電車の中では読めない。
知らぬ間に
涙が出ている。
野坂昭如の残した言葉で心に残るのは、『現代は第二次焼け跡ヤミ市時代』という1969年に連載しのちに「卑怯者の思想」とまとめたエッセイ本昭和44年12月に書いた名言だ。感性が鋭いと思う。
新宿東口あたりの欲望と便利の闇市 演劇の闇市 セックスの闇市 ゲバルトの闇市 表向き整然とした国家秩序がありながら、昭和44年にも 平成30年にも 敗残者と食えない世代と一発狙い屋とリッチが混在する。
今は闇市の替わりに欲望と便利のスマホ セックスのスマホ 演劇のスマホ ゲバルトのスマホ。見える世界の方は綺麗になったが相変わらず闇市は多様化してこの世の要素となっている。焼け跡ヤミ市時代は形を変えて永遠に続くのかもしれない。
野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年(昭和5年)10月10日 - 2015年(平成27年)12月9日は、日本の作家、歌手、作詞家、タレント、政治家。
暘子夫人の文章に挿入された野坂昭如テイストが相互に浸透して霊気が漂う気がする。
野坂昭如は戦後の作家にしては稀代の語彙力で美文だったが、私は彼の書くものもユーモアも彼自身の中の何かを隠蔽する一流の煙幕ように感じていた。永六輔らと競い合う放送作家であったり、歌手であったり、私には彼の酒の力による明るさが不思議で興味深い人だった。沖縄を小説にしたかったのだろうけど、沖縄は書けない重さだった。今も煙幕は晴れない。
野坂昭如は人一倍戦争を憎んでいた。歴史とか社会と関わりなく、彼にとって戦争は人間を裸の欲望の獣にする飢えの原因であった。殺し合いより残酷なことは、獣の自分を暴露されることである。裸の欲望を隠せない自分とそうでない世間との間くらい残酷な溝はない。ましてや野坂昭如は少年だった。のちに節子という名前で作品にした四つの妹として描いた神戸弁は捨てがたい野坂昭如のルーツでありながら、感謝しながら生きるために捨てた神戸であり、やはり捨てられないものだった。
餓鬼道は単なる貧さではないことが思い出の端端に出てる。食べたものを牛のように反芻して食い物がない不安をしのぐ少年の切実な思い出で少しはわかる。その浮つきのない絶望と肉親にも言えない孤独は世間の想像を絶している。
しかも野坂昭如は家族の本当のことを知っていたのに空襲の日まで知らないふりをする、しかし与えられた幸せな子供時代を通じて世間にうしろめたく、大人子供だったのは世間に棲むための適応を早くから身につけた処世習性だけに、餓鬼の道は辛かっただろうと思う。
野坂昭如は回想で
『昭和二十年六月五日の神戸大空襲でも、ぼくは逃げた。焼夷弾しょういだんが落下し、玄関の前に養父がいることは気が付いていたけれど、たった一言、両親を呼んだだけで、一目散に六甲山に走った。あのうしろめたさは今もある。』と言っている。
『妹は、終戦から間もなくして一歳四か月で骨と皮になって餓死しました。ぼくは妹に、この大豆のカスを口の中でかんで、軟らかくしてから食べさせようとして、気がついたらのみ込んでしまい、自棄やけになって残りも食ったことがある。アニメーション映画になった「火垂ほたるの墓」は、締め切りに追われ、なんにも書くことがなくて、それでまあ比較的こっちが知っていることをもとに書いたものです。やっぱり人間は自己弁護が出てくるから、飢え死にした妹をやさしくかばう兄貴のように書いている。それが嫌で、あの小説を読み返したことも、映画を見たこともない。あんなふうにやさしくしてやればよかったという気持ちはずっとありましたが……。』
養父の遺産も無価値となり、どこで手に入れたか金を持っていたらしく、伯母のいる守口市での養母と祖母のいた生活は全くわかんない。切符を買って家出して頼った親戚の居る東京で窃盗(勝手な質入れで親戚に告訴される)で当時劣悪な感化院に収容されて死にそうになってやっと実父の名前を書いて身元を引き受けてもらえた。彼の実父は新潟県副知事だった。これだけで十分だろう。人前で言えない餓鬼道とその後の幸福があったのだろう。自分とは違い幸運がなかった愛しい人々を思い出さないための酒だったのか、
酒は嫌いだと言いながら、溝にはまって凍死しかけるほどに正体をなくす生活を続け、当然か運命か2003年脳梗塞になった。
初出
「文藝春秋」2016年3月
「新潮45」2016年3月〜5月
小沢昭一、野坂昭如、永六輔の順でこの世から居なくなった大人子供の方々のいうことは焼け跡体験があるからもっともであった。私の世代にも深夜放送を通じて影響を与えた。しかし体験を超えた普遍性を掴んだかと言えば、上を向いて歩こう、とおもちゃのチャチャチャ以外に後世に残るものは無いだろうと思う。
