このところチベット問題への関心が高まる中で、日本とチベットの関係に触れる記事をいくつかのサイトで目にした。中でも、長野での聖火リレーなどでお馴染みになったチベット国旗「雪山獅子旗」をデザインしたのが青木文教であることに触れている記事も多いようなのだが、哲学館(東洋大学の前身)出身の二人の入蔵者についての記事は余り見られないのでごく簡単に記しておきたいと思う。(青木文教も多少関わってくる。)
一人はチベットに入った最初の日本人、能海寛(のうみゆたか)である。能海は明治元年生まれ、島根県出身の真宗大谷派の僧侶で明治二十二年に上京し慶応義塾に入塾するが、翌年一月に哲学館に移る。その頃には既にチベットへの関心高く、哲学館では本名よりも「チベット」で通っていたそうだ。
また、哲学館ではオックスフォードに留学してサンスクリット語などを学んできた南條文雄が明治二十三年から二十六年まで「博言学(言語学と文献学)」の講義を行っていた。イギリスのインド研究者はすでに、チベットに残されているサンスクリット語仏典に目を向けており入蔵熱も高まっていた。能海寛も南條の講義を受けていよいよチベットへの想いは高まったようである。
明治二十六年に哲学館を終えた能海はその年の十一月に唯一の著作『世界に於ける仏教徒』を著わし、そのなかで「 西蔵国探険ノ必要 」と言う項を設けて、日本人によるチベット探検の必要性を説いている。
能海は哲学館を卒業後いったん帰っていた郷里島根から明治二十九年にふたたび上京し、南條文雄の自宅に住み込みサンスクリット語と中国語を学んでいる。
そして明治三十二年に中国(当時清)の重慶から真宗の学僧寺本婉雅(えんが)とともに東チベットのパタンと言うところまで着く。しかし、当時鎖国下にあったチベットでそこから先へは進めずタルツェンドと言うところまで引き返す。その後単身で青海、雲南からチベットを目指し明治三十四年四月に大理から「不惜身命、今や極めて僅少なる金力を以て深く内地に入らんとす。」で始まる一文を南條宛に送り残し、以後消息を絶ってしまう。
もう一人の哲学館出身者は河口慧海(かわぐちえかい)である。慧海は大阪・堺の桶職人の長男で父親は後を継がせるため十二歳の時に小学校を退学させるが、向学心の篤かった慧海は私塾で漢籍などを学び、明治二十年、哲学館開設を知って、翌年館外生(通信教育の元祖)となる。しかしそれでは物足りず両親を説得して上京、哲学館一期生に途中から仲間入りをするのである。当時、館内生の間では“○○博士”というあだ名をつけてお互いを呼び合うのがはやっており、慧海は“質問博士”と呼ばれるほど熱心に講師に質問をしていたそうである。三宅雄二郎(雪嶺)、井上円了、加藤弘之、清野勉等の講義が特に興味を持って聴講したようだ。また、慧海もやはり南條文雄の講義を受けていたと思われる。
慧海は能海等とは違いインド方面からの入蔵を目指し、明治三十年六月にダージリンに着く。そこでチベット語を学び、ネパールから入蔵し明治三十四年に日本人として初めてチベットの首都ラサに入る。
慧海は日本人であることは隠し中国人になり済ましてラサで寺院の学寮に入るが、病人を無料で治療してやるなどしているうちに日本人であることが露見して翌年五月にチベットを脱出、ダージリンに戻る。その後十二月六日に能海寛と哲学館で同期でカルカッタに留学していた大宮孝潤(こうにん)を訪ねるのだが、十四日には海外視察に出ていた学祖井上円了もやってきて仏蹟訪問などをともにしている。
その後いったん帰国するが、再度の入蔵を目指して明治三十七年十月日本を発ち、明治三十九年から大正三年まではインドのベナレスに滞在し、大正三年八月にラサの入った。この滞在の時、高楠順次郎(帝大教授、のちに東洋大学長も務める)から依頼された仏典をダライラマ十三世から賜るが、このとき、すでに入蔵していた青木文教も真宗本願寺派法主大谷光瑞からの命で仏典をダライラマに依頼しており、翌年、慧海が持ち帰った仏典の帰趨をめぐって、のちに青木文教との間で諍いが起こる。(他に木箱も預かっていたことから“大正の玉手箱事件”と呼ばれる。)
慧海は二度目のチベット行から帰国後東洋大学でチベット語講座も開いている
能海、慧海らがチベットを目指したのは、貴重な仏典類が残されていたからだ。交通機関も通信手段も全く違う明治期に単身ヒマラヤを越え命がけで求めたその仏典類も、1949年の“人民解放軍”侵攻後、特に文化大革命の時期に多く灰燼に帰してしまったと聞く。未だ続くチベットの混乱を冥界の彼等如何に想う哉・・・。
本エントリー作成に当たって参考にした書籍
「西蔵遊記」青木文教(中公文庫)
「能海寛 チベットに消えた旅人」江本嘉伸(求龍堂)
「評伝河口慧海」奥山直司(中央公論新社)
「展望 河口慧海論」高山龍三(法蔵館)
河口慧海についてはこちらのサイトも
井上円了学術記念センター
冒険者 河口慧海
東北大学総合学術博物館-
河口慧海コレクション
明治期の著作をデジタル画像で閲覧できるサイト。
国立国会図書館近代デジタルライブラリー
参考①
カルカッタでの井上円了と慧海の再会の場面について二人は次のように書き残している。
「・・・河口慧海氏のことにつき当地にて大評判なれば委細左に申し述べ候。カルカッタには哲学館卒業生大宮孝潤氏梵語研究のため滞在致しおりにつき、拙者その寓居へ相尋ね候ところ図らずも河口氏に面会致し候。河口氏は矢張哲学館出身にて大宮氏と同窓なれば、同氏カルカッタ着の上大宮氏の方に同居いたし居り候。…中略…西蔵の風俗、一婦多夫等の慣習については大に面白き話あれども書面にては尽くし難く候、昨日ダージリンより行くこと六哩タイガーヒルに登り、ヒマラヤ最高峰(二万九千尺)を望むこと壮観を極め申し候。
昨夕は康有爲君の寓居を訪ないこれに一泊し、今日カルカッタに帰り、明日仏蹟ブダガヤに至る都合に御座候。
ヒマラヤ高峯を望みて
ヒマラヤが富士山なぞと笑ひけり
同 上
ヒマラヤの景色如何と人問はば
天上天下唯我独尊
インド所感
来て見れば恒河の水は濁りてぞ
きよき仏の月はやどらず
右も御笑草にご覧に入れ申し候。
明治三十五年十二月二十二日
インドダージリンにて 井上圓了」
(『展望 河口慧海論』高山龍三(法蔵館)所収の
