シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
誹謗中傷よりも酷いことがひとつある。それは真実だ。》と言ったのはタレーラン=ペリゴールだが、
金玉均は1884年、朝鮮王朝に対し、改革クーデターを起こしますが、失敗。日本に亡命をして、福澤の庇護を受けます。その後、金玉均が上海へ赴いた際に、朝鮮王朝の刺客によって、暗殺されます。金玉均の遺体はソウルに運ばれ、逆賊として凌遅刑(りょうちけい、皮剥ぎ・肉削ぎの刑のこと)に処され、体をバラバラに切られ、首や手足を晒されました(朝鮮や中国では、死者にも容赦なく刑を処しました)。 福澤は金玉均が残忍な凌遅刑に処せられたことに怒り絶望し、1885年、新聞の社説に以下のように書いています。 「我輩は此の国(朝鮮のこと)を目して野蛮と評するよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり」(1885年2月26日、『時事新報』より)
狂った君主が国を乗っ取ったときに唯一の抵抗手段が外交手腕である。貴族であり司教であり革命派でもあったタレーラン=ペリゴールがナポレオン・ボナパルトの追放と王政復古の企てに成功したのも、タレーラン=ペリゴールの一貫した国家観があったからだろうと思う。1805年の段階でタレーラン=ペリゴールはナポレオンはいずれ大失敗をすると予見していた。その根底動機は、この言葉にあるように、真実こそ誹謗中傷であり政治にあってはならないことだという保守の意識だ。それゆえ彼自身は多くの女性とのスキャンダルを隠すことなく、生涯を終えた。真実とは何か19世紀の時代では殆どの真実の暴露は権力批判である。完全な真実の露見の放逐こそタレーラン=ペリゴールの政治の理想状態であった。間違った設問に「正しい」答えという社会のバグがここにもある。政敵を攻撃するときに誹謗中傷はしてはいけないことだが、もっともいけないのは真実の暴露などと笑いとばせるバグが社会にあることは権力に寛容である保守政治がある限り永遠に残るバグである。笑えるバグが多い政治ほど成熟した国の政治と言えるだろう。政治という滑稽な問題に真実という正しい答えをあてはめてはいけない。これを知っていたタレーラン=ペリゴールは賢者である。大衆食堂のナポリタンにアルデンテを出してはいけないのと同じように。
シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord, [talɛrɑ̃ perigɔr] 発音例1発音例2, 1754年2月13日(2月2日説も)[1] - 1838年5月17日)は、フランスのフランス革命から、第一帝政、復古王政、七月王政までの政治家で外交官である。ウィーン会議ではブルボン家代表となり、以後も首相、外相、大使として活躍し、長期にわたってフランス政治に君臨した。日本では一般に「タレーラン」と略される。
姓はタレーラン=ペリゴールで、現代でもフランス有数の大貴族であるが、ブルボン王政ではオータン司教、第一帝政ではベネヴェント大公であった。日本語でのカナ表記はタレーランまたはタレイラン[注釈 1]。有名な画家ウジェーヌ・ドラクロワは、その容貌、容姿の酷似やフランス政府の保護などから、息子ではないかといわれる。フランス第二帝政の政治家シャルル・ド・モルニーは孫。
タレーラン=ペリゴール家(仏: Maison de Talleyrand-Périgord)は、フランスの貴族の家系である。特に著名な人物にフランス革命期の外交官・政治家シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754年 - 1838年)がいる。2003年にヴィオレット・ド・タレーラン=ペリゴールが亡くなったことで断絶した。タレーラン=ペリゴール家の家訓は "Re que Diou"(「ただ神のみ」)
- ^ カトリック百科事典(米)、Brockhaus Enzyklopädie(独)では2月13日、ブリタニカ百科事典(米)、オクスフォード百科事典(英)では2月2日。
- ^ "Saumon" Dictionnaire encyclopédique d'anecdotes modernes, anciennes, françaises et étrangères, Victor Fournel 著、Firmin Didot frères, fils et cie, 1872