先日番外編としてエントリーした番外編=“哲学館”とチベットで紹介した能海寛は、今回の四川大地震で報道されている成都に明治三十二年四月十一日に到着し、ここで当初共に入蔵を目指した寺本婉雅と合流し二十四日まで滞在した。そして、当時の街の模様を次の様に書き残している。
更に仏教寺院や喇嘛(チベット仏教)寺院の様子、また、キリスト教会をイギリスが六ヶ所、アメリカが五か所、フランスが一か所に建てていることなども伝えている。
この成都滞在は一回目の入蔵を企てた時で、ここを経って更に西の巴塘まで行ったが、そこから先へ進む許可を得られず引き返しており、成都にももう一度立ち寄っている。
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関連エントリー:番外編=“哲学館”とチベット
成都の見聞
・・・成都は四川大省の首府丈ありて、城壁に上り一望するに、四十八清里の城内、家屋充満し、城壁高さ廿五丈、幅四丈、場外の街衢碁盤の如く、町幅廣く、一見京都に似たり。人口七八十萬内外と推察せられ、四方舟車便あり。市街に日本人力車五六百臺あり。遙かに東方四五十清里を距てて一體の山脈聯瓦し南西北の三方は大平野にして武藏野も遠く及ばず、名古屋城の平地にあるが如き光景なり。重慶と成都の沿道は悉く耕作せられ、人心溫厚にして風俗良し。唯政治の機関全く腐敗し、仕官は金錢の授受に由る。されば美田は五分の三四まで變じて阿片畠と化せり。爲に米は騰貴し、遊民多く、乞食亦頗る多し。(『能海寛遺稿』)五月書房)
更に仏教寺院や喇嘛(チベット仏教)寺院の様子、また、キリスト教会をイギリスが六ヶ所、アメリカが五か所、フランスが一か所に建てていることなども伝えている。
この成都滞在は一回目の入蔵を企てた時で、ここを経って更に西の巴塘まで行ったが、そこから先へ進む許可を得られず引き返しており、成都にももう一度立ち寄っている。
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