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公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

書評『愚民文明の暴走』呉智英 適菜収

2021-08-08 11:40:00 | 今読んでる本
追補2021/08/08
なんでカマラ・ハリスの絵本なんか翻訳したの?悪い奴に騙されていないか?
追補終

愚民文明の暴走2014年8月1日発行
呉智英
適菜収
発行所株式会社講談社

適菜収 (てきな ・おさむ ) 1 9 7 5年生まれ 。作家 ・哲学者 。大衆社会論から政治論まで幅広く執筆展開中 。訳書に 『キリスト教は邪教です !現代語訳 「アンチクリスト 」 』 、著書に 『ゲ ーテの警告 』 『ニ ーチェの警鐘 』 『いたこニ ーチェ 』 『日本をダメにした B層の研究 』 『日本を救う C層の研究 』 『バカを治す 』 『箸の持ち方 』など多数 。

呉智英 (くれ ・ともふさ ) 1 9 4 6年生まれ 。評論家 。知識人論からマンガ評論まで 、幅広い分野で執筆活動を展開 。主な著書に 『封建主義者かく語りき 』 『バカにつける薬 』 『ホントの話 』 『健全なる精神 』 『マンガ狂につける薬二天一流篇 』 『現代人の論語 』 『つぎはぎ仏教入門 』 『吉本隆明という 「共同幻想 」 』など多数 。

『呉 うん 。だから西洋思想を批判的に見るときに 、どうしても最後にプラトンの問題が出てくる 。政治思想研究者の佐々木毅は 「プラトンの呪縛 」みたいな言い方をするけどさ 。まずプラトン主義があって 、それがキリスト教のダイナミックな物語性とうまく融合して 、西洋人の世界をつくったという感じがする 。それに対して適菜先生はどういう対抗策をお考えでしょうか ?

適菜 私はニ ーチェに私淑していたので反プラトンを推したいんですが 。キリスト教的な世界観や近代の危険性を指摘する思想家 ・哲学者は 、反プラトンの側面がありますね 。私はプラトンの問題が前から気にかかっていて 、 『いたこニ ーチェ 』 『脳内ニ ーチェ 』という小説を書いたんですけど 、あれはプラトンの呪いが現代の日本にまで及んでいるという話なんです 。プラトニズムがキリスト教の土壌になり 、それが近代を生み出したということですね 。』


佐々木 毅 (ささき たけし、1942年(昭和17年)7月15日 - )は、日本の政治学者、日本学士院会員、第27代東京大学総長。福田歓一の指導を受け、マキャベリの政治思想の包括的研究からスタートし、ジャン・ボダン、プラトンなどを手がけた。80年代に入り、現代アメリカの政治思潮の分析に手を広げると同時に、現代日本の政治については特に「横からの入力」(アメリカの圧力)というキーワードを軸に論を展開し、現在に至るまで論壇で盛んに活躍している。豊田真由子は門下生。

福田歓一(ふくだ かんいち、1923年7月14日 - 2007年1月7日)は、日本の政治学者。専門は、西欧政治思想史。東京大学名誉教授 丸山眞男との共著二編



以下私の見解
ライプニッツの単子論はこの種の真理追求プラトン派《神の遮蔽の壁》議論を乗り越えるために役立ちそうな立論と思う。単子論に哲学としての徹底が無いのは、どうしてもリアリティの裏付けを考えて行くとキリスト教に取り込まれた変形プラトン(神の遮蔽と救世の予定)派と対立せざるえないという直感か確信がライプニッツにあったからだろうと思う。

他方現代の物理学にはそのような悩みはない。ただなるべく「少数の原理から演繹された、出来る限り厳密に表象する」モナドの演算を通じて、宇宙が自律展開する数学でできていることの証明が現代物理理論の目的ということになる。

質点が何の力も受けないとき,質点の運動状態は変化しないそれは何故か?

