『普通の人間には 、 「弱い人 」の部分と 「賢人 」の部分の両方があるのだから 、普通の人は 、 「財産への道 」と 「徳への道 」を同時に進もうとする 。しかしながら 、 「人類のうちの大半は 、富と地位の感嘆者であり崇拝者 」 ( 『道徳感情論 』一部三編三章 )である 。世間は 、見えやすい富と地位にもとづいて個人を評価する 。そして 、私たちは 、自分の中にある虚栄心 ─ 自分を本当の値うち以上に見せようとする心 ─を完全に拭い去ることはできない 。したがって 、ほとんどの人は 、 「徳への道 」の重要性を認めつつも 「財産への道 」を進むことを優先させる 。』
「アダム・スミス」―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)2008/3 堂目 卓生
釧路の恩人、安田善次郎は「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を続けていたが、財閥を築き後、朝日某に刺殺されてしまう。
朝日某曰く
「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」
アダム・スミスは、人間の悪くて弱い部分もまた繁栄の契機であると言っているところが、それまでの倫理道徳とは異なっている。経営の外部・内部/統制・監査という現代の考え方の思想的源泉はここにあると思う。世間やマスコミの論調に頻繁にみられるように、
統制監査という考え方は、元来経営者が悪徳(盗む騙す嘘をつく)にハマる搾取側の存在という左翼が言う性悪的認識(自分たちは違うというオレは別という思想、そんな奴ほど支配する側に回ると悪事の限りを尽くす)から出てきたものではない。繁栄や経済成長には両面があることを人間一般の道徳的常識ととらえ叙述したところに道徳感情論の現代的意義がある。
人間は楽をしたいから、歴史的に避けられる苦労は減らし続けて繁栄してきた。例えば今自分の履く靴を自分で作る人はいない。その分経済は拡大した。同じような事例は幾つでも探せるだろう。
起業とは個の価値観の実証であって、それが繁栄と信じるものであり、個人の虚栄でも財産への道を保証するものでもないが、徳への道かといえば、まるで当てはまらない気がする。むしろ起業は後戻りできない社会プロセスの実証である。それにより反映しなければ実証できなかった個の価値ということで社会から消滅する。目指す成功は何らかの人間的前進を人間的社会に残す為の実証によって報われる。
公平な観察者としてのアダム・スミスは植民地政策をこう見ていた。
『ヨ ーロッパの政策は 、アメリカ植民地の最初の建設においても 、また植民地の統治に関するかぎり 、その後の繁栄においても 、誇るべきものはほとんどない 。植民地建設の最初の計画を支配し指導した原理は 、愚行と不正であった 。すなわち 、金や銀の鉱山を探し求めた愚行と 、無害な先住民の土地を奪い取った不正である 。先住民たちは 、最初に到着した冒険家たちに危害を加えるどころか 、あらゆる親切と歓待をもって彼らを迎えたのであった 。その後 、植民地を建設した冒険家たちは 、金銀鉱山の発見という妄想的な計画よりも 、もっとまともな 、もっと称賛すべき他の動機をつけ加えたが 、そうした動機でさえ 、ヨ ーロッパの政策の名誉になるようなものはほとんどない 。 ( 『国富論 』四編七章二節 )』
名誉となるべき要素のない愚行は今も同じである。金が石油に変わっただけで、土地を奪い難民を生み出した。植民地時代ならば忍従して先祖の土地に留まることができたが、現代はそれさえも許されない過酷。道徳とは個人が国家を超えて繁栄した国家には無縁である。アダム・スミスは個人の資産が国家予算を上回るそのような時代を予想していなかった。
「アダム・スミス」―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)2008/3 堂目 卓生
釧路の恩人、安田善次郎は「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を続けていたが、財閥を築き後、朝日某に刺殺されてしまう。
朝日某曰く
「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」
アダム・スミスは、人間の悪くて弱い部分もまた繁栄の契機であると言っているところが、それまでの倫理道徳とは異なっている。経営の外部・内部/統制・監査という現代の考え方の思想的源泉はここにあると思う。世間やマスコミの論調に頻繁にみられるように、
統制監査という考え方は、元来経営者が悪徳(盗む騙す嘘をつく)にハマる搾取側の存在という左翼が言う性悪的認識(自分たちは違うというオレは別という思想、そんな奴ほど支配する側に回ると悪事の限りを尽くす)から出てきたものではない。繁栄や経済成長には両面があることを人間一般の道徳的常識ととらえ叙述したところに道徳感情論の現代的意義がある。
人間は楽をしたいから、歴史的に避けられる苦労は減らし続けて繁栄してきた。例えば今自分の履く靴を自分で作る人はいない。その分経済は拡大した。同じような事例は幾つでも探せるだろう。
起業とは個の価値観の実証であって、それが繁栄と信じるものであり、個人の虚栄でも財産への道を保証するものでもないが、徳への道かといえば、まるで当てはまらない気がする。むしろ起業は後戻りできない社会プロセスの実証である。それにより反映しなければ実証できなかった個の価値ということで社会から消滅する。目指す成功は何らかの人間的前進を人間的社会に残す為の実証によって報われる。
公平な観察者としてのアダム・スミスは植民地政策をこう見ていた。
『ヨ ーロッパの政策は 、アメリカ植民地の最初の建設においても 、また植民地の統治に関するかぎり 、その後の繁栄においても 、誇るべきものはほとんどない 。植民地建設の最初の計画を支配し指導した原理は 、愚行と不正であった 。すなわち 、金や銀の鉱山を探し求めた愚行と 、無害な先住民の土地を奪い取った不正である 。先住民たちは 、最初に到着した冒険家たちに危害を加えるどころか 、あらゆる親切と歓待をもって彼らを迎えたのであった 。その後 、植民地を建設した冒険家たちは 、金銀鉱山の発見という妄想的な計画よりも 、もっとまともな 、もっと称賛すべき他の動機をつけ加えたが 、そうした動機でさえ 、ヨ ーロッパの政策の名誉になるようなものはほとんどない 。 ( 『国富論 』四編七章二節 )』
名誉となるべき要素のない愚行は今も同じである。金が石油に変わっただけで、土地を奪い難民を生み出した。植民地時代ならば忍従して先祖の土地に留まることができたが、現代はそれさえも許されない過酷。道徳とは個人が国家を超えて繁栄した国家には無縁である。アダム・スミスは個人の資産が国家予算を上回るそのような時代を予想していなかった。