昨日、新年会をしてました。
10年前のバンドのメンバーとなんですけど。
2代目のベースが焼き鳥屋やってて、
他のメンバーも住まいが近いのでちょこちょこ集まってます。
2代目が病欠中に代打をやってました★
しかし、このメンバーとは会話が全く噛み合いません・・・・。
大抵、揉めます。
私が、ど~しても我慢が出来なかったのが、このバンド、
曲が長くて、しかも、エンデイングではフリーセッション
みたいなことが始まっちゃうんですけど、終わらせる前に
アイコンタクトをとる話になって、私は、んな、ステージ上で
3人してアイコンタクトを取るのは気持ち悪いから嫌だって
言ったんですよ。だって、見なくたって、お互いのプレイで
わかるっしょ。目で見なくたって、耳で感覚で感じるもん。
いまだにその話で揉めます・・・・。
でも、集まります。
やっぱり、お互いの音を知っているからでしょうか。
言葉より、音を通してお互いを理解しているので
これもやっぱり非言語的コミュニケーションに入るわけです・・・・。
前置きが長くなりましたが、ウチの学校のウリのひとつに
人間総合科学という授業があります。
ちょっと興味もあったし、期待していたのですが、何回か
受けるうちに気が付きました・・・・・。
自己啓発じゃんかよ・・・・。
私はこの手の話は嫌いです。
胡散臭い人達がやってきて、お涙ちょうだいの話もてんこ盛り。
自分のモチベーションを上げて行くための映像で洗脳させていく。
で、実際にお互いに色々やってみる。
ああ~嫌だ~・・・・・。
っていうか、汚れきった大人には通用しませんから。
っていうか、今まで、そうやって生きてきていますから
当たり前の話じゃん。って思うのですが、そういえば、
平均年齢27歳なので、必要なのかな~この手の話。
ウェルネスねぇ~・・・・。
なんかこの、やたらとテンション高い胡散臭い笑顔の
民間人じゃなくて、学問的に普通に授業すればいいのにと思う。
先日見せられた、you tubeはこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=2M08p9leBio&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?v=eJw-W2Ja1ho&feature=player_embedded
・・・・・思わず泣いちゃったのは秘密です・・・・。
嫌なのよ~、こういうの押し付けられるの。
さも、輝かしい看護師になるには、みたいなの嫌なのよ~。
そんなの人に言われて芽生えるモノでもなく、自分で導いてくものでしょ。
自己実現は自分でやらなきゃ、実現しないでしょ~。
さらに、講師の一人の体験談をここに記して
本日の長文を終了とさせていただきます。
これねえ、実物は線が引いてあったり太字になっていたり
するんだよね・・・・。ところどころ。
『なんで、ここ(処置室)に入れてんの?家族は外に出しとけよ!』
これは10年前、私の愛するわが子の心肺蘇生のために、
呼ばれたドクターが看護師に向けて発した言葉です。
チラリと私の方を見ながら、それでいて私には声をかけず、
看護師に指示するドクター。この人から見たら私は、生ゴミ程度の
存在なのだろうなと思いました。
指示を受けた若手の看護師が、「すいません。処置するんで
外に出て下さい」と私と上の子をおんぶした夫に言いました。
ドクターと看護師のただならぬ様子に驚き、泣き出した娘を
あやすため、夫は外に出て行きました。私はその場を動くことが
できませんでした。
「家族の方は廊下でお待ちください」・・・私も看護師として
何度となく、口にしてきた言葉でした。看護の授業でも、実習でも
そう教えられてきたからです。そもそもなぜ、家族はこんな大切な
時間を、患者本人と共有できないのでしょうか。目の前で処置を
見るショックから家族を守るためでしょうか。家族に遠慮し、
診療行為に遠慮が出るからでしょうか。または、診断ミスを指摘される
など、訴訟問題を回避するためでしょうか。
「外へ出て下さい。本当に困るんです!」何度も看護師が言い
私が断る。そんなやり取りを5回ほど繰り返しました。
「この子は私が産んだ子です。私はここにいる権利があります。」
私は言い切りました。説得に困った若手の看護師は、師長を連れて来ました。
私は師長さんに「私は元看護師です。取り乱したりしませんから
