功山寺決起

第157回 独立講演会@神戸に当選しました。㊗️

5分前に、キタ━(゚∀゚)━!(ぼくらの国会・第241回)

2021-11-11 18:10:58 | 青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会


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「岸田内閣に丸め込まれるに違いない」という趣旨の書き込みが (2021-11-11 14:06:02)

2021-11-11 16:48:02 | On the Road
▼日本を心配されてのことだと、理解するよう、懸命に努めています。

▼ただし・・・丸め込まれるがごときことを、動画でもどこでも、ひとことも言っていません。
 評論家やコメンテーターではないので、言わないだけではなく、行動でもそうです。

 すべて現実の動きに公平に対峙し、悪いものは悪い、良いものは良いと、どんな圧力にも屈せず、かつ、いかなる利権とも無縁で行くと、いつもとまったく同じことを言い、その通りに一身を捧げて行動しています。



▼第二次岸田政権の、内閣と党の人事が決しましたが、それをご覧になりましたか。
 ぼくの人事は毛ほども動いていません。
 相変わらず、党では経産部会長代理、それだけです。部会長代理は役員ではあっても、決定権は皆無です。国会では、経産委員会の理事とODA特別委員会の理事、それだけです。与党のヒラ理事は協議に同席するのみです。内閣・政府では、役職はずっとゼロです。当選から何年経っても、変わりません。
 つまり無冠中の無冠です。同期当選の議員と比べてみていただいても、そうです。
 これでどうやって、丸め込まれるのですか。

 高市さんは党四役の一員であり、政調会長です。
 冷遇ではないかという書き込みもたいへん多いですが、ぼくの知る限り、高市さんは党の政策づくりの頂点という重大極まりない役職に就かれていることを、よく活かしておられます。
 その高市さんは「総選挙後に青山さんを処遇するから、経済安全保障をはじめ共にやりましょう」と仰っていました。ぼくは総裁選で高市候補の推薦人になったときを含めて、地位や役職に関するこうした言葉には、一切、何もお応えしていません。
 そして、総選挙後も、処遇は皆無です。
 それでいいではありませんか。

▼一方で、党内の任意団体である護る会 ( 日本の尊厳と国益を護る会 ) は代表です。
 まだ人数未確定ですが、総選挙で減ったとは言え60人以上です。
 護る会はまったく派閥ではなく、派閥に似た要素もゼロ、逆に各派閥から自由に議員が自由に集まっている議員集団ですが、仮に派閥と比べれば、党内第2の大集団です。

▼政治記者時代の長い経験も含めて、こうしたケースをかつて、見たことがありません。

 丸め込まれる、そんな卑しい言葉を、安易になぜ仰るのでしょうか。あなたは、日本の主権者です。その主権者にやる気を削がれることほど、辛いことはありません。

 短いあいだどれほど辛くても、ぼくはありのままに申して強靱ですから、あっという間に忘れます。
 しかし主権者、日本の主人公のあり方は、ご自身で考えていただきたく思います。
 正確な情報が無償、無条件で味方から提供されても、さっと見て聴いてその味方の足元をまずすくうのであれば、もしも権力者が権力に溺れるときに、これほど扱いやすい主権者もないでしょう。

▼以上、日本国と日本国民の現在と未来をめぐって申しあげたのですが、やって来るのはきっと、『そんなことを気にしないで』というぼくの感情をめぐる反応が多いでしょうね。
 良く分かります。
 それは優しいこゝろでもあると思います。たいへんに感謝しています。

 では、むしろ正面から、ぼくの感情をありのままに語っておきましょう。
 前述したように、辛いな、寂しいな、哀しいなと思っても、ほんとうにすぐ忘れます。
 そういう性格です。
 同時に、ほんのすこしのカケラ、やる気が壊された瞬間のちいさな、ちいさなカケラが、感情に残ります。ほぼ無意識です。もう長いあいだ、それが続いていますから、ある程度は、こゝろの底に降り積もっています。
 それが暮夜、みずから気がつくことのある、鬱屈の正体です。
 しかし、やる気の本体そのものは、まるで傷ついていません。そんな柔、やわにはできていません。
 そういうことです。
 したがって、ぼくを心配していただくのは嬉しいですが、ぼくは心配ありません。そもそも、ぼくのことなど、どうでもよろしい。
 主たる問題は、主権者としてのあり方なのです。
 このままでは情報を活かせないのではと、懸念します。
 情報を活かさずして、正しいまつりごとは追求できません。

 なお、考えた末に記したこのエントリーは、外国による工作活動、その工作に有償で協力している日本人による書き込み、すぐに実行できてしまうネット工作などには一切、触れていません。
 それはまったく別の問題です。
 そしてそれは把握できます。
 今回の問題提起は、おそらく非難をごうごうと受ける問題提起は、あくまでも良き日本国民、国を憂える素晴らしき日本国民についての提起です。




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なぜ、由利公正か(2021-11-11 04:49:28)

2021-11-11 12:47:00 | On the Road
▼このブログには、書きあげていながら公開はしていないエントリーが、かなりあります。

 会員制レポートには、レポートを仕上げ終わっているか、またはほぼ書きあげたまま、会員に配信していないレポートが山のようにあります。
 さらに、作家として書いた書籍原稿で、自分の手元に置き続けるだけで、どの編集者にも見せていない原稿も非常に多くあります。

