生を懸けた過酷な戦いを、今年も展開する訳だが、考えてみれば、国際バレーコンクールや、何やらかがしの著名な国際的なピアノコンクールのように、そこで、入賞したり、優勝したりすることで、プリマになれたり、いきなりコンサートに箔がついて、それで、これからの生活が保障されて、スプリング・ボードになれるというものとは、異なり、お笑い芸人のそれは、何とも、不安定そのものである。尤も、その賞金で、これまでの下隅生活での借金を返済したり、アルバイトを辞めて、ある程度保障された演芸場や寄席やテレビのバラエティー番組のひな壇へと並ぶことを許される、きっかけを手に入れることになるのかもしれないが、決して、お偉いさん達のエスタブリシュメントから、勲位を授けられるものでないことは確かである。その意味では、優勝したからと言っても、否、逆に、準優勝や、優勝できなくても、敗者復活戦で最終決戦に生き残りを懸けて、戦いに挑んだものの、惜しくも撃沈した者の方が、逆に、視聴者からの応援や評価が、著名な大御所と評される審査員達よりも、ずっと高くて、結果として、その舞台で優勝をしなかったことの方が、その後の飛躍のきっかけになると言うことも、決して、過言ではなさそうであるのが、このお笑いという世界の一種の面白い掟でもあるのかもしれない。又、お笑いのカテゴリーというものも、昨今は、多様化してきて、典型的な上方の漫才や、3人構成でのコントや、一人話芸とか、これまでの古典的なやり方や、話芸という範疇だけでは、語り尽くせない、ある種のルールを超えた<一種の異種格闘技>のような様相を呈し始めているような気がしてならない。更に言えば、そのお笑いのジャンルが、異なることからくる、ある種の感動のようなものが、或いは、大受けした後の観客の反応のどよめきのような、津波のような波動が、果たして、コロナ禍での無観客試合という、観客による笑いの渦が生じる予知のない状況下で、まるで、一切のお笑いの応援がない中で、果たして、どれほどの+アルファを引き起こしうるのであろうか?更に言えば、くじ引きでの出演する順番でも、確かに、反応は異なり、無観客とは言え、その場の雰囲気が、妙に荒れた後から、出てきて、演じるのと、その場が、ある種の静謐な感じのなかで、やるのとでは、確かに、その場の雰囲気が大きく異なり、そうした条件も、本来、点数には、加味されなければ、<公平ではないのではないか>とも、感じられる。そんな採点方式は、人間では無理であり、AIでなければ、公平には評価は出来ないであろう。だからこそ、そういう<不平等な、或いは、予想もつかぬような、不測の事態>を織り込んだ、謂わば、<不平等も運のうち>という条件を、幸運にも、味方につけた者のみが、優勝や、準優勝、或いは、優勝できなくても、大きな爪痕を残して、その後の飛躍へと繋がるチャンスを掴むのかも知れない。

  翻って考えてみれば、古典的な、或いは、典型的な上方漫才の<話芸中心のカテゴリー>は、既に、ある程度の戦前での予想の中では、前評判が高くて、逆に、それは、必ずしも、プラス要因になるものでは、決してなかろう。謂わば、覇者の王道を極めるような当たり前のやり方なのかも知れない。それは決して、必ずしも、優勝や栄冠を得るという手法ではなかったのかも知れない。それは、<一種のビジネス・モデルのようなもの>で、これまでの延長線上での<話芸中心か、話芸本位での上方スタンダード>だったのかもしれない。それは、微妙に、大御所審査員の出身構成からも見て取れない訳でもない。その意味で、闘う前から、事前の評価は高くても、必ずしも、<視聴者や時代が求めるような斬新な、且つ、新しい殻を破るような、新しきを渇望するニーズ>には、合致しなかったのかも知れない。

  ユリアンによる明らかな一種の挑戦的というよりも、挑発的・意図的な斬新な試みにより、大きく、その場の雰囲気が、まるで、時空の壁が破壊された如き大きな波動が治まらないなかで、ほぼ、無名に近い、但し、YouTubeや人力舎の地道な手作りライブでコツコツと一部のマニアックなファンを獲得していた<吉住>が、見事に、<一人芝居コント>で、<女審判>を通じて、独自の世界観を表現したことは、おおいに、評価されて然るべきであろう。一歩間違えれば、大津波の爪痕が残るその場の雰囲気に、呑み込まれてもおかしくないところを、奇抜な設定と、ストリー性でまとめ上げたうえに、一人芝居という演技力で、お笑いとある種のペーソスとを織り交ぜて、観客の共感を得たことは、明らかに、<自分の陣地で独自の世界観>を演出し、<自身のグラウンドで異種格闘技に持ち込んだ>勝利ではないだろうか?