ここに置いて下さい」と何度も何度も訴えました。「困ります」と言う
師長さんに「今、自分の子どもが死にそうで一番困っているのは
私なんです。あなた方は医者から怒鳴られたら困る、と思っている
だけじゃないですか!?」と食ってかかりました。
私の心の叫びが通じたのか、師長はゆっくりうなずき「あなたも
看護師なら、今の状態は分かるわよね。あなたのお子さんは、
今から一生分の親孝行をしていくんだから、よく見ててあげなさい」
と言いました。そして、「私は職業上、ドクターの前では『外へ出て』と
あなたに言わなきゃならないからね。あなたにも分かるでしょ」
と外来の隅っこに立っていた私に、ドクターが座る少し上等ないすを
持って来てくれました。
私は、師長の言葉で「ああ、この子はもう、ダメなんだな」と
悲しいけれどお別れの決心をしなくてはならないのだと思いました。
4カ月という小さな身体への心臓マッサージを見ながら、「こんなに
痛い思いをしなくちゃならなくて、ごめんね」と涙がこぼれました。
再びドクターが「家族、外に出してよ」と言うと、師長さんは
厳しい口調で「先生、この人すべて分かってここにいるんだよ。
訴えたりするようなひとじゃないんだよ!」と言ってくれました。
その言葉を聞いた時、決心がつきました。もう私にあきらめが
つくのを待つだけとなった蘇生術に「もう、十分です。皆さん、
ありがとうございました」と感謝で幕を引くことができました。
師長は私を信じてくれました。「この人は訴えたりするような
人じゃないよ」・・・この言葉で、私は悲しい現実を受け入れる
ことができたのだと思います。
私は人の心はダイヤモンドなのだと思うのです。確かに人生の
荒波を渡る途中では、悲しみや苦しみという砂や泥が付着し、
輝きを失ってしまう時もあります。しかし、本来は光り輝く
ダイヤモンドなのです。師長さんの私を信じる気持ちは私の心から
「感謝」を引き出してくれました。人を信じるという力は協力で
ダイヤモンドの汚れを一瞬で洗い流し、再び輝かせることができます。
私は、人は不幸のどん底と悲しみの中にあっても「感謝ができる」
ものだということを知りました。人はそれほどまでに輝く力を内に
秘めているのだと、実体験を通して思います。そして、その輝きは
人が引き出すことができるものだと思うのです。
私はドクターの指示が悪い、ということを言いたいのではありません。
家族は処置室に入れるべきだと訴えたい訳でもありません。医療不信が
はびこる世の中になり、訴訟を恐れ、患者を恐れる。医療者はリスクから
自分の身を守ることで精いっぱいになってしまいました。
私はこの時の師長さんを一生忘れないと思います。表面上のやり取りは
リスクも負わない代わりに深い信頼関係も結べず、味気のないものと
なります。相手を極度に恐れる気持ちは、相手の不信を呼び、
悪循環をつくります。どこかで、不信の連鎖を断ち切る勇気が
必要なのです。
私が皆さんに伝えたいことは、医療者はやはり、患者さんを
「信じる人」であってほしいということです。確かに、良かれと
思って親切に対応しても、アダで返ってくるようなこともあります。
医療者に不信をぶつける患者さんとのトラブルに巻き込まれてしまう
ことだってありますが、それはごく一部の人たちです。
大抵は、真心で接すれば同じ気持ちで応えてくれる人がほとんどです。
ダイヤモンドは宝石の中で最も硬くて強い石です。ですから、砥石では
ダイヤモンドを傷付けることはできません。
患者さんの不満は砥石です。砥石でこすっても、表面の汚れだけが
削られて、ダイヤモンドはさらに輝きを増すだけです。そんな風に
心の強い看護師が増えてほしいと思います。
苦しい時、人は理性を失います。私が師長に食ってかかったように。
しかし、師長は私を恐れませんでした。彼女の人を信じる強い気持ちは
私の心の中から感謝を引き出しました。
どんなに荒れている患者さんであっても、その心はダイヤモンドで
あると信じきる看護師であって欲しいのです。
「信じてくれる人を裏切ることは難しいことです」患者さんを
信じようとする時、看護師の心は最高に光り輝きます。皆さんは
その感覚が心地よいからこそ看護の道を選んだのではないでしょうか。
みなさん自信の心の輝きで、患者さんの心を照らし続けて行く時
”心ある未来の医療の姿”がそこにあるのではないかと思います。
10年前のバンドのメンバーとなんですけど。
