昨夜のセイヤングでも話題になってましたけど
このライブベストの中に収められている
甲斐バンドファンの方々の歓声の若いこと!(笑)
甲斐さんは「『キャーッ!』が『ギャーッ!』になって、だんだん低くなる(笑)」
…と、おっしゃってましたが(苦笑)
数年前、甲斐さんが思いがけず手を振って下さった際
驚きと嬉しさで歓声を上げた奥さん達(笑)
その時の声は、確かに「黄色くなかった(笑)」らしい(笑)
あ、ただ「チコちゃん」でも取り上げられていたように
「『キャーッ!』と叫ぶのは『かまってちゃん』だから(笑)」というより
甲斐さんから急に構われたことへの自然なリアクションだったみたいだけど…(笑)
それはともかく…「DISC1」のラスト曲
【悪いうわさ~ダニーボーイに耳をふさいで】は
それまでのライブで、必ずと言っていいほど存在したという
「大森さんタイム」の一環なのかなあと…?
その後も、例えば【カーテン】とか【ナイトウェイブ】とか【観覧車'82】など
甲斐さんがステージから下がられて
大森さんの演奏にスポットが当たる曲がありましたよね?
もっとも、1979年の【カーテン】は
「どうしたらいいのか判らなかった(苦笑)」と奥さん
かなり前方の大森さんの正面の席で
いわゆる「標的」に選ばれたことがあり
たびたび、指を差しながら挑発するようにギターを弾かれても
手拍子するフレーズでもないし…と、息を詰め、身動きも出来ず…(汗)
別の日のライブで、その自分と同じ辺りの席にいらした男性ファンの方が
大森さんの演奏に合わせて、エアギターを弾いておられるのを見て
「おおっ!」と目ウロコ(笑)
もっとも、その真似は絶対できないでしょうけど…(笑)
男性ファンの方が、一気に増えた時期のこととあって
「甲斐~っ!」という「さん」なしの(笑)かけ声と共に
新鮮な驚きとして印象に残っているんだとか…
【漂泊者】は、両国国技館のテイクということで
奥さんが言うところの「胸が痛くなるくらい、やみくもに生き急いでいた」
…ように見えた頃の甲斐さんの声ではなかったみたいですが
「そのぶん、こっちも楽に聴けるけどね(笑)」と奥さん
まあ、当時は、この曲を聴くと
甲斐さんの姿があまりに痛々しくて、切なくなるばかりだったらしく(汗)
ライブ後半の大盛り上がりの最中でも
胸を締めつけられ、涙ぐむこともしばしばあったようです(苦笑)
そして…【最後の夜汽車】は、厳密に言うと
1979年12月の武道館テイクではないと思いますが
NHKホールから始まった秋のツアーを離脱なさっていた長岡さんが
そのまま、ステージに戻られることなく、バンドを脱退され(汗)
甲斐さんが、サンストでその発表をなさった際に
「もう書けない…これ以上、何を書けばいいんだ?」と弱音を吐かれたら
長岡さんが「そんなに命を削ってまで書かなくてもいいじゃないか」
…と、おっしゃったというエピソードを
声を詰まらせながら話された後に、この曲を流された
…といった経緯から言うと「長岡がいた証」としては
この【最後の夜汽車】しかないでしょうね?
もっとも、その経緯がなくても
甲斐バンドが【HERO】でブレイクする前の…
「スポットライトはどこかのスターのもの」…という悩ましい時期の曲だし
若き日の奥さんも含め(笑)女性ファンの皆さんが
「あのマイクスタンドになりたい!(笑)」と心から願ったのは
この曲を歌われる甲斐さんが、時に優しく、時にすがりつくように
マイクスタンドを抱えていらしたからみたいだし(笑)
レコードセールスとは関係なく「代表曲」のひとつなんじゃないかと…?