久米宏 もその類型に加えられるが、絶対的被害者が居なければ、正義正当を語りえないというのは自ずと限界がある。
参考
野坂暘子『真夜中のラインダンス 作家の女房大変記』主婦と生活社 1987年
野坂暘子『リハビリ・ダンディ 野坂昭如と私 介護の二千日』中央公論新社 2009年/中公文庫 2012年
野坂暘子『うそつき 夫・野坂昭如との53年』新潮社 2017年
『文藝別冊 野坂昭如 焼跡闇市ノー・リターン』河出書房新社 2016年
『ユリイカ 詩と批評 野坂昭如 いまこそNOSAKAだ!』青土社、2005年12月号
野坂 暘子(のさか ようこ、1941年10月3日 - )は、東京都出身のシャンソン歌手。旧姓、野村。夫は作家の野坂昭如。元宝塚歌劇団娘役で、当時の芸名は藍 葉子(あい ようこ)。長女は宝塚OGでエッセイストの野坂麻央(芸名:花景美妃)、次女も宝塚OGで女優の愛耀子(あい ようこ)。
永 六輔(えい ろくすけ、1933年4月10日- 2016年7月7日)は、日本のラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家。元放送作家、作詞家である。本名は永 孝雄(えい たかお)
小沢 昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日 - 2012年(平成24年)12月10日)は、日本の俳優、タレント、俳人、エッセイスト、芸能研究者、元放送大学客員教授。日本新劇俳優協会会長。俳号は小沢 変哲。
深夜放送世代としては林 美雄、野沢 那智の病死の方がリア残念だった。
林 美雄(はやし よしお、1943年8月25日 - 2002年7月13日)は、TBSアナウンサー12期生。『パックインミュージック』のDJを担当。
久米 宏(くめ ひろし、1944年7月14日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ、ニュースキャスター。TBSアナウンサー12期生
野沢 那智(のざわ なち、1938年1月13日 - 2010年10月30日)は、日本の男性声優、ナレーター、ラジオパーソナリティ、俳優、演出家、実業家
知らぬ間に
涙が出ている。
野坂昭如の残した言葉で心に残るのは、『現代は第二次焼け跡ヤミ市時代』という1969年に連載しのちに「卑怯者の思想」とまとめたエッセイ本昭和44年12月に書いた名言だ。感性が鋭いと思う。
新宿東口あたりの欲望と便利の闇市 演劇の闇市 セックスの闇市 ゲバルトの闇市 表向き整然とした国家秩序がありながら、昭和44年にも 平成30年にも 敗残者と食えない世代と一発狙い屋とリッチが混在する。
今は闇市の替わりに欲望と便利のスマホ セックスのスマホ 演劇のスマホ ゲバルトのスマホ。見える世界の方は綺麗になったが相変わらず闇市は多様化してこの世の要素となっている。焼け跡ヤミ市時代は形を変えて永遠に続くのかもしれない。
野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年(昭和5年)10月10日 - 2015年(平成27年)12月9日は、日本の作家、歌手、作詞家、タレント、政治家。
暘子夫人の文章に挿入された野坂昭如テイストが相互に浸透して霊気が漂う気がする。
野坂昭如は戦後の作家にしては稀代の語彙力で美文だったが、私は彼の書くものもユーモアも彼自身の中の何かを隠蔽する一流の煙幕ように感じていた。永六輔らと競い合う放送作家であったり、歌手であったり、私には彼の酒の力による明るさが不思議で興味深い人だった。沖縄を小説にしたかったのだろうけど、沖縄は書けない重さだった。今も煙幕は晴れない。
野坂昭如は人一倍戦争を憎んでいた。歴史とか社会と関わりなく、彼にとって戦争は人間を裸の欲望の獣にする飢えの原因であった。殺し合いより残酷なことは、獣の自分を暴露されることである。裸の欲望を隠せない自分とそうでない世間との間くらい残酷な溝はない。ましてや野坂昭如は少年だった。のちに節子という名前で作品にした四つの妹として描いた神戸弁は捨てがたい野坂昭如のルーツでありながら、感謝しながら生きるために捨てた神戸であり、やはり捨てられないものだった。
餓鬼道は単なる貧さではないことが思い出の端端に出てる。食べたものを牛のように反芻して食い物がない不安をしのぐ少年の切実な思い出で少しはわかる。その浮つきのない絶望と肉親にも言えない孤独は世間の想像を絶している。