2代目のベースが焼き鳥屋やってて、
他のメンバーも住まいが近いのでちょこちょこ集まってます。
2代目が病欠中に代打をやってました★
しかし、このメンバーとは会話が全く噛み合いません・・・・。
大抵、揉めます。
私が、ど~しても我慢が出来なかったのが、このバンド、
曲が長くて、しかも、エンデイングではフリーセッション
みたいなことが始まっちゃうんですけど、終わらせる前に
アイコンタクトをとる話になって、私は、んな、ステージ上で
3人してアイコンタクトを取るのは気持ち悪いから嫌だって
言ったんですよ。だって、見なくたって、お互いのプレイで
わかるっしょ。目で見なくたって、耳で感覚で感じるもん。
いまだにその話で揉めます・・・・。
でも、集まります。
やっぱり、お互いの音を知っているからでしょうか。
言葉より、音を通してお互いを理解しているので
これもやっぱり非言語的コミュニケーションに入るわけです・・・・。
前置きが長くなりましたが、ウチの学校のウリのひとつに
人間総合科学という授業があります。
ちょっと興味もあったし、期待していたのですが、何回か
受けるうちに気が付きました・・・・・。
自己啓発じゃんかよ・・・・。
私はこの手の話は嫌いです。
胡散臭い人達がやってきて、お涙ちょうだいの話もてんこ盛り。
自分のモチベーションを上げて行くための映像で洗脳させていく。
で、実際にお互いに色々やってみる。
ああ~嫌だ~・・・・・。
っていうか、汚れきった大人には通用しませんから。
っていうか、今まで、そうやって生きてきていますから
当たり前の話じゃん。って思うのですが、そういえば、
平均年齢27歳なので、必要なのかな~この手の話。
ウェルネスねぇ~・・・・。
なんかこの、やたらとテンション高い胡散臭い笑顔の
民間人じゃなくて、学問的に普通に授業すればいいのにと思う。
先日見せられた、you tubeはこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=2M08p9leBio&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?v=eJw-W2Ja1ho&feature=player_embedded
・・・・・思わず泣いちゃったのは秘密です・・・・。
嫌なのよ~、こういうの押し付けられるの。
さも、輝かしい看護師になるには、みたいなの嫌なのよ~。
そんなの人に言われて芽生えるモノでもなく、自分で導いてくものでしょ。
自己実現は自分でやらなきゃ、実現しないでしょ~。
さらに、講師の一人の体験談をここに記して
本日の長文を終了とさせていただきます。
これねえ、実物は線が引いてあったり太字になっていたり
するんだよね・・・・。ところどころ。
『なんで、ここ(処置室)に入れてんの?家族は外に出しとけよ!』
これは10年前、私の愛するわが子の心肺蘇生のために、
呼ばれたドクターが看護師に向けて発した言葉です。
チラリと私の方を見ながら、それでいて私には声をかけず、
看護師に指示するドクター。この人から見たら私は、生ゴミ程度の
存在なのだろうなと思いました。
指示を受けた若手の看護師が、「すいません。処置するんで
外に出て下さい」と私と上の子をおんぶした夫に言いました。
ドクターと看護師のただならぬ様子に驚き、泣き出した娘を
あやすため、夫は外に出て行きました。私はその場を動くことが
できませんでした。
「家族の方は廊下でお待ちください」・・・私も看護師として
何度となく、口にしてきた言葉でした。看護の授業でも、実習でも
そう教えられてきたからです。そもそもなぜ、家族はこんな大切な
時間を、患者本人と共有できないのでしょうか。目の前で処置を
見るショックから家族を守るためでしょうか。家族に遠慮し、
診療行為に遠慮が出るからでしょうか。または、診断ミスを指摘される
など、訴訟問題を回避するためでしょうか。
「外へ出て下さい。本当に困るんです!」何度も看護師が言い
私が断る。そんなやり取りを5回ほど繰り返しました。
「この子は私が産んだ子です。私はここにいる権利があります。」
私は言い切りました。説得に困った若手の看護師は、師長を連れて来ました。
私は師長さんに「私は元看護師です。取り乱したりしませんから
ここに置いて下さい」と何度も何度も訴えました。「困ります」と言う
