ここに気になる本がある、その前に読んでおかなければならないのが中原中也
『ゆきてかへらぬ ー中原中也との愛ー』
長谷川泰子/述 村上護/編 1974年 講談社
『長谷川泰子さんが中原中也と同棲し、のち小林秀雄氏のところに去って行った(大正14年)ことは、よく知られた事実である。それは三角関係ということで、ゴシップ的に扱われやすいため、いろいろ取りざたされてきた。だが、その真相に触れたいきさつについては、当事者があまり語っていないため、やはり推測に頼る部分が多かった。ことがことだけに、それも無理からぬことかもしれないが、詩人中原中也の研究が細かいところまでいっている現在、ただゴシップ的風聞にとどめておくのも、やはり心残りと考えるのは私一人ではないと思う。』村上護
長谷川 泰子(はせがわ やすこ、1904年5月13日 - 1993年4月11日)は、日本の女優。戦前の芸名は、陸礼子。複数の著名な文化人・文学者との恋愛や交遊関係があり、文学史に名を残す。中原中也、小林秀雄 (批評家)との三角関係で知られる。グレタ・ガルボに似た女と言われた。
『ゆきてかへらぬ ー中原中也との愛ー』
長谷川泰子/述 村上護/編 1974年 講談社
『長谷川泰子さんが中原中也と同棲し、のち小林秀雄氏のところに去って行った(大正14年)ことは、よく知られた事実である。それは三角関係ということで、ゴシップ的に扱われやすいため、いろいろ取りざたされてきた。だが、その真相に触れたいきさつについては、当事者があまり語っていないため、やはり推測に頼る部分が多かった。ことがことだけに、それも無理からぬことかもしれないが、詩人中原中也の研究が細かいところまでいっている現在、ただゴシップ的風聞にとどめておくのも、やはり心残りと考えるのは私一人ではないと思う。』村上護
長谷川 泰子(はせがわ やすこ、1904年5月13日 - 1993年4月11日)は、日本の女優。戦前の芸名は、陸礼子。複数の著名な文化人・文学者との恋愛や交遊関係があり、文学史に名を残す。中原中也、小林秀雄 (批評家)との三角関係で知られる。グレタ・ガルボに似た女と言われた。
『私はビルの管理人として、十二年半働きました。朝早く目覚めると屋上に出て、鳩に餌をやりました。一人ぼっちの生活でしたが、鳩を毎朝ながめながら、こしかた60年の思い出を反芻(はんすう)したり、中原の詩を読んで涙を流すこともありました・・・・ビルの管理人の後、ホテルの帳場に半年ほどすわり、その仕事も1年あまり前にやめて、いまは一人静かに暮らしています。気ままに過ごした人生も70年を越えました。』長谷川泰子
夏の日の歌 中原中也
青い空は動かない、
雲片(くもぎれ)一つあるでない。
。。。
生ひ立ちの歌
I
幼年時
私の上に降る雪は
真綿のやうでありました
少年時
私の上に降る雪は
霙〈(みぞれ)〉のやうでありました
十七 ――十九
私の上に降る雪は
霰〈(あられ)〉のやうに散りました
二十 ――二十二
私の上に降る雪は
雹〈(ひょう)〉であるかと思はれた
二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました
二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……
II
私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪の燃える音もして
凍るみ空の黝〈(くろ)〉む頃
私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました
私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
涙のやうでありました
私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました
私の上に降る雪は
いと貞潔でありました
雪は泰子という解釈もあるが、むしろもっと一般的に運命と言ってもいいでしょう。
泰子も同じ空をビルの屋上で眺めて中也の詩のことを思い浮かべたに違いない。
「60年の思い出を反芻」する中には破産した実業家も、泰子をレイプした演出家も、口説き上手な小林秀雄も愛する中也も空にいたことだろう。小林秀雄との性活が唯一幸せだったというのは本当だろうか?
60年の宝のような思い出は誰のものでもなく泰子のものだった。其の所為か想い出を語るときの写真は老いても素敵な魅力を発しています。
『汚れっちまった悲しみに』
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れっちまった悲しみは
たとへば狐の革衣
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……