しかも野坂昭如は家族の本当のことを知っていたのに空襲の日まで知らないふりをする、しかし与えられた幸せな子供時代を通じて世間にうしろめたく、大人子供だったのは世間に棲むための適応を早くから身につけた処世習性だけに、餓鬼の道は辛かっただろうと思う。
野坂昭如は回想で
『昭和二十年六月五日の神戸大空襲でも、ぼくは逃げた。焼夷弾しょういだんが落下し、玄関の前に養父がいることは気が付いていたけれど、たった一言、両親を呼んだだけで、一目散に六甲山に走った。あのうしろめたさは今もある。』と言っている。
『妹は、終戦から間もなくして一歳四か月で骨と皮になって餓死しました。ぼくは妹に、この大豆のカスを口の中でかんで、軟らかくしてから食べさせようとして、気がついたらのみ込んでしまい、自棄やけになって残りも食ったことがある。アニメーション映画になった「火垂ほたるの墓」は、締め切りに追われ、なんにも書くことがなくて、それでまあ比較的こっちが知っていることをもとに書いたものです。やっぱり人間は自己弁護が出てくるから、飢え死にした妹をやさしくかばう兄貴のように書いている。それが嫌で、あの小説を読み返したことも、映画を見たこともない。あんなふうにやさしくしてやればよかったという気持ちはずっとありましたが……。』
養父の遺産も無価値となり、どこで手に入れたか金を持っていたらしく、伯母のいる守口市での養母と祖母のいた生活は全くわかんない。切符を買って家出して頼った親戚の居る東京で窃盗(勝手な質入れで親戚に告訴される)で当時劣悪な感化院に収容されて死にそうになってやっと実父の名前を書いて身元を引き受けてもらえた。彼の実父は新潟県副知事だった。これだけで十分だろう。人前で言えない餓鬼道とその後の幸福があったのだろう。自分とは違い幸運がなかった愛しい人々を思い出さないための酒だったのか、
酒は嫌いだと言いながら、溝にはまって凍死しかけるほどに正体をなくす生活を続け、当然か運命か2003年脳梗塞になった。
初出
「文藝春秋」2016年3月
「新潮45」2016年3月〜5月
小沢昭一、野坂昭如、永六輔の順でこの世から居なくなった大人子供の方々のいうことは焼け跡体験があるからもっともであった。私の世代にも深夜放送を通じて影響を与えた。しかし体験を超えた普遍性を掴んだかと言えば、上を向いて歩こう、とおもちゃのチャチャチャ以外に後世に残るものは無いだろうと思う。
久米宏 もその類型に加えられるが、絶対的被害者が居なければ、正義正当を語りえないというのは自ずと限界がある。
参考
野坂暘子『真夜中のラインダンス 作家の女房大変記』主婦と生活社 1987年
野坂暘子『リハビリ・ダンディ 野坂昭如と私 介護の二千日』中央公論新社 2009年/中公文庫 2012年
野坂暘子『うそつき 夫・野坂昭如との53年』新潮社 2017年
『文藝別冊 野坂昭如 焼跡闇市ノー・リターン』河出書房新社 2016年
『ユリイカ 詩と批評 野坂昭如 いまこそNOSAKAだ!』青土社、2005年12月号
野坂 暘子(のさか ようこ、1941年10月3日 - )は、東京都出身のシャンソン歌手。旧姓、野村。夫は作家の野坂昭如。元宝塚歌劇団娘役で、当時の芸名は藍 葉子(あい ようこ)。長女は宝塚OGでエッセイストの野坂麻央(芸名:花景美妃)、次女も宝塚OGで女優の愛耀子(あい ようこ)。
永 六輔(えい ろくすけ、1933年4月10日- 2016年7月7日)は、日本のラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家。元放送作家、作詞家である。本名は永 孝雄(えい たかお)
小沢 昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日 - 2012年(平成24年)12月10日)は、日本の俳優、タレント、俳人、エッセイスト、芸能研究者、元放送大学客員教授。日本新劇俳優協会会長。俳号は小沢 変哲。
深夜放送世代としては林 美雄、野沢 那智の病死の方がリア残念だった。
林 美雄(はやし よしお、1943年8月25日 - 2002年7月13日)は、TBSアナウンサー12期生。『パックインミュージック』のDJを担当。
久米 宏(くめ ひろし、1944年7月14日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ、ニュースキャスター。TBSアナウンサー12期生
野沢 那智(のざわ なち、1938年1月13日 - 2010年10月30日)は、日本の男性声優、ナレーター、ラジオパーソナリティ、俳優、演出家、実業家