公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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濹東綺譚 永井荷風

2017-08-17 16:06:00 | 今読んでる本
濹東綺譚 永井荷風

鴻雁は空を行く時列をつくっておのれを護ることに努めているが、鶯は幽谷を出いでて喬木きに遷らんとする時、群をもなさず列をもつくらない。然も猶鴻雁は猟者の砲火を逃るることができないではないか。結社は必ずしも身を守る道とは言えない。


略歴
1879年
12月3日 - 東京市小石川区金富町45番地(現文京区春日二丁目)に内務省衛生局事務取扱永井久一郎(尾張国(現愛知県出身)、号禾原・来青閣主人)、恒(つね)の長男として生まれた。母恒は儒者鷲津毅堂の二女。毅堂の生涯は、外孫(久一郎の子)である作家・永井荷風の著書『下谷叢話』に詳しく述べられている。弟曾孫は鷲津 名都江(小鳩くるみ)永井荷風は大伯父にあたる。
1883年
2月5日 - 弟貞二郎(三菱銀行に勤めたのちキリスト教の牧師になる[1]。のち鷲津家を継ぐ)出生。荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ、祖母美代に育てられ、非常にかわいがられた。
1884年
- 鷲津家から東京女子師範学校附属幼稚園に通園。
1886年
- 小石川の実家に戻り、小石川区小日向の黒田小学校初等科に入学。
1887年
11月18日 - 弟威三郎出生(農務省官僚を経て大学教授になる[])。
1889年
4月 - 黒田小学校尋常科第4学年を卒業。
7月 - 竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。この年、父久一郎は帝国大学書記官から文部省に入省。
1890年
- 父久一郎が文部大臣芳川顕正の秘書官となり、麹町区(現千代田区)一丁目の官舎に移る。
1891年
6月 - 父久一郎文部省会計局長となり、一家は小石川の本邸に帰る。
9月 - 神田一ツ橋の高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)第2学年に編入学。
1893年
11月 - 父金富町の邸宅を売却し、一家は麹町区飯田町三丁目(現千代田区飯田橋)の黐(もち)ノ木坂中途の借家に移転。
1894年
10月 - 麹町区一番町42番地(現千代田区一番町)の借家に移転。
1896年
- 荒木竹翁について尺八を稽古し、岩渓裳川について漢詩作法を学ぶ。
1897年
2月 - 初めて吉原に遊ぶ。
- 中学校を卒業。父久一郎官を辞し、日本郵船会社に入社、上海支店長として赴任。第一高等学校入学試験に失敗。9月から11月まで両親、弟たちと一緒に上海で生活するが、帰国して、同年に新設された神田一ツ橋の高等商業学校(現一橋大学)附属外国語学校清語科に入学する[][]。
1898年
9月 - 『簾の月』という作品を携え、広津柳浪に入門。
1899年
1月 - 落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となり、三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする。秋、寄席出入りが父の知るところとなり、落語家修行を断念。『萬朝報』の懸賞小説に応募入選するなど、習作短編が新聞雑誌に載るようになる。
12月 - 外国語学校を第2学年のまま除籍となる。
1900年
2月 - 父久一郎日本郵船会社横浜支店長になる。この年巌谷小波を知り、その木曜会のメンバーとなる。また、歌舞伎座の立作者福地桜痴の門に入り作者見習いとして拍子木を入れる勉強を始める。
1901年
4月 - 日出国新聞に転じた桜痴とともに入社、雑誌記者となる。
9月 - 同社を解雇される。フランス語の初歩を学ぶ。年末ゾラの作を読み感動する。
1902年
5月 - 家族とともに牛込区大久保余丁町(現・新宿区余丁町)に転居
9月 - 『地獄の花』を刊行、ゾライズムの作風を深めた。
1903年
9月 - 父の勧めで渡米
1905年
6月 - ニューヨークに出、翌月からワシントンの日本公使館で働く。
12月 - 父の配慮で横浜正金銀行ニューヨーク支店に職を得る。
1907年
7月 - 父の配慮でフランスの横浜正金銀行リヨン支店に転勤。
1908年
3月 - 銀行をやめる。2か月ほどパリに遊ぶ。
7月 - 神戸に到着。
8月 - 『あめりか物語』を博文館より刊行。
1909年
3月 - 『ふらんす物語』を博文館より刊行したが届出と同時に発売禁止となる。
1910年
2月 - 慶應義塾大学文学科刷新に際し、森鴎外、上田敏の推薦により、教授に就任。
5月 - 雑誌『三田文学』を創刊、主宰した
1911年
11月 - 「谷崎潤一郎氏の作品」を『三田文学』に発表。
1912年
9月 - 本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女ヨネと結婚。
1913年
1月2日 - 父久一郎死去。家督を相続。
2月 - 妻ヨネと離婚。
1914年
8月 - 市川左団次夫妻の媒酌で、八重次と結婚式を挙げる。実家の親族とは断絶する[1]。
1915年
2月 - 八重次と離婚。
5月 - 京橋区(現中央区)築地一丁目の借家に移転。
1916年
1月 - 浅草旅籠町一丁目13番地の米田方に転居。
3月 - 慶應義塾を辞め、『三田文学』から手をひくこととする。余丁町の邸の地所を半分、子爵入江為守に売却し邸を改築。
5月 - 大久保余丁町の本邸に帰り、一室を断腸亭と名づけ起居。世捨て人となる。
8月 - 「腕くらべ」を『文明』に連載(〜1917年10月)
9月 - 旅籠町の小家を買い入れ別宅としたが、1か月余りで売却し断腸亭に帰る。
1917年
9月 - 木挽町九丁目に借家し仮住居とし無用庵と名づける。9月16日 - 日記の執筆を再開(『断腸亭日乗』の始まり)
1918年
12月 - 大久保余丁町の邸宅を売却し京橋区(現中央区)築地二丁目30番地に移転。
1919年
12月 - 「花火」を『改造』に発表。
1920年
5月 - 麻布区(現港区)市兵衛町一丁目6番地の偏奇館に移転。
1926年
8月 - 銀座カフェー・タイガーに通い始める。
1936年
3月 - 向島の私娼窟玉の井通いを始める、
1937年
4月 - 『濹東綺譚』(私家版)を刊行。東京・大阪朝日新聞に連載(4月16日〜6月15日)
9月8日 - 母恒死去。
1944年
3月 - 大島一雄(杵屋五叟)の次男永光を養子として迎える。
1945年
3月 - 東京大空襲で偏奇館焼失。
6月 - 明石を経て岡山へ疎開。
8月 - 岡山県勝山町に疎開中の谷崎潤一郎を訪問したのち、岡山三門町の武南家に戻り、そこで終戦を知る。
9月 - 熱海和田浜の木戸正方に疎開していた杵屋五叟宅に寄寓。
1946年
1月 - 千葉県市川市菅野258番地(現菅野三丁目)の杵屋五叟の転居先に寄寓。
1947年
1月 - 市川市菅野の小西茂也方に寄寓。
1948年
12月 - 市川市菅野1124番地(現東菅野二丁目)に瓦葺18坪の家を買い入れ、移転。
1952年
11月 - 文化勲章受章。
1954年
1月 - 日本芸術院会員に選ばれる。
1957年
3月 - 市川市八幡町四丁目1224番地(現八幡三丁目)に転居。
1959年
4月30日 - 死去。死因は胃潰瘍の吐血による窒息死(『荷風外傳』)。