『読売新聞』明治三十六年一月二十三日掲載「二、西蔵探検河口慧海」より孫引き。)
同窓の友を訪て旧師に会す
大宮さんは天台宗の方でナカナカ洒落な人です。十二月十四日の日暮れに、私は一寸外に出ておりますと、井上円了博士が、大宮さんの処に着かれたです。ところが私がそこに居合わせしたものですから、殊に先生には教えを哲学館で受け、師弟の関係もあるものですから、非常に喜んでくれたです。まず私は先生を導いてダージリンへまいり、その翌朝三時頃、先生を起こして虎ヶ岡へ案内いたし、世界第一の高山を御覧に入れた。その時分は、一番ヒマラヤを見るのに好時機ではあるけれども、それでも大抵九時か十時頃からは、雲が出て見えなくなるのが通例ですから、先生を早く起こして案内したので、井上先生をして「只管唯我独尊山」というて、エウェ゛レストに三嘆せしめたです。二三日に先生と共にまたカルカッタに帰り、その日の夜、直ちに先生と共に立ってブッダガヤに参詣することになりました。(『チベット旅行記』河口慧海(旺文社文庫版))
参考②
哲学館開設時の講座科目と講師
科 目(正 科) | 講 師
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論理学:演繹法 | 坂倉銀之助
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論理学:帰納法 | 清野 勉
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心理学:理 論 | 松本源太郎
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心理学:応用並びに妖怪説明 | 徳永 満之(清沢 満之)
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社会学 | 辰巳小二郎
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倫理学:歴 史 | 棚橋 一郎
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倫理学:批 評 | 嘉納治五郎
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純正哲学:哲学史 | 三宅雄二郎(三宅 雪嶺)
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純正哲学:哲学論(唯物論・唯心論等) | 井上 円了
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教育学 | 国府寺新作
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科 目(副 科) | 講 師 |
儒 学:孔孟学 | 岡本 監輔
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儒 学:老荘学 | 内田 周平
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仏 学:仏教史 | 生田 得能(織田 得能)
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仏 学:仏教論 | 村上 専精
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国 学 | 松本 愛重
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英学初歩 | 柳 祐信
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英学初歩 | 礒江 潤
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論文校閲依頼 | 棚橋 一郎
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論文校閲依頼 | 日高 真実
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『近代日本の仏教者たち』田村 晃祐(NHKライブラリー)より
参考③
この旗をデザインしたといわれる青木文教は『西蔵遊記』(大正十年刊。引用は平成二年の中公文庫版)に次のように記している。
「その模様は下半部に富士山型の雪山を描き、唐獅子の図を配し、上半部即ち雪山の上には地色を黄色くして日本の軍旗を半分写し取ったような旭日を置き、その片隅に月を小さく銀色に描いてある。これらの日、月、唐獅子は西蔵の記号で、司令官と予が戯れに作ってみた紙片が図らず法王の目に止まり、当分仮にこれを軍旗に採用せられることになったのである。この新軍旗は時々風に翻る調子で日本の軍旗のように見えるので、さらに改定するはずであった。」
参考④
チベットがABCD包囲網下にある日本に羊毛を援助してくれた、と言う逸話も幾つかのサイトで目にしたが、これについてについて木村肥佐生の『チベット潜行十年』には、日本に帰国後に多田等観に聞いた話として
『多田先生がツァロン太公宛の手紙の中に、「支那事変が始まって以来、日本に羊毛の輸入が途絶えて困っている」と書き送ったところ、カルカッタからアメリカ向けに輸出していたチベットの羊毛を、彼は解約して、無償で横浜に積みおろさせたため、汽船一杯の羊毛の引き取り手を探して大変な思いをした』
とある。木村肥佐生は蒙古大使館調査課員で終戦直後に入蔵し、1949年の中国侵略直前までチベットに滞在していた。多田等観は青木文教と同じころ入蔵していた真宗僧侶。ツァロン太公は当時権力・財力ともチベット一と言われた実力者で、映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」の主人公ハインリッヒ・ハラーもツァロン邸内に寄寓していた。