「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
====== ======
後期のヴィトゲンシュタインはコムニケーションを言語ゲームととらえた。リアリティを媒介しているはずのコムニケーションが媒介ゲームであるとしたら、「狼が来た」という叫びを聞いた者には、狼が来たというゲームのスタート役となり、以降、リアル狼とは無縁のコムニケーションゲームの始まりとなる。
リアル狼は誰も見ていない。このゲームに意識が乗れるか乗れないか、乗れれば、それがリアリティというものだ。もちろん狼は存在する。しかしこのリアリティに関して噛みつくリアル狼には責任が無い。沈黙しない事に責任がある。
それゆえヴィトゲンシュタインは語りえないことを語ろうとするノイズを排除して論究(ヴィトゲンシュタイン前期)を完成させた。しかし後期には論及を語ること自体の虚構性を示した。
現時点でわたしの個人的論究の心境はヴィトゲンシュタインの後期の心境に近いが、個人的関心は、存在論の空虚さが生命論の空虚さに直結していることに引き寄せられている。出発点である根源が空虚であるからこそ、言語ゲームは意味を強く必要としてる。同じように意味内実のない論理(情報科学のエレメント)というものが先行して宇宙に存在し、それは物質世界や生命現象も含めて、それらが宇宙になかった時代に情報マトリックス(計算だけの存在)だけが無数の実在ゲームを十分な時間をかけて試しつくしていた。私たちの世界はその後に生まれた論理実証の内実の展開過程に過ぎない。
従って常に意味//内実//質料はこの情報マトリックス進化(蓋然性の計算)の後からやってくる。故に物理学を含む人間の思いついた存在論は宇宙起源ではなく人間起源の論理的創作(情報マトリックス進化の頭脳による再発見)にすぎない。創作は創作である限りにおいて人間にとって無限であり自由な世界。つまり人間の自由も個人の自由も本来は創作過程ありきの人間起源の自由=虚無であるが故の内実実在探し(狼が来たというゲーム)なのである。
例えば宇宙を無限と考えようと有限と考えようと影響にない実在ゲームもあれば、深刻な違いと考える実在ゲームもある。創造的な頭脳がある限り宇宙は無限であり、その人の一生限りの宇宙と考えれば宇宙は人間の有限の集合体である。科学の発展が示すように発見された”真実”は人間の創造とともに変化する。人間の自由なスペース<明鏡止水>は創造(情報マトリックス進化(蓋然性の計算)の頭脳による再発見)と供にあるが、しかし実存主義が主張するように、予め人間に自由は与えらてはいない。故に自由からの逃走などという失楽園的哲学探究は逆立ちした創作小説と同じ。
最後の絵を見て最初の絵を想像できるのは、最初の絵が見えていたから。これが人間の疑問構造(和歌の構造)である。答えの見える天才だけが真の疑問(情報マトリックスの扉を開く)を提示する。
1949年の著書『心の概念』においてライルは西洋哲学の主調をなしてきた心身二元論を誤りであると断じた。心が独立した存在であるとか、心は身体の中にありながら身体を支配しているといった考え方は、生物学の発達以前の直写主義がそのまま持ち越されたものにすぎず、余剰として退けられるべきである。ライルによれば、心身問題を論じる目的はなによりもまず、人間存在のような高度な有機体が、その行動から得られる明証性をもとにしてどのようにして抽象化や仮説形成といった工夫、戦略、手腕を発揮するのかを記述することである。
凡人の場合疑問は何事も導かない。むしろアホがアホを定義する。これが純粋な思考である。つまりアホの裏返しがライプニッツの予言的言説『私の言語の限界が、私の世界の限界』言語=数学と置き換えれば、より現代的な世界の限界の定義になる。これに思考の大きさが関係してくる。情報マトリックス進化は数学の創造によって人間の頭脳に写し取られる。
他方で非存在の連結(空集合を元とする関数群)が私達自身である。故に私たちは対象を無限に実体レヴェルで解明して分析できるわけではない。やがて因果の逆転(設問の非存在)に到達して沈黙せざる得ない。わかるかな。故にこれらすべての構造について私の確信の外に出ることはない。モナドは無限に独立しているのであるから。「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」語り得るものはモナド函数の作用素にすぎない。