  映画監督が、脚本家とともに、或いは、著名な、或いは無名な俳優を使って、その世界観を映画という作品の中で、表現するのと同じように、一人芝居コントで、脚本・演出・監督・俳優という何役も、自らこなし、更には、他のお笑い芸人にまで、作品を提供することは、もはや、一人の女芸人の域を超えているとも思われる。何も、これからの時代は、テレビのバラエティー番組や寄席や演芸場で売れることが、必ずしも、主流では無くして、YouTubeやコロナ禍での主流になるかも知れないオンライン・ライブとか、動画配信サービス、更には、TVerやNHK+のようなリアルタイムの放映を気にすることなく、後でゆっくり時間を無駄にせず、自分の空き時間に愉しめるツールが、主流になってくるのかも知れないし、又、その裏はなしを改めて、ネット動画で、ネタばらし同然に、愉しむ時代に突入してゆくことになるのかもしれない。そういう事前・事後の楽しみが期待できそうである。優勝者の吉住のみならず、惜しくも優勝できなかったお笑い芸人達も、今後、何かのきっかけ、大ブレイクし、何十年か先には大御所として、審査員になっていることを愉しみにしたいものである。既に、戦いの前から、優勝賞金を狙っていた先輩芸人もいたらしい裏話も、YouTubeに、明らかにされているので、そちらも視聴してみて下さい。参加者の今後の活躍に期待したいモノである。


<使わないと損をしますよ!>という考え方:

2020年09月25日 | 社会戯評

<使わないと損をしますよ!>という考え方:

 

コロナ禍の中で、最近、気になる傾向として、Gotoキャンペーンなどでみられるところの<ある種のインセンティブ>を、<使わないと損をしますよ>式の、<余計なお世話だよ>ともおもえるような一種の心理的な圧力が、少々、気になりますね。 観光業や飲食業への支援促進という目的は分からなくもないが、だからといって、コロナの感染リスクの拡大にも、繋がりかねない、人の弱みにつけ込んだような、<使わないあなたは、損をしていますよ!>式的な甘い誘い声は、どうしたものであろうか?マイナポイントの+5千円相当のインセンティブや、更なる+7千円相当のキャッシュレス・ポイントの付与とか、別に、使わなければ使わないで、損をするわけではないのに、要するに、<利用すれば確実に+αのメリットがあります>ということであれば、やはり、心貧しい卑しい自分などは、<活用しない手はないか!>とばかりに、すぐさま、ITデジタル化の波に乗って、登録参加してみるかと、お誘いに、乗ってしまいますが、、、、、。その心は、果たして、正しいものなのでしょうか?

何でもかんでも、そんなに、実利主義で、毎日を、セコく、生きてゆかなければ、或いは、情報をネットで収集して、時流に乗って、<使わないと損をするするのではないか?>というある種の強迫観念に陥りつつ、生活しなければ生きてはゆけないのでしょうか?何でもかんでも、損得計算を日常生活の一瞬一瞬にそれ程、影響しているのでしょうか?自分は、若いときから、否応なしに、デジタル化の波に乗ることで、生業としての仕事もそうせざるを得なかった訳ですが、税制改正で、青色申告の特別控除額や基礎控除額の見直しが、電子申請や電子データ書類の保存と関連つけられて、明らかに、損得勘定の延長線上で、選択を迫られてくると、成る程、話は別ですが、<つかわないと損をしますよ!>という悪魔のようなささやきは、本当にそうなのでしょうか?それは、確かに、使う側も得をし、更には、そのサービスを受ける側も、又、恩恵を被る、そういう相互に、Win-Winの関係でもあるのでしょうか?使って初めて、徳を得るわけであって、使わなければ、使わないで、<損をする訳では決してないのに>、<使わないと損をする錯覚>に陥るのではなかろうか?微妙な強迫観念と、心卑しい根性のわたしのような人間は、そんなトラップに、引っかかってしまうことになるのではないでしょうか?何とも複雑な気分に陥ります。心の持ちようは、どのように保てば宜しいのでありましょうか?昔、<清貧の心を以て暮らす>という時代がありましたが、どこへ行ってしまったのでしょうか?


三浦春馬の自死と嘱託殺人に思う

2020年07月26日 | 社会戯評

=三浦春馬の自死と嘱託殺人に思う:

 別に、この歳にでもなれば、イケメン俳優の追っかけでも、芸能週刊誌キャンダル好きでもあるまいし、ただ、何かの折りに、NHKの番組だったか定かでないが、ミュージカルの舞台に挑戦する若手舞台俳優を、その役作りの裏側を特集するような形で、取り上げていたのをたまたま、観ただけのことである。多少は、ミュージカル俳優であるくらいは、知ってはいたものの、子役時代から地道に着実に、様々な映画や舞台も含めて、キャリアを積みながら、着実に成功の会談を上りつつあるという時期での事である。従って、その舞台の役作りとして、女装をして、しかも、実生活の中で、舞台と同じ10cmもある高さの女性用ハイヒールを履きながら、生活し、どういう気持ちであるかを実感するために、彼は、そういう眼に見えない訓練を積んでいたそうである。又、音楽・ミュージカルだから、ギターや歌唱能力の向上も、仕事とは言え、基礎から学んでいたそうで、その延長線上での海外での活躍を目指す上での英会話も見事にこなしていたと言われている。