 雷門といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。門のない門の前を、吾妻橋あずまばしの方へ少し行くと、左側の路端みちばたに乗合自動車の駐とまる知らせの棒が立っている。浅草郵便局の前で、細い横町よこちょうへの曲角で、人の込合こみあう中でもその最も烈しく込合うところである。
 ここに亀戸、押上、玉の井、堀切、鐘ヶ淵、四木から新宿にいじゅく、金町などへ行く乗合自動車が駐る。
 暫く立って見ていると、玉の井へ行く車には二種あるらしい。一は市営乗合自動車、一は京成けいせい乗合自動車と、各おのおのその車の横腹よこはらに書いてある。市営の車は藍色、京成は黄いろく塗ってある。案内の女車掌も各一人ずつ、腕にしるしを付けて、路端に立ち、雷門の方から車が来るたびたびその行く方角をきいろい声で知らせている。



 わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
 おぼろ気な記憶をたどれば、明治三十年頃でもあろう。神田錦町に在った貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を写したものを見たことがあった。活動写真という言葉のできたのも恐らくはその時分からであろう。それから四十余年を過ぎた今日では、活動という語は既にすたれて他のものに代かえられているらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言いやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。
 震災の後のち、わたくしの家に遊びに来た青年作家の一人が、時勢におくれるからと言って、無理やりにわたくしを赤坂溜池の活動小屋に連れて行ったことがある。何でも其頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短篇小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
 然し活動写真は老弱の別なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄にしているものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしているのかと云うくらいの事は分るようにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかかる時には看板の画と名題とには勉て目を向けるように心がけている。看板を一瞥すれば写真を見ずとも脚色の梗概も想像がつくし、どういう場面が喜ばれているかと云う事も会得せられる。

        *        *        *

 ※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚ぼくとうきたんはここに筆を擱おくべきであろう。然しながら若しここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年或は一年の後、わたくしが偶然思いがけない処で、既に素人しろとになっているお雪に廻めぐり逢う一節を書添えればよいであろう。猶又、この偶然の邂逅かいこうをして更に感傷的ならしめようと思ったなら、摺れちがう自動車とか或は列車の窓から、互に顔を見合しながら、言葉を交したいにも交すことの出来ない場面を設ければよいであろう。楓葉荻花ふうようてきか秋は瑟々しつしつたる刀禰河とねがわあたりの渡船わたしぶねで摺れちがう処などは、殊に妙であろう。
 わたくしとお雪とは、互に其本名も其住所をも知らずにしまった。唯※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)東の裏町、蚊のわめく溝際どぶぎわの家で狎なれ※(「日+匿」、第4水準2-14-16)したしんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である。軽い恋愛の遊戯とは云いながら、再会の望みなき事を初めから知りぬいていた別離の情は、強しいて之これを語ろうとすれば誇張に陥り、之を軽々けいけいに叙し去れば情を尽さぬ憾うらみがある。ピエールロッチの名著阿菊おきくさんの末段は、能よく這般しゃはんの情緒を描き尽し、人をして暗涙を催さしむる力があった。わたくしが※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚の一篇に小説的色彩を添加しようとしても、それは徒いたずらにロッチの筆を学んで至らざるの笑を招くに過ぎぬかも知れない。
 わたくしはお雪が永く溝際の家にいて、極めて廉価れんかに其媚こびを売るものでない事は、何のいわれもなく早くから之を予想していた。若い頃、わたくしは遊里の消息に通暁した老人から、こんな話をきかされたことがあった。これほど気に入った女はない。早く話をつけないと、外のお客に身受けをされてしまいはせぬかと思うような気がすると、其女はきっと病気で死ぬか、そうでなければ突然厭いやな男に身受をされて遠い国へ行ってしまう。何の訳もない気病みというものは不思議に当るものだと云う話である。
 お雪はあの土地の女には似合わしからぬ容色と才智とを持っていた。※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)群けいぐんの一鶴いっかくであった。然し昔と今とは時代がちがうから、病むとも死ぬような事はあるまい。義理にからまれて思わぬ人に一生を寄せる事もあるまい……。
 建込んだ汚きたならしい家の屋根つづき、風雨あらしの来る前の重苦しい空に映る燈影ほかげを望みながら、お雪とわたくしとは真暗な二階の窓に倚よって、互に汗ばむ手を取りながら、唯それともなく謎なぞのような事を言って語り合った時、突然閃き落ちる稲妻に照らされたその横顔。それは今も猶ありありと目に残って消去らずにいる。わたくしは二十はたちの頃から恋愛の遊戯に耽ふけったが、然し此の老境に至って、このような癡夢ちむを語らねばならないような心持になろうとは。運命の人を揶揄やゆすることもまた甚しいではないか。草稿の裏には猶数行の余白がある。筆の行くまま、詩だか散文だか訳のわからぬものを書しるして此夜の愁うれいを慰めよう。

