*H31年2月11日
古書店で昭和13の学生名簿などを入手したので、それに基づき書き換えました。
ラグビーワールドカップでの“歴史的勝利”の陰に隠れて?あまり話題になっていませんが、かつての山の神・柏原竜二選手が9月20日に行われたシドニーマラソンでフルマラソンに初めて挑戦いたしました。結果は2:20:44で七位でしたが、卒業後は故障もあって今一つの成績でしたので、これを機に再び大きな大会で注目を浴びる選手に戻ってほしいものであります。
ちなみに、優勝したのも東洋大OBの北島寿典選手でタイムは2:12:44。北島選手は逆に在学中故障に苦しみ、箱根駅伝には一回しか出場できませんでしたが、ここは先輩の意地を見せての優勝でしょうか。
今や世界のマラソン界は最高タイムが2時間2分台に突入しており、オリンピックや世界陸上では日本選手は影が薄くなってしまいましたが、かつて東洋大学在学中に当時の世界最高タイムを記録したのが池中康雄さんで、ベルリンオリンピックを二年後に控えた昭和10年4月3日に行われたオリンピック第一・第二候補挑戦競技会でのことでした。
読売新聞
朝日新聞
この結果、ベルリンオリンピック代表の有力候補となった池中さんは、昭和11年5月21日に行われたオリンピック最終予選会に出場しましたが、レース直前に病気の弟さんの為に輸血を行い、体調を崩したまま出場したため途中棄権。オリンピック出場の夢はかないませんでした。
代表に選ばれたのは南昇竜・孫基禎・鈴木重房の三名でしたが、予選一位の南選手のタイムは2:36:03、三位の鈴木選手で2:39:41でしたので、池中さんが万全の体調でこのレースに臨むことができたなら、代表の座を手にしていた可能性は大いにあったと思われます。
池中さんに関しては*陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さん
の中の
池中康雄伝説~“鉄紺東洋”の黎明期を支えた元マラソン世界最高記録保持者~
で詳しく紹介されておりますので、こちらのサイトもぜひご覧ください。
ところで、私は以前から池中さんの在学年数に関して、ずっと腑に落ちない点がありました。
池中さんは在学中箱根駅伝に六回出場しております。現在と学制が違いますので他校の選手の中には、もっと多く出場している選手も多いのですが*、その点を先の“輝け鉄紺さん”をはじめ幾つかの駅伝関連サイトでは、“戦前の大学は予科三年・本科三年だったため”としています。
ところが、東洋大学の予科は戦前は二年制で、三年制の予科ができるのは戦後の昭和二十一年から学制改革で新制大学に移行する昭和二十四年までの間だけなのであります。
(戦前の『大学令』では「大学予科ノ修業年限ハ三年又ハ二年トス」とあり、三年制の予科は旧制中学の四年修了者、二年制の予科は旧制中学卒業者が「入学スルコトヲ得ル」と定められています。)
また、池中さんの六回の出場歴は昭和8年~12年と昭和15年で、間にブランクがあるのも気になっておりました。
そこで、『東洋大学百年史通史編Ⅰ』などを改めて見直してみたところ、「第七章 学友会の設立と学生の活動」という項に“池中康雄(昭和九年専門部東洋文学科、同十二年国文学科卒業”とあるのを見つけました。
さらに、著作権切れの資料を順次デジタル化してウェブ上で公開している国会図書館近代デジタルライブラリーに、うまい具合に昭和九年と十二年の『東洋大学一覧』がUPされているのに気が付き、それぞれ在学生と卒業生の項目を見てみたところ、やはり昭和九年版では専門部卒業生と国文学科学生、昭和十二年版では12年度の国文学科卒業生欄に“池中康雄”の名前があるのを確認できました。(下記リンク先を御参照下さい)
『東洋大学一覧・昭和9年度』
昭和9年専門部東洋文学科卒業生名簿
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463208/120
昭和9年度国文科学生名簿
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463208/79
『東洋大学一覧・昭和12年度』
昭和12年度国文科卒業生名簿
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463221/124