▼上記のうち、書籍原稿は、もしも命が続くのなら、あるいは時間のある日が来るのならば、おのれで納得できるところまで仕上げて本にして、世に出そうと、ぼんやりとは考えています。
 では会員制レポートは、どうか。
 次から次へと最新の動きが世に現れるから、会員のためには、それについて書いたレポートのほうが会員のためになるだろうと考え、必ずしも最新の動きについて書いたものではないレポートは、配信を後回しにしています。

▼しかし、冒頭に記したこのブログのエントリーは、書いたのにアップしない事情が、まったく違うのです。
 それは、ひとえに、読むひとへの影響を考えてのことです。

 会員制レポートは有償、書籍も有償 ( 図書館を除く ) です。
 すなわち意志を持って、ぼくの発信を手にしようというかたがたです。仮に無意識ではあっても、ある程度の覚悟があると言ってもいいと思います。

 けれども、このブログと動画は、まったくの無償で、無条件に不特定多数へ発信される情報です。
 ぼくの場合、無償というのは、ありとあらゆる意味で無償です。
 ブログに、スポンサーとのリンクを貼ったりまったくしないし、実は考えたこともありません。
 動画は、スポンサーが付いているけど、動画のスタートから繰り返し、事実を述べているように、そのスポンサー料はただの1円もぼくは受け取りません。
 撮影、編集で協力してくださっているみなさんが受領なさっています。

 この動画は、スタートから1年3か月半で再生回数が3300万を超えています。
 したがってスポンサー料もそれなりにあるのでしょうが、どうであれ、1円も受け取りません。金額もまったく知りません。
 いまだに「スポンサー料目当てで動画をやっている」という非難が来ますが、例によって、あまりにも事実と真逆ですね。主権者に情報を提供しているだけです。

▼ブログと動画は、無償で無条件の発信だから、どんなひとの眼にも、ふと、触れることがあるでしょう。
 そのために、情報の提供に、ほんとうはきわめて慎重で居ます。
 今朝も、夜が明けるまえから、このエントリーをアップしていいかなぁと考えつつ、記しています。



▼ぼくは少年時代から、幕末史とともに生きてきました。
 志の形成に、大きく影響していると考えます。同じですよというかたも、少なくないでしょうね。

 たとえば龍馬さんは、暗殺者の襲撃を受けて、死を悟ったとき、誰に別れを告げたのか。
 魂というものがあるとして、死が訪れるとき、肉体の桎梏 ( しっこく ) からその魂が解き放たれる、自由になるときがあるのかも知れません。
 父と母を喪ったとき、父も母も、持病に苦しんだひとでしたから、あまりにも深い悲しみに襲われる一方で、自由になった父と母を感じました。
 ぼくの体験だけではなく、不世出の天才レーシングドライバーであったアイルトン・セナがイタリアのサーキットで死ぬとき、サーキットに配属されていた無神論者の医師が、セナがセナから解放されて空へのぼるのを視た、あるいは感じたと告白している、これは良く知られていることですね。

 もしも龍馬さんが別れを告げたとすれば、あくまで仮定ですが、ひとりでは無かったでしょう。
 魂が肉体から自由になるのなら、一気にあちこちに行けるはずですから。
 そのうちの、もっとも大事な人は、実は由利公正 ( ゆり・きみまさ ) ではないでしょうか。
 越前で、その倒幕思想が大罪とされ、自邸に閉じ込められていたひとですね。閉門、蟄居 ( ちっきょ ) です。

 倒幕が実現し、龍馬さんが、この由利公正を訪ねてきた場面は、さまざまな史学者、作家が描いています。
 ところが、そのわずかなあとに、由利さんは異様な突風に襲われ、龍馬さんがくれた写真を風に奪われてしまいます。これも、よく知られた出来事です。

 ちょうどそのとき、龍馬さんは暗殺者の剣先を額に受けていたのでした。
 突風が別れを告げることであったのなら、なぜ、由利公正を龍馬さんが選んだのか。
 別れを告げるべき何人かのひとりとしても、いちばん劇的な別れにみえます。
 交遊の深さ、会った回数なら、もっと別れを告げるにふさわしい人物群は、龍馬さんにはたくさん居ました。
 なぜ、由利公正か。

 それは、正しいことを言いながら狭く暗く長く、閉じ込められた由利さんに、自由に歩いてきたはずの龍馬さんは、長い苦闘の果てにに光をみた喜びをいちばん共有できたからではないでしょうか。

 たとえばこのぼくに、その日は来るのか。
 ただ苦しんで戦い、光を見ることはなく、別れをことさら告げる気にもなれず、そのまま孤独に天へ戻るのだろうか。
 まだ正体不明の第二次岸田内閣が発足した翌朝、ふと、それを考えたのでした。

 だからどう、ということはありませぬ。
 主権者の負託を受けているのですから。
 きょうも、原稿を書く時間の無いまま国会に出て、どっと増えた公務日程に、変わらない屈しない志もて、臨むだけです。


 このエントリーを公開するかどうかは、あとで考えます。

※ 文中の会員制レポートは、これです。
  文中の動画は、これです。




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