師長さんに「今、自分の子どもが死にそうで一番困っているのは
私なんです。あなた方は医者から怒鳴られたら困る、と思っている
だけじゃないですか!?」と食ってかかりました。
私の心の叫びが通じたのか、師長はゆっくりうなずき「あなたも
看護師なら、今の状態は分かるわよね。あなたのお子さんは、
今から一生分の親孝行をしていくんだから、よく見ててあげなさい」
と言いました。そして、「私は職業上、ドクターの前では『外へ出て』と
あなたに言わなきゃならないからね。あなたにも分かるでしょ」
と外来の隅っこに立っていた私に、ドクターが座る少し上等ないすを
持って来てくれました。
私は、師長の言葉で「ああ、この子はもう、ダメなんだな」と
悲しいけれどお別れの決心をしなくてはならないのだと思いました。
4カ月という小さな身体への心臓マッサージを見ながら、「こんなに
痛い思いをしなくちゃならなくて、ごめんね」と涙がこぼれました。
再びドクターが「家族、外に出してよ」と言うと、師長さんは
厳しい口調で「先生、この人すべて分かってここにいるんだよ。
訴えたりするようなひとじゃないんだよ!」と言ってくれました。
その言葉を聞いた時、決心がつきました。もう私にあきらめが
つくのを待つだけとなった蘇生術に「もう、十分です。皆さん、
ありがとうございました」と感謝で幕を引くことができました。
師長は私を信じてくれました。「この人は訴えたりするような
人じゃないよ」・・・この言葉で、私は悲しい現実を受け入れる
ことができたのだと思います。
私は人の心はダイヤモンドなのだと思うのです。確かに人生の
荒波を渡る途中では、悲しみや苦しみという砂や泥が付着し、
輝きを失ってしまう時もあります。しかし、本来は光り輝く
ダイヤモンドなのです。師長さんの私を信じる気持ちは私の心から
「感謝」を引き出してくれました。人を信じるという力は協力で
ダイヤモンドの汚れを一瞬で洗い流し、再び輝かせることができます。
私は、人は不幸のどん底と悲しみの中にあっても「感謝ができる」
ものだということを知りました。人はそれほどまでに輝く力を内に
秘めているのだと、実体験を通して思います。そして、その輝きは
人が引き出すことができるものだと思うのです。
私はドクターの指示が悪い、ということを言いたいのではありません。
家族は処置室に入れるべきだと訴えたい訳でもありません。医療不信が
はびこる世の中になり、訴訟を恐れ、患者を恐れる。医療者はリスクから
自分の身を守ることで精いっぱいになってしまいました。
私はこの時の師長さんを一生忘れないと思います。表面上のやり取りは
リスクも負わない代わりに深い信頼関係も結べず、味気のないものと
なります。相手を極度に恐れる気持ちは、相手の不信を呼び、
悪循環をつくります。どこかで、不信の連鎖を断ち切る勇気が
必要なのです。
私が皆さんに伝えたいことは、医療者はやはり、患者さんを
「信じる人」であってほしいということです。確かに、良かれと
思って親切に対応しても、アダで返ってくるようなこともあります。
医療者に不信をぶつける患者さんとのトラブルに巻き込まれてしまう
ことだってありますが、それはごく一部の人たちです。
大抵は、真心で接すれば同じ気持ちで応えてくれる人がほとんどです。
ダイヤモンドは宝石の中で最も硬くて強い石です。ですから、砥石では
ダイヤモンドを傷付けることはできません。
患者さんの不満は砥石です。砥石でこすっても、表面の汚れだけが
削られて、ダイヤモンドはさらに輝きを増すだけです。そんな風に
心の強い看護師が増えてほしいと思います。
苦しい時、人は理性を失います。私が師長に食ってかかったように。
しかし、師長は私を恐れませんでした。彼女の人を信じる強い気持ちは
私の心の中から感謝を引き出しました。
どんなに荒れている患者さんであっても、その心はダイヤモンドで
あると信じきる看護師であって欲しいのです。
「信じてくれる人を裏切ることは難しいことです」患者さんを
信じようとする時、看護師の心は最高に光り輝きます。皆さんは
その感覚が心地よいからこそ看護の道を選んだのではないでしょうか。
みなさん自信の心の輝きで、患者さんの心を照らし続けて行く時
”心ある未来の医療の姿”がそこにあるのではないかと思います。
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