戦前の私立大学は大正七年に大学令が出されるまで、大学を名乗ってはいても制度上は専門学校に位置付けられていました。大学令により私立でも大学に昇格できることになり、東洋大学も昭和三年に大学昇格を果たしましたが、東洋大学に限らずほとんどの私立大学は昇格後も専門学校にあたる専門部も引き続き残しておりました。
池中さんも当初専門部に入学したようで、そうなると昭和九年度の卒業から逆算すると入学したのは昭和六年ということになります。
(先に紹介した“輝け鉄紺”さんやWikipediaなどでは昭和七年となっています)
昭和六年の『官報』に掲載された学生募集広告
以前、古書店で入手した昭和十六年の『東洋大学案内』の学部入学資格には
とありますので、池中さんも昭和九年に専門部東洋文学科を卒業し、国文学科に入学したようです。
昭和十六年入学案内
学部入学資格
さて、そうなると六回目の箱根駅伝出場となった昭和十五年は国文学科も卒業してから三年後のこととなってしまいます。
其の点について、たまたま池中さんにも関連する戦前の陸上関連雑誌に“新鋭選手”として紹介されている、興誠商業(現浜松学院高)在学中の佐々木利一選手の記事に、
とあるのを見つけました。
佐々木選手は後に東洋大学へ進学するのですが、“學校を御去りになった…”とあることから、昭和十二年に卒業後、一年間は静岡の興誠商業で教鞭を執っていたのではないかと考えられます。(もう一人の大藏優一という方のお名前は、昭和十一年の東洋大・箱根駅伝出場者の中にありますので、この方も東洋大OBではないかと思われます)
更に、国会図書館デジタルコレクションに収録されている『静岡県運動年鑑』昭和13年版を見ると、第五回静岡県陸上競技選手権の5000mと10000mの優勝者に池中さんのお名前があり、所属は(興商)(興商教)となっています。
従って、昭和12年は3月に東洋大を卒業後静岡の興誠商業で教鞭を執り、翌年の4月に東洋大学に再度入学したと思われます。
『静岡県運動年鑑』昭和13年版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109487/34
これらの点を踏まえ、『運動年鑑』などから拾い出した池中さんの競技歴を年次ごとにまとめてみてみることに致しましょう。
(上位入賞記録だけですので、これ以外にも大会などに出場している可能性はあります)
競技歴からも、昭和14年4月から16年3月までの二年間は再度学生戻って?いることがお分かりになるかと思います。
その後、昭和14年7月発行の『東洋大學々生名簿』(昭和十四年七月一日現在)を古書店で入手したのですが、それを見ると池中さんのお名前は職員の欄の付属図書館にありました。
更に、『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・下』に載っている昭和18年の京北中学校教員の一覧の中に池中も池中さんのお名前を見ることができます。
下記はその中の項目の幾つかを抜粋したもので、
とあるように、担任学科目が歴史となっています。
当時、東洋大学では専門部東洋文学科では卒業者に中等学校の国語・漢文、大学部の国文学科はそれに加えて高等学校の国語の教員免許が無試験で 得ることができましたので、免許状記載学科目は国漢となっています。
“就職年月日”から興誠商業の職を一年で辞した後、昭和13年から東洋大学の図書館と京北中学の兼任講師を務めながら、学生としても競技に復帰していた事になります。
ただし、昭和14年の『東洋大學々生名簿』の在学生の欄には池中さんのお名前は見つけることができませんでした。
これは飽くまで筆者の推測ですが、昭和15年の箱根駅伝は科目履修生のような立場(選科生と呼ばれていたようです)で学籍を得ての参加だったのではないでしょうか。
取得している教員免許は“国漢”でありながら京北中学での担任学科目は“歴史”となっていることから、史学科で歴史関係の科目の習得が必要だったのではないかと思います。(東洋大学に史学科が開設されたのは昭和13年4月からです)
出場に際しては学連の資格審査はあったとのことですが、現在のように年齢や回数の制限はなく、日大の曽根選手は法学部と医学部で計八回出場するなど、複数の学部に在籍して出場して選手も多いようです。
昭和十五年以降に関しては、昭和十六年度の職員名簿の教練課の欄に名前が載っています。
教練課というのは、それまでも行われていた軍事教練を一層強化するためにこの年新たに設けられた部署で、池中さんは体育係主任となっています。