しかしながら人類は未だに慣性の法則【運動の第1法則英語Newton's first law)または慣性の法則は、慣性系におけるを受けていない質点の運動を記述する経験則である。】を数理によって導出できていない。むしろ量子レヴェルでは8%ほど直線運動していない。慣性系は在るものという前提がガリレオ ニュートン以来の物理学である。アインシュタインはただそれを重力等価という仮定で解釈しただけである。等価性原理という思考トリック抜きに一般相対性理論は成立しない。

ショーペンハウエルは「イデーとは、理性に向かってよりよい意識を示してくれるような概念の全体である。従って、よりよい意識を概念の全体から切り離すことはできない。」と概念という道具箱一式とここに立つ意識との一体の在り方をイデーとして捉えた。

等価性原理もまた現代物理学のイデーである。イデーを選択したのであって、ここに立つイデーに支配されているのではない。このアインシュタインの提示したイデーのお陰でより良い宇宙認識という意識を一般相対性理論として示してくれた。しかし不足がある。

物理学の観点に欠けているのはより良い世界理解を探求していながら、概念の全体から意識を除外している点である。これはイデーの実在を発見過程から切り離すことによる概念的把握の破綻でもある。少なくとも物理学はショーペンハウエルのイデーの要件を満たしていない。

ところがライプニッツはさらに一歩深く関数の総体と世界を汎理論の単位である元と写像からなる関数組み単子の階層的総合と考えた。理念の実在がここまでくると、いかに階層を工夫しようと、もはやライプニッツは現実の影にのみ存在する真理を神として隠しておくことはできない。それ故に彼の哲学は途絶している(ライプニッツの遠慮)。この時プラトンの呪いは一度克服されたがライプニッツを継承する西欧哲学が無かった。キリスト教の教義が壁となった。かといって仏教が優位にあるとも言えない。物質だけからなると思っている外部世界が実は<不生不滅>の<非自非他>意識世界であると直感するアプローチには体験性はあっても説得性がない。一人数学を奥深く考えた(生命を燃やして見ようとした)岡潔のような先駆者が外部世界が数理でできていることを喝破したのみであろう。

ニーチェは汎理論を継承したのではなく、イデーではなく真反対の個別、超人としての特異点に反語的答えを求めた。イデーが世界を多様化させ現実全体を創造したこと=『我々の世界はモナド(計算可能な概念)の集合であり、究極的に長い時間を経て一つのモナド=ビックバンの結果に所属している。なぜそのように考えるかというと、過程は略すが、宇宙が一つのモナドとは私たちに内包している素粒子が織りなす量子モツレの巨大な編み物である。私たちは巨大な量子モツレの結果自然発生した巨大グラフ計算機の計算結果の物質化の一つであって、その初期条件が一つのモナドを創っている事』(岡山)に確信の持てなかったこれまでのプラトン以来の哲学では、隠れたイデー(神)に頼れないので、一挙に圧倒的な人間を世界の原因とするしかない。ニーチェは特異点を発見した功績はあったが、彼の哲学は概念的把握で破綻している。

私は『我々の存在は計算結果に過ぎない。』(岡山)と考える。その計算プリントアウト結果の『パラメータ時空にインクのように貼り付いている私達』(岡山)にすぎないと考える。そういう意味でニーチェと同じく私は間主義であり世界は無限に探求可能ではないという意味で虚無主義である。しかし哲学は概念的把握の探求を捨てるべきでない。

『我々の存在は計算結果に過ぎない。』のだから、その大本の数学命題集成もまたクルト・ゲーデル(Kurt Gödel, 1906年4月28日 - 1978年1月14日)が不完全とした数学の相対化は当然の帰結であって、我々の存在は意識という仮象も含めて計算結果として宇宙に存在する任意の一つの真理に過ぎない。科学の世界の地動説(真理普遍性)がゲーデルによって根本から崩されたのは『宇宙が我々を中心としていない』という当然の帰結である。つまり「論証の算術化」というライプニッツのアイディアの論文化でもあるゲーデルの導入したゲーデル数というパラメータ工夫で、意に反してすべての論証の無矛盾が期待できないという結論に達したのがやっと20世紀のことだ。『ゲーデルの世界』(海鳴社)参照

