ショーペンハウエル的意志の純粋性批判
──第一に、すべての〈意志すること〉のうちには多数の感情が含まれていると言おうではないか。すなわち、そこから遠ざかっていく状態の感情と、そこへ向かっていく状態の感情が含まれる。さらにこの「遠ざかっていく」と「向かっていく」ことそのものの感情が含まれる。そしてこれに付随する筋肉の感情もある。これはある種の習慣であり、わたしたちが「腕と脚」を動かさなくても、「意志」を働かせると同時に動き始めるものである。だから意志のうちに不可欠なものとして感情が、しかもさまざまな感情が含まれることを認める必要がある。 そして第二に、意志には思考も含まれるのだ。すべての意志する行為のうちには、それを命令する思念が含まれている。──意志から思念をとりのぞいても、意志だけが残るかのように、この思念を「意志」から分離できると考えるべきではないのである! 第三に、意志はこのように感情と思考の複合体であるだけではなく、何よりも一つの情動である。しかも命令を発する情動なのだ。「意志の自由」と呼ばれるものは本質において、服従を強いられる者に対する優越感の情動なのである。「わたしは自由である。しかし〈彼〉は服従しなければならない」というわけだ。──すべての意志にはこの意識がひそんでいるのだ。さらに意志には、緊張した注意深さとか、ある一つのものだけを注視するまなざしとか、「今はこれをするのであり、ほかのことは必要ではない」という無条件の価値評価とか、命令すれば服従されるのは確実だという内的な確信など、命令する者のうちにみられるすべてのものが含まれているのだ。 意志する人間は、──みずからのうちにあって服従するもの(あるいは服従するとその人が信じているもの)に命令するのである。──意志とはかくも多様なものなのに、大衆はこれを呼ぶのにただ一つの語しかもっていないのである。ところがこの意志という多様なものには、さまざまな驚くべきところがある。すなわち、わたしたちが[意志する場合には]つねに命令する者であると同時に服従する者であること、そして服従する者として、意志する行為が始まるとすぐに強制と強要と、圧迫と、抵抗と、運動などの感情が生まれてくるものだということを知っていることである。他方でわたしたちは、この二重性を「われ」という総合的な概念で片づけ、ごまかす習慣があるために、この〈意志すること〉には誤った推論のすべての連鎖が、そしてそのために意志そのものへの誤った評価がまつわりついているのである。──こうして、意志する者は、行為するには意志するだけで十分であると確信するようになったのである。
自己愛内在的に命令を発する情動に潜在する支配者の強引さを見つけ出したニーチェは鋭い。すべての革命思想に潜在する専制主義を見抜いている。この本はいつか読んでいたはずだが、ある経験をするまで全く意義を理解せず、忘れていた。
ショーペンハウエルは「イデーとは、理性に向かってよりよい意識を示してくれるような概念の全体である。従って、よりよい意識を概念の全体から切り離すことはできない。」と概念という道具箱一式とここに立つ意識との一体の在り方をイデーとして捉えた。
等価性原理もまた現代物理学のイデーである。イデーを選択したのであって、ここに立つイデーに支配されているのではない。このアインシュタインの提示したイデーのお陰でより良い宇宙認識という意識を一般相対性理論として示してくれた。しかし不足がある。
等価性原理もまた現代物理学のイデーである。20世紀以降の物理学はイデーを選択したのであって、ここに立つイデーに支配されているのではない。このアインシュタインの提示したイデーのお陰でより良い宇宙認識という意識を一般相対性理論として示してくれた。しかしそれでは哲学上の不足がある。
物理学の観点に欠けているのはより良い世界理解を探求していながら、概念の全体から、概念を生じさせている意識を除外している点である。これはイデーの実在を発見過程から切り離すことによるイデーの絶対化である。ドイツ哲学的には概念的把握の破綻でもある。少なくとも物理学はショーペンハウエルのイデーの要件を満たしていない。