また、この年はそれまでの学友会(現在の自治会と文連と体育会が合わさったようなもの)が護国会という学校当局とが学生団体を一体化したものに再編されて発足しており、池中さんは護国会でも鍛錬本部体育部長についております。こちらは部長の下に学生の幹事がおり、各運動部を統括するような立場だったようです。
“輝け鉄紺”さんでは、「…昭和20(1945)年6月、郷里・中津に帰って母校・中津中学で教師の道をスタート」とありますが、東洋大学は5月24・25日の空襲で被災し、また学生も勤労動員などで授業もほとんど行われなず、学長らも疎開し始めていましたので、池中さんもこのころに帰郷され、故郷大分で教員生活を始められたものと思われます。
以上、まだまだ不十分ではありますが、筆者の憶測も含めてまとめてみました。
付:第二学寮
昭和14年の『東洋大學々生名簿』を見ると、池中さんをはじめ翌15年の箱根駅伝に出場している選手の殆どの住所が第二学寮となっています。
また、箱根駅伝出場者以外に三名が第二学寮を住所としていますが、そのうち岩本榮一は砲丸投げの選手でした。
『東洋大学百年史通史編Ⅰ』によれば、学寮は第一、第二とも昭和13年4月に開設され、第一は昭和18年10月に閉鎖され、第二学寮については開寮後の消息は不明とのことです。
以前ご紹介した昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」に書かれている
の光景も第二学寮のものかと思われます。
詳細は分かりませんが、陸上選手の合宿所のような機能を果たしていたのでしょうか。
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Wikipedia・池中康雄さんの項に関する疑問点=幻の五輪代表?
箱根駅伝に出場した東洋大学の戦没者
昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」
*陸上部については陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さんに詳しく紹介されています。
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古書店で昭和13の学生名簿などを入手したので、それに基づき書き換えました。
ラグビーワールドカップでの“歴史的勝利”の陰に隠れて?あまり話題になっていませんが、かつての山の神・柏原竜二選手が9月20日に行われたシドニーマラソンでフルマラソンに初めて挑戦いたしました。結果は2:20:44で七位でしたが、卒業後は故障もあって今一つの成績でしたので、これを機に再び大きな大会で注目を浴びる選手に戻ってほしいものであります。
ちなみに、優勝したのも東洋大OBの北島寿典選手でタイムは2:12:44。北島選手は逆に在学中故障に苦しみ、箱根駅伝には一回しか出場できませんでしたが、ここは先輩の意地を見せての優勝でしょうか。
今や世界のマラソン界は最高タイムが2時間2分台に突入しており、オリンピックや世界陸上では日本選手は影が薄くなってしまいましたが、かつて東洋大学在学中に当時の世界最高タイムを記録したのが池中康雄さんで、ベルリンオリンピックを二年後に控えた昭和10年4月3日に行われたオリンピック第一・第二候補挑戦競技会でのことでした。
池中、マラソンに世界最高記録
二時間二六分四四秒
◇最も期待されたマラソンでは果然池中康雄選手(第二候補・東洋大学)が素晴らしき快調を示し律動的なペースに乗って遂に二時間二六分四十四秒で優勝、楠選手が去る昭和八年の日本選手権大会で作った世界最高記録二時間三一分十秒を堂々四分半も突破する大記録…
マラソン
1.池中康雄(東洋大)二時間二六分四四秒【世界最高記録】
2.鈴木重房(日大)二時間三三分五秒 3.孫基禎(朝鮮養正)二時間三九分三四秒 4.相良賢一(麻布AA) 5.松永重(日大)
▼…午前十一時競技場を出発、参加者相良、池中、鈴木、松永、孫の五名、往路は孫極めて好調にスピーディーなペースでリードし、相良、鈴木、池中更におくれて松永の順でつづき六郷の引返点では孫が一時間十一分三〇秒という素晴らしいタイムでトップに立ち約百米遅れて相良、さらに二十米の差で鈴木、池中つづき松永は可成りの差をつけられた。復路相良は疲れておくれ池中、鈴木が孫に迫って鎌田付近ではこの三者一団となり大接戦となる。池中は頗る快調に乗り鈴ヶ森付近から完全にリードして先頭に立てば孫疲労気味でスピード落ち鈴木にも置かれたが鈴木のペースも稍鈍って八つ山では池中断然リードして鈴木に二分の差をつけ優勝は決定的なものとなり堅実なペースを運んで芝園橋を通過するとき丁度二時間。更に赤坂を登って青山一丁目に到ったとき実に二時間二十分五十二秒で世界最高記録の実現は確定的となり悠々競技場ゴールへ入った。鈴木約七分の差で二着となり孫は更に六分遅れて困憊気味に三着となった。