『モナド連続体と現象を分離したライプニッツのやり方でパースを再構成すると、物質以外の次元を考えざる得ない。(故に)現在とは経験を発見する場、すなわち過去のモナド連続の上の断絶を生成することの時間的表現であり、実在の世界ではない。仮に今が過去という知識の連続体系にすぱっと差し込まれた断面であるならば、その微小直前である-αあるいは微小直後+αのαの絶対数量が現在の認識の差異、すなわち区別の根拠であれば、無限に小さなαが選べなければ、知識の連続体系を否定しなければならず、無限に小さければもはや微小直前と微小直後は現在とさえ区別できない。よって現在は経験するのではなく知識の連続体系つまりモナド連続体によって発見される仮構なのである。』(岡山)つまり仮象現実の我々が現在を含む『モナドを理解する唯一の方法は計算の数理=数学的理解を逆向きの創造方法の推測しかない。』(岡山)故に言葉によっては真理を知りえない。と言葉でいうのも不都合で変なので、沈黙せざるえない。

より簡単に言えば現在は真の意味では任意であり存在しない。ただモナド連続の最後の部分に承認される、「在現される」だけなのだ。

このように宇宙創造の初期に在現された現実に至る全体を計算し尽くすことによる、計算によるイデーの全体の予形成いう途方も無い前提を導入したら、神を前にして躊躇したライプニッツの遠慮が解決すると考えているのは今のところ私だけだろうと思う。
結論
つまりプラトンは正しく世界を見ていて、イデーは在現する宇宙完成以前に完成しているか、あるいは我々がイデーや数理に気付くのは全ての論理的証明とその投影が終わった後であるということ。こうして我々が宇宙の成り立ちに気付く意識自体も単子論で解き明かされるモナド連続体の一部である。

ライプニッツが哲学的に徹底できなかったのは当時の物理学のレベルではいたしかたのないことである。ライプニッツが見直される近年「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」クリプキ Wittgenstein on Rules and Private Language, 1982.、とする、可能世界論や可能世界意味論が盛んになってきた。
ライプニッツは当時としては先を行き過ぎていた。可能世界の概念を神の心に結びつけて用い、現実に創造された世界が「全ての可能世界の中で最善のものである」と論じたことが可能世界論の先駆であったと見直されているくらいだ。しかし私は神と出会わなくても真理到達は可能であると楽観することができる。その方法が計算科学である。計算科学がニーチェの打ち捨てたイデーを救済することになると考える。もはや神の心を包み込むように、人間の知性、あるいは機械の知性によって、教義と人格に閉じ込められた神=過去の人間の知性の無力を救済する時代、神々の時代である。格言啓示的にニーチェが神の死に到達する理由はニーチェがライプニッツの業績を忘れていたからだろう。神は死ぬのではなく、より広い可能性の中へ向かってイデアの一つとして救済されるのである。20世紀までの哲学はこのように超克されるべきだろう。

自己意識を統計確率という虚に委ね心の空との自己関係をリセットするというのは難しいことではない。気づくべきは、毎日毎秒自分が確率として意識が再生しているということである。

呉も適菜も近代が求めてきた様々なイデー(自我の自立と民衆の理性に基礎を置く民主主義)をもはや無力な偶像と考えているのだろう。偶像はなくてもリアリティはそこにある。では人間は何を信じてこれからどのようにリアリティを承認して受け入れるのか。テレビでもネットでもなく、イデーの導きも神も何も信じないことによって向こうから新たな偶像がやってくるのだろうか?私は依然としてプラトンは正しいと信じる。しかし人格的イデーはない。三角関数は三角関数であり三角関数の神など存在しない。偶像は禁じられるほどに強く偶像を欲する民衆が一方にあることは民主主義の陥穽として覚えておいたほうがいい。

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