猫面冠者Ⅱ

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甲子園、神宮、都市対抗のマウンドを踏んだ四番打者:石崎透選手=東洋大野球部の歴史―人物⑤

2008-05-09 00:31:00 | インポート
 


















九回裏、専大漆畑の遊ゴロを、あやつり人形のようなギコチなさで捕った東洋大の渡辺遊撃手が一塁へ高投した。一瞬ハッとさせる場面だったが、ジャンプした石崎一塁手がミットにおさめ、東洋大の優勝が決まった。(「毎日新聞昭和五十三年十月二十六日朝刊」)



上に掲げたのは昭和五十三年秋のリーグ戦で二回目の優勝を飾った時の新聞記事だが、ウイニングボールをミットにおさめた石崎一塁手入学した時は投手、秋田市立高(現秋田中央高)時代は甲子園にも出場している。当時の地区予選展望記事には次のように紹介されている。
秋田市立のエース石崎は、181センチの長身からの重い速球に威力があり、県内一の評判。堅実な守りのチームだが、長打力のある大高、石崎に期待をかける。(「朝日新聞昭和四十九年六月十六日朝刊」)


予選からエースで四番の石崎選手は、甲子園では一回戦で奈良の郡山高と対戦、石崎投手は九回まで零封するが打線も郡山の木下投手から八つの四球を選びながら一安打に抑えられ、延長の末敗退している。
昭和四十九年八月十一日:甲子園

郡   山000 000 000 4  4
秋田市立000 000 000 0  0

―足の激痛こらえ― 投げ切った木下と石崎
0-0の緊迫した試合が続く。地方大会でのチーム打率2割7分1厘の秋田市立が二年生の郡山・木下のコーナーをつく速球、カーブをよく選んでおびやかせば3割1分7厘の強打を誇る郡山打線は秋田市立の本格派・石崎に好打で襲いかかる。両投手はピンチになればなるほど冷静な投球で切り抜けた。
だが、木下、石崎とも、どこか、いつものピッチングと違っていた。剛球を得意とする石崎が変化球にたより、制球のの良い木下が四球を出して苦しんだのだ。そして二人とも回が深まるにつれてびっこを引きはじめた。石崎は右足を、木下は左足を―・・・。(「朝日新聞昭和四十九年八月十一日朝刊」)


相手の木下投手は試合前の練習で自打球を当て負傷していたが、石崎選手も予選が終わってから右足甲に原因不明の痛みが続いていたそうだ。痛み止めの注射を打って試合に臨んだものの徐々に効き目も薄れ、延長十回に力尽きてしまったようである。


翌年、東洋大に進んだ石崎選手は、一年春のリーグ戦で早くも勝ち星を挙げる。
昭和五十年五月十一日対国士舘三回戦

国士舘000 000 000  0
東洋大100 000 03X  4
    国:●矢野・松沢―松村
    東:○石崎・小林―達川

東洋大は、昨夏の甲子園出場の新人石崎(秋田市立)が先発。初登板にしては落ち着いており、スピードと制球力にも非凡なものを示した。六回まで内野安打を含むわずか2安打と国士舘大を封じる堂々たるピッチング。七回三本目のヒットを打たれたところで小林と代わった。今後の成長が楽しみである。(「朝日新聞昭和五十年五月十二日朝刊」)


このように期待された石崎選手だが、その後肩を痛め投手としての勝ち星はこの一勝だけで終わる。そして、昭和五十三年、四年の時に打者に転向、春の開幕カードでは五番ライトで登場した。この試合は二打席ノーヒットで途中交代。その後代打で登場が多かったが、徐々に調子をあげ最終成績は12試合39打数15安打5打点、打率.385リーグニ位の打撃成績だった。
そして、最後のシーズン、開幕戦では四番で登場したのである。(但し。このシーズンでは余り振わず打撃十傑にも入っていない。冒頭の優勝を決めた試合でも五番一塁で出場しているがバッティングの方は四打数無安打であった。)


卒業後は秋田相互銀行へ進み、昭和五十七年、同社の都市対抗初出場に貢献した。予選の結果を伝える毎日新聞には次のように書かれている。

―秋田相銀は初出場- 完投の石崎、打っては3ラン
○…創部18年、秋田相銀の夢を実らせたのはチームの大黒柱・石崎。連投の疲れもみせず力投したが、それにもまして大きな働きは3ランホーマー。ヨークベニマルの左腕・奥山の高めのカーブをたたくと、大きなアーチを描いて左翼場外に消えた。市立秋田高時代は甲子園で投げ、東洋大の四年生から野手に転向。東都大学リーグのベストテン二位にもなったスラッガー。「肩を痛めたり、松沼雅(西武)もいたので、一時投手をやめていたが、もともと打つのは大好き。一発を狙っていました」。ヨークベニマルはこの“隠れ”四番にやられてしまった。「毎日新聞昭和五十七年七月五日朝刊」
 

社会人野球では再び投手に戻っていたのである。この年の本大会では勝ち星は上げられなかったが、昭和六十三年の都市対抗では日本たばこの補強選手として出場、対NTT中国戦の三番手で登板、勝ち投手となっている。この試合を伝える新聞記事には“秋田相銀のプレーイングマネージャー”と紹介されている。

また、これより先の昭和五十九年の都市対抗には岩手銀行の補強選手として出場、一回戦の対川崎製鉄水島戦で6点リードされた四回表に代打で登場、その裏からマウンドに上がり4イニングをノーヒットに抑えている。

今は秋田でお仕事の傍ら高校野球の方でも活躍されているようである。
http://www2.asahi.com/koshien/88/chihou/akita/news/TKY200607140139.html
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