(『読売新聞』昭和十年四月五日付朝刊)
読売新聞
朝日新聞
この結果、ベルリンオリンピック代表の有力候補となった池中さんは、昭和11年5月21日に行われたオリンピック最終予選会に出場しましたが、レース直前に病気の弟さんの為に輸血を行い、体調を崩したまま出場したため途中棄権。オリンピック出場の夢はかないませんでした。
代表に選ばれたのは南昇竜・孫基禎・鈴木重房の三名でしたが、予選一位の南選手のタイムは2:36:03、三位の鈴木選手で2:39:41でしたので、池中さんが万全の体調でこのレースに臨むことができたなら、代表の座を手にしていた可能性は大いにあったと思われます。
池中さんに関しては*陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さん
の中の
池中康雄伝説~“鉄紺東洋”の黎明期を支えた元マラソン世界最高記録保持者~
で詳しく紹介されておりますので、こちらのサイトもぜひご覧ください。
ところで、私は以前から池中さんの在学年数に関して、ずっと腑に落ちない点がありました。
池中さんは在学中箱根駅伝に六回出場しております。現在と学制が違いますので他校の選手の中には、もっと多く出場している選手も多いのですが*、その点を先の“輝け鉄紺さん”をはじめ幾つかの駅伝関連サイトでは、“戦前の大学は予科三年・本科三年だったため”としています。
ところが、東洋大学の予科は戦前は二年制で、三年制の予科ができるのは戦後の昭和二十一年から学制改革で新制大学に移行する昭和二十四年までの間だけなのであります。
(戦前の『大学令』では「大学予科ノ修業年限ハ三年又ハ二年トス」とあり、三年制の予科は旧制中学の四年修了者、二年制の予科は旧制中学卒業者が「入学スルコトヲ得ル」と定められています。)
また、池中さんの六回の出場歴は昭和8年~12年と昭和15年で、間にブランクがあるのも気になっておりました。
そこで、『東洋大学百年史通史編Ⅰ』などを改めて見直してみたところ、「第七章 学友会の設立と学生の活動」という項に“池中康雄(昭和九年専門部東洋文学科、同十二年国文学科卒業”とあるのを見つけました。
さらに、著作権切れの資料を順次デジタル化してウェブ上で公開している国会図書館近代デジタルライブラリーに、うまい具合に昭和九年と十二年の『東洋大学一覧』がUPされているのに気が付き、それぞれ在学生と卒業生の項目を見てみたところ、やはり昭和九年版では専門部卒業生と国文学科学生、昭和十二年版では12年度の国文学科卒業生欄に“池中康雄”の名前があるのを確認できました。(下記リンク先を御参照下さい)
『東洋大学一覧・昭和9年度』
昭和9年専門部東洋文学科卒業生名簿
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463208/120
昭和9年度国文科学生名簿
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463208/79
『東洋大学一覧・昭和12年度』
昭和12年度国文科卒業生名簿
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463221/124
戦前の私立大学は大正七年に大学令が出されるまで、大学を名乗ってはいても制度上は専門学校に位置付けられていました。大学令により私立でも大学に昇格できることになり、東洋大学も昭和三年に大学昇格を果たしましたが、東洋大学に限らずほとんどの私立大学は昇格後も専門学校にあたる専門部も引き続き残しておりました。
池中さんも当初専門部に入学したようで、そうなると昭和九年度の卒業から逆算すると入学したのは昭和六年ということになります。
(先に紹介した“輝け鉄紺”さんやWikipediaなどでは昭和七年となっています)
昭和六年の『官報』に掲載された学生募集広告
以前、古書店で入手した昭和十六年の『東洋大学案内』の学部入学資格には
