子規いつ頃の作かわ知らぬが
薄月夜 花くちなしの 匂ひけり
これにはとても深い人間心理が働いている。もともとは下の句があるべきという無意識が働く。しかしそういう応答の詩ではない。私なりの俳句一般に対する思いはこうなる。
俳句は無意識に対する問いなのだ。芭蕉が問うのではない。魂が自然を鏡として発することをもって、結果自然が魂に問いかけている。太古の詩人が問いかけている。岩も樹も、川も空も雲も、私自身も私の知らない所で問いかけている。そういう存在と認識の連鎖の詩なのだ。このように自然をこころの水面に映して捉える感性は日本人独自のものだ。
自然は答えを求めずにはいられない。水は蒸気となり雲となり、雨となり、川となり、何度も何度も岩を削り最適の流れに答えを求める。何千年も何万年も非情を尽くす。だから、人が考える真とか善とかは自然に任せて答えを出せば良い。人もまた答えを探る自然の装置の一つであって、非情の装置であることを忘れなければ、死もまた友である。
春
用水が滲みてゆくなり初苗代
風追えば藤点描の懸かるなり
心まで晩霜積もる決算期
朝寝して遠き厠に春日射す
忘霜の便り届きて里心
(散る桜 残る桜も 散る桜 良寛)
散る桜 残る赤い実 踏むまいぞ
初夏
月草ほどの命惜しまず虫の夏
月見草見えぬ蚊を追う夏日感
古鳥居花なき杜に影落とす
さざなみをつくる薫風なえを揺する
カルピスは心太ほどの透明感
透明感死を見たような湖水青(こすいせい)
既視感が迫り来るよな美人眉
鯉のぼり 濡れて過ぎ去る寂しさよ
穀雨
母のない食卓に鯨缶のあるは悲し
イソよりもアサ感なじみし古カメラ
ホトトギス突如へちょヘチョ感吟す
五月晴れ
眩しさに細めし母子が乳母車
蝙蝠の羽音狂おし 夕間暮れ
蝙蝠をめずらしと言う蝦夷の人
青鷺がカエルを狙う畔汀 (あぜみぎわ)
酸葉(すかんぽ)を土手に留めしシーベルト
画用紙とマイくれよんの責任感
(ところてん煙のごとく沈みおり 日野草城)
心太沈みおるかな椀の底
立夏来るデニム青立つ伸びやかさ
そうばいと 聞こえしは薬院の街
焦燥感 麦秋田池を市松に染め
朝顔の双葉ほどなり暖かさ
夏の気配
雷(らい)去りて もういっちょうと鳥の鳴く
雷(らい)ありて古卒塔婆に蛙参る
芒種
山碧く空遠からずジャガイモ忌
夏錦麦秋田地の市松ばり
麦秋景 我がとれ高はどれほどか
膝をおり沢蟹笑う山清水
親の背で渡りし鉄橋不如帰(ホトトギス)
視界なき時雨に耽溺(ひた)り山小岩
利根流れ後戻りせず幾万万年
山動き海動く耐えよ中央構造線
荷を捨てて猶手放し難き文庫本
天蓋の盆を返しし山驟雨
名も知らぬ赤花命の砂時計
アスファルト急ぎ足の五月晴れ
虹を見た名もなき空に名をつける
突然の雨に足留め親子雉
忘れしは例えば夏の2B弾
朧月
梅の実が黄まま朽ちる桃源郷
麗しく風に揺らめくタバコの花
桜の実わかヒヨドリの糊口となる
正岡子規の俳句に「家毎に凌霄咲ける温泉(いでゆ)かな」がある。
凌霄(のうぜん)の咲くころに大風の吹く
満月は器量よし朧によし冴えによし
寒露
熟れ柘榴、盗人のなき寂しさや
裂きとれば柘榴したたる指の谷
血の柘榴、乃木希典の肝試し
五峯