昨日、PL学園の桑田のことを書いているうちに、今も僕の思い出に残る「PL学園・奇跡の逆転劇」のことが浮かび、これをどうしても紹介したいという衝動に勝てず、今日もまた同じような話題になりました。
PL学園は1976年(昭和51年)の夏、甲子園2度目の出場で大健闘し、決勝戦進出を果たしたが、東京の桜美林という高校に惜敗して初優勝を逃した。
甲子園に出る大阪の代表校の中でも、僕たちの住んでいる街から近いPL学園には特に深い愛着があった。
そして78年(昭和53年)の夏の大会を迎えた。
桑田・清原が甲子園に登場する5年前のことである。
初優勝をめざしていたPL学園。
準決勝まで進み、あと2勝で全国制覇のところまできた。
準決勝の相手は愛知の中京高校。
その日、8月19日は土曜日で仕事は休みの日だった。
僕は友人の家に招待され、そこでビールを飲みながらTV観戦した。
しかし…
4回、6回、8回と、中京は1点ずつ小刻みに得点をする。
PL打線は相手投手の前に沈黙を続けゼロ行進。
9回の表も、中京はまた1点を挙げて4対0になった。
「あ~あ。もう、あかんなぁ…」
僕と友達は、肩を落としてテレビを眺めていた。
そこから「奇跡」は起こった。
9回裏、PL学園の攻撃。
まず先頭打者が三塁打。続いて二塁打。…1点を返した。
次は内野ゴロで一死三塁に。そこから2本ヒットが続く。
2点目を奪って4対2となり、なお一死一、二塁。
「わっ! ええぞ、ええぞ、行け行けぇ…!」
と、僕も友人もビールを一気にあおって、テレビに向かって絶叫する。
スタンドは騒然となり、アナウンサーは声をからす。
次打者はうまくバントを決めて、ランナーを二、三塁に進めた。
2点追う場面でツーアウト二、三塁となった。
胸がドキドキしてくる。
PL応援団の興奮が、TVに怒涛のように伝わってくる。
もう僕たちは声も出ない。息を呑むとはこのことだ。
「うぅ~ぅ、頼む。打ってくれ…」念仏のようにつぶやくのみ。
大声援を受けた打者は、結局四球で出塁して二死満塁だ。
PLの生徒応援団は、男子も女子も泣きながら声援を送っていた。
一球一球に胸が詰まる。心臓が止まりそうである。
とうとうツースリーのフルカウントになった。
中京の投手が投じた最後の一球。
PL学園の打者が放った痛烈な一撃は二塁を強襲した。
ランナーはいっせいにスタートを切っていたので、2人が生還。
土壇場でPL学園は、ついに同点に追いついたのだ。
「やった! やった、やった~!」
僕は友人と抱き合い、再びビールで乾杯した。
そして延長12回裏、PL学園は押し出しの四球でサヨナラ勝ちした。
5対4。奇跡的な決勝進出であった。
「かんぱーい!」
と、僕たちはこの日何度目かの乾杯をして、野球にも酒にも酔った。
そばにいた友人の4歳のお嬢ちゃんを抱き上げてぐるぐる回し、喜んだ。
そして翌日。8月20日。
決勝戦は、優勝候補の呼び声の高かった高知商が相手である。
3回の表に高知商が、二死満塁からのタイムリーで2点を先取した。
PL学園は、高知商の森投手に完璧に抑え込まれたまま、9回を迎えた。
この日は日曜日だから、むろん僕はテレビに釘付けだ。
「う~ん。今日こそ、もうダメかなぁ。悔しいな~」
そう思いながらも、昨日を思い出して9回裏の反撃を待った。
しかしまあ、人生と言うものはそんなにいいことばかりは続かない。
たぶん今日はだめだろう…と半ばあきらめてテレビを見ていた。
だが、そこでまた「奇跡」が起こった。
先頭打者安打と四球とバントで、一死二、三塁の同点機を作る。
ここで、後に阪神に入団する捕手の主将・木戸が、犠牲フライを打ち上げる。
1点を返して、二死ではあるが二塁に走者が残っていた。
なんとなく、昨日の再現が予感され始めた。
次に打席に立ったのがエースで四番の西田(後に広島へ入団)。
その一撃は一塁線を破る長打となり、二塁走者が生還して同点になった。
これでもう押せ押せムードは最高潮。
次打者の打球が左翼手の頭上を越えたとき、試合が終了した。
3対2の逆転サヨナラ勝ち。
PL学園が初めて甲子園で優勝した瞬間である。
ここから桑田・清原の時代をはさんだ10年間で、春夏7度、全国制覇をした。
PL学園の黄金時代は、この奇跡の連続逆転劇から始まったのである。
1987年(昭和62年)の春夏連覇を最後に、優勝からは遠ざかっている。
大阪は、今では中田翔(日ハム)らを輩出した大阪桐蔭高の全盛時代だ。
しかし、あのPL学園の奇跡の連続逆転劇は、今でも思い出すと興奮する。
今からちょうど30年前のことになるのですね~。
抱き上げてぐるぐる回した友人のお嬢ちゃんも、今は2児の母親です。
なんだか、昨日の出来事のように思ってしまいます。
1978年(昭和53年)8月20日 毎日新聞
翌日の毎日新聞。
ちなみに、うちの次男のお嫁さんは高知商の出身でした。
昨日のブログにコメントをもらって、初めて知った次第です。
今日の記事は、高知商を引き立て役で登場させてしまって、ごめんね
当時の新聞記事を保存していますので、ぜひ皆さんにも見てほしいです。
当時の資料と、お話を伺っているだけで試合の緊迫感と感動が伝わってきました!
30年前の事はさすがに覚えていませんが、確か小学生の頃は荒木大輔がフィーバーしていて、雑誌の切り抜きなんかを下敷きにはさんでいたような覚えがあります。。イケメンだったですからねぇ。(^^)
KKコンビの前は、荒木やら愛甲やらドカベン香川でしたか。。。?んん~、私も「昭和」の人間やなぁ
荒木は負けましたけどね。
その時は僕は自転車旅行中で、飛騨高山の民宿の広い座敷でぽつんと一人でご飯を食べながら、テレビの決勝戦のニュースを見たのを覚えています。
1980年の夏のことでした。
たしかに荒木は高校野球史上に残るイケメンでしたね。「ハンカチ王子」どころではなかったよ。
あ、そういえば、荒木も斉藤もどっちも早稲田実業だったっけ。
あ~、古い話ばっかりやなぁ。