(一)本大学予科を修了したるもの(考査をせず)
(二)欠員ありたる場合は更に左記出身者の入学を許可す
一、高等学校高等科卒業者
二、元私立哲学館大学、専門学校令に依る東洋大学及東洋大学専門部卒業者にして大正七年文部省令第三号第二条に依り指定せられたる者(倫理学教育学科及東洋文学科卒業者)
とありますので、池中さんも昭和九年に専門部東洋文学科を卒業し、国文学科に入学したようです。
昭和十六年入学案内
学部入学資格
さて、そうなると六回目の箱根駅伝出場となった昭和十五年は国文学科も卒業してから三年後のこととなってしまいます。
其の点について、たまたま池中さんにも関連する戦前の陸上関連雑誌に“新鋭選手”として紹介されている、興誠商業(現浜松学院高)在学中の佐々木利一選手の記事に、
…又今は學校を御去りになった池中康雄先生(前マラソン記録保持者)大藏優一先生にも御愛情ある御鞭撻を受けました。
(『陸上競技』昭和十五年七月号)
とあるのを見つけました。
佐々木選手は後に東洋大学へ進学するのですが、“學校を御去りになった…”とあることから、昭和十二年に卒業後、一年間は静岡の興誠商業で教鞭を執っていたのではないかと考えられます。(もう一人の大藏優一という方のお名前は、昭和十一年の東洋大・箱根駅伝出場者の中にありますので、この方も東洋大OBではないかと思われます)
更に、国会図書館デジタルコレクションに収録されている『静岡県運動年鑑』昭和13年版を見ると、第五回静岡県陸上競技選手権の5000mと10000mの優勝者に池中さんのお名前があり、所属は(興商)(興商教)となっています。
従って、昭和12年は3月に東洋大を卒業後静岡の興誠商業で教鞭を執り、翌年の4月に東洋大学に再度入学したと思われます。
『静岡県運動年鑑』昭和13年版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109487/34
これらの点を踏まえ、『運動年鑑』などから拾い出した池中さんの競技歴を年次ごとにまとめてみてみることに致しましょう。
(上位入賞記録だけですので、これ以外にも大会などに出場している可能性はあります)
昭和 6年 | 4月 | 専門部東洋文学科入学 | |
---|---|---|---|
| |||
専門部一年(昭和6年4月~昭和7年3月) | |||
| |||
専門部二年(昭和7年4月~昭和8年3月) | |||
昭和 7年 | 9月 | 24・25日 | 第十四回関東学生対抗選手権第二部 |
10000m:三位 | |||
昭和 7年 | 11月 | 10日 | 第一回関東学生マラソン |
二位(2時間42分6秒) | |||
昭和 8年 | 1月 | 7・8日 | 第十四回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(東洋大学の初出場) |
5区八位 | |||
| |||
専門部三年(昭和8年4月~昭和9年3月) | |||
昭和 8年 | 9月 | 23・24日 | 第十五回関東学生対抗選手権第二部 |
10000m:一位(33分17秒6)・.1500m:二位 | |||
昭和 8年 | 10月 | 7・8日 | 第七回明治神宮大会兼第二十回全日本陸上競技選手権関東予選 |
マラソン:三位(2:42:26) | |||
昭和 8年 | 11月 | 19日 | 第二回関東学生フルマラソン |
一位(2時間33分44秒) | |||
昭和 9年 | 1月 | 6・7日 | 第十五回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走 |
5区五位 | |||
| |||
昭和 9年 | 3月 | 専門部東洋文学科卒業 | |
昭和 9年 | 4月 | 大学部 国文学科入学 | |
| |||
国文科一年(昭和9年4月~昭和10年3月) | |||
昭和 9年 | 6月 | 16・17日 | 第七回日本学生陸上競技対抗選手権 |
10000m:六位 | |||
昭和 9年 | 9月 | 29・30日 | 第十六回関東学生対抗選手権第二部 |
1500m:一位(一周多く回った為全員記録無し) | |||
10000m:一位(34分0秒6)・800m:三位 | |||
昭和 9年 | 11月 | 18日 | 第三回関東学生フルマラソン |
