公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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周恩来の東京日記 『維新號』という中華料理店における100年前のある検挙事件

2018-07-12 07:16:00 | 日本人
周恩来の東京日記には1918年の四月頃から始まった反日救国運動のことが記載されている。今から数えてちょうど百年前のことである。神田は中華料理の東京のメッカだった。その集会の舞台になったのが、今は銀座 赤坂にある閉店前の神田今川小路(現在の神田神保町三丁目)の中華料理店『維新號』である。店名も留学生が明治維新を祖国にという気概でつけたという。事件は5月6日維新號二階に集まった「大中華留日学生救国会」の準備代表集会だった。(周恩来『十九歳の東京日記』―1918.1.1~12.23 (小学館文庫) 文庫 – 1999年/9月 周 恩来 (著), 矢吹 晋 (編集), 鈴木 博 (翻訳) )
内容紹介
勉学か革命か──悩める帝都の青春日記。80年ぶりに発掘された19歳の周恩来による東京滞在日記(1918、大正七年)を全文収録。浅草オペラ、上野美術館、銀座大型百貨店、神田書店街、両国の相撲、そして次第にエスカレートする留学生運動と受験失敗……。若き周恩来は果たして東京で何を見て、何を経験したのか? その後の日中友好関係を築く原点ともいうべき一年間を、充実した解説コラム、詳細年表、写真、地図付きで活写する。

過激な思想に接することの多かった留学生を取り締まるのは清国からの依頼だったことは知らなかったが、多数の留学生が21カ条『対華21カ条要求』を国辱ととらえ運動が始まった。《第5号希望条項は棚上げされ最終的には十六ヶ条が5月25日、2条約および13交換公文として結ばされて最終的に飲んだ清国と、1926年旅順大連の租借地期限の延長に焦る飲ませた日本の印象が国際社会に注目されて際立った。》 4月頃はまだ日本を悪の侵略者(欧米は善なる侵略者)として抗議の留学生帰国の呼びかけをするという穏やかな「国恥記念日5月25日」を焦点化した反日だったのだけれど、集会自体が前記の理由により官憲による取り締まりの対象だった。逮捕後すぐに華人留学生は釈放された。

このあたりが大きな転機となって周恩来は一旦帰国後再度渡航、フランス留学して1919年以降の世界史の転回の一部となる。一高に入れず日本留学が資金もなくなり借金で食いつないでいた周恩来がどんな資金でフランス留学できたのか。@ 〈留法(フランス)勤工倹学会〉にある外国の支援なしにはなしえなかっただろう。周恩来は共産党系のフランス支部メンバーになる。もし英語で一高が周恩来の学力を認めてを受け入れていたら革命家周恩来は生まれなかったかもしれない。

@第1次世界大戦期の1915年6月にフランスの参戦華工(参戦国の労働力欠乏を補うために送りこまれた中国人労働者)の間で,無政府主義者で有名な李石曾(名は煜瀛(いくえい))が豆腐工場などで、〈工作に勤め,倹にして以て求学する〉ことを趣旨に組織した〈勤工倹学会〉にある。毛沢東はフランス留学しなかったが、送り出した側で働いた。

これだけ苦労した留学生のために
1)生活費/月額142,500円(年171万円)
2)授業料/国立大学は免除
という制度が中国人留学生の利用できる制度としてある。びっくり‼️

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