 そんな成功を掴みつつある前途洋々とするイケメンで、様々な才能に恵まれた、他人から観れば、順風満帆に観られていた30歳になる若者が、18歳くらいのティーンネージャーとは違って分別ある三十路の若者が、何故、自死を選ばなければならなかったのか?子役時代からマネージメントしてきた事務所の側も、晴天の霹靂だったと、コメントを発しているくらいの衝撃である。 昔、ある人から、<自分よりも歳が若い部下で、実際に、自分よりも優れた才能を有すると者とであったときに、どのように育てるのか、或いは、独立をしたいと言われたときに、経営者としては、どうするのかを、いつも、考えていなければいけない>と言われたことを、何故か、ふと、想い出す。

 だんだんと、歳を重ねてくると、自分よりも若い人達で、才能のある、前途有望な若者が、謂われもない理由で自死を選ぶという事実をみることは、誠に・、心折れる思いがする。我が子をネグレクトしたり、育児放棄したり、児童虐待したりではなくて、多彩な才能に恵まれて、成功と名声を手にしつつある、恵まれた境遇にもかかわらず、(尤も、それはないのかも知れのかも知れないが、、、、、その理由は、永遠に、たとえ、遺書を読んでもわからないのかもしれないが、、、、、)、自死に至るプロセスは、何とも不可思議である。それ以上に、もっと売れない歌手や芸人や大部屋俳優や俳優志望の若者が世の中には、一杯いるのに、、、、、、、。何故?

 時代劇俳優になるための役作りのために、EXILEのあるメンバーは、舞台公演の時にも、木刀を持って歩き、極力、笑わないように努力するとか、立ち居振る舞いも、ダンスとは異なる動きを日常生活の中で、自己規律をいていると言われているが、そういう姿勢は、まるで、宮本武蔵の究極を貫き目指す哲学のようで、日本人好みの、鏡とするような哲学なのだろうか?それにしても、その最後の瞬間に、踏みとどまらずに、突き進んでしまったその瞬間は、どこが、紙一重なのでしょうか?

一方、ALSに苦しむ患者からSNSで知り合った上に、おカネを受託した上で、薬物を投与して、嘱託殺人にとわれた医師が逮捕されたと報道されているが、安楽死以前のモラルの問題で、こちらも、ALSに苦しむ患者の気持ちは、どれほどの人間が、その患者に対する処遇への問題や、患者の立場をどれほど、ALS患者の尊厳を理解出来るのであろうか?私たちは、映画や文学や歴史を通じて、或いは、絵画や音楽を通じて、一定の想像力と疑似体験を通じて、理解は出来るものの、病気の苦しみや死への誘惑や身体が自分の意思通りに動かせないことへのもどかしさや悔しさは、当人でなければ、理解出来ないものなのあろうか?

7年前に、自分も、歩行能力への突然の違和感の自覚から、ALSを疑ってみたことがあるが、それも、せいぜいが、物理学者のホーキンス教授の病気程度の知識からで、結局、脊柱管狭窄症という診断結果で、令和しんせんぐみの参議院議員誕生をきっかけに、調べ直す程度のことだったかも知れない。それでも、ほったらかしに、何もしなければ車椅子は必至という診断結果から、三ヶ月に亘るウェイティング・リストの末に、5時間に亘る全身麻酔の高度医療を受けて、何とか、今日まで、7年後も日常生活と自立歩行を維持しているが、なかなか、患者本人にしか、分からないものがあるのは事実かも知れない。どんなに、想像力を駆使しても、そこにある壁を乗り越えることは、難しいのではないだろうか? もちろん、安楽死のガイドラインや尊厳死の権利という問題以前のことであり、全く論外のことであろうが、、、、。17歳にして、棋聖のタイトルを獲得した藤井聡太という若い天才は、今後長い人生をどのように生きてゆくのかも、とても、興味深いところである。若くして成功を手にした者は、天才ボクサーや若いアイドルと棋士とでは、比較にならないかも知れないが、どのような心境なのであろうか?

それにしても、歳を重ねるに従い、若い前途ある成功を手にしつつある若者が自死を最終的に選ばざるを得なかったことをみるのは、何とも、耐えがたいことであり、又、難病を患いながら、他人に、自らの命を絶つことを懇願しなければ、自分の尊厳を確保・守ることできないというこの社会の現実を、改めて、コロナ禍の下で、曝されると言うことは、誠に残念な事である。長雨に濡れて、花弁がその重さで頭を垂れてしまった擬宝珠の花に支柱を立ててあげることにしようかな、、、、。まだまだ、この雨は止みそうにないようである。晴れ間はいつみられるのであろうか?そして、いつ答えが見いだすことが出来るのであろうか?