近頃人々の精神から消えつつあるものはいろいろとあるが、大きくは理想ではないだろうか。理想の結婚、理想の会社、理想の伴侶、理想状態という形容詞としての理想は消えないが、理想其れ自体を感じ取る力あるいは岡潔の言う理想の実在感というものは消えつつある。岡潔が強い理想の実在感が人間の精神の活動に指針を与える-イマジネーションを信じる力を与える-としている理想其れ自体は、春宵十話が書かれた50年前よりも曖昧で希薄な存在になりつつある。しかもその曖昧化は実在感の曖昧化だから外部から日本人自身が知覚することができない。
『だから基調になっているのは、「なつかしい」という情操』見たことがないのに知っているような気持ち。強く惹きつけられる実在感を失ってどういう理性が活動しているかというと、残念ですが利害と金銭でしょう。室町東山文化のように文化的財産を残すならば、それらも悪くはないが、同朋肉親の様に「なつかしい」と感じる理想ではない。岡潔が言うのは、単なる文化ではなく真美善を懐かしむ情緒はある種の理想主義であり情操ロマン主義である。しかし西欧の閉じたロマン主義とは異なり、ここに言う情操は理性的に結晶化できない情操の外のまだ見ぬ世界へ向かった出口を持っているロマン主義である。
『情緒と感覚とどう違うかというと、今の印象でもわかるでしょう。もっと、はっきり言うと、例えば、フランスは緯度が高いですから夏が愉快である。それで夏は愉快だが、冬は陰惨だという。これは好き嫌いと同じで、夏は好きだが冬は嫌いだというのです。晴れた日は好きだが、雨の日は嫌いだ。こんなふうになる。
日本人はそうではない。日本人は情緒の世界に住んでいるから、四季それぞれ良い。晴れた日、曇った日、雨の日、風の日、みなとりどりに趣きがあって良い。こんなふうで全て良いとする。
もっと違っているのは、感覚ですと、はじめは素晴らしい景色だと思っても、二度目はそれ程だとも思わず、三度目は何とも思わない。こうなっていく。感覚は刺激であって、刺激は同じ効果を得るためには、だんだん強くしていかなければならなくなります。』
日本人は幼児の時から太陽を紅く描き月を黄色く描く。しかし西欧は太陽を黄色く描き月を青く描く。その方が真実に近い。日本人と同じなのは民族としては、チベット人くらいしかない。幼稚だからそうなのではなく、近代浮世絵版画で有名なの写実的情緒画かっかの作家川瀬巴水も紅く描く。
情緒は感覚と違いある種の選別をしばしばその風土気候と結びついて行っている。春の雨、夏の雨、秋の雨、冬の雨様々に好き嫌いを含む選別論理を含包している感覚である。心に直に入ってくる選別感覚。これが情緒である。つまりショーペンハウエルに極められた西欧哲学的自明
《アルトゥル・ショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer)が示した充足理由律の4つの根がこれに相当する。生成の充足理由律と存在の充足理由律のペアが岡潔の言う空間的時間的統合(第一の直感)、認識の充足理由律と行為の充足理由律のペアが論理的予測的統合(第二の直感)にそれぞれ相当する。》
では自明の理屈は立体配置と時間契機という分析的塊と、動機と行為という綜合的塊が連携していない(連携していると主客の区別が曖昧になる)ことに対して日本人の情緒ははじめから自明要素が連携している。脳の使い方が異なっているのである。この自明の連携は疑問の前に答えを知るという特別な経路(第三の直感)を日本人に保証している。
宇宙には人間の意識(クラスター入力による学習の強化:樹状突起上での非線形的な加算を促す(ここで役目を果たすのが、タンパク質とオルガネラの中間の大きさにあたるナノサイズの超分子集合体が個々のシナプスの情報量の重み付けを決定することが2018年東京大学坂本寛和・廣瀬謙造らによって明らかにされた)ため、個々のニューロンが持つ演算能力を高める。この演算能力獲得が可塑性によって生じることから、クラスター入力は記憶・学習能に関わる基本的な生理メカニズムであると考えられている。2012年時点の知見)に相似した(最初はランダムな入力、偶然に重なりあう入力の強化、重なりのない入力の劣化)三段階演算強化構造の巨大な多層解釈の量子関数が先にあり、その解釈の一部が今、私たちの肉体、物質に連結している。これが第三の直感というものだ。生命はこの宇宙意識の後からできた。これが私の結論だ。
室町枯淡の美や賢者の隠居地は具象的な理想であるが、これは日本人の情緒ではない。これは南宋からの輸入文化。室町東山ブランドビジネスの名残に過ぎない。岡潔のいう理想とは、。。
"もののあはれ"と言い伝えられてきた現世感性が実在感をもつ理想情緒に近いであろう。本居宣長は儒教とは無縁な昔からの日本人感性に近い事を言っていたのだろう。
ものの本には『「もののあはれをしる」ことは同時に人の心を知ることであると説き、人間の心への深い洞察力を求めた。それは広い意味で、人間と、人間の住むこの現世との関連の意味を問いかけ、「もののあはれをしる」心そのものに、宣長は美を見出した《中井千之『「もののあはれをしる」と浪漫的憧憬』(上智大学ドイツ文学会、1989年12月)》』と書かれ、日本の定説は其れを美の一種と見る。しかしもののあはれは本居宣長個人が見つけたものではない。日本人が長い同朋共生の歴史で見つけ出し創造したものである。"もののあはれ"は日本人オリジナルの文学、思考、そして美の思想である。
それでも"もののあはれ"はまだ事の道理の理性を導く理想、私流にいうところの"イマジネーションを信じる力"の源泉であるかというとそうではない。江戸時代初期のその時点では一つの思考である。これが日本人の心の理想郷、心の型に変わるためには、日本人は古今伝承、詩歌の決まり事から自由となった連句の提唱者、松尾芭蕉を待たねばならなかった。
清洲橋が見えます。
松尾芭蕉(1644~94)
蕉風の理想は江戸時代以降の日本人が強く惹かれる憧れであり、古今集の王朝美を強く拒絶する民神である。これにより日本人は利害と得失に振り回されない人生勘を得た。
「日本人の詩というのはそういうものなんですね。 それが一番見事にできたのが芭蕉という人だったと私は思っています。 それは芭蕉の生き方とぴったり一致しているんですね。
大岡信『名句歌ごよみ[春]』より引用」
「俳句がいい、悪いということはその人が銭かね持っているか持ってないかなどということと全く関係ない。 芭蕉のお弟子の中には、いわゆるお乞食さんみたいな人がかなりいます。 かなりでもないけど、まあはっきり言って一人か二人はあるんですね。
大岡信『名句歌ごよみ[春]』より引用」
室町東山のように理想がただの憧れにとどまるならば、憧れは消えて、残存する権威利害と得失の価値観だけは消えない。観客しか想定しない創造生命の無い「死んだ憧れ」である。しかも憧れという理想、心の型の裾野は口伝なので消えやすい。これが文化を衰退させる。心の荒野を抱えた現代日本人は新しい心の型を探さなくてはならなくなった。企業文化もこのように考えればよい。
観客になるなということである。我々は観客ではない私は私の担い手である。
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