一位(2時間34分30秒) | |||
昭和10年 | 1月 | 5・6日 | 第十六回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走 |
5区一位 | |||
昭和10年 | 3月 | 21日 | 全国マラソン連盟主催神宮コースマラソン |
三位(2時間39分25秒) | |||
| |||
国文科二年(昭和10年4月~昭和11年3月) | |||
昭和10年 | 4月 | 3日 | オリンピック候補挑戦競技会マラソン |
一位(2時間26分44秒:当時の世界最高記録) | |||
昭和10年 | 9月 | 28・29日 | 第十七回関東学生対抗選手権第二部 |
10000m:一位(33分37秒2) | |||
昭和10年 | 10月 | 12・13日 | 第二十二回全日本陸上競技選手権予選兼第一回東京選手権 |
マラソン:三位 | |||
昭和11年 | 1月 | 4・5日 | 第十七回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走 |
3区二位 | |||
昭和11年 | 3月 | 29日 | 全国マラソン連盟主催神宮コースマラソン |
一位(2時間33分56秒) | |||
| |||
国文科三年(昭和11年4月~昭和12年3月) | |||
昭和11年 | 4月 | 5日 | 第一回オリンピック候補挑戦競技会20マイルマラソン |
七位(1時間57分10秒) | |||
昭和11年 | 4月 | 12日 | 第二回オリンピック候補挑戦競技会10マイルマラソン |
四位(55分11秒) | |||
昭和11年 | 5月 | 21日 | オリンピックマラソン予選(5月21日) |
途中棄権 | |||
昭和11年 | 5月 | 30・31日 | 第十八回関東学生対抗選手権第二部 |
1500m:四位 | |||
昭和12年 | 1月 | 9・10日 | 第十八回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走 |
5区二位 | |||
| |||
昭和12年 | 3月 | 大学部国文学科卒業 | |
| |||
静岡・興誠商業教員(昭和12年4月~昭和13年3月) | |||
昭和12年 | 6月 | 13日 | 第五回静岡県陸上競技選手権(於・静岡師範学校校庭) |
5000m:一位(16分33秒4) | |||
10000m:一位(35分9秒4) | |||
再入学?(昭和13年4月~昭和14年3月) | |||
昭和13年 | | ||
???(昭和14年4月~昭和15年3月) | |||
昭和14年 | 6月 | 3・4日 | 第二十一回関東学生対抗選手権第三部 |
10000m:一位(36分46秒) | |||
7月 | 23日~ | 東京・青森耐熱マラソン* | |
8月 | 7日 | | |
昭和15年 | 1月 | 6・7日 | 第二十一回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走 |
3区四位 | |||
???(昭和15年4月~昭和16年3月) | |||
7月 | 25日~ | 宮崎・東京奉祝駅伝* | |
8月 | 7日 | | |
昭和16年 | 1月 | 12日 | 第一回東京青梅往復大学専門学校駅伝 |
6区九位 | |||
|
競技歴からも、昭和14年4月から16年3月までの二年間は再度学生戻って?いることがお分かりになるかと思います。
その後、昭和14年7月発行の『東洋大學々生名簿』(昭和十四年七月一日現在)を古書店で入手したのですが、それを見ると池中さんのお名前は職員の欄の付属図書館にありました。
更に、『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・下』に載っている昭和18年の京北中学校教員の一覧の中に池中も池中さんのお名前を見ることができます。
下記はその中の項目の幾つかを抜粋したもので、
(『東洋大学百年史・資料編Ⅰ下』所収「京北中学校教員調(昭和十八年一月」より)
教員免許状
記載学科目担任学科目 毎週授業時数 職名 就職年月日 専任、
兼任ノ別氏名
国漢 歴史 十六 教員 昭和十三年四月 兼任 池中康雄
とあるように、担任学科目が歴史となっています。