残る蚊に額さされしわが血汐。
ふところ紙に
君は拭いて捨てし庭の隅。
葉※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)頭の一茎ひとくき立ちぬ。
夜ごとの霜のさむければ、
夕暮の風をも待たで、
倒れ死すべき定めも知らず、
錦なす葉の萎しおれながらに
色増す姿ぞいたましき。
病める蝶ありて
傷きずつきし翼によろめき、
返かえり咲く花とうたがう※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)頭の
倒れ死すべきその葉かげ。
宿かる夢も
結ぶにひまなき晩秋おそあきの
たそがれ迫る庭の隅。
君とわかれしわが身ひとり、
倒れ死すべき※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)頭の一茎と
ならびて立てる心はいかに。
丙子ひのえね十月三十日脱稿
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作後贅言ぜいげん

 向島寺島町に在る遊里の見聞記けんもんきをつくって、わたくしは之を※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚と命名した。
 ※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)の字は林述斎が墨田川を言現いいあらわすために濫みだりに作ったもので、その詩集には※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)上漁謡と題せられたものがある。文化年代のことである。
 幕府瓦解の際、成島柳北が下谷和泉橋通いずみばしどおりの賜邸していを引払い、向島須崎村すさきむらの別荘を家となしてから其詩文には多く※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)の字が用い出された。それから※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)字が再び汎あまねく文人墨客ぼっかくの間に用いられるようになったが、柳北の死後に至って、いつともなく見馴れぬ字となった。
 物徂徠は墨田川を澄江となしていたように思っている。天明の頃には墨田堤を葛坡かつはとなした詩人もあった。明治の初年詩文の流行を極めた頃、小野湖山は向島の文字を雅馴がじゅんならずとなし、其音によって夢香洲むこうしゅうの三字を考出したが、これも久しからずして忘れられてしまった。現時向島の妓街に夢香荘とよぶ連込宿がある。小野湖山の風流を襲つぐ心であるのかどうか、未いまだ詳つまびらかにするを得ない。
 寺島町五丁目から六七丁目にわたった狭斜の地は、白髯橋しらひげばしの東方四五町のところに在る。即ち墨田堤の東北に在るので、※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)上となすには少し遠すぎるような気がした。依よってわたくしはこれを※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)東と呼ぶことにしたのである。※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚はその初め稿を脱した時、直ただちに地名を取って「玉の井雙紙ぞうし」と題したのであるが、後に聊いささか思うところがあって、今の世には縁遠い※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)字を用いて、殊更に風雅をよそおわせたのである。
 小説の命題などについても、わたくしは十余年前井上唖々子いのうえああしを失い、去年の春神代帚葉翁こうじろそうようおうの訃ふを聞いてから、爾来じらい全く意見を問うべき人がなく、又それ等について諧語かいごする相手もなくなってしまった。※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚は若し帚葉翁が世に在るの日であったなら、わたくしは稿を脱するや否や、直に走って、翁を千駄木町せんだぎまちの寓居ぐうきょに訪おとない其閲読を煩わずらわさねばならぬものであった。何故なにゆえかというに翁はわたくしなどより、ずっと早くからかのラビラントの事情に通暁し、好んで之を人に語っていたからである。翁は坐中の談話がたまたまその地の事に及べば、まず傍人より万年筆を借り、バットの箱の中身を抜き出し、其裏面に市中より迷宮に至る道路の地図を描き、ついで路地の出入口を記きし、その分れて那辺に至り又那辺に合するかを説明すること、掌たなごころを指さすが如くであった。
 そのころ、わたくしは大抵毎晩のように銀座尾張町の四ツ角で翁に出逢った。翁は人を待合すのにカフエーや喫茶店を利用しない。待設けた人が来てから後、話をする時になって初めて飲食店の椅子に坐るのである。それまでは康衢こうくの一隅に立ち、時間を測って、逢うべき人の来るのを待っているのであるが、その予測に反して空しく時を費すことがあっても、翁は決して怒りもせず悲しみもしない。翁の街頭に佇立たたずむのは約束した人の来るのを待つためばかりではない。寧むしろこれを利用して街上の光景を眺めることを喜んでいたからである。翁が生前屡しばしばわたくしに示した其手帳には、某年某月某日の条下に、某処に於いて見る所、何時より何時までの間、通行の女凡およそ何人の中うち洋装をなすもの幾人。女給らしきものにして檀那だんならしきものと連立って歩むもの幾人。物貰い門附かどづけ幾人などと記してあったが、これ等は町の角や、カフエーの前の樹の下などに立たずんで人を待っている間に鉛筆を走はしらしたものである。
 今年残暑の殊に甚はなはだしかった或夜、わたくしは玉の井稲荷前の横町を歩いていた時、おでん屋か何かの暖簾のれんの間から、三味線を抱えて出て来た十七八の一寸ちょっと顔立のいい門附から、「おじさん。」と親しげに呼びかけられた事があった。
「おじさん、こっちへも遊びに来るのかい。」
 初めは全く見忘れていたが、門附の女の糸切歯を出して笑う口元から、わたくしは忽たちまち四五年前、銀座の裏町で帚葉翁と共にこの娘とはなしをした事があったのを思出した。翁は銀座から駒込の家に帰る時、いつも最終の電車を尾張町の四辻か銀座三丁目の松屋前で待っている間、同じ停留場に立っている花売、辻占売つじうらうり、門附などと話をする。車に乗ってからも相手が避けないかぎり話をしつづけるので、この門附の娘とは余程前から顔を知り合っていたのであった。
 門附の娘はわたくしが銀座の裏通りで折々見掛けた時分には、まだ肩揚かたあげをして三味線を持たず、左右の手に四竹よつだけを握っていた。髪は桃割ももわれに結い、黒襟えりをかけた袂たもとの長い着物に、赤い半襟。赤い帯をしめ、黒塗の下駄の鼻緒も赤いのをかけた様子は、女義太夫の弟子でなければ、場末の色町の半玉のようにも見られた。細面ほそおもてのませた顔立から、首や肩のほっそりした身体からだつきもまたそういう人達に能よく見られる典型的なものであった。その生立や性質の型通りであるらしいことも、また恐らくは問うに及ばぬことであろう。
「すっかり、姉ねえさんになっちまったな。まるで芸者衆げいしゃしゅだよ。」
「ほほほほほ、おかしか無い。」と言いながら娘は平打ひらうちの簪かんざしを島田の根元にさし直した。
「おかしいものか。お前も銀座仕込じゃないか。」
「でも、あたい、もう彼方あっちへは行かないんだよ。」
「こっちの方がいいか。」
「此方こっちだって、何処だって、いいことはないよ。だけれど、銀座はあぶれると歩いちゃ帰れないし、仕様がないからね。」
「お前、あの時分は柳島へ帰るのだったね。」
「ああ、今は請地うけじへ越したよ。」
「お腹なかがすいてるか。」
「いいえ、まだ宵よいの口だもの。」
 銀座では電車賃をやった事もあったので、其夜は祝儀五十銭を与えて別れた。その後一ト月ばかりたって、また路端みちばたで出逢ったことがあるが、間もなく夜露も追々肌寒くなって来たので、わたくしはこの町へ散歩に来ることも次第に稀になった。しかしこの町の最も繁昌するのは、夜風の身に沁しむようになってからだと云うから、あの娘もこの頃は毎夜かかさずふけ渡る町を歩いているのであろう。

