猫面冠者Ⅱ

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東洋大学野球部の歴史-戦前⑩昭和六年

2008-05-11 09:39:00 | インポート
前稿、戦前編⑧を以って大正時代は終わり本稿から昭和へとはいってゆくのだが、東洋大学の試合結果が新聞紙上に見られるようになるのは昭和六年秋に始まる三大学リーグ戦からである。その間、野球に関連する事項としては、『東洋大学百年史』の年表に

大正十五年四月   応援団結成
昭和  四年十月九日 野球部、関西遠征出発(立命、大谷、龍谷等との対戦) 

とある。

他大学も含めた動向としては『運動年鑑』に、昭和四年日大・國學院大両校が東京六大学野球連盟に加盟する予備として、両大学が三校と対戦(春に國學院大が早・慶・東、日大は明・法・立と。秋にはその逆)を行った旨の記述があり、以下の様な結果が記されている。


春:慶 應 6x-0 國學院..... 明治留守軍 14x-0 日 大國學院10-4日 大
   國學院8x-7東 大 立 教7-5日 大
  早稲田6x‐1國學院 日 大7-3法政留守軍

秋:法 政7x-2國學院 慶 應11x-6日 大              
   立 教10x-3國學院 早稲田10-5日 大
            東 大5x-3日 大 

(秋の明治-國學院、日大ー國學院は中止。また、“留守軍”とあるのは主力が遠征中の為、今で言う二軍が対戦したものと思われる。)

『東都大学野球七十年史』所載の座談会、「東都大学野球70年を語る」で元スポーツニッポン新聞社・山崎武氏は
「日大と国学大は、いまの東京六大学に加盟したくて、要求状を出すんですね。それで、昭和3年か、4年に一緒にやりたいのなら「テストをしてあげる」ということになったんです。
それで、オープン戦をして、最初から、入れる気があったのかなかったのか、どうかわりませんが、結論としたダメになったわけです」。
と発言されている。氏の言われるように最初から入れる気はなかったのかもしれないが、スコアを見る限り六大学勢とはまだ実力にも開きがあったようである。
六大学加盟が叶わなかった二校と専大・中大・農大の三校が昭和六年春に五大学連盟を結成し、五月二日、田園調布球場で、日大-農大戦を皮切りにリーグ戦を開始する。これが今日の東都大学野球連盟の出発点である。

東洋大学はこれには加わらず、この年の秋、東京文理大(現筑波大)・拓殖大と三大学野球連盟を結成する。

-三大學野球聯盟-
東京文理大・東洋大・拓殖大の三大學は今般新たに三大學野球聯盟を設立し、永田東京市長始球式の下に左記のとおりリーグ戰を擧行することとなった。
十月十二日  文理-拓大(十時)  東洋-文理(二時)
   十五日  東洋-拓大(二時)
   十七日  文理-拓大(十時)
   十九日  文理-東洋(二時)
   二十一日東洋-拓大(二時)
以上、王子電車沿線北町球場。
(「朝日新聞昭和六年十月十日朝刊」)


10月12日
文理大12-2拓殖大

東洋大000 100 002  3
文理大000 100 32X  6

10月15日
東洋大401 111 132  14
拓殖大000 002 200  4

10月17日
文理大16-9拓殖大

10月20日
文理大11x-5東洋大
-文理大三大學野球に優勝す-
三大學野球リーグ戰、東洋大對文理大二回戰は二十日北町球場で擧行。文理大十一對五東洋大。かくて文理大は四戰四勝で優勝した。(「朝日新聞昭和六年十月二十一日朝刊」)

10月21日
拓殖大16-5東洋大
(コールドゲーム。何回かは不明)

10月22日
東洋大27-10拓殖大

(結果は当時の新聞と「運動年鑑」より)

 
     文理大東洋大拓殖大
文理大 ―  ○○○○4勝0敗
東洋大●● ― ○●○2勝3敗
拓殖大●●●○● ―1勝4敗
 
試合方式についての説明記事は見当たらないのだが、東洋-拓大は三試合を行っている。三試合目は順位決定戦として別枠で行われたのかもしれない。

 
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