『たとえば時間というものは秒針の運動ではない、時間とは主観的恣意的なものである 参照→切り取りダイジェスト 有理数時間と無理数時間 - 公開メモ DXM 1977 ヒストリエ自分の感じる時間が他人の感じる時間と違うことは本来明らかなのだが、近代は秒針運動に翻訳して仮に同じとしている。本来違うものを同じとしていることが現代人の心に歪みをもたらしている。
時間とは語り得ないものの一例である。語り得ない世界を人ばかりでなく草木月花、禽獣山河それぞれに持っているという知性が日本人の世界観の基礎であった。自分にあらざるものが自分の一部であり、仮に自分の命がなくなろうともそこに語りえないものが魂魄として残存するという感性があれば死に対する感じ方がおのずと異なってくる。人は感じながら、ただ沈黙するしか無い。』
と6年前にも書いたが、主観の中に時間があり時間というものは宇宙を含め論理の立ち上がりの前に存在しない。このように言うとエントロピー増大の法則(全系を総和して自然にはエントロピー減少しないので逆変化しないので時間対称性がない)とかで逆進しない変化があることで反論されることが想定される。秩序方向に逆進しない(エントロピーを減少させる方向には系は遷移しない)変化は変化の性質の非対称性であって、時間の存在証明にはなっていない。つまり作用なしには変化はない。よって時間は止まることのない矢のような実在やアプリオリな幾何学的次元概念ではない。人間を含めた知性の所産である。知性の一形態である人間がアニメを見て時間経過を感じるのはそういう論理回路が脳にあるからであって、喩えるなら時間は、セル画のように(正確には変化情報)事象の集合が時間と認識される変化や遷移を脳内で一つの体を成す演算子にすぎない。同様に空間は位置情報の集合に過ぎない。もっと厳密に言えば運動量の差が、力の時間積分(力積)関係に対応すると言う運動量の“力因果原理”も知性が生み出す数学的等式に過ぎず、これまで結果と考えられてきた運動量の差、つまり変化は結果ではなく、それを一塊の関係として捉える知性が前提する数学で記述している始点と終点の論理想定に過ぎない。故に知性が成立する以前に時間はない。しかし原因となる力が実在しないわけではない。時間は純粋に知性の作用によって積分の始点と終点に現るに過ぎない。故に時間は知性の作用産物であり実在ではない。いわゆる時間の矢の如き実体はミクロ時間にはない。時間反転対称性をマクロで破ろうとするのはどこまでも観測可能と考える知性の物理限界があるからだ。そもそも離散的な値の集合にマクロ連続を持ち込むことは矛盾する。知性の作用産物であるとするのは私が最初ではない。同じような論理はヒュームの因果論が近い。時間の→も因果論の一種である。ヒュームの主張は始点(原因らしきもの)と終点(結果らしきもの)だけが確かだけど、その背景を知ることはできない。
因果背景は癖に過ぎない。
ヒュームの議論では、因果律は、単に結びつきの習慣、一種の「信念」でしかなく、とことん無根拠で無意味だ。 Enquiry でかれはこう書く:
「まわりの外的な物体を見回して、因果律の作用を考えるとき、どれ一つとして必然的な結びつきや力を発見することはできない。(中略)われわれは、一つの出来事が実際に、確かに他のことに続いて起こることを見いだせるだけだ」
(D. Hume, 1748: p.67)
そしてさらに、以下のように述べる:
「だが、ある特定の事象系列が、あらゆる状況で、別の事象系列を結びついている場合、我々はもはや、片方の事象がもう片方を予見していると言うことに何のためらいも持たない。(中略)そのときわれわれは、片方の事象を『原因』、もう片方の『結果』と呼ぶ。そしてその両者の間に何らかの関係があると想定する。片方の中にある力が、間違いなくもう片方を引き起こして、それが実に強い確実性と必然性を持ってそれが機能するというわけだ」
(D. Hume, 1748: p.80-81)
でもヒュームは、これが誤解のもとだと警告した。
(https://cruel.org/econthought/profiles/humebio.htmlよりの引用)
さらに情報は観測を前提に措き、作用の始点と終点の対応関係に還元できるから、情報は関数に還元可能である。故に作用なしに時間と空間は存在しない。したがって点というものは知性の仮構であって知性の誕生前には実在できない。
赤いという情報は 赤くない背景から赤い区部が現れる変化情報であって、哲学者が赤属性がアプリオリにあると考えるのは虚妄である。もし属性が変化情報でなければあらゆる知性は赤に気づかない。故に全ての属性は始点と終点を持つ作用またはその作用関数に還元できる。
ここに言う時間が語りえないというという皮肉は、時間は一次的知性である脳の作用であって、二次的知性である自然言語が論理を正確に記述しえない、二次的知性に関して演算子が閉じていないという認識本質の指摘である。
しかしこれは決して超自然ということではない。自然対象であっても哲学言語(一次的知性である脳)の範疇外にあるもの、本質的には演算子、それが語りえないもの。