公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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もっともらしい因果ストーリーと起こりやすさは関係ない

2013-01-21 15:51:02 | マキャヴェッリ
もっともらしい因果ストーリーと、その事象の起こりやすさは別の次元の事柄であるということが理解されず、専門家でさえ混同されやすい。

例えば
▼原子力発電所は実際に福島第一で全電源喪失という事態を生じたために大災害をもたらしたので、全電源喪失という事態に備えれば、原子力災害は防ぐことができると考えてしまう。もちろん備えるに越したことはない。しかし全電源喪失ということが起こる確率はきわめて低い。むしろ冷却不足や水漏れに対策を多重化する方が災害を小さい段階で止めるという道理にかなっている。もちろん電源はそのための大切な必要条件である。

専門家でさえ非常に印象的な出来事に影響されて発言している。

▼原発施設直下の活断層による重要施設の破壊もまた確率はきわめて低い。

もっともらしい災害ストーリーに対する備えは、実際に装備が必要になったときには老朽化や修繕が必要だったり、役に立たないことが多い。リスクに備えるということと不確実性に備えるということは次元が違うのだ。脱原発は起こりうる全体事象が把握されているリスクの議論ではなく、確率も予想もあてはまらない不確実性の議論であるべきなのだ。

そもそも世間はリスクによる損失と不確実性による損失を混同している。リスクは起こるべき全体がわかっているときの不都合な事象の出現割合だが、不確実性による損失は、それがいかにも起こりそうで、もっともらしくても、確率計算することができない。

不確実性は悪いことばかりではない。不確実性は損失ばかりではない。特別な利得を発生させることがある。歪曲された成功ストーリーは特別な利得だけが起こりうると描き上げる。

世間は一般に将来の利益よりも現在の損失に過敏であるから、現在の不確実性の発生は好ましいと考えていない。それにもかかわらず事業において、もっともらしい成功ストーリーはそのプロジェクトの実現確率とは無縁の(むしろ運に支配された)次元のことなのであるが、世間はこれを混同して成功ストーリーを信じてしまう。もちろん宝くじを引きたければ、まず買わなければならない。世間は投資が宝くじという理解ではおさまらない誤解を解かない。

不確実性を扱うベンチャービジネス投資において大切なことは、その事業がより多くの独立した不確実性(可能性)の種を持っていることであって、一つ一つ独立したストーリーが多数同時に導きうることが大切なのである。ひとつの成功が次の成功に連鎖するような成功は稀有な事例であり、むしろ不確実性連鎖により、ひとつの失敗が次に連鎖することを心配したほうがいい。そういう種のセットは、もっとも成功から遠いビジネスと考えなければならない。

▼原発はその操業のはじめから、不確実性連鎖の罠があった。原子力政策にはそういう不確実性を管理する技術性質をはじめから組み込んでいたにもかかわらず、金銭計算できるリスク(期待効用と期待損失の比率)だけから判断を進めてゆき、今日このような袋小路に入り込むこととなった。
▼これは原発はリスクをゼロにできないという単純な問題ではない。核燃料廃棄物について監理システムが完成・完結していないという時点で、原子力発電事業をスタートしたことから不確実性連鎖の罠を含んでいた。これは政府がこっそり戦争を始めたのと同じくらい国民を欺いている。

世間には常に不確実性を忘れる傾向がある。それはなぜだろうか?利害関係者が目先の利益で不確実性を忘れるのには、わかりやすい理由があるが、国民全体はどうしてなのだろうか?原発と同じように戦争も大いなる伝統的不確実性なのだが、世間は負ける可能性など考慮せずに熱狂する。そして負けた後は後知恵の理屈で誰かのせいにしておく。勝ったときはもっともらしい成功ストーリーのヒーローを探す。

▼何度原発事故が起こっても、世間は危機が自分たちの足元にあるとは考えない。それはチェルノブイリもスリーマイルも自分たちとはかけ離れた典型が、世間が目にしたものであり、世間はこの世に起こり得べきことは<見たものがすべて>という印象で認識し、権威がまた心配は起こり得ないと強弁して自信を強化しているからだ。

<見たものがすべて>見た目重視の世間の印象は確信と信頼に変わってゆく。福島第一の事故を経てもこの<見たものがすべて>傾向は変わっていない。想像力と現実理解の必要なものは忘却されやすい。核燃料廃棄物の行き先という、大きな不確実性よりも、自分たちが実際に目にした、福島第一と同じ典型的メルトダウン事故という<見たものがすべて>印象を恐れているのだ。

戦争の時もそうであったように、どんな悲惨な目にあっても、合理的に反省できないという見本のようなものだ。

合理的に原発事故(原子力発電)を反省するということは、戦争と同じ位置づけで過去の事例を反省し、不確実性の連鎖が起こらないように、国民が不確実性の本質を監視するということから始まる。
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