僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 お葬式用の写真

2008年07月22日 | 日常のいろいろなこと

昔よく知っていた方が亡くなられて、20日と21日はお通夜とお葬式だった。
享年93歳。遺族の方々の間に漂う雰囲気は、からりとして明るかった。
ふだん集まらない人たちの久しぶりの親睦会のように、なごやかであった。
まあ、これだけ長生きをされたのだから、それはそれでいいのだろう。

縁あって、地元の町会の人たちにまじってその方のお通夜とお葬式の受付の手伝いをしたのだが、その2日間で、思わず考えさせられたことがあった。
それは、その人を偲んで多くの関係者がお通夜に駆けつけ、お葬式に参列しているのに、祭壇に掲げられた故人の顔写真が、なんともひどい写真であったことだ。

亡くなられた方とは、僕も長い間お会いしていなかったのだけれども…。

写真の顔は、こう言ってはナンだが、「生ける屍」みたいだった。骨と皮と皺だけである。眼は落ち込み、頬は削げ落ち、口は半開きで、見るからに生気がない。なにせ93歳だから、亡くなる直前にはそういう顔つきになっておられたのだろうと想像する。しかし、少なくとも僕が知っているお元気だった頃の顔とは全く別人の顔に変わっていた。お葬式に訪れた人はみな「あれ? あんな感じの人だったっけ」と思ったに違いない。多くの人々に見送られて行くお葬式に、こういった写真が掲げられるのは、亡くなられたご本人に気の毒な気がした。せめてもう少し若い頃でもいいから、いい写真を選んであげるべきではなかっただろうかと(大きな世話だと言われそうだが)遺族の人たちに対して、そんなことを感じた。

もっとも、93歳で亡くなった人がお葬式で40歳代や50歳代の時の顔写真が掲げられるのも、ちょっとなぁ、という感じだけれども、といって、わざわざ老残をさらすような顔写真を参列者の前に披露するようなことも、好ましいとは思えない。やはり、最後は、生前の生き生きとした姿を想起させるような写真で、皆さんのお見送りにこたえる…というのが亡くなられた方の本意ではないかと思う。僕なら、こんな写真を掲げられるのは死んでもイヤである。まあ、死んだ時の話だけど。

そんなことで、今回の祭壇の顔写真を見て、僕は、自分の葬式用の写真は、早い目に元気そうなのを数枚選んでおいて、息子たちに、これを使うのだよと指定しておくべきだと、まじめ半分に考えているところである。

ところで、間もなく80歳になる母は、数年前から右半身が動かなくなり、今は特別養護老人施設にお世話になっているのだけれど、以前、元気なころに、
「わたしの葬式の時の写真は、これにしてや。あははは」
と、額入りの大きな写真を得意そうに、僕に見せびらかしたことがあった。

その写真には、どこかの温泉旅館の大広間の舞台で、カラオケを嬉しそうに歌っている母の姿が写っていた。派手な衣装を身につけ、右手にマイク、左手に「観衆」から投げてもらったであろう五色のテープを握り、アタマには、ぴらぴらの飾りがついた自由の女神のような冠をかぶって、満面に笑みを浮かべて歌っている。思わずズッコケてしまいそうになる珍妙な写真だった。
「ウェッ。こんな写真…? なんぼなんでも、葬式には向いてへんで」と僕。
「そうかぁ…。ええ写真やと思うけどなぁ」と母。

昨日のお葬式の写真のことがあったので、母の写真の話を思い出した。
それで、その額の写真を久しぶりに引っ張り出してきて、じっと眺めてみた。
う~ん。何度見ても感じることは同じである。
母の、はしゃぎ過ぎのオーラが、写真からあふれ出ている。

「やっぱり、これは、葬式には無理やな…」
そっとため息をつく僕であった。

 

 


 

コメント (8)
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