        *        *        *

 帚葉翁そうようおうとわたくしとが、銀座の夜深よふけに、初めてあの娘の姿を見た頃と、今年図らず寺島町の路端でめぐり逢った時とを思合せると、歳月は早くも五年を過ぎている。この間に時勢の変ったことは、半玉のような此娘の着物の肩揚がとれ、桃割が結綿ゆいわたをかけた島田になった其変りかたとは、同じ見方を以て見るべきものではあるまい。四竹を鳴して説経を唱うたっていた娘が、三味線をひいて流行唄はやりうたを歌う姉さんになったのは、孑※(「子の一が右半分だけ」、第4水準2-5-87)ぼうふりが蚊になり、オボコがイナになり、イナがボラになったと同じで、これは自然の進化である。マルクスを論じていた人が朱子学を奉ずるようになったのは、進化ではなくして別の物に変ったのである。前の者は空くうとなり、後の者は忽然こつぜんとして出現したのである。やどり蟹がにの殻の中に、蟹ではない別の生物が住んだようなものである。
 われわれ東京の庶民が満洲の野やに風雲の起った事を知ったのは其の前の年、昭和五六年の間であった。たしかその年の秋の頃、わたくしは招魂社境内の銀杏いちょうの樹に三日ほどつづいて雀合戦のあった事をきいて、その最終の朝麹町こうじまちの女達と共に之を見に行ったことがあった。その又前の年の夏には、赤坂見附の濠ほりに、深更人の定さだまった後、大きな蝦蟇がまが現れ悲痛な声を揚げて泣くという噂が立ち、或新聞の如きは蝦蟇を捕えた人に金参百円の賞を贈ると云う広告を出した。それが為め雨の降る夜などには却かえって人出が多くなったが、賞金を得た人の噂も遂に聞かず、いつの間にかこの話は烟けむりのように消えてしまった。
 雀合戦を見た其年も忽ち暮に迫った或日の午後、わたくしは葛西村かさいむらの海辺うみべを歩いて道に迷い、日が暮れてから燈火を目当にして漸く船堀橋ふなぼりばしの所在を知り、二三度電車を乗りかえた後、洲崎の市電終点から日本橋の四辻に来たことがあった。深川の暗い町を通り過ぎた電車から、白木屋しろきや百貨店の横手に降りると、燈火の明るさと年の暮の雑沓ざっとうと、ラディオの軍歌とが一団になって、今日の半日も夜になるまで、人跡じんせきの絶えた枯蘆かれあしの岸ばかりさまよっていたわたくしの眼には、忽然こつぜん異様なる印象を与えた。またしても乗換の車を待つため、白木屋の店頭に佇立たたずむと、店の窓には、黄色の荒原の処々ところどころに火の手の上っている背景を飾り、毛衣けごろもで包んだ兵士の人形を幾個いくつとなく立て並べてあったのが、これ又わたくしの眼を驚した。わたくしは直ただちに、街上に押合う群集の様子に眼を移したが、それは毎年まいとしの歳暮に見るものと何の変りもなく、殊更に立止って野営の人形を眺めるものはないらしいようであった。
 銀座通に柳の苗木が植えつけられ、両側の歩道に朱骨しゅぼねの雪洞ぼんぼりが造り花の間に連ねともされ、銀座の町が宛さながら田舎芝居の仲なかの町ちょうの場と云うような光景を呈し出したのは、次の年の四月ごろであった。わたくしは銀座に立てられた朱骨のぼんぼりと、赤坂溜池ためいけの牛肉屋の欄干が朱で塗られているのを目にして、都人とじんの趣味のいかに低下し来きたったかを知った。霞ヶ関の義挙が世を震動させたのは柳まつりの翌月あくるつきであった。わたくしは丁度其夕ゆう、銀座通を歩いていたので、この事を報道する号外の中では読売新聞のものが最も早く、朝日新聞がこれについだことを目撃した。時候がよく、日曜日に当っていたので、其夕銀座通はおびただしい人出であったが電信柱に貼付はりつけられた号外を見ても群集は何等特別の表情を其面上に現さぬばかりか、一語のこれについて談話をするものもなく、唯露店の商人が休みもなく兵器の玩具に螺旋ぜんまいをかけ、水出しのピストルを乱射しているばかりであった。
 帚葉翁が古帽子をかぶり日光下駄をはいて毎夜かかさず尾張町の三越前に立ち現れたのはその頃からであった。銀座通の裏表に処を択えらばず蔓衍まんえんしたカフエーが最も繁昌し、又最も淫卑いんぴに流れたのは、今日こんにちから回顧すると、この年昭和七年の夏から翌年にかけてのことであった。いずこのカフエーでも女給を二三人店口に立たせて通行の人を呼び込ませる。裏通のバアに働いている女達は必ず二人ずつ一組になって、表通を歩み、散歩の人の袖を引いたり目まぜで誘いざなったりする。商店の飾付かざりつけを見る振りをして立留り、男一人の客と見れば呼びかけて寄添い、一緒にお茶を飲みに行こうと云う怪し気な女もあった。百貨店でも売子の外に大勢の女を雇入れ、海水浴衣を着せて、女の肌身を衆人の目前に曝さらさせるようにしたのも、たしかこの年から初まったのである。裏通の角々にはヨウヨウとか呼ぶ玩具を売る小娘の姿を見ぬ事はなかった。わたくしは若い女達が、其の雇主の命令に従って、其の顔と其の姿とを、或は店先、或は街上に曝すことを恥とも思わず、中には往々得意らしいのを見て、公娼の張店はりみせが復興したような思をなした。そして、いつの世になっても、女を使役するには変らない一定の方法がある事を知ったような気がした。
 地下鉄道は既に京橋の北詰まで開鑿かいさくせられ、銀座通には昼夜の別なく地中に鉄棒を打込む機械の音がひびきわたり、土工は商店の軒下に処嫌わず昼寝をしていた。
 月島小学校の女教師おんなきょうしが夜になると銀座一丁目裏のラバサンと云うカフエーに女給となって現れ、売春の傍かたわら枕さがしをして捕えられた事が新聞の紙上を賑にぎわした。それはやはりこの年昭和七年の冬であった。

