大西郷曰く、「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、但しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。 本当に無我無私の忠胆(ちゅうたん)なる人とは、山岡さんの如き人でしょう。」
『必死の観念一日の仕切りなるべし。( ) 前方に死を覚悟して置くことなり。』
明治天皇の教育係りでもあった山岡。
山岡鉄舟は江戸庶民の恩人でもある。
臣たることの理想を突き詰め、明治以降の最高点に精神・技量・位、3つが同時に届いた人物の一人であろう。
學問の道であれ、絵画であれ、音楽であれ、道がある。
剣の道、特に山岡鉄舟の様な剣豪(鉄舟は死期を予期し寸分違わず成仏したと、勝海舟が海舟評論「山岡臨終の見事さ」で寄稿を残している)であっても、たぶん創造、発見、大悟の瞬間は言葉にならないでしょう。
非所与としての自己の哲学(始めに欠乏があるから観念が生まれると考える立場)が見えた時も言葉にできない感動があった。これを言葉にすると遠回りの道だが、試みると、我意や自己中心的な利口さが無為と化した状況下、一粒の拠りどころとしての小我が、生きながら犠牲を覚悟し、死を飲み込む体験を通じるならば、最短距離の道を通じた結論がわかる。論理よりも道が大切な急迫時に第三の直感が作用する。
これこそが、生の前、死の後、の自己再生の神力に触れるチャンスであると先人の残した言葉や行動から理解できた。大悟とは自ずから知ること、そして。。こうした非存在の自己媒介的連結、非所与の私が”私”と言う観念の原因なのだと気付いた時の感動が瞬間的に訪れた。
名は高歩、字は猛虎、鉄太郎は通称であり、鉄舟は号である。天保7年~明治21年(1836-1888)幕府飛騨代官、小野朝右衛門の五男に生まれ、二十二歳のとき、同じ幕臣の山岡静山の妹、英子の婿になり、山岡と改姓した。英子の兄の精一郎が高橋家を継いだ。槍の名人と いわれた泥舟であった。有名な”幕末の三舟”といわれたのは、この泥舟と鉄舟と海舟である。
幕府の講武所で剣術を指南し、文久三年(1863年)から浪士組の浪士取り扱いとなり京都に赴任するが、攘夷派の清河八郎らと対立し、江戸へ戻る。明治元年(1868)徳川慶喜の警護にあたる「精鋭隊長」に任じられ、慶喜が恭順の意志を示していることを官軍にしらせるために、勝海舟の使者として駿府の西郷隆盛と会見し徳川家の存続を説いた。それにより、勝海舟と西郷の会見が成立し江戸開城への道が開かれた。
明治時代になると、静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県知事を歴任明治六年(1873)からは明治天皇の側近として侍従や宮内少輔などをつとめた。
山岡静山 安政二年(1855)六月晦日、心身共に難行苦行を続けた無理が静山の命を奪う。幕府講武所師範として正にこれから花も実も咲こうとした時の死であった。墓は戒名「清勝院殿法授静山居士」として文京区白山二丁目の蓮華寺。行年二十七歳。
『必死の観念一日の仕切りなるべし。( ) 前方に死を覚悟して置くことなり。』
明治天皇の教育係りでもあった山岡。
山岡鉄舟は江戸庶民の恩人でもある。
臣たることの理想を突き詰め、明治以降の最高点に精神・技量・位、3つが同時に届いた人物の一人であろう。
學問の道であれ、絵画であれ、音楽であれ、道がある。
剣の道、特に山岡鉄舟の様な剣豪(鉄舟は死期を予期し寸分違わず成仏したと、勝海舟が海舟評論「山岡臨終の見事さ」で寄稿を残している)であっても、たぶん創造、発見、大悟の瞬間は言葉にならないでしょう。
非所与としての自己の哲学(始めに欠乏があるから観念が生まれると考える立場)が見えた時も言葉にできない感動があった。これを言葉にすると遠回りの道だが、試みると、我意や自己中心的な利口さが無為と化した状況下、一粒の拠りどころとしての小我が、生きながら犠牲を覚悟し、死を飲み込む体験を通じるならば、最短距離の道を通じた結論がわかる。論理よりも道が大切な急迫時に第三の直感が作用する。
これこそが、生の前、死の後、の自己再生の神力に触れるチャンスであると先人の残した言葉や行動から理解できた。大悟とは自ずから知ること、そして。。こうした非存在の自己媒介的連結、非所与の私が”私”と言う観念の原因なのだと気付いた時の感動が瞬間的に訪れた。
名は高歩、字は猛虎、鉄太郎は通称であり、鉄舟は号である。天保7年~明治21年(1836-1888)幕府飛騨代官、小野朝右衛門の五男に生まれ、二十二歳のとき、同じ幕臣の山岡静山の妹、英子の婿になり、山岡と改姓した。英子の兄の精一郎が高橋家を継いだ。槍の名人と いわれた泥舟であった。有名な”幕末の三舟”といわれたのは、この泥舟と鉄舟と海舟である。
幕府の講武所で剣術を指南し、文久三年(1863年)から浪士組の浪士取り扱いとなり京都に赴任するが、攘夷派の清河八郎らと対立し、江戸へ戻る。明治元年(1868)徳川慶喜の警護にあたる「精鋭隊長」に任じられ、慶喜が恭順の意志を示していることを官軍にしらせるために、勝海舟の使者として駿府の西郷隆盛と会見し徳川家の存続を説いた。それにより、勝海舟と西郷の会見が成立し江戸開城への道が開かれた。
明治時代になると、静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県知事を歴任明治六年(1873)からは明治天皇の側近として侍従や宮内少輔などをつとめた。
山岡静山 安政二年(1855)六月晦日、心身共に難行苦行を続けた無理が静山の命を奪う。幕府講武所師範として正にこれから花も実も咲こうとした時の死であった。墓は戒名「清勝院殿法授静山居士」として文京区白山二丁目の蓮華寺。行年二十七歳。