ところがライプニッツはさらに一歩深く関数の総体と世界を汎理論の単位である元と写像からなる関数組み単子の階層的総合と考えた。理念の実在がここまでくると、いかに階層を工夫しようと、もはやライプニッツは現実の影にのみ存在する真理を神として隠しておくことはできない。それ故に彼の哲学は途絶している(これをライプニッツの遠慮と私は言う)。この時プラトンの呪いは一度克服されたがライプニッツを継承する西欧哲学が無かった。キリスト教の教義が壁となった。かといって仏教が優位にあるとも言えない。
物理学の観点に欠けているのはより良い世界理解を探求していながら、概念の全体から、概念を生じさせている意識を除外している点である。これはイデーの実在を発見過程から切り離すことによるイデーの絶対化である。ドイツ哲学的には概念的把握の破綻でもある。少なくとも物理学はショーペンハウエルのイデーの要件を満たしていない。
ところがライプニッツはさらに一歩深く関数の総体と世界を汎理論の単位である元と写像からなる関数組み単子の階層的総合と考えた。理念の実在がここまでくると、いかに階層を工夫しようと、もはやライプニッツは現実の影にのみ存在する真理を神として隠しておくことはできない。それ故に彼の哲学は途絶している(これをライプニッツの遠慮と私は言う)。この時プラトンの呪いは一度克服されたがライプニッツを継承する西欧哲学が無かった。キリスト教の教義が壁となった。かといって仏教が優位にあるとも言えない。
物質だけからなると思っている外部世界が実は<不生不滅>の<非自非他>意識世界であると直感する仏教の中の禅宗的アプローチには体験性はあっても説得性がない。一人数学を奥深く考えた(生命を燃やして見ようとした)岡潔のような先駆者が外部世界が数理でできていることを喝破したのみであろう。
ニーチェはショーペンハウエルにみた汎理論を継承したのではなく、イデーでの真反対にある個別、超人という特異点に反語的答えを求めた。
ニーチェはショーペンハウエルにみた汎理論を継承したのではなく、イデーでの真反対にある個別、超人という特異点に反語的答えを求めた。
イデーが世界を多様化させ現実全体を創造したこと=『我々の世界はモナド(計算可能な概念)の集合であり、究極的に長い時間を経て一つのモナド=ビックバンの結果に所属している。なぜそのように考えるかというと、過程は略すが、宇宙が一つのモナドとは私たちに内包している素粒子が織りなす量子モツレの巨大な編み物である。私たちは巨大な量子モツレの結果自然発生した巨大グラフ計算機の計算結果の物質化の一つであって、その初期条件が一つのモナドを創っている事』(「」内は岡山私論)に、確信の持てなかったこれまでのプラトン以来の哲学では、隠れたイデー(神)に頼れないので、一挙に圧倒的な人間を世界の原因とするしかない。ニーチェは特異点を発見した功績はあったが、彼の哲学は概念的把握で破綻している。
私は『我々の存在は計算結果に過ぎない。』(岡山)と考える。その計算プリントアウト結果の『パラメータ時空にインクのように貼り付いている私達』(岡山)にすぎないと考える。そういう意味でニーチェと同じく私は間主義であり世界は無限に探求可能ではないという意味で虚無主義である。しかし哲学は概念的把握の探求を捨てるべきでない。なぜならばエゴの死はLSDによって追体験できると安易に主張したために欧米で失敗し、理性を喪失しただけの虚無主義は著しい退行であったから。
私は『我々の存在は計算結果に過ぎない。』(岡山)と考える。その計算プリントアウト結果の『パラメータ時空にインクのように貼り付いている私達』(岡山)にすぎないと考える。そういう意味でニーチェと同じく私は間主義であり世界は無限に探求可能ではないという意味で虚無主義である。しかし哲学は概念的把握の探求を捨てるべきでない。なぜならばエゴの死はLSDによって追体験できると安易に主張したために欧米で失敗し、理性を喪失しただけの虚無主義は著しい退行であったから。