        *        *        *

 わたくしが初て帚葉翁と交まじわりを訂ただしたのは、大正十年の頃であろう。その前から古本の市いちへ行くごとに出逢っていたところから、いつともなく話をするようになっていたのである。然し其後も会うところは相変らず古本屋の店先で、談話は古書に関することばかりであったので、昭和七年の夏、偶然銀座通で邂逅かいこうした際には、わたくしは意外の地で意外な人を見たような気がした為、其夜は立談たちばなしをしたまま別れたくらいであった。
 わたくしは昭和二三年のころから丁度其時分まで一時全く銀座からは遠のいていたのであったが、夜眠られない病気が年と共に烈しくなった事や、自炊に便利な食料品を買う事や、また夏中は隣家となりのラディオを聞かないようにする事や、それ等のためにまたしても銀座へ出かけはじめたのであるが、新聞と雑誌との筆誅ひっちゅうを恐れて、裏通を歩くにも人目を忍び、向むこうの方から頭髪を振乱した男が折革包おりかばんをぶら下げたり新聞雑誌を抱えたりして歩いて来るのを見ると、横町へ曲ったり電柱のかげにかくれたりしていた。
 帚葉翁はいつも白足袋たびに日光下駄をはいていた。其風采ふうさいを一見しても直ただちに現代人でない事が知られる。それ故、わたくしが現代文士を忌み恐れている理由をも説くに及ばずして翁は能く之を察していた。わたくしが表通のカフエーに行くことを避けている事情をも、翁はこれを知っていた。一夜いちや翁がわたくしを案内して、西銀座の裏通にあって、殆ど客の居ない万茶亭ばんさていという喫茶店へつれて行き、当分その処を会合処にしようと言ったのも、わたくしの事情を知っていた故であった。
 わたくしは炎暑の時節いかに渇かっする時と雖いえども、氷を入れた淡水の外冷いものは一切口にしない。冷水も成るべく之を避け夏も冬と変りなく熱い茶か珈琲コーヒーを飲む。アイスクリームの如きは帰朝以来今日まで一度も口にした事がないので、若もし銀座を歩く人の中で銀座のアイスクリームを知らない人があるとしたなら、それは恐らくわたくし一人いちにんのみであろう。翁がわたくしを万茶亭に案内したのもまたこれが為であった。
 銀座通のカフエーで夏になって熱い茶と珈琲とをつくる店は殆ど無い。西洋料理店の中でも熱い珈琲をつくらない店さえある。紅茶と珈琲とはその味あじわいの半なかばは香気に在るので、若し氷で冷却すれば香気は全く消失きえうせてしまう。然るに現代の東京人は冷却して香気のないものでなければ之を口にしない。わたくしの如き旧弊人きゅうへいじんにはこれが甚だ奇風に思われる。この奇風は大正の初にはまだ一般には行きわたっていなかった。
 紅茶も珈琲も共に洋人の持ち来ったもので、洋人は今日こんにちと雖その冷却せられたものを飲まない。これを以て見れば紅茶珈琲の本来の特性は暖きにあるや明あきらかである。今之を邦俗に従って冷却するのは本来の特性を破損するもので、それはあたかも外国の小説演劇を邦語に訳す時土地人物の名を邦化するものと相似ている。わたくしは何事によらず物の本性ほんせいを傷きずつけることを悲しむ傾があるから、外国の文学は外国のものとして之を鑑賞したいと思うように、其飲食物の如きもまた邦人の手によって塩梅あんばいせられたものを好まないのである。
 万茶亭は多年南米の殖民地に働いていた九州人が珈琲を売るために開いた店だという事で、夏でも暖い珈琲を売っていた。然し其主人あるじは帚葉翁と前後して世を去り、其店もまた閉とざされて、今はない。
 わたくしは帚葉翁と共に万茶亭に往く時は、狭い店の中のあつさと蠅はえの多いのとを恐れて、店先の並木の下に出してある椅子に腰をかけ、夜も十二時になって店の灯の消える時迄じっとしている。家うちへ帰って枕についても眠られない事を知っているので十二時を過ぎても猶なお行くべきところがあれば誘われるままに行くことを辞さなかった。翁はわたくしと相対して並木の下に腰をかけている間に、万茶亭と隣接したラインゴルト、向側のサイセリヤ、スカール、オデッサなどいう酒場に出入する客の人数にんずを数えて手帳にかきとめる。円タクの運転手や門附と近づきになって話をする。それにも飽きると、表通へ物を買いに行ったり路地を歩いたりして、戻って来ると其の見て来た事をわたくしに報告する。今、どこの路地で無頼漢が神祇じんぎの礼を交していたとか、或は向の川岸で怪し気な女に袖そでを牽ひかれたとか、曾かつてどこそこの店にいた女給が今はどこそこの女主人おんなあるじになっているとか云う類たぐいのはなしである。寺島町の横町でわたくしを呼止めた門附の娘も、初めて顔を見知ったのはこの並木の下であったに違いはない。
 わたくしは翁の談話によって、銀座の町がわずか三四年見ない間にすっかり変った、其景況の大略を知ることができた。震災前ぜん表通に在った商店で、もとの処に同じ業をつづけているものは数えるほどで、今は悉ことごとく関西もしくは九州から来た人の経営に任ゆだねられた。裏通の到る処に海豚汁ふぐじるや関西料理の看板がかけられ、横町の角々に屋台店の多くなったのも怪しむには当らない。地方の人が多くなって、外で物を食う人が増加したことは、いずこの飲食店も皆繁昌している事がこれを明にしている。地方の人は東京の習慣を知らない。最初停車場構内の飲食店、また百貨店の食堂で見覚えた事は悉く東京の習慣だと思込んでいるので、汁粉屋の看板を掛けた店へ来て支那蕎麦そばがあるかときき、蕎麦屋に入って天麩羅てんぷらを誂あつらえ断られて訝いぶかし気な顔をするものも少くない。飲食店の硝子ガラス窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くようになったのも、蓋けだし已やむことを得ざる結果で、これまた其その範はんを大阪に則とったものだという事である。
 街に灯ひがつき蓄音機の響が聞え初めると、酒気を帯びた男が四五人ずつ一組になり、互に其腕を肩にかけ合い、腰を抱き合いして、表通といわず裏通といわず銀座中をひょろひょろさまよい歩く。これも昭和になってから新あらたに見る所の景況で、震災後頻しきりにカフエーの出来はじめた頃にはまだ見られぬものであった。わたくしは此不体裁にして甚だ無遠慮ぶえんりょな行動の原因するところを詳つまびらかにしないのであるが、其実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群ぐんをなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。彼等は酔えいに乗じて夜店の商品を踏み壊し、カフエーに乱入して店内の器具のみならず家屋にも多大の損害を与え、制御の任に当る警吏と相争うに至った。そして毎年二度ずつ、この暴行は繰返されて今日に及んでいる。わたくしは世の父兄にして未いまだ一人いちにんの深く之を憤り其子弟をして退学せしめたもののある事を聞かない。世は挙こぞって書生の暴行を以て是ぜとなすものらしい。曾てわたくしも明治大正の交、乏ぼうを承うけて三田に教鞭きょうべんを把とった事もあったが、早く辞して去ったのは幸であった。そのころ、わたくしは経営者中の一人いちにんから、三田の文学も稲門とうもんに負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰ひそめたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。
 わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、其威を借りて事をなすことを欲しない。むしろ之を怯きょうとなして排しりぞけている。治国の事はこれを避けて論外に措おく。わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて、己おのれに与くみするを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、之を怯となし、陋ろうとなすのである。その一例を挙ぐれば、曾て文藝春秋社の徒が、築地小劇場の舞台にその党の作品の上演せられなかった事を含み、小山内薫おさないかおるの抱ける劇文学の解釈を以て誤れるものとなした事の如きを言うのである。
  
