日銭が100万円というのはすごい話。当時大卒は初任給月給2万円いけばかなり良い方。昭和43年で3万円という時代。今の価値で日銭1000万円のバブル状態。
昭和三八(一九六三)年一月一日、フジテレビ系で第一回が放送された「鉄腕アトム」は平均三〇パーセントの視聴率(最高視聴率は四〇パーセント)を上げた。この成功に触発されて「狼少年ケン」(東映動画)などが同年にスタート。さらに虫プロは昭和四〇(一九六五)年、日本のテレビアニメ史上初の全編カラー作品として「ジャングル大帝」を制作する。同時にテレビ界は毎年一〇本以上の新作アニメが登場する百花繚乱の時代へ移行していった。
それほどの苦労で成功を勝ち得たものの、経営管理の甘さから虫プロは苦境に陥った。手塚の側近に優秀で強力な管理マネージャーがいなかったという西崎の指摘は的を射ていたことになるだろう。
とはいっても、西崎が虫プロで快く受け入れられた訳ではない。同調者以上に反感を持つ者が数多くいた。
これで宮川泰と繋がってゆくのか。ワンサくん重要だな。
「ワンサくん」の音楽を担当した宮川泰は、西崎の芸能プロデューサー時代からの知り合いである。この作品を機に、二人は長らくアニメ制作現場での戦友となる。また日劇の演出家・日高仁も民音時代の人脈に連なる一人だった。そして最終回のフィナーレでは犬の出演キャラクターがカーテンコール風に挨拶するというオチも用意された。後に「ヤマト」で見せる作品づくりの独創性が、ここでも見て取れる。監督をつとめたのは虫プロの山本暎一であるが、「ワンサくん」はアニメ製作で初めて西崎カラーを前面に打ち出した作品といっていい。
もう一点見逃せないのは、西崎が日本のディズニーを目指していたという藤川の指摘である。当時、日本のアニメ関係者でディズニーを意識しない者はいなかったはずだが、三〇代後半でゼロからアニメ人生をスタートさせた西崎が本気でディズニーを目指すと表明したのだから、容易な覚悟ではない。しかも「ワンサくん」を見れば、口先だけの覚悟ではなかったことがわかる。 スタッフとして参加した柴山は、当時の西崎プロデューサーを高く評価する。
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スーパージェッター
まだ売れっ子になる前のSF作家が脚本を執筆、SF性の濃いアイデアとストーリーを生み出した。また、推理作家の加納一朗、山村正夫が参加したことで、日本推理作家協会のテレビラジオ委員会を通じたTBSとの交渉で脚本家にも原作権が認められ、商品化権料の半額を久松と分け合う形で配分された。豊田有恒の場合、当時の大学卒の初任給100か月分にあたる約200万円を得たという。
思い返せばTBS TCJ制作漫画をよく見ていたな。鉄人28号から冒険ガボテン島まではTV漫画シリーズのリアルタイムだった。