僕の好きな作家の一人である開高健の足跡をしのぶ 「生誕80年 大阪が生んだ開高健展」 が、2月11日から、大阪・難波のなんばパークスで開かれていた。 行こう行こうと思いながら雑事に追われているうち、最終日の20日が近づいてきたので、こらあかん、と思い、昨日の19日、モミィのスイミングが終わった午後、一人いそいそと会場のなんばパークスへ出かけた。
開高健は1930年(昭和5年)に大阪で生まれ、89年(平成元年)に食道がんで亡くなった。 まだ58歳だった。 今年は生誕80周年ということで、今年創立130周年を迎えた彼の出身校・大阪市立大が、記念行事の一環としてこの展覧会を催した。
旧制天王寺中学、大阪市立大、そしてサントリー (当時は寿屋) に就職して絶妙の宣伝コピーで才能を開花させた開高さんの大阪時代を中心に、出版社宛の手紙や 「裸の王様」 の草稿や数々の手書きの原稿、学生時代の文芸誌、取材メモ、ライター・パイプ・釣竿などの愛用の品々、ベトナム従軍時のヘルメットなどが狭い会場にびっしりと展示されてあった。 原稿を見るたびに思うのだが、この作家の書く文字は、本当に可愛くて、読みやすい。
明日が最終日でこの日は土曜日ということもあってなのか、それとも連日こうだったのか、どっちか知らないけれど、なんばパークス7階のパークスホールは、入口こそひっそりした空気に包まれていたが、中に入ると人、人、人で混雑し、ガラスケースに展示されている生原稿をじっと読む人がひしめきあい、なかなか次へ進めない。 また逆に、僕が原稿を食い入るように見つめていると、ふと気がついたら、隣の人が 「早く動いてくれないかなぁ~」 という顔をして立っていたりする。
会場内には、ずっと開高さんの講演のテープ音声が流れていた。
あの声、あの言い回し、あのユーモア…。 なつかしい。
一度だけ、開高さんの講演会を聴きに行ったことがある。 壇上でウィスキーをちびりちびりやりながら、講演するのである。 あの時は、南・北アメリカ大陸縦断の旅に関する話題が主だったように憶えている。 スライドを解説しながら、開高さんは、「こういう旅をしていると、世間のヤツらがバカに見えますわ」 わはは~と笑っていた。 そんなことを思い浮かべながら狭い会場内をゆっくり移動し、開高さんをしのんだ。
30年以上も前、「開高健全作品」 を購入し、夢中になって読み耽ったこともなつかしい。 小説が9巻、エッセイが3巻の全12巻で、ここ数日、本棚からその中の適当な1冊を手に取り、パラパラとめくりながら、死ぬまでにもう一度、この12冊を読まなきゃな~ などと思ったりした。
繰り返すが、開高さんは大阪で生まれ、大阪で育った。
どんなことでも自分のことに結びつけるのが好きな僕なので、つい書いてしまうが、開高さんは7歳の時に、誕生地の天王寺区から東住吉区に転居し、そこで育った。 ちなみに僕も同じく7歳の時から東住吉区に住み始め、高校1年までの10年近くの少年時代をそこで過ごした。
開高さんは、1974年 (昭和49年) に神奈川県の茅ヶ崎市に引っ越した。
「すなむわ~じりのぅぉ ちがすわぁ~きぃ」
…とサザンの桑田サンが歌ったあの茅ヶ崎だ。 関係ない話ですみません。
ちなみに僕がいまの藤井寺市に引っ越して来たのも、同じ1974年である。
それがどうしたん…? と言われたらそれまでですけど。 たびたびすみません。
開高健のことを書き始めたらキリがなくなるので、読んでくださっている方が退屈しないうちにやめておきますが、次回また書こうと思います。 えっ、もうすでに退屈してるって…? 重ね重ねすみません。
今日はこれくらいにしといたる (笑) 。
では、皆さま、よい日曜日を。
19日、パークスホールで。 入り口はひっそりしているが、中は満員だった。