田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける
山部赤人
山口志道の説
「山部赤人は上総山辺郡の産なり、故に赤人の富士を望むといふ歌は安房田子の浦にて詠まれし歌なり、安房郡海辺の総称を鏡が浦といひ、この海に富士の影をうつす故に名とす、右の海辺に田子といふ所あり、その下を田子の浦といふ、赤人ここより富士を望みて詠まれし歌なり、田子の浦といへば駿河にのみありとおもふは東海道に近きのいひなり」
富士山は不思議
有名すぎて古い文献ほど出てこない。以下は常陸国風土記
筑波の県は、昔、紀きの国といった。美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に、采女うねめ臣の一族が、筑箪つくは命を、この紀国の国造として派遣した。筑箪命は「自分の名を国の名に付けて、後の世に伝へたい」といって、旧名の紀国を筑箪国と改め、さらに文字を「筑波」とした。諺に「握り飯いひ筑波の国」といふ。
昔、祖先の大神が、諸国の神たちを巡り歩いたときのことである。旅の途中、駿河の国の富士山で日が暮れてしまった。そこで福慈(富士)の神に宿を請ふと、「新嘗祭のために今家中が物忌をしてゐるところですので、今日のところは御勘弁下さい。」と断られた。大神は、悲しみ残念がって、「我は汝の祖先であるのに、なぜ宿を貸さぬのだ。汝が住む山は、これからずっと、冬も夏も、雪や霜に覆はれ、寒さに襲はれ、人も登らず、御食を献てまつる者もゐないだらう。」とおっしゃった。さて今度は、筑波の山に登って宿を請ふと、筑波の神は、「今宵は新嘗祭だが、敢へてお断りも出来ますまい。」と答へた。そして食事を用意し、敬ひ拝みつつしんでもてなした。大神はいたく喜んで歌を詠まれた。
愛はしきかも我がすゑ 高きかも神つ宮
天地あめつちと等しく 日月ひ つきとともに
民草集ひ賀ことほぎ 御食み け御酒み き豊けく
代々に絶ゆることなく 日に日に弥栄え
千秋万歳に たのしみ尽きじ
かうして、富士の山は、いつも雪に覆はれて登ることのできぬ山となった。一方、筑波の山は、人が集ひ歌ひ踊り、神とともに飲み食ひ、宴する人々の絶えたことは無い。
筑波山は、雲の上に高く聳え、西の頂は、高く険しく、雄をの神(男体山)といって登ることは出来ない。東の頂(女体山)は、四方が岩山で昇り降りはやはり険しいが、道の傍らには泉が多く、夏冬絶えず湧き出てゐる。坂東の諸国の男女は、桜の花咲く春に、あるいは紅葉の赤染む秋に、手を取り連れ立って、神に供へる食物を携へ、馬に乗りあるいは歩いて山に登り、楽しみ遊ぶ。そして思ひ思ひの歌が歌はれる(歌垣において)。
筑波嶺に 逢はむと いひし子は 誰たが言こと聞けば 神嶺かむみね あすばけむ
(筑波嶺の歌垣で逢はうと口約束したあの娘は?
ちゃんと誰かの言葉を聞き入れて神山の遊びをしてゐるよ)
筑波嶺に 廬いほりて 妻なしに
我が寝む夜ろは 早やも 明けぬかも
(筑波嶺の歌垣の後で宿りするのに、相手がなけりゃ?
さっさと独りで寝れば、こんな夜はすぐに明けてしまふさ)
多くの歌があり、すべてを載せることはできない。諺に「筑波嶺の集ひに、妻問のたからを得ざれば、娘とせず」といはれる。