当時、東洋大学では専門部東洋文学科では卒業者に中等学校の国語・漢文、大学部の国文学科はそれに加えて高等学校の国語の教員免許が無試験で 得ることができましたので、免許状記載学科目は国漢となっています。
“就職年月日”から興誠商業の職を一年で辞した後、昭和13年から東洋大学の図書館と京北中学の兼任講師を務めながら、学生としても競技に復帰していた事になります。
ただし、昭和14年の『東洋大學々生名簿』の在学生の欄には池中さんのお名前は見つけることができませんでした。
これは飽くまで筆者の推測ですが、昭和15年の箱根駅伝は科目履修生のような立場(選科生と呼ばれていたようです)で学籍を得ての参加だったのではないでしょうか。
取得している教員免許は“国漢”でありながら京北中学での担任学科目は“歴史”となっていることから、史学科で歴史関係の科目の習得が必要だったのではないかと思います。(東洋大学に史学科が開設されたのは昭和13年4月からです)
出場に際しては学連の資格審査はあったとのことですが、現在のように年齢や回数の制限はなく、日大の曽根選手は法学部と医学部で計八回出場するなど、複数の学部に在籍して出場して選手も多いようです。
昭和十五年以降に関しては、昭和十六年度の職員名簿の教練課の欄に名前が載っています。
教練課というのは、それまでも行われていた軍事教練を一層強化するためにこの年新たに設けられた部署で、池中さんは体育係主任となっています。
また、この年はそれまでの学友会(現在の自治会と文連と体育会が合わさったようなもの)が護国会という学校当局とが学生団体を一体化したものに再編されて発足しており、池中さんは護国会でも鍛錬本部体育部長についております。こちらは部長の下に学生の幹事がおり、各運動部を統括するような立場だったようです。
“輝け鉄紺”さんでは、「…昭和20(1945)年6月、郷里・中津に帰って母校・中津中学で教師の道をスタート」とありますが、東洋大学は5月24・25日の空襲で被災し、また学生も勤労動員などで授業もほとんど行われなず、学長らも疎開し始めていましたので、池中さんもこのころに帰郷され、故郷大分で教員生活を始められたものと思われます。
以上、まだまだ不十分ではありますが、筆者の憶測も含めてまとめてみました。
付:第二学寮
昭和14年の『東洋大學々生名簿』を見ると、池中さんをはじめ翌15年の箱根駅伝に出場している選手の殆どの住所が第二学寮となっています。
一区 | 高岡 幸雄 | 第二学寮 |
二区 | 高瀬 登 | 第二学寮 |
三区 | 池中 康雄 | 第二学寮 |
四区 | 小椋 実 | 不明 |
五区 | 朴 鉱采 | 第二学寮 |
六区 | 松尾 喜雄 | 第二学寮 |
七区 | 赤木 義夫 | 上十条(実家) |
八区 | 小川 務 | 第二学寮 |
九区 | 安城 敬二郎 | 第二学寮 |
十区 | 武智 徳令 | 第二学寮 |
また、箱根駅伝出場者以外に三名が第二学寮を住所としていますが、そのうち岩本榮一は砲丸投げの選手でした。
小西吉彦 | | |
廣井金吾 | | |
岩本榮一 | |
『東洋大学百年史通史編Ⅰ』によれば、学寮は第一、第二とも昭和13年4月に開設され、第一は昭和18年10月に閉鎖され、第二学寮については開寮後の消息は不明とのことです。
以前ご紹介した昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」に書かれている
台所から焦げ飯の匂いが漂い奥座敷から花の一騎打ちで騒擾を演ずるかと思えば、何処からか宵待草のメロディが流れてくる。我等はこの中に何物かを掴んで已まないものがある。
の光景も第二学寮のものかと思われます。
詳細は分かりませんが、陸上選手の合宿所のような機能を果たしていたのでしょうか。
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Wikipedia・池中康雄さんの項に関する疑問点=幻の五輪代表?
箱根駅伝に出場した東洋大学の戦没者
昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」
*陸上部については陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さんに詳しく紹介されています。
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