 婦女子の媚こびを売るものに就ついて見るも、また団結を以て安全となすものと、孤影悄然しょうぜんとして猶且つ悲しまざるが如きものもある。銀座の表通に燈火を輝すカフエーを城郭となし、赤組と云い白組と称する団体を組織し、客の纒頭てんとうを貪むさぼるものは女給の群むれである。風呂敷包をかかえ、時には雨傘を携え、夜店の人ごみにまぎれて窃ひそかに行人こうじんの袖を引くものは独立の街娼である。この両者は其外見頗すこぶる異る所があるが、その一たび警吏に追跡せらるるや、危難のその身に達することには何の差別もないのであろう。

        *        *        *

 今年昭和十一年の秋、わたくしは寺島町へ行く道すがら、浅草橋辺で花電車を見ようとする人達が路傍みちばたに堵かきをなしているのに出逢った。気がつくと手にした乗車切符がいつもよりは大形になって、市電二十五周年記念とかしてあった。何か事のある毎に、東京の街路には花電車というものが練り出される。今より五年前帚葉翁と西銀座万茶亭に夜をふかし馴れた頃、秋も既に彼岸を過ぎていたかも知れない。給仕人から今しがた花電車が銀座を通ったことを聞いた。そして、其夜の花電車は東京府下の町々が市内に編入せられたことを祝うためであった事をも見て来た人から聞き伝えたのであった。是これより先、まだ残暑のさり切らぬころ、日比谷の公園に東京音頭と称する公開の舞踏会が挙行せられたことをも、わたくしはやはり見て来た人から聞いたことがあった。
 東京音頭は郡部の地が市内に合併し、東京市が広くなったのを祝するために行われたように言われていたが、内情は日比谷の角にある百貨店の広告に過ぎず、其店で揃そろいの浴衣ゆかたを買わなければ入場の切符を手に入れることができないとの事であった。それはとにかく、東京市内の公園で若い男女の舞踏をなすことは、これまで一たびも許可せられた前例がない。地方農村の盆踊さえたしか明治の末頃には県知事の命令で禁止せられた事もあった。東京では江戸のむかし山の手の屋敷町に限って、田舎から出て来た奉公人が盆踊をする事を許されていたが、町民一般は氏神の祭礼に狂奔きょうほんするばかりで盆に踊る習慣はなかったのである。
 わたくしは震災前ぜん、毎夜帝国ホテルに舞踏の行われた時、愛国の志士が日本刀を振ふるって場内に乱入した為、其後舞踏の催しは中止となった事を聞いていたので、日比谷公園に公開せられた東京音頭の会場にも何か騒ぎが起りはせぬかと、内心それを期待していたが、何事も無く音頭の踊は一週間の公開を終った。
「どうも、意外な事だね。」とわたくしは帚葉翁を顧て言った。翁は薄鬚うすひげを生はやした口元に笑を含ませ、
「音頭とダンスとはちがうからでしょう。」
「しかし男と女とが大勢一緒になって踊るのだから、同じ事じゃないですか。」
「それは同じだが、音頭の方は男も女も洋服を着ていない。浴衣をきているからいいのでしょう。肉体を露出しないからいいのでしょう。」
「そうかね、しかし肉体を露出する事から見れば、浴衣の方があぶないじゃないですか。女の洋装は胸の方が露出されているが腰から下は大丈夫だ。浴衣は之とは反対なものですぜ。」
「いや、先生のように、そう理窟詰めにされてはどうにもならない。震災の時分、夜警団の男が洋装の女の通りかかるのを尋問した。其時何か癪しゃくにさわる事を言ったと云うので、女の洋服を剥はぎ取って、身体検査をしたとか、しないとか大騒ぎな事があったです。夜警団の男も洋服を着ていた。それで女の洋装するのが癪にさわると云うんだから理窟にはならない。」
「そういえば女の洋服は震災時分にはまだ珍らしい方だったね。今では、こうして往来を見ていると、通る女の半分は洋服になったね。カフエー、タイガーの女給も二三年前から夏は洋服が多くなったようですね。」
「武断政治の世になったら、女の洋装はどうなるでしょう。」
「踊も浴衣ならいいと云う流儀なら、洋装ははやらなくなるかも知れませんね。然し今の女は洋装をよしたからと云って、日本服を着こなすようにはならないと思いますよ。一度崩れてしまったら、二度好くなることはないですからね。芝居でも遊芸でもそうでしょう。文章だってそうじゃないですか。勝手次第にくずしてしまったら、直そうと思ったって、もう直りはしないですよ。」
「言文一致でも鴎外先生のものだけは、朗吟する事ができますね。」帚葉翁は眼鏡をはずし両眼を閉じて、伊沢蘭軒が伝の末節を唱えた。「わたくしは学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。」

