昨年秋までに通算33勝を挙げて卒業した大場翔太投手も、松沼雅之投手の39勝には及ばなかった。東都のリーグ記録は芝池(専大)の41勝なので、松沼雅之投手の記録は東洋大学の通算最多勝記録ということになる。
その松沼投手が初勝利を挙げた時の朝日新聞には
“東洋、完封で亜大下す―新人松沼が投打に活躍”
の見出しとともにこんな記事が。
兄・博久投手は二年春の昭和四十七年春の中大二回戦が初登板でこの時は負け投手になっている。つづく亜大一回戦は先発で勝ち負けは付かず(試合は東洋の負け)、翌日の二回戦に連投で先発、完投で初勝利を飾っている。兄弟とも大学初勝利は亜大戦だった訳だ。
ともに亜大に相性の良かった二人なのだが、特に弟・雅之投手は四年間で亜大戦に16試合登板し13勝1敗の好成績を残している。通算成績は39勝26敗(兄・博久投手は22勝15敗)である。この間、亜大の成績が入替戦を二度経験するなどやや低迷期であったとはいえ、やはり“亜大キラー”と称してよいだろう。
そして、上記記事から二十七年後の平成十四年、毎日新聞に次のような記事が載った。
その松沼投手が初勝利を挙げた時の朝日新聞には
“東洋、完封で亜大下す―新人松沼が投打に活躍”
の見出しとともにこんな記事が。
兄弟で亜大キラー 松沼投手
亜大はここ数シーズン、東洋大に相性が悪い。とくに下手投げの松沼博久投手(東京ガス)がニガ手だった。四十七年春から昨年秋まで、一勝五敗とさんざんだった。
松沼は今春卒業した。亜大にすれば「ヤレヤレ」の心境だったろう。ところが、試合前にメンバーを交換すると、東洋大の投手は「松沼」。「オヤッ」と矢野監督。この松沼投手は博久投手の実弟、雅之投手で、今春入学したばかり。それでも亜大の矢野監督にすれば「兄貴に苦しめられたが、弟は別」という気持ちがあったようだ。
一方、東洋大・佐藤監督のハラは「投手陣が四苦八苦なので、やむなく新人を使うのだが、兄貴が亜大に強かったので、もしや弟も・・・」と期待して、マウンドへ送った。
結果は松沼の独り舞台。投げては完封、打っては3打数3安打、打点1の大活躍となった。兄に比べて三センチ背が高く、投法も上手と違っていても「ぜひに」と手に入れた背番号は兄と同じ「28」。顔つきもよく似ている。これでは亜大の選手の目に、博久と雅之の二人が、二重写しになっていたかもしれない。
(朝日新聞昭和五十年四月十七日朝刊)
兄・博久投手は二年春の昭和四十七年春の中大二回戦が初登板でこの時は負け投手になっている。つづく亜大一回戦は先発で勝ち負けは付かず(試合は東洋の負け)、翌日の二回戦に連投で先発、完投で初勝利を飾っている。兄弟とも大学初勝利は亜大戦だった訳だ。
ともに亜大に相性の良かった二人なのだが、特に弟・雅之投手は四年間で亜大戦に16試合登板し13勝1敗の好成績を残している。通算成績は39勝26敗(兄・博久投手は22勝15敗)である。この間、亜大の成績が入替戦を二度経験するなどやや低迷期であったとはいえ、やはり“亜大キラー”と称してよいだろう。
そして、上記記事から二十七年後の平成十四年、毎日新聞に次のような記事が載った。
博久投手の長男・松沼達也投手の初勝利も亜大戦だった。故障もあって通算2勝しか挙げられなかった達也投手の勝ち星も実は二つとも亜大戦からのものだったのである。
東洋大030002102 8
亜 大000003011 5
勝:松沼(1勝)
敗:永川(2勝1敗)
うれしい初勝利○・・初勝利を挙げた東洋大の松沼投手(2年・川越商)は「少しはっ通用するかなと。素直にうれしいです」と喜びをかみしめた。・・中略・・「父の初勝利も2年春と聞いています。これを弾みに、しっかり走って体を作りたい」と秋への抱負を語った。
(毎日新聞平成十四年五月二十九日朝刊)
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