通常盤のラスト曲であり、ツアーセトリの大ラスを飾る【バス通り】
「照和」ライブのアコギバージョンが選ばれたことで
映画「照和」のエンディングよろしく…って、ライブ映像ではなく
エンドロールのBGMとして使われていたみたいに…
または「かりそめのスウィングツアー」の【最後の夜汽車】のように
「音源だけが流されるんじゃないか?」との疑惑を募らせる奥さん(苦笑)
でも、甲斐さんは「博多に帰って来ると、なぜか歌いたくなる」と
【バス通り】を披露されることがよくおありだったそうですし
期待しないで参戦して「裏切り(笑)」があったら
「喜びしかない」ですよね?(笑)
このライブベストの中に収められている
甲斐バンドファンの方々の歓声の若いこと!(笑)
甲斐さんは「『キャーッ!』が『ギャーッ!』になって、だんだん低くなる(笑)」
…と、おっしゃってましたが(苦笑)
数年前、甲斐さんが思いがけず手を振って下さった際
驚きと嬉しさで歓声を上げた奥さん達(笑)
その時の声は、確かに「黄色くなかった(笑)」らしい(笑)
あ、ただ「チコちゃん」でも取り上げられていたように
「『キャーッ!』と叫ぶのは『かまってちゃん』だから(笑)」というより
甲斐さんから急に構われたことへの自然なリアクションだったみたいだけど…(笑)
それはともかく…「DISC1」のラスト曲
【悪いうわさ~ダニーボーイに耳をふさいで】は
それまでのライブで、必ずと言っていいほど存在したという
「大森さんタイム」の一環なのかなあと…?
その後も、例えば【カーテン】とか【ナイトウェイブ】とか【観覧車'82】など
甲斐さんがステージから下がられて
大森さんの演奏にスポットが当たる曲がありましたよね?
もっとも、1979年の【カーテン】は
「どうしたらいいのか判らなかった(苦笑)」と奥さん
かなり前方の大森さんの正面の席で
いわゆる「標的」に選ばれたことがあり
たびたび、指を差しながら挑発するようにギターを弾かれても
手拍子するフレーズでもないし…と、息を詰め、身動きも出来ず…(汗)
別の日のライブで、その自分と同じ辺りの席にいらした男性ファンの方が
大森さんの演奏に合わせて、エアギターを弾いておられるのを見て
「おおっ!」と目ウロコ(笑)
もっとも、その真似は絶対できないでしょうけど…(笑)
男性ファンの方が、一気に増えた時期のこととあって
「甲斐~っ!」という「さん」なしの(笑)かけ声と共に
新鮮な驚きとして印象に残っているんだとか…
【漂泊者】は、両国国技館のテイクということで
奥さんが言うところの「胸が痛くなるくらい、やみくもに生き急いでいた」
…ように見えた頃の甲斐さんの声ではなかったみたいですが
「そのぶん、こっちも楽に聴けるけどね(笑)」と奥さん
まあ、当時は、この曲を聴くと
甲斐さんの姿があまりに痛々しくて、切なくなるばかりだったらしく(汗)
ライブ後半の大盛り上がりの最中でも
胸を締めつけられ、涙ぐむこともしばしばあったようです(苦笑)
そして…【最後の夜汽車】は、厳密に言うと
1979年12月の武道館テイクではないと思いますが
NHKホールから始まった秋のツアーを離脱なさっていた長岡さんが
そのまま、ステージに戻られることなく、バンドを脱退され(汗)
甲斐さんが、サンストでその発表をなさった際に
「もう書けない…これ以上、何を書けばいいんだ?」と弱音を吐かれたら
長岡さんが「そんなに命を削ってまで書かなくてもいいじゃないか」
…と、おっしゃったというエピソードを
声を詰まらせながら話された後に、この曲を流された
…といった経緯から言うと「長岡がいた証」としては
この【最後の夜汽車】しかないでしょうね?
もっとも、その経緯がなくても
甲斐バンドが【HERO】でブレイクする前の…
「スポットライトはどこかのスターのもの」…という悩ましい時期の曲だし
若き日の奥さんも含め(笑)女性ファンの皆さんが
「あのマイクスタンドになりたい!(笑)」と心から願ったのは
この曲を歌われる甲斐さんが、時に優しく、時にすがりつくように
マイクスタンドを抱えていらしたからみたいだし(笑)
レコードセールスとは関係なく「代表曲」のひとつなんじゃないかと…?
通常盤のラスト曲であり、ツアーセトリの大ラスを飾る【バス通り】
「照和」ライブのアコギバージョンが選ばれたことで
映画「照和」のエンディングよろしく…って、ライブ映像ではなく
エンドロールのBGMとして使われていたみたいに…
または「かりそめのスウィングツアー」の【最後の夜汽車】のように
「音源だけが流されるんじゃないか?」との疑惑を募らせる奥さん(苦笑)
でも、甲斐さんは「博多に帰って来ると、なぜか歌いたくなる」と
【バス通り】を披露されることがよくおありだったそうですし
期待しないで参戦して「裏切り(笑)」があったら
「喜びしかない」ですよね?(笑)