        *        *        *

 こんな話をしていると、夜は案外早くふけわたって、服部の時計台から十二時を打つ鐘の声が、其頃は何となく耳新しく聞きなされた。
 考証癖の強い翁は鐘の音ねをきくと、震災前ぜんまで八官町に在った小林時計店の鐘の音ねが、明治のはじめには新橋八景の中にも数えられていた事などを語り出す。わたくしは明治四十四五年の頃には毎夜妓家の二階で女の帰って来るのを待ちながら、かの大時計の音おとに耳を澄した事などを思出すのであった。三木愛花の著した小説芸者節用などのはなしも、わたくし達二人の間には屡しばしば語り出される事があった。
 万茶亭の前の道路にはこの時間になると、女給や酔客の帰りを当込んで円タクが集って来る。この附近の酒場でわたくしが其名を記憶しているのは、万茶亭の向側にはオデッサ、スカール、サイセリヤ、此方こなたの側にはムウランルージュ、シルバースリッパ、ラインゴルトなど。また万茶亭と素人屋しもたやとの間の路地裏にはルパン、スリイシスタ、シラムレンなど名づけられたものがあった。今も猶在るかも知れない。
 服部の鐘の音を合図に、それ等の酒場やカフエーが一斉に表の灯ひを消すので、街路まちは俄にわかに薄暗く、集って来る円タクは客を載せても徒いたずらに喇叭らっぱを鳴すばかりで、動けない程込み合う中うち、運転手の喧嘩がはじまる。かと思うと、巡査の姿が見えるが早いか、一輛残らず逃げ失せてしまうが、暫くして又もとのように、その辺一帯をガソリン臭くしてしまうのである。
 帚葉翁はいつも路地を抜け、裏通から尾張町の四ツ角に出いで、既に一群をなして赤電車を待っている女給と共に路傍に立ち、顔馴染なじみのものがいると先方の迷惑をも顧ず、大きな声で話をしかける。翁は毎夜の見聞によって、電車のどの線には女給が最も多く乗るか、又その行先は場末のどの方面が最も多いかという事を能く知っていた。自慢らしく其話に耽ふけって、赤電車にも乗りそこなう事がたびたびであったが、然しそういう場合にも、翁は敢て驚く様子もなく、却て之を幸とするらしく、「先生、少しお歩きになりませんか。その辺までお送りしましょう。」と言う。
 わたくしは翁の不遇なる生涯を思返して、それはあたかも、待っていた赤電車を眼前に逸しながら、狼狽ろうばいの色を示さなかった態度によく似ていたような心持がした。翁は郷里の師範学校を出て、中年にして東京に来り、海軍省文書課、慶応義塾図書館、書肆しょし一誠堂編輯へんしゅう部其他に勤務したが、永く其職に居ず、晩年は専もっぱら鉛槧えんざんに従事したが、これさえ多くは失敗に終った。けれども翁は深く悲しむ様子もなく、閑散の生涯を利用して、震災後市井しせいの風俗を観察して自ら娯たのしみとしていた。翁と交るものは其悠々たる様子を見て、郷里には資産があるものと思っていたが、昭和十年の春俄に世を去った時、其家には古書と甲冑かっちゅうと盆裁との外、一銭の蓄たくわえもなかった事を知った。
 この年銀座の表通は地下鉄道の工事最中で、夜店がなくなる頃から、凄じい物音が起り、工夫の恐しい姿が見え初めるので、翁とわたくしとの漫歩は、一たび尾張町の角まで運び出されても、すぐさま裏通に移され、おのずから芝口の方へと導かれるのであった。土橋どばしか難波橋なにわばしかをわたって省線のガードをくぐると、暗い壁の面おもてに、血盟団を釈放せよなど、不穏な語をつらねたいろいろの紙が貼ってあった。其下にはいつも乞食が寝ている。ガードの下を出ると歩道の片側に、「栄養の王座」など書いた看板を出し、四角な水槽みずおけに鰻うなぎを泳がせ釣針を売る露店が、幾軒となく桜田本郷町の四ツ角ちかくまで続いて、カフエー帰りの女給や、近所の遊人らしい男が大勢集っている。
 裏通へ曲ると、停車場の改札口と向い合った一条ひとすじの路地があって、其両側に鮓すし屋と小料理屋が並んでいる。その中には一軒わたくしの知っている店もある。暖簾のれんに焼鳥金兵衛としるした家で、その女主人おんなあるじは二十余年のむかし、わたくしが宗十郎町の芸者家に起臥していた頃、向側の家にいた名妓なにがしというものである。金兵衛の開店したのはたしか其年の春頃であるが、年々に繁昌して今は屋内を改築して見違えるようになっている。
 この路地には震災後も待合や芸者家が軒をつらねていたが、銀座通にカフエーの流行はやり始めた頃から、次第に飲食店が多くなって、夜半過に省線電車に乗る人と、カフエー帰りの男女とを目当に、大抵暁の二時ごろまで灯あかりを消さずにいる。鮨すし屋の店が多いので、鮨屋横町とよぶ人もある。
 わたくしは東京の人が夜半過ぎまで飲み歩くようになった其状況を眺める時、この新しい風習がいつ頃から起ったかを考えなければならない。
 吉原遊廓ゆうかくの近くを除いて、震災前ぜん東京の町中まちじゅうで夜半過ぎて灯を消さない飲食店は、蕎麦そば屋より外はなかった。
 帚葉翁はわたくしの質問に答えて、現代人が深夜飲食の楽しみを覚えたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長したことと、市内一円の札を掲げた辻自動車が五十銭から三十銭まで値下げをした事とに基くのだと言って、いつものように眼鏡を取って、その細い眼を瞬しばたたきながら、「この有様を見たら、一部の道徳家は大に慨嘆するでしょうな。わたくしは酒を飲まないし、腥臭なまぐさいものが嫌いですから、どうでも構いませんが、もし現代の風俗を矯正きょうせいしようと思うなら、交通を不便にして明治時代のようにすればいいのだと思います。そうでなければ夜半過ぎてから円タクの賃銭をグット高くすればいいでしょう。ところが夜おそくなればなるほど、円タクは昼間の半分よりも安くなるのですからね。」
「然し今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけに行かない。何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫かんいんも、何があろうとさほど眉を顰しかめるにも及ばないでしょう。精力の発展と云ったのは慾望を追求する熱情と云う意味なんです。スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬其他博奕ばくえきの流行、みんな慾望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている慾望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。」
 円タクが喇叭を吹鳴ふきならしている路端みちばたに立って、長い議論もしていられないので、翁とわたくしとは丁度三四人の女給が客らしい男と連立ち、向側の鮓屋に入ったのを見て、その後あとにつづいて暖簾をくぐった。現代人がいかなる処、いかなる場合にもいかに甚しく優越を争おうとしているかは、路地裏の鮓屋に於いても直ただちに之を見ることができる。
 彼等は店の内なかが込んでいると見るや、忽たちまち鋭い眼付になって、空席を見出すと共に人込みを押分けて驀進ばくしんする。物をあつらえるにも人に先さきんじようとして大声を揚げ、卓子たくしを叩き、杖で床を突いて、給仕人を呼ぶ。中にはそれさえ待ち切れず立って料理場を窺のぞき、直接料理人に命令するものもある。日曜日に物見遊山ゆさんに出掛け汽車の中の空席を奪取うばいとろうがためには、プラットフ※(小書き片仮名ホ、1-6-87)ームから女子供を突落す事を辞さないのも、こういう人達である。戦場に於て一番槍の手柄をなすのもこういう人達である。乗客の少い電車の中でも、こういう人達は五月人形のように股またを八の字に開いて腰をかけ、取れるだけ場所を取ろうとしている。
 何事をなすにも訓練が必要である。彼等はわれわれの如く徒歩して通学した者とはちがって、小学校へ通う時から雑沓ざっとうする電車に飛乗り、雑沓する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに能よく馴ならされている。自分の名を売るためには、自ら進んで全級の生徒を代表し、時の大臣や顕官に手紙を送る事を少しも恐れていない。自分から子供は無邪気だから何をしてもよい、何をしても咎とがめられる理由はないものと解釈している。こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。此努力が彼等の一生で、其外には何物もない。
 円タクの運転手もまた現代人の中うちの一人いちにんである。それ故わたくしは赤電車がなくなって、家に帰るため円タクに乗ろうとするに臨んでは、漠然たる恐怖を感じないわけには行かない。成るべく現代的優越の感を抱いていないように見える運転手を捜さなければならない。必要もないのに、先へ行く車を追越そうとする意気込の無さそうに見える運転手を捜さなければならない。若しこれを怠るならばわたくしの名は忽たちまち翌日の新聞紙上に交通禍の犠牲者として書立てられるであろう。

        *        *        *

 窓の外に聞える人の話声と箒ほうきの音とに、わたくしはいつもより朝早く眼をさました。臥床ねどこの中から手を伸して枕もとに近い窓の幕を片よせると、朝日の光が軒を蔽おおう椎しいの茂みにさしこみ、垣根際に立っている柿の木の、取残された柿の実を一層ひとしお色濃く照している。箒の音と人の声とは隣の女中とわたくしの家の女中とが垣根越しに話をしながら、それぞれ庭の落葉を掃いているのであった。乾いた木この葉の※(「くさかんむり/(嗽-口)」、第4水準2-86-69)々そうそうとしてひびきを立てる音が、いつもより耳元ちかく聞えたのは、両方の庭を埋うずめた落葉が、両方ともに一度に掃き寄せられるためであった。
 わたくしは毎年冬の寝覚ねざめに、落葉を掃く同じようなこの響をきくと、やはり毎年同じように、「老愁ハ葉ノ如ク掃ハラヘドモ尽キズ※(「くさかんむり/(嗽-口)」、第4水準2-86-69)※(「くさかんむり/(嗽-口)」、第4水準2-86-69)タル声中又秋ヲ送ル。」と言った館柳湾たちりゅうわんの句を心頭に思浮べる。その日の朝も、わたくしは此句を黙誦もくしょうしながら、寝間着のまま起たって窓に倚よると、崖の榎えのきの黄ばんだ其葉も大方散ってしまった梢こずえから、鋭い百舌もずの声がきこえ、庭の隅に咲いた石蕗花つわぶきの黄きいろい花に赤蜻蛉とんぼがとまっていた。赤蜻蛉は数知れず透明な其翼をきらきらさせながら青々と澄渡った空にも高く飛んでいる。
 曇りがちであった十一月の天気も二三日前の雨と風とにすっかり定さだまって、いよいよ「一年ノ好景君記取セヨ」と東坡とうばの言ったような小春の好時節になったのである。今まで、どうかすると、一筋二筋と糸のように残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひびく物音は悉ことごとく昨日きのうのものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思うと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったような気がして来る……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感懐もまた変りはないのである。花の散るが如く、葉の落おつるが如く、わたくしには親しかった彼かの人々は一人一人相ついで逝いってしまった。わたくしもまた彼の人々と同じように、その後を追うべき時の既に甚しくおそくない事を知っている。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃はらいに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう。
昭和十一年丙子ひのえね十一月脱稿




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